西太后慈禧
二、西太后慈禧の「帰政」(政務の奉還)と頤和園の築造
英仏侵略軍の焼き討ち、掠奪、破壊は、清漪園を二十数年間に亘り荒廃した状態にした。この期間、外国資本主義勢力は中国に軍事的な侵略を強めただけでなく、政治から経済までより一層の侵入と掠奪を行った。乾隆帝は曾て「天国上邦」(この世の天国)と自慢した封建大帝国は、この時代には『紅楼夢』で冷子興が形容する栄国府が、「架子虽没很倒、内囊却也尽上来了」(柱はまだ倒れていないが、中の棉は尽く出てきてしまっている)のと同様の状態であった。
政治の危機、経済の逼迫は、清朝の統治者を一時的に園林の中の湖や塔の光景などに構っていられない状態にさせた。1873年(同治12年)、朝廷内には円明園修復の動議があったけれども、国庫が逼迫し、経費を準備するのが困難で、着工してしばらくして朝野の反対の声の中で中断した。
帝王の家の庭園工事は果たして本当にこれで終了したのだろうか。いや、そうではなかった。1886年(光緒12年)、人々が北京西郊の建物の残骸のことを次第に忘れ去ってしまった頃、清漪園の廃墟で、昆明湖の湖畔に「水師内学堂」を再建するとの旗印の建設工事隊が密かに活動を始め、まとまったゴミを取り除き、元の清漪園の主要な建物跡の上で再び工事が始められた、二年後、園内のあちこちの宮殿建築群がまた奇跡のように万寿山の前や昆明湖の周囲に再び現れ、彫刻された梁、絵を描かれた棟木が彩豊かに輝き、曾ての清漪園の風采、風格を少しも失っていなかった。
人々は思わず聞かずにはおれなかった。これはどうしたことだろうか。
実は、これは当時の国内の政治の舞台の上で、清朝の統治者グループの中で、朝政の大権を握っただけでなく、極めて反動的で腐敗した人物が現れたのである。それは即ち那拉氏慈禧(西太后)であった。正に彼女が、統治集団内部で、陰謀手段を用いて国家の最高権力を奪取し、国難が眼前に迫り、内外ともに困難に陥る中、国の財力を傾け清漪園の山水の再整備をしたのである。この時から、彼女の名前はこの新たに建てられた庭園、頤和園と密接に関連づけられるようになったのである。
慈禧(じき)は、姓を那拉氏と言い、彼女は皇太后になってから「崇拝」(崇奉)される美称(徽号)となった。彼女は元々清入関後の第7代皇帝咸豊帝の妃で、咸豊の唯一の息子である載淳を生んだことから貴妃に昇格した。1860年英仏連合軍が北京を攻撃し、咸豊は熱河(今の承徳)避暑山荘に逃げた。翌年、即ち咸豊11年、咸豊は熱河で病死し、皇位はわずか六歳の太子載淳が継承し、 慈禧は皇帝の生母の身分で、咸豊の皇后鈕鈷禄氏と共に皇太后と尊称され、慈禧は西宮に居たので、西太后と呼ばれた。間もなく、 慈禧は海外の帝国主義勢力と激しく戦っていた恭親王奕訢(咸豊の兄弟)と結託し、宮廷の政変を発動し、咸豊の遺言(遺詔)の中で幼い皇帝の輔佐を委託し執政を重任された端華、載恒、粛順ら八人の王や大臣を全て死刑或いは処罰し、ふたりの太后が朝政に臨み、「垂簾聴政」(皇帝の玉座の後ろに御簾を垂らし、その中に座って政務を行うこと)の局面を実現した。これより、 慈禧は表面上は慈安太后と国事を「同治」し、然るに実際はずっと大権を一手に握った。1873年から74年の一年間は 慈禧が表面上は息子の載淳に「帰政」せざるを得なかったのを除き、清王朝の最高権力はずっと彼女の手のひらの内で操られていた。
慈禧の暴威と権謀術策は、多くの大臣が実際に見て、心の中では、いつかこの女の手の中で、官位を奪われ命を失うことのみを恐れた。こうした恐懼(きょうく)の心理は、同治の後皇帝に立てられた載湉(さいてん)の実の父親である醇親王奕譞(えきけん)の身の上にたいへん突出して表れていた。奕譞は咸豊の弟で、また 慈禧の実の妹の夫であり、彼は自分のこの義姉兼兄嫁の気性を誰よりもよく知っていた。それゆえ1875年(光緒元年)彼が自分の息子に皇位を継承させるという「懿旨」(皇太后や皇后の詔令)を受け取って後、少しもうれしくなかっただけでなく、却って直ちに「知らせを聞くや激しく泣き叫び、人事不省になり地面に顔をうずめ、助け起こしても立ち上がることができなかった」。1881年(光緒7年)慈安太后が急死したことは、彼にとってより大きな刺激となった。息子ないしは自分の地位を保つため、彼はより一層恐れてびくびくするようになり、極めてうやうやしく、慈禧のご機嫌を取ることを自分の唯一の責務と見做した。
1885年(光緒11年)清朝は海軍衙門を設立し、奕譞は総理海軍事務に任命された。この時、16歳の光緒帝は、ちょうど親政をすべき年齢に到達していた。奕譞は、慈禧がとっくに西郊の園林を再建する心づもりがあることを十分知っていたが、ただその経費や口実が無いことを案じていた。慈禧の歓心を買い、彼女が帰政(政務の奉還)後に楽しむ場所を確保するため、奕譞は海軍衙門就任後の最初の仕事として、頤和園の建設工事の提唱と主管に全力を傾けた。
醇親王のこのふるまいは、果たしてちょうど慈禧の気持ちにかなった。元々、彼女はこの近代軍事科学に太子てずぶの素人の皇帝の親族に海軍を運営させたのも、その着眼点は海上には無く、金銭面のためだった。それというのも、当時の清の宮廷の各部署の中で、海軍衙門が最も予算を持つ部門に数えられ、極力自分に忠誠を尽くす者をそこにやって主管させれば、海軍衙門の巨額の予算も自然と、思いのままに移して彼女が用いることができるのだ。曾て円明園の工事が反対に遭い中断されたようなことが二度と起こらないよう、慈禧一派は更に「花を移して木を接ぐ」計略を考え出し、昆明湖の傍らに「水師内学堂」を設立し、それによってここに祖制を回復させ、海軍を「操練」(乾隆年間、昆明湖で水師を操練したことを指す)するのだと意思表示させた。こうして、慈禧の園林建設は堂々たる理由を得たのであった。海軍を「操練」するためであるからには、当然海軍の経費を使用しなければならない。そして皇太后は常に海軍の「操練」の情況を視察して回らないといけないので、当然太后御用の建築施設もいくらか必要になる。こうして海軍経費の使用は名実ともに正当になっただけでなく、園内の建築工事も当然やるべきものとなった。
以上の諸事が、清漪園内で工事が始まった真相である。
俗に、紙で火は包めないと言う。慈禧が弄んだこうした自分で自分を欺くごまかしは、朝廷の大臣たちさえもごまかしきれず、当時戸部尚書(戸部は財務を管轄する中央部局で、その長官を尚書と言う)の翁同龢(おうどうわ)は1887年1月17日(太陽暦。旧暦では光緒12年12月24日)の日記の中でこう書いている。「慶邸(奕劻)は朴庵(奕譞)に晤(あ)い、深く時局を談じ、囑して吾輩に転告し、当(まさ)に其の苦衷を諒す。蓋し昆明湖を以て渤海に易(かえ)るは、万寿山を滦陽に換えるのみ。」この話は、慈禧の庭園建設の真の意図を論破している。ここで言う「渤海」は、北洋海軍の真の 操練地、渤海である。そして「滦陽」とは滦河の北に位置する熱河の避暑山荘である。昆明湖を渤海の海軍操練に充て、万寿山で避暑山荘に代えて保養、遊覧するというのは、一言で言えば、海軍演習の名目を借りて清漪園再建を行うということであった。とはいえ、たとえそうであっても、朝廷中の何人かの目の醒めた大臣たちも、不満に思っても敢えて意見を述べることはなかった。
朝臣を欺けないなら、一般大衆はなおさら欺けない。ほどなく、清漪園建設開始の知らせは北京城内外に広まり、清漪園の完成を待って、更に大規模に円明園の再建が始まるとまで言う人さえ出て来た。
朝野の上下の人々の議論とともに、慈禧は幾分座っていられない状態になった。というのも、この時ちょうど北京地区で水害が猛威をふるい、続いてまた黄河が決壊し、幾千幾万の飢えた人々が家や畑を失い、死亡線上に瀕する状態になった。こうした情況下で、彼女はもし継続して庭園建設工事を隠しごまかしていたら、却ってもっと彼女に不利な猜疑やうわさが引き起こされ、ひとたび民衆蜂起が巻き起これば、後の結果がどうなるかは見当がつかなかった。そして、1888年(光緒14年)3月13日、慈禧は急いで光緒の名義で「上諭」を発布し、正式に清漪園の工事を公表し、また再建後の庭園を「頤和園」と命名した。この庭園の名前には、「帰政」(政務の奉還)後の慈禧が「頤養太和」(休養して大いに穏やかになる)という意味が含まれていた。朝野の不満を静めるため、この 「上諭」ではまた隠そうとして益々その内容を明らかにするような声明を行った。頤和園の建設経費は宮廷内の日常の支出の中から「節約」して捻出し、国家の経済や人民の生活は少しも損なうことがないと言うのだ。
しかし、この聞く人の興味をそそる弁明は、およそ多少なり頭のよい人なら、鼻でせせら笑うだろう。本来、この当時の清政府の財力で、毎年の正常な支出さえも十分にまかなうことができないでいて、どうして「節約」とか何とか言えるのだろうか。いったい清末の史籍の中に記載されたこのような事象から、慈禧の「節約」がどんな性質であったかを頗るよく説明してくれるのである。
光緒年間、戸部に閻敬銘という名の頭の良い尚書がいた。彼は当時の国外の先進的な工業技術を理解していて、国内に導入し、国力を振興したいと熱望した。彼は戸部の事務を引き継ぎだしてより、戸部の正常な支出の中からまた幾ばくかの金を「ほじくり」出して、京漢鉄路建設の費用を残しておこうとした。八年の努力を経て、果たして彼によって1千万両の銀子を集めた。朝廷の中で慈禧を頭とする保守派は、西方の一切の先進技術、とりわけ鉄道、汽車をおしなべて「奇淫異巧」(奇技淫巧。新奇な技術)と見做し、これは「天朝上国」の尊厳を損ない、祖先の墓の「風水」を破壊し、それによって「変而従夷」(夷狄に従うことになってしまう)と恐れようとは誰が知ろうか。鉄道の建設ができず、閻某はまたこの金を新たに海軍を作る経費にしようとした。しかしこのことが慈禧に知られ、彼女はちょうど頤和園建設の予算に途方に暮れていたので、このようなまとまった現金があるのを聞きつけて、どうして容易くほっておくことができよう。それでいつも戸部に手を伸ばすようになった。閻敬銘は慈禧が金を使う目的を知って、当初は断固として渡さないようにし、このことは慈禧を激怒させた。やかましくした後、弱い者は結局強者に勝てず(胳膊擰不過大腿)、閻敬銘は無理強いさせられどうしようもなくなり、官を辞して故郷に帰らざるを得なかった。彼が職を離れるや、1千万両の銀子も慈禧一味の手の中に落ちることになった。
頤和園の建設費用は、上記で述べた鉄道建設費用を含め、主には流用した海軍の経費であった。毎年固定の3百万両は、醇親王が主管する海軍衙門から定期的にまわしてきた。こうしてその後、海軍衙門は遂に頤和園の後勤供給とサービス機関になった。頤和園が西洋人から贈られた一艘の小汽船を得ると、海軍衙門はすぐさま輪船(汽船)公所を増設した。頤和園が電灯を取りつけると、海軍衙門はまた直ちに電灯公所を成立させた。これら汽船、電灯の管理社員までも海軍衙門の管轄で、高額の給料をもらっているだけでなく、毎年更に「軍功」によって一定の追加収入さえもらえたので、道理で当時の多くの人が、辛辣に海軍衙門は「新内務府」で、「頤和園の工程師(エンジニア)」だと呼んだ。
海軍衙門の定期的な資金割り当て以外に、頤和園の建設費用はかなりの部分が各地の、様々な人々の寄付や「報効」(恩に報いるために努力すること)から賄われた。何を「報効」と言うのか。実は、清朝末期、清朝の統治者は王朝の退勢を挽回し、国庫の不足を補うため、公然と売官活動を行った。一定の等級以下の官位は、その高低大小に依って、様々な価格の銀子で買うことができた。頤和園着工後、多くの官僚、商人が、これは慈禧の歓心を買うチャンスと捉え、直接銀を贈って造園に使ってもらったが、これを「報効」と呼んだのである。慈禧も、こうした人々を「報効」の多少で、彼らを官に封じて任用したのである。この面の資料は、多くの史籍に記載があり、近代の著名な小説、例えば『孽海花』、『官場現形記』の中でもっと徹底的に(淋漓尽致)暴き出されている。その中で最も典型的なのが、「玉銘之案」である。
玉銘は材木商人で、醇親王が家廟を建設する工事を請け負ったことにより、そこから多額の銀子を獲得した。後に、彼は宦官と結託して、宮廷内の骨董や宝物を盗み出して転売し、数十万両の銀子の資産を蓄えた。玉銘は大金持ちになって後、更に役人になりたくなり、先ず金を出して北京の官吏の官位を買い、吏部の下級役人になった。しばらくして、彼は慈禧がちょうど頤和園の造営費用のために方々に手を伸ばしていると聞き、彼女に気に入られようと30万両の銀子を取り出して、頤和園の工事への「報効」としたのである。
慈禧は金を見るとすぐに態度を改め、間もなく光緒に指示し、四川塩茶道(道は省と府州の間の行政区分で、その長官を道員と言う。塩茶道は省内の塩茶の事務を管轄した。)という実入りの多いポストに玉銘を任命する命令を出させた。光緒は玉銘の身代を築いたいきさつを元々うわさに聞いていたが、太后の意志を無下に逆らう勇気もなく、了解するしかなかった。後に、玉銘が御殿に上り、皇帝に面会して恩に感謝した。光緒は彼にどこで役人をしていたか、どうして商売をやめて役人になったのか尋ね、愚鈍な玉銘はどう答えてよいか分からず、遂には御殿の上で商売のこつを大いに語り、また一部始終を承認した。それというのも、役人になると金が儲かり、特に 四川塩茶道のような官職は大金が手に入るからである。
玉銘の話を聞いて、光緒は泣くに泣けず、笑うに笑えなかったが、彼は更に玉銘に字が書けるか、自分の履歴が書けるか尋ねた。玉銘はしばらく口ごもっていたが、その後しぶしぶ紙や筆を手に取ったが、あろうことか、あらん限りの力を尽くして、ようやく自分の名前、「玉銘」の二字を書いたが、書かれたものはのたくって字の形を成していなかった。光緒はこうした様子を見て、実に我慢しようにも我慢できず、直ちに彼を叱りつけて退出させ、且つ彼を降格処分にする命令を出した。光緒のこのふるまいを、慈禧は当然容赦することができなかったが、それを阻止する理由も無かったので、彼女はなんとか口実を見つけて、光緒が寵愛する珍妃を厳しく処罰して、ようやく終わりとした。
慈禧を代表とする清朝の保守派は、国難が眼前に迫っている時に、国家の軍費の流用を惜しまず、内政が衰えぼろぼろになった時に、率先して官位を商品として販売し、そしてこうするのは、単に自分の娯楽享受に供する庭園を建設するためなのである。正に梁啓超が『戊戌政変記』の中で言っているように、慈禧は「只だ一園(頤和)有るを知り、而して国有るを知らず」、「但(ただ)頤和の咫尺之園を保ち、而して日日地を割き権を失う」。これは、このような政府が、既に何等もの腐敗した地歩に堕落し、このような統治者は、既にこのような暗黒の末路、行き詰った状態に行き着いたことを、極めて深刻に表明した。
頤和園の建設は1886年(光緒12年)から始まり、1896年(光緒22年)終了し、前後丸々十年の時間を費やした。庭園建設の全部の費用は、当時の清漪園の建設費用より、更に大きな金額を要した。その具体的な数字は、いくつかの説がある。あるものは2千万両と言い、あるものは3千万と言い、また8千万両と言うものもあるが、いったいどれが正しいかは、更なる調査が必要である。
1894年(光緒20年)、日本帝国主義が点火した甲午戦争の砲火が黄海の海面をぼうぼうと燃やしていた時、頤和園はちょうど忙しく装飾のクライマックスに入っていた。この年の旧暦10月10日は、ちょうど慈禧の60歳の誕生日で、盛大な長寿祝いの「祝賀の儀式」を挙行するため、清朝廷の上下は早くも二年前から様々な準備を始めていた。慈禧の心づもりでは、頤和園を彼女の長寿祝いの主会場とし、園全体の内外にちょうちんを掲げ、色絹を飾り付けることにしていた。これでもまだ足りず、紫禁城の西華門から頤和園の東宮門まで、途中に各種の形式の舞台、飾り付けしたテントを60ヶ所架けわたし、「点景」(沿道の飾り付け)とした。儀式のときになると、慈禧は「金輦」(皇帝用の駕籠)に乗り、西華門を出発し、西安門、西直門を経て頤和園に向かい、そこで文武百官の朝賀を受けた。
しかし、慈禧の良い夢は長くは続かなかった。甲午戦争が日増しに拡大し、情勢が益々厳しくなるのを目の当たりにして、戸部は形勢が悪いと見て取り、やむを得ず頤和園の長寿祝いの装飾工事の中止を要請した。当時、主戦派の光緒帝は何人かの大臣と一緒に次々と慈禧に「点景」(沿道の飾り付け)をやめて、この費用を軍費に使うよう要請した。しかし、慈禧は言うことを聞かなかっただけでなく、却って恨めしさと恥ずかしさで怒り出し、彼女は容赦なく威嚇して言った。「おまえたち、誰がわたしを今日不愉快にさせたのか。それならわたしはおまえたちを一生不愉快な目に遭わせてやるぞ。」
この時、慈禧は屈辱的に講和を求める方針を決め、根本的に再戦のつもりはなく、ただ速やかに和平交渉をすることを求めた。それで、前線の愛国戦士が勇敢に抵抗し、満腔の熱い血潮をどんなに黄海にまき散らしても、戦争はやはり失敗のまま終わりを告げた。北洋海軍が全滅し、台湾が日本に割譲された時、頤和園内では相変わらず芝居の舞台が高く築かれ、歌ったり踊ったりして太平を謳歌していた。正に当時の民謡でこう歌われたように。「台湾島は既に日本に帰属し、頤和園にはまたアンペラ(お祝いの会場のテント)が架けられた(搭天棚)。」
もし清漪園の建設から破壊までが清王朝の隆盛から衰退までを反映していると言うなら、頤和園の建設自体が、清王朝が完全に滅亡する前の最後の輝き(回光返照)であったのだろう。