(城塞の矢狭間から街の写真を撮る女性)
20年ほども前、ヨーロッパ旅行をしていて気づいた。欧米人はカメラを持っていない。カメラを持ち歩き、行く先々で写真を撮っているのは日本人だけだ。
ところが2010年頃、様相が一変した。欧米人の旅行者の多くが、若い人からマダムたちまで、コンパクトカメラを持ち歩き写真を写すようになった。社会の変化というものは、突如、爆発的に起こるもののようだ。
コンパクトカメラはすぐに廃れた。続いて、カメラ機能の付いた携帯電話、スマホやアイパッドに変わっていった。一眼レフを持ち歩く人もいる。
私が一眼レフを持っているせいか、欧米人の若い旅行者から「写してください」とスマホやアイパッドを差し出されることがある。「向こうの景色をバックにして」。
2人はまるでモデルのように上手にポーズをとる。日本人は自分を被写体にするのが苦手だ。
ところが、私は「メカ」が苦手で、スマホやアイパットの撮影にも慣れていない。
「そこに立つと逆光で、顔は暗くつぶれてしまいます」 ── でも、それを言葉でどう表現したらよいのか。ヨーロッパの透明感のある空気は物の陰影を際立たせる。私は渡されたスマホの露出調整の仕方がわからない。
まあ、露出はあとで、本人がパソコンで調整することもできる。とにかくパチリと写して、お返しする。
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<カルカソンヌの町の起源>
(以下の記述は、紅山雪夫氏の『フランスものしり紀行』及び『ヨーロッパものしり紀行─城と中世都市編』(新潮文庫)を参考にした)。
今日のホテルは「城塞都市カルカソンヌ」の東側で、ナルボンヌ門まで歩いて5~6分という所にある。
ホテルに荷物を置いて、早速、添乗員の引率のもと、見学に出た。
現在のカルカソンヌ市は、町の西に鉄道駅があり、その近くには世界遺産のミディ運河の船着き場もある。もっとも、船着き場は今では観光船用だが。
(ミディ運河)
鉄道駅や運河の船着き場があったということは、この地が古くから今に到るまで、地中海と大西洋を結ぶ交通の要衝の地だったということだ。
一方、町の東側にはオード川が流れ、川の向こうは丘陵になっている。
その丘陵の上、オード川を見下ろす高台に、カルカソンヌの最初の町は築かれた。周りをぐるっと城壁に囲まれた城塞都市である。
城壁の中の市街は、ラ・シテ(La Cite)と呼ばれた。パリの発祥の地であるシテ島のシテと同じで、英語ならCity。
遥か昔、この丘の上には、ケルト人(ガリア人)の砦があったらしい。
BC2世紀にローマ人が侵出してきて、堅固な城壁に囲まれた町を建設した。これが、カルカソンヌの起源である。今は世界遺産になっている。
ローマは道なき道をやみくもに前進して、ただ野蛮に諸族を征服していったわけではない。ローマ軍は兵士であるとともに、土木・建築の専門家であり、技術者・職人集団だった。そして、戦略重視・兵站優先で、橋を架け、道を拡張・舗装しながら、軍を進めていった。
平定した地域には、砦を築き、町を建設した。つまりは、文明化だ。
(このあたりのことは、塩野七海『ローマ人の物語』に詳しい。)
町(或いは砦)の建設にも、決められた定型があった。形は長方形で、必ず城壁で囲み、その周囲を堀で囲った。
城門は東西南北に設け、4つの門は東西と南北を走る街道に通じる。その交差する所が町の中心広場で、地域の交易の場にもなった。町と町、砦と砦は街道網でつながれ、そして、全ての道はローマに通じる。
ただし、町の形は長方形と言っても、土地の地形に合わせることは必要だ。
カルカソンヌの丘の上の町も長方形ではない。長方形を基本にしたサツマイモのような、紅山雪夫氏の表現では、人間の耳のような形をしている。
北、西、南側はオード川や谷になっているから、堀はない。広く、深い堀が掘られているのは、丘陵が延長している東側だけである。
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<町の東側を守るナルボンヌ門>
三方を谷に囲まれた丘陵の上の城塞都市カルカソンヌは、丘陵が東に延びているから、東側から攻められやすい。
(ナルボンヌ門)
そのため、東側の城門のナルボンヌ門の前には広く深い堀があった (今はかなり埋もれてしまった)。また、橋を渡った外城門の奥には、まるで一個の独立した城塞のような内城門があった (ピンクの屋根の塔あたり)。
大阪の上町台地の北端に築かれた豊臣秀吉の大坂城は、北、東、西は海や川で囲まれているが、南は上町台地の続きで、こちらからは攻められやすい。それで、大坂冬の陣のとき、真田幸村は南側の城門の外に真田丸を築いて防衛に当たった。発想は同じ。
この城門を出ると、地中海岸の古都ナルボンヌへ向かうローマの街道があった。それで、ナルボンヌ門と名付けられている。
堀の前、右わきの柱の像は、マリア像だ。どこか素朴でユーモラスなマリア像の下を通って、堀に架けられた橋を渡った。
ただし、13世紀になると、ローマ時代の4つの城門のうちの北門と南門はふさがれた。町の北と南は谷だから交通量が少ない。それに、城塞の防衛力を強化するには、城門は少ない方が良い。ヨーロッパ中世には、ローマ帝国時代のような平和な世界は現れなかった。
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<圧倒的な二重の城壁>
(内城壁と外城壁の間のリスを歩く)
圧倒的な景観である。見学する人間は、豆粒のように小さい。
ラ・シテは二重の城壁に囲まれていた。ここは、二重の城壁の間の通路である。
内城壁には29の塔、外城壁には17の塔が、城壁の防御力を強化した。
塔にはピンクの尖がり屋根と青の尖がり屋根があって、その形と色がわずかにあたりの殺風景な景色に彩りを添えている。
聳え建つ内城壁の高さには圧倒されるが、なんとローマ時代のものだ。(13世紀に補修されたとはいえ)。
一方、13世紀には外城壁も築かれ、二重の城壁に囲まれた城塞になった。内城壁に比べて低く見えるが、外城壁の下は谷になっているから、城の外から眺めると、やはり高い。
外城壁も、内城壁も、丘陵の斜面に造られたが、2つの城壁の間の斜面は平坦に整備して、通路(リス)を通している。リスによって守備兵は、敵が攻撃を集中した地点へ敏速に移動できた。
リスを歩いて1周すれば、約1.2キロ。
ドイツのロマンティック街道のローテンブルグも城壁の中の町だったが、まるで童話の世界のようだった。
カルカソンヌはまさに要塞都市。辺境の地の荒涼とした風が吹き抜けるような感じがして、印象深かった。
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<ラ・シテと大聖堂>
ラ・シテは全域が「歴史的街並み保存地域」になっている。
(ラ・シテの広場)
中世のままの通りは狭く、石畳が敷かれている。そこに古びた家々が並び、表通りにはレストラン、カフェ、土産物店などが開いていた。
帝国自由都市として、商工業者の町として発展していったローテンブルグのようなメルヘンチックな町ではない。町の規模も小さい。
サン・ナゼール大聖堂があり、中へ入ってみた。
身廊と側廊は11世紀のロマネスク様式で、袖廊と内陣は13~14世紀のゴシック様式とか。ステンドグラスが美しい。
(サン・ナゼール大聖堂の内陣とステンドグラス)
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<カルカソンヌ伯の城>
ラ・シテの中には、大聖堂のほかに城もある。城壁の中心は、当然、城である。この地の領主であったカルカソンヌ伯の城だったから「伯城」と呼ばれた。
13世紀に、カルカソンヌの町も城もフランス王のものになったが、「伯城」という呼び方は変わらなかったそうだ。
19世紀のドイツのノイシュヴァンシュタイン城のようなメルヘンチックな城ではない。実戦的で質朴な中世の城塞だ。
面白いと思ったのは、城門の前に半円形の外郭(馬出し)があったこと。
日本の戦国時代、城郭に馬出しをつくったのは真田家だ。城門を隠し、敵が城門を破ろうとしたときに邪魔になる。また、城内から騎馬隊が反撃に打って出る時にも、目隠しになる。
伯城から内城壁の上を歩くことができた。オード川の向こうに広がる街並みが眺望できた。
(カルカソンヌの街並)
この丘の上の城塞都市ラ・シテにも人家が増えて、13世紀には川向こうの平地に第2の市街が造られ、商業や手工業の中心はそちらへ移った。現在、市役所も、鉄道駅も、運河の船着場も、そちらにある。
13世紀には、新たに外城壁が築かれ、北と南の城門はふさがれ、防備が強化された。
13世紀に何があったのか
11世紀ごろから、南仏に、教皇や司教の贅沢で権威主義的なあり方に反発するカタリ派と呼ばれる教えが民衆の中に広まった。教皇はカタリ派の広がりを恐れて異端とし、12世紀の初め、フランス王の支援の下に十字軍を起こした。イスラム教に対してエルサレム奪還のために起こされた十字軍ではなく、南仏のキリスト教徒に向けられた十字軍である。歴史上、アルビジョア十字軍と呼ばれる。
この地域の領主たちは、トゥールーズをはじめ、カルカソンヌの領主たちも、教皇の十字軍に反対してカタリ派の側で戦った。戦いは1209年に始まり1229年に終わる。この過程で、南仏諸侯は降伏し、或いは滅ぼされ、カルカソンヌもフランス王の支配地になった。そのあとも、カタリ派の民衆への弾圧は続き、14世紀にかけて、100万人の信者が殺されたという。
外城壁の建設が始まったのは、アルビジョア十字軍の終わった後の1247年。完成したのは1285年である。
南仏を制圧したフランス王は、アラゴン王国に備えたのだ。
アラゴン王国は、のちにカスティーリア王国と合体してスペイン王国を形成するが、13世紀にその領土はピレネー山脈を越えて、現在のフランス領に入り込んでいた。
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城門はナルボンヌ門しかないと、添乗員は言う。
そんなことはないと、自由時間に歩いて、ナルボンヌ門の反対側にオード門を見つけた。
(オード門)
城門を少し出た所から見ると、斜面の上に外城壁が築かれていることがわかる。外城壁の後ろに内城壁がある。その間が通路(リス)になっていて、リスを歩いていると分岐があり、オード門の方へ進むことができた。
オード門はオード川へ下る坂道に通じている城門で、橋を渡れば13世紀の市街地になる。
写真の左手の城のような建物が「伯城」。
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<ライトアップされたカルカソンヌ>
夜、ホテルを出て、ライトアップされたナルボンヌ門を撮影している人を撮影した。景色の中に人が点景として存在すると、写真が生きる。
こうして見ると、ナルボンヌ門は、一個の城のように大きくて堅固だ。
(ナルボンヌ門)
さらにラ・シテの中を歩いて、オード門の外に出て、伯城を撮影した。
(オード門)
いい写真が撮れて、満足した。
旅行社のツアーに入ると、ふつう、ホテルは旧市街から遠く離れた何もない場所になる。夜、外に出ても、コンビニやガソリンスタンドがあるだけだ。
しかし、ヨーロッパの旧市街や景勝地は、夜景も素晴らしい。夜景も旅の一部である。
今日は、世界遺産から歩いて数分のホテルで、ラッキーだった。
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