中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

北京史(八) 第三章 秦漢から五代に至る時期の北京(5)

2023年04月28日 | 中国史

房山雲居寺の遼代の塔(北塔)の周囲に立つ4基の唐代小塔

北京市房山区大石窩鎮水頭村雲居寺

 

第三節 隋唐五代期の幽州地区の都市と住民(続き)

 

 

幽州経済の発展

 

 唐代、幽州地区の土地はより一層開墾され、農業に発展が見られた。永徽年間(西暦650‐655年)、幽州の農民は盧溝水を引き、稲田数千頃(けい。100畝(ほ。ムー)が1頃、1頃は6.6667公頃(ヘクタール)に当り、66 667㎡に等しい)を開き、百姓はその豊かな産量を頼みにした。しかし、幽州は隋や唐にとり北方の軍事の拠点であり、常に大量の軍隊が駐屯し、ただ当地で産する糧食に頼るのでは供給量が足らなかった。隋末、「倉粟盈積」というのは、軍糧を外地から運んで蓄えたことを言うのである。貞観の時、幽州には常に平倉が設けられ、凶作の年に救済したり、種もみを貸すのに用いられた。武則天(則天武后)以後、契丹、奚と唐王朝の関係は緊迫し、絶えず戦争が起こり、幽州の軍糧はしばしば江南より運ばれた。西暦696年、陳子昂(ちん すごう)は『上軍国机要事』の中で言った。「即日江南、淮南諸州で船数千艘を借り、既に鞏(きょう)、洛に至るは百余万斛(こく。升)。所司は強いて幽州に運ばせ、軍糧を充足させた。」(『陳子昂集』巻8)杜甫は『昔遊』の詩の中で書いている。「幽燕盛んに武を用い、供給するは亦労哉。呉門転粟の帠、海陵蓬莱に浮かぶ。」『後出塞』の中でも言っている。「漁陽は豪侠の地、鼓を撃し笙(しょう)竽(う)を吹く。雲帆は遼海に転じ、粳稲は東呉より来る。」(『杜工部詩集』巻7、巻3)何れも長江下流の米が幽州に運ばれた事実を説明している。唐朝後期、幽州は藩鎮(唐代、辺境各州に設けた節度使)割拠の政権統治の下、糧食の供給は主に幽州付近の嬀州(きしゅう。懐戎を治める。今の官庁水庫(ダム)の北岸)及び北側の7鎮(今の密雲、平谷一帯)に依存していた。

 

 唐代、幽州の果樹生産は確かに発展した。栗は幽州の重要な貢品(宮廷への貢ぎ物)のひとつであった。(『新唐書』巻39『地理志』、『通典』巻6『食貨六・賦税下』)幽州付近の涿州(今の涿県)城内にはまたくだもの屋があり、専らくだものや木の実を販売した。燕山はまた木材を産出した。開元年間の初め、張説は幽州都督になり、「人に命じて木を燕岳で斬り、山林の財を通じせしむ」。(『全唐文』巻312孫逖『唐故幽州都督河北節度使燕国文貞張公遺愛頌 並びに序』)幽州と檀州の土貢(地方特産の貢ぎ物)には人参(朝鮮人参)があり、檀州の土貢にはまた麝香(じゃこう)があった。唐令によれば、土貢は「皆当地に産するものを取る」(『新唐書』巻39『地理志』、『通典』巻6『食貨六・賦税下』)、唐代の薊城付近と密雲一帯ではまた朝鮮人参や麝香を産出したことを言っている。

 

 綾、絹は皆幽州から朝廷に献上した特産品であり、幽州城内では何軒かの絹商店が設けられ、このことから絹織物業が一定の規模を持っていたことが分かる。薊城付近では鉄を精錬し、城内には鉄を商う商店も開設された。鉄の採掘と精錬は幽州の重要な手工業のひとつであった。唐の高祖の時、幽州には鋳銭監が設けられた。開元年間の初め、張説(ちょうえつ)は人に命じて「銅を黄山に採掘し、ふいごで火を起こし銭を鋳る利を興せしむ。」(『全唐文』巻312孫逖『唐故幽州都督河北節度使燕国文貞張公遺愛頌 並びに序』)幽州の銅の精錬産業が発展途上であることを説明している。幽州地区には更に塩池があり、唐政府はここに塩屯(製塩所)を設立し、各屯には壮丁(成年男子)50人を配置した。(『金石萃編』巻103『大唐河東塩池霊慶公神祠碑』:「塩池の数は九、七つは幽朔、二つは河東」。『通典』巻10『食貨十・塩鉄』)

 

 幽州の地理的な位置により、唐代の中国内の商業交易上の重要な地位を占めた。馬、毛皮など関外の商品の輸入、及び関内の農産品、手工業製品の輸出は、何れも幽州が集散地となった。多くの胡商(西域異民族の商人)もここに集まった。範陽節度使安禄山は曾て「商胡を分遣し諸道を詣でて販鬻(鬻(ひさ)ぐ。売る)す。一年に珍貨数百万を運ぶ」。(『資治通鑑』巻216唐玄宗天宝十載)交易額は相当なものであった。天宝(西暦742‐756年)、貞元(西暦785‐805年)年間、幽州城内の各業種はたいへん発展した。城の北部には固定の商業地区と手工業地区が設けられ、「幽州市」と称した。各業種は市の中で営業した。業種の種類は房山雲居寺の石経の題目に記載されているものに、白米(精白した米)業、大米(製米)業、粳 米(うるち米)行、屠殺業、食肉業、油業、五熟(各種の食品)行、青果業、椒笋行、木炭業、鋳鉄(銑鉄)業、研磨業、染色業、織物業、絹織物業、大絹行、小絹行、新絹行、小彩行、絲綿彩帠絹行、幞頭(ぼくとう。男子の頭巾)行、製靴業、雑貨業、新貨行など30種類近くの業種があり、業種の種類が多いだけでなく、各業種の間の分業もたいへん細かかった。それぞれの業種の業界(「行」)は同じ種類の商品を取り扱う店舗から成り、経営者は「舗人」と称した。「舗人」の中には多くの店員や丁稚を抱える者がいれば、自分や家族の労働で生計を立てている小商人や小手工業者もいた。

 

 唐代の幽州の交通は更なる発達が見られた。長安から幽州まで、長安を出発すると太原を経由して娘子関に出るルートと、洛陽を経由して後、今の京広線(北京と広州を結ぶ鉄道路線)に沿って北上するルートの二路線があった。途中には旅籠があり、酒や食事、駱駝が準備され、商用での往来に便利なようになっていた。幽州から東北へ行くには、密雲を経由して北口(今の古北口)から長城に出て、奚王牙帳(今の遼寧省寧城の東)に至るルート、また今の京承鉄路(北京と承徳を結ぶ鉄道)に沿って東北に至ることもできた。また居庸関(唐代には納款関、軍都関とも呼ばれた)を出て嬀州(きしゅう)と山西北部に至ることもできた。唐の武宗は廃仏を行い、五台山の僧侶の多くが幽州に逃亡したので、幽州節度使の張仲武は二刀を封じて居庸関を委ねて言った。「旅の僧侶が居庸関を越えて入ってくれば之を斬る。」このことから、居庸関が当時北方から幽州に入る重要な門戸であったことが分かる。水路は、永済渠により幽州から洛陽に直接到達することができ、また海路を経て江南や東北に通じていた。

 

 

幽州の文化

 

 『隋書・地理志』によれば、「涿郡は辺境の郡と連なっているが、風習は太原と同じで、それゆえ古来勇侠の者は皆幽州、并州(へいしゅう)より出ると言う。然るに涿郡、太原は前代以来、文雅の士が多い。皆辺郡と言うけれども風俗や教育レベルは比べものにならない。唐代、幽州地区でも多くの文学者や芸術家が生まれた。たとえば、天宝年間、将棋に通じ詩文を能くした張南史。「推敲」で有名な中唐の詩人賈島。経義に通じ、文宗の時、「対策」(科挙で、治国の政策について皇帝から出題される問題に論文で答えること)の中で朝政を非難し、一大センセーションを巻き起こした劉蕡(りゅうふん)などは、当時の著名人であった。

 

 則天武后の時、著名な詩人、陳子昂(ちんすごう)は征から幽州に着き、薊北楼に登り、現在の事に触れて昔をしのび、涙を流しながら歌った。「前に古人を見ず、後に来る者を見ず。今天地の悠々、独り愴然(悲しみ痛む)として涙を流す。」これは有名な『登幽州台歌』である。開元の初め、唐の初代、文宗は張説を幽州都督にした。開元20年前後、著名な詩人高適が幽州に来て、詩人王之涣(おうしかん)も薊城郊外の薊門に寓居していた。彼らはここで多くの幽州の風俗を反映し、彼らの幽州の生活を記録した詩篇を書いた。

 

 唐代は、アジア各地との経済文化交流が日増しに頻繁となり、中央アジア、西アジア一帯の舞楽やスポーツ、遊戯が絶えず中原に伝えられ、幅広い人々に歓迎された。ペルシャより伝わったポロ(撃鞠)は唐代にたいへん流行したスポーツ競技であった。馬上から打つものと、馬を使わないものの2種類があった。幽州地区ではポロがたいへん流行し、球技場の規模はたいへん大きく、通常は更に閲兵する場所もあった。

 

 幽州にはまた雑技を演じる民間の芸人がいた。『朝野金載』によれば、「幽州人劉高は長竿を持ち、その高さは70尺(約2メートル)、自ら持ち上げ上下させた。12歳の娘がおり、たいへん端正な顔立ちだ。竿の上で位置を定めると、竿に跨り胡坐をかいて立ち上がる。」『杜陽雑編』でも幽州の芸妓の石大胡に触れ、百尺の竿の上に弓の弦を五本張り、五人の女にそれぞれ一本の弦の上に居らせ、着ているのは五色の衣装、戟を執り戈を持ち、一曲の楽曲の間踊り続け、一挙一動がリズミカルで空を飛んでいるようだった。これより、当時幽州では雑技が相当流行していたことが分かる。

 

 幽州地区の彫刻や塑像も、唐代に高い成果が見られた。天宝末年、安禄山が幽州で、白玉で魚、龍、カモ、雁、及び蓮の花を彫って唐の玄宗に献上した。「魚、龍、カモ、雁は皆、鱗を震わせ翼で羽ばたき、その様子は飛び立とうとしている様だった。」(『資治通鑑』巻217唐玄宗天宝十四載注釈『明皇雑録』)これより、彫刻が巧みであったことが分かる。房山石経山の遼塔の周囲に、睿宗(えいそう)の景雲二年(西暦711年)から玄宗の開元15年(西暦727年)までの時期の四基の小塔が保存されている。いくつかの小石塔には仏、菩薩、天王、力士像のレリーフがあり、姿かたちが生き生きとし、彫刻は精巧で美しい。北京房山県磁家務の南山の斜面の上に、無梁殿が一棟あり、名を万仏龍泉宝殿、または万仏堂と言う。殿内の壁には『万仏法会図』のレリーフの石刻が嵌め込まれ、考証によれば唐の大歴五年(西暦770年)に彫られたとみられる。彫刻はたいへん精緻で、今日まで保たれている。近年、北京で出土した唐の信州刺史の薛(せつ)氏の墓の中から五つの精巧で美しい漢の白玉石俑(鶏、蛇、龍、猪、羊)が出土した。それらは線で生き生きと描かれ、姿形が自然で、躍如として真に迫り、彫刻の技術は非常に成熟している。これらは唐代の幽州地区の彫刻芸術の高度に発展したレベルを反映している。薛氏墓の墓室内には壁画が残存しており、その上には花卉と水鳥の痕跡があり、唐代にちょうど隆盛し始めていた花鳥画が既に幽州地区に出現していたことを反映している。

『万仏法会図』レリーフ

『万仏法会図』レリーフの一部

 隋唐時代は仏教がたいへん盛んであった。北京西南の房山県大房山雲居寺は、昔、幽州の重要な仏教寺院で、石板経の珍蔵で世に知られていた。史書によれば、北斉の南岳恵思大師は北周の武帝の廃仏焚経の教訓に鑑み、石経を刻んで山中に収蔵する決心をした。その弟子の幽州僧静琬(じょうおん)は師匠の言いつけ通り、隋の大業年間に「石経を作り之を蔵し、以て法滅に備えるを発心」した。このことは封建統治者の支持を受け、隋の煬帝の蕭皇后(しょうこうごう)は絹千匹(反物を数える。一匹の長さは50尺、或いは100尺)を布施した。唐の玄宗の時、特に仏教経典4千巻余りを賜り、経典を刻む底本(種本、テキスト)とした。 

 

 静琬が開鑿した華厳堂雷音洞)の四方の壁には、146枚の隋、唐代初期に刻まれた石経が嵌め込まれている。書道の上から見ると、石経は虞世南、褚遂良(ちょ すいりょう)など唐代初期の大書道家の字体に近く、内に剛柔を含み、外に筋骨を現わし、力を内に秘め、字はほっそりしているが力強く、筆遣いが益々力強くなる風格がある。これらの石刻は有名な書法家の手によるものではなく、艱難辛苦を怖れぬ無名の芸術家の作品で、彼らの努力と知恵の結晶である。

北京房山県石経山の蔵経洞華厳堂

石経山には上下二層の石窟があり、上層には7窟、下層には2窟あり、大部分が隋、唐時代に開鑿されたものである。これら9窟に所蔵される石経は、これまでのところ、既に4千4百枚余り発掘されている。いくつかの石経の題字には、当時の幽州、涿州の同業者組合の名前が保存されている。これらの石経は、仏教経典の照合、中国の仏教、石刻、書道芸術、経済文化史の研究の上で、重要な価値を有している。

 

 北京郊外の風光明媚な場所には、多くの寺院が建てられている。隋の文帝の時、「舎利」を収蔵するため、弘業寺(今の天寧寺)に高い塔が建てられた。この塔はその後倒壊し、今の天寧寺磚塔遼代に建てられたものである。(詳細は本書の遼代の章を参照)唐の高祖の武徳5年(西暦622年)今の北京西郊馬鞍山の麓に、慧聚寺(今の戎台寺)が創建された。ここは泉の水が流れ山に花が咲き、山の峰は秀麗である。唐の貞観年間、兜率寺が西山山麓北部に建てられた。すなわち今の臥仏寺である。憫忠寺(今の法源寺)は唐の太宗の貞観19年に陣中で亡くなった将兵を祈念して建立され、将兵の不満を緩和し、人心を篭絡しようとした。東西に曾ては二つの塔が建てられ、高さは十丈(約30メートル)、これらは安禄山、史思明により建てられた。寺の境内には今も唐の粛宗の至徳2年(西暦757年)張不矝(ちょうふきょう)が撰し、蘇霊芝が書いた『無垢浄光宝塔頌』、唐の昭宗の景福元年(西暦892年)の『唐憫忠寺重蔵舎利記』が現存する。開元年間には更に天長観(今の白雲観)が建てられたが、これは規模のたいへん大きい道教寺院である。


北京史(七) 第三章 秦漢から五代に至る時期の北京(4)

2023年04月26日 | 中国史

隋大運河永済渠

第三節 隋唐五代期の幽州地区の都市と住民

 

 今の北京地区は、隋代には当時の幽州の大部分の地域を含んでいた。唐代には当時の幽州の大部分、檀州(だんしゅう)の全て(今の密雲、懐柔、平谷県境)と 嬀州(きしゅう)東部(今の延慶県境)地区であった。隋の煬帝の大業三年(西暦607年)、幽州は涿郡に改称され、唐初に郡が州に改められ、再び幽州と称した。唐の玄宗の天宝の時、一度範陽郡に改称されたが、以後また幽州に改められた。幽州の治所は薊城に設けられ、城址は北魏と同じで、ずっと五代まで変わらなかった。

 

 隋代の涿郡の戸数は84千戸余りに達した。隋末の動乱を経て、唐初の幽州には2万戸余りが残り、檀州には1700戸しかなかった。玄宗の天宝年間(西暦742‐755年)には幽州の人口は6万7千戸、37万人にまで増加した。檀州は6千戸、3万人に増加した。北京全体、及びその付近の地域(以上の唐代の幽州の戸数の数字は、今の武清、永清、安次、涿県、固安、新城等の戸数を含んだ数字である。『旧唐書』巻39『地理志』、『新唐書』巻39、巻43下『 地理志 』参照)は、8世紀中葉には人口が40万人くらいに達した。

 

 幽州の住民は主に漢族で、同時に相当の人数の少数民族の人口を含んでいた。幽州は華北から東北に通じる要衝に位置しているため、ずっと北方と東北の少数民族地区と密接な連携を保持してきた。漢族の労働者はいつも少数民族地区に入って生計を立てようとし、少数民族の人々もいつもここへ来て商売をするか、定住した。隋唐の統一多民族国家の再建は、民族間の往来により多くの、都合の良い条件を提供した。隋代に遼西にいた一部の粟末韃靼人は、西暦623年(唐の武徳六年)幽州城に移り、その首領を世襲の刺史とし、薊県羅城内に役所(衙署)を置いた。西暦737年(開元25年)、また今の懐柔県西南の桃谷山に移った。西暦630年(貞観4年)、唐の太宗は突厥を破り、一部の突厥人は幽州地区に移住してきた。唐の太宗の時、14千人の高麗人が幽州に移住し、以後幽州各地に分散して居住した。唐の高宗の時、一部の新羅人が良郷の広陽城に移住した。7世紀末、契丹人は地方官府の圧迫に反抗し、一度は営州(今の遼寧省朝陽の治所)を攻撃して占領し、長期に営州地区に居住していた突厥、韃靼、奚(けい、契丹、室韋(しつい)人が内地に移住し、その中の一部は前後して幽州の良郷、昌平、潞(ろ。今の通県)と幽州城内外などの地に定住した。西暦732年(玄宗の開元20年)また奚の李詩部落5千帳(古代の遊牧民族の人戸の単位)が良郷の広陽城に移住した。これら幽州に移り住んだ少数民族は、一部が営州に戻り、一部がここを離れた他は、玄宗の天宝年間まで現在の北京市内に居住し続けた者が7138戸、34,293人いた。(以上の民族移住の資料は『旧唐書』巻39『地理志』、『新唐書』巻39、巻43下『地理志』、『旧唐書』巻185下『宋慶礼伝』参照)

 

 幽州城は隋唐五代時代にずっと多くの少数民族がここに定住し、北方の農業従事者と牧畜業従事者の物資の交易の中心であり、異なる民族の文化もここで交流また伝播した。

 

 

幽州地区の政治情況

 

 幽州地区の権勢を持った有力な地主一族は、北魏末の杜洛周蜂起軍の衝撃を経て、隋になると既に衰退していた。元々彼らが代々直接当地の政権を制御したが、隋の文帝の時、燕栄が幽州総管となり、わざと著名な姓(一族)の範陽盧氏に代わって「皆代わって吏卒と為り、以て之に屈辱す。」(『隋書』巻74『燕栄伝』)地方の行政は完全に隋王朝が任命した地方官吏の手に掌握されていた。

 

 隋の煬帝の時、幽州地区の人々は大量に各種の重い労役に徴発され、南北を疎通させる大運河、永済渠を開鑿し、幽州城内に臨朔宮を建設した。

隋大運河永済渠

男子が足りず、婦女も徴発された。隋の煬帝は三度高麗を攻略したが、毎回涿郡を兵馬糧餉(りょうしょう。軍人に給与として支給する食糧と銭)の集結場所とした。西暦611年(大業7年)2月隋の煬帝は高麗攻略の命令を下し、4月から翌年正月(1月)まで、彼自ら涿郡に駐留し、各項目の準備作業の推進を監督した。612年(大業8年)初頭に涿郡に軍隊1133800人が集結し、出兵の際は40日を要して派遣を完了した。毎回兵を退く時も涿郡で休息、軍備を整備した。これらは幽州の人々に甚大な災難をもたらした。

 

 隋末の農民戦争が初めて起こった年代に、涿郡に駐留していたのは遼東の退去兵で、農民の闘争は大きな影響を受けた。西暦617年(大業13年)、竇建徳(とうけんとく)は河間(瀛州(えいしゅう)。滄州市の管轄)で薛世雄が率いる幽薊の精鋭兵を大いに破って後、農民蜂起軍は幽州地区で急速に発展した。易州蜂起軍数万人が幽州に侵攻し、その他の蜂起軍もやって来て侵攻し、隋の涿郡の留守官の多くは拒むことができなかった。西暦620年(唐の武徳3年)竇建徳は派兵し幽州を包囲し、兵を留めて火城(今の北京城と大興の間)に籠城した。9月、竇建徳は自ら兵20万を率いて幽州を包囲し、何度か幽州城下まで攻撃し、一度は城壁をよじ登った。

 

 隋唐時期の幽州城はずっと朝廷が華北の人々の反抗を鎮圧し、東北の各少数民族を制御する軍事拠点であった。7世紀末、契丹と 奚(けい。モンゴル高原東部から中国東北部の遼河上流に存在した遊牧民族)が強大になった。契丹と 奚を制御し防御するため、唐の玄宗は714年(開元2年)幽州節度使を設け、兵91千人、馬65百匹を統率させた。そのうち今の北京市境界内に駐屯するのが、幽州城内の経略軍(兵3万人、馬54百匹を統率)、密雲城内の威武軍(兵万人を統率)であった。それ以外は今の北京市付近の各地に分散していた。これらの軍隊には毎年衣料品の下賜80万匹段、軍糧50万石あった。

 

 西暦744年(玄宗の天宝三載)、平廬節度使(治所は今の遼寧省朝暘)の胡人安禄山は東北の少数民族鎮圧に功があったので、範陽節度使を兼任した。安禄山は中央政権の簒奪をたくらみ、敵の侵略を防ぐ名目で、雄武城(黄崖関のこと)を築き、その内部に糧食、兵器と15千匹の戦馬を蓄えた。彼はまた上奏して上谷(今の易県)に銭鋳造の炉を五基作るよう乞い、胡人の商人を方々に派遣して交易を行い、財力を蓄積した。また漢族の失意文士、高尚、厳庄らを自分の策士にした。西暦751年(天宝十載)安禄山は河東節度使を再び兼務してから、更に急いで準備をした。彼は同羅(トングラ。鉄勒の一部族。モンゴルの北部,トラ川沿岸で遊牧生活をし,突厥に所属)、 奚、契丹等の少数民族8千人を自分の親兵とし、また上奏して、漢将に代え「藩将」32人を用いた。西暦755年(天宝14年)11月、安禄山は楊国忠を討つ名目で、統轄している部隊の兵、及び同羅、奚、契丹、室韋凡の15万人と合わせ、20万人と号し、幽州から挙兵し、まっすぐ洛陽と長安を攻撃した。安禄山が両京(洛陽と長安)を陥落させてから、しばしば駱駝で両京の御府の珍宝を幽州に持ち帰った。後に安禄山のグループ内で内訌 (内輪もめ)が起こり、安禄山は子の安慶緒に殺され、安慶緒もまた部将の史思明に殺され、最後に史思明も子の史朝義に殺された。安史父子の統率下、反乱は前後八年続き、歴史上安史の乱と呼ばれる。安史の乱は統治階層内部の利権争奪の戦争であった。安史等の人物は部下が家を焼き払い、人を殺し、金品を掠奪するのを容認するやり方で士気を鼓舞し、「人や家を焚し、玉帠を掠奪し、壮者は鋒刃に死に、弱者は溝壑(穴やくぼみ)に埋められ」、社会経済は甚大な損害を受けた。

 

 安史の乱が平定されてから、唐朝に投降した安史の残党は依然河北地区に盤踞し、実力はまだたいへん強大であった。唐王朝が代わって彼らを見かけ上推戴するため、節度使の名称を与え、彼らの割拠を認めた。河北地区はこれより幽州盧龍(今の北京市を統治する)、魏博(今の河北省大名を統治する)、成徳(今の河北省正定を統治する)の三鎮に分けられた。幽州地区は西暦763年(代宗の広徳元年)から、李懐仙が幽州盧龍軍節度使になって以来、西暦913年(後梁の乾化三年)、李存勗(り そんきょく)が山西から幽州を攻撃し占領するまで、150年間に前後28人の統治者が交換した。

 

 藩鎮の統治はたいへん貪欲で暴虐を極めた。唐末から五代の初め、劉仁恭は幽州に割拠し、統治はとりわけ暗黒であった。彼の領内では鉄銭を使用し、また泥粘土で貨幣を作り、人々に使用を強制した。そして民間の銅銭を収奪し、自分の懐に入れてしまった。「大安山の頂に穴を穿って之を隠し、隠し終えると匠を殺し、石でその入口を隠した」。彼はまた茶商が領内に入るのを禁じ、山に生えた草の葉を採って来て茶葉として販売した。後に彼は開封の朱梁政権と河北を争奪し、続けて失敗し、なんと領内の15歳以上70歳以下の男子全てを徴発して兵隊にし、自分で兵糧を持って来させ、「町中このため空っぽ」になった。兵隊に取られた男子は「貴賤の別無くその顔に「定覇都」と入れ墨を入れ、下士官はその腕に「一心に主人に仕える」と入れ墨を入れた」。(以上の劉仁恭に関する引用文は、『旧五代史』巻135『劉守光伝』参照)

 

 10世紀初め、耶律阿保机は契丹の各部を統一し、西暦916年契丹国を建国した。幽州地区の統治者劉守光や太原の李存勗は、皆契丹の統治者と結託して自分の敵対勢力を消滅させようと企んだ、契丹の統治者は彼らの間の矛盾を利用し、この機に乗じて自分の勢力を拡大させた。913年晋王李存勗(りそんきょく)は幽州を攻略し、更に南の朱梁を攻め、北方の統一を図った。917年耶律阿保机は自ら30万の軍隊を率いて幽州城を包囲した。契丹兵は四方から地下道を掘って城を攻めたが、城側は地下道を掘り起こし、油を注いで燃やして敵兵の攻撃を阻んだ。また土で山を築いて城を攻めたが、城側は銅を溶かした液体を撒いて敵兵を焼き殺した。幽州の兵士と民衆は奮戦し、後晋の軍隊は孤立した幽州城を200日近く固守し、契丹の南侵の企みを挫折させた。後唐の北方統一後、契丹は絶えず幽州に侵攻し攪乱した。西暦928年、即位間もない耶律徳光が出兵し、河北定州の割拠勢力を支援し、北方の統一を破壊した。契丹兵は危険を冒して南に深く侵入し、曲陽の一戦で、大敗して逃げた。契丹はまた7千の騎兵を派遣して定州を救援しようとしたが、唐河で破れて北へ敗走したが、途中で人々の襲撃を受け、総崩れになって軍を為さなくなった。敗走途中、幽州を通ると、後唐軍に迎撃され、「残った兵隊は散り散りに村落に落ちのびたが、村民が白いこん棒でこれを攻撃し、それを避けて国に帰った者は数十人に過ぎなかった。これより契丹は勢いを失い、軽々しく国境を侵すことがなくなった。」(『資治通鑑』巻276後唐明宗天成三年)

 

 契丹から防御するため、後唐は山西、河北地区に大量の軍隊を駐屯させ、大量の軍事物資を貯蔵した。河北節度使石敬瑭は中央政権を奪い取るため、人々の利益を売り払うことを惜しまず、恥知らずにも契丹皇帝に息子、臣と称し、事が成就すれば、雁門(がんもん)以北幽州節度管内の十六州を契丹に割譲すると答え、それにより契丹の軍事支援を獲得した。936年、石敬瑭は契丹の騎兵5万の支援の下、後唐を打ち倒した。耶律徳光は石敬瑭を大晋皇帝に封じ、幽雲十六州は契丹に割譲された。幽雲十六州中の幽(今の北京)、檀(今の密雲)、順(今の順義)、儒(今の延慶)四州及び嬀 州(きしゅう。今の懐来)の一部分は皆、今の北京市の域内である。長期に亘り人々の鮮血により保ち守られてきた幽州城及びその付近の広大な地域が、統治者により軽々しく売り渡されてしまった。

幽雲十六州(燕雲十六州)


北京史(六) 第三章 秦漢から五代に至る時期の北京(3)

2023年04月23日 | 中国史

魏の嘉平2年(250年)、薊城の西北で㶟河(るいが:今の永定河)の水を引き、戻陵堰を築いた

 

二節 魏晋十六国北朝時代の薊城

 

薊城の政治状況と薊城の住民

 黄巾蜂起軍の主力が鎮圧され、広陽の黄巾も薊城から退出させられた。地主階級が元々持っていた私的な武装軍は、黄巾鎮圧の過程で大きく増強された。州や郡の官吏も次々軍隊入隊者を募集し、勢力を拡充した。東漢以来封建経済の発展がもたらした社会の分裂は益々明確になった。農民軍の再蜂起を防止するため、州や郡をコントロールし、自らの存亡の危機から救うため、東漢王朝はいくつかの重要な地区の州刺史を州牧に改め、宗室や名望家出身の官吏を選んで任命し、彼らに一州の軍政大権を管掌させた。漢の宗室出身の劉虞(りゅうぐ)は幽州牧に任じられ、西暦189年(漢中平六年)薊城に着任した。一年後、董卓の乱により、薊城は有名無実となった東漢王朝とは連携を絶った。

 

 薊城は新たな発展段階に入った。そこは嘗ては秦漢帝国の辺境の都市で、東北と北方の各民族が国境を侵すのを防ぐ要衝であった。しかしこの時代には、北方の封建割拠勢力の中心都市のひとつとなった。ここに割拠した者が、塞外の各民族を使って、自ら中原に鹿を逐う際の助力とするため、また塞外の各民族が次々大量に内地に入って来るため、薊城はたいへん長い間、各民族の統治者が次々入れ替わって蹂躙(じゅうりん)する只中に入った。

 

 劉虞(りゅうぐ)は薊で、烏桓(うがん)と結託して幽冀(幽州と冀州の総称)を害する張純の反乱を取り除き、同時に上谷(懐来の東南)に元々あった塞外の各民族と交易する関所と市場を回復し、烏桓、鮮卑等の部族との平和な交流を発展させた。農業生産に注意し、漁陽(今の密雲の西南)の塩や鉄の利益を引き続き開発した。幽州は劉虞による統治の下、軍閥が覇を争う中原に比べ安定し富み栄えたので、中原の人々が大量に北に向け幽州に流入した。

 

 西暦193年(漢初平四年)、劉虞は部将の公孫瓚に殺され、公孫瓚と袁紹が相次いで幽州に割拠し、ぞのまま西暦204年(漢建安九年)曹操が幽冀を占領し、北方を統一するまで続いた。この期間、薊城に割拠した者は、烏桓、鮮卑の騎兵を自らの武装の重要部分とし、烏桓、鮮卑の人々が大量に幽州に入り、当地の漢族の人々と入り混じって生活し、互いに影響を与え、次第に民族間の融合の道を歩み始めた。

 

 しかし、 烏桓王蹋頓(とうとん)はしばしば軍を率いて薊城地区を乱し、人をさらい財産を掠奪し、生産を破壊した。西暦207年(漢建安十二年)曹操は大軍を率いて冀東から盧龍塞(今の喜峰口付近。河北省遷西県の西北50キロ)に出て、大いに蹋頓の軍を破り、烏桓の中の数万戸の漢族の人々を救助した。曹操は烏桓に対する戦争で北方の安全を確保し、幽冀の統治者が烏桓と結託して割拠する可能性を絶ち、北方の統一を助けた。

 

 この地の何人かの漢族の封建統治者は、塞外の各民族に対し、引き続き圧迫を行った。曹魏の幽州刺史、毋丘倹(かんきゅうけん)は遼東塞外の高句麗の人々を遠く河南省滎陽(けいよう)に移した。西晋の幽州刺史王浚(おうしゅん)は更に鮮卑の貴族、段務勿塵(だんむもちじん)と結託し、鮮卑、烏桓の軍隊を率いて八王の乱に参加し、鄴(ぎょう)城で軍隊が人をさらい金品を掠奪するのを容認し、また鮮卑兵に命じてさらってきた漢族の婦女八千人を易水に沈めて溺死させた。

五胡十六国時代の華北

 十六国の戦争による混乱が始まって以降、幽州地区はしばらくは戦乱が比較的少なく、北方の人々でここに逃げて来る者がたいへん多かった。しかし彼らは王浚の搾取と圧迫の下、生活の活路を見出すことができなかった。西暦314年(晋の建興二年)、王浚(けつ)(山西省にいた匈奴の一種で、東晋の時、黄河流域に後趙国を建てた)の石勒(せきろく)の軍隊に殺され、薊城は鮮卑段部の手中に落ちた。西暦319年(晋の大興二年)、石勒は薊城を奪い取った。遼西地区の鮮卑慕容(ぼよう)部の南下を防ぐため、石勒は彼の根拠地の襄国(今の河北省邢台)と薊城の間に楡の木を一列に植え、滹沱河(こだが。海河水系の西南の支流)に浮き橋を架け、襄国と薊城の連携を強化し、薊城を攻守の基地にした。

 

 西暦350年(晋の永和六年)、冉閔(ぜんびん)が後趙政権を奪い取って後、鮮卑慕容部の統治者慕容儁(ぼようしゅん)は遼西地区から南下し、兵を分け、今の冀東、喜峰口、居庸関の三路から薊城を攻略した。この時から始まり西暦357年(晋の升平元年)まで、薊城は前燕の都であった。以後半世紀の間、薊城は氐(てい)族(西北一帯に居住していた部族で、五胡の一つ)の前秦が統治した十数年を除き、ずっと慕容部の故都龍城(今の遼寧省朝陽)と新都鄴(ぎょう)城(今の河北省臨漳:りんしょう)の間の枢軸で、鮮卑部落がいつも出入りする場所だった。4世紀末、薊城は鮮卑拓跋部北魏政権に取得された。北魏が分裂すると、薊城は前後して北斉と北周に属した。

 

 薊城地区の政治形勢の変化は定まることがなく、薊城住民の民族構成も部分的に変化した。魏晋十六国北朝の時代、ここの住民の主体は依然漢族だったが、移り住んできた烏桓、鮮卑の人々も多かった。慕容儁が薊城を都とした時、前燕の文武の役人、兵士、鮮卑族の人々が薊城に移り住んだ。丁零族の一部が密雲などの地に集まって住み、薊城付近の一本の川は丁零川を名とした。西暦429年(魏の神䴥二年)、北魏は塞外の高車族数十万人を強制的に陰山から滦河(らんが)上流の一帯に置いて農業や牧畜をさせた。幽州北部はこの一帯に近く、高車族の集落もある可能性があった。西暦432年(魏の延和元年)、北魏はまた東北諸郡の移民三万を幽州に住まわせた。この他、中原が戦乱の中、流民もしばしば自ら進んで幽州に移り住んだ。劉虞の時、中原流民の幽州流入は百万人余りに達した。後燕の慕容農が幽州牧の時、四方からの流民数万人が集まりここに住んだ。北魏の尉諾が幽州刺史の時、外に逃亡した幽州の人々で、故郷に戻る者が一万戸余りあった。これらの流民は漢族が主で、長く塞内で暮らすその他の各民族の人々もいた。西暦523年(魏の正光四年)、六鎮蜂起の時、辺境地帯の町の各民族の兵士や民衆で薊城に流入する者がたいへん多く、流民と薊城の人々の蜂起を指導した杜洛周は、柔玄鎮(今の内蒙古興和県西北)の流民であった。

 

 薊城地区の人々が外へ流動する現象もしばしば発生した。これは薊城地区の統治者の圧迫、搾取の他、各民族征服者による住民掠奪によるものだった。西暦338年(晋の咸康四年)後趙の石虎が薊城の住民一万戸余りを強制的に中原に移した。西暦340年(晋の咸康六年)また漁陽から人戸を掠奪した。同年、鮮卑慕容皝(ぼようこう)は薊城と付近の住民三万戸余りを掠奪し、北に移した。西暦385年(晋の太元十年)後燕の反逆将軍徐岩が薊に入り、千戸余りの住民を掠奪した。次々と薊城地区に入り居住してきた鮮卑慕容部の人々は、当地に元々住んでいた人々と完全に融合した以外に、大多数が北魏の征服者により強制的に平城(今の山西省大同)に移住させられた。

 

 人口の流動、統治者による強制的な移住は、薊城地区の住民の民族構成を絶えず変化させた。魏晋十六国北朝による400年近くの長期間、薊城は民族融合の巨大な溶鉱炉であった。薊城周辺の広大な原野は、塞外から入ってきた各民族の人々が、遊牧生活から定住し農耕生活に移り変わるのに都合の良い場所であった。薊城付近で発達した封建制度は、塞外から入って来た各民族が融合する共同の基礎であった。薊城に定住した各民族の人々は皆薊城の主人で、彼らは漢族を主とする元々住んでいた住民と一緒に、薊城の物質的な財産や富、精神的な財産や富を創造し、薊城の歴史を発展させた。

 

 薊城地区の各民族の人々の融合は、民族の圧迫に反対する闘争の中で進められた。例えば、北魏軍が薊城を占領後、漁陽の烏桓人庫傉官韜(こじょくかんとう)は人々を集めて挙兵し、北魏統治者の残酷な他民族圧迫に反抗した。彼らは頑強に戦い、失敗しても再度挙兵し、そのまま西暦416年(魏の泰常元年)に至って、北魏王朝の統治者は、烏桓貴族幽州刺史庫傉官昌、征北将軍庫傉官提らの助力を得て、ようやく蜂起軍領袖の庫傉官女を生け捕りして平城に送り、十八年間続いた烏桓人の反抗を鎮圧した。薊城地区の人々の闘争は北方の各地の各民族の人々の闘争と互いに呼応し、北魏王朝の統治者が都を河北、河南地区に移す勇気を奪い、彼らに迫って他民族への圧迫を緩和させた。

薊城及びその周囲の建設

 

 薊城は、長い歴史があり、政治的に複雑な変化はあったけれども、都市の基盤は、戦国から遼代に到る千年余り変動が無かった。

 

 北魏の地理学者酈道元(れき どうげん:薊城付近の涿県の人)の『水経注』及びその他の文献によれば、また解放後北京で出土した器物、西晋幽州刺史王浚の妻芳華の墓誌(芳華の墓は1965年今の八宝山西側0.5キロのところで出土し、墓誌に「仮に燕国薊城西二十里に葬る」の文があった)によれば、私たちは薊城城址は現在の北京城の西南部であり、薊城の大部分は現在の北京外城の西北部分と重なると推断できる。

 

 薊城は多くの水道がぐるりと取り囲む中に位置している。薊城城南七里は、今日の永定河の北で、当時の㶟水(るいすい:今の永定河)の河道であった。今の西直門外紫竹院公園の湖は、当時の高梁河の水源であった。高梁河は薊城の北面と東面を巡り、東南に向け、薊城の南面に沿って流れる㶟水に繋がっていた。薊城南面の清泉水は、遊覧客が賞玩(鑑賞し、遊覧する)する場所であった。

 

 西暦206年(漢の建安十一年)、曹操は薊城付近の地域の海運を通じさせ、烏桓に侵攻する準備を行い、洵河(じゅんが)口に水路を穿ち潞水に導き、泉州渠と名付けた。泉州渠は海に通じる平虜渠(へいりょきょ。呼沱河(こだが)と泒水(こすい)の間にある)と繋がっていた。このように、薊城地区は潞水から海に通じる水道を持ち始めた。しかし各民族の統治者が戦い混乱した時代は、この海に通じる水道は維持、修理をすることができず、これが本来果たすべき機能を果たすことができなかった。

 

 薊城の西北は、居庸関から山西の大同に到る、薊城を屏風のように遮る長城を建設した。薊城は戦国以来都や封国の所在地で、城内には次々大きな建築物が建てられた。前燕の慕容儁(ぼようしゅん)がここに太廟と宮殿を建て、宮殿にはまだ燕昭王の時の碣石宮(けっせききゅう)の旧名をそのまま用いた。また東掖門(えきもん)の下には銅馬像を建て、塞外の駿馬の雄姿を表した。残念ながら、これらの建物は、皆後秦の幽州刺史により焼き払われた。後に北魏軍が後燕に侵攻した時、後燕太子慕容宝がまた薊城の府庫の一切合切を北の龍城に持ち去ってしまった。

 

 

薊城の人々の経済生活

 

 薊城地区は、農作物は粟類を主としたが、水稲栽培の伝統もあった。戦国時代以来、三国、北朝を経て隋唐に至るまで、薊城の人々が水稲を栽培したという記録がある。

象牙尺(長さ24.2センチ)

北京八宝山晋芳華墓出土

 薊城防衛(戍守:じゅしゅ。辺境防衛)の兵士は、しばしばここでは重要な労働力であった。彼らは屯田兵として組織され、当地の人々と一緒に畑を耕し、荒地を開墾した。東漢末、公孫瓚(こうそんさん)がここに屯田を設置した。魏国の劉靖(りゅうせい)の軍隊が薊城で屯田し、稲を植えた。後趙の石虎は幽州以東で屯田を始めた。北斉は薊城に隣接した範陽督亢陂(はんようとくこうひ:今の涿県以東)で屯田を始め、毎年の米の収穫高は数十石だった。

 

 水利灌漑は薊城地区で農業生産が発展する重要な条件だった。西暦250年(魏の嘉平二年)、劉靖が屯田を始めた時、梁山(今の石景山)の㶟河(るいが。今の永定河)に川を遮るダムを築き、戻陵堰(れいりょうえん)と呼んだ。ダムの東端を穿って水路を引き、車箱渠(しゃしょうきょ)と呼んだ。

㶟河、戻陵堰、車箱渠の位置関係略図

車箱渠は永定河の水流の一部分を遮って薊城東側の高梁河(こうりょうが)に向かわせ、高梁河の水をより満ち溢れさせた。高梁河の両岸には多くの用水路を開鑿し、田地2千ヘクタールを灌漑した。

高梁河上流略図

山津波で水位が急に高くなる季節は、㶟河の水は一部を車箱渠から流し出してしまい、それによって薊城南側の氾濫の災害を軽減した。西暦262年(魏の景元三年)、樊晨(はんしん)が中心となって戻陵堰を修築し、また高梁河の上流から水路を引いて温楡河に直接つなげ、灌漑面積を拡大した。西295年(晋の元康五年)、戻陵堰が山津波により四分の三が押し流されて破壊され、一度大修理が行われた。200年余り後、北魏の裴延儁(はい えんしゅん)が幽州刺史になった時、また戻陵堰を修復した記録がある。西暦565年(斉の河清四年)、北斉の幽州刺史斛律羨(こくりつ せん)が薊城地区の人々を組織し、再度高梁河の水を温楡河(おんゆが)に向けて引き、その後東で潞水(ろすい)に注いだ。岸に沿って灌漑された田がたいへん多く、北斉が辺境の食糧を輸送する労を省くことができた。

 

 戻陵堰、車箱渠などの水利工事は、最初は兵士千人で作られた。西暦295年( 晋の元康五年 )、修復時には兵士二千人が出動し、四万人余りの作業者を用い、薊城付近の人々も何千人もが労役に参加した。しかし多くの封建統治者は個人の私的な利益のため、水利を独占したり、任意に破壊したりした。例えば西晋の終わりに薊城の統治者王浚と彼の部将は、自分の田畑に水を引き灌漑するため、付近の住民の広い土地や墳墓が水浸しになるのをいとわなかった。このため、魏晋十六国北朝の時代、水利工事は長く維持することが困難で、人々が一回、また一回と作り出した水路や堰は皆、使用を開始してしばらくすると、次第にふさがって廃棄されてしまった。

 

 薊城地区の人々は牧畜業を営む伝統があった。幽州の馬は古来名を馳せていた。幽州産の家畜の靭帯や角は、弓や弩(ど)を作る時の貴重な材料で、魏の陳琳は『武庫賦』、晋の江統は『弧矢銘』の中で、幽都の家畜の靭帯、角を用いて作った弓や弩を、たいへん褒め称えた。薊城地区の畜産品は有名で、塞外の遊牧民の部落とこの地は絶えず密接に連携していた。

 

 薊城地区の手工業生産は、戦乱の中で大きく破壊された。北魏の統治者は北方各地の手工業者を強制的に平城に移住させたのも、薊城の手工業生産が衰退した大きな原因であった。しかし薊城の民間の麻、布生産は依然として相当大きな生産量があり、人々が負担する戸毎の徴税は、麻、布で納められた。今の密雲県は鉄を産出する場所であったので、劉虞の時代には引き続き採掘をした記録がある。今の平谷県西北には塩池があり、食塩を生産した。北魏はここに塩田の守備隊を設け、兵士が駐在し守った。薊城付近には「胡市」があり、塞外の各遊牧民族が交易する場所で、ここは各民族の経済交流を促す効果があった。歴代の「胡市」の伝統から推測して、ここで交易される主な商品は、食糧、鉄器、その他の手工業品であったに違いない。

 

 薊城地区では、北方の他の地方と同様、大地主の多くは権勢のある家柄の豪族であった。彼らは多くの土地を所有し、宗族(そうぞく)、親戚、隣近所を主とする百人或いは千人単位の従属する農民、や小作農、及びかなり多くの畑仕事、機織りをする奴婢であった。彼らはまた「苞蔭戸」を武装させ、部曲(個人の私兵)の家兵を組織した。北魏前期に、これらの人々は宗主と呼ばれ、彼らは一方を「督護」し、北魏政権に代わって地方を統治する権力を握った。

 

 封建搾取の下の薊城の農民は、生活が塗炭の苦しみの中にあった。東漢時代、幽州地区の政権機構の費用は、当地で搾取し得られたものの他は、しばしば人煙の稠密な青州(山東省)、冀州(河北省)からの租税での補充に頼った。東漢以後、ここでの戦いは益々多くなり、それにつれ増加した軍政費用は当地の人々から取るしかなく、外地からの調達、補充が得られなくなった。租税を負担する自作農は、益々多くが王朝の管理から離脱し、横暴な地主の小作農になり果ててしまった。自作農の数は日増しに少なくなり、彼らの租税や兵役、徭役の負担は日増しに重くなった。西暦555年(斉の天保六年)、北斉の統治者は居庸関から平城(今の山西省大同)の至る長城を修築するため、民丁(壮丁、そうてい。賦役にあたる壮年男子)の徴発が180万人にも達し、長城の起点に当る薊城の各民族の人々は、自然と大量に徴発され、苦役に従事した。長城の工事が完成して後、北斉の統治者はやせこけて弱弱しい服役者を打ち捨てた。その中の多くが、彼らが自ら築いた長城の下で餓死、凍死、病死した。

 

 自作農であれ小作農であれ、彼らは飢餓ぎりぎりの線上でもがいていた。封建地主は高々と穀倉を築き、食糧を貯蔵し、それが市場に出るのを拒んだ。地方の官吏も食糧を収奪し、一般の人々の生死など顧みなかった。例えば王浚は食糧の備蓄が50万斛(升。十斗)に達したが、幽州の人々は食を求めて行き場を失い、各地に四散せざるを得なかった。戦乱とともに発生した各種の天災が、しばしば薊城の人々を襲撃した。千里の彼方から飛来するイナゴの大軍や、山津波の襲来といった災害により、薊城地区では幾千幾万の人々が命を失った。封建時代において、天災は時には残酷な統治の直接の結果であった。

 

杜洛周が指導する反魏闘争

 

 十六国時代以来、薊城地区の階級矛盾は先鋭的に存在していたが、各民族の人々がしばらくの間は民族の境界で分断しており、階級矛盾はまだ大規模な農民戦争へとは発展し難い状況にあった。北魏中期以後、民族融合の進展が加速し、民族間の差異が次第に減少していった。北魏の統治力が強まるにつれ、また社会経済の発展に伴い、統治者の貪欲な搾取、堕落が益々ひどくなり、それが都を洛陽に遷都して以降更に明確になった。こうして、北方社会の大規模な階級闘争の爆発時期が日増しに成熟していった。西暦499年(魏の太和二十三年)、幽州人の王恵定が大勢の人々を集めて挙兵し、自ら明法皇帝と称した。西暦514年(魏の延昌三年)、幽州の僧侶、劉僧紹が反魏の兵を起こし、自ら浄居国明法王と称した。幽州地区のこれらの闘争は、北方人民の北魏の封建統治に反対する大規模な階級闘争の予兆であった。

 

 西暦523年(魏の正光四年)、北方の辺境地区の各民族の人々が、北魏の統治者を震撼させる大蜂起を巻き起こし、間もなくその波は薊城地区に及んだ。西暦525年(魏の正光六年)、柔玄鎮の兵、杜洛周が上谷(今の延慶の境界を治めた)で兵を挙げ魏に抗戦し、軍を薊城に進めた。薊城の各民族の人々は次々にむしろ旗を掲げて立ち上がり、曾て蜂起の際に用いた宗教の上着を投げ捨て、杜洛周の旗下に集まった。西暦526年(魏の孝昌二年)、北魏の安州(今の河北省隆化を治めた)の三戍兵(辺境を防衛(戍守)する兵士)二万余りが寝返って連携し、蜂起軍の勢いは益々盛んになった。彼らは続けて軍都関(今の居庸関)と薊城北側で北魏軍を大いに破り、北魏燕州刺史(今の河北省涿鹿を治めた)に迫って都を捨て南に走らせた。11月、蜂起軍は範陽(今の河北省涿県)に侵攻し、範陽の人々は魏軍の統帥常景と刺史王延年を生け捕りし、城門を開けて蜂起軍を出迎えた。こうして、薊城地区は完全に蜂起した人々の手中に掌握あれた。西暦528年(魏の武泰元年)、杜洛周が殺され、彼の蜂起軍は葛栄軍に併呑された。強大な葛栄蜂起軍の先鋒は何度か北魏の心臓である洛陽からあまり離れていない沁水(しんすい)、滑城などの地に進入した。しかし、鄴ぎょう城以北の一戦で、葛栄の主力が不幸にも敵に攻撃され潰走し、彼自身も囚われて犠牲となった。

 

 葛栄蜂起軍の失敗の後、軍中の薊城地区の人々は、一部が青州に向かい、邢杲(けいこう)の反魏軍と肩を並べて戦い、別の一部分は韓婁(かんろう)、郝長(かくちょう)が率いて、薊城に戻り引き続き一年間闘争を続けた。

 

薊城の経学

 

 民族間の融合が進むにつれ、各民族の統治階層も、漢族の地主と次第に連携するようになった。彼らは経学(けいしょ。四書五経などの経書を研究する学問)を提唱した。当時、薊城には経学を研究する士大夫が集まっていた。薊城に長く住む梁祚(りょうそ)は公羊『春秋』と鄭氏『易』に精通していた。薊の人平恒は経籍を総合的に研究した他、『略注』を著し、歴代の統治者の興隆、衰退の過程を記述した。漁陽の人高閭 (こう りょ)は経史に広く通じていて、北魏の多くの詔令は、彼の手で書かれたものであった。

 

 当時、燕斉趙魏一帯は個人が学問の講義をする気風がたいへん流行っていた。梁祚は薊で、学校を設けて弟子に指導していた。北方の著名な経学家徐遵明は範陽で経学を研究し、多くの薊城の人々が彼について勉強した。個人で講義して経を伝えるのが、当時の地主階層の教育の主な方法で、漢族の文化学術の継承に、大きな役割を果たした。北斉になると、薊城の学校も復興し始めた。

 

 少数民族の中の一部の人も、経学の学習と研究に力を入れた。弟子を集めて講義した密雲の丁零(ていれい)人(紀元前3世紀~後5世紀にモンゴル高原に遊牧していたトルコ(チュルク)系民族)、鮮于霊馥(せんうれいふく)は、その中のひとりであった。各民族は定住に至る過渡期の農耕生活を送っていて、封建制に進む過程で、漢族の文化を吸収することが、彼らのたいへん自然な要求であった。鮮于霊馥が経学を教授したことは、漢族の文化が民族の融合の上で一定の効果を果たしたことを説明している。


北京史(五) 第三章 秦漢から五代に至る時期の北京(2)

2023年04月22日 | 中国史

東漢荘園明器・陶庭院

 

西漢時代の燕国(続き)

 

 

 北京地区の貧富の差は日増しにひどくなった。大商人や富豪地主の多くの一般の人々に対する搾取や圧迫はたいへん残酷なものだった。『漢書・酷吏列伝・厳延年伝』によれば、涿郡の「大姓(名門)の西高氏、東高氏は、郡吏以下皆これを恐れ避け、敢えてこれと触れようとせず、皆曰く「寧ろ二千石を負うても、豪なる大家を負わず。」賓客は放って盗賊となる。発すればすぐに高氏に入り、吏は敢えて追わず。次第に道路は弓を引き刀を抜き、その後敢えて行く。その乱れることかくの如し。」西漢後期、北京地区の土地は併呑され搾取され、圧迫は一層ひどくなった。

 

 早くも武帝の時期、北京地区の階級矛盾と階級闘争は既にたいへん先鋭化していた。『漢書・酷吏列伝・咸宣伝』によれば、「吏民はますます犯罪を軽視し、盗賊が増えた。南陽に梅免、百政あり、楚に段中、杜少あり、斉に徐勃あり、燕、趙の間に堅盧、範主の一族がいた。大群は数千人に達し、勝手に号令し、城邑を攻め、庫や兵を取り、死罪を赦し、郡守、都尉を縛り辱め、二千石を殺した。檄(げき)で県に告げ、向かって食を具う。小群盗は百人余りを以てし、郷や里を掠奪する者は、数を称すべからず。(数えきれない)」西漢の終わりには、全国各地の農民が次々蜂起した。西暦24年(更始二年)、劉秀が緑林軍の破虜将軍となって大司馬の事を行い、秩序を保って北に向かい、薊に着いた時、王郎が邯鄲で帝位に就き、檄を飛ばして十万戸で劉秀を招こうとしたが、劉秀は将軍王覇に命じ、薊の市中で兵を募り、王郎攻撃の準備をした。「市の人皆大いに笑い、これを邪と諭した。覇は羞じて退く。」(『後漢書・王覇伝』)この時、故広陽王劉嘉の子劉接は薊で兵を挙げ、王郎に呼応した。薊の秩序は混乱し、皆恐怖にかられ、王郎の使者が既に到着したとのうわさが流れ、城内の大小の官吏は皆外に出て出迎えた。劉秀は兵力が弱かったので、皆を率いて南に逃げた。後に上谷太守耿況、漁陽太守彭寵の助けを得て、邯鄲を攻撃して破り、王郎を殺した。翌年、劉秀はまた呉漢に十二将軍を率いて潞(今の北京市通県)の東と平谷(今の北京市平谷県)一帯に派遣し、大いに尤来、大搶、五幡などの蜂起軍を破った。この時、将軍馬武らは劉秀に薊で皇帝を称するよう建議したが、劉秀は同意しなかった。後に(こう:今の河北省柏郷)に至り、自立して皇帝となり、東漢王朝を建立した。

 

 

 

東漢の幽州

 

 東漢のはじめ、今の北京地区は長期間戦乱の中にあった。建武二年(西暦26年)二月、漁陽太守彭寵(ほうちょう)が背き、自ら士卒二万人余りを率いて、幽州牧朱浮を薊で攻め、更に兵を分けて広陽、上谷、右北平の各郡を攻略した。八月、劉秀は遊撃将軍鄧隆を派遣し、朱浮を助け彭寵を討った。鄧隆軍は(今の北京市通県)の南に居り、朱浮軍は雍奴(今の天津市武清県蘭城村)に居た。彭寵は軽装の部隊で大いに鄧隆軍を破った。翌年三月、涿郡太守張豊が背き、無上大将軍と自称し、彭寵と連合した。彭寵は薊城を攻撃して破り、燕王を自称した。更に上谷、右北平を攻撃して奪い取り、北は匈奴に通じ、南は割拠勢力の張歩らと結び、劉秀に反抗した。建武四年(西暦28年)五月、劉秀は将軍祭遵、劉喜らを派遣し涿郡を攻撃して破り、張豊を捕らえた。祭遵はまた屯良郷(今の房山県竇店)に進軍し、劉喜は屯陽郷(今の河北省涿県長安城)に進軍した。匈奴は兵を派遣し、彭寵を増援し、上谷太守耿況を撃破した。彭寵は薊城を退き、漁陽を占拠し防備した。翌年二月、彭寵は召使いの子密に殺され、子密は劉秀に投降し、漁陽は遂に平定された。

 

 今の北京地区の行政区画は基本的に西漢の制度を踏襲したが、また変化もあった。更始の時期、ここは幽州に編入され、州牧はに駐在し、州牧の苗曽は後に劉秀に殺された。劉秀はまた朱浮を州牧にし、薊に駐在させた。後に州牧は刺史に改めた。東漢の終わりに、また州牧に戻した。州の下に郡(国)が置かれ、幽州の下には十一の郡(国)が属し、そのうちの広陽涿上谷漁陽右北平の五郡(国)の全部或いは一部分の地域が、今の北京市の領域となっている。建武二年(西暦26年)四月、劉秀広陽国を置き、叔父の劉良を広陽王とし、薊を都とした。劉良がまだ国に着任しないうちに、建武五年(西暦29年)三月、移して趙王とした。翌年六月、劉秀は国家財政が困難で、各地の人口がまばらであるため、命令を出して郡県を削減させ、全国で四百余りの県を整理統合した。これは彼が当時実際に管理した県数の三分の一を占めた。同時に官吏の職を十分の一に減らした。建武十三年、広陽国を省き、上谷郡に併合した。和帝の永元八年(西暦96年)、再び広陽郡を置き、下に五県、つまり薊(陽郷を編入)、広陽、昌平、軍都(二県が元は上谷に属していた)、安次(元々渤海に属した)を管轄させた。元々管轄していた方城は涿郡に属するよう改められた。順帝の永和五年(西暦140年)の官府統計によれば、広陽郡には戸が全部で44550あり、人口は28万6百であった。

東漢広陽郡、漁陽郡、右北平郡の位置関係

 劉秀が全国を統一して以降、「民力を養う」政策が執られ、農業生産の回復、発展に注意が払われた。劉秀は官吏の選任にたいへん慎重だった。当時、漁陽郡は彭寵の反乱による破壊のため、社会秩序が混乱し、経済の破壊が酷かった。劉秀は彭寵を滅ぼした翌年、郭伋(かくきゅう)を漁陽太守に任命した。「伋が来て、示すに信賞を以てし、首領を糾弾殺戮し、盗賊は消えていなくなった。時に匈奴がしばしば郡境を犯し、辺境はこれに苦しんだ。伋は軍隊を訓練し、攻守の計略を定め、匈奴は恐れ憚り遠くへ逃げ、敢えてまた塞に入らず、民は安んじて本業ができるようになった。在職五年にして、戸口は倍に増えた。」(『後漢書・郭伋伝』)後にまた張堪を漁陽太守に任命し、引き続き郭伋の統治方法を踏襲した。「狡猾な者は捕らえ叩き、賞罰は必ず信あり、吏民は皆用いるを楽しむ。匈奴は嘗て万騎を以て漁陽に入るも、数千騎を率いて奔撃するに堪え、大いにこれを破る。郡界は以て静かなり。」(『後漢書・張堪伝』)張堪は農業生産の発展をたいへん重視した。彼は狐奴県(今の順義)で、 沽水(こすい:今の白河)と鮑丘水(今の潮河)がその境を流れるのを利用し、稲田八千頃(1頃は百畝。6.7ヘクタール)を開き、人々に耕作させ、当地の農業生産と人々の生活を改善した。このため、張堪が太守に任命された八年間、漁陽は比較的安定していた。

 

 この地の手工業もより一層発展し、文献の記載によれば、漁陽郡漁陽(今の懐柔県)と泉州(今の天津市武清県)両県には何れも鉄官が設けられ、泉州は更に塩を産した。鉄器の使用が普及し、農業生産、その他の手工業の発展に大きく作用した。製陶業も発展し、出土した数のたいへん多い、技術の極めて高い陶器から見て、この時代の製陶業は既に新たな段階まで発展していたことが分かる。代表的な陶器には、釉薬を使った陶器、彩絵陶器などがある。そのうち、緑釉の陶制の荘園明器墓の副葬品の陶器で、住まいの建物のミニチュア)はたいへん普遍的に使用された。土で形作られた荘園の種類は極めて多く、荘園内には亭(あずまや)、台(高殿、舞台)、楼閣、榭(四方を展望できる高殿)、井亭(井戸を覆って建てられたあずまや)、食糧倉庫、豚小屋、家畜小屋などの建物があり、かまど、明かり、壺などの用具、更に召使いの俑(土偶)、犬、ブタ、羊、鶏、アヒルなどがあった。これらの陶製の明器は、当地の地主の荘園の経済発展を反映していた。

東漢緑釉陶水亭

 

 商業も相当に発展し、薊城は依然としてこの地区の商業の中心で、また内地と東北の各民族の間の貿易の要(かなめ)であった。東漢の中後期、烏桓(うがん)や鮮卑族が南に移動し、一部の人々は長城の内側に居住し、各民族の間の(物資の)交換関係はより一層発展した。朝鮮で出土した中国の技術を用いて織られた菱形紋の絹の残片や各種の漆器は、薊城から転送されてきたものである。

 

 東漢時代は、国力は西漢の武帝の時代と比べてずっと弱く、辺境地区はずっと不安定であった。建武十五年(西暦39年)匈奴の侵犯、攪乱を避けるため、雁門、代郡、上谷の三郡のへりに住む住民六万人余りを移住させ、常山関、居庸関より東に住まわせた。しかし、匈奴と烏桓が毎年侵犯し、上谷、漁陽沿いはしばしば破壊に遭った。建武二十二年(西暦46年)、烏桓が匈奴を撃破し、匈奴は西に移り、烏桓は西南方向に勢力を拡大した。遼西烏桓の大人郝旦ら922人は漢への帰属を要求し、更に洛陽に行き劉秀に謁見し、奴隷、牛馬、弓、虎や豹、テンの皮を贈り物として差し出した。漢は烏桓の首領を侯に封じ、王、君、長者81人を漁陽より東の国境の内側に居住させた。漢は上谷の寧県(今の河北省万全)に護烏桓校尉を置き、「営府(武将の屋敷)を開き、鮮卑を併せ、贈り物をし人質を取り毎年互市(部族間の交易)を行った。」(『後漢書・烏桓鮮卑列伝』)東漢中期、烏桓族と漢族の間は友好的な付き合いがあり、辺境は何事も無かった。この頃、鮮卑族も東北方向から南下し、何度も漁陽、上谷に侵犯し、時には居庸関に侵攻した。例えば安帝の建光元年(西暦121年)秋、鮮卑が居庸関、雲中に侵攻し、烏桓校尉徐常を馬城で包囲した。度遼将軍耿夔(こうき)と幽州刺史寵参は広陽、漁陽、涿郡の甲卒 (鎧を着た兵士)を発し、二つのルートに分けてこれを救助に行き、鮮卑は退き始めた。十一月、東漢王朝は幽州の辺境の防御を強化し、漁陽営兵一千人の設置を始めた。霊帝の初め、幽州北部は毎年鮮卑の侵犯に遭った。それ以降、鮮卑は分裂していくつかの部族に分かれ、侵犯もやや減少した。

 

 東漢中後期、今の北京地区の土地の併合が日増しに進み、貧富の分化がひどくなり、地主階級の農民の搾取と圧迫が残酷を極め、階級間の矛盾が益々先鋭化した。霊帝の初め、太平道の首領張角らが宗教を利用し蜂起を宣伝した。当時の彼らのスローガンは、「蒼天既に死し、黄天当に立つべし。歳は甲子に在り、天下大吉。」中平元年(西暦184年)二月、張角を首領とする黄巾の大蜂起が勃発し、同時に蜂起したのは青、徐、幽、冀、荊、揚、兖(えん)、豫(よ)の八州の数十万の群衆であった。彼らは黄巾(黄色い布)を頭に巻いて目印にし、「官府(役所)を焼き払い、聚邑を掠奪し、州郡は拠点を失い、長吏(地位の高い役人)は多く逃亡し、十日の間に、天下(国中が)これに呼応した。」(『後漢書・皇甫嵩伝』)薊城一帯で蜂起した人々は、幽州刺史(しし)郭勛(かくくん)、広陽太守劉衛を捕殺し、蜂起はますます激しさを増した。後に張角が病死し、黄巾軍の各部隊は、東漢の官軍と地主勢力の武装軍に分割して包囲され、個別に撃破された。11月までに、遂に失敗に帰した。今の北京地区は軍閥の劉虞(りゅうぐ)、公孫瓚(こうそんさん)、袁紹の長期の争奪の中に陥り、烏桓(うがん)勢力も上谷、漁陽、右北平などの地に侵入した。

 

 

秦漢時代の北京地区の文化

 

 

 秦漢時代の北京地区の文化は相当に発展していた。これは当時の手工業の技術レベル、文化教育の発展等に現われていた。青銅器を例にすると、一般の用具、器はたいへん精緻に作られ、形状が美しく、すっきりしていた。大葆台漢墓から出土した金メッキを施した銅製の門飾り、龍枕、星雲紋銅鏡、四螭鏡(螭:みずちは角の無い龍)、昭明鏡など、皆技術レベルの高い作品である。当時この地域で盛んに使用された博山式銅燻炉(銅製の香炉で、主に山東省博山淄博市)で作られた)もたいへん特徴に富み、器全体が透かし彫りになっていて、煙がゆらゆら立ち上がり、高い技術レベルを備えていた。

 

 陶器の種類もたいへん多く、技術レベルもたいへん高かった。多くの陶製の壺、罐(かん。小型の壺)は形がきちんとしていて威厳があるだけでなく、器の表面には赤や白の花の紋が絵付けされ、遠くから見ると、漆器と同じように見えた。また陶器全体に黒の漆を塗ったものは、つやつやした黒色がきらめき、漆器を真似た陶製品である。東漢時代には、多くの陶器に緑釉が施され、陶器制作技術の大きな進歩が見られる。順義県臨河村で出土した大型の緑釉陶楼、豊台区大葆台出土の黒漆衣博山蓋陶壺、陶耳杯(羽觴:うしょう)は、こうした陶器の代表作である。

 

 金玉器は貴族や官僚たちのために制作されたものだ。その中で、玉の彫刻の技術がたいへん高いレベルに達していた。大葆台出土の透かし彫りの玉璧、玉螭佩、鳳形玉觿( ぎょくけい )などは、形が優美で、彫刻が精巧で、何れもずば抜けた作品である。出土した玉舞人は、片袖を高く挙げ、片袖を下に振り下ろし、ひらひらと舞い、生き生きとして、真に迫っている。

鳳形玉觿 (ぎょくけい:縄をほどくための錐状の工具。長さ12センチ)

大葆台西漢墓出土

玉舞人(高さ5センチ)大葆台西漢墓出土

 両漢の統治階級は専制主義中央集権統治を強化するため、儒家の経典をたいへん重視した。西漢初年は、秦朝の「焚書坑儒」の後で、社会には読むべき書籍が存在せず、ただ老儒が口頭で暗唱する経典の伝授に頼っていた。文帝の時、薊城の人韓嬰が漢王朝の博士となり、『詩』を伝授し、弟子たちが当時通用した隷書で記録し、「韓詩」と呼んだ。「韓詩」と斉の人、轅固生が伝えた「斉詩」、魯の人、申公(名は培、或いは申培公と言う)の伝えた「魯詩」が、『詩』の今文(漢代に通用した隷書)の経典の三派である。伝によれば、韓嬰は詩の『内伝』四巻、『外伝』六巻、別に『韓故』三十六巻、『韓説』四十一巻を著作し、広く流布した。燕、趙一帯で『詩』を研究する者は、多くは『韓説』を根本とした。東漢(後漢)後期、涿郡の人、盧植が経学家として、名儒の馬融から学び、鄭玄とは同門の友人であった。学成り涿に帰って教授し、近くからも遠くからも有名であった。漢の霊帝の時、徴用され博士となり、後に廬江太守に任じられ、また議郎に招聘され、転じて侍中となり、尚書に移った。黄巾の大蜂起の時、北中郎として黄巾軍の鎮圧に参加した。董卓の独裁時、盧植は董卓に反対したため罷免された。彼は洛陽から逃げ、軍都の山中に隠居し、学校を興して教授し、方々から学びに来る者がたいへん多かった。『尚書章句』、『礼記解詁』を著し、当時文化上で有名な人物であった。


北京史(四) 第三章 秦漢から五代に至る時期の北京(1)

2023年04月20日 | 中国史

北京考古遺跡博物館(大葆台西漢墓遺跡

北京市豊台区黄土崗郷

 

第一節 秦漢時代の北京地区

 

秦代の広陽地区

 

 秦は紀元前222年(秦王政の二十五年)燕を滅ぼし、翌年軍を指揮して南下し、斉を滅ぼし、中国を統一した。秦は依然、咸陽を国都とし、専制主義の中央集権の封建国家を建立した。地方行政は、郡県両級の制度を採用した。旧燕国地区は、北側の行政区画は基本的に元の燕の制度を踏襲した。すなわち、長城線に沿い、西から東へ、従来通り上谷沮陽(そよう)を管轄。今の河北省懐来県大古城)、漁陽漁陽を管轄。今の北京市懐柔県梨園庄)、右北平無終を管轄。今の天津市薊県)、遼西陽楽を管轄。今の遼寧義県)、遼東襄平を管轄。今の遼寧遼陽)の五郡を置いた。元の燕国の都城、とそれ以南の地区から燕の下都、武陽(今の河北易県)に至る一帯には、新たに広陽郡を置き、薊(けい。今の北京城西南)を管轄した。秦代の薊はもはや諸侯国の都城ではなく、一郡の治所となったが、依然として旧燕国地区の政治、軍事、経済、文化の中心だった。

 

 秦が燕を滅ぼして以後、燕地は秦朝から言えば、遠い辺境の地域であった。旧燕国の軍隊は消滅したが、多くの燕の旧貴族は尚存在し、随時秦王朝のこの地の統治を打ち倒し、旧国を回復する備えをしていた。秦、燕の激戦の際、燕は強秦に反抗するため、長城沿線の進駐軍に内通させ、北部の辺境の防御を空っぽにし、匈奴が機に乗じて侵入し、北部の山地に入り、たびたび領地内に侵入した。紀元前221年(秦始皇二十六年)秦が天下統一を達成したばかりの時、秦の朝廷では辺境地区を如何に統治するかで論争が起きていた。丞相の王綰(おうわん)らは始皇に、これらの地域には王を立てて建国し、これらの地域を守らなければならないと建議した。彼らは言った。「諸侯初め破れるも、燕、斉、荊(楚)の地は遠く、王を置かざれば、之を填(鎮)める無し。請う諸子を立てよ。」この建議は李斯の反対に遭った。李斯は全国を「皆郡県と為し、諸子、功臣は公の賦税を以て重く之を賞賜」すべきと主張した。彼は、こうすることで「天下に異意無ければ、之を安寧する術也。諸侯を置くは便ならず。」(『史記・秦始皇本紀』)始皇は李斯の意見を受入れ、天下を三十六郡に分け、そのうち旧燕国は六郡に分けた。今の北京地区は、上谷、漁陽、右北平、広陽の四郡に属した

 

 始皇は辺遠地区の統治に全く安心しておらず、六国の滅亡後、直ちに命令を下し、関東六国の貴族、富豪を関中、巴蜀等の地に移住させ、六国が民間に分散させて収蔵していた兵器を接収し処分させ、将軍蒙恬(もうてん)に三十万の大軍を率いて北に匈奴を追い払わせ、防備の便のため、旧来の秦、趙、燕の長城を修繕し連結させた。「地形に因り、険を用いて塞を制し、臨洮(りんとう)から遼東に至る。延々と続くこと万余里。」(『史記・蒙恬列伝』)これが著名な万里の長城である。蒙恬は上郡(今の陝西省楡林の南)に居り、軍隊を指揮した。この時、北京地区の北側に進入した匈奴は長城の外に追い出された。始皇は更に命令を出し、全国範囲で馳道(ちどう。皇帝が通行する道路)を作らせた。馳道は首都咸陽を中心に、「東は燕、斉を窮め、南は呉、楚を極め、江湖の上、瀕海の観卒に至る。道五十歩(約70メートル)の広さで、三丈(約7メートル)毎に街路樹を植え、それを厚く築く外、隠すに金槌を以てし、樹に青松を以てす。」(『漢書・賈山伝』)始皇在位の11年中、5回馳道に沿って全国を巡遊した。始皇32年(紀元前215年)第4回の巡遊の時、旧燕国の地区に到り、およそ今の太行山脈東麓を通って北上し、治水(今の永定河)を渡り、薊に至り、再び無終を経て、遼西郡の 碣石(今の河北省昌黎の北)に到達した。彼は燕人の盧生に海に入らせ、仙人の羨門、高誓を訪問させ、更に韓終、侯公、石生を派遣し、仙人を訪問させた。これは皆、長生不死の薬を求めるためであった。始皇が西に帰る時、「北辺を巡り」、おおよそ旧燕国北の長城線に沿って今の内蒙古地区に至り、そこから南下して上郡に至り、咸陽に戻った。

 

 秦朝は長城を建設するため、匈奴を防ぎ、馳道を開き、宮殿を築き、墳墓を作り、徴発する徭役がたいへん多く、賦税もたいへん重かった。紀元前209年(秦二世元年)、また大いに徭役が発せられた。そのうち河南から徴発されたグループは900人で、県尉が護送し、漁陽に到り国境を守ることになっていた。この徴発された農民は薊県大澤郷(今の安徽省宿県東南)まで来た時、長雨が続き、道路が不通で、任地への到着期限を遅れた、秦朝の法律では、期日の遅れは斬首刑に処せられた。それでこれら900人の徴発された農民は、陳勝、呉広の指導の下、蜂起した。元の六国の貴族もこの機に乗じて兵を起こし、国の再興を図った。陳勝は武臣を将軍として派遣し、三千人を率いて北のかた趙の地を奪い取った。「戦わずして城下三十余城を以て、邯鄲に至る」(『史記・張耳陳余列伝』)。武臣は自ら立って趙王と為り、陳勝、呉広の管轄を離脱した。武臣はまた旧燕の上谷の卒史韓広を将とし、北に燕地を奪い取った。燕の旧貴族はまた韓広を擁立して燕王とし、燕国を回復し、薊を国都とした。紀元前208年(二世二年)閏九月、秦は王離を統帥とし、上郡から数十万の大軍を率いて東に向かい、趙王歇(歇は趙の旧貴族で、この時武臣は既に死んでいた)を鉅鹿(今の河北省平郷)に包囲した。秦の将軍章邯は二十万余りの大軍を率いて中原地区から北に黄河を渡り、甬道(道の両側に垣を作り、中を通行しても外から見えないようにした道路)を作り、黄河から北に鉅鹿以南に至り、王離のために軍糧を供給した。この時鉅鹿は切羽詰まり、趙は何度も人を派遣し、各反秦勢力に援助を求めた。燕王韓広は将軍臧荼(ぞうと)を派遣し、軍を率いて趙の救助に行かせた。翌年、鉅鹿の会戦は、趙を救助する各路の軍は項羽が率いる楚軍を主力に、大いに秦軍を破った。秦の将、王離は捕虜にされ、蘇角は殺され、渉間は自焚し、章邯は南へ逃げた。臧荼(ぞうと)ら各路の将校は共に項羽を「諸侯上将軍」に推し、反秦連合軍の統帥にした。項羽は殷墟(今の河南省安陽)で章邯の投降を受入れて後、挙兵して西へ向かい、函谷関に入り、まっすぐ咸陽に至った。

 

 この時劉邦は既に項羽に先んじて函谷関に入り秦を滅ぼしていた。しかし劉邦の軍勢は比較的小さく、十万人に過ぎなかった。項羽には四十万人の兵がいて、軍勢は強大であった。項羽は盟主の身分により諸侯王を大いに封じ、全部で彼に従い函谷関に入った主要な将校と関東で既に国を復活させた貴族を十八の王国に封じて立てた。その中の燕将臧荼(ぞうと)は軍を率いて項羽に従い入関するに功有り、燕王に封じられ、薊を国都とした。元の燕王韓広は遼東王に改められ、無終(今の天津市薊県)を国都とした。臧荼が薊に戻る時、韓広は項羽の分封を承認せず、且つ武力で臧荼の入薊を拒んだ。臧荼は韓広を撃破し、無終で韓広を追撃して殺害し、韓広の遼東地区を併せて占有し、新たな燕国を建立したが、依然薊を国都とした。楚漢の戦争の中で、韓信が趙を滅ぼして後、広武君李左車の建議を受入れ、使者を燕に派遣し、臧荼が投降したが、劉邦は相変わらず臧荼を燕王とした。

 

 紀元前202年(漢五年)冬、劉邦は項羽を滅ぼした。同年7月、臧荼が背き、代郡(今の河北省蔚県)を攻め落とした。劉邦は自ら大軍を率いて討伐し、臧荼を捕虜にした。別に盧綰(ろわん)を立てて燕王とし、旧燕国地区を統治させた。翌年、薊以南の29県を割いて涿郡を置いた。

 

 

西漢時代の燕国

 

 西漢初年、今の北京地区は燕国となり、を都城とし、諸侯王盧綰(ろわん)であった。劉邦とは姓が異なるので、歴史上は異姓の諸侯王と呼ばれる。

 

 盧綰は劉邦と故郷が同じで、二人は誕生日が同じで、幼い時は共に学び、「壮じてまた互いに好んだ」。劉邦が挙兵した時、盧綰も参加した。楚漢戦争の時、盧綰は官位が大尉にまでなり、長安侯に封じられた。漢57月、劉邦に従って臧荼を攻め滅ぼして後、燕王に封じられた。紀元前196年(漢11年)秋、陳豨(ちんき)が代( 今の河北省蔚県 )で背いた。劉邦は自ら大軍を率いて邯鄲(今の河北省邯鄲市)に至り、南面から陳豨を討伐した。燕王盧綰もまた兵を率いて東北より陳豨を攻撃した。後に盧綰は劉邦が陳豨を滅ぼして後、更に自分を滅ぼすのではないかと恐れ、また陳豨と結託し、陰で陳豨が劉邦に反抗するのを支持し、更に匈奴と使者を通じ、互いに声援を送った。翌年、劉邦は陳豨を撃破し、盧綰と陳豨が共謀していたことを知り、使者を派遣し盧綰を呼び寄せたが、盧綰は病と称して行かなかった。それで劉邦は樊噲(はんかい)を将軍とし、軍を率いて燕を攻撃させた。後にまた周勃に樊噲に代えて薊を攻め滅ぼさせ、燕の大将抵、丞相偃、太尉弱、御史大夫施等を捕虜にし、立て続けに上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東などの郡を攻め滅ぼした。盧綰は家族、宮人、腹心など全部で数千騎を連れ、匈奴に逃亡した。一年後、匈奴で死亡した。

 

 劉邦は盧綰を攻撃する時、大臣たちと盟約して言った。「劉氏に非ざる王は、もし功無ければ、上(皇上)が置かず(冊封せず)侯なる者は、天下共に之を誅す。」(『史記・漢興以来諸侯年表』)そしてその子劉建を燕王に封じた。立てて十五年(呂后七年、紀元前181年)で、病死したので、諡(おくりな)を霊王とした。建の子は幼少で、呂后のため殺され、国は除かれた。翌年、呂后はまたその甥(おい)の呂通を燕王に封じた。しばらくして、呂后が病死し、呂通と呂氏のその他の親族は一緒に滅ぼされた。文帝が立ち、また一族の劉澤が燕王に封じられた。劉澤は元琅邪王で、呂氏に反対するに功有り、遷されて燕王になった。澤が燕に至り二年で、病死し、諡は敬王と言った。子の嘉が位を継いだ。これが康王である。康王が死に、その子定が位を継いだが、罪を犯したので、紀元前128年(武帝元朔元年)自殺し、国は除かれ、燕郡に改められた。紀元前118年(元狩五年)武帝は再び燕国を置いた。翌年4月、子の旦を燕王に封じた。相変わらず都は薊であった。紀元前80年(昭帝元鳳元年)燕王旦は蓋長公主、左将軍上官桀、御史大夫桑弘羊と結託し、昭帝を廃して自立する陰謀を企てた。事は露見し、自殺し、国は除かれ広陽郡となった。昭帝は旦に諡を賜り刺王とし、太子建は免じられて庶人となった。後六年(紀元前73年)宣帝が即位し、建を立てて広陽王とし、広陽郡を改め国としたが、相変わらず薊を都城とした。平帝の元始二年(西暦2年)西漢官庁の統計によれば、広陽国の下で薊、方城、広陽、陰郷の4県を管轄し、全部で戸数が2740、口数は7658であった。王莽が君位を簒奪し、国が除かれ、広有郡と改められ、また薊を改めて伐戎とした。

 

 西漢前期、秦末の農民大蜂起の後、土地占有状況に調整があった。西漢の統治者はまた「徭役を軽くし、租税を薄くする」政策を実行し、階級矛盾の緩和、社会経済発展の回復の面で一定の効果をもたらせた。農業生産は相当に発展した。考古発掘から見ると、この当時既に広く鉄器が使用されていた。解放以来、北京地区で出土した西漢の鉄製農具には、鍬(くわ)、鋤(すき)、スコップ(シャベル)、耧角(牛の角状の種まき用の農具)などがあった。これらの鉄器は当時重要な田の耕作、除草、種まきの工具であった。鉄製農具の大量使用は、北京地区の荒地の大量開発を可能にし、水利事業を発展させ、耕作技術も進歩した。解放以来、北京城の内外で多くの漢代の井戸が発見された。その大部分が西漢時代のものだ。こうした井戸は、陶製の井戸枠で築かれている。1956年、永定河引水工事中に漢代の陶製井戸が百五十余り発見された。これらは主に宣武門豁口(城壁の一部を取り壊して通路にしたところ)の両側から和平門一帯に密集していた。1965年にはまたこの一帯で漢代の陶製井戸が五十余り発見された。この他、今の瑠璃廠、新華街、象来街、北線閣、広安門内大街、校場口、牛街、陶然亭、姚家井、白紙坊などからまっすぐ西単の大木倉に至るまで、陶製井戸が発見された。これら密集した陶製井戸は単純な飲み水用ではないように思われ、おそらく田地や園圃(えんぽ。野菜や果樹の畑)を灌漑し切り開くためのものだと思われる。果樹の栽培は普遍的に行われ、主に棗(なつめ)、栗などが生産量がたいへん大きく、既にこの地域の重要な経済構成部分となっており、ひいては糧食に代わるものとなっていた。

 

 ここでは手工業もかなり発展していた。文献の記載によれば、漁陽涿郡には鉄官が設けられ、主に山を切り開き鋳造が行われていた。今の北京城の北郊の清河鎮で発見された漢代の鉄の鋳造遺跡では、鉄器が数多く出土し、剣、戟(げき)、鉞(えつ。まさかり)などの兵器、鋤、鍬、スコップ、 耧角、手斧(ちょうな)、鑿(のみ)、環刀などの農具や手工具があった外、鼎、鏡、車具、馬飾り、その他の器具もあった。これらの器具の発見は、当時の鉄の鋳造が相当に発展し、製品の種類がたいへん多かったことを説明している。同時に、これと関連するその他の産業、例えば農業、木工業、運輸業なども、相当に発達していたことを反映している。1975豊台区大葆台で発掘された西漢墓の中で、多くの鉄器が出土した。その中には、鉄の斧、箭鋌(弓矢の矢先と竿の接合部分)、笄(こうがい)、鎹(かすがい)、鉄の輪っかの付いた工具、戟 (げき)などがあった。一件の鉄斧は、片面に「」の文字が鋳込まれており、おそらく漁陽鉄官が鋳造したものだろう。

「漁」字の鋳込まれた鉄斧

大葆台一号墓前景

 製塩業も相当に発展していた。文献の記載によると、漁陽郡泉州県には塩官が設けられ、ここは重要な塩の生産地であった。製陶業も発展していた。大葆台西漢墓出土の陶器には、鼎、罐、壺、盤、盆、魁(かい:スープをすくう杓子)、 鈁 (ほう:酒器)、甕、耳杯(羽觞:うしょう。楕円形で底の浅い酒杯)などがあった。器の表面には多く黒漆が塗られ、また内側が赤漆、外側に黒漆が塗られたものもあった。

 ここでは商業も発展し、このことは当地の農業、手工業の発展、及び北に隣接する異民族の住む地域と切り離しては考えられない。薊はこの地域の交易の中心であった。『史記・貨殖列伝』によれば、「それ燕はまた勃、碣(けつ)の間の一都会也。南は斉、趙に通じ、東北は胡に連なる。上谷から遼東に至るには、地遠く離れ、人民稀なり、しばしば侵略せられ、大いに趙、代と俗が相似し、民は奸智に長け虜少なし。魚塩棗栗が豊かである。北は烏桓、夫余に隣接し、東は濊貊(わいはく)、朝鮮、真番(しんばん)の利と結ぶ。」『塩鉄論・通有篇』によれば、「燕の涿、薊、趙の邯鄲、魏の温、軹(し) 、韓の滎陽(けいよう)、斉の臨淄、楚の宛丘(えんきゅう)、鄭の陽翟(ようてき)、三川の二周(西周及び東周。「三川」は西周では涇河 ・渭河 ・洛河、東周では 黄河・洛河・伊河)その富は天下に甲たり、皆天下の名都なり。」これらの地域の主要な商品は、それぞれの土地の農業、手工業、土地の特産品の外、中原からの布帛(ふはく。絹や綿の織物)、漆器。烏桓(うがん)、夫余、朝鮮、真番(しんばん。漢朝により朝鮮半島に設置された植民地)等北方や東北の少数民族からの毛皮、畜産品などがあった。『史記・貨殖列伝』によれば、「燕、秦には千樹の栗。」また、「棗栗千石なる者三、狐貂(てん)の裘(かわごろも) 千皮、羔羊(子羊)の裘千石、旃(フェルト)席千具。これもまた千乗の家に比す。」このことから、当時の北京地区は、西漢の前期、中期に既に多くの大商人が出現していたことが分かる。

 

 北京地区は長期間王国が置かれ、歴代の諸侯王は贅沢で、堕落し、政治は暗黒であった。燕王劉旦は帝位を簒奪するため、「大臣、中尉以下から、車馬を集め、民を発動して包囲され、大いに文安県で狩りをした。」また「孫縦之ら前後十余の輩を派遣し、多く金宝走馬を贈り(齎 :もたらす)、盖主(鄂邑長公主)、上官桀、御史大夫桑弘羊らに賄賂を贈ると、皆これと誼を通じた。」(『漢書・武五子伝・燕刺王旦』)このような多くの金宝、走馬は、もちろん人々の血や汗から来たものだった。大葆台一号漢墓は全長40メートル余り、墓道、甬道、外回廊、「黄腸題凑」(漢代、帝王陵の椁室の四方をコノテガシワの木材を積み上げて囲った構造)、「便房」(亡くなった帝王が墓の中で生活する部屋)と椁室(かくしつ) から構成されている。「黄腸題凑」は15千本余りの長さ90センチ、幅と厚みが何れも10センチのコノテガシワ(柏木)の木材を四方の壁に積み上げ、方形の木材で天井まで覆われた。椁内には棺を置き、棺は全部で五重であった。副葬品は盗掘を免れた物が残されていたが、なお陶器、鉄器、玉器、メノウ、絹織物など四百件余りが残っていた。

大葆台一号墓遺跡復元図

大葆台一号墓「黄腸題凑」

その中には金メッキを施した銅製の龍頭枕、玉衣片、半円形の玉、玉璧、玉飾り、銅鏡、金メッキの銅製の豹などがあり、たいへん精緻で美しい。 墓道に放置された随葬の車馬は、完璧に保存され、全部で朱色の車輪のはでやかで美しい車が三台、馬が十一匹であった。この墓葬の規格と出土した文字資料から見て、広陽王劉建の陵に違いない。

鎏金嵌玉龍頭枕(金メッキを施し、玉で象嵌された龍頭枕)