老北京的廟会
(雍和宮廟会、白塔寺廟会)
姜尚礼著
文物出版社2004年12月出版
いつも廟会(寺社の縁日)に話が及ぶ度に、必ず寺社の廟のことが思い浮かんだ。中国で最も古い廟は先祖を祀る場所であり、神のために廟を立てるということに至っては、周代以後のことであった。古代の文献から知られることは、周代の宗廟の傍らには廟会があった。『考工記』はこう言う。「匠は国の左に祖、右に社を建てた。朝に面して後ろは市であった。」祖とは宗廟、社とは社稷であり、市はすなわち交易をする場所であった。交易の地と宗廟、社稷は既に関係があった。六朝以後、仏教寺院、道教宮観が日増しに増加し、そして仏寺、道観に付随する廟会が次第に盛んになった。
北京は古い都市であり、三千年余りの歴史があり、また元、明、清の三大統一封建王朝の都で、政治、経済、文化の中心であった。その寺廟、宮観の建設は自ずと見ものであった。許道齢が編纂した『北平廟宇通検』の不完全な統計によれば、北京には千座に近い寺廟があり、寺廟の多さは実に中国全国のトップであった。
北京に現存する最も古い寺廟は、西晋時代に建てられた潭拓寺である。昔の北京の人々の、久しく伝えられた民間の諺に、「先に潭拓寺があり、その後北京城ができた」というものがある。北京は寺廟が甚だ多いとは言うものの、然るに決して全ての寺廟で廟会が行われているわけではない。1930年までの統計によれば、城内には尚20ヶ所の廟会があり、郊外には16ヶ所、合計36ヶ所あった。これらの廟会に所在する廟宇は明代に建てられたものが多くを占め、清代がこれに次いだ。
北京の廟会について
北京の廟会は、古くは遼代にまで遡ることができると言われており、それというのも『遼史・礼俗志』にこう記載されている。「3月3日は上巳である。国の習俗では木を刻んで兎とし、朋を分けて馬を走らせ之を射、先に中てた者を勝ちとした。負けた朋は馬を下り、列んで跪き酒を進め、勝った朋は馬上で之を飲んだ。」この「上巳」の春遊と後世の仏に借りて春を遊ぶ廟会はよく似ていた。明代になると、北京の廟会の記述はたいへん明確であった。明人が著した『燕都遊覧志』の中でこう言っている。「廟市は、市が城西の都城隍廟にあるものが有名で、西は廟に到り、東は刑部街に到り、その間三里ほど、おおよそ灯市と同じで、毎月1日、15日、25日に市が開かれたが、ランタンが多く灯されるのは1日だけである。」西城の成方街の都城隍廟は、その廟会で、各種各様の商品が販売され、漢族の小商人だけでなく、「碧眼の西域商人、はるばる大海を渡って来た異民族の人々」も招き入れた。彼らはいつも「腰に金百万を巻き、居並ぶ商人と高談した」。この記述から、廟会の規模と盛況さを知ることができる。
北京の廟会にはまたその盛況と衰退の変化があった。都城隍廟廟会は、明朝期は確かに空前の盛況を迎えたが、清代乾隆帝の時に変化が生じた。『帝京歳時紀勝』の記述によれば、この廟は「以前の明朝では朔望の25日に市が立ったが」、「國朝は国の興隆を重んじ典礼を行い、歳時の時期には、人を遣って祭礼を行い、雨や台風を祈り、また恭しく祭祀を行い、ただ5月1日から8日の間だけ廟会が設けられた。」ここから分かるのは、この廟の廟会は毎月3回から1年1回に変化した。また例えば広安門内の報國寺廟会は、清代の繁栄期には、毎月3日、5日が廟会で、多くの文人墨客がいつもここで遊びふけっていたけれども、清末になると、言うべき廟会は行われなかった。
昔、北京の廟会は、まとめるとおよそ以下のような数種類の形式であった。
一つ目は、線香を上げ神や仏を敬うことを主要な内容とする廟会である。これは祭日になる度、廟中の主催者が廟を開け、仏教や道教を信仰する信徒を廟に入らせ、線香を上げさせた。こうした廟会は線香を上げて神、仏を敬う宗教儀式を主としており、個別に娯楽や商業活動もあるが、付属的な性質のものである。こうした廟会は、多くが毎月1日、15日に行われた。
二つ目は、毎年一度か二、三度の祭日、仏教や道教の人が鬼を祭る日に、人々が線香を上げ神を敬う。廟会の時は、気持ちを楽しませ、娯楽や商業活動が行われた。
三つめは、仏の名を借り春を遊ぶ形式の廟会である。こうした廟会は遊んで楽しむことが中心で、宗教や商業活動は二の次の内容であった。
四つ目は、廟の中や廟の外の通りや路地に定期的な市を設け、交易を行う廟会である。商業取引きが廟会の中心の内容で、宗教活動は痕跡だけが残っているか、痕跡すら存在しなかった。
五つ目は、廟会という名前は使っているが、実際にはもはや廟の範囲を逸脱し、完全に商業活動を主とするもので、宗教活動、更に娯楽活動さえもはや存在しなかった。
北京の廟会は、このように様々な形式があったが、どのような廟会にせよ、必ず商業活動があり、違いは商業活動が占める地位が主か従かと、規模の大小だけであり、このことも人々の経済活動が社会活動の重要な構成部分であるという事実を反映していた。廟会での商業活動の多くは屋台の上で行われた。屋台の種類は頗る多く、例えば綿布や織物の屋台、飲食の屋台、雑貨の屋台、古い金属類の屋台、木器の屋台、骨董や玉器の屋台、古本の屋台、おもちゃの屋台、花や木の屋台、虫や小鳥の屋台などがあった。その中で比較的大きな屋台は、とりわけ織物類の屋台で、必ず日除けや雨除けのテントが張られていた。
北京の廟会は必ず決まった時間があった。『京華春夢録』の記述。「都門廟の市は時期が決まっていて、10日毎に3のつく日は土地廟、4は花儿市、5、6は白塔寺、7、8は護国寺、9、10は隆福寺であった。」本の中で書かれた北京市の廟会は全部を網羅しておらず、その後個々の廟会が開かれる時間は増加したものもあったが、これにより相変わらず北京の廟会が開かれるのは決まった日時であることを説明することができた。本の中で言う廟会が行われる月や日は全て農暦(旧暦)であった。中華民国建国以後、いくつかの廟会、例えば護国寺、隆福寺、白塔寺は太陽暦を採用した。しかし相変わらず農暦をそのまま用いていたのが、白雲観、東岳廟、財神廟、雍和宫、蟠桃宮であった。
隆福寺廟会
隆福寺扁額
隆福寺廟会は、隆福寺から名付けられた。この寺は東四牌楼以西に位置しており、明代景泰年間に建立された。『景宗実録』によれば、「景泰3年(1452年)6月、大隆福寺建立を命じ、労役夫は1万人に及び、太監(宦官)の尚義、陳祥、陳謹、工部左侍郎の趙栄がこれを監督した。閏6月追加で僧房を建立した。4年3月に工事は完成した。」寺の境内は前後5層の仏殿があり、三世仏、三大士が祀られた。この寺は国の高級官僚が監督して建造し、1万人以上の大工を使ったので、寺の勢いは頗る盛んであった。明代、ここは北京で唯一青衣僧(仏教の僧侶)と黄衣僧(ラマ教の僧侶)が一緒にいる寺廟で、且つずっと朝廷の香火院(お経を上げ安寧を祈ってもらう寺院)であった。清代になると、完全にラマ教の寺院になった。
隆福寺廟会が具体的に形成されたのがいつかは、なおより一歩考証を待たねばならないが、遅くとも清の雍正年間より遅くはないだろう。というのも、乾隆年間に出版された『日下旧聞考』にこう書かれているからだ。「隆福寺は東城大市街の北西にあり、明の景泰4年に建立された。本朝の雍正元年(1723年)、毎月の9、10日に廟市が開かれ、各種の商品が並べられ、諸市の中で第一であった。」
光緒27年(1901年)隆福寺で大火が発生し、廟内の第一層の大殿が燃え、これより廟内では線香の火が途絶え、隆福寺は「百貨が具わり、物見遊山に来る客が甚だ多く、決して仏を祀ることのない」所であった。
隆福寺廟会はその規模から言えば比較的大きく、それには廟内の各種の屋台も含まれていた。廟の前にはちょうど山門に対して隆福寺前街があり、廟門の左右には東西の隆福寺街、隆福寺前街南口には猪市大街があった。廟内の屋台は三路に分かれていた。正門から入って行った中路には、綿布や絹織物を売る屋台、骨董を売る屋台と、各種の寄席演芸や大道芸をする場所があった。比較的大きな場所は布の幕で四面が覆われ、一ヶ所入口だけが残された。有名な二人羽織を演じる喜劇役者の雲里飛、相撲の名手、宝三、北京の琴書(揚琴で伴奏する歌物語)の演者、関学増は曾てここで出演したことがあった。この他、扒糕(そば粉を糊状に煮て切ってタレをかけた夏場の軽食)、灌腸(豚の腸に澱粉を詰めて蒸したものを薄く切って油で炒め、ニンニク醤油をかけたもの)、茶湯(炒ったキビ粉やコウリャンの粉に熱湯をさして食べる、麦焦がしのような食品)、麺茶(キビの粉を糊状に煮たものに、ごま油の粕、塩などを振り掛けて食べる)、ワンタンといった小吃(軽食類)の屋台があった。中路の最後の部分は運命判断、人相見の占い屋台であった。西路は雑貨を売る屋台が主で、その中で最も芸術的な特徴を備えていたのは芝居衣装を着た人物の彫像を売る屋台であった。
廟の外の街路にも屋台が雲集していた。隆福寺前街の西側、及び南口を出て右折した猪市大街は、基本的に鳥を売る人の地盤であった。左折した猪市大街には、多くの清代の遺物を専門に売る古物商の屋台があった。隆福寺街は、東側が鮮花と古書を売る店が多かった。西側には茶を売る茶館があった。民国19年(1930年)から、隆福寺廟会は元々の毎月2回から増加し、毎月1、2、9、10の付く日に必ず廟会があった。このように、ここは北京市内の廟会で回数が最も多く、影響の最も大きい廟会となった。
護国寺廟会
護国寺山門
西四牌楼の北の護国寺廟会は、隆福寺廟会と同様、商業活動を中心とする内容の廟会であった。その賑やかさの程度は、隆福寺に匹敵し、それゆえ「東西二廟」と称された。「東西二廟の貨は真に全うし、一日に能く百万銭を消す。」これは清代中期の隆福寺と護国寺廟会の商業の繁栄の描写であった。護国寺廟会は護国寺から名付けられた。この寺は元の名を崇国寺と言い、元は元代の丞相托克托(トクト)の屋敷があり、その後、彼が屋敷を喜捨して寺を建てた。明の成果年間(1464-1487年)に改名し、大隆善護国寺となった。この寺は境内が前後5層になっていて、院落(塀で囲った子院)が頗る多かった。寺の中には元代の大書道家、趙孟頫(ちょう もうふ)が書いた碑刻があった。清代の北京の住民の構成の傾向は「西に貴い」という言い方をし、つまり多くの旗人の屋敷は西城にあった。それゆえ彼らの「日用に必要なものは多くが廟会で得」て、このことは護国寺廟会の繁栄を促した。清末から民国初年になり、旗人の没落に従い、護国寺廟会は徐々に隆福寺廟会より劣るようになった。そうではあっても、民国初年まではここでは依然賑やかな光景を呈していた。
護国寺廟会は山門から話を始めると、山門外の東西両側には荒物や日用雑貨用品の屋台がぎっしり並んでいた。山門を入ると、中の各子院にも各種の屋台が並び、綿布や繻子、緞子、磁器、骨董、書画、玉器、扇子、目薬、紙、文具、キセル、はさみなどを販売していた。その中で最も有名なのが「百本張」の唱本(芝居や歌謡の歌詞を印刷した小冊子)の屋台で、屋台で売っている唱本は京劇が主で、その他に鼓詞、単弦などがあった。金を儲けるため、店主は芝居の全体の歌を何冊にも分けて印刷して販売し、一冊一冊はとても薄く、お客は芝居全体の歌詞を理解しようと思うと、全部のセットで買わなければならなかった。文字占いや八卦見、大道芸、寄席演芸をする屋台も少なからずあった。「鴨蛋劉」の宝剣呑み、倉儿と王麻子の漫才の演技はいつも観客に、中で三重、外でも三重に囲まれていた。この他、落子lào zǐ(河北省の代表的な民間の演芸で、竹板を鳴らしながら唄う)を唄う者、跑旱船(民間舞踊で、女性に扮した役者が竹や布で作った模型の船の船べりを腰に結びつけ、歌いながら練り歩く)、棍棒を振り回す者、猿回し、ネズミの芸があった。寺の前の街路にも様々な商品屋台が並んでいた。廟会の度、廟内も廟外も人でごった返し、真に「物見遊山の人々は五都の市に入ったかの如く」であった。