ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

この旅の目的の一つのフォントネー修道院へ … 陽春のブルゴーニュ・ロマネスクの旅 7

2015年07月22日 | 西欧旅行…フランス・ロマネスクの旅

      ( フォントネー修道院正面 )

5月26日(火) 晴れ。

< 各駅停車でモンパールへ >

 快晴にもかかわらず、腰痛の上、お腹の調子も良くない。

 ディジョン駅の売店でドーナツ1個とパック入りの果物サラダを買った。昼食の時間帯は、今日の2つ目の目的地に向かう列車の中だから、これを弁当にする。海外旅行も度重なって来ると、体調が悪くなったら昼を抜く、或いは、ごく軽く済ませたらいいと、コツがわかってくる。

 ディジョン8時29分発の鈍行列車に乗り、9時5分にモンバール駅に着いた。

 モンバールは急行列車も停まる駅だが、無人駅のように小さく、朝の澄み切った日差しの下、駅前広場はがらんとしていた。10台くらいの自家用車が駐車していて、タクシーらしい車も1台あったが、運転手はいない。そもそも人がいない。

 駅の横の小さな観光案内所に入って、アルバイトなのか、ボランティアなのか、感じのいい若い女性にタクシーを呼んでもらう。

 「おはよう。おじさん、元気? お客さんよ」「OK。ありがとう」といったフランス語の会話が、多分、あって、待つほどもなく、物静かな初老のムッシュがやってきた。近くのホテルかレストランのオーナーが、運転手に早変わりして駆けつけたといった風情である。

 モンバールの小さな町の中には、見るほどのものは何もない。郊外まで行けば、フォントネー修道院のほかに、少し遠いが有名なシャブリのブドウ畑がある。フォントネー修道院は自分で言うのも変だが、マニアックだし、シャブリのブドウ畑に観光客が押し寄せるのは、ブドウの収穫期の秋であろう。従って、5月の観光については、アルバイト、ボランティア、その他の兼業で、支えあってやっていくしかない。そんな感じだ。

        ★

フォントネーはこの旅の目的の一つ >

 さて、往復の日数も含めて10日間の今回の旅で、旅の「目的」、つまり、これだけは見たい、(あとは付録みたいなものだ)、という見学先は4箇所である。旅に出るときには、そのように見学対象をしぼる。その町に着いてからも、あれこれの見学先を順番に見て回るより、まずそこを目指す。悔いを残したくないのである。

〇 フォントネー修道院 ( → 26日 )

〇 オータンのサン・ラザール大聖堂付属ロラン美術館にある「イブの誘惑」の彫像 ( → 27日 )

〇 ポール・ベール橋から見るヨンヌ川とオーセールの街並風景( → 28日 )

〇 ヴェズレーのサン・マドレーヌ・パジリカの裏手のテラスから見るブルゴーニュの田園風景  ( → 29日 )

である。

 今日の午前は、いよいよその一つ、フォントネー修道院を見学する。ほぼ完全な形で中世の修道院がそのまま残されているのは、おそらくここだけなのだ。

 ただし、ここを目的の一つに選んだのは、以下のような文章を読んで浪漫的心情をかき立てられたからである。「旅の面白さの半ばは…想像力のつくりだすものである」 (三木清「人生論ノート」)。

馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』 (講談社現代新書) から

 「ロマネスク聖堂は、何よりも、人里離れた辺境の地にある修道院建築であった」。

 「フォントネー修道院は、ブルゴーニュ地方のソローニュの深い森の中に、静かにたたずんでいる。

 国鉄のモンバール駅から北東に約5.5キロの所にあるが、交通の便はない。駅でタクシーを呼んでもらうしかない。

 修道院までの道は、人けのない、小川の流れる谷間を通る。その景観は素晴らしい。

 修道院は、清らかな小川の流れる谷間にあり、緑の樹々の間に、埋葬されたかのように静かにたたずんでいる。

 修道院は、1118年、厳格な戒律を守った聖ベルナルドゥスによって創設されたが、フランス革命時には売りに出され、現在は個人の所有物となっている」

饗庭孝男 『フランス四季暦』 (東京書籍) から

 「『 フォントネー 』という名前は、本来、『 泉 (フォンテーヌ) 』に発する。その名のとおり清らかな修道院である。 

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フォントネー修道院を見学する >

 フォントネー修道院の前に着いた。

 フランスで初めて、安全運転の、心安らかに乗っていられるタクシーに、今朝は出会った。11時にここに迎えに来てくれるよう頼む。

 門が開く10時まで、しばらく待った。春の朝の抜けるような青空が広がり、光があふれ、小鳥の声と、風が木の葉を揺らす音と、せせらぎの音以外に、人工的な物音は何も聞こえない。時が止まったようだ。

 「ロマネスク聖堂は、何よりも、人里離れた地に建てられた修道院建築であった」。

 ── やさしい、落ち着いたいい色合いの石造りの建物の横に、アーチ型の門があり、門の中の庭には巨木が繁り、緑が豊かであった。

   (フォントネー修道院の入口)

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 やがて門が開けられ、拝観料を払い、綺麗な日本語のしおりをもらって、左へ進む。修道士たちの自給自足の場であるから、パン製造所があり、ハト小屋があり、そして修道院の中でも最も大切な場所である礼拝堂の前に出た。

 思わずうーんとうなる。日本人の感覚では大きな建造物だが、簡素というか、まるで古びた納屋である。普通の聖堂の西正面なら、高い塔がそびえ、聖書の各場面や聖人たちの彫像がうんざりするほど刻まれているが、この聖堂には何もない。

 

  ( 礼拝堂の西正面 )

 内部に入ると、正面、奥の内陣部のみ、異常に光が差し込んでまばゆいばかりであり、その分、そこに至る身廊部はいかにも暗い。

 だが、身廊部を進んでいくにつれて、高い窓から差し込むわずかな光が、古びた石の柱や石の壁をやわらかく包んで、何の装飾も色彩もない石の積み重なりが、どこかやさしく、鄙びた味わいがある。これがロマネスクの空間だ。

 ロマネスク様式の美とは、重厚な石の感覚と、やさしい光と陰とが生み出す、陰影美かもしれない。

 

 (聖堂の身廊部と左手奥の光あふれる内陣部)

   身廊部を進んだ正面、聖堂の内陣部は、なぜか半円ではなく、矩形である。その矩形の石壁に、ここだけには5つの窓があり、そこから光が注ぎ込んで聖なる空間をつくっていた。次の時代を飾るステンドグラスの宝石のきらめきではなく、自然光であるにもかかわらず、十分におごそかで、神秘的で、「神は光である」ことを演出している。

 中学生たちのグループが入ってきた。

 

    ( 内陣付近を見学する中学生たち )

 ヨーロッパのどこへ行っても、私たち日本人が行くほどの所ならば、地元の小学生のグループとか、中学生や高校生のグループならばもっと遠い所から、長期休暇中ならヨーロッパ中から旅の若者たちがやって来て、熱心に「自分たちの文化遺産」を見学している。そこが、日本が見習うべきヨーロッパだ。

 幼少時にはそこで、「この世の中には静かにしなければいけない所がある」ことをしつけられ、成長するにつれて、「私って、何者なんだろう? 」と考える教材が提供される。自文化とその歴史の上に立たずして、アイデンティティが育まれない。

         ★

  内陣部の手前辺り、右側に階段があり、そこを上がると、礼拝堂の南側の建物の2階に出た。

 そこは広々とした部屋で、修道僧たちの共同の寝室だった。一面に藁を敷いた石の床の上に、暖炉もなく寝たらしい。実際に藁が敷かれていて、石の壁に囲まれた冬は、いかにもがらんとして、寒そうだ。

 その1階部分には、僧会の間がある。修道院長のもと、毎日、会議が催され、種々の決議がなされたそうだ。天井は珍しくも木組みである。

 その隣は僧院の間で、修道士たちが写本製作などの作業をしたらしい。ここは、冬に暖房が入る。この部屋に接続して小さな暖房部屋があり、そこから僧院の間に暖房が送られた。

    

   ( 僧院の間 )

  礼拝堂や、僧院の間などがある建物に囲まれて、回廊がある。回廊は、中庭を取り囲むギャラリーで、全ての建物はこの回廊の周りに配置されている。

 修道院の中で唯一明るく、開放感を感じる場所である。

 

   ( 中庭と回廊 )

 修道士たちは外での労働が終わると、回廊の真ん中の噴水で手足を洗い、回廊の壁に配された本棚から本を取って、ベンチに座り読書した。 

 

     ( 回 廊 )

       ★

  修道院の敷地内の南の端には鍛冶作業用の建物がある。53m×13.5mの建物で、一部、2階建て。「工場」と言ってもよい広さだ。

 修道院を見下ろす丘の洞窟から、修道士たちは鉄鉱石を採掘してきて、製鉄し、農機具などを工作したそうだ。

 近くの小川から、この工場の壁沿いに水を引き、大きな水車を回転させて、動力とした。

    ( 水 車 )

饗庭孝男『フランス四季暦』から

 「敷地の右側、川に沿ったところにある、かつての修道院附属工場は、他の修道院もそうであったように、中世において農機具の発明や改良の先進的な技術が生まれた場所であった。

 修道士たちは時代のインテリである上に、勤勉であり、「労働と信仰」という立場からも、また実際に自給自足の生活をし、牧畜や開墾、養魚場をいとなみ、羊毛をつくり出す上からも、研究熱心に当時の技術を改めていったのである。

 彼らが行った開墾は、…… 経済の発展に大きく資したし、また牧畜や農業の経営も、…… 計り知れぬ寄与を成し遂げた。もっとも、次第に余剰が出るにしたがって収入が増え、時にそのために堕落することもあったが、しかし、その働きがなければ、中世経済がはるかにおくれていたことは争えない事実であろう」。

        ★

修道院とは何か、その歴史 >  

 旅に出る前に、あれこれ読んでも、なかなか頭に入らない。

 旅から帰ったあと、読み直してみると、ストンと腹に収まり、よくわかる。

 期待し、わくわくしながら予習しないと、旅の計画は立てられない。

 しかし、旅から帰って、もう一度復習するときに初めて、見てきたものの意味がわかるようになる。

馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』から  

① 529年、聖ベネディクトゥスが、イタリアのローマの南方に小さな石造りの修道院をつくり、清貧、貞節、服従の誓いのもと、神とともに生きる修道士たちの共同生活を始めた。

 彼の弟子たちは、聖ベネディクトゥスの戒律を、フランスやイギリスに広めていった。

 しかし、西欧のカソリック圏につくられた修道院は、ローマ帝国時代以来の地方貴族や大土地所有者たちが、侵入してきたゲルマンの略奪から生命、領土・財産を守るために、修道院を造って修道院生活を始めた……というような例も多かったから、広大な領地を持ち、領民を支配する修道院では、一方でその財力を使って古典文化の保存や学問・技術の発展・深化に貢献したが、一方で世俗化し、奢侈に流れて、真面目なキリスト教徒から批判を浴びる例も多かった。

② そうしたなか、910年、アキテーヌ公ギレギルムスが、ブルゴーニュ地方の人里離れた地・クリュニーに修道院を創設した。

 クリュニー派の運動は、聖ベネディクトゥスの戒律を厳守する修道院改革運動であり、全ヨーロッパに伝播した。

 ロマネスク様式の建築や美術は、この修道院改革運動と時を同じくし、不可分の関係で発展していった。

 ロマネスク様式が最盛期を迎えた12世紀のころには、全欧に1450もの同派の修道院があり、総本山のクリニュー修道院には460人もの修道士が生活し、ローマ教皇も同派から輩出するという一大勢力になった。

 しかし、この運動も徐々に世俗化の道を歩み、総本山のクリニュー修道院も、14世紀には力を失い、フランス革命時に閉鎖され、その後、建物も破壊された。 

③ 1098年、ロベール・ド・モレスムがブルゴーニュ地方のシトーの深い森の中に修道院を創設した。

 クリュニー修道院創設から約200年後の1112年、この修道院に聖ベルナルドゥスが来るや、清貧、労働、瞑想を強調し、厳格な戒律を課すシトー派の勢力が、全欧の精神界をリードするようになる。

 彼は、巨大なクリュニー修道院建築とその豪華な装飾に非難の声をあげ、同派の修道士たちの世俗化、不節制、ぜいたくを批判した。

 フォントネー修道院の遺構は、聖ベルナルドゥスの主張が具現化された、今に残る数少ない文化遺産である。

 ( フォントネー修道院の回廊 )

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 ただ、善悪二元論で、クリュニー派=悪、シトー派=善とするのは、考えものである。

 信仰の純粋さという視点から歴史を語ることに、どれほどの意味があるだろうか? 人間の歴史をキリスト教史観に立って見るわけにはいかない。

 巨大な伽藍や、豪華な装飾や、光り輝く宝石こそ、神に捧げるにふさわしい、とするクリュニー派の美意識は、やがて次のゴシック様式を生み出す原動力となった。巨大な伽藍を造る技術や、近代絵画の色彩感に通じる宝石箱をひっくり返したようなステンドグラスの輝きは、いろいろ批判もあろうが、一方で人類に文化的豊かさをもたらした、と考えることもできよう。

 そもそも最初のゴシック様式は、フランス王家の菩提寺であるサン・ドニ修道院 (現在は大聖堂) の大改修工事から始まった。それは、天才・シュゼール修道院長の頭脳と力量による。彼は、人間性をどう見るかについて、理想主義者ではなく、リアリストであった。改修なった新修道院の正面扉口に刻ませた文章の中に、「愚かなる心は物質を通して真実に達する」とある。人は、天を衝く伽藍や、ステンドグラスの光を見て、初めて天にまします神や、「神は光である」という教えを理解できるとのだと主張したのだ。(このあたりは、当ブログ「フランス・ゴシック大聖堂を巡る旅 9」を参照 ) 。

 このサン・ドニ修道院が完成したのは1144年。ロマネスク様式の最盛期であり、当然、シトー派の、あの厳格な聖ベルナルドゥスからの批判にあうが、シュゼールはこの批判を巧みに受け流した。

 一方、純化された信仰の持ち主である聖ベルナルドゥスは、十字軍を興し、異教徒どもを殺し、聖地を奪還せよという、「聖戦(ジハード)」の強い主張者になり、聖職界に重きをなしていったのである。

        ★

西ヨーロッパにある二つの生き方 >

 この二つの考え方・価値観・生き方は、ヨーロッパにおいて、今もある二つの大きな流れ、底流のような二つの流れに行きつくように、私には思える。

 美しい偶像や、天を衝く伽藍や、楽しいお祭りや、気高い教皇様があってこそ、弱い人間も神を信じ、神とともに日々楽しく生きることができるというカソリック的な考え方と、神の言葉は聖書にのみあり、聖書以外のあらゆる権威 ── 教会も、偶像も、教皇も ── 全て打ち倒さねばならないというストイックなプロテスタンティズムの考え方である。

 それは、フランス、イタリアなどのいわゆる地中海・ラテン系の文化圏と、ドイツ、北欧などの北方・ゲルマン系の文化圏との違いでもある。

 例えば、破産状態のギリシャに対して、ドイツは、徹底的な緊縮財政を断固として要求する。許せない。 貧乏人は、もっとストイックに暮らすべきだろう自立せよ、この怠け者

 しかし、ギリシャのお蔭でユーロの値が下がって、今、EUの中で一人勝ちして、笑いが止まらないのもドイツである

 一方、ギリシャも必死に努力して、去年、今年の収支はほぼ均衡するまでになった (日本はまだそうなっていない)。ここまで努力したんだから、「カネは天下の回りもの」。借金なんて気にせずに、もっと積極財政・成長戦略をとれるよう、EUで支援するべきだヨネ。本当は徳政令を出してやるべきヨ。緊縮・縮小ばかり要求していたら、産業はますます衰退し、失業者はさらに増え、国民は小銭をタンス預金して、市場にカネは出回らず、税収はさらに減り、それで、あの莫大な借金を返せるはずがない、というのが、フランスやイタリアである。アメリカもそうすべきだと言っている。

 だが、向かうところ敵なし、意気盛んな一人勝ちの大金持ち、「ストイック・メルケル」を抑えることは、フランスにも、イタリアにも、他の小国にはもちろん、できない。

     ★   ★   ★ 

 ちょっとあわただしい見学であったが、約束の11時に門の外に出ると、タクシーが待ってくれていた。当然、朝のムッシュと思いきや、女性の運転手だ。奥さんではない。娘さんかな? 或いは、ご近所さん?

  モンバール駅に戻って、12時5分発のトゥルニュー行きを待つ。

 時間があったので、駅からぶらぶら歩いてみた。5月の日の光と青空以外に、これというものもない田舎の町だ。

 小さな運河があり、その土手のベンチで風に吹かれる。たまに散歩するお年寄りを見かけるぐらいで、静かに時が流れていた。

 

   ( 運河の畔で )

 

 

 

 


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