辻邦生は青春の一時期を旧制松本高校で過ごした。太平洋戦争の戦況が悪化し、やがて終戦を迎えるころである。自分の命が「宙づりになった」ような日々、信濃の風土は限りなく美しく感じられた。そのころのことを次のように書いている。
辻邦生『時刻(トキ)のなかの肖像』から
「旧制高校に松本を選んだのも、高原や山脈に囲まれたこの町にあこがれたからだった。松本で初めて目覚めた朝、近くの森から郭公(カッコウ)が鳴いていたときの感動は、いまもありありと思い出すことができる。私は幸福感に息がつまりそうだった」。
「高原の冷たい、新鮮な空気のなかで、4月終わりに咲く桜の花は、まるで花びらの1枚1枚が結晶しているように見えた。青い北アルプスの連なり、城下町のひなびた落ち着き、学問的な瞑想感に満ちた旧制高等学校の校舎 ── こうしたものが、今なお私に残している刻印は深い」。
「私は、生まれてはじめて高原を這う霧を知った。アルプスに登り、濃い青空に象嵌されたように聳える灰色の山頂を仰いだ。からまつ林の中を歩く旅人の孤独を味わった。牧場では牛の群れが鈴を鳴らしていた。私にとって、現実は、詩の世界さながらに見えた」。
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朝、山田旅館を出たのは最後のようだった。
「みなさん、早いですね。雨飾山登山に行かれたのですか??」と聞いてみた。「はい。みなさん、登山です」。
夕食のときに聞こえてきた会話から、数名のおばさん一行は高校の同窓会グループのように思われた。1人だけ、やや高齢の女性がいたが、多分、彼女たちの担任か、クラブ顧問だった人だ。
雨飾山には、山小屋がない。一日で頂上まで登って降りてくるには、相当の健脚を要する。早朝に出発するのは、山登りでは掟のようなものだ。今、日本の元気とパワーはおばさんたち。今日はよく晴れて、きっといい山歩きになるだろう。
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< 木崎湖に思い出すこと >
今日は、国道148号線(糸魚川街道)を大糸線に沿って南下し、松本駅まで行く。途中で寄り道しながらのんびり走って、松本から午後の適当な時間の「特急しなの」に乗り、名古屋経由で帰る予定だ。
この大糸線沿線は、若い頃、夏になると、よく訪ねたものだ。
そのときはたいてい、青木湖、中綱湖、木崎湖の仁科三湖のそばの民宿で1~2泊した。
三湖のなかで木崎湖がいちばん開けているが、北アルプスの雪解け水をたたえた湖は、7、8月の観光シーズンを終え、青空を映して、昔と少しも変わらぬ静かなたたずまいだった。
( 豊かに水をたたえた木崎湖 )
私がまだ二十代の頃、父はゼネコンに勤めるサラリーマンだった。学歴はなかったが、年齢が年齢だから、それなりのポストにはついていた。
あるとき、ゼネコンの業界誌から原稿(随想)を依頼された。持ち回りだから、断れなかったようだ。すぐに電話で代筆を頼んできた。年齢も生きている世界もまるで違う男の立場で書くのは不可能だから断ったが、日ごろ文章など書かない父が気の毒で、では自分のこととして書くよ、と言って引き受けた。
そして、信州の木崎湖にボートを浮かべ、魚釣りを楽しんだという随想を書いて渡した。
すぐに見破られてしまったと、父は笑いながら話した。同業者の仲間は会社を超えて親密で、息子の作文を提出した父を面白がったようだ。「見かけによらず、ロマンチックですねえ(笑い)」とか、ストレートに「息子さん、文章がうまいですねえ(笑い)」とからかわれたと言い、そういう付き合いを楽しんでいた。原稿料は封したまま、くれた。
それ以後、父は夏が終わると、信州の湖に行ったか?? と聞いた。退職したら信州の湖に行って魚釣りをしたいと、ずっと思っていたようだった。
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< 北アルプスの山並みを望む >
木崎湖からは国道をはずれ、国道と並行して走る野の道に入った。舗装も良く、信号がなく、山並みの見晴らしも良く、快適である。1998年の長野冬季オリンピックのときに造られた道路だ。
所々で、北アルプスの高山が顔をのぞかせた。
今はもう登ろうなどという野心は微塵もないが、それでも眺めるのは楽しい。
( 北アルプスが顔をのぞかせる )
後立山連峰の女王と言われる白馬(シロウマ)岳(2932m)には何度か登った。雨の大雪渓を下山したとき、きゃあきゃあ言いながら下る初心者が落とした落石がそばを落下し、肝を冷やしたこともある。
その南の唐松岳(2696m)には一日で駆け上り、駆け下りた。単独行は緊張もするが、楽しかった。
常念岳(2857m)、大天井岳(2921m)、燕岳(2762m)は、友人たちと山小屋に泊まって縦走した。上高地の深い谷を隔てて、その向こうに槍・穂高の連峰が聳え、パノラマのようだった。
一番、心に残った山行は、白馬岳から北へ、雪倉岳、朝日岳と縦走したコースである。白馬岳から南へ縦走する登山者は多いが、白馬岳を北へ入ると、突然、嘘のように人の声が聞こえなくなった。美しいお花畑の中の径をゆき、急斜面の雪渓を緊張してトラバースした。一日歩いて、出会ったパーティーは一組だけだった。夕方、テントを張って、来し方の山並みを振り返り、遥けさを感じた。
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< 海人族・安曇氏の穂高神社へ >
大糸線の穂高駅近くに穂高神社がある。神社の現在の住所は、「安曇野市穂高」となっている。かつては安曇郡だった。昔、安曇氏の一族が住み着いた山河である。
穂高神社は信濃国の三の宮である。一の宮は諏訪大社。
安曇氏がここに定着したのは、一説に6世紀ごろと言われ、神社の西方には古墳群もあるらしい。
安曇氏は、海人族である。
古代、海人族は西日本の各地の海辺にいたが、『日本書紀』の応神天皇の項に、安曇氏を「海人の宗」にしたとある。
玄界灘の志賀島の志賀海神社が、安曇氏の本拠地である。
※ 安曇氏や志賀海神社については、当ブログ「玄界灘の旅」の中の「海人安曇氏の志賀海神社へ行く」を参照。
それが、いつのころからか、石川県羽咋郡志賀町、滋賀県の安曇川、愛知県の渥美半島、静岡県の熱海など各地に散らばっていった。海づたいに漁場を求め、或いは、物資を運ぶ輸送船を操って活動の場を広げていったのだろう。ただ、その一族が、海とは全く縁のない山国である信濃国の安曇野に定着したのは不思議である。理由はわからない。
7世紀、唐、新羅の連合軍によって、百済が滅ぼされた。倭国は百済との盟約により、倭にいた百済の皇子を立てて、百済国の再興の救援軍を朝鮮半島に派遣した。前将軍に安曇比羅夫、後将軍に阿倍比羅夫が任じられた。倭軍はよく戦ったが、百済軍のトップに仲間割れが生じ、さらに白村江の海戦で唐の水軍に惨敗して、戦いは終わった。安曇比羅夫はこのとき、戦死したとされる。
( 穂高神社の鳥居と神楽殿 )
今回、初めて知ったことがある。穂高神社の例大祭は9月27日に行われる。その祭りでは、高さ6m、長さ12mという大きな船形の山車「御船(オフネ)」をぶつけ合うらしい。9月27日は、白村江の戦いで戦死した安曇比羅夫の命日と伝えられている。
なお、穂高神社の奥宮は上高地の明神池のそばにある。明神池は神社の境内で、神域ということになる。
また、嶺宮は、北アルプスの雄・奥穂岳(3190m)の頂上に鎮座する。
( 穂高神社の拝殿 )
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< 早逝の彫刻家を記念する碌山美術館 >
穂高神社から歩いて数分の距離に碌山美術館がある。
荻原守衛。号は碌山。明治12(1879)年、南安曇郡東穂高村に生まれた。
10代の終わり頃、近くに嫁いできた2歳年上の相馬良子(黒光)と知り合い、生涯、あこがれ、影響を受けた。
相馬良子は、仙台藩の儒者の娘・星良子で、美貌で、頭がよく、気が強い女子だったらしい。若き日に東京に出て、ミッションスクールの明治女学校に学んだ。そのころは、「アンビシャス・ガール」と呼ばれていたという。明治女学校には、英語の教師として、まだ20代の島崎藤村もいた。第一詩集『若菜集』を発刊する以前のことである。良子はその後結婚して穂高に住んだが、のち東京に出て、新宿のパン屋・中村屋を経営した。
碌山は信濃を出て上京し、米国やフランスに学んで、ロダンに傾倒し、彫刻家となった。帰国後、新宿の角筈にアトリエをもち、中村屋に出入りしながら、「デスペア」「女」など何点かの名作を残す。両作品とも、相馬良子がモチーフになっている。だが、明治43(1910)年、突如、喀血して31歳の若さで早逝した。
年齢や、早逝したこと、惜しまれる才能も、或いは思想的にも、文学の世界の石川啄木に似ている。
( 蔦のからまる碌山美術館 )
碌山美術館は1958年、碌山の作品と資料を保存・公開するために、県内の子どもや少年を含む多くの人々の尽力によって設立された。
私が初めてここを訪れたのは、まだ学生時代の8月だった。松本から大糸線に乗り、穂高駅で降りて歩いていくと、信濃の国の稲穂はすでに黄金色に頭を垂れ、その稲穂の波の先に、キリスト教の教会風の瀟洒な煉瓦造りの美術館が見えた。(今は、付近にかなり住宅が建った)。
美術館の玄関先には日に焼けた子どもたちが数人、元気に遊んでいて、会話したことを覚えている。
帰りに、村の鎮守の杜のような穂高神社に立ち寄り、駅に向かった。
駅に着くと、列車が出るところだった。
当時の大糸線は牧歌的で、機関車に客車は2両だけ。あと貨物車が何両か接続されていた。
貨物車には、天蓋のないトロッコ風の貨車もあり、客車に坐れなかった旅の学生たちが、勝手に乗っていた。信州の夏の風を受けて走るトロッコ貨車は心地よさそうだ。ゆっくり動き出した列車を追いかけ、プラットホームをダッシュした私も、目の前のトロッコ貨車に跳び乗った。
のどかな青春の一場面が脳裏に残っている。思い出というのは、言葉ではなく、映像である。
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< 大王わさび農園で昼食を >
その当時、穂高駅より1つ松本寄りの豊科駅で列車を降りて、あぜ道をてくてく歩くと、渓流が分かれて流れる地に、わさび田が開かれていた。
わさび田のそばを流れる小川は水量豊かで、川底の水藻に樹木が蔭を落とし、水車が回っていた。その先にわさび田が広がり、西には残雪を頂いた北アルプスの山並みも神々しく聳えていた。
今回、久しぶりに立ち寄ってみようと思い、ネットで調べて驚いた。あのわさび田が、テーマパークのように大きな遊園地になり、観光バスもやってきて、大変な賑わいになっていた。
( わさび田 )
その「大王わさび農園」のレストランで昼食をとった。
ウイークデイというのに、想像以上の賑わいだった。家族連れが多い。
高度経済成長期やバブルの時代なら、また信濃の静けさが壊されたと嘆いただろうが、今は地方創成の時代である。レストランやわさび田や遊園地の各所で働く若い男女の姿があった。こうして地方が賑わい、都会に出ていかなくても、仕事があることは良いことである。変わらないことばかりが良いわけではない。
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松本でレンタカーを返却し、「しなの18号」に乗って、帰途についた。
一度訪ねてみたかった山深き里にある戸隠五社も、宿坊も、戸隠蕎麦も、姫川の上流の小谷温泉も、とても良かった。
大糸線沿線が、今も変わらず、静かな美しい信州の風情を見せてくれているのも、なつかしかった。
わずか2泊3日の小旅行だったが、夏の暑さを何とか乗りきって、思い立って出かけた旅は心に残るいい旅だった。
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