中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

『徐霞客遊記』を読む(1)遊天台山日記

2021年09月28日 | 中国文学

徐霞客

 

徐霞客(1586-1641)、名は弘祖、字は振之、霞客と号しました。明代南直隷江陰(今日の江蘇省江陰市)の人です。徐氏は代々官僚を輩出した家柄で、高祖父・徐経の代に巨万の富を築き、父の代には中衰期にあったものの、依然としてかなりの資産を有していました。幼時から多くの典籍に触れて育ちましたが、とりわけ奇書と呼ばれる古今の史書・地理書・山海経図を愛読し、仙人・隠士の足跡に思いを馳せました。科挙に合格して役人になるのは彼の本心ではなく、早々に仕官の道を諦めて名山大川を訪ねる志を持ちました。22歳より旅行を始め、55歳で病のため故郷に戻るまでの30余年、全国の名山大川、海の果て、辺境の地を遍歴しました。東は海を渡り落迦山(浙江省舟山群島の普陀山。観音霊場)に至り、西は騰衝(雲南省。ミャンマーとの国境付近)の西境に至り、北は盤山(山西省大同市天鎮県の石窟寺院)に遊び、南は広東羅浮山(広東省増城県北東。道教霊山)に達しました。彼は足跡を今日の北京、天津、上海、江蘇、山東、河北、山西、陝西、河南、湖北、安徽、浙江、福建、広東、江西、湖南、雲南、広西、貴州など十九の省、市、自治区に残しました。彼は中国の偉大な旅行家、地理学者、旅行作家でありました。彼は生涯、旅行中に日記を書き続けました。これが後世の人によってまとめられたものが『徐霞客遊記』ですが、『徐霞客遊記』の書き始めに当たる5月19日は、中国当局により「中国旅游日」(中国旅行の日)に定められています。

 

それでは、『徐霞客遊記』(華夏出版社2006年発行)をテキストに、内容を読んでいきます。最初は、「遊天台山日記」(浙江台州府)です。

 

天台山は今日の浙江省天台県の北、また台山と略称されます。仏教天台宗の発祥の地で、日本天台宗祖の最澄が遣唐使の一員として入唐後、804年に天台山に入り天台法門と菩薩戒(ぼさつかい)を受けました。ここには隋代創建の国清寺や、多くの景勝地があり、石梁飛瀑が最も名高いものです。徐霞客は万暦4年(1613年)、27歳の時に浙江に到り、先ず洛伽山(普陀山)に遊ぶも、旅行記は伝わっていません。その後、海沿いに南下し、天台山、雁宕山に遊びました。同行奢は江陰迎福寺の蓮舟和尚でした。

寧海県及び天台県の位置

 

癸丑の年(明の万暦41年、1613年)三月末日(3月30日)、寧海(今日の浙江省寧海県)の西の城門より出発した。雲が消え日も出てきた。同行者の気持ちも、山の景色も、何れも喜ばしいものだった。三十里(15キロ)で梁皇山(寧海県の西南)に至った。聞くところによると、この地は虎が出没し、月に数十人、道行くものが襲われるとのことだったので、宿に泊まらざるを得なかった。

寧海より華頂山までの行程

 

四月一日、朝から雨だった。十五里(7.5キロ)行くと、分かれ道があり、馬首を西に天台山に向かう。雨が上がり次第に晴天になった。また十里(5キロ)行き、松門嶺の麓に至った。

松門嶺

 

山は険しく路は滑りやすく、馬を下り歩いて進んだ。奉化(今の浙江省奉化県)以降の道は、ずっと山麓を歩いてきた。ここに至って迂回しようにも登りになり、尾根伝いの道になった。雨後晴天となり、泉の音が聞こえ、山の景色は度々変化した。緑の草むらの中に赤い山ツツジの花が映え、山を登って来た苦労を忘れさせた。また十五里(7.5キロ)進み、筋竹庵で休憩し、食事を取った。

 

山頂は到る所麦が植えられていた。筋竹嶺から南に行くと、国清寺に通じる街道だった。ちょうど国清寺の僧、雲峰といっしょに食事をした。彼によると、ここから石梁に行くには、山が険しく路程も長いので、荷物を持って行くのは不便で、軽装で行った方が良い。重い荷物は国清寺へ向かわせ、そこで待たせた方が良いとのことだった。私もその通りだと思い、人夫に雲峰に従い国清寺に向かわせ、私は蓮舟上人と石梁道を進んだ。

天台山地図

 

行くこと五里(2.5キロ)、筋竹嶺を過ぎた。峠のあたりは背丈の短い松が多く、老いた幹は屈曲し、木の幹や葉は青々と美しく、町に住む人の家の盆栽の松のようであった。また三十里(15キロ)余り進み、弥陀庵に着いた。急峻な山の峰は上り下りを繰り返し、深山は荒涼として静かだった。(おそらく虎が草むらに隠れて人を襲うことのないよう、道沿いの草木を焼き払ったのだろう。)泉の水がごうごうと音をたて、風がひゅうひゅうと鳴り響き、道を行く旅人の姿も無かった。庵は山に囲まれた平らな土地にあり、道は荒涼として先も長く、ちょうどその中間地点であるので、旅人はここで食事をとり、一泊するのが良いようだった。

 

二日、雨はようやくあがった。道に溜まった水を越え、山の峰に登ると、渓流や山の岩石は益々清らかで静寂になった。二十里進み、夕刻に天封寺(現在の天台県東北境にあった)に着いた。夜、床に就いてからも、今朝の峰の頂に登った時のことが思い出された。雨がやみ空が晴れたのは縁があったからのように思えた。それというのも連日夜になってからようやく天気が回復し、朝から晴れることがなかったからである。五更の時(3時から5時の間。夜明け)に夢から目覚め、満天の星空だと召使たちが言っているのが聞こえ、うれしくて再び眠ることができなかった。

 

三日、朝起きると、果たして日が燦燦と輝いており、頂上(天台山最高峰の華頂山、標高1,138メートル)に登ろうと決めた。数里登り、華頂庵に着いた。また三里行き、頂上に近づくと、太白堂であるが、何れも特に見るべき所は無かった。太白堂の左下に黄経洞があると聞き、小道を進んだ。二里行くと突き出た大きな岩が見渡され、たいへん秀麗で美しく感じた。近づいて見ると、ひとりの出家者が結んだ庵が黄経洞の前に建てられていた。洞窟より吹いてくる風を恐れ、石を積んで洞窟の入口を塞いでおり、私は大いに感嘆した。再び道を登って太白堂に戻り、今度は道に沿って頂上へ登った。雑草が風に吹かれて千々に揺れ動いた。山の峰は高く風は身を切るように寒く、草の上に積もった霜は一寸(3センチ)余りの厚さになった。四方に連なる山々を見渡すと、美しい花と碧玉のような緑の木々が巧みに配列されて遠くに見えた。山の麓には花々が咲き乱れているが、一方山の頂上は全く花が咲いておらず、おそらく高いところは寒いのでこうなっているのだろう。

華頂山

 

もと来た道を引き返し、華頂庵まで下り、池の畔の小橋を渡って、峠を三つ越えた。渓流が巡り山々が連なり、樹木が密集し奇岩があり、次々絶景が現れ、見る者を大いに満足させた。二十里で上方広を過ぎ、石梁に到着した。

石梁・古方広寺

中方広寺

 

昙花亭(現在の中方広寺の境内にあった)で仏様をお参りしていると、もう石梁飛瀑の絶景を細かく見ている時間が無くなった。更に下って下方広まで行き、石梁飛瀑を仰ぎ見ると、ふと滝が天の果てを流れ落ちているかのように思えた。聞くところによると、断橋、珠簾水はとりわけ有名な景勝地だそうで、寺の僧によると、食事を済ませてから見に行ってもまだ行って帰ってくることができるそうなので、仙筏橋から山の後ろに向かった。山の峰をひとつ越え、渓谷に沿って八九里行くと、谷川の流れが滝を形成し石門から流れ落ち、流れが渦巻いて、三段の流れに曲がっているのが見えた。上層が断橋で、ふたつの巨石が斜めに傾いて連なり、渓流はふたつの石の間を流れ、波のしぶきが飛び散り、それらが集まって淵に流れ込んでいた。

石梁飛瀑の上層(断橋)

 

中層ではふたつの巨石が対峙して狭い門のようになり、渓流の水はこの狭い門で拘束され、流れの勢いはたいへん激しくなっていた。

石梁飛瀑の中層

 

下層では、淵の出口はたいへん広くゆったりしていて、渓流の出口は門の敷居のように流れを隔て、水は低い窪みのところから流れ落ちていた。三段の滝は各段の高さが何れも数丈(1丈は約3.3メートル)にも達し、それぞれの景観はたいへん神秘的だが、水は各段を上から順に流れ落ち、各段は曲がった流れで遮られているので、一目で見渡すことはできなかった。また一里ほど行くと珠簾水で、渓流の流れ落ちるところは平坦で広く、したがって水の流れはゆるやかで、よどみなくこんこんと流れていた。

珠簾水

 

私は裸足になって草むらに足を踏み入れ、木によじ登り、崖に沿って前に進んだ。そのため、蓮舟和尚はついて来ることができなかった。夜のとばりがあたりに降りてから、ようやく引き返した。仙筏橋で足を止め、虹のような形の石の橋と、滝の水しぶきが雪を噴き上げているかのように見える景観を眺めていると、全く眠る気が起こらなかった。

仙筏橋

 

四日、空は真っ青で、山々は濃い緑に染まっていた。朝食を取る暇もなく、仙筏橋を経て昙花亭へ登った。「石梁」(石橋)はあずまやの外にあった。

石梁

 

「石梁」は幅一尺(30センチ)あまり、長さは三丈(10メートル)、二つの山の窪みの間に架かっていた。二種類の飛瀑(滝)があずまやの左側から流れて来て、橋のところで合流して下に流れ落ち、一本の滝となって水音は雷鳴のように轟き、まるで川の堤が決壊したかのようであった。滝の高さは百丈(300メートル)以上に達していた(これは誇張で、実際の滝の落差は30メートル)。私は「石梁」を渡り、橋の上から下の淵を見下ろすと、怖くて鳥肌が立った。「石梁」の向こうは大石に遮られ、前方の山へは進めず、もと来た道を引き返すしかなかった。昙花亭を経由して上方広寺に入った。寺の前の渓流に沿って、再び前山を遮る大石の上に登り、石の上に座って「石梁」を鑑賞した。下方広寺の僧侶が飯を食うよう催促するので、その場を離れた。食後、十五里歩き、万年寺に着き、蔵経閣に登った。蔵経閣は二階建てになっていて、南北の仏教経典が二つの蔵に納められていた。

万年寺

 

万年寺の寺の前や後ろには多くの古い杉の木があり、何れも三人でようやく囲めるほどの幹の太さがあった。鶴が木の上に巣を作っていて、鶴のよく響く、遠くまで通る鳴き声が聞こえた。これも深い山の中の清く雅な物音と言えるだろう。この日、私はもともと桐柏宮へ行き、瓊台や双網といった景勝地を探したいと思っていたが、道の途中に旅人を惑わす分かれ道がたくさんあるとのことで、計画を変更して国清寺へ向かった。国清寺(隋の開皇18年(598年)創建。当初、天台寺と言い、後に「寺若成、国就清」から取り、国清寺と改名。唐代、最澄は天台宗第9祖、道邃(どうすい)より菩薩戒を受けた)は万年寺から四十里で、途中、龍王堂を通った。山の峰をひとつ下る度に、私はもう平地に降りて来たかのように感じたが、続けて幾重もの峰を下っても、下り坂は延々終わることがなく、こうしてはじめて華頂山の高さは、天上からいくらも離れていないくらい高いと悟った。日暮れ時に、ようやく国清寺に入り、雲峰和尚と再会した。

国清寺

 

長く別れていた気の合う親友に再会したかのようであった。和尚と天台山観光の行程順序を相談した。雲峰和尚が言うには、「天台山の名所は寒岩と明岩の二カ所に勝るところは無い。距離はやや遠いが、馬で行ける。先ず寒岩、明岩を遊覧し、その後歩いて桃源洞へ行き、桐柏宮に到達する。こうすれば、翠壁、赤城栖霞二カ所の景勝地も一度に見てしまうことができる」と。

 

五日、雨が降りそうだったが、気にしない。寒岩、明岩への道を取り、国清寺から西門へ行き、騎乗する馬を探した。乗る馬が来たが、雨も降りだした。五十里進んで歩頭に着き、雨が止んだ。乗って来た馬も帰らせた。二里歩いて、山に入った。山並みが麓を巡り流れる川に映り、木々は美しく、岩石は形が面白く、見ていてとても楽しくなった。一本の渓流が東陽の方から流れて来て、流れはたいへん急で、水量は曹娥江(天台山北麓を源に、北に流れ、新昌、嵊県、上虞を経て杭州湾に注ぐ川)のようであった。四方を見渡しても竹の筏の渡しが見当たらず、人足に背負ってもらって渡るしかなかった。水の深さは膝の高さほどあり、渓流を渡るのに一時間ほどかかった。また三里歩き、明岩に着いた。

明岩寺

 

明岩は寒山、拾得が隠棲した所で、ふたつの山が曲がりくねって鎮座し、『大明一統誌』に言う八寸関である。八寸関に入ると、四方は切り立った石の壁に囲まれ、城壁のようであった。

八寸関(明岩寺)

 

一番奥に深さ数丈の洞窟があり、穴の広い所には数百人を収容できる広さがあった。洞窟の外は、左側はふたつの巨岩で、それで壁半分を構成していた。右側には石筍が

高く聳え、てっぺんは石壁と同じ高さで、一直線になっていた。石筍の上には青松と紫色の花蕊(かずい)が盛んに茂り、ちょうど左側の巨岩と対峙していて、風変わりな景観と言うべきであった。八寸関を出て、再び岩に登ると、方向はやはり左向きであった。ここに来た時、仰ぎ見ると一本の細い隙間を隔てただけのように見えたが、岩の上に登ってみると、そこはたいへん広くて、数百人の人を収容できることが分かった。岩の真ん中には井戸があって、仙人井と呼ばれ、浅いが水が枯れることはない。岩の外には珍しい石があり、数丈の高さがあり、上部はふたつに分かれ、二人の人が立っているように見え、当地の僧はこれを指して寒山、拾得の化身と言った。寺に入った。夕食後、雲は散って消え、三日月が夜空に掛かった。人の形の岩が崖のてっぺんに見え、岩壁の上にも月明かりが注ぎ込んだ。

 

六日、夜明けに寺を出発し、六七里で寒岩に着いた。岩壁がまっすぐ上にそそり立ち、刀で割ったようであった。

寒岩

 

上空を仰ぎ見ると、たくさんの洞穴が見えた。岩壁の真ん中あたりに洞窟があり、幅八十歩、奥行き百歩あまり、洞内は平坦で明るかった。岩を右側に行くと、岩の狭くなったところから細い道が上に登って行った。山の岩の低くなった窪みにふたつの岩が相対して聳え立ち、下の部分は分かれ、上部でつながっていた。

鵲橋(寒岩)

 

これがいわゆる「鵲橋」で、上方広寺の「石梁」(石橋)と相争う奇観であるが、ただ水しぶきの上がる滝の水が落ちる景観がここには無かった。僧の宿舎に戻って食事をとり、竹の筏を探して渓流を渡った。渓流に沿って山を下った。この一帯は、断崖絶壁で、雑草が巻き付き、木々の枝は下に垂れ、多くの海棠やハナズオウの木があり、濃い影が渓谷に映り、一層風景を優美にしていた。香しいかおりを帯びた風が吹いてくるところには、モクレンやかぐわしい香草が群生していた。山の支脈の尾根まで来ると、岩壁はまっすぐ谷底に垂直に落ち、谷川は深く流れは急で、あたりには足を踏み入れる場所も無かった。岩壁は穴を穿って通れるようになっていて、穴には足先半分しか踏み入れることができず、身体を岩壁に貼り付けてやっと通ることができ、行く者をはらはらどきどきさせた。寒岩から十五里歩いて歩頭に至り、小道を通って桃源洞に向かった。桃源洞は護国寺の傍にあった。護国寺の建物は既に廃墟となっていた。土地の者に聞いても事情を知る者はいなかった。雲峰和尚に従い、草木が生い茂った曲がりくねった道を進むうち、日も沈んでしまい、泊まるところも無く、また道を尋ねるうちに、遂に坪頭潭(現在の平鎮。天台県の西の境界)に着いた。坪頭潭から歩頭まではわずか二十里の行程だが、今日は小道を来て、三十里あまり回り道をして、ようやく宿に着いた。確かに桃源洞は人を誤らせるところだ。

 

七日、坪頭潭から曲がりくねった道を三十里あまり行き、渓流を渡って山地に入った。更に四五里行くと、尾根がだんだん狭くなり、そこに宿坊があり、「桃花塢」(「塢」wùは山の窪地のこと)と言った。深いよどみに沿って進むと、よどみの水は次第に澄んできれいになり、ほとばしる山の湧水が上からよどみに注ぎこむところに来た。ここは「鳴玉澗」と呼ばれる。谷川の水は山に沿って流れ、人は谷川に沿って進むことになる。谷川の両側はむき出しの岩山で、連なる山々はあちこちで緑の木々と入り混じり、およそ目に入るものは全て鑑賞に耐える景観で、たいていが寒岩、明岩の景色より勝っていた。谷川が尽きると道も無くなり、一本の滝が山の平らになったところから流れ落ち、その勢いは甚だ奔放であった。宿坊で食事をとって、桃花塢を出、山の窪地に沿って東南に向かった。峠をふたつ越え、「瓊台」、「双闕」の二ヶ所の景勝地を尋ねたが、誰も知らなかった。更に数里歩いて、やっとそれが山頂にあることが分かった。雲峰和尚と山道をよじ登り、やっとのことで山頂に着いた。下を見下ろすと、切り立った崖は削られ、曲がりくねった岩肌は、全く桃源洞の景色と同じようであった。そして一面緑の木々に覆われた万丈の岩壁は、桃源洞の急峻を上回っていた。山の峰の頂が欠けて二つに分かれているところが、いわゆる「双闕」(「闕」quèは古代の王宮の門の両側にあった望楼のこと)で、「双闕」にはさまれた中間の輪になった石の台が「瓊台」qióngtáiである。

双闕

瓊台

 

「瓊台」は三面が絶壁で、後方だけが「双闕」につながっていた。私は望楼に向いて立った。日が暮れて、もう再び「瓊台」に登る時間は無かった。しかし優美な風景はもう堪能し尽くしていた。遂に下山し、赤城山の背後から国清寺に戻った。およそ三十里の道のりであった。

 

八日、国清寺を出発し、山の後ろを五里進み、赤城山に登った。赤城山の山頂には円形の岩壁がそびえ、見たところ城壁のようで、岩の色はやや赤みがかっていた。岩の洞窟は僧の宿舎になっていて、中は散らかり、自然の景観はもう見る影もなかった。玉京洞、金銭池、洗腸井は何れも見てもどうということはなかった。

 


中国の民間玩具、風車(かざぐるま)

2021年09月14日 | 中国文化

北京の春節の廟会で売られる「大風車」

 

「風車」fēngchēは広く普及した伝統的な民間玩具で、一般には紙、竹、コウリャン殻で車輪を作り、風の力を借りて休みなく回転させます。容易く作れてすぐ遊べるので、子供たちにたいへん人気があります。中国の風車の歴史は古く、唐代や宋代の絵画の中に既にしばしばおもちゃの風車を見つけることができます。例えば南宋の画家、李蒿の筆による『貨郎図』(「貨郎」とは行商人の意味です)の中に小さな風車が描かれていて、行商人の帽子の後ろに描かれています。

李蒿『貨郎図』(部分)

 

この風車の構造はたいへん簡単で、三本の細い棒を交差させて六角形にし、棒のひとつひとつの先端に長方形の小旗を貼り付け、中心に軸を取り付け、軸と柄がつながり、小さく精巧で簡単な造りです。こうした風車は宋代に流行したものです。元代の有名な画家、王振鵬も『貨郎図』とよく似た絵を残しており、題名は『乾坤一担図』と言い、ひとりの老人がおもちゃを満載した荷物籠を担ぎ、老人の帽子の後ろにも小さな風車が挿してあります。

王振鵬『乾坤一担図』

 

構造は宋代の絵の風車と基本的に同じで、ただ風車本体の六角形が八角形になり、柄の上に三角形の小旗が取り付けられています。これから見て、古代のこうした小旗を立てた風車は長い間流行し、宋代以降、特に大きな変化は無かったようです。

 

現在、各地で作られている風車はおおよそ三種類に分けられ、「簡易風車」、「多角風車」と「大風車」があります。「簡易風車」は一本の竹か木の横棒の両端に互い違いに二枚の四角の紙を貼ったもので、横棒の中央に軸が設けてあり、軸は柄につながっていて、風を受けて回転します。

左は簡易風車、右は瓜形風車(後述)

 

『帝京景物略』に明末の風車の記述があります。

「すなわちコウリャン殻を二寸に裂いて、互い違いに四角い紙を貼り、紙の色は各々赤と緑で、真ん中に穴が空いており、細い竹でコウリャンの竿に横向きに取り付けられ、風を受けて動き出し、回転して輪のようになり、赤と緑が混じって目が回るようだ。これを風車と言う。」

 

こうした風車の構造の原理は、上記の宋や元の時代の風車と基本は同じで、現在にまで続き、依然として農村で幅広く作られています。

 

「多角風車」は中国の風車の中で最も代表的なもので、通常は一枚の正方形の色紙から作られ、四角形を中心に向け半分以上ハサミを入れ、順番に各々の角を中心に向けて折り曲げ、中央を小さい丸い紙片で貼りつけて軸を取り付ければ、四角の風車となり、二、三個の風車を一組として柄に取り付けると、風を受けて全てが回転します。二枚の正方形の色紙を互い違いに重ねると八角形の風車になり、三枚の色紙を互い違いに重ねると十二角形となります。色紙の色をそれぞれ変えると、風車の角がひとつひとつ規則的に色が変わるようになり、色彩の変化にリズムがあって美しいものです。

八角風車

 

しかし注意すべきは、八角形以上の風車はそれぞれの色紙の切り方が異なり、あらかじめ切り口の角度を決めておくことで、それぞれ入り混じった角度を揃えることができるのです。

八角風車の作り方(二枚の色紙の切り方を変えて角度を揃える)

 

 

「多角風車」と似たものに、「瓜形風車」があり、色紙を折り曲げてかぼちゃ形にし、中空で外側は瓜のひとかけらひとかけらが何層にも重なっていて、風が吹くとくるくる回ります。瓜形の風車は山東省南部の蒼山県、郯山tánshān県などで盛んに作られています。

蒼山県と郯山県(山東省臨沂市)

 

「大風車」は北京市の太鼓付き風車のことで、昔北京の春節(旧正月)の間に開かれた「廠甸」(和平門外瑠璃廠に、お正月の人出を見込んで大きな縁日が立った。この土地は、宮廷の瑠璃瓦を焼く瑠璃窯があったところで、瑠璃窯の前に広い空き地があり、この空き地に市が立ったので、「廠甸」と呼ばれた。)では必ずこのような風車が市場に並び、北京の春節の風物詩でした。

北京の春節、廟会の風景

 

「大風車」の構造はこれまで述べた風車より複雑で、風車の車輪はコウリャン殻を薄く矧いだ細片を湾曲させて作り、直径は20センチくらいでした。竹ひごやコウリャン殻の棒を用いて軸を作り、軸を中心に放射状に紙の帯を括りつけ、紙の帯のもう一方の端は輪っかに糊付けし、車輪としました。車輪の紙の帯には色が染め付けらました。

大風車

 

軸の延伸部分には互い違いに「はじき爪」を取り付け、軸の下には更に糸で縛り付けた二本の撥(ばち)を並べます。一番下には粘土で作った小さな太鼓を取り付けます。風車が回転すると軸の上の「はじき爪」が動いて撥を動かし、太鼓が打たれて音を鳴らす仕組みです。ポンポン、シャンシャンと良い音がしました。

大風車の太鼓を鳴らす仕掛け

 

「大風車」は風車ひとつ毎に太鼓がひとつ付いていて、少なくとも二つの風車が上下に配されました。風車が三つ、四つ、五つ、ひいては三四十個あるものまであり、全ての風車はコウリャン殻をつないで作った骨組みの上に取り付けられ、骨組みは風車の数に合わせて異なった形に組み立てられました。よく見かけたのは「日」の字形や「甲」の字形、「申」の字形の骨組みでした。

大風車

 

一台の「大風車」に何個風車があるかで、その数だけ太鼓が取り付けられたので、風が吹けば音が鳴って、たいへん面白いものでした。北京の人は買って帰った「大風車」をしばしば家の軒下に取り付けたので、それによって家中がお正月のお祝いの気分に染まることとなりました。

北京の四合院の家屋の軒に取り付けられた大風車

 

おもちゃの風車の種類はたいへん多く、その中には凧や走馬灯のアクセサリーとして使われたものもありました。例えば銅鑼を付けた凧で、銅鑼を付けた枠と「大風車」の構造は全く同じでしたし、連凧の龍の頭の眼を回すのも、実際はふたつの風車でした。走馬灯の真ん中の軸の上には、風車の車輪を取り付けておく必要があり、それにより、上昇気流を受けて走馬灯が回るのです。

走馬灯


中国の凧(2)中国凧の種類と特徴

2021年09月08日 | 中国文化

硬翅風筝(沙燕)

 

凧の歴史が分かったところで、今回は凧の種類とその特徴について見て行きたいと思います。尚、中国国内の有名な凧の産地には、北京、天津、山東省濰坊、陝西省西安、河北省保定、江蘇省南通などがあります。

 

 

(一)凧の造形により表現する題材による区分

 

1.鳥型の凧:鷂(ハイタカ)、鳩、鳳凰、タンチョウ、大雁、オウムなど。

 

2.虫型の凧:トンボ、蝉、蝶、蛾、テントウムシなど

 

3.水生生物の凧:蛙、金魚、ナマズ、つがいのコイ、蟹、オタマジャクシ、イセエビ(ザリガニ)、貝

 

4.人形凧:神話上の人物、歴史上の人物、芝居の人物、例えば孫悟空、寿老人、関羽、張飛、鍾馗、和合二仙(家庭円満を司る仙人、神様)、劉海、許仙、白娘子(白素貞。『白蛇伝』の女主人公)など。

京劇の俳優のくま取りの凧(臉譜風筝)を含みます。

臉譜風筝(くま取りの凧)

 

5.文字凧:「喜」の字を二つ並べたもの。「福」、「寿」の文字。「杏花天」、「天下太平」、「富貴非所望不憂貧」など

 

6.器具の形の凧:生花を飾った籠、扇子、鼎、香炉、鐘、灯籠、宝剣、花瓶など

 

7.幾何学図形の凧:角凧、ひし形、八卦、星型(五角星)、六角形、円形など

 

 

(二)凧の構造による区分

 

1.硬翅風筝yìngchì  fēngzheng(硬い翼の凧)

 

凧の両翼には二本の横向きの「竹条」(竹を細く裂いた棒)で作ったフレームを用い、胴とつなぎ、両翼は折り曲げられないし、はずすこともできないようになっています。このような凧は、「硬翅風筝」(硬い翼の凧)と呼ばれます。翼が二枚以上の凧は、例えば「宝塔」は七枚、「双喜」つまり「喜」を二つ並べた字の凧は三枚の翼を持ちます。

「双喜」の文字凧

 

「硬翅風筝」は全国各地でよく見受けられ、玩具としての凧の中で最もよく見られる構造のひとつです。その中で、北京の「沙燕」(イワツバメ)の凧は最も典型的なものです。「沙燕」の翼は、上下二本の竹結び付けてあり、頭と腹部は一本の長い竹を折り曲げて作り、尾部は二本の竹を交差させ、これら各部分を一緒に縛って、「沙燕」の骨組みを構成しています。

 

「硬翅風筝」の骨組みの寸法は一定の比率になっています。その全体の寸法比率は正方形になっていて、全体の長さと幅の寸法は同じです。頭部の長さを一単位とすると、これは全体の長さの四分の一。腹部は二単位で、全体の二分の一。尾部も一単位で、全体の四分の一。それぞれ一単位が全て正方形で、翼の周囲の竹の長さの七分の一が腹部の幅です。このように、翼の周囲の竹の長さを先ず決めれば、その他の各部分の寸法は容易に求めることができます。

「沙燕」凧の骨組み

 

「硬翅風筝」には他に「米字硬翅」(米の字形の硬い翼)の凧があり、すなわち「米」の字の形の胴体の上に翼を取り付け、骨格を構成しています。外側の輪郭は題材によって火で焙って曲げた細い竹を架台の上に結び付けて造形し、最後に紙を糊付けします。「米字硬翅」が完成すると、周囲の縁は全て竹で支えられた状態となります。

米字硬翅

 

「硬翅風筝」は、他の凧に比べ構造が簡単で造りがしっかりしており、様々な環境での適応性が高く、民間の玩具凧の中で最も広く使われています。

 

2.軟翅風筝 ruǎnchì  fēngzheng(柔らかい翼の凧)

 

この種の凧の翼は上面だけに一本の竹条(竹を細く裂いた棒)があり、下辺の輪郭は翼の生地だけで構成され、風が吹くとひらひら翻ります。鷹、蝶、トンボなど多くが「軟翅風筝」で、この種の凧の翼は、下半分を折り曲げて畳むことができます。翼を外せるものもあります。翼の生地の多くは薄く柔らかい絹や、強靭性の強い紙が使われ、翼が風の振動で破れないようにされています。「軟翅風筝」は表現性が豊かで、昆虫や禽鳥などの題材に適していて、揚げると風を受けて翼が震える効果を見ることができます。

軟翅風筝

軟翅風筝の骨組み

 

3.拍子風筝 pāizi  fēngzheng(平板形の凧)

 

造形が一枚の平板のような形の凧なので、こう呼ばれます。京劇のくま取り、鼎、蝉などがこの種の凧です。この種の凧は、更に「軟拍子」と「硬拍子」の二種類に分かれます。「硬拍子」の最も典型的なものが伝統的な題材の「八卦」です。

「八卦」凧

「八卦」凧の骨組み

 

外周は竹を裂いた棒を結わえた二つの正方形から成り、それを重ねて八角形にし、中間には十字に骨格を加え、全体の造形は整った平面で、仕付け糸を加える必要が無く、平板で曲面が無く、したがって比較的強い風が吹く時に揚げることができます。安定性を増すため、この種の凧の「尾穂」(しっぽの房)は長く重いものが付けられます。「軟拍子」も平面の造形で、骨格の構造は簡単で、下辺の輪郭は竹で支える必要が無く、揚げる時は仕付け糸を使って平面を後ろに湾曲した弓型にさせ、同時に比較的長いしっぽか房を付ける必要があります。「軟拍子」の下部は折り曲げたり上辺の骨格の上に巻き取ったりすることができ、持ち運びに便利になっています。この種の凧の表現力が豊かで環境への適応性にも優れていますが、長いしっぽを付ける必要があり、全体の構図が壊れやすく、実際の状況によって適宜しっぽの造形をうまく処理してやる必要があります。

 

4.長串風筝chángchuàn  fēngzheng(連凧)

 

俗に「蜈蚣」wúgong(ムカデ)とも呼ばれ、たくさんの円形の凧がいっしょにつなぎ合わさり、前面には頭が据えられ、龍の頭が据えられているように見えるので、「龍頭蜈蚣」lóngtóu  wúgongとか「龍筝」lóngzhēngと呼ばれます。

龍頭蜈蚣

 

連凧の一枚の円形の凧を「一節」と呼び、少なくとも20節、多いものは150節に達することがあります。円形の凧は竹を裂いた棒を曲げて円形にし、その後で紙を糊付けして絵付けを行います。円形の凧1枚1枚に全て円の直径を貫き通す1本の竹を裂いた棒が挿し渡され、俗に「蜈蚣腿」(ムカデの足)と呼ばれます。「蜈蚣腿」の長さは一般に円形凧の直径の三倍で、足の両端には鶏の毛か紙の房が結び付けられています。この円形の凧一枚一枚を単独では「蜈蚣桄儿」wúgong  guàngrと呼ばれます。(「桄」は「かせ糸」、糸巻に巻かれた糸のこと)

龍の頭と「蜈蚣桄儿」

 

何枚かの「蜈蚣桄儿」を揚げてそれが一本の串のようになったら、この連凧揚げは成功したと言えます。前面の「蜈蚣頭」、つまり龍の頭の部分は扁平のものと立体的に作ったものとがあり、多くは「竹条」(裂いた竹の棒)を縛って骨格を作り、その上に紙を糊付けして絵付けし、さらにぐるぐる回転する目玉が取り付けられます。

蜈蚣頭

 

「蜈蚣桄儿」はそれぞれ三つの部分に分けて着色されます。上部は濃い色を使い、ムカデの背中を表し、下部は白色の半円で、ムカデの腹を表します。中間部分は様々な色で彩色されます。こうして絵付けされた連凧が上空に揚げられ、一本の長い串になると、背中が濃い色で腹が白い、一匹のムカデとなるわけです。

 

連凧の制作の要領は主に「蜈蚣桄儿」をつなげる技術に現れ、各「桄儿」の縦方向の角度は全て120度以上なければならず、やや前傾した状態になります。横方向は各「桄儿」が全て180度で平行でなければならず、凧を上空に揚げると「塌腰翘尾」、つまり背骨が腰のところでくぼんで、尻尾を持ち上げる形になります。連凧は空高く舞い上がると、勢いが雄壮で、その姿は高くそびえ立ち、中国の伝統凧の名品のひとつに数えられます。

 

5.組み立て式の凧

 

組み立て式の凧は、各部分が別に作られ、揚げる前に各部分の関節に沿って組み立て、揚げ終わったら解体することができ、携帯や保存に便利にできています。前のところで紹介した「軟翅風筝」(柔らかい翼の凧)や「拍子風筝」(平板の凧)は、組み立て式として作ることができます。相対的に、組み立て式凧の造りは複雑で、関節を組み立てる接合部分の設計に注意しなければならず、通常は「榫」sǔn(ほぞ。一方の材の穴にはめ込むよう他方の材に作った突起)、「卯」mǎo(ほぞ穴)、「挿」(差し込み)、「梢」、「套」(ねじ溝を切る)等の方式で部品をしっかりと結合させ、また品種によっては鉄の薄板を被せたり、針金、紙筒、蝶番(ちょうつがい)などの部品を使ったりして設計上の要求を満たします。有名な組み立て式凧には、天津の「風筝魏」一族が作った各種の凧があります。

天津風筝魏の作品

 

6.簡易凧

 

簡易凧は一般の人々が自分で設計、制作した凧を指し、品種は極めて多く、何れもすぐに作れて構造の簡単な玩具凧であり、よく見かけるのは「瓦片」(平瓦の形の四角形の角凧)や「菱形風筝」(ひし形の凧)、「桶形風筝」(立体凧)などです。ひし形の凧が最も簡単で、二本の竹の棒を交差させ十字型にするだけで、横向きの竹をきつく縛って弓状にし、紙を糊付けし、しっぽを付ければ簡易凧が完成します。民間で長らく伝承され、子供たちの間で互いに真似し合うことが盛んになり、ひとつの風潮になりましたが、商品になることはほとんどありません。

 

 

(三)凧の特殊な仕掛け

 

凧を揚げて飛ばす過程での娯楽性や趣味性を強めるため、人々は早くから凧の特殊な仕掛けを考えました。唐代には、凧は既に琴の弦を取り付け、音を出す効果を作り出すことに成功しました。以後、代々新たな設計がなされ、凧の娯楽性や趣味性をより豊かで完成度の高いものにした。主要な仕掛けには、音を出す仕掛け、光を発する仕掛け、「送飯的」(食事を届けるように、下から上空の凧本体に上がっていき、本体にぶつかると、半分に割れて下に降りてくる)ものがあります。

 

音を出す仕掛けには、「風琴」(オルガンのように風を送り込んで音を出す)、「笛哨」(呼び子の笛)、「鑼鼓」(銅鑼や太鼓)などがあります。「風琴」は「竹条」(竹を裂いた棒)で「湾弓」(挽弓、拉弓とも。弦楽器で弦を弾いて音を出す弓)を作り、糸や薄く削った竹のリードを「琴弦」(琴線。弦楽器の弦)とし、これは俗に「琴縧子」(琴の糸)と呼ばれます。弓と弦が「風琴」に取り付けられ、凧を揚げると上空で風が吹いて「琴弦」を振動させ音が鳴ります。「風琴」は一般に1.7メートル以上の大型の凧に取り付けられます。「琴縧子」、つまり弦は二本、三本、四本のものもあり、それぞれ弦の長短、太さが異なり、出る音の高さが異なります。したがって三本や四本の弦を付けた「風琴」ではいくつかの音が共鳴して聞こえることになります。また竹笛や呼び子を結び付けたものもあり、耳に心地よい音を出すことができます。

呼び子付きの凧

 

その他の音を出す仕掛けとして、「背鑼鼓」(銅鑼や太鼓を背負う)があり、これは竹の棒で銅鑼や太鼓の架台を括りつけ、架台の上に小さな銅鑼や皮を張った太鼓を吊るし、風車の付いた「撥片」と太鼓のばちが取り付けてあります。風車が回ると「撥片」が動いてばちを動かし、銅鑼や太鼓を打ち鳴らす仕組みになっています。凧が上空に揚がると、銅鑼や太鼓の音が天空より鳴り響き、たいへんおもしろいのですが、凧に取り付ける制約上、あまり大きな音は期待できません。「背鑼鼓」の凧は通常夕方から揚げ始め、夜のとばりが降り、あたりが静かになってから、この仕掛けの妙味を味わうことができます。

背鑼鼓

「背鑼鼓」を組み込んだ凧

 

凧が上空に揚がって後、特殊な仕掛けを使って色紙片や色紙の短冊、紙の造花などを凧の糸に沿って上空に上げ、凧の傍まで来るとスイッチの入る仕掛けがあり、紙片や造花が上空でまき散らされ、ひらひらと満天を漂い舞い落ち、その情景は珍しく壮観です。こうした仕掛けは「送飯的」と呼ばれ、ちょうど凧に食糧(兵糧)を送るかのようであるのでこう言います。「送飯的」の構造は複雑で、竹の架台、「飯盒」、翼、上空の凧に当たると駆動する仕掛けが含まれます。竹の架台には開いたり閉じたりさせることのできる翼(羽)が取り付けられ、開いた時は「硬翅風筝」と似た姿になります。

「送飯的」、上空の凧にぶつかると翼が閉じる仕掛け

 

「飯盒」は底が開閉する紙の箱で、紙片や造花はこの箱の中に入れられます。凧が上空に揚げられて安定したら、そこで凧を固定し、凧の糸の下端に「送飯的」を取り付け、翼を広げて風力を使って凧糸に沿って上昇させ、そのまま上空の凧の下の横向きの棒にぶつかったら、仕掛けを動作させ、紙箱の底を開き、紙片を撒き落とさせ、同時に両翼を閉じると、「送飯的」は凧糸に沿って下降し、下で凧を揚げている人のところまで滑り落ちてきます。

「送飯的」、上の赤い凧に向け上がって行く

 

もうひとつ、もっと簡便な方法で「送飯」することができます。紙片を紙か布でできた袋に入れた小包を作り、糸で縛って梱包し、包みの糸の上に火を付けた線香を貼り付けるのです。線香の長さは凧の揚がった高さにより調整します。凧を揚げて一定の時間が経つと、線香の火が包みの糸に移って焼き切るので、袋が開け、中の紙片が空中にまき散らされるというわけです。

 

更に、凧に提灯を送る仕掛けがあり、その構造、原理は「送飯的」と似ていて、火を点した提灯を「飯盒」の代わりに取り付け、時間になると提灯を空高く上げ、時には一列に連なった提灯を空に上げることができます。提灯を揚げるのは普通夕刻に行われ、凧が上空で一定の位置に固定されて後、夜のとばりが降りてから、火を点された提灯が夜空に上げられ、たいへんおもしろいものです。

 

凧の競技要素を強めるため、古くから競技凧が生み出されました。つまり凧で空中戦を行い、相手を絞めて落とした方の凧を勝ちとするのです。多くの地方でこのような凧が流行し、その中でチベットの競技凧が最も代表的なものです。多くが正方形かひし形の「硬拍子」の凧であり、凧糸の表面は糊で付けたガラス粉で覆われています。試合では、自由に対戦の取り組みを決め、審判員を出します。凧が一定の高さまで揚がったら、審判は「試合開始」を宣言し、双方は技巧を尽くして攻撃を行います。選手は自分の凧を操縦して、空中で旋回、上昇、下降、飛行、突撃を行って相手の凧をかく乱し、またガラス粉で覆った凧糸で相手の糸を切りに行き、一方の凧が撃墜されるまで攻撃を繰り返します。

チベット・ラサの競技凧

 

(四)中国凧の芸術性

 

中国の凧の芸術上の特色は、その造形、装飾図案、それが反映された思想や感情の三つから理解することができます。この三つが密接に組み合わさることで、中国の凧は世界中の凧の中で独自の位置づけを切り開いていると言うことができます。

 

凧の作者はその設計から造形、色彩、紋様、更に凧を遠くから見た時、近くで見た時の効果などを併せて検討します。中国の伝統凧には多くの固有の題材があり、それらの造形、色彩は伝承される中で絶えず改良、改善され、各地の凧の独特な風格を形成しています。

 

北京地区の伝統凧は「沙燕」(イワツバメ)で、自然界の翼を広げて飛び回る小さな燕の形象に取材しています。「沙燕風筝」は造形上、燕の翼を広げて飛ぶ動きを誇張し、翼の力量と尾翼を刀のようにピンと伸ばした様子を強調しています。またそれと凧の風を受けて飛ぶ構造、原理と結びつけています。「沙燕」の装飾図案は同様に燕の姿形に基づき、その眼と爪の形状を誇張して表現し、また民俗的な特色と強い装飾性を反映しています。

 

「沙燕」凧の基本の形態には様々なバリエーションがあります。「肥燕」、「痩燕」、「雛燕」、「比翼燕」などです。北京の民謡に、「肥は男と痩せは女と比べ、雛燕は子供、双燕は夫婦と比べる」というのがあります。試しにこの四種の「沙燕」を比較すると、自ずとそれぞれの特色が見えてきます。「肥燕」は雄々しく力が強く、翼や頭、腹、しっぽが大きくふくよかで、男性の気質を象徴しています。

肥燕

 

「痩燕」は各部が細長く、繊細で、女性のうるわしくしなやかな特徴を表現しています。

痩燕

「雛燕」は体が豊満で子供らしく拙く、無邪気さが見て取れ、天真爛漫な「胖娃娃」(太ったお人形さん)となっています。

 

雛燕

 

比翼燕は夫婦仲良く並んだ様子を表します。

比翼燕

 

この四つの「沙燕」の象徴するところは相互に対比し、相互が引き立てあうところに意味があり、少し見比べればそれぞれの鮮明な特徴と明確な寓意を見て取ることができます。

 

「沙燕」凧の装飾紋様には単色と彩色の二種類があります。彩色の「沙燕」凧は先ず墨の線で眼、口、爪、翼など主要部分の輪郭を描き、その後様々な彩色の図案を描き入れていき、その図案には様々なバリエーションがあります。よく見かけるのは、両翼に図案を絵付けしたものです。コウモリの紋様は「沙燕」凧で最もよく見る装飾紋様で、「五福捧寿」、「洪福斉天」、「多福多寿」、「福寿綿長」、「福寿双全」などの図案があり、コウモリ紋は更に変形して尾翼、腹部の装飾に使われ、時には「沙燕」のくちばしの代わりに使われたりします。

五福捧寿

 

コウモリ紋様の他、多くの伝統図案が「沙燕」の装飾に使われ、例えば翼に白鶴を描けば「白鶴延年」、九匹の龍を描けば「龍生九種」と言い、ヤマネコ、蝶、牡丹を描けば「耄耋富貴」màodié fùguì(高齢の方が十分な富を持ち、健康で長生きされるのを祈る)、梅、竹、菊を描けば「四君子」などがあります。

耄耋富貴

 

「沙燕」凧の腹部と尾翼の間も装飾の大切な部分で、俗に「腰節」と言います。多くは連続する紋様を何層かに分けて描き、何層に分けるかで幾「道腰節」と言います。例えば三層の連続図案は「三道腰節」、五層なら「五道腰節」と言います。「腰節」の図案は多くが伝統紋様から取られ、例えば「万不断」、「拐子龍」、「雲鈎」、「回文」、「蓮花瓣」、「方勝」、「盤腸」、「如意鈎」などの図案(吉祥図案)があります。「腰節」の図案は集中し、まとまっており、「沙燕」の白い胸と尻尾を際立たせ、模様のリズム感を生み出しています。

 

「沙燕」凧のもうひとつの有名な装飾方法が「反画法」で、すなわち一羽の標準的な単色の「沙燕」図案を裏焼きして描かれます。この画法は写真のネガと同じで、元々濃い色の部分を淡い色で描き、元々空白の部分を濃い色で描き、こうして北京の「沙燕」凧の一品種、「黒鍋底」が生まれました。「黒鍋底」は黒色で描いた「沙燕」で、赤色で描けば「紅鍋底」、青で描けば「藍鍋底」です。

「黒鍋底」の「沙燕」

 

写実手法で動物の造形を真似た凧はもうひとつの重要な流派で、よく見る凧は鷹、燕、白鶴、錦鶏、蜻蜒、胡蝶などがあります。これらの動物の姿形と凧の造形はよく似ていて、どれも二枚の開いた翼を持ち、空を飛ぶ時の様子や、遠くから見た効果も、自然です。凧に絵付けする時はできるだけ真に迫って生き生きとするよう心掛けます。例えば鷹を描く時は、翼の羽の毛一本一本をはっきり描き、少しも疎かにしません。トンボを描く時は翼の網の目の通っている方向をきっちり描き、細かい網の目を表現する。こうした凧は一見すると作りが簡潔で、中国の一般の人々の審美習慣に合っています。

 

写実的なスタイルの凧の図案は中国の伝統的な画法の「重彩」(水墨画以前の中国の伝統絵画)の表現方法と同じく、線描と輪郭を主要な手段とし、その後彩色を施していきます。多くの凧はそれ自身が美しい「重彩」絵画の作品となっています。

 

人物凧は凧の造形の制約を受けるため、背景の図案を加えることで、画面が凧の両翼いっぱいに描かれるようにする必要があります。よく使われる背景の紋様は、雲紋、花卉、海の波、リボンなどです。例えば「天女散花」、「孫悟空」、「鍾馗」などの凧は、いずれも主要な人物の姿を描くと同時に、濃密な雲紋が描き加えられています。

 

物の形の凧は一般によく見かけるもので、多いのは「扇子」、「宮灯」(八角形や六角形の灯籠)、「八卦」、「鼎」、「雨傘」、「花籃」などです。その他、宝塔、亭閣、ダイコン、ハクサイ、果物などの凧もあります。「八卦」、「宝塔」などの凧が決まった形式で作られている以外は、その他の多くは作者の即興の創作で、決まった形式は存在しません。

 

中国凧の主な装飾方法は絵付けであり、先に紙を糊付けしてから絵を描くか、先に絵を描いた紙を糊付けするかのどちらかです。木版で水彩塗料を印刷して装飾紋様を完成させる方法では、先ず凧の各部分の図案をいくつかの部分に分解し、各部分を小型の木版に刻み、切った紙に個別に印刷したら、最後に糊で貼り付けていきます。絵付けと印刷の結合方式では、先ず図案の輪郭を印刷し、糊で本体に貼り付けてから、後で色を入れていきます。

 

中国凧は複合的な民間芸術であり、絵画、結わえた糸の調整、自然科学、民俗的な風情、文化やスポーツとしての娯楽などが結びついています。したがって、人々は様々な角度から凧を見ることになり、民間芸術の立場から凧の芸術的風格や造形、色彩、装飾の特徴を研究することができますし、自然科学の立場から凧の開発の実用価値を考えることもできます。民俗学の立場から凧の民俗的な意義を検討することもできますし、スポーツ、健康増進の立場から凧が人類に提供した健康増進作用を調べることもできるのです。

 


中国の凧(1)中国の凧の起源と歴史

2021年09月01日 | 中国文化

伝統的な沙燕風筝

 

中国のおもちゃについて、今回は凧を取り上げたいと思います。今回も、王連海著『中国民間玩具簡史』(北京工芸美術出版社1991年)の内容を元にしています。

 

凧は日本でも平安時代頃までに中国から伝わったようですが、中国では凧はいつ頃生まれたのでしょうか。

 

古書の記述によれば、春秋戦国時代の紀元前5世紀ごろ、墨子(BC470頃~BC390頃)、公輸子(魯班のこと。BC507~BC444大工の始祖とされる)が「木鳶」mùyuān(木製のトンビのような鳥型飛行器具)を制作したという記述があります。

 

『韓非子・外儲説左上』に、「墨子は木鳶を作るに三年にして成り、一日飛びて落ちる」とあり、『墨子』には、「公輸子は竹木を削りて鵲と為し、之を飛ばすに、三日下らず」とあります。

 

これらの書物で、中国の最も古い飛行器具を「木鳶」と記録しています。「木鳶」は「紙鳶」zhǐyuān(紙で作った鳥型の飛行器具)の前身だと見做され、「紙鳶」は凧の前身、或いは古称です。したがって、「木鳶」がすなわち凧の起源であり、凧は墨子や公輸子が活躍した時代、春秋戦国時代に起源を発するとされました。

 

二つめに、凧は紀元前3世紀、秦末漢初に始まるとする説があり、その根拠は、劉備とともに漢を建国した将軍、韓信が凧を作ったとするものです。宋代の高承は『事物紀原』第八巻の凧の項目に、次のように書いています。

「俗に言う凧は、古今相伝して云うに韓信が作ると。高祖の陳豨を征する也、信は謀りて中より起ち、故に紙鳶を作り之を放つ。以て未央宮の遠近を量り、俗に地を穿ちて宮中に隧入する也。蓋し昔は此の如く伝え、理或いは然る矣。」

 

ただ、これらの説はどちらかというと伝説の域を出ず、何れの話も正史には出てきません。

 

今のところ、凧の起源についての最も有力な説は、6世紀の南北朝時代を起源とするものです。『南史・侯景伝』に、こうあります。

「掃討平定のこと、援軍を望む。既に中外が断絶するに、羊車で献策する者あり、「紙鴉」を作り、長き縄を以て縛り、勅を中に蔵す。簡文は太極殿前に出づ。西北の風に因りて放ち、書の達するを願う。賊どもは之に驚き、是は呪いの術だと謂い、また之を射落とさんとし、其の危急なること此の如し。」

 

「紙鴉」は「紙鳶」のことで、簡文とは南朝梁の簡文帝蕭綱のことです。梁の武帝の太清三年(西暦549年)、侯景が叛乱を起こし、梁王朝の南京台城を攻撃した時の記述です。

 

司馬光『資治通鑑』巻162にも、これとほぼ同じ内容が記述されています。

「武帝の太清三年、羊車で紙鴟を作るを献策する者あり。胡三省の注では、紙鴟は即ち紙鳶也。今は俗に之を紙鷂と謂う。」

 

1930年代に金鉄庵が『風筝譜』という本を著し、その中でこう言っています。

「凧の最も古い名前は紙鴟で、それが創出されたのは遠く梁武帝の時代である。」

また、葉又新は『風筝』と題した文の中で『資治通鑑』と『北史』を引用し、これらを根拠に次のように断言している。

「これらから、今から1500年前には既に凧が存在し、且つ人を載せる実験が行われたことが分かる。」

 

これらの凧の起源説の根拠は、限られた古書の記述に基づいているのですが、残念ながら今なお当時の凧の実物は発見されていません。しかし絵画や陶器の装飾紋の中には、当時の凧の形を見ることができます。

 

古代の凧の呼び方は様々で、時代が違えば、用いられる名前も異なっていました。歴代の名称を集めてみると、紙鳶、風鳶、鷂子、風鷂、紙鷂、紙鴟、紙鴉などがありました。これらの名前は何れも鳥の名前を借りたものであり、ここから、最初に凧を発明した人は、おそらく空を飛ぶ鳥から啓発を受けたのだろうと推察できます。

 

唐代末期、ある人が紙鳶に琴弦を取り付け、風に当たると音が出るようにしました。音は楽器の「筝」、日本語の琴が鳴るようであったので、ここではじめて、現代中国語で凧の意味である「風筝」の名称が現れました。高駢は「風筝」の詩を詠みました。「夜静かに弦声は碧空に響く、宮商は信任し往きて風来る、かすかに曲に似たり、初めて聴くに堪え、また風吹くにより別の調べに中らしむ。」この詩の意味を察するに、作者が詠んだ「風筝」は琴の弦を取り付けたものであったに違いありません。後に、またある人は凧に竹笛を取り付けました。明代、作者不詳『詢蒭録』にこう書かれています。「初めて五代漢の李業が宮中で紙鳶を作り、糸を引きて風に乗るを戯れとなし、後に鳶首に竹を以て笛と為し、風を入れて声を作すこと筝鳴の如し、俗に風筝と呼ぶ。」これは五代十国時代に竹笛付きの「風筝」が始まることを言っています。

 

凧が普及し娯楽用品になるのは、五代十国時代以降のことです。宋代、凧はようやく広くの間に普及しました。南宋の『西湖老人繁勝録』の「諸行市」の項目によると、「京都に四百十四行有り」、その中に「風筝」が含まれています。このことから、凧の制作は既に職業化され、その販売業者も確立していることがわかります。宋代の風俗の記述によれば、清明節に凧を揚げることは次第に風習として根付いていました。

 

 

明、清時代、凧の制作、揚げて飛ばす技術は何れも高いレベルに達し、凧は既に成熟段階に入りました。明代の凧の実物はもはや見つけるのが難しいですが、古い絵画、陶磁器、彫刻などの装飾図案の中に、明代の凧のイメージを見ることができます。台湾の故宮博物院収蔵の明代の斗彩酒杯には、盃の外側に子供が凧を揚げる図案が描かれています。凧の形は現在の「瓦片」、つまり屋根瓦(平瓦)の形に似ていて、長方形で、帯状の紙のしっぽが三本付いていて、極めてシンプルです。明代の青色絵付けの陶磁器「嬰戯碗」、「嬰戯罐」(子供が遊ぶ絵が描かれた碗や壺)には子供が凧を揚げる図案が描かれていて、凧の形は「屋根瓦」の形の角凧です。

宋・元磁州窯紅緑彩児童放風筝紋梅瓶

 

「瓦片」(屋根瓦の形)の形の凧(角凧)は民間で作られた凧のうちで最も広く普及したもので、俗に「屁股簾」と呼ばれます。三本の竹の棒で骨組みを作り、うち二本は方形の紙の上で交差させ、もう一本は上辺に横向きに置いて弓状に反らせ、下端には三本の帯状の紙のしっぽを付けます。凧のお尻に簾のようなしっぽが付いているので、「屁股簾」と呼ばれたのでしょう。角凧の出現は凧の発展の上で重要な意義を持ち、凧の成熟と普及を示すだけでなく、人々が凧が飛ぶ原理を十分に理解したことを証明しています。凧の飛ぶ科学的なしくみを十分に理解してはじめて、このような簡単な構造が採用されるようになったのです。今日でも角凧は変わることなく中国の子供たちの愛するおもちゃであり続けています。

 

凧はおもちゃとして幅広く普及し、中国社会の各階層で用いられ、一般庶民だけでなく、高官貴人や宮廷の貴族の間でも凧を揚げる風習が根付きました。文人達は凧揚げを気晴らしの行為とし、凧揚げを詠んだ詩や文章を数多く残されました。

 

明代の画家、徐渭の『青滕書屋文集』の中に、作者創作の『風鳶図詩』25首が掲載され、詩の中ではこのように書かれています。

「竹を縛り凧に糊付け鳥を作り飛ばすも、天気が崩れ雨でびしょ濡れになった。明日の朝は清明節なので、飴(麦芽糖)を柳市の西に買いに行こう。」

「揚子江の北も南も凧揚げをする人でいっぱいだ。高く揚がった凧、低い凧、それぞれ天空を旋回している。春風は古来気まぐれで、風任せに飛ばしたら笛を失った。」

 

清代、凧の数、品質、種類は史上最高のレベルに達し、凧はひとつの専門の手工芸技術になりました。凧の設計、制作には見栄えがたいへん重視され、様々な物に形を似せた凧が出現しました。

 

古典の名著『紅楼夢』の第七十回では、大観園の人々が凧を揚げる情景が詳細に描かれていますが、これについてはまた別の章で紹介します。『紅楼夢』の作者の曹雪芹は、彼自身が凧の設計や制作をしていたようで、関連する著作も発見されています。

 

凧を揚げる時期については、わりと強い季節性があり、その理由は自然や気候が凧揚げに強い影響力を持つからでした。宋代以降、春に凧を揚げるのが恒例になりました。清明節の前後に、都市に住む人々の多くが、郊外の広い空き地で凧を揚げました。宋の高承は『事物記原』の中で紙鳶を「季節の風俗」のひとつとして取り上げましたが、それは凧が季節性を持っていたからです。清代には、春に凧揚げが盛んに行われましたが、『紅楼夢』で、大観園で暮らす人々が凧揚げをした時期は「仲春」(陰暦の二月)でした。清の李声振が『百戯竹枝詞』(「竹枝詞」は七言絶句に似た漢詩の一種)の中で、「百丈に糸を遊び紙鳶を揚げる、芳郊の三女、禁煙の前」と詠んでいます。「禁煙」とは即ち清明節の前の寒食節(この日から3日は火を使わず、冷たいものを食べた)のことです。一方、これら北方の習慣とは異なり、南方各地には秋に凧を揚げる習慣があり、福建省では多く九月九日の「重陽節」に凧揚げをし、清末の風俗画家、呉友如の『紙鳶遣興』図の題詞に、「閩中の風俗に、重陽の日に人々は鳥石山の山上や崖で凧揚げを競うを楽しみとする」とあります。

呉友如『紙鳶遣興』

 

清の人々の凧揚げの情景は多く絵画作品の中に見られ、『呉友如画宝』の中にも子供が凧揚げを競うのを描いた絵が見られます。絵の中で、五人の子供が郊外の古墓の付近で一緒に遊び戯れていて、ひとりは地面にしゃがんで凧糸を結んでおり、別の二人の凧は既に上空に揚がっています。一方の凧は硬い翼(上下2本の竹を細く裂いた棒で翼の周囲を固定し支えている)の蝶々で、もう一方の凧は円形の(竹を裂いた棒を曲げて、円形の周囲を固定し支えた)平面形の凧。傍らでは二人の子供がそれを見物していて、その情景が生き生きとし真に迫っています。

『呉友如画宝』放風筝図

 

『北京民間風俗百図』の中にも凧揚げの絵があり、絵の端の題字にこう書かれています。「これ中国の凧揚げの図也。春季になる毎に、無事の人、竹ひごで胡蝶や様々な飛禽を作り、上に糸を一条結び、戸外の空に放ち、人は仰面して之を視るに以て空気を吸い、所謂衛生也。」

『北京民間風俗百図』

 

明清の両時代の文人や読書人、一般庶民は皆、凧をたいへん愛好しましたが、皇帝は人々が城内で凧を揚げるのを禁じました。その理由は、古代の伝説で韓信が凧を使って未央宮(漢王朝の宮殿)の寸法を測量し、地下にトンネルを掘って宮廷に侵入し反乱を起こそうとたくらんだことに起因していると思われます。このような伝説は、一般には伏せられていましたが、宋代に至ってようやく高承の『事物紀原』に記載されました。明清の両時代、皇帝は先例により似たようなことがまた起こるのを恐れ、明文をもって城内で凧を揚げるのを禁じました。明朝の人、劉侗、于奕は『帝京景物略』の中でこう言っています。「燕では昔、風鳶戯があり、俗に亳儿と言ったが、今は既に禁じている。」ここで指しているのは、城域内で凧揚げを禁じていることでした。反乱防止から始まり、明文をもって凧揚げを禁止した事情は、おそらく今日凧揚げをする人には思いもかけないことでしょう。

 

以上が、中国の凧の起源と、その発展の歴史です。それでは次回、中国の凧の種類や特徴について、紹介していきたいと思います。