中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

昔の北京の社寺の縁日の話(1)

2024年05月29日 | 中国文化
老北京的廟会
(雍和宮廟会、白塔寺廟会)
姜尚礼著
文物出版社2004年12月出版

 いつも廟会(寺社の縁日)に話が及ぶ度に、必ず寺社の廟のことが思い浮かんだ。中国で最も古い廟は先祖を祀る場所であり、神のために廟を立てるということに至っては、周代以後のことであった。古代の文献から知られることは、周代の宗廟の傍らには廟会があった。『考工記』はこう言う。「匠は国の左に祖、右に社を建てた。朝に面して後ろは市であった。」祖とは宗廟、社とは社稷であり、市はすなわち交易をする場所であった。交易の地と宗廟、社稷は既に関係があった。六朝以後、仏教寺院、道教宮観が日増しに増加し、そして仏寺、道観に付随する廟会が次第に盛んになった。

 北京は古い都市であり、三千年余りの歴史があり、また元、明、清の三大統一封建王朝の都で、政治、経済、文化の中心であった。その寺廟、宮観の建設は自ずと見ものであった。許道齢が編纂した『北平廟宇通検』の不完全な統計によれば、北京には千座に近い寺廟があり、寺廟の多さは実に中国全国のトップであった。

 北京に現存する最も古い寺廟は、西晋時代に建てられた潭拓寺である。昔の北京の人々の、久しく伝えられた民間の諺に、「先に潭拓寺があり、その後北京城ができた」というものがある。北京は寺廟が甚だ多いとは言うものの、然るに決して全ての寺廟で廟会が行われているわけではない。1930年までの統計によれば、城内には尚20ヶ所の廟会があり、郊外には16ヶ所、合計36ヶ所あった。これらの廟会に所在する廟宇は明代に建てられたものが多くを占め、清代がこれに次いだ。


北京の廟会について

 北京の廟会は、古くは遼代にまで遡ることができると言われており、それというのも『遼史・礼俗志』にこう記載されている。「3月3日は上巳である。国の習俗では木を刻んで兎とし、朋を分けて馬を走らせ之を射、先に中てた者を勝ちとした。負けた朋は馬を下り、列んで跪き酒を進め、勝った朋は馬上で之を飲んだ。」この「上巳」の春遊と後世の仏に借りて春を遊ぶ廟会はよく似ていた。明代になると、北京の廟会の記述はたいへん明確であった。明人が著した『燕都遊覧志』の中でこう言っている。「廟市は、市が城西の都城隍廟にあるものが有名で、西は廟に到り、東は刑部街に到り、その間三里ほど、おおよそ灯市と同じで、毎月1日、15日、25日に市が開かれたが、ランタンが多く灯されるのは1日だけである。」西城の成方街の都城隍廟は、その廟会で、各種各様の商品が販売され、漢族の小商人だけでなく、「碧眼の西域商人、はるばる大海を渡って来た異民族の人々」も招き入れた。彼らはいつも「腰に金百万を巻き、居並ぶ商人と高談した」。この記述から、廟会の規模と盛況さを知ることができる。

 北京の廟会にはまたその盛況と衰退の変化があった。都城隍廟廟会は、明朝期は確かに空前の盛況を迎えたが、清代乾隆帝の時に変化が生じた。『帝京歳時紀勝』の記述によれば、この廟は「以前の明朝では朔望の25日に市が立ったが」、「國朝は国の興隆を重んじ典礼を行い、歳時の時期には、人を遣って祭礼を行い、雨や台風を祈り、また恭しく祭祀を行い、ただ5月1日から8日の間だけ廟会が設けられた。」ここから分かるのは、この廟の廟会は毎月3回から1年1回に変化した。また例えば広安門内の報國寺廟会は、清代の繁栄期には、毎月3日、5日が廟会で、多くの文人墨客がいつもここで遊びふけっていたけれども、清末になると、言うべき廟会は行われなかった。

 昔、北京の廟会は、まとめるとおよそ以下のような数種類の形式であった。

 一つ目は、線香を上げ神や仏を敬うことを主要な内容とする廟会である。これは祭日になる度、廟中の主催者が廟を開け、仏教や道教を信仰する信徒を廟に入らせ、線香を上げさせた。こうした廟会は線香を上げて神、仏を敬う宗教儀式を主としており、個別に娯楽や商業活動もあるが、付属的な性質のものである。こうした廟会は、多くが毎月1日、15日に行われた。

 二つ目は、毎年一度か二、三度の祭日、仏教や道教の人が鬼を祭る日に、人々が線香を上げ神を敬う。廟会の時は、気持ちを楽しませ、娯楽や商業活動が行われた。

 三つめは、仏の名を借り春を遊ぶ形式の廟会である。こうした廟会は遊んで楽しむことが中心で、宗教や商業活動は二の次の内容であった。

 四つ目は、廟の中や廟の外の通りや路地に定期的な市を設け、交易を行う廟会である。商業取引きが廟会の中心の内容で、宗教活動は痕跡だけが残っているか、痕跡すら存在しなかった。

 五つ目は、廟会という名前は使っているが、実際にはもはや廟の範囲を逸脱し、完全に商業活動を主とするもので、宗教活動、更に娯楽活動さえもはや存在しなかった。

 北京の廟会は、このように様々な形式があったが、どのような廟会にせよ、必ず商業活動があり、違いは商業活動が占める地位が主か従かと、規模の大小だけであり、このことも人々の経済活動が社会活動の重要な構成部分であるという事実を反映していた。廟会での商業活動の多くは屋台の上で行われた。屋台の種類は頗る多く、例えば綿布や織物の屋台、飲食の屋台、雑貨の屋台、古い金属類の屋台、木器の屋台、骨董や玉器の屋台、古本の屋台、おもちゃの屋台、花や木の屋台、虫や小鳥の屋台などがあった。その中で比較的大きな屋台は、とりわけ織物類の屋台で、必ず日除けや雨除けのテントが張られていた。

 北京の廟会は必ず決まった時間があった。『京華春夢録』の記述。「都門廟の市は時期が決まっていて、10日毎に3のつく日は土地廟、4は花儿市、5、6は白塔寺、7、8は護国寺、9、10は隆福寺であった。」本の中で書かれた北京市の廟会は全部を網羅しておらず、その後個々の廟会が開かれる時間は増加したものもあったが、これにより相変わらず北京の廟会が開かれるのは決まった日時であることを説明することができた。本の中で言う廟会が行われる月や日は全て農暦(旧暦)であった。中華民国建国以後、いくつかの廟会、例えば護国寺、隆福寺、白塔寺は太陽暦を採用した。しかし相変わらず農暦をそのまま用いていたのが、白雲観、東岳廟、財神廟、雍和宫、蟠桃宮であった。


隆福寺廟会



隆福寺扁額

 隆福寺廟会は、隆福寺から名付けられた。この寺は東四牌楼以西に位置しており、明代景泰年間に建立された。『景宗実録』によれば、「景泰3年(1452年)6月、大隆福寺建立を命じ、労役夫は1万人に及び、太監(宦官)の尚義、陳祥、陳謹、工部左侍郎の趙栄がこれを監督した。閏6月追加で僧房を建立した。4年3月に工事は完成した。」寺の境内は前後5層の仏殿があり、三世仏、三大士が祀られた。この寺は国の高級官僚が監督して建造し、1万人以上の大工を使ったので、寺の勢いは頗る盛んであった。明代、ここは北京で唯一青衣僧(仏教の僧侶)と黄衣僧(ラマ教の僧侶)が一緒にいる寺廟で、且つずっと朝廷の香火院(お経を上げ安寧を祈ってもらう寺院)であった。清代になると、完全にラマ教の寺院になった。

 隆福寺廟会が具体的に形成されたのがいつかは、なおより一歩考証を待たねばならないが、遅くとも清の雍正年間より遅くはないだろう。というのも、乾隆年間に出版された『日下旧聞考』にこう書かれているからだ。「隆福寺は東城大市街の北西にあり、明の景泰4年に建立された。本朝の雍正元年(1723年)、毎月の9、10日に廟市が開かれ、各種の商品が並べられ、諸市の中で第一であった。」

 光緒27年(1901年)隆福寺で大火が発生し、廟内の第一層の大殿が燃え、これより廟内では線香の火が途絶え、隆福寺は「百貨が具わり、物見遊山に来る客が甚だ多く、決して仏を祀ることのない」所であった。

 隆福寺廟会はその規模から言えば比較的大きく、それには廟内の各種の屋台も含まれていた。廟の前にはちょうど山門に対して隆福寺前街があり、廟門の左右には東西の隆福寺街、隆福寺前街南口には猪市大街があった。廟内の屋台は三路に分かれていた。正門から入って行った中路には、綿布や絹織物を売る屋台、骨董を売る屋台と、各種の寄席演芸や大道芸をする場所があった。比較的大きな場所は布の幕で四面が覆われ、一ヶ所入口だけが残された。有名な二人羽織を演じる喜劇役者の雲里飛、相撲の名手、宝三、北京の琴書(揚琴で伴奏する歌物語)の演者、関学増は曾てここで出演したことがあった。この他、扒糕(そば粉を糊状に煮て切ってタレをかけた夏場の軽食)、灌腸(豚の腸に澱粉を詰めて蒸したものを薄く切って油で炒め、ニンニク醤油をかけたもの)、茶湯(炒ったキビ粉やコウリャンの粉に熱湯をさして食べる、麦焦がしのような食品)、麺茶(キビの粉を糊状に煮たものに、ごま油の粕、塩などを振り掛けて食べる)、ワンタンといった小吃(軽食類)の屋台があった。中路の最後の部分は運命判断、人相見の占い屋台であった。西路は雑貨を売る屋台が主で、その中で最も芸術的な特徴を備えていたのは芝居衣装を着た人物の彫像を売る屋台であった。

 廟の外の街路にも屋台が雲集していた。隆福寺前街の西側、及び南口を出て右折した猪市大街は、基本的に鳥を売る人の地盤であった。左折した猪市大街には、多くの清代の遺物を専門に売る古物商の屋台があった。隆福寺街は、東側が鮮花と古書を売る店が多かった。西側には茶を売る茶館があった。民国19年(1930年)から、隆福寺廟会は元々の毎月2回から増加し、毎月1、2、9、10の付く日に必ず廟会があった。このように、ここは北京市内の廟会で回数が最も多く、影響の最も大きい廟会となった。


護国寺廟会


護国寺山門

 西四牌楼の北の護国寺廟会は、隆福寺廟会と同様、商業活動を中心とする内容の廟会であった。その賑やかさの程度は、隆福寺に匹敵し、それゆえ「東西二廟」と称された。「東西二廟の貨は真に全うし、一日に能く百万銭を消す。」これは清代中期の隆福寺と護国寺廟会の商業の繁栄の描写であった。護国寺廟会は護国寺から名付けられた。この寺は元の名を崇国寺と言い、元は元代の丞相托克托(トクト)の屋敷があり、その後、彼が屋敷を喜捨して寺を建てた。明の成果年間(1464-1487年)に改名し、大隆善護国寺となった。この寺は境内が前後5層になっていて、院落(塀で囲った子院)が頗る多かった。寺の中には元代の大書道家、趙孟頫(ちょう もうふ)が書いた碑刻があった。清代の北京の住民の構成の傾向は「西に貴い」という言い方をし、つまり多くの旗人の屋敷は西城にあった。それゆえ彼らの「日用に必要なものは多くが廟会で得」て、このことは護国寺廟会の繁栄を促した。清末から民国初年になり、旗人の没落に従い、護国寺廟会は徐々に隆福寺廟会より劣るようになった。そうではあっても、民国初年まではここでは依然賑やかな光景を呈していた。

 護国寺廟会は山門から話を始めると、山門外の東西両側には荒物や日用雑貨用品の屋台がぎっしり並んでいた。山門を入ると、中の各子院にも各種の屋台が並び、綿布や繻子、緞子、磁器、骨董、書画、玉器、扇子、目薬、紙、文具、キセル、はさみなどを販売していた。その中で最も有名なのが「百本張」の唱本(芝居や歌謡の歌詞を印刷した小冊子)の屋台で、屋台で売っている唱本は京劇が主で、その他に鼓詞、単弦などがあった。金を儲けるため、店主は芝居の全体の歌を何冊にも分けて印刷して販売し、一冊一冊はとても薄く、お客は芝居全体の歌詞を理解しようと思うと、全部のセットで買わなければならなかった。文字占いや八卦見、大道芸、寄席演芸をする屋台も少なからずあった。「鴨蛋劉」の宝剣呑み、倉儿と王麻子の漫才の演技はいつも観客に、中で三重、外でも三重に囲まれていた。この他、落子lào zǐ(河北省の代表的な民間の演芸で、竹板を鳴らしながら唄う)を唄う者、跑旱船(民間舞踊で、女性に扮した役者が竹や布で作った模型の船の船べりを腰に結びつけ、歌いながら練り歩く)、棍棒を振り回す者、猿回し、ネズミの芸があった。寺の前の街路にも様々な商品屋台が並んでいた。廟会の度、廟内も廟外も人でごった返し、真に「物見遊山の人々は五都の市に入ったかの如く」であった。

昔の北京の商店の看板(3)

2024年05月14日 | 中国文化

小旅館幌子
柳の枝で編んだ 笊籬(そうり。ゆでた麺やワンタンを鍋からすくい上げる網じゃくし、揚げざる)の模型をつるして幌にした。昔、北方で旅行し外出する者は皆馬に乗って出かけた。民間の風習で人が出発する時に、餃子を作って見送り、到着すると麺を作って歓迎した。月日が経つうちに、「上馬餃子、下馬麺」の俗語ができた。餃子も麺も、茹で上がると、「笊籬」を使って鍋からすくい上げた。したがって小店が「笊籬」を幌にするのは、寓意(他の事物に託してほのめかす意味)が深遠で、旅人に我が家に帰って来たかのような暖かみを感じさせたのである。

看板の効果

 招幌(看板)は、物象広告(客観的な事物の広告)として、設置や制作の精緻さ、奇抜さは、ただ店の入口を飾るだけでなく、流通の領域でも、かなり重要な役割を果たした。商人たちは巨額の投資を惜しまず、奇を争い勝利を目指したが、その目的はただ一つ、人々の視線を惹きつけ、顧客を繋ぎ止めることであった。元曲の『后庭花』に二句の唱詞がある。「酒店の門前に三尺の布、過ぎ来たり過ぎ往き主顧を尋ねる。」言っているのは酒旗の役割である。『宋朝事実類鈔』におもしろい話が載っている。福州にひとりの酒売りの老婦人がいて、酒旗の上に太守、王逵(おうき)の酒望子(幌子)詩「下に臨む広陌(こうはく。広小路)は三条の闊(ひろ)さ,斜めに倚(よ)る危楼は百尺の高さ」と書いたところ、これにより大量の食客を惹きつけ、「これより酒の販売が数倍」になったという。

 これだけでなく、多くの名牌(ブランド品)の看板は、商家に対しても良いサービスを促す効果があった。看板を台無しにせぬよう、商品は質と量を保たねばならなかった。昔の北京の「金驢儿」の石鹸、「銅老倭瓜」の白蕎麦麺、「黒猴儿」の帽子、「王麻子」のハサミは、顧客の中で名声を博していた。商品の品質を重視し、ブランドが有名な店も、それによって財を為した。陸元輔『菊隠紀聞』の記載によれば、北京の「勾欄胡同の何闉門家の布、前門橋陳内官家の首飾、双塔寺李家の冠帽、東江米巷党家の鞋、大柵欄宋家の靴、双塔寺趙家の薏酒(ハト麦酒)、順城門大街劉家の冷淘麺、本司院劉家の香、帝王廟街刁家の丸薬は、皆一時期有名で、巨万の富を築いた。」

 店舗の招幌(看板)は、多数が民間の芸術家、職人が設計、制作したもので、採用された模様や図案は大衆が好むもので、よく使われる蟠龍紋、蝙蝠紋、寿字紋、蓮花紋など、皆吉祥、富貴を祈る題材であった。多くの招牌は、またその多くが著名人の自筆であった。例えば、清代南京で保存された明代の著名人が起草した扁額の中で、牛市口の石鹸、粉おしろい店の縦型の扁額の「古之敬家」の四字は、劉青田が書いたものだ。三仙街の毛氈店の横型の扁額の「伍少西家」は、顧起元が書いたものである。行口大街南貨店(中国南方の食品店)には長方形の扁額があり、「楊君達家海味果品」の八字は、学士(文人)の余孟麟の傑作である。北京の「六必居」は、厳嵩が書いたと伝えられている。「都一処」は乾隆皇帝の親筆である。これらの招牌(看板)の筆跡は、上品なものもあれば、飾り気がなく実直なものもあった。

 昔の北京の多くの店舗の店名は含蓄があり、味わい深かった。例えば、地安門外の茶葉舗は、「金山」と言った。安定門外の茶肆は、「鶏鳴館」と言った。ある茶社の名は「半畝園」、「水楽庄」、「柳蓮居」、「緑意軒」、「怡性斎」、「萃園別墅」などと言った。また本書中の「知楽魚庄」は、おそらく魚と熊の掌は同時に得られない(望みが2つあれば、その1つを捨てざるを得ない)の意から取り、有魚知楽(魚が有れば楽を知る)としたのである。


知楽魚庄(金魚池にあった魚屋)

一方「瑞蚨祥」を名付ける時は、多くの文人墨客を招き、細かく推敲して決められた。蚨(ふ)が指すのは青蚨で、古人の銭への別称であった。『捜神記』の記載によれば、「(蚨の血を)塗った銭各八十一文、市の物毎に、或いは先に母銭を用い、或いは先に子銭を用い、皆復た飛帰す、(車)輪は転じて已まず。」蚨を名に使ったのは、銭を使っても、またすぐ(銭が)戻って来て、お金がどんどん増えるという意味が含まれた。


瑞蚨祥
北京前門大柵欄に位置し、清の光緒21年(1895年)に開業し、北京で有名な絹織物の店で、当時の「八大祥」のひとつであった。店の門の上方には「瑞蚨祥」の三文字が刻まれた横型の看板で、「瑞」は良い前兆を指し、「蚨」は「青蚨」(古代の伝説上の虫で、銅銭の上に蚨の血を塗ると、銭を使った後、あっという間に元の持ち主のところに戻って来るとされ、このため「銭」のことをまた「青蚨」と言う)、「祥」は吉祥を指す。「瑞蚨祥」の三文字で、縁起が良いという意味が含まれている。

 こうした民間の精神で設けられた招幌(看板)は、標識と装飾が一体になったものであった。豪華で美しい入口の装飾に、濃厚な民間の色彩を配した招幌は、より一層商店の魅力を付け加えた。

まとめ

 1930年代末から1940年代初頭、北京の招牌、幌子は、相変わらず明清時代の北京の店舗の招幌の様式を踏襲していた。例えば清慎斎裱画店(表具店)が用いた縦型の看板は、明清時代の看板と何ら違いが無かった。看板は白地で、上部に書店名が書かれ、下部の一方に「蘇裱名人字画冊頁手巻法帖」と書かれ、もう一方には一巻の掛け軸が描かれ、請け負う仕事の内容と技術レベルを示していた。


清慎斎裱画店
中国の書画の装幀は、特殊な伝統手工芸で、蘇州の表装工が最も精緻であった。清慎斎裱画店の長方形の木製看板は、白色の地に、店名と「蘇裱名人字画冊頁手捲法帖」などの文字が書かれ、その横に一巻の掛け軸の絵が描かれていた。これによって請け負う仕事の内容と、その技術レベルを表していた。

また例えば「稲香村」、「南味店」であれば、二枚の横型の看板を使い、何文字かの簡単な文字で商店の名前とどのような種類の店かを明示した。


稲香村
稲香村は南方の特産品や自家製の南方の菓子類、蘇州や揚州の醬油煮の惣菜を売る店であった。店の入口の上に「新記稲香村」の横型の看板がある。写真はちょうど中秋節が近く、季節の商品が店に並べられている。店の外には「中秋月餅」と書かれた布幌(布に書かれた幟)が高く掲げられている。店内には、金華ハム、南京板鴨の実物幌が掛けられ、文字と実物招幌で客を招き寄せ、賑やかな雰囲気を引き立たせている。

本書で紹介した幌子で、例えば小麦粉を加工する工房は形をイメージした看板(形象幌)を使い、店の外に対称に白い小麦粉を捏ねた団子(マントウの模型)を吊り下げて看板とした。


粉坊幌子
小麦粉を加工する工房。つるされた幌子はマントウの模型で、形象幌に属する。昔、北京の粉坊の門前の幌をつるす柱の龍頭(柱から突き出た枝先の部分)の下には、通常白い小麦粉を捏ねた団子の模型を対になるようぶら下げることで、店の扱う商品の標識がより鮮明になった。

粗飯舗が掲げた看板は、籐で作った輪っかの外に金銀の紙を糊付けし、下端に間隔を空けて赤い紙の房をぶら下げた、典型的な 形象幌である。銅鉄舗が使ったのは実物幌で、店の外に銅壺や鉄桶を並べた。馬鞍舗の外には刺繍した馬の腹につけるベルトと細かく作り込んだ馬の鞍を使って看板にし、馬の腹のベルトの上の模様はモンゴル族が一般に好む図案や色使いに合わせてあり、たいへん気がきいていて、斬新であった。これも実物幌のひとつである。


馬鞍舗
店の外の背の高い腰かけの上に刺繍をした馬の腹に付ける革ベルト(すなわち鞓(てい))と加工の優れた馬の鞍が置かれ、実物幌に属する。

本書に収録した写真は、1930-40年代に撮影された。ここで紹介する看板は、北京の店舗看板の一部に過ぎないが、歴史的にも北京城の商業の実際の写真であり、北京の民俗学、商業史、文化史の愛好者、研究者にとって、正に貴重で価値ある資料と言えるだろう。

昔の北京の商店の看板(2)

2024年05月11日 | 中国文化
万宝号酒店
清代の酒店には招牌があり、入口の庇(ひさし)の下に酒瓢箪の形の形象幌がぶら下がっていた。1940年代初めの万宝号酒店は、店名を墻招(壁に直接看板を取りつけたもの)の形で入口の壁面の上方に施した。「遠年花雕」(年代物の花雕酒(紹興酒))と扱っている酒の種類と品質を表示した。

看板の種類

 招幌は商業の標識となり、これにより店舗が扱う商品の種類やサービスの内容を明示した。世に言う三百六十行(昔の各業種の総称)には、どの業種にも自らの特定の招幌があった。こうした招幌の形態はそれぞれ異なっていた。幌子について言えば、主に形象幌、標示幌、文字幌の三種類に分けられた。形象幌は多くが実物や実物模型、図絵で表示した。 標示幌は主に旗と行燈である。文字幌は簡単な文字で扱う商品の宣伝をした。


焼酒舗幌子
酒瓢箪を幌子とするのは典型的な形象幌である。清代の京西、京東の焼鍋(コウリャンを醸造して作った白酒)は、紹興の黄酒に比べ刺激性が強かった。一般の小酒店で白酒を売る店を俗に焼酒舗と言った。瓢箪の形を幌子にするのは古人の習慣を踏襲し、酒を売り出す時に酒瓢箪をぶら下げ、酒が売り切れるとそれを取り外した。

 実物幌は、最も古い商業標識で、その特徴は「直接その物を門外に掲げる」、すなわち商品の実物を門外に高く上げたり門前に並べて幌子にした。宋の『夢粱録』には「彩帠舗に積み上げられた目の細かい緞子」と書かれた。明代の南京染坊は、染めた色とりどりの絹織物を染房上に高く掲げていた。清代の北京では、実物を幌とするものが仕立屋、絹織物、傘、タオル、楽器、木桶、麻などがあった。実物幌ははっきり分かり、顧客にとって一目瞭然である。


檳榔煙草舗幌子
檳榔(ビンロウ)は棕櫚(シュロ)の一種で、熱帯の作物である。果実は楕円形で、色は橙(だいだい)色、殺虫、消化促進の効果があり、料理に使うことができた。昔中国の広東、広西では民間に檳榔の実を噛む風習があった。清代の一部の北京人も同様の習慣があった。写真は1940年代初めの檳榔煙草店で、煙草店で檳榔を売っていた。店の表に檳榔の包みを対称に吊り、これは実物幌に属する。

 模型幌は、商品の模型を幌にし、木、布、紙、皮革、鉄などの材料で作られた。宋の『太平広記』は『野人閑話』の記載を引用し、李という姓のネズミ駆除薬を売る店があり、「木で作ったネズミを看板にした」。『清稗類鈔』では「都の中の靴下店は、門口にしばしば大きな靴下を掲げた」と書かれている。ここから分かるのは、模型はしばしば本物の商品より大きく作られ、例えば麻子剪刀舗は造形の異なる大きなはさみの模型を掲げ、キセル屋は大きなキセル、魚屋は大きな木の魚を掲げた。模型舗は真に迫って作られ、商品の特徴を突出させ、長持ちしてしかも目立つので、店店で幅広く採用された。


徳順号馬鞍舗
店の外に布製の馬の鞍の模型が掛けてあり、形象幌の中の模型幌である

 画幌は、図絵で扱っている商品やアイテム表示した。絵を布ののれんや木の看板の上に描いたり、直接入口の壁の上に描いた。元の『析津志』には京師の「床屋は、色とりどりに歯の絵を描いて、しるしにした」と記載されている。また茶店は壺を描いて看板にし、靴店は靴を描き、刃物、ハサミ店では刀やハサミを描いた。画幌は色彩が鮮やかで、制作が簡単で、多くが規模の比較的小さい店舗で採用された。また店によっては、描いた絵と扱い品目が直接関係無く、目的は店の表を飾り、月日の経つうちに、その店独特の看板になるのである。例えば『析津志』に載っている京師酒槽坊は、「門口に春申君、孟嘗君、平原君、信陵君の四公子が描かれていた。赤いペンキの塗られた欄干でこれを守り、上は細かく描かれた酒升で覆われ、宮殿のような有様であった。両横の大壁には、車馬、侍従、傘や武器が全て描かれていた。また漢の鐘離、唐の呂洞濱を描いて門額とした。」




老王麻子刀剪舗の画幌
『老北京店舗的招幌』という書籍の中で、こう紹介された。「清代、北京王麻子刀剪舗は、崇文門打磨廠内にあった。この店で作られた刃物やハサミは刃の質が良く、刃先が大きく開き、長く使っても刃が曲がらず、当時の北京の有名で伝統的な製品のひとつであった。」写真は1940年代初頭の老王麻子刀剪舗である。店の外にぶら下げられたのは文字と絵を併用した招幌で、店内には刃物、ハサミなど実物幌がぶら下げられた。

 標識幌は、通俗的に定まっている特定のものの姿や図形をしるしにするものである。例えば旗や幟(のぼり)は、最もよく見かける標識で、古くは酒旗にした。「青旗沽酒有人家」(青い旗が揚がるのを見れば、酒を売る店がある)というのは、唐宋時代にはもう当り前の風景であった。北宋の東京(開封)の酒楼は錦条旗を標識にした。清代の北方の酒店は多くが赤と青が交互になった吹き流し状の酒旗を用いた。酒店以外でも、北京の公の車屋も旗を標識にした。赤い竿に黄色い旗、上には一匹の飛び立つ青龍が描かれていた。それとは別に灯幌があり、灯籠を商店の標識にした。灯幌は宋代には既に日常見られるものとなり、宋の呉自牧の『夢粱録』巻16酒肆にこうある。「例えば酒肆(酒店)の門口に、杈子(木の柵)と栀子灯(クチナシの実型のランプ)を設置したが、ちょうど五代の時、郭高祖が汴京に行幸した時、茶楼や酒肆が揃ってこのように装飾をしたので、今日に至るまで店店がそれを真似るのが習慣になった。」灯を幌にし、美しくりっぱで、営業が深夜に及ぶ酒楼について言っても、たいへん実用的であった。深夜の街路沿いで呼び売りする小販(屋台など小規模の飲食店)も、常々灯を幌子にした。


妓楼(遊女屋)の入口。赤く記したところに栀子灯が置かれている

 文字幌は、簡単な文字で店の名や扱っている商品の種類を表した。例えば「当」は質屋を表し、「堂」は風呂屋を表した。それ以外に「茶」、「書」、「酒」、「帽」、「薬」、「花」などがあった。字幌の掛け方は幌子と同じで、表示の方式と姿形は招牌と同じである。


当铺(質屋)

 招牌は、前で既に述べたように、商店の門前に取りつけられた標識となる牌子(マーク)である。取りつけ方法は多種多様で、或いは壁や門、柱の上に架け、或いは店舗の門前に設置したりカウンターの上に置かれ、また門前の牌坊(アーチ)や店の壁に直接書き記すこともあった。取りつけ方法の違いにより、縦型看板と横型看板、床置き看板、壁看板に分けられる。招牌の文字の内容はたいへん豊富で、如何なる商業情報であっても表示することができた。一つ目に字号(店名)を表示することができ、宋代、明代には、字号は大半が姓氏の違いで表され、例えば張家老舗、王家、李家というように表された。北京の多くの旧店舗は、更に次のような風習を残していて、例えば王麻子(あばたの王)というように表示した。二つ目に商店の合資(共同出資者)の人数を、例えば双合、三義、四美のように表示することができた。三つ目に取扱い商品の内容を、毛尖、風箱、赤金、建皮絲(タバコ)、雪花白(酒)、丹九轉、富陽冬笋(浙江富陽のタケノコ)、佛手青梅などのように表示することができた。四つ目に商品の品質を、重羅白面(何度もふるいにかけた小麦粉)、真正豆面(本物の豆粉)、賽雪欺霜のように表示することができた。五つ目に商店の信用、評判やいくつかの縁起の良いことばを、童叟無欺(子供も年寄りも騙さない)、公平交易、招財進宝の類のように表示できた。文字招牌の中には字が10~20に達するものがあり、例えば北京の徳愛堂薬舗の天を衝くように背の高い看板の上の文字は22字に達し、「徳愛堂沈家祖伝七代小児七珍丹只此一家別無二処」と書かれ、徳愛堂薬舗は沈氏が創業し、主に祖伝の七代珍丹を販売し、専ら小児を治療する良薬で、しかも唯一の販売者であった。

 要するに、各地の風習の違いにより、店舗経営の規模の大小が異なり、入口の装飾と看板の掛け方も全て異なっていた。北京について言えば、大部分の店舗にはふたつ以上の看板が入口に掛けられ、商店によっては実物の幌子の数が10以上に及び、例えばちょうちん屋や、とりわけ大商店の中には、実物や模型、標識幌、装飾文字や絵、各種の看板が巧みに一緒に配置され、商店が極めて上品に装飾され、看板が互いに照り映え、一幅の立体的な広告画のようになっていた。

昔の北京の商店の看板(1)

2024年05月10日 | 中国文化
範緯著:老北京的招幌
文物出版社2004年12月第一版発行

 この本は、文物出版社に保存されていた1930年代末から40年代初頭の北京の店舗看板の写真資料をまとめたものだそうです。

看板の歴史

 招幌(看板)は招牌、幌子の総称で、中国の商業習俗の表現形式のひとつで、また商業広告のよく見られる形式である。

 幌は伝統的な店舗の標記で、元々布で作った帷幕で、『玉篇』では「幌は帷幔なり」と言う。後に派生して酒旗の専称となり、また酒簾と呼ばれ、唐末には望子と称した。

酒簾

『広韵』では「青簾(青いのれん)は、酒家の望子。」「望」とは遠くを見ることである。古代の酒家は、門を開けて最初にすることは、酒旗を店門の外に高く掲げ、遥かに望むことができ、これを用いて酒客を呼んだ。張籍の『江南行』では「長干(昔の建康(南京)の里巷(裏町)の名)の午日春酒を売る。高く酒旗を江口に懸ける。」李中『江辺吟』では「きらきらした酒簾は酔客を招き、深い緑樹の隠に鶯が啼く」と、描写はこの光景である。酒店の酒が売り切れると、店は望子を引き下ろし、顧客を手ぶらで帰すのを防いだ。例えば孟元老『東京夢華録』ではこう言う。「中秋節の前、諸店は皆新酒を売る。……市民は競って酒を飲み、午(うし。11時から13時)未(ひつじ。13時から15時)の間に、どの店も酒が無くなり、望子を引き下した。」望が上がれば来て、望が無ければ止む。望子を酒旗と呼ぶのは、たいへん適切であった。後に望子は次第に発展して各行各業の標記の専称となり、その呼称は次第に幌子が取って代わった。これに対し、清の翟灝は『通俗篇・器用』の中で次のように解釈している。「今日長江以北では、凡そ市場の商人が掲げる標識は、尽く望子wàng ziで、その音が訛り、すなわち幌子huǎng ziと言うのである。」幌子は主に扱う商品の種類や業種を表した。

 招牌は商店が門前にしつらえ、標識にしている商標であった。「招」は呼びかける意味で、「招は召なり。手を以て招と言い、言を以て召と言う。」(『楚辞・招魂序』王逸注)招牌は最初は文字の書かれていないのれんで、その後名号を題する者が現れ、続いて木製の牌(看板)がこれに代わり、大多数が店舗の名称と字号を題写した。これが店舗の標記である。店によっては招牌に商品の名称を題する者があり、例えば清代、蘇州のいくつかの店舗の招牌には、「定織細布」、「本客自制布匹」、「雑貨老店」などと書き、経営の範囲、内容を明示した。

 招幌は、社会生産と交換が一定段階にまで発展した産物で、その歴史は相当長いものである。交換は最初、原始社会後期の氏族部落の間で発生し、当時は生産力が極めて低く、余剰産品は多くなく、物品の交換は偶然のことで、且つ交換の権利は部落の首領の手の中に握られていた。伝説の舜は「頓丘に販(ひさ)ぐ」。当時貿易を行うしるしは太陽と井戸であった。「日中を市と為す」(『易・系辞下』参照)、「古く未を市と為し、若し朝に井に聚り水を汲むに、貨物を井辺で貨を売り、故に市井と云う。」(『史記・平准書』参照)夏代に到り、物資交流がより発展し、当時有名な商族の人々が最も交換に長けていた。聞くところによると、商族の先祖の王亥は、曾て牛車を走らせ、帠を載せ、黄河の北岸に到り貿易を行った。遠古の貿易は、物を以て物に易え、招幌は必要無かった。

 社会の進歩に従い、商業は社会経済のひとつの独立した部門になった。生産の発展、商品の増加で、集市貿易は既に相当盛んであった。『周礼』の記載によれば、西周の新興の都市には、商戸を中心とする「朝市」があり、また販夫、販婦を主とする「夕市」があり、正午には更に大市が行われた。政府はまた専門の人員を派遣し貿易活動を指揮し、「旌(旗の一種で、旗竿の先に五色の羽毛を飾り付けたもの)を上げ市をさせる恩恵を与えた」。旗で集市の開閉と市場の位置を指示したが、これは幌子の雛形と言うことができる。

 春秋戦国時代、中国の古代社会の生産力の発展は新たな段階にまで発展し、新たな封建生産関係は次第に古い奴隷制の関係に取って代わり、私営商業が次第に官営商業に取って代わり、個人の商人の活動が増加した。鄭国には牛を売る弦高がおり、斉には商業で富を築いた陶朱公がいた。個人商店も出現し、『呂氏春秋・召類』の中でこう言った。宋の相国で司馬の子罕の隣に靴屋があり、「布靴に布を被せる仕事で三代の食を賄った」。個人商店の増加に従い、需要があったので、本物の幌も時運に応じ出現した。『晏子春秋』にひとつの寓話が載せられているが、それはこんな話だ。宋国に一軒の酒店があり、顧客を招き寄せるため、「幟(のぼり)を甚だ高く掲げた」。『韓非子』にも同じような物語の内容が載っており、その酒店は「その表が甚だ長し」と言う。「幟」と「表」は酒旗である。このことから早くも2千年余り前の春秋戦国時代、幌子が既に出現したことが分かる。

 このようであったけれども、秦から北宋初期までの間、政府の商業抑制政策と専売制の措置により、都市の貿易地点は市場だけで許可された。『長安志』の記載によれば、唐代の坊は、坊門以外は皆壁で囲まれ、特別な許可が無ければ、勝手に大通りへの門を開けることができなかった。『唐会要』巻86に、太和5年7月くらいの巡使の上奏文が記載されている。「三品以上、坊内三絶(家柄や才徳に優れた者)にあらざれば、街に門を開くのを許さない。もし三絶でないのに、無理やり坊に開門させようとしたら、街路に面した戸は、尽く閉じるよう命じる。」こうした坊市制度により、都市の街角では招幌を見ることがほとんど無かった。

 坊市制度はずっと北宋初期まで続き、この制度が廃止されて後、招幌はようやく再び街角に出現した。張擇端の『清明上河図』の上で、北宋の都の繁栄した様子が見られるが、各種の酒旗や字招が数多く見られる。『東京夢華録』や『夢粱録』など都市の記録の描写によれば、南宋の首都には数百の店舗名号があり、これらの名号(名称)はおそらく作者が当時の店舗の招牌(看板)に基づきそれらを記録したものであろう。多くの招幌の出現は、宋代の都市経済の発達を反映している。当時、東京(開封)には、富商や大商人が雲集し、交易活動に従事し、『続資治通鑑長編』の巻85に載った王旦の言によれば、「京師(都)で資産百万の者は極めて多く、10万以上、どこでも見られる。」元明清各時代の招幌は、宋代の招幌の形を踏襲しているのを除き、更にその他の民族の風習を融合し、都市から田舎に到るまで、招幌は随所で見ることができた。

 北京は13世紀の金代から20世紀初頭に清王朝が打ち倒されるまで、ずっと中国封建王朝の首都で、政治、文化の中心であった。とりわけ明清時代の北京城は、封建社会の商業発展のひとつの縮図であった。各地の商賈が雲集し、店舗が林立していた。広告宣伝の役割を持った招牌、幌子が四方から集まり、たいへん特色があった。

 最も古く北京の幌子を描写した古い書籍は『析津志』で、本の中で元代の都城の床屋、蒸し調理屋、小児科医、産婆、獣医、煎じ薬などの業種の幌子を列挙した。例えば、「市中の小児科医は、門口に木を刻んで子供の形を作り、錦の束の中で方相(厄除けの神様)のような姿かたちを標榜した。」

「産婆の家は、門口に赤い紙を竹ひごを籠に編んだものに貼って作った大靴をしるしにした。」「獣医の家は、門口に大小の木を刻んで壺状にし、長さ一丈に達し、赭石(しゃせき)でこれに色付けした。」

 明代、世祖は北京に遷都し、商業が極めて盛んになった。猪市、羊市、牛市、馬市、果子市、煤市、灯市、廟市などがあり、大明門前が最も賑やかであった。蒋一葵は『長安客話・皇都雑記』の中でこう言った。「大明門前の棋盤街は、すなわち離合集散の象徴である。天下の士民は各々文書を以て至り、ここに雲集し、互いに肩が触れ車輪と車輪がぶつかり、一日中騒々しかった。」清代に到り、北京の工商業は種類が雑多であるだけでなく、名称もまた多かった。手工業について言えば、木工、石工、土工、漆加工、火薬、婚礼、東市の漆加工、 西市の漆加工など10の業種があった。職業の分化で、違った種類の店舗が街頭に並立するようになり、店主は顧客を招き寄せるため、巨費を惜しまず、店の正面を装飾し、精緻な招幌を掲げた。『寄云寄所寄』は言う。「都城の市肆(商店)が開店するのに、必ず鼓楽を盛んに張り、戸に彩絵を結ぶ。賀する者は果核を持ち盤を堆み、屏風で囲いて神を祀る。正陽門の東西の街に、招牌は高さ三丈余りのもの有り、金泥で白色の地を減らし、或いは斑竹で以てこれに嵌め込み、或いはまた金牛、白羊、黒いロバや豚の形象を彫刻し、しるしとした。酒肆(酒屋)には扁額と対聯が掛かり、余白には或いは木の罌(かめ。もたい(ほとぎ)。腹が大きく口の小さい瓶)を掲げ、或いは錫の杯を掲げ、扇状の装飾がちりばめられていた。」また『燕京雑記』は言う。「都の店舗は、体面を考え、彫刻を施し色とりどりに塗られ、窓や戸に錦や刺繍が掛けられていた。夜は灯を燃やすこと数十、紗の籠を被せた角灯、明るく輝き昼間のようだった。そんな店舗で東四牌楼や正陽門大柵欄にあるものは、とりわけ卓越していた。その中には茶葉店があり、高い甍に太い垂木、細い格子に広い窓、人物を彫刻し、黄金が敷かれた。美しい雲が陽に映え、まことに雄壮である。」