中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

中国語の修辞: 対比、示現、双関

2010年12月23日 | 中国語
 今回は、二つの相対する事象を描くことで、互いが引き立て合い、意味を際立たせる“対比”、眼の前の状況に触発され、実際には眼の前に存在しない事物を、生き生きと真に迫って描写する“示現”、発音や意味の上の連想から、一つの語句に二つの事象の意味を持たせる“双関”についてです。

                    四 生動(表現を生き生きさせる)

(三)対比


 対比は、文を鮮明で生き生きとさせるための良い方法である。私たちはことばを使う時、二つの相対する事物をいっしょに叙述描写することで、互いを映し合い、互いが引き立て合い、読む人にことのほか目もさめるばかりの鮮明さを感じさせる。

 魯迅がうまいことを言っている。
  “優良的人物,有時候是要靠別種人来比較、襯托的,例如上等与下等,好与壊,雅与俗,小器与大器之類。没有別人,即無以顕出這一面優,所謂‘相反而実相成’者,就是這。”
(優れた人物は、時には別の種類の人間と比較し、際立たせなければならない。例えば、上等と下等、良いのと悪いの、優雅なのと低俗なの、器の小さいのと大きいの、の類である。他の人物では、この面で優れた人はいない、いわゆる「互いに相反しているようで、実は互いに成り立たせ合っている」というのがこれである。)[①]

[注①]魯迅 《論俗人応避雅人》

 魯迅のこの話は対比の手法を専門に言ったものではないが、対比の本質的な特徴を指摘している。

   (32) 這班官儿們,黒眼珠只看見白銀子,句句話忠君愛民,様様事禍国殃民

・禍国殃民 huo4guo2yang1min2 [成語]国民と人民に災いをもたらす

   (33) 一個是那様
       黒得像紫檀木
       一個是那様
       白得像棉絮
       一個多麼舒服
       却在不住地
       一個多麼可怜
       却要歓楽的歌。

 例(32)は姚雪垠が《李自成》の中で対比の手法を使って明末の腐敗した官吏を描いたもので、鋭い洞察力がある。例(33)は白人の家の女中がその家の令息に仕える情景を描いたもので、対比の手法によって階級の圧迫と民族の圧迫というテーマを鮮明に突出させて反映している。

 王夫之は《薑斎詩話》の中でこう言った:
 “以楽景写哀,以哀景写楽,一倍増其哀楽。”
 (楽しい情景により悲しみを描き、悲しい情景により楽しさを描けば、その哀楽を倍増させることができる。)
 詩の中で表現しているのは、正にこの境地である。

 対比は叙述文の中で常用されるだけでなく、景色の描写、雰囲気をかき立てる上でも、たいへん有用である。例えば:
   (34) 冬季日短,又是雪天,夜色早已籠罩了全市鎮。人們都在灯下匆忙,
    但窗外很寂静。雪花落在積得厚厚的雪褥上面,聴去似乎瑟瑟有声
    使人更加感得沉寂

・籠罩 long3zhao4 すっぽり覆う
・瑟瑟 se4se4 風が吹く音

 魯迅はここで、雪の音によりあたりのひっそり静まった様子を表現した。いわゆる“動中有静”(動中静有り)はこのような境地を指している。これは正に対比が生み出した芸術効果である。

  対比は事物が鮮明で突出していることを反映するだけでなく、作品を活発で生き生きとさせ、変化に富んだ文章にする。文の筋書きやことばを前後に配置した上で、対比を使って文に変化を持たせることができる。例えば:
   (35) 頭髪梳得光
       臉上搽cha2得香
       只因不生産,
       人人説她髒zang1

・搽 cha2 (おしろいなどを)つける。塗る
・髒 zang1 汚い

 作者が先ず彼女をきれいだと褒めたのは、後に彼女を批判するためである。先ず彼女の身づくろいが美しいことを言うことで、彼女の内面の醜さを際立たせている。対比が強烈で、含蓄があり、詩の組立ては起伏がありおもしろい。

 対比は必ずしも相対立する事物ばかりではなく、時には互いに一致する事物であることもある。例えば:
   (36) 龍華千載仰高風,
       烈士身亡志未終,
       墻外桃花墻里血
       一般鮮艶一般紅

   (37) 大姐姐把大碗餃子放在承緒面前,用胸前囲腰擦擦手,生気地説:
     “你也太把我小看了!我是風吹雨打長大的,六月的日頭晒大的;
     不是売糖人吹来的。你是苦蔓wan4上結下的我也是苦海里泡大的
     ……為革命,你能漂洋,我也能過海你能越岭,我也能翻山
     只要是你能到的地方,我就能陪你!”

・漂洋過海 piao1yang2guo4hai3 はるばると海を渡る
・翻山越岭 fan1shan1yue4ling3 [成語]何度も山を越える

 このような対比では、前の例文は引き立たせることに重きを置き、後の例文は比較に重きを置いている。何れも、対比させ、引き立たせる役割がある。

(四)連想

 人々はことばを使う時に、眼の前の状況を契機として、別の状況や事物と結びつけ、二つの異なる状況や事物を一つにし、文が表現する意味をより鮮明に突出させ、イメージの躍動感を増加させる。ここで想像力、“連想”が必要になる。連想はイメージと切り離すことができず、それは、実際には思考をイメージする方式である。連想を文の上で表現する方式は、主に“示現”と“双関”である。

 “示現”とは、眼の前の状況に触発され、実際には眼の前に存在しない事物を、生き生きと真に迫って描写する(成語で“活霊活現”huo2ling2huo2xian4と言う)ことで、ことばの躍動感を増加させる手法である。

  “示現”の文例:
   (38) 我在這里吃雪,正是為了我們祖国的人民不吃雪。他們可以坐在
    挺豁亮的屋子里,泡上一壺茶,守住個小火炉子,想吃点什麼就做点
    什麼。

・豁亮 huo4liang4 広々として明るい

   (39) “在家時你干什麼?”“幇人拖tuo1毛竹。”我朝他寛寛的両肩
     望了一下,立即在我眼前出現了一片緑霧似的海,海中間,一条
     窄窄的石級山道,盤旋而上,一個肩膀寛寛的小伙,肩上墊dian4了
     一塊老藍布,扛了几枝青竹,竹梢長長的拖在他后面,刮打得石級
     嘩嘩作響,……這是我多麼熟悉的故郷生活啊!

・毛竹 孟宗竹

 “示現”の手法を使うことで、読む人がその景色を見、その音を聞いているように感じさせる。例(38)は中国人民志願軍戦士が祖国の人民の幸福な生活の情景を想像することを通じて、最愛の人の崇高な思想信条を表している。例(39)は眼の前の若者の話から、故郷の生活が懐かしく思い起こされ、人物の感情を具体的なイメージを付けて再現され、行間に作者の深い思いがにじみ出ている。

 “双関”はことばの助けを借りて、発音や意味の上の連想から、一つの語句に二つの事物の意味を持たせる修辞手法、掛け言葉である。しばしば、文の上で言っている意味の他、暗に別の意味を含んでいる。例えば:
   (40) 老梁歪着脳袋看着儿子,怎麼這麼不順眼?啊,対了!眼鏡!
     他呼地伸出手,扯下儿子的眼鏡,叭地摔到地上:“這玩藝儿叫你
     看不清!”

・不順眼 bu4shun4yan3 目障りである。
・眼鏡 =墨鏡、太陽鏡。サングラス
・玩藝儿 (軽くけなした意味)もの。やつ。

   (41) 黄浦江上有座橋,
       江橋腐朽動揺
       江橋揺
       眼看要垮kua3掉!
       請指示,
       是拆還是焼?

・垮kua3 壊れる。崩れる。

  例(40)の“看不清”は、文字の上ではかけているサングラスが見えにくいことを指すが、実は悪い思想、考えが前進する方向を見えにくくさせ、道を誤らせる、と言っているのである。これは、語句の意味を借りてできた“双関”である。
 例(41)で、“江”、“橋”、“揺”は、文字の上では黄浦江に架かる橋が既に古くなってぐらぐらしていることを言っているが、実は江青、張春橋、姚文元の一味を指している。これは語句の音を借りてできた“双関”である。

  “双関”は時に含蓄があり婉曲的で、読む人に真意が言外にあることを感じさせることがある。時にユーモアやふざけた表現を使い、笑いの中に闘争の矛先が垣間見えることがある。

【出典】胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社 1995年


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中国語の修辞: 誇張と反復

2010年12月21日 | 中国語
 今回取り上げる修辞技法は、文意を強調するための表現で、誇張と反復の二つです。数字を使った成語も誇張表現に含まれます。

                 四 生動 (表現を生き生きさせる)

(二) 強調

 一つの事物を強調しようと思うと、人々はしばしば誇張の手法を用いる。つまり客観的な事実を超えたことばを使ってその事物を大げさに表現し、読む人に突出した印象を与えるようにする。

 通常見られるのは程度の誇張である。例えば:
   (15) 龍江人常説,這里的土,插根筷kuai4子都会発芽

   (16) 這后生平時不声不響,只是蒙着頭工作。可是火起来也有股子牛脾气,
    不会転弯,説的話能衝倒墻

・后生 若者
・不声不響 声をたてずに黙って。こっそりと。
・蒙 meng1 ぼうっとする
・股子 [量詞]力や臭気などを形容する
・牛脾气 頑固で強情な性質

   (17) 一個人要是自私,処処考慮個人的利害,個人的得失,個人的生死,
    那他就会前怕狼,后怕虎,樹叶掉下来也怕砸za2了脳袋,永遠也不会
    変成英雄。

・砸za2 (重いものが他のものの上に)落ちる。当たる。

   (18) 車廂里凡是插得下一根針的地方,都擠満了人,就連過道、
    門旮旯ga1la2、厠所,以致于行李架上也都塞満了人。

・擠 ji3 (人や物が)ぎっしり詰まる。込み合う
・旮旯 ga1la2 隅

 程度の誇張はある側面から別の事物へ拡大、或いは縮小する。或いは事物を極度に強、大、高、長の方向に話をする。或いは逆に事物を極度に弱、小、低、短の方向に話をする。

  ある事物の程度を大げさに誇張するため、数詞を利用して表現する場合がある。中国語では、数詞は実際の数を表さない場合があり、“三”以上はしばしば数の多いことを表し、“三”以下はしばしば数の少ないことを表す。いくつかの成語はこのよう構成されている。
 例えば、“三思而行”、“四通八達”、“十悪不赦”、“百煉成鋼”、“千言万語”は数のたいへん多いことを言う。逆に“略知一二”、“一毛不抜”、“一星半点”は数のたいへん少ないことを言う。

・三思而行 三思ののちに行う。熟考の上実行する
・四通八達 道が四方八方に通じている
・十悪不赦 shi2e4bu4she4 極悪非道で許すことができない
・百煉成鋼 百度鍛えて鋼になる。鍛錬に鍛錬を重ねてりっぱな人になる譬え。
・千言万語 非常に多くの言葉の形容。口を酸っぱくして。

・略知一二 多少は知っている
・一毛不抜 yi1mao2bu4ba2 髪の毛一本抜くのさえ惜しむ。ひどくけちである譬え。
・一星半点 ほんのわずかばかり。ちょっぴり。

例えば:
   (19) 真把人困死了。将来勝利回国,我非睡它個八天八夜不行!

   (20) 但這回她没考工廠回来,当天只従竇堡鎮北面五里的関村走到家,
    她渾身没二両勁了。

 前例の“八天八夜”は何日も寝ないでがんばらないといけない、と数の多いことを言い、後者の“二両勁”は全身の力をさして使うことなく、と数の少ないことを言い、何れも程度の上での誇張をしている。

 もうひとつは、時間の上での誇張である。これは主にふたつの事物の関係を表す。生活の中で前後に起こった二つの事物について、後に起こった事物をわざと先に起こった事物の前に言い、読む人の印象を深める。こうした誇張を“超前誇張”と呼ぶ場合がある。例えば:
   (21) 還没喝到嘴里心就酔了

   (22) “放心,回頭見!”劉鉄柱話音還在人已不見

 当然先に酒を飲んだ後酔っぱらうのだが、ここでは酒を飲む前に酔っぱらったと言っている。話声が止んでから人はいなくなるのに、ここでは話声はまだするのに人がいなくなったと言っている。このように書くことで、読む人の印象は鮮明になる。

 誇張された文は文学作品の中でよく用いられる。これは、普通に描写するよりも読む人の印象が強く鮮明になるからで、人々の想像力を駆り立て、芸術的に感化する。 誇張は必ず真実を基礎とし、事物の本質を把握してそれを突出させなければならないが、現実の生活から離脱して、ひたすら奇怪さや荒唐無稽を追い求めてはならない。“大躍進”時期(1958年から数年間)の“民歌”は豊作の情景を描写する時、芸術的な誇張を低俗な大風呂敷に変質させてしまい、たいへん悪い影響をもたらした。

 魯迅は、誇張は“誠実”でなければならないとし、こう語った。
 “要確切地掲示事物或人物的姿態,也就是精神。”
(的確に事物や人物の姿形、つまり精神を取り出して見せなければならない。)[①] 
 そうしてこそ、私たちは誇張を使って文を磨き鍛える際に、“夸而有節,飾而不誣”(誇張しても節度があり、飾っても事実無根では無い)[②]ようにすることができるのである。

注①: 魯迅《漫談“漫画”》
注②: 劉勰《文心雕龍・夸飾》

 時には、文や文中のある成分を反復させることで、強調の目的を果たすことができる場合がある。

 一般的に言うと、文章を書く時は簡潔を追求し、重複を避けなければならない。しかし、一定の条件の元では、ある事物を強調突出させるため、その事物を重複して叙述し、ことばの表現効果を強める必要がある場合がある。例えば:
   (23) 已経聴得拉過回声。我派了人在那里看着,専等船靠了碼頭,
    就進報告。頂多再等五分鐘五分鐘

   (24) 她警覚地望望左右行人,放低了声音。“你是個共産党嗎?”
       “不是。”道静的声音更低了。她倒不是因為害怕,而是因為痛苦。
    “如果我能是個是個這様的人,我想,我会変成世界上最幸福、
    最快楽的人。可是,我不是……“
       “你会是的!”暁燕回過頭来厳粛地望着道静愁悶的臉色。
    “你会是的!我覚得你将来一定会是的

 上の例は何れも肯定の口ぶりを強調している。人々は話をする時、重点的なところは、相手が聞き洩らさないよう、たいてい反復して何度か話すことで、強調し、聞く者の印象を強める。

 強調の他、反復は人物のその時の情態を表すことができる。例えば、例(24)の“是個,是個”はこの人物が話をしている際の激昂する心情を表している。更に、別の例では:
   (25) 因為他喊的声音太大,吓得艾艾哆嗦suo了一下,一骨碌爬起来,
    瞪着眼問:“什麼事什麼事?”

・哆嗦 duo1suo 震える
・骨碌 gu1lu ごろりと転ぶ

   (26) 二諸葛一夜没有睡,一遍一遍念:“大怎麼還不回来
    大怎麼還不回来?”

 例(25)の反復は、艾艾が大声のため眠りを破られ、極度に緊張した様子を表す。例(26)の反復は、二諸葛が、小二黒が捕まった後、緊張してどきどきしている様子を表す。

 反復は音節を延長するので、長く続いて絶えない様子を表すことができる。例えば:
   (27) 他雖然和我們永別了,但是他永遠活着!他的事業,他的人品,
    他的詩句,永遠遠活在億万人的記憶中,永遠永遠

   (28) 殺敵勇士就這様拿起綉花針,変成了綉花姑娘。綉呵綉呵
    両条綉花手絹終于綉成了。

 このような文は深い感銘を与え、一語一語が人々に心の琴線に響く。

 この技法を更に拡大させて文章に活用し、文芸作品の中には、反復を利用して読者の印象を深め、人物の性格を描くのに使っているものがある。作者は人物を描く時、しばしば様々な工夫を凝らして最も人物の性格や気質を反映できることばを選択し、何度も反復させ、人物のイメージを鮮明に読者の眼前に出現させている。

 《祝福》の中で、魯迅は祥林嫂に何度も阿毛が狼に食べられた話をさせることにより、彼女が悲しみのあまり感覚が麻痺してしまっている様子や、彼女の心が受けた大きな傷を反映させている。
 《紅旗譜》の中の朱老忠にも、繰り返し“出水才見両腿泥”と言わせることで、中国農民の粘り強い戦いと、不撓不屈の英雄的な性格を表している。

 反復の中には必ずしも独立した言語成分が繰り返されるのではなく、ある語句が何度も出てくることで、強調作用がたいへん明確になっているものがある。例えば:
   (29) 黄河水入龍門,
       打浪飛,
       我将敵包囲,
       将敵粉砕。

   (30) 腰上纏的帕子,臂上纏的帯子,手槍上吊的墜子,大刀上挂的
    袱子,頭上戴的星帽子,前頭還拷得有血紅大旗,一身色,好不
    威風。

 反復の中には、文字の上では重複していないが、同義語を使用することで、意味の上の強調を表すのも、反復と見做すことができる。例えば:
   (31) 小桃蘭跳起来,用手指在臉上羞她:不害羞不臉紅,一个閨女家
    説些啥sha2?


【出典】胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社 1995年


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沈宏非のグルメエッセイ: 【対訳】蛇を食する者の言い分(2)

2010年12月20日 | 中国グルメ(美食)
 今回は、蛇を食べる話の後半です。

                        食蛇者説(下)

■ 吃蛇的風俗雖越千年,但是,此期間大概除把生食改了熟食、従蛇胆吃到了蛇鞭之外,烹蛇之術却長期地不思進取,直到九十年代初“蛇窩”(即蛇肉火鍋)問世。

 蛇を食べる風習は千年を超えると言いながら、この間、生で食べるのを加熱調理に改め、蛇の胆から蛇のペニスまで食べるようになった他は、蛇を調理する術は長期間新たな発展を志す意思が無く、90年代初頭になってようやく“蛇窩”(蛇肉の火鍋)を世に出した。

■ “蛇窩”之前,蛇饌一直以“蛇羹”為重。宋朱沃《萍州可談》即有“広南食蛇,市中売蛇羹”之記載,江孔殷先生的“太史五蛇羹”則把它推上了頂峰。到目前為止,香港的蛇饌仍以蛇羹為主,依然是満足于那一碗飄満菊花的黏稠之物再加一小碗潤腸蝋味飯的可怜享受。

・潤腸 run4chang2 便通をよくする

 “蛇窩”が出る前は、蛇料理はずっと“蛇羹”(蛇のスープ)に重きを置いてきた。宋の朱沃《萍州可談》には「広東南部では蛇を食べ、市中では蛇羹を売る」との記述があり、江孔殷先生の“太史五蛇羹”はその最上のものと位置づけられた。現在に至るまで、香港の蛇料理は相変わらず蛇羹が中心で、一碗の菊の花をいっぱいに散らしたどろどろとしたスープに、小さな茶碗一杯の便通をよくする蝋味飯(中華風のソーセージやベーコンの薄切りを入れて炊き込んだご飯)を添えた貧相なもので依然として満足しているのである。

■ 当然,蛇胆永遠是蛇的最精華部分,也是伝統食蛇者的最愛。在這種“補”字当頭的錯誤思想指導下,伝統的吃法,蓋以蛇胆為主,在香港和台北,至今仍行此“得一胆而棄全身”之古風。蛇肉既淪為棄之可惜之物,一定要弄来吃的話,厨房里面的下手之重,竟毫不吝惜佐料――“蛇王満”生前就最長于此道。

・淪 lun2 沈む。没落する。(悪い状況に)落ちる
・吝惜 lin4xi1 (金、物、力を)出すのを惜しむ
・佐料 zuo3liao4 調味料。

 薬味 もちろん、蛇胆は永遠に蛇の最も精緻な部分であり、伝統的な蛇食者の最も愛するものである。こうした“補”の字を最も重んじるという間違った考え方により、伝統的な食べ方は、蛇胆を主とすることに席巻され、香港や台湾では、今でもこの「胆を得たれば全身を棄つる」という古い風習が行われている。蛇肉は捨てられてしまうには惜しく、なんとかこれを食べるようにするには、厨房での調理が重要で、調味料を少しでもけちってはならない――“蛇王満”は最盛期にはこのやり方が最も長けていた。

■ 伝統蛇饌中的“龍虎鳳大会”(其実是一種豪華版的蛇羹),曾経是粤菜大系之殿堂級力作,同時也正在変成伝説。

 伝統的な蛇料理の中の“龍虎鳳大会”(実は豪華版の蛇スープなのだが)は、嘗ては広東料理大系の殿堂級の力作であったのだが、同時に今まさに伝説に変わろうとしている。

■ 一九八八年秋,重新装修的槳欄路“蛇王満”――几乎是当時全国唯一的蛇餐館――隆重復業時,留在菜単上的主打蛇饌,依然不離炒蛇柳、煎蛇脯以及蛇羹之類。能与新潮装修配称的,無非多了一道蛇串焼,吃起来好像偸工減料的羊肉串。

・偸工減料 [成語]仕事の手を抜き材料をごまかす

 1988年秋、新装なった槳欄路の“蛇王満”――当時は全国で唯一の蛇料理レストランであった――が盛大に営業を再開した際、メニューに載った主力の蛇料理は、相変わらず蛇肉の細切りの炒め物、蛇の干し肉を焼いたもの、蛇のスープの類から離れることはなかった。新装に合わせて加わったのは、蛇の串焼きだけで、食べてみると手を抜いていいかげんに作った羊の串焼きのようであった。

■ 更要命的是,它依然以“治好了多少風湿病患者”為標榜。

 更に致命的だったのは、相変わらず「どんなリューマチ患者でも治る」ことを標榜していることだった。

■ “蛇王満”曾于装修后開業首日大宴賓客,我是座上客之一。十一年后,這家享誉全中国的百年老店,終于在国慶節前夕因経営無力、周転困難而拖欠員工工資,被広州市荔湾区人民法院査封。其実,這家百年老店黯然結業,除了不思進取及不肯専注于本業之外,基本是被蛇肉火鍋打死的。

  “蛇王満”は新装開業の初日は賓客を招待しての大宴会があり、私はその客の一人であった。十一年後、この中国全土で百年続く老舗と称えられた店は、遂に国慶節前夜に経営不振で、資金繰りがつかず、従業員の給与支払いが遅滞し、広州市荔湾区人民法院に差し押さえられた。実は、この百年続いた老舗が暗然と店を閉めたのは、進取の意思が無く本業に専心しようとしなかったことの他、主に蛇肉の火鍋に客を取られてしまったことによる。

■ 蛇肉火窩之所以能够gou4成為“蛇王満”及其代表的伝統蛇饌的終結者,技術上是因了火鍋這種簡便到近乎自助的方式,其次,它也標志着真実的感性最終戦勝了那様一種似是而非的理性,是味覚的勝利。

・似是而非 [成語]似て非である。正しいようだが実は正しくない

 蛇肉の火鍋が“蛇王満”やその代表的な伝統蛇料理を終結させることができたのは、技術的には火鍋という簡便でほとんどセルフサービスのビュッフェスタイルと言ってよい方式であるからで、次いで、それは、真実の感性があのもっともらしい理性に最後には勝利したこと、つまり味覚の勝利であることを表している。

■ 把蛇放在火鍋里涮shuan4,広東人称為“打蛇窩”。打辺炉有多種形式,我喜歓的吃法,是首先起一個火鍋,完全是打辺炉的家常方式,在店家事先做好的大鍋湯底里,照例是加入了川芎、枸杞和紅棗等広府人常用的中薬材,我不慣薬材,因而只要清湯(比較講究的食肆,会把蛇骨拆出熬成湯底)。然后,再斬上一只或半只鶏(非本地土鶏不可,洋鶏与土蛇溝通不来),一只約莫一斤重的甲魚,斬件上桌。待鍋里的湯開始沸騰,可以先把鶏炖上,然后再放進甲魚。甲魚和鶏共冶一炉,安坐在火炉上慢慢煨wei1着。那廂辺,一条条蓁蓁大蛇己告屠畢,現在輪到主角登場:可以是斬成手指長短的、晶瑩剔透的蛇碌(段),也可以是切成生魚那様不厚不薄的蛇片。甲魚和鶏被煨出的最初的香気四溢之際,正是将蛇赴湯的大好時机。

・川芎 chuang1xiong1 センキュウ。漢方薬の一種。せり科の植物の根茎で、活血剤、強精剤に用いられる。四川産のものが最も品質がよいので“川芎”と呼ばれる。
・蓁蓁 zhen1zhen1 草木が生い茂るさま。イバラが群がり生えるさま。
・晶瑩 jing1ying2 きらきらして透明である
・剔 ti1 (骨から肉を)削り取る。そぎ取る。(隙間から)ほじくり出す。
 [参考]玲瓏剔透:(透かし彫りなどの)細工が巧みで、みごとに彫られているさま。

 蛇を火鍋の中に入れ湯にくぐらすことを、広東人は“打蛇窩”(蛇鍋をやる)と言う。鍋を囲むのは様々な方式があるが、私が好きな食べ方は、先ず鍋に火を点けたら、後は皆で鍋を囲む家でやるやり方と全く同じである。店では事前に準備してある鍋のスープのベース(“湯底”と言う)に、通常は川芎、クコ、棗の実など、広州の人々がよく用いる漢方の薬材を入れるが、私は薬材に慣れていないので、清湯(よく研究している店では、蛇の骨を砕いたものを煮出してスープのベースにしている)だけにする。その後、鶏を一羽ないしは半羽(地元産の鶏でなければだめで、輸入ものでは地元産の蛇と合わない)と、一匹がおおよそ一斤のスッポンを切って、切り身を食卓に並べる。鍋のスープが沸騰し出したら、先ず鶏を入れて煮込み、次いでスッポンを入れる。スッポンと鶏は一つの“炉”の中で“製錬”され、鍋の中に鎮座しゆっくりと煮られている。部屋のあちらの方では、一匹一匹荊のように絡み合った大蛇を既に殺し終って、さあ主役の登場である。手の指の長さほどに切って、きらきら透明で皮の模様の美しい筒切りにしても良いし、魚の刺身のように厚くも薄くもない切り身にしても良い。スッポンと鶏が煮込まれて醸し出される最初の香気があたりに溢れたら、蛇をスープに入れるタイミングの到来である。

■ 蛇肉的真味,非常微妙,介乎于鶏肉和魚肉之間,也就是説,在鶏和甲魚的渲染之下,蛇肉的美味得到了最大程度的還原,其鮮甜至此方被演繹至空前絶后、淋漓尽致的境界。

・介 jie4 中間にある。またがる
・渲染 xuan1ran3 (中国画の技法で)雰囲気を出すために色や輪郭をぼかす、ぼかし。
・還原 huan2yuan2 還元。原状に復する
・淋漓尽致 lin2li2jin4zhi4 [成語](文章や話が)詳しく徹底しているさま。

 蛇肉の真の味は、たいへん微妙で、ちょうど鶏肉と魚肉の中間であり、つまり、鶏とスッポンによるぼかしが入って、蛇肉の美味は最大限還元され、その旨み甘みはここに至って空前絶後、徹底した境地にまで演繹されている。

■ 我估計,首創此種吃法之人大概也是個懐着一顆吃心読《聊斎》的。類似的吃法,相近的味道,見之于《豢huan4蛇》:有客中州者,寄居蛇佛寺。寺中僧人具晩餐,肉湯甚美,而段段皆圓,類鶏項。疑問寺僧:“殺鶏何乃得多項?”僧日:“此蛇段耳。”

・吃心 気を回す。疑う

 私はおそらく、最初にこの食べ方を考えた人は、気を回して《聊斎志異》を詠んだのではないかと思う。これと似た食べ方、近い味の料理が、《豢蛇》に見られる:客の中州という者が、蛇佛寺に寄寓した。寺の僧が晩飯を用意してくれたが、肉もスープもたいへん美味で、肉は一個一個が丸く、鶏の首のようである。寺の僧に「鶏からどうしてこんなに首が取れるのかね?」と聞いたところ、僧は「これは蛇のぶつ切りです」と答えた。

■ 芥川龍之介《羅生門》里面的那個抜死屍頭髪的老嫗,在自辯中也指責説“我剛才抜着那頭髪的女人,(生前)是将蛇切成四寸長,晒干了,説是干魚,到帯刀的営里去出売的。倘tang3使没有遭瘟,現在怕還売去罷。這人也是的,這女人去売的干魚,説是口味好,帯刀們当作缺不得的菜料買。”

・老嫗 lao3yu4 おばあさん。
・遭瘟 zao1wen1 疫病にかかる

 芥川龍之介の《羅生門》の中で、死体から頭髪を抜いているばあさんは、非難がましくこう言った。「私がさっき髪の毛を抜いた女は、生前、蛇を四寸の長さで切っては、日に干し、魚の干物だと言って、お侍の兵営に行って売っていた。もし疫病でくたばらなかったら、今でも売りに行っていただろう。こいつもだ、この女が売りに行った干物を、美味しいと言うものだから、お侍達は欠かせない食料として買っていた。」

■ 《山海経》里説的“以虫為蛇,以蛇為魚”,据考証是因“蓋蛇古字作它,与訛声相近;訛声転為魚,故蛇復号魚矣。”可是,就味覚而言,蛇跟魚的関係可能不僅僅只存在于語音的変遷吧。

 《山海経》の中で、「“虫”を以て“蛇”と為し、“蛇”を以て“魚”と為す」と言っている。考証によれば、「確かに“蛇”の古字は“它”であり、その訛った発音が近かったので、転じて“魚”となった。ゆえに“蛇”をまた“魚”と呼んだのである。」しかし、蛇と魚の関係は単にことばの発音の変遷だけではないように思う。

-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-

 蛇の食べ方も変化しているのですね。でも、蛇肉火鍋(“蛇窩”ということばは一般的ではないようです。なんせ「蛇の巣」ですから)は鶏やスッポンをたっぷり使うし、蛇も捌き立てを持ってくるのですから、結構な高級料理なのでしょうね。新しい発見をしました。


【出典】沈宏非《写食主義》四川文藝出版社 2000年9月

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沈宏非のグルメエッセイ: 【対訳】蛇を食する者の言い分(1)

2010年12月18日 | 中国グルメ(美食)
 本格的な冬を迎えましたが、この時期、広東では蛇が盛んに食べられるようになります。火鍋の回でも書かれていましたが、広東の冬は、意外にもじんわりと冷える寒さがあり、体を温める蛇は人気があります。しかし、蛇を食べることには、奇異な眼で見られる面があるようで、そのあたりが今回のお話のテーマです。

                        食蛇者説(上)

■ 粤人的食蛇史,見之于中国的几部早期典籍:“越人得蚺ran2它以為上肴,中国得之無用。”

・蚺ran2 “蚺蛇”ran2she2 =“蟒蛇”mang3she2 うわばみ(大蛇の俗称)

 広東人の蛇食の歴史は、中国のいくつかの初期の典籍に見られる。「越人(粤人に同じ。広東人のこと)は大蛇を得るとそれを料理して食べるが、中国では食べない。」

■ 《山海経》和《淮南子》,“盖古之巫書”,里面提到的事,尽皆有点不可思議,但起碼要比《剣橋名人録》之類可信而且可怕得多。什麼是“既可信又可怕”?比方説,蘇東坡的妾侍,在広東惠州時将蛇羹誤做海鮮吃下,事后得知所吃為蛇,竟然于数月后死于非命。

・山海経 秦代の古籍で、神話伝説に富んだ、最古の地理書と言われている。
・淮南子 前漢の淮南王・劉安が編纂した書で、老荘思想に基づき、治乱興亡、逸事、瑣談を記載したもの。

 《山海経》や《淮南子》は、「古代の呪術を集めた書」で、この中に書かれていることは、皆不可思議なことだが、少なくとも《剣橋名人録》の類に比べれば、信頼がおけるし、ずっと恐ろしい。どういうことが「信頼がおけて恐ろしい」のか。例えば、蘇東坡の側室は、広東恵州にいた時、蛇のスープを間違って海鮮と思って食べたが、後で食べたのが蛇だと知り、数ヶ月後に非業の死を遂げたそうである。

■ 足見“杯弓蛇影”的恐怖,有的時候竟比親口吃下去的真実還要致命。

・杯弓蛇影 bei1gong1she2ying3 [成語]杯中の蛇影。疑心暗鬼して周章狼狽する譬え。(酒杯に映った壁上の弓を蛇の影と思い、恐ろしさのあまり病みついた人物の故事による)

 ここから、「杯中の蛇影」の恐怖は、時に自ら食した真実よりもっと命にかかわる危険となることがあるということが分かる。

■ 即使在今天,対于居住在“中国”的大部分“中国人”来説,広東人的這種愛好,仍然是一種可怕的風俗。不過,山東人偶尓也有吃蛇的。《聊斎》早面有一則《蛇癖》説道:“予郷王蒲令之僕呂奉寧,性嗜蛇。毎得小蛇,則全吞之,如啖葱状。大者,以刀寸寸断之,始掬以食。嚼之铮zheng4,血水沾頤。且善嗅,嘗隔墻聞蛇香,急奔墻外,果得蛇盈尺。時無佩刀,先噬其頭,尾尚蜿蜒于口際。”

・啖 dan4 食う。
掬 ju1 すくう。両手で受け止める
・铮 zheng4 (物の表面が)ぴかぴか光っているさま
・頤 yi2 下顎。あご
・嗅 xiu4 においをかぐ
・盈 ying2 満ちる。余る。
・噬 shi4 噛む
・蜿蜒 wan1yan2 蛇などがくねくねと這うさま。

 今日でも、“中国”で暮らす大部分の“中国人”にとって、広東人のこうした好みは、依然として恐ろしい風習である。しかし、山東人もときたま蛇を食べることがある。《聊斎志異》の最初の方の一節、《蛇癖》でこう言っている。「私の郷里の王蒲令の家僕、呂奉寧は、その性、蛇を好む。小蛇を得る度、全部を丸呑みにし、まるで葱を喰らっているかのようである。大きいものは、包丁でぶつ切りにし、両手ですくって食べる。食べると口の周りが油でてかてか光り、血があごを濡らす。且つ嗅覚が鋭く、家の壁を隔てて蛇の臭いを嗅ぎつけると、急いで家の外に飛び出したかと思うと、果たして一尺余りの長さの蛇を捕まえてきた。刀を身につけていない時は、頭から食べる。尻尾はなお口許をくねくねとのたうっている。」

■ 尽管山東人之“啖葱状”足以收入粤語版的《山海経》或《淮南子》,不過,蒲松齢或許相信,広東人吃起蛇来,与呂奉寧大同小異。但在前者看来,這種吃法雖然生猛,却未免過于浪費,没文化,甚至暴殄天物。

・暴殄天物 bao4tian3tian1wu4 [成語]自然のものをやたらに無駄にする。物をちりあくたのように粗末にする

 山東人の「葱を喰らう様子」が広東語版の《山海経》や《淮南子》に収めるに足るにせよ、蒲松齢は或いは、広東人が蛇を食べる様子は、呂奉寧と大同小異だと信じていたのかもしれない。しかし前者から見れば、こうした食べ方は、材料は新鮮でぴちぴちしているが、あまりに浪費的で、野蛮で、物を粗末にしている感は免れない。

■ 広東人不吃小蛇,不吃蛇頭,更不生吃。天生一只能聞出“蛇香”之鼻的広東人,非但善于不厭其煩地炮制蛇羹,還能炒蛇片、醸蛇脯,近年来又推陳出新,涮shuan4蛇和“椒塩蛇禄”風行広州,而且,吃起来文明得就連砕片也不剩。広州的連鎖食肆“惠食佳”,即以“椒塩蛇禄”為招徠,并且在本地的高級雑誌上大做整版広告。那広告,底,襯着一盤金燦燦的“椒塩蛇禄”,下書一行小宇:“始創于1987”,那份矜貴,絶対不輸給同一本雑誌上的進口皮具広告。

・推陳出新 古きを退けて新しきものを出す。古いものの良さを新しいものに活かす
・風行 流行る
・招徠 zhao1lai2 誘致する。招き寄せる
・襯 chen4 際立たせる。引きたてる
・金燦燦 jin1can4can4 金色に輝く
・矜 jin1 慎み深い。控えめである

 広東人は小さな蛇は食べないし、蛇の頭も食べない。生では尚更食べない。生まれつき、「蛇の香り」を嗅ぎ分けられる鼻を持った広東人は、煩雑を厭わずに蛇スープを焙じるのに長けており、また蛇の身を炒めたり、蛇の干し肉を醸したり、最近はまた伝統を活かして新しいものを生み出し、蛇肉のしゃぶしゃぶ、蛇肉のから揚げは広州で流行し、しかも食べると上品で、屑も残さない。広州のレストラン・チェーン、惠食佳は蛇肉のから揚げを看板メニューとし、当地の高級雑誌に全面広告を掲載している。その広告は、黒をバックに、ひと皿の金色に輝く蛇肉のから揚げを際立たせ、その下に一行、小さな文字で「1987年創業」と書かれている。この控え目で高貴な広告は、同じ雑誌に掲載されている輸入皮革製品の広告に絶対に負けない。

■ 然而,這并不表示吃蛇従此不再引起友邦驚詫。前几年,太陽神的股票在海外上市,因標榜含有蛇、鶏之精華,上市当晩,美国一家電視台的両個財経主持人,根本没有把希腊概念的Apollo当一回事,却一口一個“Snake Stock”(蛇股)地侃了個没完没了。

・驚詫 jing1cha4 驚きいぶかる。けげんに思う。
・標榜 biao1bang3 標榜する
・侃 kan3 =“侃大山”北京語で、とりとめのない世間話、むだ話をする
・没完没了 mei2wan2mei2liao3 果てしがない。きりがない。

 しかし、このことは蛇を食べることが今後二度と友好国を驚かせないという意味ではない。数年前、太陽神の株式が海外で上場された際、蛇、鶏のエキスを含むと宣伝したため、上場の日の晩、アメリカのTV局の二人の経済ニュースのキャスターは、ギリシャ概念で言うアポロ的な秩序が全く無いのと同じだと、口を開けば“Snake Stock”だと、とりとめのないむだ話を言い続けた。

■ 很早就有中国人対此看不過去,林語堂曾経正告老外:“任何人都不能使我相信蛇肉的鮮美不亜于鶏肉這一説法。我在中国生活了四十年,一条蛇也没有吃過,也没有見過我的任何親友吃過……吃蛇肉対中国人和西方人同様是件稀罕事儿。”

・看不過去 容認できない。気に入らない
・正告 厳粛に告げる。

 とっくに中国人はこうした見方を気に入らなく思い、林語堂は嘗て、厳かに外国人にこう言ったことがある。「如何なる人も、私に蛇肉の美味しさは鶏肉に劣らないという説を信じさせることはできない。私は中国で暮らすこと四十年、一匹の蛇も食べたことがないし、私の如何なる親友が食べるのも見たことがない……蛇肉を食べるのは、中国人にとっても西洋人と同様に珍しいことなのだ。」

■ 不是林語堂忘了広東人也是中国人,就是他在一時的正義衝動之下挺身而出地干了一樁zhuang1蠢事。《淮南子》里面提到“越人”固然不可能包括衣冠南渡之后的閩南居民,而且,古早的漳州人吃不吃蛇一時也無従考証,不過他們経常被蛇吃到却是事実。漳州南門之外,過去曾専設“蛇王廟”一座,其功能就是替人解除蛇咬之痛――有効範囲只限于被城里的蛇所咬,郷野之蛇無効。

・挺身而出 ting3shen1er2chu1 [成語](困難や危険に)勇敢に立ち向かう
・樁 zhuang1 [量詞]事柄を数える。件。
・蠢事 chun2shi4 愚かなこと。ばかなまね。
・衣冠南渡 西晋末年、匈奴王の劉曜が長安を陥落させ、西晋は滅亡した。晋の元帝・司馬睿は建康(南京)に都を移し東晋を建国したが、この時、中原の漢族の臣民は、北方の遊牧騎馬民族の支配を嫌い、多く南に逃れたことを“永嘉之乱,衣冠南渡”と言う。“衣冠”とは衣服や冠の意味だが、ここでは、漢民族の文化を指す。この時期、福建省にも多くの漢族が移住し、“衣冠南渡,八姓入閩”と言う。

 林語堂は広東人も中国人であることを忘れたのではなく、彼は一時の正義感から衝動的に立ち上がり、ばかなまねをしてしまったのだ。《淮南子》の中で言う“越人”とは、固より“衣冠南渡”後の閩南(福建南部)の住民を含めることはできない。しかも、古代の漳州(福建省の最南部で、広東省の潮州に接する)人が蛇を食べていたかどうかも考証する手立てが無いが、彼らがよく蛇に咬まれたのは事実である。漳州南門外に嘗てそのために“蛇王廟”が設けられ、その効能は蛇に咬まれた痛みを取り除くことで――効能があるのは、城内で蛇に咬まれた際に限られ、田舎の蛇は効果が無かったが。

■ 食蛇之被視為異行,皆出自惧蛇。像広東人那様干脆把蛇吃到肚子里去,非但可使自家的恐惧全消,還能使対方之恐惧倍増。

・出自 (~から)出る

 蛇を食べることは特異な行動に見られるのは、蛇を恐れることから出ている。広東人のように、何の躊躇もなく蛇をお腹に入れてしまうと、自らの恐怖が消失してしまうだけでなく、却って相手の恐怖心は倍増する。

■ 在伝統的中国飲食文化中,凡好吃的束西一開始都是好薬,蛇也不能例外。先民們見面時,応該不会以“吃飯了嗎?”為問候,而是“有好薬嗎?”

 伝統的な中国の飲食文化では、凡そ美味しいものはその始まりから良い薬であった。蛇も例外ではあり得ない。先人達は出会った時に“吃飯了嗎?”(飯を食ったか?)を挨拶言葉としたのではなく、“有好薬嗎?”(良い薬は有るか?)と言ったに違いない。

■ 不過,蛇的薬効従一開始就有点詭異,就像蛇一様。《山海経》之《海内南経》章称:“巴蛇食象,三歳而出其骨,君子服之,無心腹之疾。”対于這個語焉不詳的“心腹之疾”,学術上有各種不同的説法。当然也有人相信所謂“君子”的“心腹之疾”其実就是餓。不過,既然是療飢的食物,何必称“服之”?

・詭異 gui3yi4 怪しい。奇異である。
・語焉不詳 yu3yan1bu4xiang2 言葉が簡単すぎて意を尽くさない

 しかし、蛇の薬効は最初から多少怪しいところがあり、これは蛇も同様である。《山海経》の《海内南経》の章に、「巴(四川省東部、今の重慶付近)の蛇が象を食べると、三年してその骨が出てくる。君子がこれを服用すると、“心腹之疾”が無くなる」と称している。このよく訳の分からない“心腹之疾”は、学術上はいろいろ異なる説がある。もちろん、いわゆる“君子”の“心腹之疾”とは、実は飢えであろうと信じる人がいる。しかし、飢えを凌ぐ食物であるのに、どうして「服用」するのか?

■ “薬性”在広東的蛇饌里十分顕著。据南海県史志資料記載:曾経是広東最経典、最権威的蛇餐館“蛇王満”(注:已倒閉),其創始人呉満自幼即以捕蛇為業,并且籍向両地的薬商供応蛇胆及生蛇而発達。他在広州開設的“蛇王満”,除了以出售蛇胆為号召之外,還“開発研制”了“三蛇胆陳皮”、“三蛇胆油”等等薬物,至于蛇肉后来也上了“蛇王満”食譜,主要是因為呉満在他的研究過程中“発現蛇肉対風湿病有良好療効”。本質上,百年老字号“蛇王満”餐館与佛山的另一家百年老店“賓芝林”其実并無差別。

・饌 zhuan4 ごちそう。酒肴。
・号召 hao4zhao4 呼びかけ
・風湿 feng1shi1 リューマチ

 “薬性”は広東の蛇料理ではたいへん顕著である。南海県史誌の資料の記載によれば:嘗て広東で最も代表的で、最も権威のある蛇料理店は“蛇王満”(注:既に倒産)で、その創業者、呉満は幼い時から蛇を捕まえることを生業とし、佛山、広州両地の薬商に蛇の胆、生きた蛇を納入することで発達してきた。彼は広州で“蛇王満”を開設すると、蛇の胆を販売することを宣伝した他、“三蛇胆陳皮”、“三蛇胆油”等の薬物を研究開発し、蛇肉を後に“蛇王満”のメニューに載せたのは、主に呉満が研究過程で、「蛇肉はリューマチに対し良好な治療効果があると発見」したことによる。本質的には、百年の伝統のある“蛇王満” 餐館と、佛山の別の創業百年の老舗“賓芝林”とは、実は違いは無い。

■ 中医相信,蛇胆和蛇肉具有行気活血,駆風袪qu1湿,化痰止咳及明目強肝的神奇作用,蛇油能防止血管硬化,蛇舌可鎮痛……総而言之,蛇的一身都是宝,活脱脱就是一根会咬人的人参。

・袪 qu1 取り除く
・活脱脱 huo2tuo1tuo1 生き写し。瓜二つ。

 漢方医は、蛇の胆と蛇の肉には気を通し血を活性化し、“風湿”(リューマチ)を除き、痰を解かし咳を止め、胆を強める不思議な作用があり、蛇油は血管の硬化を防止し、蛇の舌には鎮痛作用があると信じている……要するに、蛇は全身が宝であり、言わば人を咬むかもしれない人参のようなものである。

■ 但是這様還不够gou4,広東人還無可救薬地堅信蛇肉之滋補壮陽遠勝于美味,就連那奇腥的蛇鞭也不肯放過,据称,此物的補腎壮陽之功効比鹿鞭還要高出十个百分点。不過,以蛇鞭的短小精悍,壮陽者可能都会対“以形補形”的信仰做出暫時的背棄,改信了蛇的性格。想想也是,要是“以形”真能“補形”,還不如干脆学《聊斎》里的山東人呂奉寧,以啖葱之勢,把一条蛇完整地吞下去罷了。

・無可救薬 手の施しようがない
・滋補 zi1bu3 栄養を補給する
・壮陽 zhuang4yang2 精力をつける。精力を盛んにする。
・鞭 bian1 ペニス
・背棄 bei4qi4 背く。破棄する。

 しかしこれでもまだ十分ではない。広東人は更に蛇肉の栄養補給、精力増強は美味にはるかに勝ると、手の施しようのない程固く信じていて、あの奇妙な生臭い蛇のペニスも手放したがらない。それというのも、その腎を補い精力を強める効能は鹿のペニスより10%高いと言われているからである。しかし、蛇のペニスの短小で精悍なことは、強壮者が「形を以て形を補う」信仰を暫し捨て去り、改めて蛇の性格を信じることになるかもしれない。考えてみれば、「形を以て」本当に「形を補う」ことができるなら、さっさと《聊斎志異》の山東人・呂奉寧の真似をし、葱を喰らう勢いで、一匹の蛇を丸のまま呑み込んでしまった方がよいからである。

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 今回はこれまでです。続きは次回をお楽しみに。


【出典】 沈宏非《写食主義》四川文藝出版社 2000年9月

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中国語の修辞: 比喩によりイメージを際立たせる

2010年12月15日 | 中国語
 今回は、中国語の修辞技法として、比喩を取り上げます。

                  四 生動(表現を生き生きさせる)

 文を磨き鍛える(“錘煉”)には、更に表現が生き生きしている(“生動”)という要求を満足させなければならない。なぜなら、表現が生き生きした文でこそ人々を興奮させ、人々を感化し、共鳴させることができるからである。文の生き生きとしたイメージは、しばしば一定の修辞手法の活用と切り離すことができない。

(一) イメージ(形象)
比喩によりイメージを際立たせる

 文芸作品と政治論文は、しばしば一定のイメージを持ったことばを使って事の道理を説明する。その中で、最も幅広く活用するのは比喩である。

 比喩はたいへん良い表現作用を持っている。それは未知の事物を既に知っているものに変え、奥深い道理を分かりやすく説明する。例えば:
   (1) 一道閃電明亮,只見山北辺,白茫茫的雲海,就像几万匹馬向前
    跑着一様,順着丹江,一直往東滚gun3着。有几次風把雲塊推過来,
    玉山就像个大佛爺凸着肚子,把它又擋回去。点閃着,雷打着,風卷着
    雲,雨乗着風,整个天空上呀,就像個唱戯大舞台

   (2) 什麼叫“国粋”?照字面看来,必是一国独有,他国所無的事物了。
    換一句話,便是特別的東西。但特別未必定是好,何以応該保存?
    譬如一個人,臉上長了一個瘤,額上腫出一顆瘡chuang1,的確与衆不同,
    顕出他特別的様子,可以算他的粋。然而据我看来,還不如将這粋割去了,
    同別人一様好。

 例(1)はいくつかの比喩句を通じて、山地の雷雨の情景を大げさに表現し、山地以外の地域の人が読んでも、自分がその場にいるかのようであり、未知の事物を読む人の知っているものに置き換えて表している。例(2)では、魯迅が顔の上にできた瘤や額の上にできた瘡を例に使って“国粋”の悪いところを譬えた。奥深い道理を分かりやすく説明した例である。

 比喩はまた、抽象的な事を具体的に説明し、平板なことを生き生きと表現することができる。例えば:
   (3) 我們的文学藝術不愧為偉大時代的鏡子,同時也是我国人民従中
    吸取智慧和力量的生活教科書

   (4) 在今天,
      我用滚燙gun3 tang4的双手
      我摸着
      我們的
        紅旗――
           又一次把
           母親的
           衣襟
           牽動……
・滚燙gun3 tang4 非常に熱い

 例(3)は“時代的鏡子”、“生活教科書”ということばを用いて文学芸術を譬えたことで、内容が具体的になり、イメージが明確になった。例(4)は母親の中国服のおくみ(“衣襟”)を引っ張るという表現で赤旗を手でさすることを譬えたことで、思い入れが深まり、読む人を心の底から感動させる表現となった。

 比喩を使う時は、ぴったり当てはまり(“貼切”)、分かりやすく、鮮明で、ユニーク(“新穎”)であるかどうかに注意しなければならない。次のいくつかの文はよくない例である。
(但し、この基準は時代や環境により変化する。以下の例は、文を書かれた当時はそうだったかもしれないが、現代の日本で見ると、善し悪しの判断が変わるケースもある。)

   (5) 無数条淙淙流淌的小河就像大地上的脉搏一様在不停地流動着,
    跳動着。
・淙淙 cong2cong2 細い水の流れる音。さらさら
・流淌 liu2tang3 (液体が)流れる
・脉搏 mai4bo2 脈拍

   (6) 我今天買了只新式銥yi1金筆,様子跟潜水艇似的,頭尖溜溜的。
・銥 yi1 イリジウム。銥yi1金筆で、イリジウムを使った万年筆。
・尖溜溜 jian1liu1liu1 とがったもの、または鋭いものの形容。

   (7) 従走廊的那一頭,走出白求恩和奥布莱安,記者們像捕獲到野獣似地
    撲上前去,七嘴八舌問長問短,照相机的閃光閃爍着。
・撲 pu1 飛びかかる。突き進む
・七嘴八舌 [成語]多くの人が方々から口を出すさま。口々に言う
・問長問短 [成語]あれこれ尋ねる
・閃爍 shan3shuo4 (光が)ちらつく

   (8) 青年賽過趙子龍,壮年干勁比武松,老年本領超黄忠,婦女就像
    穆桂英
・賽 sai4 ~にまさる。~より優れる
・干勁 gan4jin4 (物事に対する)意気込み

 例(5)で“脉搏”は“跳動”(脈打つ)ものであるが、“流動”するものではないので、流れる“小河”の比喩としては不適切である。例(7)で、有名人の取材に記者が群がる光景に、“捕獲到野獣”という比喩を使うのは意味合いが違い、不適切である。
 例(6)と(8)は現在の日本で見ると、判断が異なるように思う。例(6)で“銥yi1金筆”、つまり万年筆の形の譬えとして、“潜水艇”は一般に見かけないので、比喩としては不適切としている。例(8)は譬えとなる人物が中国ではよく耳にする人物ばかりで、新鮮味が無いので、比喩として不適切としている。

 比喩が適当でないのは、主に作者が客観事物に対する観察が不十分で、事物の本質を把握しておらず、いいかげんに比喩を考え、手当たり次第に適当にことばをえらんだことで発生する。人によっては喩えを考える時に、考えすぎて、却って難解になってしまい、訳が分からなくなってしまう(“不倫不類”bu4lun2bu4lei4[成語]得体が知れない。似ても似つかない)ことがある。

 比喩を使った文を推敲する時は、文の前後の語句との組合せの関係にも注意すべきである。比喩の中で譬えられた物とその物の関係は適当であるが、その他の語句との組合せが不適当な場合は、文として不適切である。例えば:
   (9) 小河如飄動的綢帯。

   (10) 烈火般的熱情在天安門広場沸騰起来了。

 “小河如綢帯”、“烈火般的熱情”という比喩句は、内容的におかしくない。けれども、“綢帯”に修飾語“飄動的”が加わると、“綢帯”は空中を漂っているかのような意味合いとなり、この組合せで“小河”の比喩とするのは不適切である。同様に、“熱情”の後ろの述語は“沸騰起来”である。“熱情”は“沸騰”することができるが、“烈火般的熱情”となると、“沸騰”はできず、“燃焼”しかできない。

 人の思想感情を無生物や生物の上に注ぎ込み、それらを人と同じように描写する表現手法を“擬人”と言う。適切に擬人法で構成される文を使うと、イメージが生き生きとしたものになる。例えば:

   (11) 在節日里,
       我們的党
         没有
         在酒杯和鮮花的包囲中,
            酔意沉沉
       党,
         正揮汗如雨
            工作着――
         在共和国大厦的
            建筑架上!
・揮汗如雨 “揮汗成雨”hui1han4cheng2yu3 という成語を踏まえる。意味は、汗をふるうと雨になる。大勢の人がひしめく形容。

 賀敬之はここで“酔意沉沉”、“揮汗如雨工作”といった人の行為、動作を表す語句を使って共産党という政治団体を人格化した。これにより、文章全体に生き生きしたイメージが生まれ、読む人の印象が鮮明になるという効果を得ている。

 擬人法は大部分が描写的、叙述的で、人の行為や性状を表す語句を人以外の事物の上に置くことで、その物に人の思想感情を持たせている。また場合によっては人以外の事物に人のように話をさせ、その物に自分の感情を述べさせることがある。例えば:

   (12) 天色又開朗了,四周突然亮了起来,月亮衝出了雲囲把雲抛在后面
     直往浩大的藍空走去

   (13) 蚍蜉撼大樹,
       辺揺辺狂叫
        “我的力量大
       知道不知道?”
       大樹説
       “我知道
       一張報,両個校
       几個小丑嗷嗷叫。”
・蚍蜉 pi2fu2 オオアリ
・撼 han4 揺り動かす。揺さぶる
・小丑 xiao3chou3 道化。小人。
・嗷嗷 ao2ao2[擬声語]痛みや苦しみなどのためにあげる悲鳴や鳴き声。ううんううん、ひいひい。わあわあ

 擬人法は死んだものを生きたものに変え、感情の無いものを感情を持ったものに変え、読む者に生き生きとしたイメージを与える。擬人法は通常文芸作品の中で用いられ、叙述描写の文の中で用いられ、抒情的な意味がたいへん濃厚である。人の話しぶりを真似し、それに人の感情を持たせ、更に比喩文を敷き詰めて文にし、それを拡大して鳥や獣が語り出す童話や寓話にすることができる。

 擬人法は感情が高まった時のことばの表現方式であるが、使用する時は、自然で調和がとれているか注意しなければならず、わざとらしく([成語]矯揉造作jiao3rou2zao4zuo4)してはならない。

 擬人法は人以外の物を人と見做して書かれるので、表現する時はできるだけその事物自身の特徴に合うよう注意しなければならない。例えば:

   (14) 新水井,亮閃閃,
       好像姑娘汪汪的眼,
       看得玉米露牙笑
       看得地瓜渾身甜
       看得谷子垂下了頭
       看得高粱羞紅了臉
・汪汪 wang1wang1 水をいっぱいためているさま。
・渾身 hun2shen1 全身

 新しい井戸ができ、水がこんこんとわき出て、農作物が豊かに実る喜びを、少女のはつらつとした動作に譬えている。“玉米露牙笑”は、粒のきれいに揃ったとうもろこしが、少女がにっこり笑った時に見える健康な歯並びのように見える。“地瓜渾身甜”、“谷子垂下了頭”、“高粱羞紅了臉”何れも作物の特徴に合った譬えである。


【出典】胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社 1995年


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