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[図1] 都市、農村人口推移
※中国国家統計局のデータより筆者作成。以下同じ。
[図2] 産業別GDP金額推移
[図3] 都市、農村所得推移
[図4]産業別GDP成長率推移
2011年、中国の人口は初めて都市部が農村部を超えました。これは、中華人民共和国建国以来初めてですし、おそらくそれ以前の時代も含め、初めてのことではないかと思います。
中国国家統計局のデータを見ると、1949年~2011年の都市部、農村部の人口が都市部(城鎮)、農村部(郷村)に区分され、中華人民共和国建国の1949年からの推移が示されています。それを折れ線グラフにしたのが[図1]です。中国政府の政策面での主な出来事を、グラフの上に追記してみました。
建国時の人口5億4千万中、都市部は約6千万で、わずか11%。その後、都市部の人口は大躍進期に伸びて1億を突破しますが、農村部はそれより大きな伸びを示し、特に文革期に大幅に増え、7億を超え、8億に迫るまでになります。やがて毛沢東時代が終わり、党の第11期3中全会で改革開放、近代化建設に舵を切った1978~79年当時、中国の人口は9億8千万、うち都市部人口は1億8千万、19%でした。
80年代初頭、人民公社が解体され、農業は家族単位の請負制となり、この時期、特に豊かな農家では、世帯収入が1万元を超え、「万元戸」としてもてはやされました。80年代前半、農業は家族単位の小規模農業ではありましたが、大いに積極性が発揮され、[図4]の産業別のGDP推移を見ると、この時期、農業を中心とする1次産業も10%を超える成長をしていたことが分かります。
けれども、工業が経済特区を設置し、外資を呼び込んで、着実に成長率、生産金額ともに拡大させていったのに対し、農業は頭打ちになります。これが1990年代前半から2000年頃にかけてです。農業生産が停滞した理由は二つ:1番目は、中国政府が税制を中央・地方の分税制としますが、地方政府が税収を確保するため、農民へ各種名目での課税を強化したこと。2番目に、農作物の買取り価格が低迷し、農民の収入が増えなくなったこと。収入は増えない、課税は強化される、となれば、農民の生産意欲は低下してしまいます。
[図2]は産業別のGDP金額の推移を示したものですが、1995年から2002年頃まで、2次産業、3次産業の大きな伸びとは対照的に、1次産業はほとんど金額の伸びが見られないことが分かります。
[図3]は、都市と農村それぞれの収入の伸びの推移を見たものですが、農村の平均現金収入(年収)は2000元あたりで停滞してしまっています。
この時期、「民工潮」と呼ばれる、農村から大量の出稼ぎ労働者が都市に働きに出る情況が発生します。
そして、建国後初めて、農村人口は減少に転じます。ちょうど、江沢民体制で、「三農問題」が大きな政治課題として提起された頃です。
事態に新たな変化が生じるのは、胡錦涛・温家宝体制となった後の2004年です。この年、政府が三農問題に対し、積極的に財政支援をする方針が打ち出されました。
農民への税制の優遇(減税)、農作物の買取り価格の引き上げ、換金作物栽培の奨励や優良品種の開発、農業生産の大規模化、企業化を進めた結果、農業生産は再び拡大に転じ、農業収入も増加します。
けれども、農村人口の減少は止まらず、減少を続けました。このことは、農業の物理的な生産能力から、元々の農村人口を養うことはできず、余剰人口を都市部の建築投資や工業生産需要で吸収してきたことを意味します。そうして迎えた2011年、この年の統計で、都市部6億9千万、農村6億6千万でその差はわずかですが、都市部人口がはじめて農村人口を越えたのです。
ただ、[図2]のGDP金額で見ると、実は農業を中心とする1次産業の2011年の生産高は、GDP全体のわずか10%を占めるに過ぎません。ということは、未だ、農村部には多くの余剰労働力を抱えている、ということになります。
ここで注目すべきは、現在2億5千万いる、農民工の存在です。この中には、数年で農村に戻る人もいるでしょうが、そのまま都市で定住する人の割合がかなりのものとなると思われます。
政府もそれを支援すべく、義務教育や医療保険を、農民工に対してもその居住する都市で享受できるようにすること、就職時の戸籍による差別をなくす、という方針が打ち出されました。また近い将来は、一部の地域で試験実施されているように、農村戸籍、都市戸籍による居所の縛りつけも廃止され、戸籍の移動も徐々に緩和されるのではないかと思います。
以上のデータから、結局「三農問題」の解決は、都市化を進め、農村の余剰労働力を都市で吸収し、農業はできるだけ集約し、換金しやすい作物の大規模生産に移行させる、という所に見出しているのではないでしょうか。そしてその第一段階の結果が、都市人口と農村人口の逆転ではなかったかと思います。
現在、産業界では、販路拡大のターゲットを3線、4線市場(地方の中小都市)に拡大してきています。それはそうです。従来、13億人口中、1億、2億を相手に考えていたマーケティングが、2011年の数字では、7億の都市住民がターゲットになるのですから。その意味では、ビジネス面でもたいへん大きな成長のポテンシャルが見いだせるのではないかと思います。
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今回の習近平副主席のアメリカ訪問は、現在のアメリカにとっての中国の重要性を反映して、たいへん中身の濃いものでした。中国側も、それに十分な準備をして応えており、それは発言の中の言葉の内容にも表れています。
今回取り上げようと思うのは、2月14日、ワシントンでバイデン副大統領と中米両国の企業家との座談会に出席したことに関する記事からの抜粋ですが、詩の引用など、修辞を凝らした文章です。
■[1]
( ↓ クリックすると、中国語原文が表示されます)
□[1]
習近平はこう語った:中米が再び交流の扉を開いて40年というもの、両国の企業家は手を携え協力し、中米の経済貿易協力、更には両国関係の発展のため、重要な貢献をし、且つまたその過程で発展のチャンスを享受し、「額に汗して働いて、初めて収入が得られる」のだということを実際に示した。現在、世界経済復活の不安定さ、不確定さが増しているという背景の下、中米両国と両国企業が協力を強化する必要性と緊迫性は益々際立ってきている。
習近平は心から両国の企業家に言葉をかけた:
(一) 機会を見分け、補まえるのに巧みであれ。現在、中米は経済発展方式の転換を行う大切な段階にある。両国の経済の議事日程は高度に補完し一致しており、協力の範囲は幅広い。両国の企業家がチャンスを補まえ、数多くの協力の潜在力を、全面的にお互いにメリットがあり、共に勝利することができる、実際の成果に転化されることを希望する。
(二) 「物事は長い眼で見るのがよろしい。」起業家の視野が、その人物の程度を決定し、その地位を決定する。企業家の皆さんが「浮雲が視界を遮るのを恐れず」、ちょっとした阻害要因によって二の足を踏むことなく、長い眼で見て、より多くの、より良い、両国の消費者の需要に合った製品やサービスを提供することを希望する。
(三) 経済・貿易の深化は、両国関係の中で「バラスト」、「プロペラ」の役割である。両国の企業家と商業組織が引き続き中米経済・貿易協力に関心を持ち、支持し、それに参与し、経済・貿易問題の政治化を有効に防止し、各種のあってはならない干渉を全力で回避し、中米経済貿易協力と中米関係の大局を共同で擁護することを希望する。
(四) 経営に真心がこもっており、世の中の全ての人を救済し、企業の社会責任をちゃんと果たさなければならない。両国の企業家は、市場を開拓し、自身が大きくなると同時に、より一層社会に還元し、両国人民に中米経済貿易協力の中からより多くの利益を得られるようにすることを希望する。
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それでは、文中で使われている言葉について、見ていきましょう。 この段落の中で、詩から引用した言葉が二つ出てきます。
先ず、表題に使った「風物長宜放眼量」。これは、毛沢東が尊敬していた、国民党左派の重鎮、柳亜子に贈った詩、《和柳亜子先生》の一節。“風物”は物事の意味で、「物事を見るには、視野を長くするのが良い」という意味です。
もう一つは、「不畏浮雲遮望眼」。「浮雲が視界を遮るのを恐れない」とは、目先のちょっとした阻害要因に浮足立たず、決めた路線を迷わず進めなさい、との意味。宋の王安石が杭州の風景を詠んだ詩、《等飛来峰》の一節です。
「一分耕耘,一分収穫」は成語で、「額に汗して働いて初めて、収入が得られる。働かざる者、食うべからず」の意味。一分~、一分~と字数が同じ整句で、対偶法の修辞を使っています。また平仄で言うと、“耘”は平、“穫”は仄であるので、この二句で完結感があり、収まりの良い言葉です。
[対偶法] 語格や意味の相対した語句を用いて表現効果を強める修辞技法。
“圧艙石”とは、積荷の無い時に、船の転覆を防ぐ重りの石。バラストです。“推進器”とは、船を前進させるスクリューの意味。経済活動の、米中関係に於ける積極的な役割を、船の重要機能に譬えて、説明しています。
「兼済天下」は、孟子に出てくる言葉で(《孟子・尽心上》)世の全ての人々を救済する、という意味です。
このように、ごく短い段落ですが、実に様々な修辞技法や先人の文章を引用し、言葉の意味を強め、また聞いて快い文章に仕上げています。
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「風物長宜放眼量」の句を引用した、毛沢東の《和柳亜子先生》ですが、その内容は、その背景の出来事を知っていないと理解しづらいですが、歴史の足跡を追いながら読むと、中国現代史上の人々の姿が生き生きと浮かび上がってきます。
毛沢東 《七律・和柳亜子先生》
1949年4月29日
■[2]
□[2]
粤海(広東)にて飲茶せしこと、未だ忘れ難し、
句を渝州(重慶)に求めしは葉が正に黄色き時。
三十一年、旧国(北京)に還る。落花の時節、華章(すばらしい詩)を読む。
牢騒(不平)甚だ盛んにして断腸なる(思い)を防がん、
風物(物事)は長しえに眼量を放つ(長い目で見る)が宜し。
(北京・頤和園の)昆明池の水の浅きを言うなかれ、
魚を観る(政治に携わる)には(あなたの故郷を流れる)富春江に勝る。
初めてあなた(柳亜子)と会ったのは、広州でした(1926年5月の国民党二期二中全会で)。
重慶でお会いして私の詩(《沁園春・雪》)を求められたのは、葉が黄色く色づく季節でした(1945年8月から40日に亘る重慶での国民党と共産党の和平協議を指す)。
31年ぶりに北京に戻り、花の落ちる季節に、あなたのすばらしい詩を読むことができました(1949年に北京を解放、そこで柳亜子より《感事呈毛主席一首》を贈られたことを指す)。
あなたは詩の中で不平不満を述べておられますが、そんなことはありません。
物事は、長い眼で見るのがよろしい。
北京でいっしょに新しい国づくりに参加することは、故郷で隠棲されるより面白いですよ。
さて、この詩は、題が《和柳亜子先生》(柳亜子先生に和する)なので、当然、この答礼の詩の前の原詩が存在します。それが、次の柳亜子《感事呈毛主席一首》です。
柳亜子 《感事呈毛主席一首》
■[3]
□[3]
天地開闢し、君は真の健児となる。
項羽は劉邦に従うべしと説かれても、我は大いに難し。
席を奪い経を談じるは五鹿にあらず、車が無いと剣を弾いて怨むは馮驩。
頭では早くも平生の賎しきを悔い、肝胆寧ろ忘れん一寸の丹。
安んぞ南征して馳せて捷報を得ん。
分湖は即ちこれ子陵灘。
天命が定まり、あなたは真の英雄となられた。
負けた項羽は勝った劉邦に従うべきだと言われても、私は従うことはできない。
私は他と競って経典を論じる学問はあるが、五鹿充宗のような権勢は無い。
孟嘗君に車がもらえないことを剣を弾いて抗議した食客の馮驩のようなものだ。
生まれつき卑賤の身であったのだから、嘗て束の間、政治の表舞台に出たことは、寧ろ忘れてしまおう。
これから南征しても、勝利を得るのは難しいだろう。
故郷の分湖のある呉江へ帰ろう。
勝った共産党、負けた国民党を劉邦と項羽に譬えて、もはや勝敗は決した、かといって、今さら勝者に従うのも潔しとせず、寧ろ引退して故郷に帰ろうと言っているのです。
毛沢東と柳亜子
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次期の中国共産党総書記、そして国家主席となる習近平が、2月13日より17日まで、アメリカを訪問しています。これに対し、アメリカ側は最大級の受け入れをし、また中国側も十二分の準備をして乗り込んでいる様が、連日の報道から感じられます。
これからご紹介するのは、既に多くの方が目にされたでしょうが、15日昼、ワシントンで開催された米国友好団体歓迎レセプションでの習近平の講演の中の一節です。
■[1]
( ↓ クリックしてください。中国語原文が表示されます)
□[1]
皆さん!
中国にこういう諺があります:水を飲む者は井戸を掘った人を忘れない、と。私たちは、嘗て非凡な戦略眼と卓越した政治力で中米友好協力の扉を開いた両国の先輩指導者をいつまでも心に思い描くでしょう。40年前、ニクソン大統領は中国に歴史的な訪問をし、毛沢東主席、周恩来総理とニクソン大統領は太平洋を跨いだ握手と戦略会談を行い、両国の長年お互いを隔絶させていた堅い氷を打ち破りました。40年来、とりわけ国交を結んで33年というもの、両国人民の友好は絶えず深まり、お互いの協力は絶えず拡大し、利益の融合は益々緊密になり、両国人民に継続して幸福をもたらし、アジア太平洋地域と世界の平和、安定、繁栄を促進しました。中米関係は風雨も経験しましたが、全体としては、絶えず前進を続けてきました。こういう詩があります:「青山は遮りおおせず、畢竟、東に流れゆく」と。平和と発展が既に時代のテーマとなっている条件下では、中米の友好と協力は大勢の向かうところであり、人心の向かうところであり、妨げることはできず、逆行することはできないのです。
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「青山遮不住,畢竟東流去」がここで引用された訳は、青山で人間の視線は遮ることができるけれども、川の水までは止めることができず、そのまま東へ流れてゆく。それと同様、中米関係の発展も、誰も妨げることはできない、と言っているのです。
この詩は、南宋の辛棄疾の《菩薩蛮 書江西造口壁》から引用されたものです。
■[2]
□[2]
菩薩蛮 江西の造口の壁に記す
作者:辛弃疾
郁孤台の下、清江の水、中間、行人の涙多少ぞ。
西北に長安を望めば、憐れむべし無数の山。
青山は遮りおおせず、畢竟、東に流れゆく。
江の晩は正に余を愁わしめ、山深く鷓鴣(シャコ)を聞く。
造口は、別称、口ともいい、江西省万安県西南60里の贛江(gang4jiang1)の船着き場。郁孤台は江西省贛県の西南にあった山の名で、一名を賀蘭山という。清江は贛江のこと。長安は、北宋の汴京(bian4jing1)、すなわち開封のこと。
この詩は、1176年(宋孝宗淳熙三年)、辛弃疾が刑務官の職を得て贛州に赴任する際、途中、造口を通った際に作ったもの。作者は47年前、北から侵略してきた金軍に追われ、この造口に辿り着いた隆裕太后一行のことを回想し、韃虜により都を追われた宋王朝のことを思い、涙しています。すなわち、故郷の中原の方を向いても、山に隔てられ、故郷を望むことはできないが、川の流れは相変わらず東に流れて行くと、都を追われた無念さを歌っているのです。
菩薩蛮は、漢詩の一つの形です。菩薩蛮というのは、元々、唐代、音楽を司った教坊の楽曲の一つの形態でした。言葉の意味は、ペルシャ語のMussulman、或いはそれが訛ったBussurmanを中国語に音訳したもので、意味はイスラム教徒(ムスリム)の意味です。唐代に中国にやって来た西域のペルシャ人達がもたらした節回しの楽曲であったのでしょう。その後、詞牌、すなわち詞(詩)を歌う時のメロディーとして、この菩薩蛮の形式が使われるようになりました。したがって、唐代から、詞が盛んに作られた宋代に、菩薩蛮が多く作られました。7言句が2句続いた後、5言句が続くという独特の構造をしています。
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