(花の聖母大聖堂)
「フィレンツェの象徴、赤い屋根に白い稜線の走る、花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)の優雅でかつ堂々とした大円蓋(クーポラ)が、周辺を圧倒するかのようにそびえ立つ。そのかたわらには、ジョットーの鐘楼が美しく花をそえ、さらに左に視線をめぐらせば、……」(塩野七生『銀色のフィレンツェ』から)
ホテルの4階の朝食ルームからは、大聖堂の大円蓋(クーポラ)が良く見えた。この眺望のために、このホテルを選んだ。
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3月11日。曇り、時々小雨。
今日の1日は、前回のイタリア・ツアーで回らなかったフィレンツェの文化遺産を巡り歩く。だが、その数は多く、一つ一つの絵や彫刻を確かめながら見て回ったら何日もかかってしまうだろう。だから、主な聖堂や邸宅をざっと見て回ることに主眼を置いた。
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<参考資料 ── フィレンツェ・ルネッサンス期の人々>
ブルネレッスキ (1377~1446)
ドナテッロ (1386~1466)
コジモ・デ・メディチ(1389~1464) 銀行家
フラ・アンジェリコ (1390?~1455)
マザッチオ (1401~1428)
フィリッポ・リッピ (1406~1469)
ベノッツォ・ゴッツォリ (1421~1497)
ポッティチェリ (1445~1510)
ロレンツォ・デ・メディチ(1449~1492) コジモの孫
ダ・ヴィンチ (1452~1519)
サヴォナローラ (1452~1498)修道士
ミケランジェロ (1475~1564)
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<サン・マルコ寺院とコジモ・デ・メディチ>
町の北西にあるサン・マルコ修道院(今はサン・マルコ美術館)からスタートした。
2つの扉がある。左側の入口はサン・マルコ教会。右側の入口はサン・マルコ修道院で、今はフラ・アンジェリコの美術館になっている。
このドメニコ派の修道院から2人の著名な修道士が出た。
1人は15世紀前半の画僧でフラ・アンジェリコ(~1455)。
もう1人は、15世紀後半、メディチ家と対決し、ルネッサンスのギリシャ的な人間中心主義を、異教的・反キリスト的・享楽主義と批判して、「終わりの日は近い。神の声を聞け」と叫んだ修道院長のサヴォナローラ(1452~1498)。彼に洗脳された少年・少女隊は、夜な夜なフィレンツェ市民の邸宅に押し入り、数々の美術作品や新思潮を伝える書籍や贅沢品などを没収して広場で燃やした。
さて、修道院(美術館)に入り、狭い階段を上がっていたとき、その絵との出会いがあった。2階へ上がる途中の踊り場で階段の向きが変わったとき、目の前の壁にフラ・アンジェリコの「受胎告知」が架けられていたのだ。写真で見て、フィレンツェに行くからにはぜひ本物を見たいと思っていた絵である。
構成も、色合いも、マリアの表情も良い。貴族のお姫様のような美女ではない。かといって、粗野でたくましいだけの女でもない。純朴にして静謐。キリスト教徒でなくても、マリアはこういう女性だったのだと納得できる。
私はイタリア・ルネッサンスのいかなる絵画よりも、サン・マルコ修道院の質素な壁に架けられたフラ・アンジェリコの野の花のような絵、なかんずく「受胎告知」が好きだ。
2階は石造りの冷たく狭い廊下をはさんで、修道士たちのための小さな房が並んでいる。開いている扉があり、覗いてみると、石の壁に囲まれた質素で孤独な部屋だった。冬の冷え込みをどのように凌いだのだろう。
階段を上がった所からまっすぐ伸びる廊下は突き当りで鍵型に曲がり、左右に計14室。一番奥が院長室で、15世紀末に修道院長だったサヴォナローラの遺品が置かれていた。彼は結局、最後はシニョーリア広場で火刑にされた。
階段を上がった所から右へ行く廊下には左右に計10室。その一番奥は、コジモ・デ・メディチが時々籠ったという房で、いつか引退してこの修道院で晩年を静かに過ごしたいと願っていたという。
藤沢道郎『物語イタリアの歴史』から
「コジモは学問の分野でも美術の分野でも、新しい潮流(=ルネッサンス)を積極的に擁護し、理解し、後援した。彼の後援でプラトン・アカデミーがフィレンツェに設立され、すでに内容が時世に合わなくなりつつあった大学に代わって、学術研究の中心となった。…… コジモはまた、その時代で最大の愛書家であったニッコロ・ニッコリに財政援助してギリシャ語のテキストを収集させ、死後はその蔵書800冊を大枚6000フィオリー二で買い上げ、サン・マルコ修道院の図書館に寄贈した」。
コンスタンティノープルの陥落(1453年)前後、多くのギリシャ語の書籍群が西欧世界に流出してきて、ルネッサンスの土壌のひとつとなった。
800冊の書籍を収納する図書館もブルネレスキの弟子のミケロッティに設計・制作させた。それは、「アンジェリコの絵がそのまま建築と化した観がある」。
「コジモは隠居した後この修道院に住むつもりで、そのための僧房まで用意したが、結局そんな平安は彼には許されなかった。
ブルネレッスキ(1377~1446)にはサン・ロレンツォ聖堂の工事を引き続き任せ、ドナテッロ(1386~1466)とは終生の親友となって絶えず仕事を与え、経済的援助を惜しまず、アンジェリコにはサン・マルコ修道院の壁画連作を依頼し、破戒修道士の画家フィリッポ・リッピ(1406~1469)を庇護して創作を続けさせたが、ゴシック美術には振り向きもしなかった」。
ルネッサンスと言えば、偉大な美術家、或いは、天才として、ダ・ヴィンチ(1452~1519)やミケランジェロ(1475~1564)の名が挙がる。だが、私は彼らよりも半世紀前の、ルネッサンス前期の芸術家たち、そして、彼らを庇護し、「祖国の父」と呼ばれた銀行家のコジモ・ド・メディチに心惹かれる。
大金持ちなら、現代のアメリカにもサウジアラビアなどにも、或いは今の中国にも、当時のコジモ・デ・メディチなど問題にならないような巨万のカネをもつ人はいくらでもいるだろう。だが、コジモは単なる大銀行家でも、フィレンツェの政治家でもない。その教養や見識、人間性の深さに私は心惹かれる。
サン・マルコ修道院の静謐感、コジモの僧房、それらの雰囲気にふさわしいフラ・アンジェリコの野の花のような絵画の数々に接し、感動して表に出た。
その感動のまま、すぐ南にあるアカデミア美術館はパスした。ミケランジェロのダビデ像の本物を安置して人気が高い。だが、それを見ても、立派だとは思うだろうが、感動はしないだろう。これは個人の感性、好みの問題である。
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<メディチ家の邸宅とサン・ロレンツォ教会>
さらに南へ歩いて、メディチ・リカルディ宮へ。
コジモ・デ・メディが造らせたメディチ家の邸宅で、1459年に完成した。100年以上のちに、リカルディ家に譲渡されたから、メディチ・リカルディ宮と二つの名が付く。
メディチ家の本流は1537年に断絶する。
1569年に傍系のコジモ1世がトスカーナ大公となり、フィレンツェを含むトスカーナ地方の専制領主になった。彼はその後、住まいをアルノ川の南のパラッツォ・ピッティに移し、元の邸宅はリカルディ家に譲渡した。
外観は石造りで、ごつごつとして厳つい。
(メディチ・リッカルディ宮の中庭)
だが、中庭に入ると、洗練されて優雅。1階は中庭を囲むように回廊があり、その上階に居住室がある。こういう中庭は地中海世界に独特なもので、ドイツやフランスなどの北方ゲルマン系建築には見られない。
中庭の階段から直接に2階に上がれば礼拝堂があり、ゴッツォリのフレスコ画「ベツレヘムへ向かう東方の3賢人」がある。色彩豊かで、メディチ家の人々の顔や画家本人の顔も、登場人物として描き込まれている。
ベノッツォ・ゴッツォリ(1421~1497)は、若い頃、フラ・アンジェリコの弟子で助手だった。コジモ・デ・メディチやその息子のピエロ・デ・メディチに援助され、ルネッサンス芸術の一角を彩った芸術家の一人である。
メディチ・リカルディ宮を出て、そのすぐ南、露天が並ぶ下町の雰囲気のある広場を前に、大きなピンクのクーポラをもつサン・ロレンツォ教会がある。
入口付近に高校生の遠足のような一群が、順番待ちなのか、群れていた。イタリアの高校生らは日本の高校生よりわかりやすい。これから見る見学の対象はそっちのけで、ガヤガヤと騒がしいのは日本と同じだが、明らかに特定の女子に関心のある男子や、その逆もいる。秘めたる恋はないようだ。
この教会は、メディチ家の代々の菩提寺でもある。ドゥオーモ(花の聖母教会)、サンタ・クローチェ、サンタ・マリア・ノヴェッラとともに、フィレンツェの4大教会の一つ。
(サン・ロレンツォ教会)
もともと4世紀末にできた教会だが、今、目にする建物は3代目。ブルネッレスキの最初の作品とされる。
紅山雪夫氏によると、ファーサードとは「顔を付ける」という意味合いをもつそうで、教会建築では最後に造られるらしい。このサン・ロレンツォ教会のファーサードは未完成のままで、レンガの芯積みが露出している。だから、我々観光客には、どこが正面入口かわからない。
別の入口から入るメディチ家の礼拝堂には、ミケランジェロ設計の新聖具室があった。
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昼食後、明日、予定されている鉄道ストの情報がないか、日本のツアー会社のフィレンツェ支店に電話してみた。だが、何の情報も得られなかった。日本で得ていた情報では、外国人観光客に迷惑をかけないよう、新幹線のストは回避し、ローカル線のみで行うことになっていた。だが、それは困る。明朝、ローカル線に乗ってアッシジへ行く予定なのだ。
駅に行って、ストに入るかもしれないという時間より少し早い8時7分発の乗車券を買った。あとは出たとこ勝負だ。
(ドゥオーモ)
<バルジェッロ国立博物館とドナテッロのダヴィデ像>
そのあと、さらに南へ。ドゥオーモを通り越して、バルジェッロ国立博物館へ行く。
建物は13世紀末の建造で、中世的で、厳めしい。16世紀には、司法長官バルジェッロの役所兼邸宅として使われた。犯罪者を連行し拘留するための威圧感は十分だ。
ただ、今は博物館として使われ、多くの文化財が陳列されている。
(バルジェッロ国立博物館の中庭)
メディチ・リカルディ宮と同様、一歩中に入ると、柱廊をめぐらせた中庭には彫像が置かれ、壁面には石板が飾られて、趣があった。2階の展示室には、中庭から直接に上がる石の階段がある。
多くの展示品がある中、私が目指していたのはドナテッロ作の「ダヴィデ像」。
シニョーリア広場に置かれた(今はアカデミア美術館)ミケランジェロのダヴィデ像は、ドナテッロのダヴィデ像が作られてから70年後の作品である。
ミケランジェロのダヴィデ像は、巨大な石造りで、圧倒的に大きい。巨人ゴリアテに目を注ぎ、今まさに戦いに入ろうとする緊迫した若者の姿。贅肉のない引き締まった体に、無敵の巨人を倒す隆々とした筋肉が付く。
一方、ドナテッロのダヴィデ像はずっと小さく、160cmばかりのブロンズ像である。石(巨岩)とブロンズの素材の違いは大きい。
ドナテッロのダヴィデ像は、既に巨人ゴリアテを倒し、力を抜いて無造作に立っているように見える。剣を握った右腕はだらりと下げられ、左手は勝ち誇るがごとくわずかに腰に当てられて、やや裸体をくねらせている。
だが、その足元を見ると、裸体のくねりの理由がわかる。左足は切り落としたゴリアテの岩のような頭を無造作に踏みつけているのだ。
裸体だが、靴を履き、頭には月桂樹飾りの付いた兜。それは花飾りの付いた麦藁帽子のようにも見え、一瞬、少女の姿のようにも思える。しかも、その顔にはわずかに笑みが浮かんでいるようにも見える。こんな大男、何でもないよ、というような。
ニヒルというか、倒錯的というか、耽美的というか。
力任せの正攻法のミケランジェロよりも、私にはずっと魅力的である。
もっとも、以上の描写は私の受けとめ方であって、ドナテッロの意図(モチーフ)がそうであったかどうかは知らない。
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<サンタ・クローチェ教会>
冷たい小雨が降りはじめた。傘をさし、街の南西、アルノ川のこちらに建つサンタ・クローチェ教会へ向かう。
(サンタ・クローチェ教会のファーサード)
華やかなドゥオーモやシニョーリア広場から少し外れ、どこか庶民的で鄙びた趣のある地域だ。
サン・フランチェスコ会修道院の聖堂として、14世紀にゴシック様式で建てられた。ただし、白大理石に色大理石を配したフィレンツェ風のファーサードは19世紀。
堂内には、ダンテの記念碑、ミケランジェロやマキァベリやガリレオらの墓があった。高野山の奥の院みたいだ。
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<アルノ川の流れ>
この日の見学の終わりに、ブルネレッスキやドナテッロと同世代の夭逝した天才画家マザッチオ(1401~1428)の絵を見たくて、アルノ川を南へ渡ったサンタ・マリア・デル・カルミネ教会のブランカッチ礼拝堂へ向かった。
だが、ヴェッキオ橋を渡ってから道に迷って、さ迷った結果、川下のカッライヤ橋へ出てしまった。
朝からずっと歩きづめで、疲れて、マップを読む力も衰えている。橋の上で、今回のフィレンツェ見学はこれでおしまいにしよう、と決めた。
(カッライヤ橋からアルノ川)
カッライヤ橋の上から上流を見ると、トリニタ橋、その向こうは屋根付きのヴェッキオ橋。
アルノ川は静かに流れている。
「下を流れるアルノ川は、上流と下流の2カ所でせきとめてあるためか、湖面のような静かさをたたえて流れる」(塩野七生『銀色のフィレンツェ』から)。
よく歩いたが、フィレンツェの見どころのほんの一部を回っただけだ。
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饗庭孝男『ヨーロッパの四季1』(東京書籍)から
「たとえばローマは私にとって大きすぎる。
またミラノは何カ所かを除くと暗い町で、小雨がよく降り、霧が立つ。それなりにいいのだが、何か寂しい。
だが、このフィレンツェは地勢がいい。真ん中に、京都の鴨川のようにアルノ河が流れ、その向こうにサン・ミニアート・アル・モンテ教会を包む丘 (注= 昨日、フィレンツェの夕景を見たミケランジェロ広場がある丘) が続いている。調和がとれていて、私には落ち着くのである」。
明日は、アッシジへ行く。
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