幸か不幸か独居老人一歩手前でストップしたマンマ。 

加齢化を受け入れられずに格闘中。 週2~3日クラス開講で、刺激をもらい感謝。  

我が家・・・やっぱりズレテいるかもね。

2016-12-31 14:10:10 | 日記

ビデオテープが無くなるそうな! 家族のひとコマ・ひとコマを撮ったビデオをDVDに焼いて保存するケースが多いとか。 私の場合、ビデオはもっぱらTV番組を録画したが、それを見るということがホボなくTVを買い替えた時、録画装置ナシを選んだ。 見られなかった番組は御縁ナシ・・・と解釈した次第。 は、ともかく家族の歴史が詰まっているDVDは子どもへの贈り物だったり、結婚式のイベントになったり・・・。 そう言えば、我が家には写真はあるが「動画」はないなぁ・・・。 そういう機器がなかったモン。 運動会の時、お父さんが必死に我が子を写している様を見ないようなフリをしていたっけ。 昔を想い出してチョット落ち込んだ。

超ズボラなお節料理は購入済みだけど、今晩のモノがない! 「紅白」を見ながら年越しそば・・・とは全く無縁の我が家。 次男は夜10時出勤ゆえに豪華(!)な夕食はデキン。 でも、何かソレっぽい夕食にしたいなぁ・・。 パエリアにしよう! セットを買ってくればOK。

家族連れの買い物客で賑わうスーパーへ。 人波をかわして鮮魚売り場へ。 アララ・・・ソレ関係、ナ~ン二もナイ。 カニ・お刺身・蒲鉾・エトセトラ・・・ばかり。 冷凍売り場・・・もナシ。 歩いて別のスーパーへ。 ムール貝見っけ! 最初のスーパーへ戻ってエビとマッシュルーム・ホタテを、祝箸を買って帰宅。 なんとかパエリャが出来そう。 

園芸売り場でアララ・・・アーティチョークとルバーブの苗、見っけ! ラベルを見たら「耐寒性」とあり、モチロン値下げ品。 迷うことなく購入。 

大晦日とは全く無関係な我が家の買い物でした!

 


29日? 30日? 

2016-12-31 10:16:26 | 日記

父が亡くなって31年たつ!? 早いモンだ。

父はスキー仲間と羽田から30時間を費やしてツェルマットへ到着。 ワインを飲みながら美味しいランチの後、タバコを一服。 山スキーで仲間とともに降りて来て、何度目かのストップ地点でパタン・・。 本人は気付いたら雲の上に居た?? スイス時間では12月29日の午後のこと。 日本時間では30日。 父の命日は12月29日となっているが、私はイツモ迷う。

「年末年始はスキー場」と恒例になっていた我が家だった。 当時、洒落たホテルなんぞなく、民宿ばかり。 階段のスミの綿埃、真っ赤な蒲鉾、そして私自身はスキーも好きじゃなかった。 寒いんだもん。 スキーに限らず運動嫌い。 が、父はスポーツ大好き。 ある転勤の際、送別ソフトボール大会で足に肉離れを発症。 当時、赴任の際って駅でケッコウ派手な見送りやら歓迎があったのだが、彼は駅では靴を履いて応対していたが列車の中では下駄に履き替えていたっけ。 

ある年、「ワシは、今度の冬はスイスにいくが、お前たちは宝台樹へ行けばよい。」 彼にとっては二度目のスイス。初の外国旅行はある年の黄金週間。スキーをしにニュージーランドへ。 その後、カナダやスイスと全てスキーのための外国旅行。 唯一のスキー以外の旅、且つ奥さん同伴の旅は、会議とかでペルーへ。 この時の旅については母からイロイロ聞いているが、別の機会に・・。 母が「外国ではお父さん、手を繋いでくれたのよ。」と嬉しそうに言ったのを覚えている。

31年前の今頃、母・弟・息子二人と私は父の言いつけ(?)どおりに群馬水上の宝台樹スキー場でスキーを楽しんでいた。男どもは何度か父と年末スキーをしていたが、私や母にとっては久しぶりのスキー。 思ったよりも楽しかったなぁ・・・が私の感想。 存分に楽しんで、当時、父が住んでいた前橋にのファミレスで夕食を。 「面白かったわね。明日も行こうか!」 美味しい夕食に満足してマンションに戻り、みんなでベタベタとお布団を敷き始めた。「明日も行くんだから早く寝ましょ!」 

と、電話が。 母が取った。 伯母からだったが、いつもの挨拶をしていた母の口調がガラッと変わった。 深刻な表情? 受話器を置いて「お父さん、死んだんだって。」

敷いたばかりの布団を押し入れに仕舞い、私たちは関越道を大宮に向かった。 1時間余りの帰路、運転する弟は能弁だったが、私は黙したまま。 ナニか話したくとも重苦しくて口が開かなかった。 私たちが大宮の実家に着くとホボ同時にタクシーが泊まり伯父二人と伯母が降りてきた。 北海道の弟がイチバン先に着いたようで隣家で我々を待っていた。

スイスでスキー中に父は心臓発作で急死。 ゲレンデで心臓マッサージを受けたそうだが効なく、スキーウェアのままヘヴンへ行ったらしい。 その連絡が外務省を通して留守宅に連絡があったようだが、留守宅は全員、スキー場でいて留守。 で、大宮の地元の交番を通して身内やら、近隣の家に我々の所在を問い合わせていたらしい。 漸く、母の長兄と連絡が付き我々の元に知らせが届いた次第。 我が近所の家にも、交番から問い合わせがあったと、かなり時を経て知った。 緻密な連絡網の存在を知った次第。