台湾の映画を初めて観た。『 KANO 1931 海の向こうの甲子園 』。
戦前の台湾の中等学校野球を描いた、汗と涙の青春ドラマである。
当時、台湾は日本領だったから、台湾の地方大会を勝ち抜いた1校も、甲子園に出場した。
「KANO」とは、台湾州立嘉義農林学校 ( 通称: 嘉農 ) のこと。1919年に創立された中等教育学校である。現在は昇格して国立嘉義大学となり、今も台湾大学野球の強豪校だそうだ。
しかし、もともとKANO野球部は、台湾の地方大会で1勝もしたことのない弱小チームだった。
1930年、そのチームに、近藤兵太郎が監督として就任する。
古武士のようにもの静かな人だが、心に傷を抱いていた。かつて本土で、中等学校野球の強豪校の若き指導者であったとき、指導に失敗してチームを投げ出してしまったという過去を持つ。今、妻とともに台湾に来て職を得ているが、二度と野球にかかわるつもりはなかった。
ある日、林に囲まれ打ち捨てられたようなグランドで、指導者もいないのに、泥まみれになって、ひた向きに練習するKANO野球部員の姿を見る。その (旧制) 中学生たちの姿に心を打たれた。
この弱小チームの指導者になって、もう一度甲子園を目指そう。近藤兵太郎の心に火が付いたところから物語は始まる。
ドラマには描かれていないが、近藤は、彼らのひたむきさに加えて、このチームの部員たちの身体能力の高さやセンスの良さを見抜いたのだと思う。彼らなら、きちんと教え、鍛えれば、彼が良く知っている内地の甲子園に出場するチームにも、決して劣らないようなチームになるだろうと。
近藤監督は、就任するといきなり「甲子園に行く」と宣言し、以後、絶えず口にする。
選手たちも口にするが、親や町の人たちは笑っている。まさか?! それより、家の仕事を手伝え。
監督を信頼し、監督の教えどおりに必死で練習に取り組む選手たちだが、実は彼らも甲子園に行けるとは思っていない。尊敬する監督の手前、そう言えないだけだ。選手たちは、それよりも、練習試合で一度も勝ったことがなく、高見から見下している隣の学校の野球部に勝ちたいのだ。
かくして、KANO野球部は、日本人監督の下、守備の上手い日本人生徒、強打の漢人生徒、俊足好打の先住民生徒たちが、何の分け隔てもなく一つになって、激しい練習をし、翌1931年、台湾予選を次々に勝ち抜いていくのである。
1勝するたびに選手は輝きだし、エースはマウンドを守り抜く真のエースとなり、俊足の1、2番は塁を走り回り、それを中心バッターが強打で返し、ピンチになれば球際に強い守備力で守り抜いた。
KANOが勝ち進むにつれ、町の人々も驚きと喜びに沸き、ラジオの実況放送に集まってくる。
そして、ついに、台湾予選の決勝戦にも勝ち、1931年の夏の甲子園に、台湾代表として出場するのである。
舞台は甲子園へ。
強豪チームの周りにマスコミは集まったが、KANOに注目す記者は誰もいなかった。漢人ばかりか、先住民もいるチームに、差別的な質問を浴びせた記者もいた … これに対しては、日ごろ無口な近藤監督がきちんと反論する。
最初、誰にも注目されていなかった嘉農だが、当時流行りだした姑息な戦法は取らず、1球たりともおろそかにしない、真摯で、気迫のある、力強いプレーで、次々に強豪チームを倒していく。その姿が、次第に甲子園の野球ファンの共感と感動を呼び、ついにKANOは決勝戦に進む。
決勝戦では、指に血豆ができ、血を流しながら投げるエースの呉明捷投の奮闘もむなしく、激闘の末、中京商業に敗れる。たが、あの差別的な質問をした記者も、多くの甲子園ファンも、このチームを「天下の嘉農」と呼んで称賛した。
本当にあった、あつーい野球青春ドラマである。
映画の終わりの字幕によれば、この映画のもう一人の主人公と言ってもいいチームのエース・呉明捷投手は、その後、早稲田大学野球部で活躍した。そのほかのメンバーも、台湾野球の指導者になったり、学校の先生になっている。
その後、近藤兵太郎監督に率いられた嘉農野球部は、春、夏併せて計5回、甲子園に出場した。彼らの後輩・呉昌征選手は、のち日本のプロ野球に入り、巨人、阪神でも活躍して、野球殿堂入りしている。
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金美麗さんによると、台湾では、先年、八田與一(ヨイチ)を描いた映画もつくられた。
また、最近は、旧制高等学校時代の青春をノスタルジックに描いた映画もヒットしたと聞く。
『KANO 1931 海の向こうの甲子園』にも登場する八田與一は、土木技術者として台湾に派遣され、東洋一のダムと、総延長距離が万里の長城より遥かに長い水路を張り巡らせて、嘉南平野を大穀倉地帯にした人物である。夫婦の墓は今もダムの畔にあり、土地の台湾人によって、毎年、慰霊祭が行われている。
注) 司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズのなかで、司馬の思いがあふれ、私がいちばん感動したのは『台湾紀行』である。八田與一のことも書かれている。それに、何よりも、司馬遼太郎と李登輝さんの交流がいい。君子の交わりとはこのようなものかと、感動する。まだ読まれていない方は、ぜひご一読を。
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それで、『台湾紀行』をパラパラと読み直していたら、嘉義農林学校野球部の、一人の先住民選手のことが書かれていた。以下、その抜粋。
「台東の野にいる。
むかしからプユマ族が耕している野である。この野から、むかし、嘉義農林の名選手が出た。
日本統治時代の名を上松耕一といい、明治38年(1905)にうまれた。いま生きていれば、80代後半になる。
台東のプユマの社 ( ムラ ) からはるかな嘉義農林に進学したのは、運動能力が抜群だったからに相違ない。(※これは多分、司馬さんの間違い? )
昭和6年(1931)、上松少年の嘉義農林は甲子園に出場し、勝ち進んで準優勝になった。少年は遊撃手だった。
卒業後は、横浜専門学校(現神奈川大学)に入り、卒業してから嘉義の自動車会社に入社した。かたわら母校の嘉義農林にたのまれて野球部の指導をした。
上松耕一は、結婚後、台東にもどって山地人のための学校を多く建てた。戦後、陳耕元という名になった。
(司馬さんが、泊まったホテルの荷物運びの老人に、「上松さんを知っていますか」 と聞くと、その人は「ああ、『校長先生』のことでしょう」 と答えた。)
…… ともかくも、昭和初年の甲子園の名選手が、いまなお台東の山野で『校長先生』の名でもってその存在が語り継がれているというのは、すばらしいことだった。
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日本統治時代、当時の日本政府は、(台湾でも、韓国でも)、全土を測量して地図を作り、道路をつくり橋を架け、水力発電を起こし、工場を建て、或いは病院をつくって風土病と戦い、全国津々浦々に小学校を建てて義務教育を普及し、交番や郵便局を開設し、中等教育学校を整備し、さらには旧制高等学校や帝国大学もつくった。台北に設けられた帝大は、名古屋や大阪より古い。(韓国・ソウルの帝大は、さらに古い)。
台湾人の「記憶」のなかで、甲子園を目指した青春の熱気や、弊衣破帽で友と哲学を論じ合った旧制高等学校時代のほのかな恋心が、美しい思い出として、今も郷愁をもって語り継がれるのは、自然の理である。
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長く会わなかった人から、きみ、忘れたのかい、子どものころ、きみのうちに遊びに行ったとき、裏山に桜の木があって、みんなで花見をしたよ、と言われて、あっ、そうか、そうだね。そうだったねと言って、思わず手を握る。
日本人は忘れかけているが、台湾人にとって日本時代の記憶は、時に、なつかしい。
東日本大震災の折、世界でいちばんたくさんカンパを集めてくれたのは、台湾の人たちであった。
「記憶」は、語り継がれて、歴史になる。
日本統治時代よりも前の、中国から「化外の地」と言われた時代の「記憶」、日本が去り、入れ替わるように入ってきた蒋介石軍に支配された戦後の「記憶」 … 台湾には台湾の歴史物語がある。
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映画の最後のシーンは、台湾に帰る船の狭い甲板で、選手たちが草野球をして遊ぶ場面だった。
その海の上のシーンを見ながら、旅客機のない時代、台湾までの船旅の遠さを思った。… 彼らは甲子園に出場するために、いったい何日かけて、やってきたのだろう
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もう一つの国、韓国でも、日本が戦争に負けて去って行くとき、多くの民衆は、日本について、良い「記憶」を持っていた。少なくとも、李氏朝鮮時代に戻りたいと思っていた人は、一部の両班階級を除いては、あまりいなかったろう。
今の韓国の反日感情は、戦前の日本の統治の結果ではなく、戦後の「韓国国民」づくりの結果である。
学校で「日帝の悪」を教え込まれた子どもたちは、家に帰ってそれを話す。母や、祖母が、「日本の統治時代に、そんなことはなかったよ」と言うと、子どもは「先生が教えてくれることに間違いない」と反発する。親たちは、「学校で教えられること」 に対しては、黙って受け入れるしかない。そういう時代になったのだと。
こうして、韓国人の記憶の中から、甲子園の記憶も、旧制高等学校の思い出も、日本人の子も韓国人の子も差別もなく教えてくれた小学校の日本人教師の記憶も、お隣に住んでいて仲よくしていた日本人一家の思い出も、炎天下、日本人技師に付いて全土を測量し地図を作った記憶も、初めて近代的な橋を架け、ビルを建てた記憶も、交番制度ができ土地の若者が巡査になった記憶も、すべてが消えていった。
歴史は「修正」される。
同じ「記憶」をもつはずなのに、一方にとって、それはなつかしい「記憶」、他方にとっては、憎悪の「記憶」。
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終わりに、司馬遼太郎『台湾紀行』から、そのいくつかの文章を書き写す。
「以下は、ごく最近にきいた話である。大蔵省の造幣局の幹部のひとが、1980年前後、大蔵省から派遣され、財団法人交流協会台北事務所の一員として滞台した。
仮に、Aさんとする。滞台中、一人で東部の山中を車で駆けていたとき、大雨に遭った。路傍の木陰に、山地人の老人とその孫娘が雨を凌いでいたので、乗せた。
乗ってきた老人にとって、戦後、日本人に会うのがはじめてだったらしい。このため、話が大ぶりになった。
『日本人は、その後、しっかりやっているか』
といったぐあいに、なたで薪を割るような物言いで言う。
『はい、日本はお国に戦争に敗けたあと、はじめは虚脱状態だったのですが、その後 … 』
『お国とはどこの国のことだ』
『あなたの中華民国のことです』
『いっておくが、日本は中華民国に敗けたんじゃない』
『敗けたんです』
変な話になった。
この老人も、日本が連合国に降伏したということは、知っているはずである。その連合国のなかに、中華民国が入っていた。
『いや、敗けとりゃせん』
と老人がいうのは、区々たる史実よりも、スピリットのことをいっているらしい。
降りるとき、この『元日本人』は、若い日本人に、『日本人の魂を忘れるな』といった。
孫娘もきれいな標準語をつかっていたそうで、山中と言い、大雨と言い、民話のような話である。
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(巻末の司馬遼太郎と李登輝の対談から)
李登輝) 「司馬さんと話をするとき、どんなテーマがいいかなと家内に話したら、『台湾人に生まれた悲哀』といいました。それから二人で「旧約聖書」の「出エジプト記」の話をしたんです」。
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「300年も独力でひとびとが暮しつづけてきたこの孤島を、かつて日本がその領土としたことがまちがっていたように、人間の尊厳という場からいえば、既存のどの国も海を越えてこの島を領有しにくるべきではないとおもった。
当然のことだが、この島のぬしは、この島を生死の地としてきた無数の百姓(ヒャクセイ)たちなのである。
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中華人民共和国は、今、中国の歴史上、最大の版図を有し、まさに「帝国」である。抑えつけられた民族の悲鳴が聞こえる。これ以上、不幸を広げることに、反対する。
そして、いつの日か、国連が、新しい加盟国として、「台湾国」を承認する日が来ることを、願う。
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