中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

沈宏非《食相報告》を読む: 尋羊(羊を尋ねて)(2)

2011年12月26日 | 中国グルメ(美食)

 (新疆の羊の丸焼き)

  さて、羊肉を食べることの功能は分かりましたが、それには一つ、難問があります。そう、あの独特の臭いです。この臭いに、どんな対処方法があるのでしょうか。
  そして最後に、羊好きの沈宏非先生は、羊の丸焼きを注文、思う存分堪能します。

■[1]
 ( ↓ クリックすると、中国語原文が表示されます)


・待見 dai4jian4 好む
・臊 sao1 動物臭い。獣臭い。
・汚穢 wu1hui4 不潔である
・採擷 cai3xie2 摘み取る

  “燥熱”以外に、羊肉が漢人に好まれないのは、あのきつい動物臭があるからである。上海の方言では、こうした料理の臭いのことを“羊臊臭”、「羊臭い」と言われる。

  肉の供給が十分でなかった時代には、たとえ獣臭くても、鼻をつまんででも、羊肉は食べなければならなかった。それと同時に、獣臭を恐れる人たちはずっと獣臭との戦いを止めなかった。最も初期の獣臭を取り除く方法は、《呂氏春秋》によれば、「火で以てこれを制御する。時にすばやく、時にゆっくり、臊(獣臭さ)を去り膻(生臭さ)を除き、必ずこのようにして調理する」とある。

  東方の羊食大国として、インド人も羊臭さを恐れる。カレーの発明は、「獣臭さを除く方法」を探究して生み出された副産物と言われる。仏教伝説では、「汚れている」ので豚は食べず、牛はシャカムニ仏の乗り物であるので、食べてはならず、ゆえに羊肉(または鶏)が主要な食肉となったようである。けれども羊肉は生臭く、調理が難しく、しばらくは食べることができなかった。シャカムニ仏はこのことを知り、内心たいへん同情し、それで人々に香りと辛味を含んだ樹木、樹皮、草の根を使って羊肉を調理するよう教え導いた。人々は、これらの調理を経た羊肉を食べて、思わず“kuri”(インド語で「たいへん美味しい」、或いは「No.1」の意味)と叫んだ。これがすなわち、カレー(curry)の由来である。

  インド人より更に羊臭さを恐れる中国人は、カレーを発明はしなかったが、私たちの手には、同様に樹木、果実、樹皮、草から摘み取られた漢方薬が、しっかりと握られていた。しかしながら不幸なことに、あまりに多くの薬材が羊臭さを覆い隠すと同時に、羊肉の美味までも徹底的に封殺してしまった。この他、羊がまだ羊肉に変わる前に羊臭さを摘み取ってしまう「科学的」な方法を発明した人もいる。羊にビールを注ぎこむことで、この方法で羊臭さを大幅に弱めることができると言われる。


■[2]


・聞風喪胆 wen2feng1 sang4dan3 [成語]うわさを聞いただけで肝をつぶす。
・可貴 ke3gui4 貴ぶべき。称賛すべき。

  私はずっとこう信じている:袁枚が後世の追従者の模範となることができたのは、たいへん大きな程度、彼の飲食における開放的な態度と関係がある、と。彼は《随園食単》の中で、こう書いている:「牛、羊、鹿の三つの家畜は、南方の人がふだん食べる物ではない。それゆえ調理法を知らないといけない。」彼の“雑牲単”に挙げられている羊肉のメニューは、羊の頭、蹄、煮凝りから、羊の内臓のスープ、羊肉の煮込み、羊肉の細切り炒め、更には羊肉の焼き物に到るまで、「穴をあけた胡桃を加え、生臭を取り去る」という羊肉の煮込みの「古法」を紹介しているが、全体的に見て、多くが鶏のスープ、香草、さいの目に切った筍、甘酒、胡椒、刻み葱、米酢などのありふれた味付けで、別段、特別に強力な獣臭さを除く措置も取っていない。とりわけ、称賛し難いのは、南方人として、袁枚が今日に至るも一般の南方の獣臭さを惧れる人たちが、そのうわさを聞いただけで肝をつぶすという「羊の焼き物」を記載していることである。「羊肉を大きな塊に切り、重さは五から七斤くらい、これを鉄の叉で刺し、火の上で焼く。味は果たして甘くサクサクしていて、宋の仁宗が夜中にふとこれを食べたいと思ったのも頷ける。」


■[3]


・黙黙無聞 mo4mo4 wu2wen2 [成語]名前が世に知られていないこと。無名であること。
・悶騒 men1sao1 見かけは沈着冷静を装っているが、内に熱い想いを包含している人。
・哨 shao4 軍隊が見張りや偵察のために設けた立哨場所。
・訛鬼食豆腐 e2 gui3shi2 dou4fu 鬼に誤って豆腐を(人間の肉と思って)食べさせる。広州の俗語で、「相手の言うことが信用できない」の意味。

  羊臭さを厭がるかどうかは、確かに民族や個人の間で差があるが、羊肉が美味であるか否かについて言えば、私は、羊臭さは羊肉の分けることのできない一部であり、したがって獣臭さを除く処置は実際、あまり力を入れてやり過ぎない方が良く、ちょうど良い頃合いが良い。

  しかし、「美食天国」と称され、ずっと「羊城」の美名を頂いている広州は、漢方薬を食べて育てられ、したがって獣臭さや生臭さが除き尽くされた海南の「東山羊」以外は、本物の「臭い羊」を食べようと思っても、長い間、それは天に昇るよりも難しいことだった。羊肉をメインにしているレストランも若干はあるにせよ、酒楼、食品店の林立する羊城に在っては、秘密の「見張り場所」で、人知れず「想いを内に秘めて」いるに過ぎない。どうか広州の漢人よ、少しは羊臭さにも触れてほしい。これを捧げ持つのは「鬼に豆腐を食わす」より難しいだろうから。


■[4]


・博格達 bo2ge2da2 パゴダ(pagoda)の音訳。卒塔婆、仏舎利塔のこと
・閑言砕語 xian2yan2 sui4yu3 [成語]くだらない話。

  幸い、我ら中華は土地が大きく物産が豊富で、各省、市の間には少なくとも羊肉の流通上の貿易障壁は無い。私のような羊きちがいにとって、遂に雲が開き、月の明かりが見える日がやって来た。天河時代広場のそばの「博格達美食楽園」こそ、羊きちがい達の楽園である。馬肉、鹿肉、アカシカの肉は傍で待っていなさい。すぐ主題に入ろう。羊、羊のモモ肉のローストをください。羊の丸焼きとその臭いところをください。それ以外は結構。思いっきり楽しむ前に、一点覚えていてほしい:熱の力で羊肉の臭みを炙り出して後、酒はより一層羊肉のあちらの効き目を誘発することができる。年代物の紹興酒は悪くない選択だが、「博格達」のワイン・リストには、嬉しいことに、トルファン産の「楼蘭干紅」が載っている。私個人の経験では、これは最も良い国産の赤ワインである。惜しいことに産地から直接西方に輸出されるので、北京、上海、広州では見かけるのが難しい。西域の赤ワインは羊肉の最良のパートナーである。このように言うのは根拠がある:「羊を料理し牛を屠ることを、しばらくは楽しみとする。この後には当然、三百杯の酒を痛飲するのだから。」どうして豚でもなければ鶏でもないのか。原因は李白が漢人ではないからで、当然、羊臭さも恐れない。

  くだらない話はさて置き、涼しい季節に入り、また、羊肉を食べるのに良い季節となった。寒い夜、レストランの部屋を予約し、羊の丸焼きを一匹、羊きちがいを7、8人連れて行き、お供は「楼蘭干紅」、部屋の入口を閉め切って、ナイフを振り上げ、大いに食べよう。羊肉を食べると、あそこも元気もりもり、この楽しみは尽きることがない。



(「博格達美食楽園」の羊の丸焼き)

【原文】沈宏非《食相報告》四川人民出版社2003年4月より翻訳

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沈宏非《食相報告》を読む: 尋羊(羊を尋ねて)(1)

2011年12月24日 | 中国グルメ(美食)

  今回は、羊を取り上げます。日本人はあまり羊を食べないので、中国に行って火鍋を食べ、街角の羊肉の串焼きを見ると、羊は中国では一般的な食べ物のように思いますが、実は中国でも、羊肉のあの独特の臭みは敬遠されるそうです。それでは、沈宏非は羊をどう考えているのでしょうか?
  前半は先ず、中国文化と羊の関わり、そして羊肉の効用について、述べています。

■[1]
 ( ↓ クリックすると、中国語原文が表示されます)


・豕 shi3 豚
・畜 chu4 禽獣。主として家畜を指す。

・饌 zhuan4 ごちそう
・鳳毛麟角 feng4mao2 lin2jiao3 [成語]鳳凰の羽毛と麒麟の角。極めて得難い人や物のたとえ。
・天壤之別 tian1rang3 zhi1 bie2 天と地の違い

・倒数 dao4shu3 後ろから数える
・早八輩子 zao3 ba1bei4zi “八輩子”は何世代にもわたる長い時間のこと。大昔。
・羊大為美 yang2 da4 wei2 mei3 《説文解字》の説明で、「羊の大なるを“美”という」とある。
・乏善可陳 fa2shan4 ke3chen2 言うべき良いこと、優れた点が何もない
・干鳥 gan1niao3 ののしりのことば。
・楷模 kai3mo2 模範
・羊毫筆 yang2hao2bi3 白ヤギの毛を使って作った筆。羊やヤギの毛は軟らかく、墨をよく吸うので、滑らかで力強く、豊かな文字を書くことができる。

  《三字経》は既に明確に私達にこう告げている:「馬牛羊、鶏犬豚、この六つの獣は、人が飼っているものである。」漢語文化の中で、“美”“鮮”“吉祥”など重要な概念が皆、羊と関係があるとしても、私はまた次の事を発見した:漢族の人間も羊を飼うが、羊を食べることはあまり好きではない、或いは、羊の肉を食べるということからは、終始、力が湧いてこない。

  各地の漢族のごちそうの中で、羊肉を中心にするのは、実際、鳳の羽や麒麟の角を得ようとするようなもので、極めて珍しい。西北、東北、華北一帯の漢族住民の羊肉料理は、中原や東南沿海地域一帯よりも豊富であるが、それは主に少数民族の飲食の影響を受けたからである。資料によれば、中国には現在、羊が約2億匹おり、世界でも羊の生産大国であるが、食用の羊の開発はたいへん遅れており、現在国内の一人当たり平均の羊肉消費は2.5キロで、これと他の肉類とは天と地の違いがある。(一人当たり平均の肉の消費量は45キロで、それには鶏、アヒル、ガチョウ、豚、牛、羊が含まれる。)

  これと同時に、中国の羊の牧畜業は世界の先進レベルとは大きな隔たりがあり、ヤギの平均体重は11キロしかなく、世界でも後ろから数えて二番目である。たとえ、私たちが地球上の全ての羊を食べる民族の中でも早く、大昔に既に「羊の大なるを“美”という」という確固とした道理を悟っていたにもかかわらず。

  これと同時に、私たちは羊の総合開発、例えば、羊毛、羊の皮、更には羊の胎盤の物質の類に到るまで、とりたてて言うべきことが何も無く、遂には心の中でいつもこう思うようになった:こうなったら、羊を飼ったところで、どうなるものでもない。歴史上あの有名な羊飼いの孤独な姿は尚、神に忠節を誓う道徳的模範の意味があるが、羊の毛の筆もあまり使う人は多くないのだから。

■[2]


・肤浅 fu1qian3 学識や理解が浅い。不十分である。皮相的である。

  羊の問題では、中国もアジアで孤立している訳ではなく、日本は更にそれを上回り、それ以上の国は無いだろう。彼の国には「羊羹」と呼ぶお菓子があるにもかかわらず、羊とは全く関係が無い。村上春樹によれば、日本は江戸幕府末期まで一匹の羊もいなかったに違いないと思われる。彼は《羊をめぐる冒険》の中でこう書いている:「今日でも、日本人は羊に対する理解が極めて浅い。要するに、歴史上から見て、羊という動物は、一度も生活面で日本人と関係を持ったことがない。羊は国によってアメリカから導入され、飼育され、そして打ち捨てられて顧みられなくなった。これが羊である。戦後、オーストラリアとニュージーランドとの間で羊毛や羊の肉が自由に輸入できるようになったので、そのため日本では羊の牧畜は利益を見込むことができなくなった。羊があまりかわいそうだと感じないのは、言ってみれば、これは日本の現代そのものであるからだ。」

■[3]


・維京人 wei2jing1 ren2 バイキング
・按部就班 an4bu4 jiu4ban1 [成語]物事を進めるのに、一定の順序に従う。段取りを踏んで事を進める。

・執着 zhi2zhuo2 執着する。
・建制 jian4zhi4 機関や軍隊の編成。行政区画などの制度。

  「帝国時代」というゲームをしたことがある人なら皆知っているだろうが、北欧のバイキングであれ、モンゴル人であれ、中国人であれ、日本人であれ、イギリス人であれ、最も古い暗黒時代には、必ず村落の住民を男女に関わらず動員し、真面目に羊を捕え、飼育し、それを屠らなければならなかった。こうしてはじめて、他に遅れをとることがなくなり、他の部族から殴られることがなくなり、「地球の住民」から除籍されることがなくなる。全てがこうして一定の順序に従い盛んになり、発達してきたのである。

  もちろんこれはゲームに過ぎず、あなたが歴史の原著に執着し、100%忠実な「中国」を代表するゲーマーであるなら、従順な綿羊を捕まえず放っておいて、専ら人手を組織しあの強暴なイノシシを包囲して捕えようとするだろうか。実際、漢民族は少なくとも人口の上の隆盛、発達、組織編成や制度面の進化、モデルチェンジで、豚肉の他、当然羊肉からも離れられないが、ただ私たちは羊に対する活動の重点が、千年以上にも亘って、「如何に食用の肉が不足している状況下で、羊肉を浪費することなく、しかも羊肉を食べる時に引き起こされる種々の危害を避けるか」の解決案を検討することに著しく偏ってきたのである。

■[4]


 ・致力 zhi4li4 力を注ぐ。努力する。
・温中去函 “温中祛寒”の間違いと思われる。“温暖中焦,祛其寒邪”のことで、“中焦”とは、脾臓、胃を指す。つまり、脾臓や胃を温め、悪寒や胃の病気を取り除くこと。

・立竿見影 li4gan1 jian4ying3 [成語]効果が直ちに現れる

  社会進化の一般の規律から見ると、一つの民族の特定の食物の選択、つまり何を食べ何を食べないかということは、その民族の狩猟採集時代の栄養状況と生態環境に関係する。しかし、漢民族の情況について見ると、何を食べ何を食べないかという問題は、更に余分に、哲学的な考慮が存在する。陰陽五行の原則に対応し、羊肉は五行中の火に属し、五臓中の主たる心で、五色は赤、五味は苦に属し、五嗅は焦に属す。総じて言うと、羊は容貌は従順だが、その肉は極めて気性の激しい危険な食品なのである。

  したがって、中国の歴史上、羊肉の開発に力を尽くしたのは、通常、料理人ではなく、医者であった。孫思邈は羊肉に対し最も良く研究し、羊肉はうまく使うと、大いに気や血を補い、脾臓や胃を温め、悪寒や胃病を除き、正を養い邪を取り除く。どうか孫医師の書いた「羊肉スープ」の処方を見てほしい。羊肉、茯苓(ぶくりょう)、黄耆(おうぎ)、生姜、甘草、独活、肉桂、人参、麦冬、生の地黄、棗(なつめ)。主に婦人の産後や病後の咳、腹痛、虚弱、風邪気味で、症状が回復しない情況を治癒する。

  私が敢えてこう保証する:ご婦人がこのたいへん苦い、古方に則った羊肉スープを一碗飲めば、羊肉への辛さが必ずや自分の病気の痛さを超越するだろう。もちろん、成年男子は必ずしもそうは感じないだろうが。漢方医の指摘によれば、男性のあそこの悩みは、冬に羊肉を食べれば、しばしば強い壮陽作用が得られ、たちまち効果が現れるだろうと。

■[5]


 ・満目 man3mu4 目に見える限り。
・瘡痍 chuang1yi2 瘡蓋のまだできていない、口のあいた傷。創痍。

・燥熱 zao4re4 本来の意味は、乾燥した熱さ。漢方では、“燥火”ともいう。症状は、目の充血、歯の腫れ、喉の痛み、耳鳴り、鼻血、空咳、かっ血。
・暴躁 bao4zao4 怒りっぽい。苛立つ。
・挨 ai2 我慢する

・另当別論 lingdang1 bie2lun4 以前の見方や結論は正しいかどうか分からないので、もう一度別に議論しなければならない。
・血性 xue4xing4 不屈な気性。気概。
・剽悍 piao1han4 剽悍(ひょうかん)である。勇ましい。

・陡然 dou3ran2 突然に

  漢民族の飲食文化は羊肉に対して慎重な態度を取ってきた。それは主に羊肉の「性甘にして、大いに熱す」(《本草綱目》)による。特に嶺南地区(つまり、広東、広西地方)の広大な肉食者について言えば、羊肉というものは、ひと口食べれば容易に「のぼせ」を生じ(漢方で言う“上火”)、人は一度のぼせると、口臭が止まらず、満身創痍となり、悪くすると、万病を引き起こすことになる。

  中国人だけでなく、羊肉の大好きなイギリス人は遅くともヴィクトリア時代には羊肉の「乾いた熱さ」(“燥熱”)の道理を理解していた。《じゃじゃ馬馴らし》の中で、ペトルーキオは妻に言った:おまえに言っているんだよ、ケイト、そいつはもう焦げてしまっている。それに、医者も以前、羊肉は食べるな、と言っていた。というのも、羊肉は食べると脾臓や胃を傷つけ、気持をいらいらさせるからだ。私たち二人の気性は元々怒りっぽいのだから、やはり少々空腹を我慢して、こんな焦げた肉は食べないでいよう。」

  知るは一時のことだが、食べるかどうかは別の問題だ。まだ科学的に証明されていないが、私は、羊肉は人に“燥熱”を起こさせると同時に、食べる者に荒々しい気性をもたらす。中国の西北、東北一帯の食羊民族は、体格や体力が穀物を主食とする中原や東南沿海地域の人々よりはるかに勝っているだけでなく、性格もずっと勇ましい。

  日本では、「肉食禁止令」が1200年の間続けられ、明治5年以前は、日本人は羊肉も食べなかった。しかし日本は明治維新後、突然凶暴になり、真珠湾でも「トラ、トラ、トラ」と叫びはしたが、それは決して「羊、羊、羊!」を食べたからではなく、集団で羊肉同様「荒々しい」性格を持つ牛肉を食べるようになったからである。

■[6]


・酒保 jiu3bao3 酒屋の店員
・叵耐 po3nai4 我慢ならない。許せない。
・価 jie(軽声)数詞の後につき、語調を整える

・明摆着 ming2bai3zhe 目の前に並べてあるかのように、明らかである。

  荒くれ者、例えば黒旋風の李逵は、羊肉を食べ出すと尚更命知らずとなった。《水滸伝》第三十七回「及時雨は神行太保に会い、黒旋風は浪里白条と闘う」で、宋江は李逵、戴宗の二人に会うと、心から喜び、共に潯陽江の畔の「琵琶亭酒館」に行くと、飯を食った。何杯か酒を飲むと、宋江はこの時、「辣魚湯は酒の酔いを醒ますのに最も良い」と思った。魚湯(魚のスープ)が来ると、李逵は先ず宋江が「本当に美味しくない」と思っていた魚湯とスープの中の塩漬けの魚を手で直接すくい上げ、「骨もろともいっしょに噛み砕いて食べてしまった。」その後、「ちゃんと羊肉だけ売るよ、牛肉は売らないよ」と呼ばわっていたその店の店員に怒って言った:「こんな無礼は許せない。騙して私に牛肉ばかり食べさせ、羊肉は売らずに私に食べさせないなんて!」羊肉がテーブルに持って来られると、「李逵はそれを見ると、何も聞かずに、大きな塊を掴んで、夢中で食べ出し、あっという間に、この三斤の羊肉は無くなってしまった。」

  李逵は荒くれ者だが、このことは彼が美食家になることを妨げはしないようだ。彼は漢字の偏や旁を分解する方法を多少は知っていたようで、明らかに、“魚”に“羊”を加えると、“鮮”の字になる。

(この項続く)


【原文】沈宏非《食相報告》四川人民出版社2003年4月より翻訳

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沈宏非《食相報告》を読む: 皮殻~ 食べ物の皮の持つ意味について考える

2011年12月18日 | 中国グルメ(美食)

  久しぶりに、沈宏非のグルメ・エッセイを紹介したいと思います。お題は、食べ物の皮や殻について。これは、おそらく、中国人の大好きな瓜子(クワズ)、つまり西瓜やヒマワリの種を炒ったものを食べながら、着想を得たのではないかと思います。食べ物に付いている皮や殻は食べられない。かといって、これを予め剥いて売ったら、瓜子の美味しさは半減してしまうだろう。どうしてか。
  それでは、以下に全文を見ていきましょう。

■[1]
 ( ↓ クリックすると、中国語原文が表示されます)


・脾 pi2 脾臓。

  厚いものもあれば、薄いものもある。軟らかいものもあれば、硬いものもある。私たちの日常の食べ物メニューに入れられている大部分の食物には、皆外側に一層の殻がある。軟らかいものはそれを皮と呼ぶ。たとえ麦や米といった最も基本的な食物も、例外ではない。

  相対的に「肉」や「核」を摂取目的とする飲食行為から言うと、皮や殻の存在は論理上の抵抗を意味している。脾臓や殻は元々、動植物が生存、或いは自らを保護するために与えられた道具である。人類の立場に立てば、皮や殻は飲食の障碍であるだけでなく、食物の一部分でもある。明らかに、こうした二面性は火の発明と調理の進歩によって決定された。人類以外の大部分の捕食者は、一部の霊長類哺乳動物と木の実を食べることを善くする鳥類を除いて、皆食物の皮や殻を取り除いたり、それを加工して食品にする技術手段を持っていない。

  たとえ人類が、皮を剥き、皮や殻を加工する技術が絶えず進歩したとしても、皮や殻を持った食物は次々に現れて尽きることがない。けれども、皮や殻は文化の上でのあの反文明、或いは「非礼」の潜在意識は依然としてそれをまき散らし、消し去ることができない。正式な宴席で、あまりに多く皮や殻の付いた食物が出され、間違いなく宴席の格式を下げている。賓客が自ら手を動かして皮や殻を除くというのは、尚更避けるべきことである。自らの手で上海ガニの殻をはずすあの瞬間の愉悦については、私は嘗て「アリババが宝物の隠された洞窟を開いた」ことになぞらえたことあるが、それでも大多数の高級レストランでは、蟹の殻は慇懃に事前に取り去られている。

■[2]


・貪婪 tan1lan2 貪婪(どんらん)な。貪欲な。
・周扒皮 zhou1 ba1pi2 高玉宝の小説《半夜鶏叫》に出てくる悪徳地主で、本当の名は周春富(“扒皮”は「皮をはぐ」ことだが、「暴利をむさぼる」という意味もある)。常雇いの作男(“長工”という)は決まりでは朝は鶏が鳴くと起床して労働を始めることになっていたので、鶏の鳴き声を真似て、作男たちにまだ夜中の内から働かせた。

・喜聞楽見 xi3wen2 le4jian4 [成語]喜んで見聞きする。人々に歓迎されること。
・愛不釈手 ai4 bu4 shi4shou3 [成語]大切にしていて、手放すに忍びない。
・味同嚼蝋 wei4 tong2 jiao2la4 [成語]蝋を噛むような味だ。味もそっけもない。
・乏味 fa2wei4 味気ない。面白味がない。

・咬牙切歯 yao3ya2 qie4chi3 [成語]切歯扼腕(せっしやくわん)する。恨み骨髄に徹する。
・恨不得 hen4bude 何かをしたくてならない。じれったい。もどかしい。
・齦 ken3 齧る
・血肉之躯 xue4rou4 zhi1 qu1 血の通った肉体
・逓 di4zeng1 少しずつ増やす

  ピーナツ、くるみの類の値段の安いものは、市場では皮を剥いたものが高い。ピーナツは殻を剥かないといけないだけでなく、ピンク色の内側の皮も取らないといけない。私は小学校に行っていた頃、ある年、毎週木曜の午後に南京東路の有名な揚州飯店へ行って、集団労働に参加したことがある。内容は、ピーナツの皮を剥くことだった。アルバイトの熟練工の見方に立てば、ピーナツの実を一粒一粒きれいに皮を取り除くのは、利益に貢献し調理上の必要に因るというよりもむしろ、文化上の洗礼、更には割礼とさえ見るべきであろう。そして、皮を剥く、或いは殻を取り去る手段は多少、暴力的、貪欲的な色彩を帯びている。小地主の“周扒皮”は鶏の鳴き真似をして、法律で決まった仕事時間を人為的に前倒しにしたことで有名で、同時に他人の剰余価値を搾取する快感を味わった。

  これに比べ、皮や殻は煮ても軟らかくならず、たとえ軟らかくなっても簡単には飲み込めず、風味については尚更問題にもならない。

  殻は食べることはできないが、私たちがものを食べる時に、殻はその存在が、その存在が無くなる過程がたいへん重要な一場面に変わることがある。とりわけ、干した木の実類を食べる時がそうである。例えば、私たちが大好きで、手放すことのできない西瓜やヒマワリの種(つまり“瓜子”、クワズ)、胡桃、ピスタチオの類は、それを私たちが「美味しい」と感じるのは、その半分が殻を剥く楽しみに関係している。お店で高値で売られている殻無しの“瓜子”や胡桃の剝き身は、一つの工程を省くことができるが、食べてみると面白みに欠け、味もそっけもなく、面白味がないことといったら、まるで序言を読み終わらないうちに誰が犯人か分かってしまう推理小説のようだ。

  ある人を骨の髄まで怨んでいる時、私たちは切歯扼腕して言う:「あいつの肉を食べ、血を飲み、骨を齧り、あいつの皮膚の上で寝てやりたい。」こうした表現方式は、表面上は一つの血の通った肉体を、生理構造の上から分解してやる過程と完全に一致するが、実は文明から野蛮へとだんだんと逆方向に向かっていることを表していて、絶えず積み重なっている憤慨を表わしている。

■[3]


・佛跳墻 fo2tiao4qiang2 福建名物の高級スープで、その匂いにつられ、坊さんが垣根を飛び越えて来るほど美味しい、という面白い名前が付いている。
・登基 deng1ji1 即位する。
・醇厚 chun2hou4 においや味に厚みがある。こくがある。

・魚皮花生 yu2pi2 hua1sheng1 厦門名物のスナック菓子で、ピーナツの周りに米粉の衣をまぶしてローストし、甘辛い味付けをしたもの。米粉の中に魚皮の粉末を混ぜて風味付けしたので、この名がある。
・生魚 sheng1yu2 “烏鱧”wu1li3、俗称“黒魚”と呼ばれる。ライギョ(雷魚)。
・鯇魚 huan4yu2 ソウギョ(草魚)。

  私たちの飲食や調理の経験では、ある種の皮や殻は、敷いて寝ることもできれば、食べることもできる。どちらになるかは、基本的には、それらの強靭さと味によって決まるのである。

  豚の皮は最もよく見る食品である。単純に豚の皮で作られた大衆化された美食といえば、先ず挙げられるのが中国北方の“肉皮凍”、皮の煮凝りである。こうしたゼラチン状の食物は、北方のレストランでは多くが前菜か、酒の当てとして出される。作り方は、豚の皮を鍋に入れてざっと煮て、それを拡げて冷ましてから細長く切り、再び調味料(塩、花椒、八角、醤油、及び葱、生姜、ニンニク等)を加えて、肉の皮が金色を帯びた赤色になるまでよく煮ればよく、後は静かに固まるのを待つ。

  東坡肉(トンポー肉)に皮を加えなかったら、色彩的に肉の層の美観を損なうというのは些細な事で、それにより、口当たりのしなやかさと軟らかさの対比と、それによりもたらされる快感が失われるのは、大きな問題である。一方では豚三枚肉の上層として、豚皮はゆっくりととろ火で煮込まれながら、絶えず下層へ染み通るゼラチン質こそ、東坡肉の美味しさの重要な部分である。

  明らかに、豊富なゼラチン質によって豚皮は喜ばれ、佛跳墻、フカヒレといった高級料理でも、豚皮の補佐無しには成り立たない。もちろん、王業成就後の即位式では、既に搾り取られてカスカスになった豚皮はとっくに人々の間に消えてしてしまっている。淮揚湯包(スープ入り包子)や上海生煎包(焼き小龍包)の美味しさは、尚更豚皮の煮凝りの餡の中での滅私奉公に頼っている。煮凝りの分子密度が高く、熔点が高いので、包子が十分に蒸されると、小麦粉の皮と餡が一方では豚皮のゼラチン質の一部を吸収し、同時に包子の空洞の中にこくのあるスープをかもし出す。烤乳猪(子豚の丸焼き)に至っては、食べるのはその皮の部分である。いわゆる“花皮乳猪”というのは、その表面が火で溶けているのか、それとも文化の“化”なのか、よく分からない。

  広東人は皮を食べる専門家で、魚の皮についての知識があるので、その料理は“魚皮花生”に止まらない。順徳の伝統的な前菜、“爽滑魚皮”は広東人の魚皮料理の傑作である。ライギョかソウギョの皮をざっと煮て、生姜、葱を加え、生臭を消したら食卓に出せる。調味料として生姜、おろしニンニク、胡麻油、醤油、酢を加える。これをお粥に付けたら、とってもHappy!

■[4]


・口腹之欲 kou3fu4 zhi1 yu4 飲み食いに対する欲望
・植皮 zhi2pi2 皮膚の移植をする。
・無影無踪 wu2ying3 wu2zong1 [成語]影も形もない。跡形もない。

  私たちは、既に殻付きの木の実を殻を剥きながら食べる楽しみについて議論したが、実は、天然の皮、殻以外に、人類は自分自身の飲み食いへの欲望や、ゲーム心理から、天然を真似て人工的、後天的な食物の皮、殻を作り、「皮を描く」仕事に従事してきた。

  人為的な「皮付き」の食品とは、例えば包子、餃子、ワンタンなどである。人造の「殻付き」食品は、つまり缶詰めに他ならない。実は、大多数の缶詰めの食品は決して美味しくない。けれども、これらの不味い缶詰めを開く為、私たちはどれだけの数の奇妙な工具を発明し、改良してきたことだろうか。こうした努力の目的は、単に缶詰めを開いてその中の「内容」を得るだけであれば、説得力はおそらくまだ不十分だろう。「開ける」、「開封する」ということ以外に、この過程や儀式の中で得られる無上の楽しみも考慮に入れないといけない。

  順徳の大良で始まり、西関の「文信」から広まり、盛んになった、有名なデザート、“双皮奶”は、売り物はその二層の薄い「牛乳の皮膜」である。これを作るのに、“双皮奶”の製造はたいへん煩雑である。先ずとろ火で牛乳に砂糖を加えて煮溶かし、三つの小碗の中に分けて入れる。冷却後得られる第一層は、牛乳が凝固してできた皮膜である。その後、つまようじで牛乳の皮膜の一角を持ちあげ、皮膜の下の液体の牛乳は別の大きな碗に移し、牛乳の皮膜が小さな碗の底に残るようにする。次に、割ってほぐした卵と大碗の中の牛乳を混ぜ合わせ、再び第一層の牛乳の皮膜が残っている三つの小碗に注ぎ入れ、蒸籠に入れてよく蒸すと、第二層の皮ができ、皮膚の移植手術はようやく完成である。

  こうした精巧な「人造革」以外に、もう一つ、動物の殻があり、元々食べられない物だが、あくまでもそれを使ってもう一度「殻の中から外に引きずり出す」という、幾分か猛獣の真似をして獲物を捉える過程を再現している。例えば、十分な大きさのホラ貝の中をほじくり出して空にし、身を包丁で叩いて細かくし、細かく切った豚肉と様々な調味料といっしょに混ぜ合わせた餡でもう一度殻の中に詰めたものを煮て、最後に殻ごと皿に盛る。この方法がもたらす美味とその形式が呼び起こす快感は、本質的にローランド・バルテスのストリップショーとたいへん似ていて、大切なのは「如何に脱ぐか」を中心とする「脱ぐ」過程であり、一旦すっかり脱いでしまったら、その意義もそれにつれ跡形もなく消えてしまう。

■[5]


・挑逗 tiao2dou4 思わせぶりな態度をしてからかう。欲しがる物を見せてじらす。
・挑衅 tiao2xin4 挑発する。けんかを売る。

・茂 mao4 豊富でりっぱである。書籍の宣伝文句で“図文并茂”(挿絵も文章も内容豊か)という表現を使う。ここでは、これをもじっている。
・包扎 bao1za1 包む。
・企及 qi3ji2 及ぶ。
・去粗取精 qu4cu1 qu3jing1 [成語]かすを除いて精髄を取り出す
・去偽存真 qu4wei2 cun2zhen1 [成語]偽物を取り去って本物を残す
・油然 you2ran2 感情が自然にわき起こるさま。

  皮や殻の先天的、或いは非先天的な存在は、食べる者に対する挑戦というより、むしろそれがこのゲームに多くの面白味を添えていると言うべきだろう。それはちょうど、魚を食べることを面倒くさがらない人は皆、魚の骨を、相手をわざとじらしているのだと思い、決して喧嘩を売っているとか、妨害しているとは考えない。それと同時に、リンゴの皮を剥くことも一つの技能となり、人に見せる絶技と成り得る。

  こういう遊びの精神は、しばしばそれに関係する人に潜在意識の上で知性と感性のどちらも豊富でりっぱだという気持ちにさせる。もし「包んで、それを解く」を基本モデルとする快感体験が感性の及ぶ極致とするなら(例えばグリム兄弟の《白雪姫》の中で、こう書かれている:王様は“卵の殻を剥くように”、白雪姫の脚の絹の靴下を脱がせました)、知性の面では、皮や殻を剥いて最後に食べられる肉や身を得るこの過程が、滓を除いて精緻を取り出し、偽物を取り去り本物を残し、ここからあちらへ、表面から中へと進む認識と実践の一般法則に完全に符合していて、ある種の直線的な快感が自然とわき上がってくるのである。

  経験的には、毎回正確に、皮や殻の中身は忠実に私たちの指が伸びてくるのを待っていて、「殻の外が中に入ろうとし、殻の中が外に飛び出そうとする」ような盲目的な混乱は永遠に生じ得ないとしても、認識から言うと、「剥離」の結果はしばしば虚無に向かう。銭鐘書先生のもう一つの未完の長編小説《百合心》、この題名は、フランス語の成語の“lecoeurd'artichaut”から採ったものだが、その意味は、人の心は百合の球根のように、一枚一枚剥がしていくと、最後にはただ虚無だけが残るというものだ。

  皮や殻の存在は、容易に私たちにこう信じさせる:真相はいつも覆い隠されているもので、「神秘のベール」は私たち自身の手で開けることができ、そうして真相は白日の下にさらされるのだと。けれども、推理小説で名高い日本の作家、安部公房は、嘗てドブガイという典型的な有殻動物を借りてこのように書いた:「実際、こいつは本当に貝の殻のようだ。こいつを叩けば叩くほど、こいつは固く殻を閉ざし、こいつを取り出す方法は何もない。無理にこじ開けると、こいつは死んでしまうだろう。だからどんな方法もない。ただこいつが自分で口を開けるのを待つしかない。」


【原文】 沈宏非 《食相報告》 四川人民出版社 2003年4月より翻訳

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于丹《荘子心得》[1]: 荘子何其人(4)

2011年12月07日 | 中国文学

■[1]
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・不謀而合 bu4mou2 er2he2 [成語](意見や理解が)はからずも一致する。偶然に一致する。
・穿透 chuan1tou4 (鋭利なものが)物体を貫く。貫通する。
・境界 jing4jie4 程度。境地。

   私たちの社会には多くの抗癌者クラブがあり、多くの抗癌スターがいる。実際、嘗ては癌と聞くと、それはほとんど死刑判決のようなものだった。しかし現在はどうして何年も生きることのできる人が出てきたのだろうか。それは心の持ち方であり、その人は楽観的なのである。彼自身が死の瞬間を恐れていないのに、どうして死を恐れるのだろうか。ここで言う死亡とは心の中での一種の暗示であり、実は荘子はずっと死を恐れない人であった。彼は恐れないという方法で、つまり“楽生”(生を楽しむ)の二文字で、つまりちゃんと生きることは、死を恐れるのに比べ、ずっと強いのである。この観点は、儒家の思想ともはからずも一致する。これはつまり、孔子が彼の弟子に答えて言った6文字、「未知生焉知死」である。人は、まだ生きるということが分かる程生きていないのに、どうして死んでからのことを考えようとするのか。この一点は、儒教と相通じると言うことができ、私たちにある種の温かい気持ちを与えてくれ、一種素朴な価値観である。つまり、「活在当下」、永遠にこの4文字である。人は今という瞬間を生きている。今という時に名を看破し、利を貫かせ、更には生死を恐れなくなれば、私たちの心の空間はなんて大きくなるだろうか。これが「大境地」である。


■[2]


・挂碍 gua4ai4 気がかり。懸念。
・田頭 tian2tou2 田んぼのあぜ。畑のそば。
・汗流浹背 han4liu2 jia1bei4 [成語]背中が濡れるほど汗をかく。びっしょりと汗をかく。
・樹蔭底 shu4yin1di3 木陰。
・哼 heng1 鼻歌を歌う。
・悠閑 you1xian2 ゆったりと。のんびりと。

  皆さんは、荘子はこんなに多くの事を看破したのに、消極的だと思われるか。彼について言えば、もう気がかりは何もない。それなのに彼はなお何を気にかけるのだろうか。実は、荘子の時代、心の中で判断しても、必ずしもそれが転化して行動につながらなかった。民間にこんな笑い話がある。二人の人が畑のそばにいた。一人は炎天下、一生懸命、麦を植え、汗びっしょりになっていた。もう一人は木陰でお茶を飲みながら、鼻歌を口すさんでいた。その後、畑仕事をした男はもちろん自分は勤勉で、道徳上あの怠け者に訓戒を垂れる資格があると思い、彼に言った:ごらんなさい、あなたはこんなに怠けて、今後どうやって飲み食いするつもりなのですか。あなたはどうして毎日こんなにたくさんの時間を浪費しているのですか。すると、涼んでいた男はのんびりと、こう言った:ちょっとうかがいますが、あなたはこんなに懸命に働いているのは、どうしてですか。豊作のためですよ。豊作は何のためですか。豊作だったら、取れた穀物を売ってお金になりますよ。涼んでいた男はまた問うた。売ってお金にしてからどうしようというのですか。麦を植えていた男は言った。お金ができたら、衣食で困ることがなくなります。またこのように炎天下になったら、私は働かないで、木陰に横になり、お茶を飲み鼻歌を歌い、のんびりと生活できます。すると、今涼んでいる男が言った:私はもうそういう生活を送っているんですよ。だから、私の今の生活は、あなたの未来の夢なのです。

■[3]


・遮蔽 zhe1bi4 遮る。覆う。見えなくする。
・隠約 yin3yue1 かすかなさま。はっきりしないさま。
・看中 kan4zhong4 気に入る
・成全 cheng2quan2 ある目的を達成するよう、助ける。尽力する。成就する。
・樊籬 fan2li2 垣根。障壁。
・浩瀚 hao4han4 広大なさま。(書物などが)多いこと。
・拘囿 ju1you4 こだわる。限定する。
・風発揚励 feng1fa1 yang2li4 精神を奮い立たせる。
・窘困 jiong3kun4 困窮する。

  しかし、皆さん考えてみてください。これは単なる笑い話だろうか。多くの場合、私たちはいつでも得られる事が、私たちの観念上の誤解によって隠されてしまっている。このように言うことができる:荘子は彼の本の中で、多くのかすかな彼の生活の影を残しており、この中の多くが儒家と互いにやり合っていると判断することができる。ただ、儒家が重んじるのは、永遠に大地の上での聖賢の道徳であり、好んで言うのは人が一生のうちで打ち立てた功績、業績であり、そのように努めることであるに過ぎない。一方、道家が重んじるのは、もっと高くて広い、天上にいる人之精神の自由であり、好んで言うのは人が最後に成就した後の超越である。こう言うことができる:中国の儒家思想は、社会という物差しで、人がなすべきことを担当するよう要求するが、道家思想は、生命というレベルで人が飛躍することを要求する。なすべきことを担当するというのは私たちの社会的な責任であり、超越というのは私たちの生命の境地である。

  だからこの意味から言うと、荘子の多くの物語を見て、あなたは彼の一連の生命哲学が、単に積極的か消極的かで論じるべきものではなく、私たちの生命の別の体系で打ち立てられた一連の参照事項であると理解することができる。荘子の言葉によれば、人生の至高の境地は、天地の間を勝手気ままに行き来すること(逍遥遊)である。つまり、内心の何重にも重なる垣根や障壁を看破し、宇宙の静けさや天地の広さの中に人生のあるべき位置を得、このような広大な座標系の上で、人をして真に人間らしくさせ、私たちの内心からこだわりを取り除き、私たちの精神を奮い立たせ、理想的な自己を形作り、現実の中の様々な困窮を、たちどころに看破できさえすればよく、永遠の生命に導かれ、このように逍遥遊の境地に遊ぶことは、私たち一人一人が永遠に追い求める価値のあることである。

     -*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

  以上、見てきましたように、荘子の語る人間像というのは、自然のままというより、先ずしっかりした自我を持ち、分をわきまえた上で、気張らず、自然体で人や社会に接するということではないかと思います。


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于丹《荘子心得》[1]: 荘子何其人(3)

2011年12月01日 | 中国文学

■[1]
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・無名火 wu2ming2huo3 怒りの炎。激怒。
・高高在上 gao1gao1 zai4shang4 [成語]お高くとまっている。指導者が一般大衆から遊離してしまっていること。
・呵斥 he1chi4 しかりつける。
・政績 zheng4ji4 官吏の在職期間中の成績。政治的な業績。
・唯唯諾諾 wei2wei2nuo4nuo4 [成語]唯唯諾諾(いいだくだく)。少しも逆らわず、相手の言いなりになる。
・点頭哈腰 dian3tou2 ha1yao1 ぺこぺこする。

  皆さんは、こんな話を聞いたことはないだろうか。誰でも分かることだが、人は時には激怒することがある。人に相談できないことだが、どんな役職にも就くことができない、或いは金儲けをしようと思ったが儲からないような時、人は公然とした理由にかこつけ、それを怒りに転嫁し、こうした怒りの炎は繰返し出現する。またこんな話がある:一つの会社、組織で、最もえらそうにしているのは、そこの社長である。この人は役職が最も高いので、いつでも部下の誰でもしかりつけ、その人を責めることができる。この仕事を、あなたはどうしてうまく出来ないのだ。あなたがちゃんとやってくれなかったら、私は業績を残せない。このポストをうまくやれなかったら、私は名誉を得られないと、全ての過ちをあなた一人の運営能力のせいにする。あなたの業務手腕がどうであるか、帰って反省してみなさい。彼の部下としては、ただ相手の言いなりになり、頷いて、はいそうです、と言うしかない。家に帰ると、この怒りの矛先は奥さんに向けられ、奥さんを大声で叱りつける。私は苦労して外で稼いできて、この家の名義を買い、そうしてはじめておまえはこうして楽に暮らしていける。けれどもおまえは家をちゃんと管理できないし、子供をちゃんとしつけられない。おまえは私にこんな生活を送らせるのか。奥さんをひとしきり口汚く罵ると、奥さんもただ頷いて聞いているしかない。それというのも、毎月この夫から金を受け取らないといけないからである。けれども、しばらくすると、気持がおさまらなくなり、子供を説教する。ごらん、私はおまえのためにこんなに苦労している。私はこの一生を差し出し、こんなに苦労しているのに、おまえは勉強に努力せず、今のこんな成績で、おまえは私にすまないと思わないのか。この子も、ただ頷いて聞いているしかないが、しばらくすると怒りがこみ上げてきて、この子はこの家で飼っている犬を罵り始める。ごらん、おまえはなんてわからず屋なんだ。上ではこんなに多くのおとなが僕をいじめるのに、家に帰るとおまえは相変わらず僕の言うことを聞かない。そして犬を殴りつける。犬は、主人の命令を聞かなければならないし、ここに住まないといけないと分かっているが、彼にも怒りの炎がある。彼は家では何も言う勇気がないので、しばらくして家の外に出ると、怒りの矛先を野良猫に向け、家を出るやずっと休まず野良猫を追いかけ、その猫に噛みつく。猫の方でも犬と喧嘩しても勝てないのが分かっているので、じっと我慢しているしかないが、その後この猫は必至でネズミを追いかける。なぜなら、ネズミの対してしか、猫の怒りの捌け口がないからである。実際、私たちがこのように言うと、一人の社長の怒りと一匹のネズミの忍耐の間にいったいどれだけの連鎖があるのだろう。これこそが私達人間社会の一つの隠れた規則である。実際、私達は一人一人心に怒りの炎を持っていて、私たちが本当に心安らかになろうと思うなら、ちょっと振り返って荘子を読んでみるとよい。これが心の中の原因によるものではないか、見てみよう。それは他人が私達にもたらした、たくさんの忍耐なのか、それとも私達自身が名声と利益という二艘の船を看破できていないからなのかを。

■[2]




・吊唁 diao4yan4 弔問する。
・追本溯源 zhui1ben3 su4yuan2 [成語]事の根源を明らかにする。
・坦然 tan3ran2 平然としている。平気である。
・牽絆 qian1ban4 しがらみ。
・苦楚 ku3chu3 苦痛。苦しみ。

  ご覧なさい、古代の文字の創造はたいへんおもしろい。人の心の中の悩みは、どのように言うのだろうか。この“悶”という字は、“門”という字の中に“心”という字を入れるに他ならない。つまり、あなたは自分の心を扉の中に閉ざしておいて、心の悩みを叱責するというのか。扉を開き、全てを自分の下に置けないか。いわゆる“看破”の2文字は、扉を開け放つことに他ならない。それでは、人が生きている間、“名”と“利”の2文字が最も重要とするなら、最後の終極の状態で、名と利は見てはっきり分かるが、生と死は難しい。浮世に居る時、荘子はこう言った:むしろ生きて尻尾を引きずり泥の中に居たいと。生きて泥水の中に居る方が死ぬより良いと、こう荘子が言ったなら、彼は真に生と死の問題を看破できたのだろうか。

  こんな有名な話がある。荘子が長年連れ添った妻が先に亡くなった時、恵子は彼の親友として、弔問にやって来た。荘子の家に着いて見てみると、荘子は盆を叩きながら歌っていた。

  連れ合いが死ぬと、人々はしばしば悲しみに苦しむが、それなのに荘子は妻が死んで、どうして盆を叩いて歌を歌うことができたのだろうか。荘子は富に無欲で、名利を看破したのに、どうして死に対しても、荘子は独自の見方を取るに至ったのだろうか。荘子は生と死をどのように見做していたのだろうか。

  恵子:あなたの奥さんは家で子供の世話をよくし、今年老いて亡くなったのに、あなたは深く悲しまないばかりか、盆を叩いて歌を歌うなんて、やり過ぎではないか。荘子:ああ、それはこういうことなのです……。

  荘子は落ち着いて彼にこう言った:ああ、妻が亡くなったばかりの時は、私の心はどうして辛くないなどということがあったでしょうか。けれども、私は今、突然一つの道理がはっきり分かったのです。何事も「その始まりを調べれば本生無きなり」です。私が本当に事の根源を明らかにし、最初の始まりを調べれば、人は生命がないのではないですか。一番最初の人は生命が無く、生命が無ければ形が無く、形が無ければ何の息吹もありません。これはつまり、一般大衆の言葉で言うと、人がひとしきり生きるということは、実は天地の間で見ると、ここかしこにある“気”が集まって、やがてこの息吹が、次第に一つの形になり、形から生命が生み出される。人とはつまりこのようなものなのです。今、私の妻はこの道筋に沿って元に帰って行ったのです。彼女は私より先に行き、この時この時刻に、彼女はおそらく巨大な密室の中で、ゆっくりと寝ているのです。彼女はつまり解脱したのだから、喜ばしいことではありませんか。このことが分かったので、思わず、盆を叩いて歌っているのですと。どうだろう、これは連れ合いの死であり、連れ合いの死に臨んで、このように平然とほっとしていられるのである。実は、このような心理は、中国の民間では、時に大智慧者がこのようにすることができる。民間で重んじられるお祝い事には二種類あり、“紅白”の喜び事と言う。赤(紅)は嫁を娶るお祝いで、これから新しい生命が増えるというのは一つの喜びである。それでは白はというと、天寿を全うした老人を見送ることで、これも喜び事である。いわゆる“紅白”とは、生命の両端であり、赤は生命が宿る前のお迎えであり、白は命が尽きた後の見送りである。そして生と死の間は、形態の転化に過ぎない。

  荘子:大自然は私に形を与え、生活によって疲労させ、歳月によって老化させ、死によって永遠の休息に至らしめる。自然は変化であり、人は自然に従わなければならず、そうしてはじめて喜怒哀楽から解放されるのである。

  もし私たちが本当に荘子のような心持になれば、或いは私たちは多くのしがらみや苦痛を減らすことができるかもしれない。

■[3]


・打点 da3dian3 (贈り物や旅装などを)整える。準備する。
・百年之后 bai3nian2 zhi1 hou4 死んだ後。(婉曲な言い方)
・棺椁 guan1guo3 内棺と外棺。“椁”は柩を覆う外棺のこと。
・珠玑 zhu1ji1 宝石。“珠”は(丸い)真珠。“玑”は丸くない真珠のこと。
・蒼鷹 cang1ying1 タカ。オオタカ。
・啄 zhuo2 (くちばしで)ついばむ。つつく。
・有朝一日 you3 zhao1 yi1ri4 [成語]いつの日か。いつかは。
・螻蛄 lou2gu1 オケラ
・豁達 huo4da2 闊達(かったつ)。度量が広く、物事にこだわらないこと。こせこせしないこと。

  それでは、皆さんはこう言われるかもしれない。そうです、年老いて病死すると、周囲の人はそれを見送らざるを得ない。けれども本当に自分が身を処する時が最も難しく、自分が死に直面できるだろうか。古より今日まで、どれだけ多くの人が不老不死を求めたことだろう。魏晋時代から、かの「五食散」を作り、薬を飲んだらゆったりした服を着て気を発散させたが、全ての人が追い求めるのは、どうしていつも不老不死なのだろうか。荘子も自分自身の死に直面せざるを得なかったのではないか。彼は多くの弟子たちと相談した:先生が本当にある日、死んだら、私たちはどのように先生の後のことを準備したらよいのか。荘子は弟子たちにこう言った:私が死んだら、何も準備するな。私は天地全体を柩とし、日や月は連璧、星は宝石、万物を副葬品とする。こう言えば、私たちが見ることのできる楚王墓、漢王墓と比べ、どんな王陵墓よりも贅沢だ。私は天地や日、月を連璧とし、玉や宝石は陪葬品で、私はそれらといっしょにいる。こんなに大きな葬礼をすることになるのだから、直接私を外に放り投げておいてくれればよい。弟子たちはそんなことはできないので、何か言おうとした。先生、先生に小さな棺おけを準備せず、外に放っておいて、獣たちに食べられたらどうしますか。すると、荘子はしばらく考えて、弟子たちに言った:私を荒山に放っておいたら、タカやカラス、あらゆる空を飛ぶ鳥や猛禽によって、私の死体はついばみ、食べられてしまうだろう。もし皆さんがちゃんとした、棺おけで私を包んで、地下に埋めたとしても、いつかは木が朽ちて、人体も腐り、今度は私を食べるのは、地下にいるアリや、オケラ、あらゆる地下の虫たちで、私は彼らの餌になるだけだ。皆さんはどうして空にいる鳥たちの餌を奪って、地下の虫たちに食べさせようとするのか。ここで言っているのは、何れも物質が不滅であるということではなく、食べられてしまうということではないか。これこそ、荘子の自分自身の(物質的な)形と生死についての考え方である。実は、こう言うと、私たちはチベット地方で現在も行われている鳥葬を想像する。つまり、人が死んだ後、自分の体を空を飛ぶ禽獣に持って行ってもらうことで、再び天界で一種の有形の形で生命が最初に戻れることを望んだ。おそらく多くの文化の中で、いくつかの理念は相通じるもので、それはつまり、こせこせしないことが、人が解脱する前提であるのだ。

 (この項続く)

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