( 運河と自転車 )
アムステルダムと言えば、運河に沿って並ぶ商家、自転車、飾り窓の女、アンネ・フランクの家 ……。
< アムステルダムは自転車の街だ >
自転車優先社会である。しかも、その自転車の乗りっぷりも車体も、皆さん、かっこいい。
昨日訪ねた国立ミュージアム。ミュージアムとして、そのためだけに建てられた世界で最初の建築物だが、建設に当たって市民の意見で当初の設計を変更している。建物の地上階にトンネルを造り、自転車道を通したのだ。実際、堂々としたレンガ色の建物の下を自転車が盛んに通り抜けてくる。
( 国立ミュージアム )
「自転車道を歩かないでください。そこは自転車優先です」「自転車道を渡るときは、左右をよく見て」と、添乗員から、再三、注意を受けた。自動車に対しては大手を振って堂々と歩き、自転車に対しては遠慮気味に。
NHKの報道番組のなかで、日本人のキャスターがアムステルダム市民に聞いていた。皆さん、なぜ自転車に乗るのですか?
「うーん … 自由が得られるからです」
「地下鉄やトラムよりずっといいです」「健康にもいいしね。心にも体にも」
「ぞろぞろ歩いているのは観光客だけですよ」
── なるほど、言われてみれば観光客だけだ。ぞろぞろと。急に自分たちがダサく見えた。
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< 13世紀の漁村が世界一の大商業都市に >
扇の要を北に置いて扇を広げる。扇の要に当たるのがアムステルダム中央駅で、扇の要から南へ扇状に広がるのがアムステルダムの街である。扇の広がりには、まるで中央駅を守る濠のように、幾筋もの運河が造られている。運河と運河をつなぐ運河もある。
町の最北にある中央駅の、その北側には、幅200mの北海運河がある。北海運河は、20キロ西で、北海にそそぐ。
町の平均海抜は2mだそうだ。
13世紀には小さな漁村だったが、80年独立戦争のとき、繁栄を誇っていたアントワープがスペインに降伏して、アントワープの新教徒の商人・豪商が自由を求めて続々とアムステルダムに移住して来た。さらに、レコンキスタに勝利したスペインからはユダヤ人たちが、フランスからはカルヴィン派のユグノーたちも、迫害を逃れてこの町へ移住してきた。だから、この町は自由なのだ。
移住してきた人々によって、17世紀の黄金期がつくられた。
( 中央駅の前の船乗り場 )
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< アムステルダムの中心のダム広場に立つ >
中央駅から、トラムの走る大通りを避け、一本中に入った道を歩いて10分。町の中心はダム広場である。
広場に面して王宮がある。新教会やデパートもある。だが、圧倒されるような大聖堂や高い塔や華麗な市庁舎があるわけではない。
観光客でいっぱいで、いたって庶民的な雰囲気だ。アジアからの観光客も多く、人間を見ていたら、今、自分がどこの国にいるのかわからなくなる。
王宮は、もともと市庁舎として建てられた建物だ。一般公開されている。
現在、王家の方々はハーグにお住まいだ。
観光客でいっぱいの、広場に面した元市庁舎の建物では、王様も暮らしにくいだろう。静かで、落ち着いて、気品のある都市ハーグに、王家も、国会議事堂も、首相官邸も、各国の大使館も行っている。ただ、憲法上、首都はアムステルダムに定められているのだ。多分、独立したときの経緯があるのだろう。
( ダム広場/右手に王宮 )
( ダム広場/新教会 )
( ダム広場/ショッピングセンター )
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< 「飾り窓の女」の街 >
ダム広場から東へ歩く。
北から南へ、小ぶりの3本の運河が流れ、かわいい橋も架けられて、運河沿いの小道には小さなレストランや土産物店が並び、観光客であふれている。いたって庶民的な界隈である。
( 街の中の運河 )
( 運河クルーズ )
( こんな人もいました )
アムステルダムに来た以上、ぜひ自分の目で見たいと思っていた一角がある。
見当をつけてその方角へ歩く。
同じように運河沿いの小道の延長なのだが、ポルノショップなどが現れ、どこか猥雑な気配になってきた。「飾り窓」の一角だ。
オランダは自由の国だ。売春も合法化されている。ただし、暴力団やヒモなどに強制されないこと。あくまで個人の自由な意志によることが尊重される。実際、その多くは個人営業らしい。ただ、貧しいアジア系や中南米系の女性も進出してきていると、『歩き方』に書いてある。
写真を撮ってはいけないと、添乗員からも注意を受けていた。怖いお兄さんに白い粉を押し売りされても困るので、立ち止まったりしない。
頭上のガラス窓に、丸裸を外に向かってさらしている女性がちらっと見えた。蓼食う虫も好き好きだから、好みだという男もいるのだろう。
とにかく、そこがどういう所か、自分の目で見ることができた。先進国の中の先進国、EUの中心国の首都の真ん中の一風景である。
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< アムステルダムは商人のつくった街 >
ダム広場からさらに10分ほど南へ歩くと、ムント広場に出る。この辺りは、運河も広くなり、建物も大きく立派になる。
( ムント広場付近 )
どうして建物と建物とをくっつけ、長屋のような建て方をするのだろう?
それはわからないが、物資の流通に便利な運河沿いの建物は、間口の広さに応じて税金が課せられたらしい。だから、間口を狭く、奥行きが長く造られている。京都の町屋みたいだ。
この10年近く、ヨーロッパにも中国人の観光客が押し寄せるようになり、ヨーロッパのどこの町を歩いていても、ここは中国かと思うほどになった。なにしろ中国の全人口は西ヨーロッパの全人口を上回る。
だが、それでも、ウィーンのたたずまいは貴族的であり、セーヌ川の流れるパリには気品と哀愁がある。王宮や大聖堂を中心としてつくられた都市は、今もそういう気品と雰囲気がある。
日本の城下町に、城跡が残るだけでも、今も城下町の雰囲気が残り、商人の町である大阪や、門前町の長野とは趣を異にするのと同じである。
アムステルダムは商人の町、旦那衆の町である。自由で、活気にあふれている。ただし、権威を象徴する建物も、貴族的な香りもない。オランダでそれを求めるならハーグである。
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< オランダの焼酎を買う >
翌日、アムステルダム・スキポール空港から、帰国の飛行機に乗った。
空港に行く途中、バスの中で、添乗員のGさんが、空港では時間があるので免税店で最後のお土産を買ってください、といろいろ紹介してくれた。
お土産はいい。だが、その紹介のなかに、「ジェネヴァ」があった。オランダの焼酎のようなものだという。自分用に、それを買おう。
スキポール空港の免税店フロアーは実に広い。カジノまである。この点、パリの空港も、フランクフルトの空港も遥かに及ばない。関空は、もっとアムステルダム商人の根性を見習いなさい、と言いたくなる。
その中からお酒を売る店を探す。酒店に入っても、横文字の世界だから、大変だ。それに高級なワインとかスコッチばかりで、免税店に「焼酎」はなかなか見つからない。3軒まわってやっと見つけた。安い酒だ。
帰宅して、オンザロックで飲んだ。食前酒にいい。なかなかいける。
「Jenever」。1000mlのボトル。35度。無色・透明。私には、ウイスキーなどより飲みやすい。毎日、少しずつ飲んで、ネットで探してもう1本買った。
オランダの黄金期の17世紀に、ライデン大学の医学部の教授がつくったそうだ。海を渡って英国に行き、「ジン」になった。英国の貧しい労働者の酒として広がる。
癖がないため、やがてカクテルに使われるようになる。
例えば、グレープフルーツで割り、少量の塩をグラスの周りに付けた「ソルティー・ドッグ」。アメリカに渡って、ジンに代わってウオッカが使われだした。昔、読んだハードボイルドの主人公がいつも飲んでいた。
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< オランダという国 >
( オランダの上空から )
「日本では徳川家康が勢力を得つつあった1600年、オランダは東洋に向かって5隻の船を派遣した。決死の大航海というべき壮挙で、無事、豊後(大分県)の臼杵湾に到着できたのは、デ・リーフデ号1隻だけだった。当時、オランダの人口は150万ほどにすぎなかったことを思うと、市民本位の国家ながら、人々に英雄的気概があった時代といわねばならない」(司馬遼太郎『オランダ紀行』)。
オランダに「1人なら早く行ける。協力すれば、遠くへ行ける」ということわざがあるそうだ。
「協力すれば」… 世界史のなかで初めて「会社」組織をつくった国である。それも、あの「東インド会社」である。
海を干拓して国土を造り、小さな国土で農業もやっている。企業精神で十分な収益を上げているから、たいした国である。
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< 旅の終わりに >
年齢とともに気力も体力も衰える。
ヨーロッパの旅も、もう終わりにしてもいいかなという思いがよぎる。
だが、自分の目で見てみたいと思う地域が、なくなったというわけではない。
例えば、かつてビザンチン帝国の首都であったイスタンブール。トルコに行けば、地中海側にはローマ文明の跡も残っている。それに、イスラム教の大寺院のドームを仰ぎ、キリスト教とは異なる文明の姿を一度、見ておきたい。
それから、ギリシャ・ローマの文明の発祥の地であるエーゲ海の島々。
キリスト教の発祥の地、エルサレム。
大西洋に臨むユーラシア大陸の最西端の岬に立ったが、西洋文明の本質にかかわる場所には、まだまだ、立ってはいない。
今回の旅は、先進国中の先進国であり、ツアーでもあったから、心ときめくわくわく感も、緊張感もなかった。次は、もう少しわくわくする旅をしたい。(了)
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読者の皆様、1年間、お付き合いいただきましてありがとうございました。
どうか、除夜の鐘を聞きながら、良い年をお迎えください。
そして、来年もよろしくお願いいたします。
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