( レマン湖のフランス側を望む )
東西に長い三日月形のレマン湖。
── その北側はスイス領で、ゆるやかな丘陵が続き、南向きに開いて明るい。
一方、レマン湖の南側のフランス領は、グランド・ジョラスやモン・ブランなど4000m級の山々から続く岩山がレマン湖に向かって一気に切れ落ち、湖に神秘的な陰影を映し出している。
ローザンヌは、東西に長いレマン湖の真ん中あたりに位置する。
ローザンヌの鉄道駅は、湖に向けてなだらかに落ちていく丘の中腹にある。旧市街はこの鉄道駅から上の方に広がっていて、湖を下方に望む街だ。上下は地下鉄(ケーブルカー)で結ばれており、鉄道駅からさらに下って湖畔まで下れば、レマン湖遊覧の船の出入りするウシー港がある。
「ゆるやかな丘陵」と言ったが、駅からわずか300mほどの所にあるホテルまで、重いスーツケースを引いて上るのはかなり大変だった。目にはともかく、自分の足で歩いてみれば、急坂の街である。
ホテルに荷物を預け、今度は坂道をとっとと下り、鉄道駅から出ている地下鉄に乗る。
ガイドブックには「地下鉄」と書いてあったが、(実際、地下鉄なのであろうが)、斜度はケーブルカー並みで、車窓の景色も、椅子に腰かけた感じも、ケーブルカーである。
2駅目で降り、そこからさらに上へと歩いて行くと、旧市街の中心、ノートルダム大聖堂に出た。
( 石段を上がれば大聖堂 )
大聖堂の前はテラスになっていて、ローザンヌの街並みや、その向こうのレマン湖の展望が良い。
( テラスからの眺め )
ローザンヌは都市としてはジュネーブよりもずっと小さく、IOC本部やローザンヌ大学があり、落ち着いたたたずまいの町だ。
ローザンヌのノートルダム大聖堂は、スイスで最も美しい教会と言われている。
扉が閉じられているのは、日曜日のミサが行われているからだろう。大聖堂の周りを一周して、いろんな角度からその姿を眺める。塔も建物も、他の建物に隠れたり、一角が見えたりと、さまざまに表情を変える。この時代に建てられたゴシック様式の大聖堂は、フランスでも、ドイツでも、スイスでも、とにかく大きい。
( 大聖堂の外壁 )
中に入ると、いかにもスイスらしいすっきりとした端正なたたずまいで、パイプオルガンは大きく、ステンドグラスも美しかった。ただ、パリのノートルダム大聖堂やシャルトルの大聖堂のような圧倒的な美しさはない。
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地下鉄に乗って一気に湖畔 (ウシー地区) まで下り、「レマン湖汽船会社」のチケット売り場で、ローザンヌ・ウシー15:30発、Qully16:03着のチケットと、帰りのQully17:56発、ローザンヌ・ウシー18:32着のチケットを買う。
Qullyまで、列車なら何本も出ているし、各駅停車で2駅の距離だが、あえて、日に2本しかないレマン湖を行く遊覧船を選んだ。
船で対岸のフランスの町、エヴィアンに渡ってみようという観光客も多い。エヴィアンは、ナチュラル・ウォーターで世界的に有名な、あの「エヴィアン」である。エヴィアン行きの船は遊覧船ではなく、朝夕、フランス側から働きに来て帰る、通勤客用の定期便である。
遊覧船の時刻までずいぶん時間があり、湖岸の公園のベンチに座って、のんびりと1時間半。湖を渡る風に吹かれ、美しい景色を見て、船のやってくるのを待った。
やがて、レマン湖の東端、モントルーからやってきた大きな遊覧船が、大勢の観光客を降ろし、再び我々を乗せて、モントルーへ向けて出航した。
( レマン湖遊覧船 )
船から眺める湖岸の風景は、今まで見たヨーロッパの風景の中でも、最も美しい景色の一つだった。
南向きの低い丘陵にはブドウ畑が広がり、そのブドウ畑の中を玩具のような列車が走り、湖畔にはロマンチックな別荘があり、ヨットが浮かんでいる。チャップリンやオードリー・ヘップバーンが、人生の最後の年月を、ハリウッドを捨ててこの地で過ごしたのもわかるような気がする。
( ブトウ畑の左上に小さく列車 )
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Qullyの船着き場に着いて、村の中の道を歩き、丘に広がるブドウ畑の中の小道をレマン湖を見下ろしながら散策した。
( 村の中の道 )
( ブドウ畑の道 )
日々、雨や風や太陽や霧の心配をしながらブドウを育て、秋にはその実を収穫し、さらに美味しいワインを作っていく作業は大変であろうと思う。思うに任せぬ自然を相手にし、収穫時には多くの人手も必要とする。
そうした努力の甲斐あって、このあたりの民家はオシャレで、ホイリゲの看板を出した家もあり、落ち着きと豊かさを感じる。
しかし、遊覧船から眺める「景色としてのブドウ畑」は絵のようだが、こうして丘の斜面に整然と、「人工的に」広がるブドウ畑の中を歩いてみると、遠い昔にこの丘を切り開いた人々の労苦が思われた。
その昔、この丘の斜面にもあちこちに巨木が立ち、岩が大きな根を張っていたことだろう。農民として、湖と丘陵しかないこの土地に住み着いた人たちは、この痩せた斜面を、主食である小麦畑にすることはあきらめて、毎年、少しずつ少しずつ、斜面を切り開いていったのであろう。それは命を削るような激しい労働であり、それが何世代も続いて、やがて、いつのころか、今日見るような、世界遺産に指定される、美しく、豊かな、「ラヴォー地区」になった。
植えられて間もない若いブドウの木々の整然と並んだ姿や、広大なブドウ畑の広がりを眺めながら、昔、この土地を切り開いた人々の貧しさや、日々の肉体的苦痛や、その粘り強い我慢強さに、なぜか思いを馳せてしまった。そういう労働の中から、領主ハブスブルグ家に歯向かってスイスの独立を勝ち取ったウィリアム・テルのような男も出たのであろう。
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船着き場に戻り、船を待った。
船着き場の付近も……、湖が広がり、巨木が繁り、ベンチがあり、旅の若者たちのグループが散策していて、絵葉書のように美しかった。
叢のなかの小さな黄色い野の花はタンポポだとばかり思っていたが、近づいてよく見ると、小菊の一種だった。スイスでも、フランス・ブルゴーニュでも、この旅でよく見かけた。
それに、この旅の間、満開のプラタナスの花 (鈴懸の花) を、訪れた町の並木の中や、田園地帯を行く列車の車窓から、さらにはパリのセーヌ河畔やサンジェルマン・デ・プリの広場でも、本当にしばしば行く先々で見かけた。美しい花ではない。目立たない。だが、「鈴懸の花の旅」であった。
( Qullyの船着き場 )
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再び遊覧船に乗って、ローザンヌのウシーに着いたのは6時半。日没は9時半だから、まだまだ明るい。
( ウシー港 )
のんびりした計画を立てたつもりだったが、今日はジュネーブ、ローザンヌ、Qullyの3か所を回り、歩いた歩数が2万5千歩。翌日から、腰痛、膝痛に苦しみ、帰国後の今も、痛みは続いている。
旅行社のツアーに入れば、バスで目的地から目的地へ連れて行ってくれる。
だが、個人旅行では、どこへ行くにも、駅からはテクテクと自分の足で歩かなければならない。もう若者のようにはいかないようだ。
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