中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

『徐霞客遊記』を読む(4)遊黄山日記

2021年10月20日 | 中国文学

 

黄山は今の安徽省黄山市の南(歙県(きゅうけんshèxiàn)と太平県の間)に位置し、面積は約154平方キロメートル、有名な景勝地です。元の名を黟山(いざんyíshān)と言い、唐代の天宝年間以後、今の名前に改名されました。伝説によると、黄帝と仙人の容成子、浮丘公が一緒にここで丹薬を練ったことから、「黄山」と名付けられたと言われています。徐霞客は万暦四十四年(1616年)、白岳山登山の後、二月三日に湯口に入り、南から北に登山し、十一日に湯口より黄山を後にしました。

 

 

二月二日、白岳山より下山し、十里(5キロ。1里は0.5キロ、以下同じ)進み、山麓に沿って西に向かい、南渓橋に着いた。大渓を渡り、別の渓流に沿って山麓を北に向かった。十里行くと、ふたつの山が二枚の門のように、険しく切り立ち、接近しているのが見えた。渓流はそこでせき止められていた。ふたつの山を越えて下って行くと、眼の前に、平坦な田畑が広々と広がっていた。二十里進むと、猪坑である。小道から虎嶺に険しい道を登った。十里進み、虎嶺に着いた。五里の道を走破し、虎嶺の山麓を過ぎた。北の方を見ると、黄山の各峰が、石ころのように小さく見え、拾って取れるかのようだった。また三里行くと、古楼拗である。渓流は広くゆったり流れ、水かさが大いに増していて、しかも橋が架けられておらず、木切れが渓流を埋め尽くし、裸足で渓流を渡るのは危険で困難だった。二里行き、高橋で宿を取った。

 

三日、樵(きこり)に従って進み、長い時間歩き続け、峠をふたつ越えた。山道を下ってはまた登り、またひとつ峠を越えた。ふたつの峰がともに険しいので、双嶺と言う。全部で十五里歩き、江村(今の崗村)を過ぎた。また二十里進んで、湯口に到着した。ここは香渓、温泉それぞれの渓流が流れ出る所である。向きを変え、山に入り、渓流に沿って少しずつ山を登った。足先は雪の中に埋まってしまった。五里歩き、祥符寺(別名を「湯寺」と言い、宋の大中祥符六年(1013年)創建)に着いた。温泉(黄山温泉)は渓流を隔てて見える所にあった。

現在の黄山温泉

 

皆は服や靴を脱いで温泉につかり、身体を洗った。温泉池の前は渓流に臨み、後方は岩壁に寄り掛かり、三面には石が積み重ねられ、上には石の棒が丸く架け渡され、橋のようになっていた。温泉の水深は三尺(1メートル)あり、この時は冬でまだ寒い時期であったので、温泉のガスが盛んに出ていて、泡が池の底からブクブクと沸き起こり、その香りは元々たいへん清々しいものだった。黄貞父は、黄山の温泉は盤山(天津薊県の西北にある。主峰掛月峰は海抜864メートル)より劣る。というのも、湯口や焦村は交通の要衝で、温泉を使う人が多すぎて、騒々しくてゆったりできないからだと言った。入浴を終え、祥符寺に戻った。揮印和尚が私たちを連れ、蓮花庵に登り、渓流に沿って更に上まで足を踏み入れると、渓流の水は岩の間の暗渠で流れが止まっていた。この暗渠を丹井と言った。丹井の傍で石が突き出ていて、「薬臼」、「薬鍋」と言った。渓流に沿って回り道をして前に進むと、四方をそびえ立つ峰々に囲まれ、樹木と岩石が互いに引き立てあっていた。このような景観の中を一里歩くと、寺のお堂が現れた。ここの印我和尚は用事で外出されていて、私たちはお堂に入って休息することができなかった。お堂の中の香炉や鐘、太鼓の台座は皆、天然の古木の根に彫刻をして作ってあった。祥符寺に戻り、宿泊した。

 

四日、終日ひとり座って雪が滑り落ちる音を聞いていた。

 

五日、曇天で寒さがたいへんひどく、私は無理に寝床で布団を被って横になり、昼になってようやく起床した。揮印和尚はまた、慈光寺が近くにあると言い、弟子に私たちを案内して遊覧に行かせた。温泉池を通って、山の崖を仰ぎ見ると、崖の真ん中に危険な小道が架け渡されていて、小道の両端を勢いよく流れ落ちる湧水は真っ白な絹の布のようであった。私はここから山を登った。湧水はきらきら輝き、また霧となり、着衣の前後にまとわりついた。やがて向きを変えて右へ向かい、かやぶき屋根の寺院の庵が上下に見え、罄(けい。金属でできた打楽器)を鳴らす音や線香の煙が岩を越え広がっていた。ここが慈光寺であった。

現在の慈光寺(慈光閣)

 

慈光寺は旧名を硃砂庵と言った。僧が私に、「山頂はあちこちに静かな庵があるが、道が雪で閉ざされてもう二ヶ月になる。今朝、人を出して食糧を届けに行かせたが、山は大半が人の腰まで雪が積もっていて、通ることができず、戻って来た。」と言った。私は大いに興ざめし、広い道を二里下って下山し、宿の祥符寺に戻り、綿入れの上着を着て眠った。

 

六日、天気は快晴だった。ひとりの道案内を見つけ、めいめいが竹の杖を持って山を登り、慈光寺を過ぎた。

黄山遊覧図(赤丸で囲った所が徐霞客の訪問地)

 

左側から上に登ると、山の峰を岩壁がぐるりと囲み、峰と峰とが互いに接近し、その中を石段が積雪で覆われ平らになっていて、一目見ると白玉のようにすべすべした感じであった。まばらに植わった樹木は一面やわらかな雪で覆われ、その中を仰ぎ見ると、黄山の峰々が複雑に絡み合い、ただひとり天都峰だけが群峰の上に巍然(ぎぜん)とそそり立っていた。

天都峰

 

登り道を南里か歩くうちに、石段は益々険しくなり、積雪も益々深くなった。日陰の雪は凍って氷となり、硬くてつるつる滑り、足を踏み入れてしっかり立つのは容易でなかった。私ひとりが前進し、竹の杖で氷に穴を穿ち、開けた穴に前足を踏み入れ、さらに穴を穿ち、後ろ足を移動させた。同行者は私に従って、同じやり方で前に進んだ。平岡まで登ると、蓮華峰、雲門峰などの山が奇抜さや秀麗さを争い、天都峰のため護衛をしているかのようだった。

慈光寺から天門坎を経て光明頂を目指す

 

切り立って険しい峰であれ、高く険しい岩壁であれ、どれも奇妙な形をした松の木(「黄山松」という固有種)がぶら下がりぐるぐる巻きつき、背の高いものでも二丈(6メートル)を越えず、背の低いものはわずか数寸(1寸は3.3センチ)で、平たい頂上の松の幹や松葉はたいへん短く、複雑に絡み合い、枝や幹は虫のように湾曲し、太く短いものほど老いた松で、背の低い松ほど怪異に見え、はからずもこうした珍しい風景の山中に、かくも珍しい松の品種があるものと感心した。

黄山松

 

珍しい松と風変わりな岩石が互いに引き立てあう風景の中、一群の僧侶たちがあたかも天から降りて来るかのように、私たちに方にゆっくりと歩いて来た。皆、合掌して、こう言った。「雪のため山中に閉じ込められて三ヶ月になり、食糧を探してなんとかここまで来ました。皆さん方はどうして山を登って来られたのですか。」また、「私たちは前海の各庵の僧で、皆山を下りて来ました。后海の山道はまだ通じておらず、ただ蓮華洞の道だけが通行できます。」と言った。それから、天都峰の側面から登って、峰と峰の間の隙間を抜けて山を下り、東に向きを変えれば、蓮華洞に行く道であった。私はにわかに光明頂と石筍矼(せきじゅんこう)の景勝を遊覧したいと思い、蓮華峰に沿って北に向いて歩き、上り下りを何度も繰り返し、天門(天門坎。「坎」(かんkǎn)はくぼみや穴のこと)に到達した。

天門(天門坎)

 

天門の両側は刀で削ったような垂直に切り立った岩壁で挟まれ、中間の幅は肩と肩が触れ合ってやっと通れるほどしかなく、高さは数十丈(1丈は3.3メートル)あり、見上げると、気味が悪くて身の毛がよだった。天門の積雪は更に深く、氷に穴を穿って上に登り、ここを過ぎると平頂に至った。ここが人々の言うところの前海である。ここから更に一峰登ると、平天矼(「矼」gāngは尾根のこと。海抜1841メートルの光明頂をピークに、海抜1800メートルあまりの尾根が1キロにわたり続く)に着いた。

平天矼(赤い四角で囲った尾根)

光明頂(今は気象台の建物がある)

 

平天矼の上で際立って聳え立っているところが、光明頂である。平天矼から下って

行くと、いわゆる后海である。おおよそ平天矼の南面が前海で、北面が后海。最も高い場所で、四方はいずれも急峻な窪地になっていて、ただここだけが平地のようになっていた。前海の前方の天都、蓮華のふたつの峰が最も高く険しく、その南側は徽州府(黄山以南の安徽省南部、一部江西省を含む)の歙県に属し、その北側は寧国府(黄山以北の安徽省)の太平県に属する。

黄山は徽州府と寧国府の境に聳える

 

私は平天矼に着くと、光明頂に登りたいと思った。これまで山道を三十里歩いてきたので、たいへん空腹であった。それで平天矼の後方の庵に入った。庵では僧侶が石の上に南を向いて座っていた。庵の住持は智空と言う名であった。客が腹をすかした様子なのを見て、先ず粥を出してもてなしてくれた。更にこう言った。「今しがた顔を出した太陽は明るすぎるので、おそらく天気は長続きしないだろう。」そしてひとりの僧侶を指さして私に言った。「徐さん、もしまだ体力がおありなら、先に光明頂に登ってから昼食をとった方がよい。そうすれば今日中に石筍矼まで行くことができる。夜はこの僧のところに泊まるとよい。」私は智空和尚の言う通り、光明頂に登った。天都、蓮華の二峰が前方に肩を並べて聳え、翠微、三海門は後方をぐるりと取り囲んでいるのが目に入った。

天都峰(左)と蓮華峰(右)

 

下の方を見下ろすと、切り立った崖や険しい尾根が大きな山の窪みの中に並んでいた。そこは丞相原である。光明頂の前の巨大な石は、一段低く伏して後、また改めて聳え立ち、勢いが中断したかのようで、ただひとり孤独に山の窪地の中にぶら下がっていた。石の上には奇怪な松の木が根や枝を複雑に絡み合わせて覆いかぶさっていた。私は体を傾けて巨石の上に登って座り、潯陽xúnyáng(江西省九江)の大叔父(父親の叔父)は光明頂の頂上に私と向かい合って座り、各々景色の極めて優美なのを自慢し合った。

 

光明頂を下り、庵に入ると、黄粱飯(大粟を炊いた飯)がもう炊きあがっていた。食事を済ませて後、北に向かい、峠をひとつ越え、草木が生い茂った林の中を徘徊し、とある庵に入った。庵の名は獅子林といい、智空和尚が言っていた今晩の宿である。獅子林の住持は霞光といい、既に庵の前で私を待ってくれていた。彼は庵の北側のふたつの峰を指さして言った。「徐さん、先にここの景勝地の遊覧を済まされてはどうですか。」私は彼の勧めに従った。身をかがめて二つの山の峰の北側をのぞき見ると、山の峰が数多くあり、また峰が並んで一緒に聳え立ち、その容姿を互いに争い、たいへん珍しい景観であった。ふたつの峰に沿って西に向かうと、崖が突然途切れ、木の橋を架け渡して、両側に行き来できるようになっていた。上には一本の松の木があり、つかまりながら木橋を渡ることから、接引崖(「接引」とは仏教用語で「教え導く」こと。渡仙橋、接引橋とも呼ばれ、始信峰と臥雲峰の間に架け渡されている)と呼ばれていた。

接引崖(臥雲峰)

 

接引崖を過ぎ、岩の隙間を通って上に登った。雑多な石がつなぎ合わさったところはたいへん危険なので、木材を石の梁に架け渡してあり、通行が可能であった。けれども、岩の上に座って、下を覗き見れば、景観はより壮麗であった。接引崖を下って、小道に沿って東へ一里あまり行くと、石筍矼であった。

石筍矼

 

石筍矼の尾根は傾斜して続いており、両側に挟まれた岩壁が山あいに架かり、大小様々な峰が雑多に並び、その西側の面は接引崖で覗き見た場所であった。石筍矼の側面は峰がひとつ飛び出し、上には多くの形の面白い石や松があった。峰のてっぺんに登り、谷間を俯瞰すると、ちょうど接引崖と向かい合い、山を巡って見る位置を変えると、前方の景色も変化していった。

 

山頂より下りると、夕陽が松の木を取り囲んでいるのが見え、明日の天気は晴れるに違いないと思われ、思わず飛び上がって喜んで獅子林庵に戻った。霞光和尚はお茶を出してくれ、私を前楼(表の建物)に案内した。西を眺めると、空の端にひとすじの青緑色の影が見えた。私は山の影かと思った。霞光和尚は、「山影は夜は近くに見えます。これは雲に違いない」と言った。私はこれが雨が降る兆しと知り、言葉を失った。

 

七日、四方の山は皆、霧で覆われてしまっていた。しばらくして、庵の東北側の霧が晴れたが、西南方向は相変わらず濃い霧の中で、仮に庵を境界とすると、近くにある獅子峰も霧の中から時々顔を出したり消えたりする状態だった。朝食後、接引崖から積雪を踏みしめて山を下った。山あいの中腹のところに峰がひとつ突き出し、峰の上には松の木が石の割れ目から抜け出して生え、その太い幹は高さが二尺(60センチ)にも達せず、斜面に沿って伸び、曲がってとぐろを巻き、緑の葉の茂った枝は曲がってぐるりと巡って三丈(10メートル)あまりの長さがあり、根は上に下に石や岩を貫き、その長さはほぼ山の峰の高さにも相当した。これがいわゆる「擾龍松」である。

擾龍松

 

山の中をしばらくあちこち見ていると、獅子峰が姿を現してきた。

獅子峰

 

それで杖をついて西に向かった。この山は獅子林庵の西南の方向にあり、案山と呼ばれていた。案山の頂に登ると、三面が垂直に切り立って山あいに聳え、山の下には様々な形の尾根や数多くの峰があり、石筍矼、接引崖の二ヶ所の山あいから曲がりくねって連綿とここまで続き、ぐるりと巡ったり巻き付いたりして、またひとつ景勝を形成していた。高みに登って遠くを眺めているうちに、濃霧は次第に消えて爽やかに晴れ渡ってきたので、急いで石筍矼の北側から転じて山を下ると、ちょうど昨日、峰の頂から見えた薄暗い道である。群峰は高いものも低いものもあり、巨大なもの細く小さいもの、直立し険しく高いもの、傾斜したものがあり、その中をしばしば体を差し入れたり、回り道したりして進んだ。見上げたり見下ろしたり覗き見たりし、次々場所を移しつつ振り返ると、一歩歩くごとに新たな感動が生まれて来た。とはいえ、渓谷は深く、厚い積雪に覆われ、一歩歩く毎に新たな恐怖が生まれて来た。

 

五里進むと、左側の山の峰の脇に穴が開いていてそこから日の光がさしていた。ここを「天窓」と言った。さらに前に進むと、山の峰の傍らの石が突き出て、人の顔のような形状になっていた。これが「僧座石」である。山の下に五里進むと、道はやや平坦になり、渓流に沿って前進した。突然前方の渓流の中に大小様々な石が勝手気ままにころがり、道はそのため塞がれていた。地面の石を乗り越えてしばらく行くと、新たに崩れたばかりの崖の裂け目が見え、岩壁のひとつひとつが今にも落ちてきそうで、そこで改めて進むべき道を見つけた。峰の頂上を見上げると、一方に黄色い痕跡があり、中間に緑色の文字がさながら判別できるかのようであった。これが「天牌」で、「仙人榜」とも呼ばれる。

仙人榜

 

さらに進むと、「鯉魚石」(コイ石)に着いた。

鯉魚石(コイ石)

 

さらに行くと、白龍池である。合計十五里の道を歩き、茅葺の小屋が渓流のほとりに現れた。これは松谷庵の旧跡である。さらに五里進み、渓流に沿って東西の方向に歩き、更に渓流を五本越えると、松谷庵に着いた。

松谷庵

 

更に渓流に沿って下ると、渓流のほとりから良い香りが漂ってきた。これは、一本のしなやかな梅の木がちょうど花を咲かせたもので、渓谷は厳しい寒さで到るところ雪に覆われているが、ここまで来ると、ようやく花のかぐわしい香りがし始めていた。青龍潭に着いた。ここはエメラルドグリーンの深い淵になっていて、二本の渓流が合流し、白龍潭に比べ、水の勢いは雄壮で、大きな石が聳え立ち、勢いよく流れる渓流の水がこの池に注ぎ込み、遠くや近くの峰々に取り囲まれ、ここも美しい景観を形成していた。松谷庵に戻り夕飯を食べ、松谷庵旧跡の茅葺小屋に宿泊した。私は最初に松谷庵に着いた時、ここはもう平地だと思ったが、ここの人に聞いてみると、まだ峠をふたつ越え、山道を二十里歩いてようやく平地を捜すことができ、太平県まではまだ三十五里の道のりがあるとのことであった。

 

八日、石筍矼の神秘の場所を探しに行こうと思っていたが、図らずもなんと神様にその機会を奪われてしまった。濃霧が山野一面に広がり、獅子林に着いた時は、風が更に強くなり、霧も益々濃くなった。私はにわかに煉丹台に早く行きたくなり、それで体を西南の方向に転じた。三里歩いたが、濃霧で道を見失い、偶然一軒の庵を見つけたので、その中に入った。大雨が降りだしたので、ここに宿泊せざるを得なかった。

 

九日、お昼過ぎに、天気はやや回復してきた。庵の住持は慈明と言い、庵の西南一帯の山や洞穴は石筍矼に負けず劣らず険しく珍しい景色で、「禿顱朝天」、「達摩面壁」などの景勝は遊覧する値打ちがあると褒め称えた。私は潯陽の大叔父を助けながら川を越え渓谷に到り、北に行けば翠微峰などの峰で、南に行けば煉丹台などの山あいで、景色はおおよそ獅子峰と肩を並べるほどだが、石筍矼ほどではなかった。雨が休まず降りだしたので、私たちは急いで庵に帰った。

 

十日朝から大雨が降り注いだが、お昼にはしばし降りやんだ。杖をついて二里の道を歩き、飛来峰を通過した。ここは平天矼の西北側の尾根である。飛来峰の南側の山あいには、山の峰の岩壁がそそり立ち、ちょうど煉丹台と互いに輪のようにぐるりと巡っていた。二里行くと、煉丹台に着いた。

煉丹台。後ろは光明頂

 

西向きに垂れ下がった峰の頂上は平坦になっていて、三方は青々とした樹木で覆われた岩壁が重なり合い、前方には小さな峰が山あいに突き出ていて、山あいの向こう側には翠微峰、三海門が人の足や足首のように取り囲んで聳え立っていた。峰の頂上に登り、四方をしばらく眺めていた。東南に向け一里行くと、平天矼から巡って下ることになる。雨がひどくなってきたので、急いで天門に下った。両側は狭い隘路になっていて、肩幅の隙間しかなく、崖の頂上から湧水が頭の上から降り注いできた。天門を出ると、高く聳える岩壁がぶらさがって折り重なり、道は崖に沿って山の中腹に延びており、后海一帯の厳めしい山の峰、切り立った岩壁と比べると、また別の雰囲気の景色に変化した。「海螺石」(ほら貝石)は岩壁の傍らにあり、巻いた形態が本当にほら貝のようであった。

海螺石

 

来た時は見落としていて、詳しく観察する暇が無かったものが、今は雨の中を歩いていて、却ってその珍しいところがよく理解できた。これは、他の人に尋ねてみて分かったことだ。その後、大悲庵に行き、大悲庵の傍からまた別の庵に行き、悟空上人の所に一泊した。

 

十一日、百歩雲梯を登った。百歩雲梯の石段はたいへん急で、あたかもまっすぐ青い空に挿入するようだった。

百歩雲梯

 

石段を登る時は、足の指がほとんど顔に触れるほどであり、石段の傾斜や中間の隙間がたいへん大きく、高く突き出ていて、動こうとしているかのようだった。先だって山を下ってきた時は積雪のためその険しさが覆い隠されていたが、今になってそれがはっきり見え、思わず身の毛がよだち、恐ろしくなった。百歩雲梯を登り終え、そのまま蓮花峰へ向かう道を登った。また下に向きを変え、蓮花峰の側面から前へ進むと、文殊院、蓮花洞へ通じる道であった。雨がずっと止まないので下山し、温泉の施設に入り、再び沐浴した。湯口を出て道を二十里行くと芳村に着き、さらに十五里行くと東潭に着いた。渓流は水かさが急に増して渡ることができず、ここで行程を止めた。黄山を流れる渓流は、松谷渓、焦村渓は何れも北に向いて太平県に流れている。たとえ南に向け流れる湯口渓も、北に向きを変え、太平県に流れて後、更に長江へ流れてゆく。ただ湯口の西側に一本の渓流があり、芳村まで行くと大きな河川となり、南に流れ岩鎮へ行き、徽州府(今の安徽省歙県(きゅうけん))の西北で績渓と合流する。


『徐霞客遊記』を読む(3)遊白岳山日記

2021年10月11日 | 中国文学

白岳山(斉雲山)

 

白岳山は安徽省休寧県城の西にあり、今は斉雲山と呼ばれます。道教の四大名山のひとつで、山上には碑文や摩崖石刻が数多く残されています。万暦四十四年(すなわち丙辰の年、1616年)1月、徐霞客は安徽省に入り、先ず白岳山、次いで黄山を旅行しました。白岳遊覧は1月26日から2月1日の間ですが、大雪と悪天候で、宿に止まる時間が長く、天気が回復したわずかな時間に、あわただしく景勝地を巡っています。

 

 

丙辰の年(1616年)、私は潯陽xúnyáng(江西省九江)の大叔父(父親の叔父)といっしょに、一月二十六日、徽州府休寧県に到着した。県城の西門から出発した。

休寧県より白岳山(斉雲山)を目指す

 

そこを流れる渓流は、祁門県qíménxiànから流れて来て、白岳山を通って、県城に沿って南に向け流れ、梅口に至って郡渓水と合流し、浙渓水(今の率水で、新安江の上流)に流れ込んでいた。渓流に沿って上って行き、二十里(10キロ。1里は0.5キロ、以下同じ)歩き、南渡(今は蘭渡と言い、休寧県のやや西にある)に着いた。(横江に架かる)橋(登封橋)を渡り、山の麓に沿って十里行き、岩下(今は岩前、岩脚と言い、休寧県の西の端である。横江の南岸。)に着くともう夕方であった。

横江に架かる登封橋を渡ると白岳山の麓の岩下(岩前鎮)に着く

 

山を登り五里行き、廟の中の提灯を借用し、降りしきる雪の中、雪や氷を踏みしめ、二里の道を歩き、天門を過ぎ、更に一里あまり歩き、榔梅庵(現在、跡地に榔梅苑というホテルが建つ。月華街にある。月華街は海抜585メートルの絶壁の上にあり、「天街」、「月華天街」とも呼ばれる。)に着いた。

月華街

 

斉雲山遊覧図(上が南)

 

道は途中、天門、珠簾の景勝地を通るが、それらを眺める暇も無かった。ただ、樹々の間を氷雪が下に落ちるカンカンという澄んだ音が聞こえた。榔梅庵に着いて後、雹がずいぶん降ってきたが、潯陽の大叔父と召使たちはまだ後方にいて、到着していなかった。私はひとり山小屋のベッドに横になった。一晩中、軒から水が垂れる音が聞こえ、眠ることができなかった。

 

二十七日の朝、起床すると、山中が雪や氷に覆われ、天地は一面白銀の世界であった。建物の中で座っていると、ちょうど潯陽の大叔父と召使たちが到着した。それで、一同はいっしょに太素宮(南宋の宝慶2年(1226年)創建の道教寺院。元の名を真武祠と言い、明代により名前を玄天太素宮と改めた)に登った。

太素宮

 

太素宮は北向きに建っており、伝説ではこの中にある玄帝(中国神話の北方の神で、道教では真武大帝と言う)の塑像は、百鳥が泥を口にくわえて来てできたものだと言われており、顔は黄みがかった黒色をしていた。塑像は宋代に完成し、大殿は嘉靖三十七年(1558年)に新たに建立されたもので、庭に碑文があり、明の世宗皇帝が自ら建てさせたと書かれていた。左右両側には、王霊官、趙公元帥を祭った殿宇が建ち、何れも雄大で壮麗であった。太素宮の後ろには、玉屏に背をもたれるように斉雲岩があり、前方は香炉峰に臨んでいた。

香炉峰

 

香炉峰(海抜945メートル)は数十丈(30メートル余り)の高さ突き出ていて、鐘を伏せたような形をしており、天台山や雁宕山へ行ったことの無い人が見ると、たいへん珍しく感じるだろう。廟を出て左に行くと捨身崖に至り、向きを変えて上に登ると紫玉屏、更に西側は紫霄崖で、何れも高く聳え、先端が突き出ていた。

紫霄崖

 

更に西には三姑峰、五老峰、文昌閣がその前方に立っていた。五老峰は五人の老人が肩を並べて立っているようで、決して険しくはないが、筆立てのようであった。

五老峰

 

榔梅庵に戻り、昨夜歩いた道に沿って、天梯まで下りた。すると、三方が崖で囲まれ、上は岩で覆われ、下は崖の中にはめ込まれ、まるで回廊のようになっていた。

真仙洞府

 

崖に沿って前に進むと、泉の水が崖の外側に飛び散り、珠簾水の景勝地であった。崖の奥深くにはめ込まれているのが羅漢洞(真仙洞とも言う)で、洞窟の外は広く開けているが、中は天井が低くなっていて、奥行きが十五里あり、東南方向に南渡に通じていた。

羅漢洞(真仙洞)

 

崖の尽きるところが天門(一天門。形が象の鼻に似ているので、象鼻岩とも言う)である。崖の中間は空洞になっていて、人はその中を出入りすると、広々として爽快で、反り返った軒先が高く聳えているようで、正に神話の中の天門にいるかのように感じられた。

一天門

 

天門の外には、りっぱな楠木が聳え立ち、松の木がとぐろを巻き、緑の葉が生い茂っていた。天門の崖の一帯は、珠簾水の水が勢いよく飛散し、第一の景勝地であった。榔梅庵に戻って休息し、五井、橋崖の景勝地のことを尋ねると、汪伯化道士が私たちを明日朝案内してくれることになった。

 

二十八日、眠っていると、誰かが外は大雪だと言うのが聞こえ、召使を起こして見に行かせたところ、山も谷も一面雪で埋まっているとのことだった。気になったが、私は無理やり横になった。朝、巳の刻(午前9時から11時の間)に、汪伯化道士と一緒に靴を履いて二里歩き、再び文昌閣に着いた。あたり一面銀世界で、五井の景勝の遊覧はできなくなったが、より一層すばらしい景色を鑑賞することができた。

 

二十九日、召使たちが、「雲はもう消え去り、陽の光が林の木々を照らしています。」と報告してくれた。私は急いで服を着て起床した。空は一面の青空だった。この半月というもの、こんな良い天気を見たことが無かった。けれども寒さはたいへん厳しかった。汪伯化道士を急かして一緒に食事をとった。食事の終わる頃には、大雪がまた降ってきて、新雪が一尺以上の厚みで積もった。たまたま建物の前まで来た時、香炉峰がちょうど前方にそびえ立っているのが見えた。建物の後ろから程振華という道士がやって来て、私に九井、橋岩、傅岩それぞれの景勝の状況を説明してくれた。

 

三十日、雪は一層ひどくなり、また濃霧が一面に広がり、近い距離でも方向を判別することができなかった。汪伯化道士は酒を手に提げて捨身崖に行き、娣元閣で一緒に雪見酒を酌み交わした。娣元閣は崖の側面にあり、氷柱(つらら)が一本崖の上から垂れ下がり、長さはなんと一丈(3.3メートル)に達した。山並みの影も雪と濃霧の中に消えてしまい、香炉峰のように近いところにあっても、その影を見ることはできなかった。

 

二月一日、東の方でひとすじの雲が消え、空は大いに晴れてきた。潯陽の大叔父は足にあかぎれができて、歩くことができず、榔梅庵に留まり休むことになった。私は急いで汪伯化道士と西天門(紫雲関のこと)を通って山を下った。

紫雲関

十里歩き、双渓街を抜けると、山は開けてきた。更に五里進むと、山は再び次第に空を塞ぎ、渓流があたりを巡り、岩が渓流に映り、旅先での愉快な気持が倍増した。三里の道を歩き終わり、渓谷の入口から小道に入り、山をひとつ越えた。二里進み、石橋岩に着いた。

石橋岩

 

石橋岩の側面の外岩は、白岳山の紫霄岩のように高く険しく延々と続いていた。外岩の下には岩石を利用してお堂にしていた。岩の色は紫で、ただ一匹のうねうねした青色の石の龍が中にいて、龍の頭は垂れて突き出ること一尺あまりの高さで、水が龍の口から下に流れ落ち、龍涎泉と呼ばれ、雁宕山の龍鼻水のようであった。外岩の右側は、ひとつの山が横跨ぎに越えていて、山の中間は空洞になっていて、これが石橋である。石橋は虹のように空中に掛かり、下の空間はちょうど半月のようであった。石橋の下に座ると、山を隔ててもうひとつの山が突き出て聳え立ち、石橋を取り囲んでいて、周りをたくさんの峰に囲まれていた。風景が斉雲山の天門より優れているのは、天台山の石梁で、巨石がふたつの山の間に架かっているだけだった。それに比べ、ここではひとつの山が両側に高く架かり、中間は半分が中空になっていて、より一層巧みで変わっていた。石橋を通り、一里あまり行くと内岩である。内岩の上では泉が噴き出ていて、中では僧侶が精進飯を提供してくれ、本当にすばらしいところだった。

 

外岩に戻って食事をし、道案内を捜し、崖に沿って左側に下山した。灌木や草むらの中、ふたつの山の間に一本の渓流がはさまり、道は歩きにくく、加えて大雪が一面に降り積もり、前に進むのはたいへん困難だった。案内人は私に傅岩に行くべきで、観音岩には行く必要ないと勧めた。私は棋盤と龍井の景勝地をどちらも見られなくなるのが心配だった。それは許されない。二里進み、渓流の中に深い淵があるのを見つけた。水は青緑色で、深く底なし沼のようで、「龍井」のようであった。また三里行き、崖と渓流とが尽きると、滝が突然山間の窪地から数丈の高さで流れ落ち、これも珍しい景色だった。道を転じて上に登り、山の尾根を二里進むと、棋盤石が山頂に高く聳えているのが見えた。形は手で掲げ盛ったキノコのようで、大きさは何人もの人で抱えるほどあった。棋盤石に登ると、上を覆った積雪が真っ白な玉のようであった。振り返って傅岩を見ると、高く雲の際まで聳えていた。傅岩から棋盤石までの距離はたいへん近く、道案内の勧めに従わなかったことを後悔した。棋盤石の傍には文殊庵があり、庵の中の青竹は青緑色で、山の石は美しく、互いに照り映えていた。向きを東に変え、さらに南を向いて二里進み、峠をふたつ越えて、山の中腹に観音岩が見えた。観音岩禅院は清らかできれいに整っていたが、格別珍しい景色ではなかった。とりわけ後悔したのは、傅岩は見ることができたが、傅岩を遊覧する機会を失ってしまったことである。引き続き峠を越えて東に向いて深い穴に下りて行った。渓谷の四方は崖で囲まれ、時折深い淀みが現れ、大きなものは淵、小さなものは木の臼のようで、皆「龍井」と言うが、どれが「五龍井」でどれが「九龍井」か、見分けがつかなかった。更に前に、都合三里進むと、岩の中に石紋がかすかに見られた。案内人がその中の一ヶ所は「青龍」、また別の一ヶ所を指して「白龍」と言ったので、私は微笑んで頷いた。またでこぼこの崖の中間に石が岩壁にはめ込まれ、つり下がって空中に垂れさがり、水が下に流れ落ち、外から見ると横向きの石が跨いでいて、天台山の石梁にたいへんよく似ていた。汪伯化道士は夕暮れが近いので、私にはやく谷に沿って大龍井を尋ねるよう求めた。思いがけなく、黄山から戻って来た僧侶に出逢ったので、道を尋ねると、「ここを出ると大渓だが、まだ他にどんな景色を見ようというのかね。」と言われた。それで遂に引き返した。

 

一里あまり歩いて、また別の小道から漆樹園に向け進んだ。切り立った岩がそびえ立つ中、夕陽が深く茂った木々を照らし、たいへん静かで美しかった。三里の道を歩き終え、漆樹園の山頂へ山道を登った。私は実はこの山の高さは斉雲山と同じくらいだと思っていたが、仔細に見てみると、文昌閣の方がより高く聳えているのが分かった。五老峰はちょうど文昌閣と相対して聳えており、その東側は独聳寨で、独聳寨の山あいに沿って出たところが、西天門と呼ばれていた。五老峰の西側が展旗峰で、展旗峰から下って渓流を渡ったところが、芙蓉橋と呼ばれていた。私はこれまで、西天門から出てきたが、今度は芙蓉橋から入ることになる。三姑岩の傍らを見ると、夕陽の輝きがまだ残っているので、先ず上に登って、西に沈む夕陽が五老峰の間をゆっくりと下に沈んでいくのを見た。榔梅庵に戻ると、もう夕食の時間であった。今日一日の行程を話していて、大龍井はちょうど大渓の入口であったことが分かった。足跡はそこまで至ったことであるし、僧侶に止められて遊覧できなかったのも、また運命だと思った。

 


『徐霞客遊記』を読む(2)遊雁宕山日記

2021年10月04日 | 中国文学

 

雁宕山yàndàngshānは雁蕩山(発音は同じ)のことで、浙江省温州市楽清市東北に位置しています。約1億年前に火山活動によって誕生した山塊が、長い年月をかけて侵食され、奇妙な岩峰となって残ったものです。山頂に湖(また「蕩」と言う。「蕩」は浅い湖のこと)があり、昔は湖が年中涸れることがなく、春に雁が北に帰る時、多くこの地に宿ったので、「雁蕩山」と呼ばれるようになりました。徐霞客は明の万暦41年(1613年)、天台山に続き、4月9日から15日までの間、雁宕山を巡りました。同行奢は天台山と同じく、江陰迎福寺の蓮舟和尚でした。文章では、苦労して登攀する過程と、途中で見た特異な風景を記述し、歩くにつれ景観が変化する、雁宕山諸峰と龍湫瀑布の姿が生き生きと描かれています。最後に、作者は、山の頂上に登り、雁湖を探したいと願いますが、道が険しく危険で、結局雁湖まで行きつくことができませんでした。

 

 

四月九日、台山(天台山)を離れ、黄岩(今の台州市黄岩区)に着いた。日は既に西に傾き、南門を出て三十里歩き、八嶴ào(浙江、福建の沿海部での山間の平地の呼称)に宿泊した。

天台山と雁蕩山の位置関係

 

十一日、二十里行き、盤山嶺(浙江省楽清市山門郷)に登る。雁宕山の諸峰を望むと、芙蓉の木が天を衝いて聳えていた。一片一片の花びらのような景色が見る者の目に飛び込んできた。また二十里行き、食事を大荊驛(驛站。昔の宿場。楽清市東北で、黄岩との境界)で取った。

行程:大荊→接客僧→東石梁洞→霊峰寺→霊岩寺

 

南に一本の渓流を渡ると、西側の山の峰に丸い石が一個あるのが際立ち、召使たちは二頭の駱駝岩だと言い、私は老僧岩ではないかと疑ったが、どうもそれらしくはなかった。五里行き、章家楼(大荊驛の南、明の人、章巘が建てた)を過ぎ、初めて老僧岩(接客僧)の本当の姿が現れた。

老僧岩

 

袈裟を着て、頭のてっぺんが禿げあがり、本当に人のような姿で直立していた。高さはおよそ百尺(30メートル)。傍らには一人の子供が腰を曲げ背中を曲げて後ろをついて来るかのような石像があったが、通常は老僧によって覆い隠されてしまっていた。章家楼を出て二里行くと、山の中腹に石梁洞(東石梁洞)があった。

石梁洞

 

洞窟の入口は東に向いており、洞窟の入口に石梁(石橋)があり、洞窟のてっぺんから斜めに地面まで挿し渡され、空の虹が垂れ下がっているかのようだった。石梁の側面の隙間から一層一層と階段を上がると、上面は高く広々としていた。座ってしばらく休憩してから、下に降りて出発した。右側の山麓から謝公嶺(楽清県東北。晋の詩人、謝霊運が曾てこの地を遊覧したことから名付けられた)を越え、一本の渓流を渡り、渓流に沿って西へ向かった。これは霊峰(高さ270メートルほど。右側の倚天峰と合わせると手のひらのように見えることから、「合掌峰」、「夫妻峰」と呼ばれる)へ向かう道であった。山の中腹を回るやいなや、両側の岩壁が切り立って直立し、天まで届くほどで、険しい峰が何重にも重なり合い、その姿かたちは様々であった。あるものは刀で削られたように直立し、あるものは峰の群れに取り囲まれたようであり、あるものはタケノコが並んだよう、あるものはまっすぐ伸びた霊芝のようであり、あるものは筆のように直立し、あるものは頭に被る頭巾のように斜めに傾いていた。洞窟の入口は巻かれたとばりのようになっており、池の淵は清く澄んだ藍のような青色だった。双鸞峰、五老峰が翼を接するように並んでいた。このように数里進み、霊峰寺に着いた。

霊峰

霊峰寺

 

寺の横の山道に沿って、霊峰洞に登った。霊峰の真ん中は中空になっていて、特異な感じで寺の後ろに聳えており、側面には隙間があって、中に入ることができた。隙間のところから数十段の石段を登ると、洞窟の上に直接到達できた。

霊峰洞

 

その一番奥の平らな台の周りは広くなっていて、そこには十八羅漢などの塑像が置かれていた。台に座ってあたりの景観を眺め、日が暮れて暗くなってから霊峰寺に戻った。

 

十二日、 食後、霊峰の右側の山すそから碧霄洞を探しに行った。もと来た道を引き返し、謝公嶺の麓に着いた。南側から響岩を経て五里進むと、浄名寺(北宋の太平興国二年(977年)建立)への分かれ道だった。更に進んで水廉谷を探した。水廉谷は、両側の崖が迫り、崖のてっぺんから水が流れ落ちる所だった。水廉谷を出て五里行くと、霊岩寺(北宋の太平興国年間建立)に着いた。

霊岩寺

 

ここでは四方が絶壁に取り囲まれ、切り立った崖が天を衝くように聳え、曲がりくねった小道が中に通じ、まるで別の広い世界が開かれたかのようであった。霊岩寺はその真ん中に位置し、南に向き、背後は屏霞嶂píngxiázhàng(「嶂」は屏風のように切り立った山)であった。

屏霞嶂

 

屏霞嶂の頂上は平らで整っており、岩石は紫色を呈し、高さは数百丈(300メートルあまり)あり、幅と高さはつり合いが取れていた。屏霞嶂の最も南のところには、左側に展旗峰、右側に天柱峰があった。

霊岩寺付近

展旗峰

天柱峰

 

屏霞嶂の右脇に、天柱峰を介して、先ず最初に見ることができるのは龍鼻水(龍鼻洞)である。

龍鼻水(龍鼻洞)

 

龍鼻水の洞穴は、岩の隙間からまっすぐ上を向いていて、霊峰洞のようであったが、大きさはやや小さかった。洞穴内の岩石の色は黄みがかった紫色で、ただひとつある隙間にはひとすじの石紋があり、赤みがかった青色でしっとり湿っていて、龍の鱗や爪のような形をしていた。洞窟の頂上から洞窟の底までつながっていて、落ち込んだ一方の端は人間の鼻のようで、鼻の先端の石の穴は手の指を入れることができ、水は石の穴から下に垂れ、石の盆に注ぐようになっていた。これが屏霞嶂右側の第一の奇景である。屏霞嶂の西南には独秀峰があり、天柱峰より小さいが、高さと岩の鋭利さは遜色なかった。

独秀峰

 

独秀峰の下は卓筆峰で、高さは独秀峰の半分、岩石の鋭利さはどちらもほぼ同じである。

卓筆峰

 

南側の山間の平地には、滝が轟音を響かせ流れ落ちていた。これが小龍湫瀑布(落差70メートル)である。

小龍湫瀑布

 

小龍湫瀑布を隔てて独秀峰と相対しているのが玉女峰である。玉女峰の頂上にはあでやかで美しい春の花が満開に咲き誇り、玉女のもとどりに挿した装飾のようであった。

玉女峰

 

ここから双鸞峰を経て、天柱峰が一番端に位置していた。双鸞峰はふたつの峰が並んで聳えているだけだった。峰の端にが「僧拜石」があり、袈裟を纏い、背中が曲がっている様子で、年老いた僧侶のようであった。屏霞嶂の左脇から、展旗峰を介して中間の場所は、一番前が安禅谷で、安禅谷はすなわち屏霞嶂の下の岩である。南東の面は石の屏風で、形状は屏霞嶂に似ているが、高さ、幅はそれぞれ屏霞嶂の半分で、ちょうど屏霞嶂の端に挟み込まれている。石の屏風のてっぺんには「蟾蜍石」(ヒキガエル石)があり、屏霞嶂側面の「玉亀石」と相対している。石の屏風から南に行くと、展旗峰側面のしわの中に、細い道がまっすぐ峰のてっぺんまで通じていて、石段の終点は、石の敷居で隔てられている。体を石の敷居でかがめて覗き見ると、下は地面が見えず、頭の上には高い天空がはめ込まれている。展旗峰の外にはふたつの丸い穴が開いていて、側面には長い穴がひとつあり、光が穴から中に差し込み、格別の境地である。これが「天聡洞」で、屏霞嶂の左側の第一の奇景である。

天聡洞

 

尖った峰と高い山が重なり合い、左右がめぐって相対し、奇異で緻密な景観が次々現れて尽きず、本当に天下の奇観に恥じないものである。一方、小龍湫瀑布の水は下に流れ、流れは天柱峰、展旗峰を経て、石橋が渓流の上に横たわり、霊岩寺の山門は石橋に面している。石橋の外側は、含珠岩が天柱峰の麓にあり、頂珠峰は展旗峰の上にある。これもまた霊岩寺の外観である。

 

十三日、霊岩寺の山門から出発し、山麓に沿って右に進む。道は崖だけが見え、岩壁は高さがまちまちである。流れる霞と山間の色彩が互いに照り映えていた。高く険しく、頂上が平たく横に延びているのが、板嶂岩である。板嶂岩の下に聳える、尖って狭いのが、小剪刀峰である。更に前へ進み、折り重なった岩の上に、まっすぐしっかりした峰がまっすぐ雲天に刺さっているのが観音岩である。

観音岩

 

観音岩の側面には馬鞍嶺が前方に横たわっていた。険しい山道が曲がりくねり、山間の窪地を越えて右に曲がり、渓流は力強く流れ、谷川の川底の石は細かい砥石のように平らであった。山間の渓流に沿って進み、霊岩寺をおよそ10里あまり離れ、常雲峰を経て、大剪刀峰が渓流の傍らに単独で聳えているのが見えた。大剪刀峰の北面には重なった岩が突然聳え立っていた。これは連雲峰と呼ばれている。ここから、山は輪を描き水は巡り、峰は向きを変え岩壁は合わさり、遂には崖が尽きた。大龍湫瀑布(落差197メートル)の水は、轟きながら流れ落ち、まっすぐ池の淵を打った。

大龍湫瀑布

 

岩が開けてそそり立ち、流れ落ちる水は川床で受け止められることなく、空中に舞い上がり、空を漂い、下に落ち、しばし見る者はめまいをおぼえ、恐れおののいた。池の淵の上方には寺の廟が建てられ、伝え聞くところでは、諾詎那羅漢(伝説では、唐代、眉州(今の四川省)の人で、羅堯運と呼ばれ、最初、雁蕩山に入り、大龍湫で滝を見て、悟りを開き、仙人になったと言われる)が滝を眺めたところだと言う。廟堂の後ろから石段に沿ってまっすぐ登ると、岩壁の上に高殿(亭榭)が鳥が羽を広げたように鎮座していた。滝の方を向いて胡坐をかき、しばらく眺めてから、山を下り、庵に戻って食事をした。しとしと降る雨は降りやまず、一方私の心は早くも雁湖の山頂に飛んでいた。雨の中、常雲峰に至り、常雲峰の中腹の道松洞の外から、たいへん険しい石段を三里あまり登り、急ぎ白雲庵に赴いた。人はおらず、庵は既に崩れ、一人の僧が草むらにいたが、客が来たのを見て、ちょっと眺めるとどこかへ行ってしまった。更に一里進むと、雲静庵があり、それでここに投宿した。清隠和尚はもう病で伏して十年になるが、なお客と談笑することができた。私は周囲の山が黒い雲ですっぽり覆われ、細かい雨が止まないのを見て、もの寂しいやら寒いやらで、明日朝の旅程を心配せざるを得なかった。

 

十四日、天気が思いがけず晴れてきたので、清隠和尚に無理を言ってお願いし、和尚の弟子に道案内をしてもらった。清隠和尚は、雁湖は一面雑草が生い茂り、荒れ果てた土地になってしまっていて、そこに行っても、他に見るべき所は無いが、私たちを峰の頂上までは送ってあげると言ってくれた。私は、峰の頂上に着きさえすれば、雁湖を遊覧できると思った。それで、各自が手に杖を持ち、深い雑草の生い茂る道を登り、一歩行く度に息を切らして数里の道を進み、ようやく高い峰の頂上に到達した。四方を一望すると、白雲が一面に広がり、白色が山の峰の下に平たく敷かれていた。ひとつひとつの峰は雲海に咲く花のようで、峰のてっぺんだけが露出し、太陽の光が峰の頂の上を照らした。この景観はまるで氷を盛った玉の壺のようで、けがれの無い真っ白な玉の台は神仙の世界のようで、どこに雲海があり、どこに山や川、陸地があるか、見分けることができなかった。しかし、その雲海の中の玉環山は軽やかな一筋のリボンのようで、身をかがめれば手で拾えるかのようであった。北の遠くの方を望むと、山間の窪地の中の岩壁が削り立ち、その中を石筍がびっしりと密生しており、大小まちまちで不ぞろいだった。三方を緑の木々で覆われた山の崖がぐるりと取り囲み、景色は霊岩寺よりもっと美しかった。しかし渓谷は人里離れ、地形は急峻で、たださらさらと流れる水音だけが聞こえ、それがどこから聞こえてくるのか判断できなかった。はるか四方を眺めれば、山の峰や尾根が折り重なり、低く伏せたものは小さな土まんじゅうのようで、ただ東側の山の峰だけが昂然とひとり上に高く聳え、最も東側の常雲峰が、なおこれに匹敵できそうだった。道案内をしてくれた僧は別れる時、指さしながら雁湖は西側の中ほどの山の峰の上にあり、あと尖った山を三つ越えなければならないと言った。私は道案内の言に従い、尖った山をひとつ越えたところで、道は途絶えてしまった。もうひとつ山を越えようと、登ろうとする山の頂上を見ると、そこはもう天空への途中であった。私は、こう考えた。『大明一統誌』に、「雁蕩(雁湖)は山頂に在り、龍湫瀑布の流水は、すなわちこれ雁蕩から来る」とある。現在、山の地勢は次第に下降しており、一方、龍湫に上がる渓流は、東側の高い峰から源を発していて、ここからは渓谷をふたつ隔てている。それで、行程を改め東に行き、東側の諸峰の中の高く険しい峰を目指して行くべきだと。蓮舟和尚は疲労困憊していて、私に付いて来ることができなくなった。和尚はもと来た道を下山し、私と二人の召使が東に向け山嶺をふたつ越えると、人跡は完全に消え失せた。更に、前方の山は益々高く、山の尾根は益々狭隘になり、両側を挟む岩壁は直立し、刀の背の上を進んでいるかのように感じられた。しかも石の角は切っ先が突き出ていて、尾根をひとつ越える度に、急峻な峰に遭遇し、刀や剣のように鋭利な石片の隙間をよじ登った。このようにして何度か登ったが、地勢は足を踏み入れるのも困難なほど狭いのに、どうやったらこの上に湖を収容することができるのだろうか。既に高い峰が尽きる所では、石の壁が刀で割ったように切り立ち、私はずっと鋭利な石片で手が切れやしないか心配だったが、ここまで来ると、足を置く石すら無くなってしまった。崖の上で再三躊躇したが、もと来た小道を引き返すこともできなくなった。見下ろすと南側の岩壁の下には石段があったので、召使たちが足に巻いていた布を四本脱がせて、それを結んで縄にし、断崖の上からぶら下げ、先ずひとりの召使を布に沿って降ろし、私が二番目に後に付いて降りて、そうすればよじ登る道が見つかるだろうと考えた。石段のところまで降りると、わずかに足を踏み入れることができるだけで、それ以上余分な空間は無かった。はるかに岩壁の下を見下ろすと、たいへん急峻で、深さは百丈もあり、なんとか再びよじ登ろうとしたが、上方に岩石が空中に三丈あまりの高さで突き出たところがあり、飛び越えることができなかった。手で布の縄を引っぱり、試しに上に登ろうとしたが、布の縄は飛び出した鋭利な石で締め付けられ、突然切れてしまった。もう一度布の縄をつなぎ直してそれをぶら下げ、力の限り布の縄を引っ張って空中に飛び跳ねて跳躍し、再び上方の岩の上に登ることができた。なんとか危機を脱し、雲静庵に戻った時、太陽は既に西に沈もうとしていた。私と召使たちの衣服と靴は皆破れてぼろぼろになり、雁湖を見つける興味も大いに減退してしまった。それで清隠和尚とお弟子さんに別れを告げ、下山し、再び龍湫瀑布に行った。渓流の水は雨水を蓄え、荒れ狂ったかのように勢いを増して流れ落ち、形勢の変幻は極めて大きく、滝は雪を噴き上げるかのようで、水の音の大きさは雷鳴が轟くようで、水の勢いは昨日の二倍に増していた。空が暗くなるまでずっと座ってから、ようやく山門を出、南に四里道を行き、能仁寺に宿泊し休息した。

 

十五日、能仁寺の裏山でシホウチク(四方竹。中国語は「方竹」。中国中・南部が原産、一般のタケ類は円柱形の茎をもつが、このタケだけは鈍四稜形の茎を有する。竿は杖として用いられる)を何本も探した。

四方竹

 

竹は木の枝のように細く、竹林で新しく成長した竹は、大きいもので直径が一寸(3.3センチ)あったが、柔らかくて、杖にするにはふさわしくなかった。古い竹はもうほとんど刈り取られてしまっていた。それで、分かれ道から四十九盤嶺を経て、一路東海に沿って南に向かい、窯嶴嶺を越え、楽清県へ向かった。


『徐霞客遊記』を読む(1)遊天台山日記

2021年09月28日 | 中国文学

徐霞客

 

徐霞客(1586-1641)、名は弘祖、字は振之、霞客と号しました。明代南直隷江陰(今日の江蘇省江陰市)の人です。徐氏は代々官僚を輩出した家柄で、高祖父・徐経の代に巨万の富を築き、父の代には中衰期にあったものの、依然としてかなりの資産を有していました。幼時から多くの典籍に触れて育ちましたが、とりわけ奇書と呼ばれる古今の史書・地理書・山海経図を愛読し、仙人・隠士の足跡に思いを馳せました。科挙に合格して役人になるのは彼の本心ではなく、早々に仕官の道を諦めて名山大川を訪ねる志を持ちました。22歳より旅行を始め、55歳で病のため故郷に戻るまでの30余年、全国の名山大川、海の果て、辺境の地を遍歴しました。東は海を渡り落迦山(浙江省舟山群島の普陀山。観音霊場)に至り、西は騰衝(雲南省。ミャンマーとの国境付近)の西境に至り、北は盤山(山西省大同市天鎮県の石窟寺院)に遊び、南は広東羅浮山(広東省増城県北東。道教霊山)に達しました。彼は足跡を今日の北京、天津、上海、江蘇、山東、河北、山西、陝西、河南、湖北、安徽、浙江、福建、広東、江西、湖南、雲南、広西、貴州など十九の省、市、自治区に残しました。彼は中国の偉大な旅行家、地理学者、旅行作家でありました。彼は生涯、旅行中に日記を書き続けました。これが後世の人によってまとめられたものが『徐霞客遊記』ですが、『徐霞客遊記』の書き始めに当たる5月19日は、中国当局により「中国旅游日」(中国旅行の日)に定められています。

 

それでは、『徐霞客遊記』(華夏出版社2006年発行)をテキストに、内容を読んでいきます。最初は、「遊天台山日記」(浙江台州府)です。

 

天台山は今日の浙江省天台県の北、また台山と略称されます。仏教天台宗の発祥の地で、日本天台宗祖の最澄が遣唐使の一員として入唐後、804年に天台山に入り天台法門と菩薩戒(ぼさつかい)を受けました。ここには隋代創建の国清寺や、多くの景勝地があり、石梁飛瀑が最も名高いものです。徐霞客は万暦4年(1613年)、27歳の時に浙江に到り、先ず洛伽山(普陀山)に遊ぶも、旅行記は伝わっていません。その後、海沿いに南下し、天台山、雁宕山に遊びました。同行奢は江陰迎福寺の蓮舟和尚でした。

寧海県及び天台県の位置

 

癸丑の年(明の万暦41年、1613年)三月末日(3月30日)、寧海(今日の浙江省寧海県)の西の城門より出発した。雲が消え日も出てきた。同行者の気持ちも、山の景色も、何れも喜ばしいものだった。三十里(15キロ)で梁皇山(寧海県の西南)に至った。聞くところによると、この地は虎が出没し、月に数十人、道行くものが襲われるとのことだったので、宿に泊まらざるを得なかった。

寧海より華頂山までの行程

 

四月一日、朝から雨だった。十五里(7.5キロ)行くと、分かれ道があり、馬首を西に天台山に向かう。雨が上がり次第に晴天になった。また十里(5キロ)行き、松門嶺の麓に至った。

松門嶺

 

山は険しく路は滑りやすく、馬を下り歩いて進んだ。奉化(今の浙江省奉化県)以降の道は、ずっと山麓を歩いてきた。ここに至って迂回しようにも登りになり、尾根伝いの道になった。雨後晴天となり、泉の音が聞こえ、山の景色は度々変化した。緑の草むらの中に赤い山ツツジの花が映え、山を登って来た苦労を忘れさせた。また十五里(7.5キロ)進み、筋竹庵で休憩し、食事を取った。

 

山頂は到る所麦が植えられていた。筋竹嶺から南に行くと、国清寺に通じる街道だった。ちょうど国清寺の僧、雲峰といっしょに食事をした。彼によると、ここから石梁に行くには、山が険しく路程も長いので、荷物を持って行くのは不便で、軽装で行った方が良い。重い荷物は国清寺へ向かわせ、そこで待たせた方が良いとのことだった。私もその通りだと思い、人夫に雲峰に従い国清寺に向かわせ、私は蓮舟上人と石梁道を進んだ。

天台山地図

 

行くこと五里(2.5キロ)、筋竹嶺を過ぎた。峠のあたりは背丈の短い松が多く、老いた幹は屈曲し、木の幹や葉は青々と美しく、町に住む人の家の盆栽の松のようであった。また三十里(15キロ)余り進み、弥陀庵に着いた。急峻な山の峰は上り下りを繰り返し、深山は荒涼として静かだった。(おそらく虎が草むらに隠れて人を襲うことのないよう、道沿いの草木を焼き払ったのだろう。)泉の水がごうごうと音をたて、風がひゅうひゅうと鳴り響き、道を行く旅人の姿も無かった。庵は山に囲まれた平らな土地にあり、道は荒涼として先も長く、ちょうどその中間地点であるので、旅人はここで食事をとり、一泊するのが良いようだった。

 

二日、雨はようやくあがった。道に溜まった水を越え、山の峰に登ると、渓流や山の岩石は益々清らかで静寂になった。二十里進み、夕刻に天封寺(現在の天台県東北境にあった)に着いた。夜、床に就いてからも、今朝の峰の頂に登った時のことが思い出された。雨がやみ空が晴れたのは縁があったからのように思えた。それというのも連日夜になってからようやく天気が回復し、朝から晴れることがなかったからである。五更の時(3時から5時の間。夜明け)に夢から目覚め、満天の星空だと召使たちが言っているのが聞こえ、うれしくて再び眠ることができなかった。

 

三日、朝起きると、果たして日が燦燦と輝いており、頂上(天台山最高峰の華頂山、標高1,138メートル)に登ろうと決めた。数里登り、華頂庵に着いた。また三里行き、頂上に近づくと、太白堂であるが、何れも特に見るべき所は無かった。太白堂の左下に黄経洞があると聞き、小道を進んだ。二里行くと突き出た大きな岩が見渡され、たいへん秀麗で美しく感じた。近づいて見ると、ひとりの出家者が結んだ庵が黄経洞の前に建てられていた。洞窟より吹いてくる風を恐れ、石を積んで洞窟の入口を塞いでおり、私は大いに感嘆した。再び道を登って太白堂に戻り、今度は道に沿って頂上へ登った。雑草が風に吹かれて千々に揺れ動いた。山の峰は高く風は身を切るように寒く、草の上に積もった霜は一寸(3センチ)余りの厚さになった。四方に連なる山々を見渡すと、美しい花と碧玉のような緑の木々が巧みに配列されて遠くに見えた。山の麓には花々が咲き乱れているが、一方山の頂上は全く花が咲いておらず、おそらく高いところは寒いのでこうなっているのだろう。

華頂山

 

もと来た道を引き返し、華頂庵まで下り、池の畔の小橋を渡って、峠を三つ越えた。渓流が巡り山々が連なり、樹木が密集し奇岩があり、次々絶景が現れ、見る者を大いに満足させた。二十里で上方広を過ぎ、石梁に到着した。

石梁・古方広寺

中方広寺

 

昙花亭(現在の中方広寺の境内にあった)で仏様をお参りしていると、もう石梁飛瀑の絶景を細かく見ている時間が無くなった。更に下って下方広まで行き、石梁飛瀑を仰ぎ見ると、ふと滝が天の果てを流れ落ちているかのように思えた。聞くところによると、断橋、珠簾水はとりわけ有名な景勝地だそうで、寺の僧によると、食事を済ませてから見に行ってもまだ行って帰ってくることができるそうなので、仙筏橋から山の後ろに向かった。山の峰をひとつ越え、渓谷に沿って八九里行くと、谷川の流れが滝を形成し石門から流れ落ち、流れが渦巻いて、三段の流れに曲がっているのが見えた。上層が断橋で、ふたつの巨石が斜めに傾いて連なり、渓流はふたつの石の間を流れ、波のしぶきが飛び散り、それらが集まって淵に流れ込んでいた。

石梁飛瀑の上層(断橋)

 

中層ではふたつの巨石が対峙して狭い門のようになり、渓流の水はこの狭い門で拘束され、流れの勢いはたいへん激しくなっていた。

石梁飛瀑の中層

 

下層では、淵の出口はたいへん広くゆったりしていて、渓流の出口は門の敷居のように流れを隔て、水は低い窪みのところから流れ落ちていた。三段の滝は各段の高さが何れも数丈(1丈は約3.3メートル)にも達し、それぞれの景観はたいへん神秘的だが、水は各段を上から順に流れ落ち、各段は曲がった流れで遮られているので、一目で見渡すことはできなかった。また一里ほど行くと珠簾水で、渓流の流れ落ちるところは平坦で広く、したがって水の流れはゆるやかで、よどみなくこんこんと流れていた。

珠簾水

 

私は裸足になって草むらに足を踏み入れ、木によじ登り、崖に沿って前に進んだ。そのため、蓮舟和尚はついて来ることができなかった。夜のとばりがあたりに降りてから、ようやく引き返した。仙筏橋で足を止め、虹のような形の石の橋と、滝の水しぶきが雪を噴き上げているかのように見える景観を眺めていると、全く眠る気が起こらなかった。

仙筏橋

 

四日、空は真っ青で、山々は濃い緑に染まっていた。朝食を取る暇もなく、仙筏橋を経て昙花亭へ登った。「石梁」(石橋)はあずまやの外にあった。

石梁

 

「石梁」は幅一尺(30センチ)あまり、長さは三丈(10メートル)、二つの山の窪みの間に架かっていた。二種類の飛瀑(滝)があずまやの左側から流れて来て、橋のところで合流して下に流れ落ち、一本の滝となって水音は雷鳴のように轟き、まるで川の堤が決壊したかのようであった。滝の高さは百丈(300メートル)以上に達していた(これは誇張で、実際の滝の落差は30メートル)。私は「石梁」を渡り、橋の上から下の淵を見下ろすと、怖くて鳥肌が立った。「石梁」の向こうは大石に遮られ、前方の山へは進めず、もと来た道を引き返すしかなかった。昙花亭を経由して上方広寺に入った。寺の前の渓流に沿って、再び前山を遮る大石の上に登り、石の上に座って「石梁」を鑑賞した。下方広寺の僧侶が飯を食うよう催促するので、その場を離れた。食後、十五里歩き、万年寺に着き、蔵経閣に登った。蔵経閣は二階建てになっていて、南北の仏教経典が二つの蔵に納められていた。

万年寺

 

万年寺の寺の前や後ろには多くの古い杉の木があり、何れも三人でようやく囲めるほどの幹の太さがあった。鶴が木の上に巣を作っていて、鶴のよく響く、遠くまで通る鳴き声が聞こえた。これも深い山の中の清く雅な物音と言えるだろう。この日、私はもともと桐柏宮へ行き、瓊台や双網といった景勝地を探したいと思っていたが、道の途中に旅人を惑わす分かれ道がたくさんあるとのことで、計画を変更して国清寺へ向かった。国清寺(隋の開皇18年(598年)創建。当初、天台寺と言い、後に「寺若成、国就清」から取り、国清寺と改名。唐代、最澄は天台宗第9祖、道邃(どうすい)より菩薩戒を受けた)は万年寺から四十里で、途中、龍王堂を通った。山の峰をひとつ下る度に、私はもう平地に降りて来たかのように感じたが、続けて幾重もの峰を下っても、下り坂は延々終わることがなく、こうしてはじめて華頂山の高さは、天上からいくらも離れていないくらい高いと悟った。日暮れ時に、ようやく国清寺に入り、雲峰和尚と再会した。

国清寺

 

長く別れていた気の合う親友に再会したかのようであった。和尚と天台山観光の行程順序を相談した。雲峰和尚が言うには、「天台山の名所は寒岩と明岩の二カ所に勝るところは無い。距離はやや遠いが、馬で行ける。先ず寒岩、明岩を遊覧し、その後歩いて桃源洞へ行き、桐柏宮に到達する。こうすれば、翠壁、赤城栖霞二カ所の景勝地も一度に見てしまうことができる」と。

 

五日、雨が降りそうだったが、気にしない。寒岩、明岩への道を取り、国清寺から西門へ行き、騎乗する馬を探した。乗る馬が来たが、雨も降りだした。五十里進んで歩頭に着き、雨が止んだ。乗って来た馬も帰らせた。二里歩いて、山に入った。山並みが麓を巡り流れる川に映り、木々は美しく、岩石は形が面白く、見ていてとても楽しくなった。一本の渓流が東陽の方から流れて来て、流れはたいへん急で、水量は曹娥江(天台山北麓を源に、北に流れ、新昌、嵊県、上虞を経て杭州湾に注ぐ川)のようであった。四方を見渡しても竹の筏の渡しが見当たらず、人足に背負ってもらって渡るしかなかった。水の深さは膝の高さほどあり、渓流を渡るのに一時間ほどかかった。また三里歩き、明岩に着いた。

明岩寺

 

明岩は寒山、拾得が隠棲した所で、ふたつの山が曲がりくねって鎮座し、『大明一統誌』に言う八寸関である。八寸関に入ると、四方は切り立った石の壁に囲まれ、城壁のようであった。

八寸関(明岩寺)

 

一番奥に深さ数丈の洞窟があり、穴の広い所には数百人を収容できる広さがあった。洞窟の外は、左側はふたつの巨岩で、それで壁半分を構成していた。右側には石筍が

高く聳え、てっぺんは石壁と同じ高さで、一直線になっていた。石筍の上には青松と紫色の花蕊(かずい)が盛んに茂り、ちょうど左側の巨岩と対峙していて、風変わりな景観と言うべきであった。八寸関を出て、再び岩に登ると、方向はやはり左向きであった。ここに来た時、仰ぎ見ると一本の細い隙間を隔てただけのように見えたが、岩の上に登ってみると、そこはたいへん広くて、数百人の人を収容できることが分かった。岩の真ん中には井戸があって、仙人井と呼ばれ、浅いが水が枯れることはない。岩の外には珍しい石があり、数丈の高さがあり、上部はふたつに分かれ、二人の人が立っているように見え、当地の僧はこれを指して寒山、拾得の化身と言った。寺に入った。夕食後、雲は散って消え、三日月が夜空に掛かった。人の形の岩が崖のてっぺんに見え、岩壁の上にも月明かりが注ぎ込んだ。

 

六日、夜明けに寺を出発し、六七里で寒岩に着いた。岩壁がまっすぐ上にそそり立ち、刀で割ったようであった。

寒岩

 

上空を仰ぎ見ると、たくさんの洞穴が見えた。岩壁の真ん中あたりに洞窟があり、幅八十歩、奥行き百歩あまり、洞内は平坦で明るかった。岩を右側に行くと、岩の狭くなったところから細い道が上に登って行った。山の岩の低くなった窪みにふたつの岩が相対して聳え立ち、下の部分は分かれ、上部でつながっていた。

鵲橋(寒岩)

 

これがいわゆる「鵲橋」で、上方広寺の「石梁」(石橋)と相争う奇観であるが、ただ水しぶきの上がる滝の水が落ちる景観がここには無かった。僧の宿舎に戻って食事をとり、竹の筏を探して渓流を渡った。渓流に沿って山を下った。この一帯は、断崖絶壁で、雑草が巻き付き、木々の枝は下に垂れ、多くの海棠やハナズオウの木があり、濃い影が渓谷に映り、一層風景を優美にしていた。香しいかおりを帯びた風が吹いてくるところには、モクレンやかぐわしい香草が群生していた。山の支脈の尾根まで来ると、岩壁はまっすぐ谷底に垂直に落ち、谷川は深く流れは急で、あたりには足を踏み入れる場所も無かった。岩壁は穴を穿って通れるようになっていて、穴には足先半分しか踏み入れることができず、身体を岩壁に貼り付けてやっと通ることができ、行く者をはらはらどきどきさせた。寒岩から十五里歩いて歩頭に至り、小道を通って桃源洞に向かった。桃源洞は護国寺の傍にあった。護国寺の建物は既に廃墟となっていた。土地の者に聞いても事情を知る者はいなかった。雲峰和尚に従い、草木が生い茂った曲がりくねった道を進むうち、日も沈んでしまい、泊まるところも無く、また道を尋ねるうちに、遂に坪頭潭(現在の平鎮。天台県の西の境界)に着いた。坪頭潭から歩頭まではわずか二十里の行程だが、今日は小道を来て、三十里あまり回り道をして、ようやく宿に着いた。確かに桃源洞は人を誤らせるところだ。

 

七日、坪頭潭から曲がりくねった道を三十里あまり行き、渓流を渡って山地に入った。更に四五里行くと、尾根がだんだん狭くなり、そこに宿坊があり、「桃花塢」(「塢」wùは山の窪地のこと)と言った。深いよどみに沿って進むと、よどみの水は次第に澄んできれいになり、ほとばしる山の湧水が上からよどみに注ぎこむところに来た。ここは「鳴玉澗」と呼ばれる。谷川の水は山に沿って流れ、人は谷川に沿って進むことになる。谷川の両側はむき出しの岩山で、連なる山々はあちこちで緑の木々と入り混じり、およそ目に入るものは全て鑑賞に耐える景観で、たいていが寒岩、明岩の景色より勝っていた。谷川が尽きると道も無くなり、一本の滝が山の平らになったところから流れ落ち、その勢いは甚だ奔放であった。宿坊で食事をとって、桃花塢を出、山の窪地に沿って東南に向かった。峠をふたつ越え、「瓊台」、「双闕」の二ヶ所の景勝地を尋ねたが、誰も知らなかった。更に数里歩いて、やっとそれが山頂にあることが分かった。雲峰和尚と山道をよじ登り、やっとのことで山頂に着いた。下を見下ろすと、切り立った崖は削られ、曲がりくねった岩肌は、全く桃源洞の景色と同じようであった。そして一面緑の木々に覆われた万丈の岩壁は、桃源洞の急峻を上回っていた。山の峰の頂が欠けて二つに分かれているところが、いわゆる「双闕」(「闕」quèは古代の王宮の門の両側にあった望楼のこと)で、「双闕」にはさまれた中間の輪になった石の台が「瓊台」qióngtáiである。

双闕

瓊台

 

「瓊台」は三面が絶壁で、後方だけが「双闕」につながっていた。私は望楼に向いて立った。日が暮れて、もう再び「瓊台」に登る時間は無かった。しかし優美な風景はもう堪能し尽くしていた。遂に下山し、赤城山の背後から国清寺に戻った。およそ三十里の道のりであった。

 

八日、国清寺を出発し、山の後ろを五里進み、赤城山に登った。赤城山の山頂には円形の岩壁がそびえ、見たところ城壁のようで、岩の色はやや赤みがかっていた。岩の洞窟は僧の宿舎になっていて、中は散らかり、自然の景観はもう見る影もなかった。玉京洞、金銭池、洗腸井は何れも見てもどうということはなかった。

 


于丹《荘子心得》[1]: 荘子何其人(4)

2011年12月07日 | 中国文学

■[1]
 ( ↓ クリックしてください。中国語原文が表示されます)


・不謀而合 bu4mou2 er2he2 [成語](意見や理解が)はからずも一致する。偶然に一致する。
・穿透 chuan1tou4 (鋭利なものが)物体を貫く。貫通する。
・境界 jing4jie4 程度。境地。

   私たちの社会には多くの抗癌者クラブがあり、多くの抗癌スターがいる。実際、嘗ては癌と聞くと、それはほとんど死刑判決のようなものだった。しかし現在はどうして何年も生きることのできる人が出てきたのだろうか。それは心の持ち方であり、その人は楽観的なのである。彼自身が死の瞬間を恐れていないのに、どうして死を恐れるのだろうか。ここで言う死亡とは心の中での一種の暗示であり、実は荘子はずっと死を恐れない人であった。彼は恐れないという方法で、つまり“楽生”(生を楽しむ)の二文字で、つまりちゃんと生きることは、死を恐れるのに比べ、ずっと強いのである。この観点は、儒家の思想ともはからずも一致する。これはつまり、孔子が彼の弟子に答えて言った6文字、「未知生焉知死」である。人は、まだ生きるということが分かる程生きていないのに、どうして死んでからのことを考えようとするのか。この一点は、儒教と相通じると言うことができ、私たちにある種の温かい気持ちを与えてくれ、一種素朴な価値観である。つまり、「活在当下」、永遠にこの4文字である。人は今という瞬間を生きている。今という時に名を看破し、利を貫かせ、更には生死を恐れなくなれば、私たちの心の空間はなんて大きくなるだろうか。これが「大境地」である。


■[2]


・挂碍 gua4ai4 気がかり。懸念。
・田頭 tian2tou2 田んぼのあぜ。畑のそば。
・汗流浹背 han4liu2 jia1bei4 [成語]背中が濡れるほど汗をかく。びっしょりと汗をかく。
・樹蔭底 shu4yin1di3 木陰。
・哼 heng1 鼻歌を歌う。
・悠閑 you1xian2 ゆったりと。のんびりと。

  皆さんは、荘子はこんなに多くの事を看破したのに、消極的だと思われるか。彼について言えば、もう気がかりは何もない。それなのに彼はなお何を気にかけるのだろうか。実は、荘子の時代、心の中で判断しても、必ずしもそれが転化して行動につながらなかった。民間にこんな笑い話がある。二人の人が畑のそばにいた。一人は炎天下、一生懸命、麦を植え、汗びっしょりになっていた。もう一人は木陰でお茶を飲みながら、鼻歌を口すさんでいた。その後、畑仕事をした男はもちろん自分は勤勉で、道徳上あの怠け者に訓戒を垂れる資格があると思い、彼に言った:ごらんなさい、あなたはこんなに怠けて、今後どうやって飲み食いするつもりなのですか。あなたはどうして毎日こんなにたくさんの時間を浪費しているのですか。すると、涼んでいた男はのんびりと、こう言った:ちょっとうかがいますが、あなたはこんなに懸命に働いているのは、どうしてですか。豊作のためですよ。豊作は何のためですか。豊作だったら、取れた穀物を売ってお金になりますよ。涼んでいた男はまた問うた。売ってお金にしてからどうしようというのですか。麦を植えていた男は言った。お金ができたら、衣食で困ることがなくなります。またこのように炎天下になったら、私は働かないで、木陰に横になり、お茶を飲み鼻歌を歌い、のんびりと生活できます。すると、今涼んでいる男が言った:私はもうそういう生活を送っているんですよ。だから、私の今の生活は、あなたの未来の夢なのです。

■[3]


・遮蔽 zhe1bi4 遮る。覆う。見えなくする。
・隠約 yin3yue1 かすかなさま。はっきりしないさま。
・看中 kan4zhong4 気に入る
・成全 cheng2quan2 ある目的を達成するよう、助ける。尽力する。成就する。
・樊籬 fan2li2 垣根。障壁。
・浩瀚 hao4han4 広大なさま。(書物などが)多いこと。
・拘囿 ju1you4 こだわる。限定する。
・風発揚励 feng1fa1 yang2li4 精神を奮い立たせる。
・窘困 jiong3kun4 困窮する。

  しかし、皆さん考えてみてください。これは単なる笑い話だろうか。多くの場合、私たちはいつでも得られる事が、私たちの観念上の誤解によって隠されてしまっている。このように言うことができる:荘子は彼の本の中で、多くのかすかな彼の生活の影を残しており、この中の多くが儒家と互いにやり合っていると判断することができる。ただ、儒家が重んじるのは、永遠に大地の上での聖賢の道徳であり、好んで言うのは人が一生のうちで打ち立てた功績、業績であり、そのように努めることであるに過ぎない。一方、道家が重んじるのは、もっと高くて広い、天上にいる人之精神の自由であり、好んで言うのは人が最後に成就した後の超越である。こう言うことができる:中国の儒家思想は、社会という物差しで、人がなすべきことを担当するよう要求するが、道家思想は、生命というレベルで人が飛躍することを要求する。なすべきことを担当するというのは私たちの社会的な責任であり、超越というのは私たちの生命の境地である。

  だからこの意味から言うと、荘子の多くの物語を見て、あなたは彼の一連の生命哲学が、単に積極的か消極的かで論じるべきものではなく、私たちの生命の別の体系で打ち立てられた一連の参照事項であると理解することができる。荘子の言葉によれば、人生の至高の境地は、天地の間を勝手気ままに行き来すること(逍遥遊)である。つまり、内心の何重にも重なる垣根や障壁を看破し、宇宙の静けさや天地の広さの中に人生のあるべき位置を得、このような広大な座標系の上で、人をして真に人間らしくさせ、私たちの内心からこだわりを取り除き、私たちの精神を奮い立たせ、理想的な自己を形作り、現実の中の様々な困窮を、たちどころに看破できさえすればよく、永遠の生命に導かれ、このように逍遥遊の境地に遊ぶことは、私たち一人一人が永遠に追い求める価値のあることである。

     -*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

  以上、見てきましたように、荘子の語る人間像というのは、自然のままというより、先ずしっかりした自我を持ち、分をわきまえた上で、気張らず、自然体で人や社会に接するということではないかと思います。


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