今回は、二つの相対する事象を描くことで、互いが引き立て合い、意味を際立たせる“対比”、眼の前の状況に触発され、実際には眼の前に存在しない事物を、生き生きと真に迫って描写する“示現”、発音や意味の上の連想から、一つの語句に二つの事象の意味を持たせる“双関”についてです。
四 生動(表現を生き生きさせる)
(三)対比
対比は、文を鮮明で生き生きとさせるための良い方法である。私たちはことばを使う時、二つの相対する事物をいっしょに叙述描写することで、互いを映し合い、互いが引き立て合い、読む人にことのほか目もさめるばかりの鮮明さを感じさせる。
魯迅がうまいことを言っている。
“優良的人物,有時候是要靠別種人来比較、襯托的,例如上等与下等,好与壊,雅与俗,小器与大器之類。没有別人,即無以顕出這一面優,所謂‘相反而実相成’者,就是這。”
(優れた人物は、時には別の種類の人間と比較し、際立たせなければならない。例えば、上等と下等、良いのと悪いの、優雅なのと低俗なの、器の小さいのと大きいの、の類である。他の人物では、この面で優れた人はいない、いわゆる「互いに相反しているようで、実は互いに成り立たせ合っている」というのがこれである。)[①]
[注①]魯迅 《論俗人応避雅人》
魯迅のこの話は対比の手法を専門に言ったものではないが、対比の本質的な特徴を指摘している。
(32) 這班官儿們,黒眼珠只看見白銀子,句句話忠君愛民,様様事禍国殃民。
・禍国殃民 huo4guo2yang1min2 [成語]国民と人民に災いをもたらす
(33) 一個是那様黒,
黒得像紫檀木;
一個是那様白,
白得像棉絮;
一個多麼舒服,
却在不住地哭;
一個多麼可怜,
却要唱歓楽的歌。
例(32)は姚雪垠が《李自成》の中で対比の手法を使って明末の腐敗した官吏を描いたもので、鋭い洞察力がある。例(33)は白人の家の女中がその家の令息に仕える情景を描いたもので、対比の手法によって階級の圧迫と民族の圧迫というテーマを鮮明に突出させて反映している。
王夫之は《薑斎詩話》の中でこう言った:
“以楽景写哀,以哀景写楽,一倍増其哀楽。”
(楽しい情景により悲しみを描き、悲しい情景により楽しさを描けば、その哀楽を倍増させることができる。)
詩の中で表現しているのは、正にこの境地である。
対比は叙述文の中で常用されるだけでなく、景色の描写、雰囲気をかき立てる上でも、たいへん有用である。例えば:
(34) 冬季日短,又是雪天,夜色早已籠罩了全市鎮。人們都在灯下匆忙,
但窗外很寂静。雪花落在積得厚厚的雪褥上面,聴去似乎瑟瑟有声,
使人更加感得沉寂。
・籠罩 long3zhao4 すっぽり覆う
・瑟瑟 se4se4 風が吹く音
魯迅はここで、雪の音によりあたりのひっそり静まった様子を表現した。いわゆる“動中有静”(動中静有り)はこのような境地を指している。これは正に対比が生み出した芸術効果である。
対比は事物が鮮明で突出していることを反映するだけでなく、作品を活発で生き生きとさせ、変化に富んだ文章にする。文の筋書きやことばを前後に配置した上で、対比を使って文に変化を持たせることができる。例えば:
(35) 頭髪梳得光,
臉上搽cha2得香。
只因不生産,
人人説她髒zang1。
・搽 cha2 (おしろいなどを)つける。塗る
・髒 zang1 汚い
作者が先ず彼女をきれいだと褒めたのは、後に彼女を批判するためである。先ず彼女の身づくろいが美しいことを言うことで、彼女の内面の醜さを際立たせている。対比が強烈で、含蓄があり、詩の組立ては起伏がありおもしろい。
対比は必ずしも相対立する事物ばかりではなく、時には互いに一致する事物であることもある。例えば:
(36) 龍華千載仰高風,
烈士身亡志未終,
墻外桃花墻里血,
一般鮮艶一般紅。
(37) 大姐姐把大碗餃子放在承緒面前,用胸前囲腰擦擦手,生気地説:
“你也太把我小看了!我是風吹雨打長大的,六月的日頭晒大的;
不是売糖人吹来的。你是苦蔓wan4上結下的,我也是苦海里泡大的,
……為革命,你能漂洋,我也能過海;你能越岭,我也能翻山,
只要是你能到的地方,我就能陪你!”
・漂洋過海 piao1yang2guo4hai3 はるばると海を渡る
・翻山越岭 fan1shan1yue4ling3 [成語]何度も山を越える
このような対比では、前の例文は引き立たせることに重きを置き、後の例文は比較に重きを置いている。何れも、対比させ、引き立たせる役割がある。
(四)連想
人々はことばを使う時に、眼の前の状況を契機として、別の状況や事物と結びつけ、二つの異なる状況や事物を一つにし、文が表現する意味をより鮮明に突出させ、イメージの躍動感を増加させる。ここで想像力、“連想”が必要になる。連想はイメージと切り離すことができず、それは、実際には思考をイメージする方式である。連想を文の上で表現する方式は、主に“示現”と“双関”である。
“示現”とは、眼の前の状況に触発され、実際には眼の前に存在しない事物を、生き生きと真に迫って描写する(成語で“活霊活現”huo2ling2huo2xian4と言う)ことで、ことばの躍動感を増加させる手法である。
“示現”の文例:
(38) 我在這里吃雪,正是為了我們祖国的人民不吃雪。他們可以坐在
挺豁亮的屋子里,泡上一壺茶,守住個小火炉子,想吃点什麼就做点
什麼。
・豁亮 huo4liang4 広々として明るい
(39) “在家時你干什麼?”“幇人拖tuo1毛竹。”我朝他寛寛的両肩
望了一下,立即在我眼前出現了一片緑霧似的海,海中間,一条
窄窄的石級山道,盤旋而上,一個肩膀寛寛的小伙,肩上墊dian4了
一塊老藍布,扛了几枝青竹,竹梢長長的拖在他后面,刮打得石級
嘩嘩作響,……這是我多麼熟悉的故郷生活啊!
・毛竹 孟宗竹
“示現”の手法を使うことで、読む人がその景色を見、その音を聞いているように感じさせる。例(38)は中国人民志願軍戦士が祖国の人民の幸福な生活の情景を想像することを通じて、最愛の人の崇高な思想信条を表している。例(39)は眼の前の若者の話から、故郷の生活が懐かしく思い起こされ、人物の感情を具体的なイメージを付けて再現され、行間に作者の深い思いがにじみ出ている。
“双関”はことばの助けを借りて、発音や意味の上の連想から、一つの語句に二つの事物の意味を持たせる修辞手法、掛け言葉である。しばしば、文の上で言っている意味の他、暗に別の意味を含んでいる。例えば:
(40) 老梁歪着脳袋看着儿子,怎麼這麼不順眼?啊,対了!眼鏡!
他呼地伸出手,扯下儿子的眼鏡,叭地摔到地上:“這玩藝儿叫你
看不清!”
・不順眼 bu4shun4yan3 目障りである。
・眼鏡 =墨鏡、太陽鏡。サングラス
・玩藝儿 (軽くけなした意味)もの。やつ。
(41) 黄浦江上有座橋,
江橋腐朽已動揺。
江橋揺,
眼看要垮kua3掉!
請指示,
是拆還是焼?
・垮kua3 壊れる。崩れる。
例(40)の“看不清”は、文字の上ではかけているサングラスが見えにくいことを指すが、実は悪い思想、考えが前進する方向を見えにくくさせ、道を誤らせる、と言っているのである。これは、語句の意味を借りてできた“双関”である。
例(41)で、“江”、“橋”、“揺”は、文字の上では黄浦江に架かる橋が既に古くなってぐらぐらしていることを言っているが、実は江青、張春橋、姚文元の一味を指している。これは語句の音を借りてできた“双関”である。
“双関”は時に含蓄があり婉曲的で、読む人に真意が言外にあることを感じさせることがある。時にユーモアやふざけた表現を使い、笑いの中に闘争の矛先が垣間見えることがある。
【出典】胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社 1995年
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四 生動(表現を生き生きさせる)
(三)対比
対比は、文を鮮明で生き生きとさせるための良い方法である。私たちはことばを使う時、二つの相対する事物をいっしょに叙述描写することで、互いを映し合い、互いが引き立て合い、読む人にことのほか目もさめるばかりの鮮明さを感じさせる。
魯迅がうまいことを言っている。
“優良的人物,有時候是要靠別種人来比較、襯托的,例如上等与下等,好与壊,雅与俗,小器与大器之類。没有別人,即無以顕出這一面優,所謂‘相反而実相成’者,就是這。”
(優れた人物は、時には別の種類の人間と比較し、際立たせなければならない。例えば、上等と下等、良いのと悪いの、優雅なのと低俗なの、器の小さいのと大きいの、の類である。他の人物では、この面で優れた人はいない、いわゆる「互いに相反しているようで、実は互いに成り立たせ合っている」というのがこれである。)[①]
[注①]魯迅 《論俗人応避雅人》
魯迅のこの話は対比の手法を専門に言ったものではないが、対比の本質的な特徴を指摘している。
(32) 這班官儿們,黒眼珠只看見白銀子,句句話忠君愛民,様様事禍国殃民。
・禍国殃民 huo4guo2yang1min2 [成語]国民と人民に災いをもたらす
(33) 一個是那様黒,
黒得像紫檀木;
一個是那様白,
白得像棉絮;
一個多麼舒服,
却在不住地哭;
一個多麼可怜,
却要唱歓楽的歌。
例(32)は姚雪垠が《李自成》の中で対比の手法を使って明末の腐敗した官吏を描いたもので、鋭い洞察力がある。例(33)は白人の家の女中がその家の令息に仕える情景を描いたもので、対比の手法によって階級の圧迫と民族の圧迫というテーマを鮮明に突出させて反映している。
王夫之は《薑斎詩話》の中でこう言った:
“以楽景写哀,以哀景写楽,一倍増其哀楽。”
(楽しい情景により悲しみを描き、悲しい情景により楽しさを描けば、その哀楽を倍増させることができる。)
詩の中で表現しているのは、正にこの境地である。
対比は叙述文の中で常用されるだけでなく、景色の描写、雰囲気をかき立てる上でも、たいへん有用である。例えば:
(34) 冬季日短,又是雪天,夜色早已籠罩了全市鎮。人們都在灯下匆忙,
但窗外很寂静。雪花落在積得厚厚的雪褥上面,聴去似乎瑟瑟有声,
使人更加感得沉寂。
・籠罩 long3zhao4 すっぽり覆う
・瑟瑟 se4se4 風が吹く音
魯迅はここで、雪の音によりあたりのひっそり静まった様子を表現した。いわゆる“動中有静”(動中静有り)はこのような境地を指している。これは正に対比が生み出した芸術効果である。
対比は事物が鮮明で突出していることを反映するだけでなく、作品を活発で生き生きとさせ、変化に富んだ文章にする。文の筋書きやことばを前後に配置した上で、対比を使って文に変化を持たせることができる。例えば:
(35) 頭髪梳得光,
臉上搽cha2得香。
只因不生産,
人人説她髒zang1。
・搽 cha2 (おしろいなどを)つける。塗る
・髒 zang1 汚い
作者が先ず彼女をきれいだと褒めたのは、後に彼女を批判するためである。先ず彼女の身づくろいが美しいことを言うことで、彼女の内面の醜さを際立たせている。対比が強烈で、含蓄があり、詩の組立ては起伏がありおもしろい。
対比は必ずしも相対立する事物ばかりではなく、時には互いに一致する事物であることもある。例えば:
(36) 龍華千載仰高風,
烈士身亡志未終,
墻外桃花墻里血,
一般鮮艶一般紅。
(37) 大姐姐把大碗餃子放在承緒面前,用胸前囲腰擦擦手,生気地説:
“你也太把我小看了!我是風吹雨打長大的,六月的日頭晒大的;
不是売糖人吹来的。你是苦蔓wan4上結下的,我也是苦海里泡大的,
……為革命,你能漂洋,我也能過海;你能越岭,我也能翻山,
只要是你能到的地方,我就能陪你!”
・漂洋過海 piao1yang2guo4hai3 はるばると海を渡る
・翻山越岭 fan1shan1yue4ling3 [成語]何度も山を越える
このような対比では、前の例文は引き立たせることに重きを置き、後の例文は比較に重きを置いている。何れも、対比させ、引き立たせる役割がある。
(四)連想
人々はことばを使う時に、眼の前の状況を契機として、別の状況や事物と結びつけ、二つの異なる状況や事物を一つにし、文が表現する意味をより鮮明に突出させ、イメージの躍動感を増加させる。ここで想像力、“連想”が必要になる。連想はイメージと切り離すことができず、それは、実際には思考をイメージする方式である。連想を文の上で表現する方式は、主に“示現”と“双関”である。
“示現”とは、眼の前の状況に触発され、実際には眼の前に存在しない事物を、生き生きと真に迫って描写する(成語で“活霊活現”huo2ling2huo2xian4と言う)ことで、ことばの躍動感を増加させる手法である。
“示現”の文例:
(38) 我在這里吃雪,正是為了我們祖国的人民不吃雪。他們可以坐在
挺豁亮的屋子里,泡上一壺茶,守住個小火炉子,想吃点什麼就做点
什麼。
・豁亮 huo4liang4 広々として明るい
(39) “在家時你干什麼?”“幇人拖tuo1毛竹。”我朝他寛寛的両肩
望了一下,立即在我眼前出現了一片緑霧似的海,海中間,一条
窄窄的石級山道,盤旋而上,一個肩膀寛寛的小伙,肩上墊dian4了
一塊老藍布,扛了几枝青竹,竹梢長長的拖在他后面,刮打得石級
嘩嘩作響,……這是我多麼熟悉的故郷生活啊!
・毛竹 孟宗竹
“示現”の手法を使うことで、読む人がその景色を見、その音を聞いているように感じさせる。例(38)は中国人民志願軍戦士が祖国の人民の幸福な生活の情景を想像することを通じて、最愛の人の崇高な思想信条を表している。例(39)は眼の前の若者の話から、故郷の生活が懐かしく思い起こされ、人物の感情を具体的なイメージを付けて再現され、行間に作者の深い思いがにじみ出ている。
“双関”はことばの助けを借りて、発音や意味の上の連想から、一つの語句に二つの事物の意味を持たせる修辞手法、掛け言葉である。しばしば、文の上で言っている意味の他、暗に別の意味を含んでいる。例えば:
(40) 老梁歪着脳袋看着儿子,怎麼這麼不順眼?啊,対了!眼鏡!
他呼地伸出手,扯下儿子的眼鏡,叭地摔到地上:“這玩藝儿叫你
看不清!”
・不順眼 bu4shun4yan3 目障りである。
・眼鏡 =墨鏡、太陽鏡。サングラス
・玩藝儿 (軽くけなした意味)もの。やつ。
(41) 黄浦江上有座橋,
江橋腐朽已動揺。
江橋揺,
眼看要垮kua3掉!
請指示,
是拆還是焼?
・垮kua3 壊れる。崩れる。
例(40)の“看不清”は、文字の上ではかけているサングラスが見えにくいことを指すが、実は悪い思想、考えが前進する方向を見えにくくさせ、道を誤らせる、と言っているのである。これは、語句の意味を借りてできた“双関”である。
例(41)で、“江”、“橋”、“揺”は、文字の上では黄浦江に架かる橋が既に古くなってぐらぐらしていることを言っているが、実は江青、張春橋、姚文元の一味を指している。これは語句の音を借りてできた“双関”である。
“双関”は時に含蓄があり婉曲的で、読む人に真意が言外にあることを感じさせることがある。時にユーモアやふざけた表現を使い、笑いの中に闘争の矛先が垣間見えることがある。
【出典】胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社 1995年
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