法会の観衆
毎年、首都北京の有名なラマ教寺院である雍和宮は伝統的な「祈願法会」が行われ、その間、1月の最終日と2月1日には、「打鬼」(鬼やらい)が行われる。昔、毎年鬼やらいの時期になると、雍和宮附近の通りは封鎖され、雍和宮内ではたくさんの人が動き回り、大通りや横丁には、物売りが雲集した。清の人、敦礼臣は『燕京歳時記』の中で次のように描写した。「毎年鬼やらいになると、……都の人々で見に行く者が甚だ多く、町の多くの家が留守になるような有様だった。」その賑やかさの一端が見えるかのようであった。
「鬼やらい」は昔の北京の人の俗称で、民間ではまた「跳神」や「跳鬼」という呼び方もあった。北京に住むモンゴル族の人々は、鬼やらいを「跳布札」tiào bù zhá と呼んだ。「布札」はモンゴル語で「舞蹈」(ダンス)の音訳で、前に漢字の「跳」を加えると、よりイメージを形容しているだけでなく、中国とモンゴルの間の文化的交流を体現している。チベット語でこうした宗教内容を表す寺院の祭神舞を「羌姆」と言い、これは一般の民間舞踊のことを「卓」と言うのとは異なっている。このため、こうした専ら宗教を内包することを目的とする蔵伝仏教(チベット仏教)の祭神儀式の舞踊を「金剛駆魔神舞」と訳すのが、より適切である。
こうした神舞の起源については、多くの伝説がある。その一、吐蕃(古代チベットの名称)に石の家があり、中に化け物が住み、昼夜人間を襲い、食物を掠奪していた。ラマ僧が諸神に変装し、この家に入って妖魔を痛打し、これを追い払ったので、これより吐蕃は太平になった。このため、ラマたちは必ず「鬼やらい」をしなければならなくなった。その二、古代チベットである王様が苯教(ボン教。チベットに仏教が伝来する以前の土着の宗教)を助け仏教を滅ぼし、仏教はチベットで伝播することができなかった。ひとりの勇士が「跳神」(鬼やらい)で王が観覧するよう誘い、この機に乗じてチベット王に接近して王を殺し、これより仏教がチベットで再び盛んになった。この勇士を記念し、毎年寺院では「跳神」の儀式を行うようになった。その三、チベット第一の寺、桑耶寺(サムイェー寺)が建設の最中、何度も当地の鬼神の破壊に遭った。このため、インド僧の蓮花生大師が神通力や法力を発揮し、「鎮鬼圧神之歌」を吟唱し、且つ「虚空の中で金剛舞」を舞った。これより鬼神は再び敢えて騒動を起こしたり破壊を行うことがなくなり、また寺の建設のため力を出した。この「金剛舞」とはすなわち神舞である。この他、まだたくさんの「牽強附会」(無理やりこじつけた)説があった。
文字で神舞の起源を考察できるものとして、チベット文の古籍『蓮花生大師本生伝』があった。蓮花生は蔵伝仏教(チベット仏教)寧瑪派の始祖で、8世紀北インドの烏仗那(ウディアナ)国(今のパキスタン域内)の人であった。この地は仏教の密宗舞踊で有名であった。唐玄宗の天宝6年(747年)、蓮花生は吐蕃賛普(すなわちチベット王)赤松徳賛の招きに応じ、チベットに入り仏教を伝えた。賛普はこのためラサの東南方に桑耶寺(サムイェー寺)を建て、建設中に、蓮花生は金剛舞を作った。舞踊は本国で流行していた密教儀式化した演技を基に、インドの法器や道具を用いた。今日、わたしたちは神舞の中で相変わらずたくさんのインドの血統を持った役柄を見ることができる。たとえば、「瑪哈嘎拉」(大黒天)、「倉巴」(大梵天)、「雅瑪達嘎」(大威徳金剛)、班達拉娒(吉祥天母)などである。
神舞のもうひとつの起源は、蔵伝仏教(チベット仏教)前期の宗教芸術からであった。蓮花生は、チベットでの伝教が完全にインド密宗をそのまま取り入れたなら、必ずチベットの原始宗教の苯教(ボン教)の反対や抵抗に遭うことがよく分かっていた。このため、蓮花生などインドの高僧大徳たちは、法術を振るって妖怪を鎮め悪魔を降参させると同時に、また大量のチベットの土着の神霊や祭祀儀礼を受け入れた。同様に、神舞の創作過程で多くのチベットの土着の踊りや祭祀舞を吸収した。
仏教がチベットに伝わって後、当地の原始宗教である苯教(ボン教)と長期に亘り、互いに争い互いに受け入れる過程を経て、独特なチベット語系仏教を形成した。発展に従い、蔵伝仏教(チベット仏教)は次第に寧瑪(紅教)、噶挙(白教)、薩迦(花教)、格魯(黄教)などいくつかの大教派に分かれ、神舞もそれに応じて各種の流派を形成した。各流派の神舞の主題や内包するものは基本的には同じで、皆蔵伝仏教(チベット仏教)密宗の駆邪儀式のためのもので、ただ踊りのスタイル、音楽、役柄、表現形式に違いがある。
寧瑪派(紅教)の神舞は、蓮花生の8つの化身を主役とし、多くの護法神を配役とし、舞踊により本派の教義を述べている。
噶挙派(白教)の神舞は独特で、旧密乗の内容があるだけでなく新密乗の内容もあった。しかも多くの他の教派の神舞の人物や踊り方も吸収した。
薩迦派(花教)の神舞は当初は別に公開されていなかった。薩迦派の教権は昆氏の家族から継承されたので、この派の神舞もこのため家廟の祭礼の色彩を帯ていた。密宗の教法を発展させるため、ようやく次第に多くの人々の面前で演技するようになった。
格魯派(黄教)の神舞の形成が最も遅く、内容と踊り方も最も豊富であった。この派の神舞が伝播した地域は頗る広く、影響も最も大きかった。格魯派の神舞は内容が厳かで、ダンスのポーズが豊富で、動作は力強く、舞楽はリズミカルで、テンポは明快であった。
北京の各ラマ寺院で神舞を踊るのは明代に始まり、清代に盛んになった。明代には劉若愚が『酌中志』の中で、万暦帝の時代の宮内で神舞を踊る情景を記載した。清代、北京の32のラマ廟では、雍和宮の神舞が最も名声が高かった。
雍和宮の神舞は全部で13幕の内容から成っている。
第1幕、白鬼の踊り。4名のラマ僧が白色の繻子のズボンと短い上着、足に刺繍を施した白い靴を履き、頭に白い髑髏のマスクを被り、白い鬼に扮する。手に長さ50センチの木の棍棒か革の鞭を握り、白粉(おしろい。俗に白土子と呼ぶ)を詰めた袋を斜めに背負い、手足を振って踊りながら、最初に会場に出る。もし観衆が多くて、演技をする場所を侵犯しているなら、4人の白鬼は袋から白粉を取り出し、土地を占領している観衆に向けそれを撒き、これを「灑煞気」(不吉な気をばら撒く)と言う。昔の北京の人々には迷信的な言い方があり、正月に誰かに白粉が付くと、その一年は運が悪いと言われた。この不吉な気を避けるため、観衆は急いで後退しなければならず、演技場所は自然と空けられた。この行動を「浄壇」(壇を清める)と呼ぶ。
白鬼の踊り
白い繻子(絹織物)の上着とズボンを身に着け、足には白い刺繍で模様を付けた靴を履き、頭には白い髑髏のマスクを被ったラマが、手に短い棍棒や皮の鞭を持ち、おしろいの入った袋を斜(はす)に背負い、飛び跳ねながら、おしろいを撒き、これを邪気を撒くと言ったり、壇を清めると言ったりした。
「浄壇」後、楽隊が登場する。ラマ僧たちはラッパを吹き、法鼓を叩き、九音の銅鑼を揺り動かし、チャルメラを吹き、シンバルを叩きながら、会場の四方を取り囲んで座る。抑揚のある楽曲を奏で始めると、4名の白鬼はリズミカルに踊り始める。
楽器を奏でるラマ
第2幕、黒鬼の踊り。4名が黒い緞子のズボンと短い上着、足に黒い緞子の刺繍をした靴を履き、頭に黒い髑髏のマスクを被り、手に木の棍棒を持ったラマ僧が黒鬼に扮し、会場内を乱舞し、白鬼はそれに従い舞台を降りる。黒鬼がしばらく踊ると、白鬼がまた入場し、8名の黒白の鬼が一緒に踊る。
第3幕、螺神(巻貝の神)の踊り。4名のラマ僧が五色の刺繍を施した緞子の長衣を着て、足に青い綿の薄底の布靴を履き、濃緑と赤色の巻貝の殻のマスクを被る。マスクの隈取りは、ぶざまに笑いさざめく表情を呈し、走って登場してくる。彼らは水中の巻貝、エビ、蟹、魚などの水生動物を代表し、手で木の棍棒を持ち上げ、ひらひらと踊り始める。この時、黒白の鬼は退場する。数分後に、黒白の鬼が再び登場し、螺神と共に踊る。
螺神の踊り
五色の刺繍模様の繻子の長衣を身に着け、足に青いビロードの薄底の靴を履き、頭に濃い緑や赤色の巻貝のマスクを被り、手に棍棒を持った螺神が舞台の黒と白の鬼と一緒に踊る。
第4幕、蝶仙(蝶の仙人)の踊り。4名もしくは8名のラマ僧が蝶仙に扮する。彼らは上に色模様の緞子を見に着け、身体にぴったりの短い上着と赤い前掛けを身に着け、下に色模様のズボンと色模様の靴を履き、手には色模様の手袋を着ける。マスクの形は丸い目に大きな口、笑いさざめき、ぶざまな表情をしている。両側の耳はそれぞれ一枚の色模様の絹布が伸び、蝶の羽を表している。彼らは両手を上下にぱたぱたさせ、蝶々が飛ぶように「飛んで」舞台に入って来る。黒白の鬼と螺神は舞台を降りる。蝶仙たちは時に丸く取り囲み、時に一列になり、隊形を変え、感情豊かに楽しげに踊る。踊りが最高潮に達すると、幕下の黒鬼、白鬼、 螺神が共同で舞台に上がり、 蝶仙と群舞を舞う。
以上の演技は、もののけ、水中の魚類、陸地の昆虫を表し、神仏がやがて世間のたたりを排除し、人類が平安な日々を送ることができるだろうと聞き知り、狂わんばかりに喜び、歌い踊って喜ぶ心情を表している。
第5幕、金剛の踊り。四大金剛は身に五色の錦の緞子の上着を着、肩に五色の刺繍の花の肩掛けを着け、足に模様の付いた緞子の靴を履いている。付けているマスクは皆異なり、それぞれ象の頭、ライオンの頭、犼(こう。野獣の一種。一般的には狗(いぬ)あるいは獅(しし)のような姿の霊獣として描かれる)の頭、夜叉の頭であった。彼らは天王殿から出て来る。その意味は、お釈迦様が四大金剛を派遣し、もののけを駆逐し、魔王に戦いを挑むということである。
第6幕、星神の踊り。演技者が4人の時は、四星神と言う。10人の時は、十天干と言う。12人の時は、十二地支と言う。最も多いのは28人の時で、二十八宿と言う。一般に四星神を採用している時が最も多く、その中で2人が色模様の緞子を着て、足に厚底の青い緞子の朝靴(朝廷に参内する時に履く靴)を履いているのは文曲星(北斗七星の第4星。文運(科挙の合格祈願など)の神)である。別の2人が五色の糸で刺繍した緞子の甲冑を着て、足に厚底の色模様の緞子の戦闘靴を履いたのは武曲星(文曲星と相対する。富や財産、武運の神。北斗七星の末尾。)マスクは全て髑髏に金の冠。眉を吊り上げ目を怒らし、目じりが垂れて三角形の目をしている。彼らはお釈迦様に派遣され、四大金剛を助けて戦う。
星神(文曲星)
繻子の長衣を身に着け、足に青い繻子の靴を履き、頭に五佛冠(五智如来を象徴する宝冠で、五体の小さな化佛が載っている)に似た古い天竺(インド)式のヘルメットを被り、舞う姿は健康的で力強く、威風堂々として、その意味はお釈迦様の命を奉じて金剛を助けて戦うということである。写真は跳躍して身体を回転させている 星神である。
星神に扮するラマ
第7幕、天王の踊り。演技者4人は、頭に五佛の冠様の古い天竺式の兜の載ったマスクをし、身体には金の甲冑を着け、足に戦闘靴を履き、顔は雍和門殿内の四天王に似ている。彼らは威風凛凛(りんりん)として舞台に現れ、時にひとりで舞い、時に群舞を舞う。その意味は、お釈迦様の命を奉じて、四金剛、四星神が協力して戦いを行った。
第8幕、護法神の踊り。演者は8人、12人、16人となることが可能で、護法神とは大威徳金剛である。彼らは身体に五色の緞子の長衣を着て、下部に「海水江崖」紋の図案が刺繍され、腰部に八宝図案が刺繍され、足に薄底の靴を履く。被るマスクは各々異なり、獅子、象、虎、豹などで、牛の頭が率いて隊列を組み、踊りながら登場し、金剛、星神、天王とそれぞれ一緒に一度踊って後、護法神がひとり踊る。このように重複することが何度か行われてから、突然天王殿の中から一頭の鹿のマスクを被った人が飛び出してくる。この鹿は魔王の化身である。鹿が出現するや、直ちに多くの神がぐるりと取り囲み、この時場内外の白鬼、黒鬼、螺神、蝶仙などが一緒に登場して一緒に踊り、これは仏神、人鬼、昆虫、魚類が一致団結し、共同で魔王を討伐することを表現している。しばらく踊ると、鹿がまた天王殿に走って戻ってくる。このことは魔王討伐の戦闘がまだ勝利を得られていないことを表している。
第9幕、白救度の踊り。少なくとも13人が参与し演技する。白救度は観音菩薩の化身で、白度母とも言う。彼らは身体に白の緞子に五色の刺繍の模様のある長衣を着て、頭に「大竹枝」の形の、白の刺繍の花帽を被り、足に模様のついた繻子の靴を履いている。マスクを被らないので、必ず眉目秀麗なラマ僧を選んで演技する。先ずひとりの白度母が登場してひとりで踊り、しばらくすると鹿がまた出現する。ふと見ると白度母が何度か揺れ動き、その他の白度母がどっとなだれ込む。これは一人目の白度母に多くの化身があることを表し、鹿をぐるりと取り囲んだ。これ以前の場面の中の各種の配役もやって来て助太刀し、共同で激しく踊り、動作の中には殺陣の動作が混ぜられている。しばらくすると、鹿が再び天王殿に逃げ、魔王を包囲殲滅する激戦は依然終わらなかった。
白救度の踊り
白救度は観世音菩薩の化身で、名は白度母である。白の繻子に五彩の刺繍模様の長衣を身に着け、足に柄の付いた繻子の靴を履き、頭に大きな竹の枝の形の飾りに、白い刺繍を施した「花帽」を被った。白度母はお面を被らないので、容貌が端正で、眉目秀麗なラマがこの役に扮した。写真は白救度が身体を揺すぶって何人かの白救度に姿を変える場面である。
写真は白救度のソロの踊りで、右側に立つ鹿は魔王の化身である
第10幕、緑救度の踊り。緑救度は文殊菩薩の化身で、緑度母とも言う。演者の人数と服装の洋式は白度母と同じで、ただ服装の色が緑色である。内容も前の場面の白救度と同じである。鹿が逃げてしまって後、楽隊が再度チャルメラ、法鼓、ラッパの合奏をする。
第11幕、弥勒の踊り。俗に「捉鬼」(鬼を捕まえる)と称した。演者は7人、その中の1人は「大肚弥勒佛」(布袋)に扮し、6人は「小弥勒佛」に扮する。大弥勒の身体には黄色の緞子の模様の付いた僧衣を着て、足には青い緞子の靴を履き、頭には大笑いした弥勒のマスクを被る。6人の小弥勒の服装、マスクは大弥勒と同じだが、ただサイズが少し小さい。弥勒たちが舞台に上がってひとしきり踊ると、鹿が再び出現し、金剛、天王、度母、護法、螺神、蝶仙などが一緒に登場し、鹿をぐるりと取り囲む。最後に弥勒が縄で鹿を縛って捉える。これは魔王が捉えられたことを表し、鬼魂は既に生け捕りにされた。
第12幕、鬼を斬る。俗に「打鬼」(鬼やらい)と名付けた。続けて登場するのは、舞台の四方に囲んで座ったラマ僧と多くの演者が、主宰のラマ僧の引率の下でお経を唱え、二人のラマ僧が三角形の木の箱を持ち上げて天王殿から歩み出て、舞台の中央に進む。木の箱の中には一面の顔の俑(土人形)が置かれ、その頭、喉、胸、両腕、両膝、両足の9ヶ所を釘で箱の中に固定した。この顔の俑(土人形)は鹿(魔王)の魂が既に捕まえられ、釘付けにされたことを表した。この時、鼓の音楽が一斉に鳴らされ、諸神が一斉に踊り、護法が法器や月刀を振り上げて鬼俑の首を切り落とした。魔王は処刑された。
三角匣と月刀
写真は「跳布札」第12幕「斬鬼」の三角木匣(三角形の木の箱)と月刀(三日月形の刀)である。三角匣の中に魔王の霊魂(面俑(陶器の仏像))が置かれている。
第13幕、送祟(厄払いをする)。魔王が処刑され、仏心は快哉を叫んだ。ふたりのラマ僧が法輪殿内からコウリャンの茎を縛って作った三角形の「垛」(上に突き出た部分)台を持ち上げて出てくる。台の上に紫がかった濃紅色の色紙を切って作った短い穂を斜めに巻き付け、先端に紙を貼って作った赤い竿、黒い鳥の羽、女真族の金の矢柄の弓矢を突き刺し、これを矢を捕えた「巴苓」(モンゴル語のbaling。仏前のお供えのこと)と称した。これは魔王が斬殺されて後、霊魂が弥勒佛に捉えられてお釈迦様のところに送られ、お釈迦様は金の矢柄の弓矢で魔王の霊魂を「垛」内に釘付けにした。ふたりのラマ僧が僧たちがお経を唱え鼓楽の演奏をする中、「垛」を昭泰門から担ぎ出し、牌楼院内で火を点け燃やす。これにより魔王が徹底的に消滅させられ、これより天下が太平となることを表す。
厄払いをする
魔王が滅ぼされ、仏の慈悲の心が勝利した。ふたりのラマが法輪殿内から黒い鳥の羽、金の弓矢で飾った三角の棚を担ぎ出し、魔王が斬殺された後、魂が弥勒佛に捉えられ、お釈迦様が金の弓矢で魔王の魂を三角の棚の中に釘付けにした。ふたりのラマが、多くのラマがお経を唱え、太鼓の音の中で、三角の棚を昭泰門から担ぎ出し、焼却地まで運んで焼き払い、ここから天下泰平を表した。写真はふたりのラマが魔物を積み込んだ三角の棚を担ぎながら厄払いし、焼き払う準備をしている。
写真はラマが三角の棚を昭泰門から担ぎ出し、焼き払う準備をしているところである。
魔物を焼き払うのに使うコウリャンの茎の薪を積み上げたもの
翌日、太陽が昇る前に、ラマ僧全員が寺を廻る活動をする、すなわちラマ僧たちが隊列で儀仗し、ふたりのラマ僧が銅鑼を鳴らし道を開け、その他のラマ僧たちは手に幡幢、旌旗(いずれも色とりどりの旗のこと)や大黄(ダイオウ)で染めた緞蓋(緞子の傘)を執り、肩に乾隆皇帝から賜った金色の屋根で黄色の緞子の駕籠を担ぎ、駕籠内には未来の弥勒佛が座る。駕籠のすぐ後ろには楽隊と「跳布札」で登場した順番に並んだ演者全員が続く。隊伍の最後はラマ僧のリーダーが率いるラマ儀仗隊である。寺を廻る隊伍は南院の東の牌楼門を出て、北に向け寺を一周し、最後に西の牌楼門を入る。寺を廻る意味は、清郷(あたりの村々を清査、粛正する)し民を安んじ、魔王の残党が民間に潜んでいないようにするためである。これにて、「跳布札」の儀式は全て終了する。
寺の周りを廻る儀式
「跳布札」の厄払いが終わると、翌日(農暦の2月1日)の早朝、太陽が上る前に、ラマ全員が隊列を組んで寺の周りを廻る。これが鬼やらいの活動全体の最後の儀式である。ふたりのラマが銅鑼を鳴らしながら先導し、ふたりのラマが銅製の長いホルンを吹き、その後ろから各種の旗、傘、幟(のぼり)を掲げたラマの儀仗隊、手に四対の香炉と一基の黄色い傘を提げ、乾隆皇帝から賜った金の頂上の黄色い緞子の駕籠を担いだラマの隊列が続き、最後が主宰のラマが率いるラマ僧たちで、隊列は南院の東牌楼門を出て、北に向け寺を一周廻り、西牌楼門を入る。ここに至り、鬼やらいの活動は全部終了する。写真は寺の周囲を廻るラマの儀仗隊である。