中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

北京史(三十六) 第六章 明代の北京(14)

2023年12月31日 | 中国史

慈寿寺塔(明万暦6年(1578年)建立)

第五節 明代の北京の文化

寺院と園林

 明代、北京の人々は、北京城の郊外に多くの大小の寺院を建設した。明代の北京の寺院は全部で千か所以上あり、宛平県の1県だけでも570ヶ所あった。いくつかの寺院は、今日でも完全な状態で残っている。(沈榜『宛署雑記』巻言、闕名『燕京雑記』

 これらの寺院には、道教、仏教、ラマ教の寺院や、回教の清真寺が含まれていた。寺院の建物には、漢族、蒙古族、チベット族、回族、ウイグル族等、各民族の独特な芸術やスタイルが表され、同時にまたベトナム、朝鮮、インド、ネパールを含めた東方の各国の民族の芸術スタイルが混ぜ合わされていた。北京の安定門内、東四、牛街、錦什坊街の回教四大清真寺は、 牛街清真寺が明朝期に再建されたのを除き、その他は何れも明代の創建である。数多くのチベットとモンゴルのラマ教僧侶が絶えず往来したことにより、明代の北京では、チベット、モンゴルの建築様式の寺院が増加していった。

 香山の弘光寺は、朝鮮人鄭同が建立し、その中の円形の殿宇は完全に朝鮮金剛山圓殿の様式を模倣したものであった。(『帝京景物略』巻6)五塔寺の後ろの石塔はインドの造形手法を採用し、塔の上には更に黄緑色に光輝く瑠璃亭が建築された。この美しい建物はずっと今日まで、北京の西の郊外に聳え立っている。

五塔寺石塔

大鐘寺外景

 明代、北京に建設された各種の寺院では、更に当時の人々が木彫り、石刻、銅像、塑像、絵画などの面で、すばらしい成果を残した。北京石景山模式口法海寺、西直門外大慧寺、阜成門外宝塔寺、城内東四の清真寺、北海の天王殿では、明代の壁画、彩色画が保存されている。拈花寺(ねんかじ)の壁面の瑠璃の仏像群、長春寺の金箔か金粉で表面を覆った(渗金)銅塔、摩訶庵の石刻金剛経、五塔寺の石刻仏像と梵文、万寿西宮のとぐろを巻いた龍の模様の刻まれた(盤龍花紋)大鼎炉、大鐘寺の大鐘など、これらひとつひとつが高度な芸術レベルを備えていた。

 永楽年間に釣鐘鋳造工場で鋳銅の職人が制作した大鐘は、今日に至るまで北京西郊外の大鐘寺の中で保存されている。この鐘は総重量87千キロ、鐘の表面、内面に華厳経(譲廉『春明歳時瑣記』(京津風土叢書参照))全81巻が刻まれていて、品質の良い銅を使い、彫刻は細かく、この鐘を衝くと鐘の音は数十里先まで聞こえた。このような大鐘は世界でも極めて珍しいものだ。

大鐘寺大鐘

 人々は北京城郊外に更に多くの静かで美しい園林(庭園)を建設した。明代、北京城郊外の風致地区に園林が盛んに作られたのは、それ以前の如何なる時代も上回っていた。当時、有名な大園林には、定国公園、成国公園、英国公園、李皇親園、恵安伯園、宜園、曲水園、米万鐘の勺園など、その他の小庭園は枚挙に暇が無かった。これらの園林、別荘は上品できれいにレイアウトされ、山、水、石があり、泉水が流れ、花や木があり、あずまや、高殿、回廊、楼閣があり、欄干や橋梁があり、うねうね曲がった小道がきれいな風景の場所をめぐり、花や木が群生していた。明代、園林が大量に修築されるのは、中期以後であり、勲功のある皇族、官僚、大地主、大商人が北京城郊外の川や泉、山林地区を使って園林を切り開いた。


避暑山荘(その3)秀麗な苑景区

2023年12月26日 | 旅行ガイド

 避暑山荘の苑景区(園林地区)は面積がたいへん広く、宮殿区を除いて山荘の全ての面積を占めている。「山庄山水佳,天然去雕飾」(山荘は山水が佳く、自然に装飾を加えている)(乾隆詩)。青い波が波打つ湖地区、山の峰や尾根が折り重なる山岳区、美しい樹木が生い茂る平原地区に分かれている。

 湖地区は避暑山荘の南東部に位置し、宮殿地区の北側で、上湖、下湖、澄湖、東湖、鏡湖、如意湖の6つの湖から成り、総称を塞湖と言う。水面面積は60万平方メートル余りに達する。湖の水は輝き波打ち、長堤がくねくねと続き、中州や島が交錯している。島の上にはあずまや壇、楼閣や高殿 があり、或いは山の斜面の上に聳えていたり、或いは濃い緑の茂みの木陰の中に深く隠れていた。静かな水面にはアーチを描く屋根の庇や彩絵された棟木が逆さに映し出され、湖水はさざ波を立て、小船が揺れ動き魚が戯れ、極めて江南の風光に似ている。

 水心榭は東湖と下湖の間に位置し、東宮の巻阿勝境から湖区に入る時に必ず通る所で、これは横に並んだ三棟の二重の檐(のき)式の亭榭(高殿)で、飛桷(飛檐垂木)が高くつりあがり、建物の影が水中に映り、絵のように秀麗である。正に乾隆が詩の中で描いた情景と同じである。「一縷堤分内外湖、上頭軒榭水中図。因心秋意蕭而淡、入目煙光有若無。」

水心榭

 有名な文園獅子林は、東側は避暑山荘の虎皮石宮墻に隣接し、西側は湖を隔てて水心榭と相望んでいる。これは1786年(乾隆51年)蘇州獅子林(元代の大画家、倪瓚が設計、築造)に似せて修築した、極めて精巧で幽美(静かで美しい)な園林であり、熱河行宮内の園中の園であると言うことができる。文園獅子林内には全部で十六景がある。獅子林、虹橋、假山、納景堂、清閟閣、藤架、磴道、占峰亭、清淑斎、小香幢、探真書屋、延景楼、画舫、雲林石室、横碧軒、水門である。この多彩多姿(姿や色彩が様々な)南方式園林は、残念ながら軍閥統治時代に破壊されてしまい、現在は崩された築山や残された基礎の跡は遊覧客が往時をしのぶのに任されている。

 金山は 澄湖の東の隅に位置するひとつの小島で、湖を隔てて西を望めば、如意洲と青蓮島が見える。これは康熙年間に鎮江金山の景勝を真似て設計、構築された。巨石を積み上げた築山は、切り立ち険しく、築山の下にはほの暗く奥深い法海洞があり、容易く人々に水漫金山(大水が金山を水没させる)の物語を連想させる。山の上には三方が湖に臨む鏡水雲岑殿があり、周りを望むと、水の波がきらきら輝き、もやが影をつくり、佳い景色は際限がない。また有名な天宇咸暢の西向きの殿堂楼閣は、回廊が外を廻り、半月形に取り囲んでいる。金山の一番高い所は上帝閣で、いわゆる「制仿金山聳翠螺、三層楼閣建巍峨」、すなわちこの三層の高閣である。ここで大空を仰ぎ見、うつむけば青い水に臨み、山に登り眺望すれば、様々な美しい景観が、尽きることなく眼の中に収まる。

金山

 金山の北には、著名な熱河河源から発する熱河泉である。ここは澄湖の北東の隅に位置し、既に湖区のへりであり、更に北に往くと平原区の万樹園である。熱河泉は当時清皇帝が舟を浮かべて湖を遊覧し、ドラゴンボートの試合の起点であり、現在も当時のドックの跡を見ることができる。熱河泉の広い水面の上には、数えきれない泉が湧き出る穴から水の泡が吹き出し、水温が高いので、冬も凍結せず、早朝には蒸気が沸き起こり、暖かさが人を喜ばせる。

熱河泉

 有名な月色江声は、ひとつの小島で、長い堤と小橋が宮殿区と東路の金山に通じている。島上の南部は静寄山房で、山房の門殿には、元々康熙の「月色江声」の四文字の題額が掛かっていた。静寄山房と北側の瑩心堂で、更に北側は題名を「湖山罨画」という殿宇で、清帝が読書、休養した場所である。これらの建物の間には回廊があって、全体が連なっている。島の南西の湖に臨むところには、冷香亭が建てられ、これはハスの花を鑑賞するところである。「月色江声」の境地は、宋代の文豪、蘇東坡の前、後『赤壁賦』から取られている。ここには雄渾な大河の絶壁は存在しないが、ひっそり静まった夜になると、真っ白い月がゆっくりと東の山から昇り、さざ波がリズミカルにそっと岸辺を打ち、その時その時の月の色、水の音が、確かに人を陶酔させる。

 如意洲はその形が玉の如意のようであることから名付けられ、湖地区の中の大洲である。その南は芝径雲堤(杭州の蘇堤に似せたもの)に接し、環碧半島に通じている。1711年(康熙50年)以前に、山荘の宮殿区は如意洲にあり、その後正宮が落成し、如意洲は苑景区になった。そのうち洲の北西に位置する滄浪嶼は、部屋が三間あり、室外の築山は趣があり、絶壁を成し、流水が流れ落ち、それが絶壁の下で小さな池となり、池の水は澄んで底が見え、魚がすばしこく行き来する。ここは面積は大きくないが、別天地である。滄浪嶼は解放前に破壊されてしまったが、1978年以降に再建された。洲の北西には更に「金蓮映日」と命名された殿室五間があり、中庭には五台山から移植された金蓮花が植えられていた。朝日が射すと、旱金蓮(キンレンカ)が色鮮やかに輝き、まるで黄金が地面に敷かれたかのようである。現在来訪者が見る金蓮花は、もはや五台山の原種ではないが、囲場県から移植されたものである。 金蓮映日の南側の観蓮所は、水辺のあずまやで、清の皇帝が蓮を鑑賞する場所であった。当時、敖漢(敖漢旗。内蒙古自治区赤峰市管轄)や関内(居庸関の内側。長城以南)から移植された赤蓮、白蓮が、湖面一杯に咲いていた。塞湖の水源は熱河泉から来て、水温が比較的高く、それでここのハスの花の開花期間は比較的長く、耐寒で名高く、時には霜が降る季節になっても、尚赤いハスの花がほころび開き、ほっそりと立つのを見ることができた。乾隆の『九月初三日見荷花』の詩はこう詠んだ。「霞衣猶耐九秋寒,翠蓋敲風緑未残。応是香紅久寂寞,故留冷艶待人看。」

 如意洲の北側の澄湖の中の青蓮島には、有名な煙雨楼がある。乾隆の南巡の時、浙江嘉興の南湖で五代銭元璙(呉越王銭鏐の子)が創建した煙雨楼を見て喜び、避暑山荘の中にこれに似せて同名の建物を建てた。煙雨楼は二階建の建物で、周囲は水で、遍(あまね)く蓮や葦が植えられた。毎年細雨が澄湖に降る季節になると、水面をしとしととした煙霧が巻き上がり、煙雨楼を霧の中に閉じ込める。この時、湖水も上空も同じ色で茫漠とし、何もはっきり見えない。ただハスの花から絶えず清い香りが伝わって来るばかりである。こうしたうるわしい雨の景色は、南湖の煙雨楼で見える景色に比べても、あたかも一層勝っているかのようである。

煙雨楼

 康熙、とりわけ乾隆は、精一杯に熱河の行宮の中を江南の景色で飾り付けた。前記で紹介した芝径雲堤、文園獅子林、上帝閣、煙雨楼などの地点を除いて、環碧半島北端に位置する採菱渡も、その一例である。採菱渡は乾隆と彼の后妃(嬪妃)たちが湖で遊ぶ時に舟に乗る場所だった。渡口には草亭が建てられ、亭は瓦が無く、黄草で屋根が葺かれ、遠くから望むと、形が笠のようで、これは山荘内で最も質素で飾り気のない建物である。夏になると、ここは完全に江南の風景である。


北京史(三十五) 第六章 明代の北京(13)

2023年12月24日 | 中国史

北京城

第五節 明代の北京の文化

北京城の建設

 明の北京城は元の大都城の基礎の上に建設され、後に清朝で流用されることになり、元の大都城よりもっと雄大で壮麗であった。

 元の大都の旧城は周囲60里(30Km)、全部で11の城門があった。1368年(明の洪武元年)、大将軍徐達が元の大都城を攻め落として占領し、その城の範囲があまりに広く、守備に不便であったので、次第に広々とした北部は放棄し、東西の両方の城壁と北側の光熙、粛清の二門を廃棄し、元の北城壁の南5里に、別途新たな城壁を築き、相変わらず二つだけ北門を開け、元の安貞門を安定門に改め、健徳門を徳勝門に改め、同時に東壁の崇仁門と西壁の和義門を東直門と西直門に改め、それ以外の七門は旧来通りとした。(光緒『順天府志』巻1『城池』)

内城西直門甕城、城門楼、甕城門楼、箭楼、護城河

1419年(永楽17年)、明朝はまた南城壁を南に2里移動し、相変わらず三つ門を開け、名称は旧来通りとした。ここに至り、城の周囲は全部で40里となった。1436年(正統元年)、明朝はまた9門の城楼、月楼、角楼、外堀、水門を建設し、4年で完成すると、すぐに麗正門を正陽門、文明門を崇文門、順城門を宣武門、斉化門を朝陽門、平則門を阜城門に改めた。(光緒『順天府志』巻1『城池』、『明故城考』)9門の名称は清朝を通じて変わらず、これがすなわちいわゆる北京内城である。

内城角楼、城垣と馬面(楼台、櫓)

 洪武初年、元朝の北城を圧縮すると同時に、いわゆる「王気」を消し去るため、また元朝の故宮を取り壊した。(蕭洵『故宮遺録』北京出版社1963年版)これは破壊的な作業ではあったが、今後、計画的に北京を造営するための前提となった。1406年(永楽4年)明朝は北京宮殿の造営を決め、準備作業に着手した。1417年(永楽15年)大挙して土木工事を開始し、1420年(永楽18年)基本的に竣工した。(『明成祖実録』永楽4年閏7月壬壱戌条及び1812月)この工程では紫禁城及び皇城の宮殿、門闕(宮門前の両側にある望楼)、城池(城壁と堀)が完成しただけでなく、太廟、社稷壇、天壇、山川壇、及び鼓楼、鐘楼など一連の建物が完成した。今回造営された宮殿の門闕は、規格が南京と同様であった。紫禁城はまたの名を大内と称し、周囲6里3Km)、元朝の大内の旧跡からやや南に移動した。四つの門があり、南を午門、東を東華門、西を西華門、北を玄武門(清に神武門と改称し、辛亥革命後、中華門と改められた)と言った。皇城の周囲は18里余りあり、主に6門あり、南に面した一番目の門が大明門(清に大清門と改称され、辛亥革命後、中華門に改められた)、二番目の門が承天門(清に天安門に改められた)、三番目の門は端門、東に面するのが東安門、西に面したのが西安門、北に面したのが北安門(清に地安門と改称された)であった。明朝の宮殿は全て清朝が引き続き使用したが、清朝は建築物に対して大いに再建、或いは改造を行い、且つ一部増築を行った。

金中都、元大都、明清北京城の変遷略図

 明朝中葉になって、北方の蒙古族の騎馬隊が度々南下して騒ぎを起こし、引いては都に肉薄した。北京城の人口は大量に増加し、城外の人口が日増しに密集してきた。このため、朝廷の中では絶えず外城を建設するよう主張する者があり、城外の住民を城壁の中に取り囲み、それにより防御を強化した。それで1564年(嘉靖43年)都の南側を取り囲む外羅城(城外の大城)が完成した。これがすなわちいわゆる北京外城である。(光緒『順天府志』巻1『城池』、『明故城考』)元々、外城は京城の四面を取り囲むよう議論していたが、経費が足りないため、南側一面だけ修築された。このため、北京城全体が凸型の輪郭を形作った。外城は長さ28里に過ぎず、門が7か所あり、南正面が永定門、南の東側が左安門、南の西側が右安門、東側が広渠門、東北角が東便門、西側が広寧門、西北角が西便門であった。

 元朝大都城は土城であったが、明朝は内城の土壁を全部レンガで包んで積み上げることにし、洪武年間(13681398年)に城壁の外側をレンガで包んで積み上げ、正統年間(14361449年)に更に城壁の内側を包んで積み上げた。嘉靖年間(15221566年)に外羅城を追加で築き、更に最初からレンガを積み上げていた。また、内城の9つの門の外側の外堀(護城河)には元々木の橋が架かっていたが、正統初年に一律で石橋に変更した。明代の北京城の堅実さは、元の大都をはるかに上回っていた。

 明代の北京城の設計レイアウトはたいへん厳密で完璧なものであった。城全体から見ると、外城は内城の南側を囲み、内城は皇城を囲み、皇城は紫禁城を囲んだ。そして外城から紫禁城まで、どの城の周囲も、幅広く深い堀がめぐらされていた。こうして、皇帝が居住する紫禁城は城全体の中心となり、何重にも取り囲んで守られていた。次に、北京城のデザインには、一本の南北に貫く中軸線によって全ての建物を配置する原則を採用していた。この中軸線は紫禁城の中心を貫き、南は永定門に達し、北は鐘楼に達し、長さは約13であった。城全体で最も広大な建物と土地は大部分がこの中軸線上に配置され、その他の各種の建物もこの中軸線に基づいて有機的に配置され、またそのように調整された。

故宮(紫禁城)

外城角楼、城垣と馬面(楼台、櫓)

 明代の北京城の設計レイアウトは全くもって封建帝王のために奉仕していた。全ての城壁や堀の修築は、何れも封建帝王統治を守り、強固にするためだった。全ての宮殿や祭壇、廟宇や、中軸線上の広大な建物や体裁は、封建帝王の至高で無上の威厳を際立たせるものだった。

 紫禁城の主要な建物は中軸線上に配置され、南から北に、午門、皇極門(元は奉天門と称し、清代に太和門に改められた)、皇極殿(元は奉天殿と称し、清代に太和殿に改められた)、中極殿(元は華蓋殿と称し、清代に中和殿に改められた)、建極殿(元は謹身殿と称し、清代に保和殿に改められた)、乾清門、乾清宮、交泰殿、坤寧宮、御花園、玄武門が置かれた。他の副次的な建物は対称に配列するという原則に基づき、中軸線の左右両側に配置された。皇極殿、中極殿、建極殿の左右には、文華殿、武英殿。乾清宮、交泰殿、 坤寧宮の左右には更に幾重にも重なった楼閣が置かれ、たくさんの人戸があった。午門から建極殿までで外朝を形作り、 乾清門から玄武門までで内廷を形作った。外朝は皇帝が政令を発布し、国家の大典を挙行する場所であり、内廷は皇帝と皇后、妃が居住する場所であった。

 午門は明清両代では百官が皇帝に朝見するため集合する場所で、また征伐、凱旋の度に「捕虜を宗廟に捧げる」儀式を行う場所であった。明代には、ここはまた皇帝を皇帝の怒りに触れた官吏に対して棒打ちの刑(廷杖)を行う場所であった。皇極門は明代の朝廷の所在で、皇帝はいつも「御門決事(事案の決裁)」を行った。皇極殿は明清両代、皇帝が政務を聞く金銮殿(太和殿のこと)であった。毎年、元旦、冬至、万寿節(皇帝の誕生日)の三大祝日には、ここで祝祭式典が挙行された。その他、例えば新皇帝の即、詔書(詔(みことのり))の公布、科挙の進士合格の黄榜(皇帝の公告)や将軍の出師の命令の公布など、ここで厳かな儀式が挙行された。中極殿は明清代の皇帝が行事で皇極殿に行くと、ここでしばらく休憩する場所であった。建極殿は清代毎年大みそかに少数民族の王公貴族を宴席で歓待した場所であった。雍正帝以降、進士の試験がここで行われるようになった。乾清門は明代の皇帝の寝宮で、清朝皇帝も、康熙帝、雍正帝以前はここを寝宮とし、またここで文武の諸官吏(臣僚)を引見(召見)し、平素は執務を行った。交泰殿は清代は皇帝の玉璽(じ)を保管する場所であった。坤寧宮は明代の皇帝の寝宮で、清代は神を祭る場所であった

 紫禁城以北で、中軸線上に配置されたのは万歳山と鼓楼、鐘楼であった。万歳山は俗に煤山と称し、清初に景山と改称された。言い伝え(相傳)では、建物を取り壊して出た廃土が積み重なってできたと言われ、上には峰が五つあり、山頂に登ると、北京城全体を俯瞰することができた。この山は元朝の後宮の旧跡の上に聳え立ち、その意味は前の王朝に圧勝したということであり、それゆえ「鎮山」とも呼ばれた。鼓楼、鐘楼は後に清朝の再建するところとなり、北京城全体の時を知らせる中心であった。

明北京城午門から正陽門までの平面図

 紫禁城以南は、午門を出ると、中軸線に沿って、左側には皇帝が祖先を祭祀する太廟があり、右側には皇帝が土地の神様と五穀の神様を祭祀する社稷壇があり、真南は端門で、更にその真南が承天門であった。ここは明清両代にいつも詔書を公布する儀式を行う場所で、明代には、詔書は承天門の上で読み上げられて(宣読)から、「雲匣」の中に入れられ、彩色した縄で縛って「龍竿」の上から吊り下げ、その後、礼部から全国に公布施行された。清代、詔書は城楼の上で読み上げられてから、「朵雲」の中に入れられ、木彫りの金色の鳳凰にくわえさせ、「金鳳頒詔」と称した。(『明史・礼志・頒詔儀』。呉長元『宸垣識略』巻3『皇城一』)

 承天門外には「T」字形の広場があり、名を天街と言い、外に宮墙を建造した。天街の東西両端には各々長安左門と長安右門を建て、その南に突き出た部分は大明門に通じ、壁の内側は千歩廊、壁の外側は中央官署の所在地で、五府(前、後、中、左、右軍都督府)と各部(吏、戸、礼、兵、工部)が東西に対に並んでいた。長安左右門の外は、また各々門があって五府と各部に通じており、東公生門と西公生門と言った。

 明代、長安左右門は何れも禁軍により守られ、毎日百官が皇帝に上奏する時は、この二つの門から出入りした。およそ国家の大典を行う際は、大明門を開いて出入りし、さもなければ常に閉じて開かなかった。各々の科の新たな進士のトップから三名は、殿上で名前を伝えて(胪唱lú chàng)後、長安左門から退出し、順天府尹が出迎えて、役所に行き歓迎の宴を催し、祝賀した。毎年、霜降(そうこう。二十四節気の一つ。102324日頃)の後、吏部などの役所は広場の西側で「朝審」を行い、死罪や重い刑罰の囚人に対し再審を行い、刑を確定させた。

 大明門前には一本の碁盤状の街路が跨り、これが東西両城の交通の往来の要路(孔道)であった。真南は正陽門で、さらにその真南には永定門があった。永定門里以東が天壇で、皇帝が天を祭る場所であり、以西が山川壇(初めは地壇と称し、後に先農壇と改称した)で、農神を祭る場所であった。

天壇祈年殿

 明代、北京の大通りや小路の配列は、正方形に水平、垂直の形式が採用され、これは都市全体の正方形と水平垂直により決定した。大通りは多くが南北方向に作られ、胡同は多くが東西方向に作られた。内城、外城に全部で16の門があり、全ての城門に一本のまっすぐな大通りが通っていた。北京城全体の有名な大通りは三十本余りあり、縦横に交わりながら走り、碁盤の目状の道路システムを形作った。通りの大小には決まりがあり、大通りは幅24歩、小路は幅12歩であった。最も小さな道路は巷、或いは胡同と言い、胡同は内城、外城にあまねく分布し、その数は1千本余りに達し、住民の住宅が集まる場所であった。


避暑山荘(その2、宮殿地区)

2023年12月23日 | 旅行ガイド

避暑山荘正宮の中心、澹泊敬誠殿内部

 

 前回、清の康熙帝が避暑山荘を造営した背景について説明してきましたが、今回は避暑山荘の宮殿地区の紹介となります。

避暑山荘宮殿地区

 避暑山荘の宮殿地区は、山荘全体の南側にあり、正宮、松鶴斎、万壑松風、東宮の四組の建造物から構成されている。これらの宮殿の共通の特徴は、決して華麗で立派ではなく、屋根には瑠璃瓦を用いず、屋根の棟は飛翔させず、梁の柱は多く着色せず、彩色した絵で飾られておらず、見たところ素朴でさっぱりしている。それぞれの建物の中庭には青松が何本も植えられ、あるものは築山や石段の道を築いて美しく見せている。それぞれの建物の間は回廊でつながれ、一体化されている。

 正宮は宮殿地区の西側にあり、麗正門、閲射門、澹泊敬誠殿(たんぱくけいせいでん)、四知書屋、煙波致爽、雲山勝地などの建物から構成されている。これらの建物の建築様式は左右対称で、配置は緻密で、北方の四合院の様式である。

  麗正門は、避暑山荘の正門である。麗正門を入って北に行くと、 閲射門であり、門の上には康熙帝が自ら揮毫した「避暑山荘」の扁額が掲げられ、それゆえまたの名を避暑山荘門と言う。

康熙帝揮毫の「避暑山荘」扁額

 避暑山荘門の中は、熱河行宮の正殿、 澹泊敬誠殿である。この御殿は1710年(康熙49年)と1754年(乾隆19年)、全て四川、貴州から徴発したクスノキを用いて建造、改築されたことから、楠木殿とも呼ばれる。クスノキで作った梁、柱、門、窓は全て元の木材の色が保たれ、彩色彩絵されておらず、雨季や霧の季節になると、クスノキの香りが絶えず漂った。

澹泊敬誠殿

澹泊敬誠殿の「澹泊」の二字は、諸葛亮の「非澹泊無以明志,非寧静無以致遠」(無欲でなければ志を明らかにできない。静かで安らかでなければ遠望を持つことができない。『誡子書』)の名句から採ったものである。康熙帝は「澹泊」を標榜し、彼の孫の乾隆帝も「標言澹以泊,継曰敬兮誠」(無欲を標榜し、日々誠を敬う)などと言った。もちろん、こうした封建皇帝は無欲な生活をするすべがなかった。この正殿は清帝が盛大な典礼を挙行する場所であった。もし皇帝が山荘で暮らす間に誕生日を迎えると、大いにお祝いを行い、王公大臣たちがここで皇帝にお祝いの言葉を高々と叫んだ。皇帝は少数民族の首領の人物や外国使節を接見する盛典もいつもここで挙行した。特に提起するに値するのは、澹泊敬誠殿は清代の歴史上意義のある一幕、乾隆帝が万里を帰還(東帰)してきた土尔扈特(トルグート)部の傑出した指導者、渥巴錫(ウバシ・ハーン)を接見したことである。

  トルグート(土尔扈特)は元々新疆北部のオイラト・モンゴル(厄魯特蒙古)四大部族のひとつで、その他三部はホシュート(和碩特)、ジュンガル(准格尔)、ドルベト(杜尔伯特)である。明朝末期、彼ら部族はジュンガル部上層貴族のいじめに堪え難く、西に移動し、1630年(明崇禎3年)ボルガ川下流に引っ越した。帝政ロシアはトルグート部に対して長期間残酷な圧迫と掠奪を行い、またこの部族の青年壮年の人々を徴用して侵略や戦争の拡大を行い、多くの人々が命を失った。トルグート部はこれ以上容認できなくなった。1771年(乾隆36年)初め、英雄、 トルグート部首領 ウバシ・ハーンは、部族の人々を率いて東へ帰還し、途中帝政ロシアの軍隊の追撃と阻止を粉砕し、様々な困難や危険を克服し、巨大な犠牲を払って、半年余りの時間を経て、行程1万余里、遂に元々暮らしていた清国領に戻り、貴重な保存されてきた明永楽8年(1410年)にその祖先が明朝から賞賜された漢篆玉印を清政府に献上した。

トルグートの西遷と東帰

  ウバシ・ハーン率いる部族が帰還したことは、ちょうど木蘭圍場で秋狝していた乾隆帝を大いに喜ばせ、彼は ウバシを熱河に来させて朝見した。この年の98日、乾隆帝は木蘭の蒙古式のゲルの中で親しくモンゴル語でウバシと談話し、東帰の情況を尋ねた。乾隆帝は続いて避暑山荘に戻り、再び澹泊敬誠殿で厳かにウバシを接見し、彼が部族を率いて祖国に帰還した壮挙を称賛し、彼を卓里克図汗(「英雄のハーン」の意味)に封じ、また山荘内の万樹園等で何度も宴席を設け、夜は灯火を灯した。この時ちょうど普陀宗乗之廟が落成し、乾隆帝はウバシに随行して参詣させ、新疆、青海等の少数民族の王公貴族と一緒に盛大な法会に参加した。

 次に、引き続き正宮の建物を説明する。澹泊敬誠殿の北側には四知書屋があり、清帝は時々ここで各少数民族の首領を招いて接見した。更に北側には 煙波致爽と雲山勝地がある。煙波致爽は前三十六景の中の第一景で、この土地は「四方が秀嶺、十里の澄湖にて、爽気を致す」、これは康熙帝がこう名付けた由来である。

 しかし、咸豊時代になり、 煙波致爽は清王朝の屈辱や醜悪な史実と関係が発生した。煙波致爽は皇帝の寝宮であり、清の嘉慶帝、咸豊帝はここで死亡した。皇帝の居室はその真ん中にあり、東西に各々ひとつ小院があり、東西所と呼び、皇后、妃が居住する場所であった。1860年(咸豊10年)9月、英仏連合軍がすさまじい気勢で北京を侵犯した。咸豊帝は北京の円明園からあわてふためき出奔し、熱河に来て、930日に 煙波致爽に入り、咸豊帝の貴妃の叶赫那拉氏が西側の小院で暮らした。咸豊帝は彼の六番目の弟の奕訢(えききん)に命じて北京に留まり「講和交渉」を管轄させ、英仏、及び帝政ロシアと不平等な『北京条約』を締結し、中国は大版の領土と主権を喪失した。

 1861822日、咸豊帝は煙波致爽で病死した。彼の遺詔により、まだ6歳の息子の載淳(同治帝)が山荘で皇位を継承し、怡親王載垣、鄭親王端華、戸部尚書粛順等の八大臣が「一切の政務を補佐」し、載淳を補佐した。咸豊帝の貴妃の叶赫那拉氏(イェヘ・ナラ氏)は載淳の生母で、載淳の即位後、咸豊帝の皇后の鈕祜禄氏(ニオフル氏)と共に皇太后になり、那拉氏が慈禧太后、鈕祜禄氏が慈安太后となった。慈禧は御簾(みす)を垂れてその奥で聴政(垂帘听政)し、朝廷の大権を操った。粛順ら八大臣は彼女に対して早くから警戒し、彼女が政事に干渉することに断固反対した。このため慈禧は政務を補佐する八大臣をひどく怨んだ。彼らを排除するため、彼女は急いで恭親王奕訢を召して北京から熱河に赴任させた。95日、奕訢は避暑山荘に咸豊帝の葬儀に駆けつけた。山荘の離宮で、慈禧は奕訢と秘密裏に協議し、北京に戻って政変を発動する計画を立てた。続いて、慈禧は八大臣に命じて馬車を準備させ、咸豊帝の柩を北京に護送させた。111日(旧暦925日)慈禧は北京に戻り、翌日彼女は同治帝の名義で上諭(勅命)を発布し、載垣、端華、粛順らの職務を解除し、逮捕させた。118日(同106日)、また命令を発し粛順を斬首し、 載垣、端華に自尽させ、八大臣中の残り五人は罷免や流刑に処した。慈禧は直ちに彼女が渇望した垂帘听政を実現し、清王朝の最高権力を奪い取った。その後の半世紀の期間、慈禧は対内には残酷な圧迫、対外には膝を屈して投降し、中国近代史に暗黒の1ページを残した。

 次に正宮の東側に位置するもうひとつの建築群の松鶴斎を紹介する。これは乾隆年間に建設され、松鶴斎、継徳堂、楽寿堂、暢遠楼が含まれる。そのうち主要な建物が松鶴斎である。これは乾隆帝の母親の孝聖憲皇后が居住した場所である。これら建築群の最後部が暢遠楼で、建物の後ろの門は宮殿地区の別の建築群の万壑松風に通じている。

 万壑松風(ばんがくしょうふう)は康熙年間に建設された。万壑松風、鑑始斎、静佳室等から構成される。これら建築群は高い丘の上に建築され、青い湖に面し、松林の緑で覆われ、谷間を風が通り抜け、殿宇が入り乱れて趣があり、レイアウトが変化に富み、北方の四合院の様式とは明らかに異なり、極めて南方の園林に似ている。 万壑松風の主殿は康熙帝が章奏に目を通し、臣下に指示を与えた場所である。主殿の南側は 鑑始斎で、乾隆帝が少年時代にここで勉強をし、直接康熙帝の教戒を受けた場所である。乾隆帝の即位後、祖先を紀念し、主殿を紀恩堂に改称した。

 東宮は 松鶴斎の東側にあり、ここには乾隆年間に建設された膨大な建築群があり、南の徳匯門から始まり、北の塞湖之浜に到った。ここには乾隆帝が日常大臣を引見し、詔(みことのり)を頒布した前殿、乾隆帝の誕生日に芝居を催した清音閣(俗称は大戯楼)、宴会を挙行した福寿園、政務を処理した勤政殿があった。これらの建物は1933年の日本の侵略軍による破壊と1948年の火災で消失した。現在は塞湖之浜の巻阿勝景、これは勤政殿の後殿であるが、唯一残っているが、これは1979年に再建されたものである。


避暑山荘史話

2023年12月18日 | 旅行ガイド

 中国清王朝の時代、北京の北方250Kmの河北省承徳市に造営された避暑山荘。海抜1千メートルの燕山山脈山中に作られ、都北京から近く、避暑に最適な離宮であるが、その造営目的は、帝政ロシアの中国領侵略を防ぎ、モンゴルやチベット地区の少数民族との融和を強化することにあった。避暑山荘を主に造営したのは、清朝第4代皇帝、康熙帝であった。尚、避暑山荘は1994年にユネスコの世界文化遺産に登録されている。

 今回ご紹介する避暑山荘に関する歴史背景のお話は、中華書局出版から1984年に出版された『名勝古跡史話』に掲載された、郭秋良、劉建華『避暑山荘史話』の内容に基づきます。

 

一、康熙北巡と避暑山荘創建

 

 康熙帝の意志に基づき、清朝宮廷は避暑山荘の造営工事を始めた。山荘は1703年(康熙42年)に正式に着工し、1708年(康熙47年)に初歩的に供用され、1792年(康熙57年)に最終的に完成し、前後90年近くの時間を要した。どうして北京北東の燕山山脈の中に規模の十分巨大な行宮を修築したのか。実は、これは康熙帝の北巡と密接な関係がある。

 17世紀後半、帝政ロシアは中国東北の黒竜江流域で侵略活動を強めた。1685年(康熙24年)正月の康熙帝の詔(みことのり)でこう指摘した。「曾てロシアは故無く国境を犯し、我が逃亡者を収め、その後次第に国境を越えて来て、索倫(鄂温克)、赫哲、費雅喀、奇勒などの地(黒竜江流域、大興安嶺一帯の少数民族居住地)をかき乱し、人口を強奪し、村落を掠奪し、テンの毛皮を奪うなど、さんざん悪事を働いた。」西北の辺境地帯のオイラト・ジュンガル部(厄魯特蒙古准格尔部)の首領のひとり、ガルダンツェリン(噶尔丹)も、帝政ロシアの支援の下民族の分裂活動を行い、兵を興して南下した。このような形勢下、康熙帝は北方の辺境の管理を強めるため、モンゴル族各部との関係を密接にし、国家の統一を維持し、帝政ロシアの侵入を防ぎ止めるため、北巡制度を実行した。

 1677年(康熙16年)、康熙帝、愛新覚羅・玄燁(げんよう)は初めて塞外の北巡を行い、1681年(康熙20年)、木蘭圍場(今の河北省承徳市圍場県)を設置した。(「木蘭」は、満州語で、「鹿」の意味狩猟の時、兵士が鹿の毛皮を身に纏い、口で鹿の鳴き声を真似て、鹿を誘い出して捕まえる。これを「鹿」と言う。「圍場」は皇帝や貴族の狩猟地。1820年(嘉慶25年)までの130年余りの長い期間中、清朝皇帝は木蘭で軍事演習を行うことが百回以上に及んだ。こうした軍事活動を、当時は「秋狝qiū xiǎn」と称し、ほぼ毎年秋に一度実施された。毎年「木蘭秋狝」の度に、皇帝は宗室の親王、内閣六部、各少数民族の王公貴族、八旗の兵士を率い、威風堂々と木蘭圍場に向かった。この周囲千里余りの広々とした狩猟地区で、皇帝は彼の従者たちと馬を駆って弓を引き、獲物を射た。金鼓が鳴り響き、何度も歓声が上がり、権勢が雄壮であると称するに堪えるものであった。狩猟が終わると、皇帝は猟で仕留めた熊、虎、鹿、ノロジカ、キツネ、ウサギなどを随行した王公大臣や各少数民族の首領に分け与えた。清朝皇帝のこうした狩猟活動は、決して単に野生動物を狩猟するためだけではなく、その主要な目的は軍事演習と同時に各少数民族間の団結を強化するためだった。

 ここで提起すべきなのは、ガルダンツェリンに対する烏蘭布通(ウラーン・ブトン。内蒙古自治区赤峰市)の戦いであった。1690年(康熙29年)78月、康熙帝は圍場南側の波羅河屯(今の河北省承徳市隆化県)に布陣し、自ら作戦を手配し、圍場北側の烏蘭布通(今の内蒙古自治区克什克騰旗の南)でガルダンツェリンの反乱軍を徹底的に殲滅した。当時満州、モンゴル、漢族、回族の人々は労役で日夜軍需物資を時間通り運搬し、清軍は奮闘して作戦を推敲し、ガルダンツェリンの反乱軍に致命的な打撃を与えた。その後ガルダンツェリンの反乱軍は捲土重来を図ったが、康熙帝の再度の親征の下再び失敗に帰し、最後は1697年(康熙36年)人心を得ることができず孤立し、服毒自殺した。

康熙帝のジュンガル部親征、烏蘭布通の戦い

 

 しかし木蘭圍場は北京から7百里余り離れており、一度の「秋狝」活動はしばしば34ヶ月続き、このような遠距離で長期間の行軍には、事前に途中に大量の物資を準備する必要があり、しかも皇帝は巡行し狩りを行う途中で政務を処理し、官吏を接見し、上奏文を見て批准し、食事や宿舎を手配する必要もあった。こうした需要のため、古北口から木蘭圍場に至る途中に16ヶ所の行宮が建設された。その中で現在の承徳市に最も近いのが、承徳南西、灤河(らんが)南岸の喀喇河屯(からがとん。今の承徳市灤河鎮)行宮で、その位置はたいへん重要で、規模もかなり大きかった。承徳は当時はまだ人煙稀な荒野であり、十数戸の人家のある小村落がひとつしかなかった。康熙帝が「村の長を訪ねて石碣を尋ね」、熱河のこの場所を発見し、喀喇河屯よりも自然条件がもっと優れていて、しかも「京師(都、北京)に行くに至近で、上奏を朝に発せば夕方に至り、万机を総理するに宮中と異ならない」と思い、ここに熱河行宮、つまり避暑山荘を建設することを決定した。これより、避暑山荘が清代の皇帝が木蘭での 秋狝期間の活動の中心となった。

 

二、塞外の真珠、避暑山荘

 

 避暑山荘はまたの名を熱河行宮と言い、承徳離宮は、武烈河、すなわち熱河の西岸に位置し、北京から250キロの距離にある河北省承徳市に立地している。

避暑山荘は武烈河の西岸に位置する

 承徳は殷や周の時代、中国の北方少数民族、山戎、東胡の居住地だった。戦国時代、承徳、及びその付近は燕国の漁陽、右北平、遼西の三郡に属していた。秦、西漢初期は依然この三郡に属したが、漢の武帝の時に新たに設けられた幽州に属した。西漢から東漢を経て魏晋南北朝時代まで、匈奴、烏桓(うがん)、鮮卑等の民族が居住した。隋、唐の時代、奚(けい)、契丹の居住地であった。遼王朝の時、ここは中京道澤州滦河県及び北安州の地であった。金王朝に至り、北京路興州興化県、宜興県の地となった。元朝の時代は上都路に属した。明朝の時代は興州衛に属し、その後諾音衛に併合された。

 清の康熙帝の時に避暑山荘が建設されて後、外地から熱河に引っ越す人が引きも切らず、人口が増加し、市場が興隆し、熱河は次第に新興都市として発展し、そして行政機構の設立が必要になった。1723年(雍正元年)先ず熱河庁が設置され、1733年(雍正11年)承徳州に改称され、承徳の名称がこれより始まった。1742年(乾隆7年)熱河庁が復活し、1778年(乾隆43年)承徳府に昇格した。当地が軍事上重要な拠点であったので、1738年(乾隆3年)熱河副都統が設けられ、1810年(嘉慶15年)熱河都統に昇格、都統署は依然として承徳府の管轄であった。承徳府は直隷省に隷属した。辛亥革命後、直隷省の長城以北の地域は熱河、察哈爾の両特別区に区分された。熱河特別区の治所は承徳にあった。1928年熱河特別区は熱河省に改められ、省府は引き続き承徳にあった。1948年承徳解放後、市が設定された。1955年熱河省が廃止され、承徳市は河北省に帰属することとなった。

 承徳は景勝都市である。全市のほぼ半分を避暑山荘が占め、山が連なり木々が青々とし、谷や川の静けさ、古松が青々と茂り、湖水は澄み渡り、宮殿が林立し、楼閣が見え隠れしている。この我が国で著名な古代の園林は、その格別な北国の景観により益々多くの国の内外からの観光客を惹きつけ、「塞外の真珠」と褒め称えられている。

 避暑山荘の所在地は燕山山脈の中、武烈河河畔の狭く長い谷の中にあり、周囲には気勢が雄大な、石を積み重ねて築いた虎皮石宮墻(虎皮石は花崗岩の一種)があり、宮墻(宮壁)の長さは20華里(10キロメートル)、幅は1.3メートルある。宮壁の上には雉堞(ちちょう。城壁の上に付けられた凹凸状の突起。ひめがき)があり、哨兵を布陣させることができた。

虎皮石宮墻

山の地形に沿ってうねうね起伏のある宮壁の内側には、564万㎡の湖や山が広がり、総面積は北京の頤和園の二倍である。避暑山荘の正面は麗正門で、門の前には赤色の照壁(目隠しの塀)があり、門の傍らには石の獅子が雄々しく盤踞(ばんきょ)している。麗正門の西側には碧峰門、東側には徳匯門、小南門がある。この他、北東には恵迪吉門、北西には西北門があり、更に専用の流杯亭門や倉門などがある。東側の宮壁の外側には谷間をうねうね流れる武烈河の流れで、山荘の中の熱河泉水は宮苑から流れ出し、武烈河に合流し、南へ向かい滦河に注入する。山荘の地勢は海抜1千メートル以上で、西側は山地、東南部は平原と湖で、全体の地形は西側が高く東南部が低い。ここの夏季の平均気温は摂氏356度くらいだが、生い茂った古樹が天高くそびえて日差しを遮り、広々とした湖面の水や空気は清々しく、そのためたとえ盛夏でも、山荘の気候は涼しく過ごしやすく、避暑に絶好の場所である。