*志合者不以山海為遠:
志を同じくする者はたとえ山海を隔てていてもそれを遠いと思わない
全人代を終え、国家主席及び中央軍事委主席に選出された習近平が最初の外遊に選んだのは、ロシア、アフリカでした。3月27日、南アフリカ・ダーバンでのBRICKS諸国第5回首脳会談で、“携手合作、共同発展”と題して行った基調演説からの言葉を取上げたいと思います。
先ず、「志合者不以山海為遠」より:
中国の古い言葉に、「志を同じくする者は、たとえ山海を隔てていてもそれを遠いと思わない」という。我々世界の四大陸から来た五つの国家は、パートナー関係を築き、共に発展するという壮大な目標を実現するため、共に歩み、国際関係の民主化を推進し、人類の平和と発展という崇高な事業を推進するため、共に歩んでいく。平和を求め、発展を謀り、協力を促進し、共に勝利することは、我々の共同の願望であり、責任である。
この言葉を見て、ニュアンスは違いますが、次の言葉を思い出しました。
次に、「独木不成林」。
我々はグローバルでの発展パートナー関係の構築を大いに推進し、各国の共同の繁栄を促進しなければならない。1本の木では林にならない。経済のグローバル化の深化・発展という時代の条件下、BRICKS諸国の発展は自国の利益だけを求めることはできず、自国の発展を追い求めると同時に各国の共同の発展を促進しなければならない。
木や林を使った成語や慣用句には、次のようなものがあります。
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いよいよ全人代が始まりました。昨年11月の十八大で習近平を中心とする新体制が発足してから慣らし運転をしてきましたが、17日までに、新しい国家主席、国務院総理、主要官僚が選出され、名実ともに新体制が動き出します。
新たに登用される人もあれば、去ってゆく人々もいます。このブログでその発言を何回も取り上げた、温家首相も去ってゆく一人です。最後の大舞台、全人代での見せ場は政府政治活動報告だったのですが、発言の「言葉」に注目すると、今日取り上げる、四川代表団の審議に参加時の発言で紹介したい言葉がありましたので、これを取り上げたいと思います。
さて、共産党中央政治局の主要メンバーは、全人代の各地域代表の審議分科会に交代で参加し、また意見を述べたりしています。3月6日に温家宝は、四川省の代表団のグループ分科会に参加しました。その中での温家宝の発言が、以下のものです。
“温家宝在四川代表団聴取代表審議”(《人民日報》3月7日)
温家宝は語った。私が国務院総理を担当し10年になり、任期を終えようとしている。今年は私の最後の政府活動報告となる。今日皆さんの意見をお聞きするのが、皆さんとのお別れともなる。この10年は、我が国の発展の歴史上、平凡ならざる10年であった。私は人民が私に国家に尽くす機会を与えてくれ、私を信頼し、勇気と力を与えてくれたことに大変感謝するとともに、そのことを大切にしたいと思う。私は総理に着任した当初、自分に一つの目標を定めた。それは弛まぬ努力を通じ、改革開放を推進し、経済をより一層発展させ、人民の生活をより一層向上させ、社会をより一層進歩させることである。人民の期待は私たちの努力する方向であり、人民の願望は私たちの奮闘の目標である。人民が満足しているか、人民が喜んでいるか、人民が賛成しているかが、私たちの全ての業務が正しいかどうか検査する基準である。ここ数年、もし多少なりとも人民に有益なことを行ったと言うなら、それは人民の信任、理解、支持の結果であり、全てその功績は人民に帰すべきものであり、人民こそが歴史の創造者である。もしいくつかまだ不十分な仕事があるなら、それは私個人の能力の不足によるものであり、人民のご理解をいただきたい。「鳳の雛の鳴き声は、親鳥の鳴き声よりも清らかである」という。私は次の世代の人は私よりもっとうまくやってくれると信じている。私が間もなく退職する際には、私は人民に対し心からの敬意と感激の情を胸に持ちたいと思う。私は、我が国の未来が益々すばらしく、人民の生活が益々幸福になるよう希望する。
さて、ここで使っている、次の言葉です。
雛鳳清于老鳳声
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【出処】 唐・李商穏《韓冬郎既席為詩相送因成二絶》
桐花万里丹山路,雛鳳清于老鳳声
遥か遠くの、鳳が住むという丹山への道では、美しい桐の花が野を覆い咲き乱れている。花の茂みの中では、時折鳳の雛の清く澄んだ鳴き声が聞こえ、それに親鳥の呼び声が応え、耳に快い。
冬郎は、晩唐の詩人、韓偓han2wo4の幼名。父親の韓瞻は李商穏とは以前から交流があり、互いの奥さんが姉妹という間柄であった。851年(大中5年)晩秋、李商穏は都の長安を離れ、梓州(現在の四川省北部の三台県)に赴き、東川節度使の柳仲郢の帷幕に入ることとなった。その時、韓偓はまだ10歳であったが、送別の宴会で即席の詩を作り、一座の者を驚かせた。856年(大中10年)、李商穏は長安に戻り、韓偓に贈ると題する詩で、往時を回顧し、二首の七言絶句を作った。うち一首の最後の二句がこれである。韓瞻、韓偓親子を鳳に喩えている。
この詩は、上記のように、李商穏の詩の一節ですが、意味するところは、私はこれで引退して消えていくが、後は私より優秀な人がりっぱに引き継いでくれる、という意味で使っているのです。
ところで、この「後の世代は自分たちより優れている」という意味での慣用句には、次のような言葉もあります。
[類似する慣用句]
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“一把手”という言葉は、訳しにくい言葉です。文法的には、 [数詞]一+[量詞]把+[名詞]手 という構造です。量詞“把”は、取っ手の付いたものを数えますが、転じて、手に関係のある動作を数える、更に、力や能力など、抽象的なことを数えるのにも使われます。その場合、数詞の一が前につき、「かなりの」のいう意味を表します。名詞“手”はある技能を持っている人、働き手のことを言います。
“一把手”を辞書で引くと、次のように書かれています。
中国の新聞で、政治面で“一把手”が出てくると、3.の「トップ。最高幹部」の意味となることが多いようです。
台湾の《中国時報》昨年の11月16日付、つまり共産党大会で新しい政治局常務委員7名が選出された翌日の、その内容を伝える記事の中に、このような一節がありました。
ここに挙げられた名前は全て地方政府の党委書記で、すなわち地方政府の「トップ」です。
[訳]18期政治局委員25名中、15名は新人である。地方のトップは……を含め7名である。
さて、1月17日付の人民日報に、 人民日報評論員 “‘一把手’要帯頭 ― 一論転作風看実効” という論説記事が掲載されました。
“評論員”というのは、日本の新聞社で言えば、「論説委員」でしょうか。“帯頭”は率先して手本を示す、先頭に立つ、の意味で、“‘一把手’要帯頭”で、「「トップ」は率先垂範しなければならない」という意味になります。
“一論”というのは、今後“二論”、“三論”と、“転作風看実効”をテーマにした投稿が続いてなされるという意味で、「業務改革の実際の効果を見る(その一)」ということになります。
課題の山積する、地方政府の行政改革には、トップの率先垂範が欠かせない、というのが、この論説の主眼です。
では、記事の本文を見ていきましょう。
仕事のやり方を変えることは、各地の地方政府に新たな変化をもたらしている。ある会議は簡素化され、発言は短くなった。ある幹部の視察では、同行者が少なくなり、内容が実質的になった。ある地方では、大衆のための事務が速くなり、仕事の効率が向上した。これら喜ばしい新しい現象は、「トップ」の率先提唱、率先垂範と大いに関係がある。
良くない習慣が形成されると、しばしばその弊害は長い年月蓄積し、次第に当たり前となり、最後には「長年解決されない課題」となる。けれども、ことわざに言うように、「長年の課題も、トップが出馬すれば解決は難しくない。」業務の改革、習慣の変革は、「トップ」が鍵を握っている。「自分が正しくないのに、どうして人を正しくできるだろうか」、この素朴な道理が私たちに教えてくれるのは、習慣の変革には、上がやれば下もまねをするという、プラスのエネルギーを放出し、「トップ」の模範作用を発揮させることに長けていなければならない。他人ができることを求めるなら、自分が先ずできなければならない。自分から改め、他人がやらないよう求めることは、自分が断固としてやらない。トップが率先すれば、より強固な弊害も、改めることができる。
業務改革は、形式的な変化だけでなく、肝心なのはその中身である。形式上変わるだけか、それとも内容も深化するのか。やり方が変わるだけか、それともうまくやれるようになるか、それはしばしば「トップ」の態度にかかっている。業務改革には具体的な規定があり、また明確な要求がある。もし「トップ」が力を入れず、規定を「懐中電灯」にしていたのでは、他人を照らすだけである。要求が「口癖」に変わり、言うだけで内容を吟味しないようでは、どうして他人を信服させ、真の変革を実現することができるだろうか。良くない習慣に対し、「トップ」が敏感でなく、ふだんと変わらずに対処し、見慣れているので怪しまず、最後には皆が平気でこれを受入れていると、「ぬるま湯で煮られる青蛙」になってしまう。
業務の改革で、「トップ」の責任は山のように重く、常にどこでも率先していかねばならない。本当の腕前を見せず、痛くも痒くも思わず、もったいぶって、空芝居をするだけなら、まだやらない方がましである。深く社会の下層に入って問題を調べるのに、「ただ1回」だけ、大衆と親しく交流し、ただ「貧しい人々と酒を酌み交わす」だけ、実際の問題の解決に、ただ「一つ典型的な模範を示す」だけでは、各階層の幹部は「猫を見て虎を描く」ような、いいかげんなことしかできず、最後には人々の熱意も冷め、大衆の心を傷つけてしまう。「トップ」がうまく率先してこそ、業務改革に意欲が出、新たな風土の樹立に力が入るのである。
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莫言のスウェーデン・アカデミーでのノーベル文学賞受賞記念講演、今回が最終回です。長い間、おつきいいただき、ありがとうございました。今回も、原文は以下にリンクを貼っておきます。
http://culture.people.com.cn/n/2012/1208/c87423-19831536-5.html
莫言のスピーチを読んでいて、彼の少年時代からの人生体験や、故郷の山東省の農村の風土、また人民公社時代から改革開放に至る中国近現代史というものが、彼の文学の作風に強く影響していることが分かりました。そしてまた、彼が紹介した小説を、一度読んでみようか、という興味を引き起こすことができました。
ただ、今回の最後の部分では、最後の小学生時代に学校から「苦難の展示」を見に行った時のこと以降の話は、いかにも付けたしのようで、その前のところまでで打ち切ったほうがよかったような気がします。
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最後にもう一編、《生死の疲労》のことを話させてください。この本の題名は仏教の経典から取ったのですが、聞いているところでは、この題名を翻訳するのに、各国の翻訳家が頭を悩ませているそうです。私は仏教の経典を別に深く研究した訳ではないので、仏教に対する理解はたいへん浅いものですが、ここでそれを題名としたのは、私は、仏教の多くの基本思想とは、真の宇宙の意識であり、人間社会の多くの紛争は、仏教家の眼から見れば、全く意義の無いものであると感じたからです。このように、ある種の高い目線から人の世を見下ろせば、明らかにたいへん悲しむべきものです。もちろん、私はこの本を布教書にしようとしているのではなく、私が書いているのはやはり人間の運命と人間の感情であり、人間の極限と人間の寛容であり、また人間が幸福を追求し、自分の信念を堅持するための努力と犠牲です。小説の中で、あの己が身ひとつで時代の潮流と抗う「青い顔」は、私の心の中では一人の本当の英雄です。この人物の原型は、私たちの隣の村の一人の農民で、私が子供の時、いつも彼が一台のぎいぎい音を立てる木製の荷車を押して、私の家の前の道を通るのを見ました。荷車を曳いているのは一頭のびっこのロバで、そのロバを引いているのは、彼の纏足をした奥さんでした。この奇妙な取り合わせは、当時の農業集団化の社会の中では、明らかに風変わりで、時代遅れのものでした。私たち子供の目にも、彼らは歴史の潮流に逆行して動く道化に見え、彼らが町を行く時には、私たちは義憤に満ちて彼らに石を投げたりしました。それから何年も経って、私が執筆している時に、この人物、この場面が、ふと私の頭の中に浮かんだのです。私はいつか彼のために本を一冊書くことになるだろう、遅かれ早かれ彼の物語を世の中の人々にお話しようと思っていたのですが、そのまま2005年になって、私があるお寺で、「六道輪廻」の壁画を見た時に、この物語を描く正しい方法が分かったのです。
私がノーベル文学賞の受賞が決まってから、多少の論争が起こりました。最初、私は皆の論争の対象が私であると思っていたのですが、次第に、この論争がされている対象が、私とは少しも関係の無い人物であるように感じました。私は一人の劇を鑑賞している人物のように、人々の演技を見ていました。私は、あの賞を受賞した人の体が花で埋まって、石ころを投げつけられ、泥水をかけられているのを見ました。私は彼が打ちのめされやしないかと心配しましたが、彼は微笑みながら花と石ころの中から這い出してきて、体についた泥水をきれいに拭き取ると、平然と一方に立ち、人々に向かってこう言いました。一人の作家として、最も良い話し方は、文章にすることです。私が言わないといけない話は、全て私の作品の中に書きました。口をついて出た言葉は、風の間に間に散って無くなりますが、ペンで書いたものは永遠に磨滅しません。私は皆さん方に辛抱強く私の本を読んでほしいと思います。もちろん、私は皆さん方に私の本を読めと強制する資格はありませんが。
よしんば皆さん方が私の本を読んでも、皆さん方が私に対する見方を変えてくれるとは期待していません。世界中捜しても、全ての読者に好かれる作家などいません。今日のような時代ではなおさらそうです。
私は何も話したくないのですが、今日のような場合は話をしなければなりません。それで、簡単にあと幾つかお話をします。
私は物語の語り部なので、やはり皆さんに物語をお話します。1960年代、私が小学三年生の時、学校から苦難の展示会を見に行きました。私たちは先生の引率で、声を出して大声で泣きました。先生に私のパフォーマンスを見せるため、私はもったいなくて顔についた涙を拭くことができませんでした。私は、何人かの同級生がこっそり唾を顔に付けて涙を流したふりをしているのを見ました。私はまた一群の本当に泣いたりウソ泣きをしている同級生の中で、一人の同級生は、顔に一滴の涙も付けず、口からも一言も発せず、手で顔を覆うこともしませんでした。彼は大きく眼を見開いて私たちを見て、眼からは驚きと困惑の表情が浮かべていました。その後、私は先生にこの生徒の行為を報告しました。それで、学校はこの生徒を警告処分にしました。それから何年も経ってから、私が自分が先生に密告したことを悔いて告白すると、先生はこう言いました。あの日、先生にこのことを言いに来た生徒は十数名いたと。この生徒は数十年前にもう亡くなったのですが、彼のことを思い出す度に、私は心から申し訳なく思います。この事件によって私が悟った道理は、多くの人が泣いている時、泣かない人がいることを許さなければならない。泣くことがパフォーマンスになっている時は、なおさら泣かない人を許さなければならないということです。
もう一つお話をします。三十年余り前、私はまだ軍隊で働いていました。ある日の晩、私が事務所で本を読んでいると、年配の長官が扉を開けて入って来ました。私を面と向かった位置で見ると、こう独り言を言いました。「ああ、誰もいないのか。」私はそれで、すぐに立ち上がって、大声で言いました。「どうして私は人ではないのですか。」その長官は私にたてつかれて顔を耳まで真っ赤にし、気まずそうに出て行きました。このことがあって、私はしばらく得意満々で、自分が勇気ある闘士であると思っていました。けれども何年かして、私はこのことで深く心がとがめるようになりました。もうひとつ、最後のお話をさせてください。これは何年も前、私の祖父が私に話して聞かせた話です。八名の外地へ出稼ぎに行った左官が、暴風雨を避けるため、荒れ果てた寺の中に非難しました。外では雷鳴が次々と鳴り響き、火の玉がいくつも寺の門の外を行ったり来たり転がり、空中では更にぎいぎいと龍が叫び声を上げているようでした。八名は皆あまりの恐ろしさに肝をつぶし、顔から血の気が引いていました。一人が言いました。「私たち八人の中に、一人天に背いて悪事を働いた者がいるにちがいない。悪事を働いた者は、自分で寺を出て、罰を受けるべきだ。そうすれば、良い人間は巻き添えにならずに済む。」当然、誰も出て行こうとはしません。また一人がこう提案しました。誰も出て行きたくないのであれば、皆、自分の麦藁帽子を外へ放り投げてみよう。誰の麦藁帽子が風に吹かれて寺の門を出たかで、誰が悪事をしたかが分かる。それでその男に出て行って罰を受けてもらおう。」それで皆は自分の麦藁帽子を寺の門の外へほうり投げたところ、七人の麦藁帽子は風で寺の中に戻されましたが、一人の麦藁帽子だけ、風に巻かれて外に出て行きました。皆はこの男に罰を受けるよう促しましたが、もちろんこの男は出て行きたがりません。皆は彼を担ぎ上げ寺の門から放り出しました。物語の結末は、おそらく皆さんが想像された通りです。その男が寺の門を放り出されるやいなや、その荒れ果てた寺は、轟音をあげて崩れ落ちました。
私は一人の物語の語り部です。物語を語ることで、ノーベル文学賞を受賞しました。私が賞を受賞した後、たくさんのすばらしい物語が起こりました。これらの物語により、私は真理と正義は存在するのだと堅く信じるに至りました。
今後の年月でも、私は引続いて物語を語っていきます。
ありがとう、皆さん。
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莫言のスウェーデンアカデミーでの講演、第4回目です。原文は、以下にリンクを貼っておきます。
http://culture.people.com.cn/n/2012/1208/c87423-19831536-4.html
自らの生い立ちから、自分の作品と、延々と自分のことを述べてきたため、さすがに聴衆の気持を気にしてあやまっておられますが、それはともかく、現実の社会の問題そのものを述べると小説ではなくルポルタージュになってしまう。小説は人間を描くべきだ、という指摘は、おもしろいと思います。
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作家の創作過程には、それぞれ特徴がありますが、私が書いた本一冊一冊の構想、インスピレーションが触発された点も同じではありません。ある小説、例えば《透明なニンジン》は夢で見たことが基になっています。ある小説、例えば《天国のニンニクの芽の歌》は現実の生活の中で起こった事件を発端にしています。けれども、夢で見たことを基にするにせよ、現実を発端にするにせよ、最後は個人の体験と結合してはじめて、鮮明な個性を持ち、無数の活き活きとした、細かいディーテルまで刻まれた典型的な人物の、言葉が豊富で多彩で、構造に創意工夫が凝らされ、個性的な文学作品に変わるのです。特に申し上げておきたいのは、《天国のニンニクの芽の歌》の中で、私は本物の講談師を登場させ、本の中で重要な役柄を演じてもらいました。私はたいへん申し訳ない気持ちで、この講談師の実名を使わせてもらいました。もちろん、彼の本の中での全ての行為はフィクションです。私の書いたものの中では、このようなことがしばしば起こります。書きはじめの時には、私は彼らの実名を使うことで、一種の親近感を得ようと思うのですが、作品の完成後に、彼らのために名前を変えてあげようと思っても、もうそれは不可能だと感じるのです。ですから私の小説の中の人物と同名の人が父を捜し出し、不満を漏らすということがありましたが、父は私の代わりに彼らに謝ってくれました。けれども、同時に彼らにそれを真に受けないようアドバイスしてくれました。父はこう言いました。「彼は《赤いコウリャン》で、最初にこう言いました。「おれの親父のあのヤクザ者」。でも私は気にしません。あなた方は何を気にするのですか。」
私は《天国のニンニクの芽の歌》のような社会の現実にごく近い小説を書く時に、直面する最大の問題は、実は社会の暗黒現象を批判する勇気があるかどうかではなく、ここで燃焼させた激情や怒りのために、政治が文学を押し倒してしまい、この小説がある社会の事件のルポルタージュになってしまうことです。小説家も社会の中の一員なので、当然自分の立場や観点があるのですが、小説家がものを書く時には、必ず人間の立場に立って、全ての人を、人として描かなければなりません。
このようにしてはじめて、文学は事件を発端としても事件を超越することができ、政治に関心があっても政治を超えることができるのです。おそらく私が長い年月苦しい生活を送ってきたので、私は人の性に対して深い理解をすることができます。私は、本当の勇気とは何かが分かりますし、本当の憐憫とは何かも分かります。私は、どの人の心にも、是非、善悪をはっきりと決められない朦朧とした部分があり、この部分こそ、正に文学家がその才能を展開すべき広大なフィールドなのです。この矛盾に満ちた朦朧とした部分を、正確に、活き活きと描きさえすれば、必然的に政治を超越し、優秀な文学的な素地を備えることができるのです。
だらだらと休みなく自分のことを述べた作品は、読む者をうんざりさせますが、私の人生は私の作品と密接に関連しており、作品を述べずして、話のしようがないと感じています。だから、その旨お許しいただきたいと思います。私の初期の作品では、私は現代の講談師として、文章の背後に隠れています。けれども、《白檀の刑》という小説からは、私は遂に舞台の背後から舞台の前に飛び出しました。もし初期の作品は自分で独り言を言って、読者を無視していると言うなら、この本からは、私は自分が広場に立って、たくさんの聴衆を前に、様々な脚色をしながらお話をしているように感じています。これは世界の小説の伝統であり、わけても中国の小説の伝統であります。私は嘗て積極的に西洋の現代小説から学び、また嘗ては様々な叙事のスタイルを弄んだことがありますが、遂には伝統に回帰したのです。
もちろん、今回の回帰は永遠不変の回帰ではありません。《白檀の刑》の後の小説では、中国の古典小説の伝統を継承し、また西洋の小説技法も借りた、混合の文体です。小説の領域のいわゆる新たな創造とは、基本的にはこうした混合の産物なのです。本国の文学の伝統と海外の小説の混合だけでなく、小説とその他の芸術ジャンルとの混合でもあり、ちょうど《白檀の刑》であれば、民間の演劇との混合であり、私の初期の幾つかの小説であれば、美術や音楽から、とりわけ雑技(曲芸や軽業)の中から栄養分を吸収しているのと同様です。
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