賭香腸
ソーセージを賭ける
杭州のキンモクセイの香り、広州の牛肉のホルモンの煮物(“牛雑”)、北京の風砂のように、ソーセージ(“香腸”)は台北の街角で最も普通に見かける軽食(“小吃”)である。一本のほど良く焼かれた丸々としたソーセージは、外側はパリッとして中は柔らかく、咬むと肉汁が溢れ、味は鮮烈で濃厚である。上等のローストしたソーセージは、金門島の高粱酒を注いで作られ、酒で心は憂い、再び炭火の上に置かれ、何度も寝返りを打って(“輾転反側”zhan3zhuan3fan3ce4)焼かれ、熱々のピリッとした酒の香りがしばらく寒風、冷雨の中に漂う。
ソーセージのローストは通常、夜市や街角の横丁の隅で屋台の形で営業しているので、いつでも即座に食べられる(中国語で“立等可取”)食べ物と思われるが、ローストするには多少時間が必要である。よく見かける情景は、よだれを垂らしたお客が寒風の中にたたずみ、店主と店員(通常は家族でやっている)が煙にいぶされ火に焦げる(“煙燻火燎”)中、忙しく動き回り(“忙得不可開交”)、ソーセージだけが炭火の上に横たわり、やがてチッチッと熱い油を吹き出す。このような一種劇的な張力の三角関係の中で、ソーセージの美味がこのために増すことがなかったら、不思議である。
ソーセージの屋台は元手が小さく利幅が大きいので、競争は熾烈である。業者は新しいソーセージの開発に苦心惨憺(中国語で“挖空心思”wa1kong1xin1si1)し、知恵を振り絞るが、最後は頑なに長年変わらぬやり方(“古道”)で一本一本、流行のソーセージをローストしていくのである。(“古道熱腸”という成語があり、「律儀で人情に厚い」という意味だが、それと掛け合わせている)アメリカ式のホットドッグが一本のソーセージを二枚のパンの間に挟む(*訳者注:ハンバーガーと勘違いしている?)としたら、台湾式のソーセージのローストは、それ自身が充填されてできたソーセージの一切合切を、更においしいもので満たしたり、おいしさを埋め込んだものである。有名なソーセージの屋台の商品は、二十種類余りに達する。レモン、香茶、炭焼き、麻辣、おろしニンニク、九層塔(九重の塔?)、黒コショウ、蜂蜜、チーズ、わさび、更にはチョコレート味のものまである。ここでは、ソーセージは、その他の内容を盛り込み伝播する一種の媒体、ひとつのプラットフォームになっている。或いは、もっと正確な言い方をするなら、一本の肉でできた「パイプ」(“管道”)である。こうした益々拡大する流量を処理するため、ソーセージ自身がキャリヤー(“載体”)となり、より幅広で太くなる傾向にある。これと比べると、広東式の腸詰(“広式臘腸”)はかわいいものである(“柔腸”「やさしい心」の意味)。私は遅かれ早かれ、台北人はホットドッグを作る時に、台湾式ソーセージをパンに挟むようになると思っている。
ソーセージのローストは食べるだけでなく、遊ぶこともでき、ソーセージの屋台はいつでもおいしさ溢れるゲームの場に変化する。あの移動式のソーセージ屋台では、店の主人と「ソーセージを賭けて」のゲーム、俗称“西巴拉”をすることができる。双方は順番にお椀の中にサイコロを投げいれ、勝ち負けは皆ソーセージである。一般に、このような小さな賭場では親(“庄家”)が有利だが、ソーセージの美味はしばしば、腹ぺこ(“飢腸轆轆”ji1chang2lu4lu4)の、或いはほろ酔い(“酒酣耳熱”jiu3han1er3re4)の客に、何でも怖いもの無し(“百無禁忌”bai3wu2jin4ji4)の、そして勇往邁進(“一往無前”yi1wang3wu2qian2)の気持ちでサイコロを投げさせる。こういう状況では、おごらされるのはいつもソーセージの屋台の主人である。とことん(“欲罷不能”)勝った時には、食べきれない程のソーセージは、屋台の席に座っている、眼に付いた客たちに手伝ってもらって食べ尽くすのである。ついている時は、車一杯のソーセージ分勝って、その場で大宴会、宴席の主は愉快に友好的な雰囲気の中で何度も杯を挙げる。ふと振り返ってみると、たった今まで何度も「数字戦略のゲーム」をした敗者が空っぽの車を押して、ひとり灯火の消えかけた夜の闇の中に消えていく。もちろん、車を押して帰れるのはまだ幸せで、向こう見ずな相手に出会うと、車ごと負けて取られるに至る。このような悲惨な時にも、彼はひとり家に帰る、自分の足で歩いて。
夜市にはこういったゲームがたいへん多い。万華の、和食屋台“寿司王”の主人は、一方の手で寿司を握りながら、もう一方の手で私たちの後ろの“気槍射香煙”(空気銃でタバコを撃つ)の屋台を指さした。「こんなに近い距離で、こんなに大きな的なのに――信じられないだろうけど、当たらないんだ。商売を始めてから今日まで、私は一発も撃ったことはないけど、毎晩ここに立っていると、たくさんの常識派の人がポケットの中の最後の一円まで負けている。彼らは本当はどれだけ寿司を食べられただろう。」彼の感慨深げな話を聞いて、厦門の肉粽店の主人のことを思い出した。テーブルが二つ三つしかない店を経営しているのだが、なんとマカオで一千万以上負けてしまった。イギリスの小説家Alain de Bottonは《水の如き年月の追憶》の中の最も長い文章は、標準字体で印刷すると4メートルに達し、ワインのボトルの底を十七周できると算出したが、私も計算してみようと思うのは、一千万人民元を全部肉粽に換算し、その米粒を一粒一粒並べたら、厦門から一路マカオまで、芳しい香りを漂わせて敷き詰めることはできないだろうか。
【原文】沈宏非《写食主義》四川文藝出版社2000年9月より翻訳
ソーセージを賭ける
杭州のキンモクセイの香り、広州の牛肉のホルモンの煮物(“牛雑”)、北京の風砂のように、ソーセージ(“香腸”)は台北の街角で最も普通に見かける軽食(“小吃”)である。一本のほど良く焼かれた丸々としたソーセージは、外側はパリッとして中は柔らかく、咬むと肉汁が溢れ、味は鮮烈で濃厚である。上等のローストしたソーセージは、金門島の高粱酒を注いで作られ、酒で心は憂い、再び炭火の上に置かれ、何度も寝返りを打って(“輾転反側”zhan3zhuan3fan3ce4)焼かれ、熱々のピリッとした酒の香りがしばらく寒風、冷雨の中に漂う。
ソーセージのローストは通常、夜市や街角の横丁の隅で屋台の形で営業しているので、いつでも即座に食べられる(中国語で“立等可取”)食べ物と思われるが、ローストするには多少時間が必要である。よく見かける情景は、よだれを垂らしたお客が寒風の中にたたずみ、店主と店員(通常は家族でやっている)が煙にいぶされ火に焦げる(“煙燻火燎”)中、忙しく動き回り(“忙得不可開交”)、ソーセージだけが炭火の上に横たわり、やがてチッチッと熱い油を吹き出す。このような一種劇的な張力の三角関係の中で、ソーセージの美味がこのために増すことがなかったら、不思議である。
ソーセージの屋台は元手が小さく利幅が大きいので、競争は熾烈である。業者は新しいソーセージの開発に苦心惨憺(中国語で“挖空心思”wa1kong1xin1si1)し、知恵を振り絞るが、最後は頑なに長年変わらぬやり方(“古道”)で一本一本、流行のソーセージをローストしていくのである。(“古道熱腸”という成語があり、「律儀で人情に厚い」という意味だが、それと掛け合わせている)アメリカ式のホットドッグが一本のソーセージを二枚のパンの間に挟む(*訳者注:ハンバーガーと勘違いしている?)としたら、台湾式のソーセージのローストは、それ自身が充填されてできたソーセージの一切合切を、更においしいもので満たしたり、おいしさを埋め込んだものである。有名なソーセージの屋台の商品は、二十種類余りに達する。レモン、香茶、炭焼き、麻辣、おろしニンニク、九層塔(九重の塔?)、黒コショウ、蜂蜜、チーズ、わさび、更にはチョコレート味のものまである。ここでは、ソーセージは、その他の内容を盛り込み伝播する一種の媒体、ひとつのプラットフォームになっている。或いは、もっと正確な言い方をするなら、一本の肉でできた「パイプ」(“管道”)である。こうした益々拡大する流量を処理するため、ソーセージ自身がキャリヤー(“載体”)となり、より幅広で太くなる傾向にある。これと比べると、広東式の腸詰(“広式臘腸”)はかわいいものである(“柔腸”「やさしい心」の意味)。私は遅かれ早かれ、台北人はホットドッグを作る時に、台湾式ソーセージをパンに挟むようになると思っている。
ソーセージのローストは食べるだけでなく、遊ぶこともでき、ソーセージの屋台はいつでもおいしさ溢れるゲームの場に変化する。あの移動式のソーセージ屋台では、店の主人と「ソーセージを賭けて」のゲーム、俗称“西巴拉”をすることができる。双方は順番にお椀の中にサイコロを投げいれ、勝ち負けは皆ソーセージである。一般に、このような小さな賭場では親(“庄家”)が有利だが、ソーセージの美味はしばしば、腹ぺこ(“飢腸轆轆”ji1chang2lu4lu4)の、或いはほろ酔い(“酒酣耳熱”jiu3han1er3re4)の客に、何でも怖いもの無し(“百無禁忌”bai3wu2jin4ji4)の、そして勇往邁進(“一往無前”yi1wang3wu2qian2)の気持ちでサイコロを投げさせる。こういう状況では、おごらされるのはいつもソーセージの屋台の主人である。とことん(“欲罷不能”)勝った時には、食べきれない程のソーセージは、屋台の席に座っている、眼に付いた客たちに手伝ってもらって食べ尽くすのである。ついている時は、車一杯のソーセージ分勝って、その場で大宴会、宴席の主は愉快に友好的な雰囲気の中で何度も杯を挙げる。ふと振り返ってみると、たった今まで何度も「数字戦略のゲーム」をした敗者が空っぽの車を押して、ひとり灯火の消えかけた夜の闇の中に消えていく。もちろん、車を押して帰れるのはまだ幸せで、向こう見ずな相手に出会うと、車ごと負けて取られるに至る。このような悲惨な時にも、彼はひとり家に帰る、自分の足で歩いて。
夜市にはこういったゲームがたいへん多い。万華の、和食屋台“寿司王”の主人は、一方の手で寿司を握りながら、もう一方の手で私たちの後ろの“気槍射香煙”(空気銃でタバコを撃つ)の屋台を指さした。「こんなに近い距離で、こんなに大きな的なのに――信じられないだろうけど、当たらないんだ。商売を始めてから今日まで、私は一発も撃ったことはないけど、毎晩ここに立っていると、たくさんの常識派の人がポケットの中の最後の一円まで負けている。彼らは本当はどれだけ寿司を食べられただろう。」彼の感慨深げな話を聞いて、厦門の肉粽店の主人のことを思い出した。テーブルが二つ三つしかない店を経営しているのだが、なんとマカオで一千万以上負けてしまった。イギリスの小説家Alain de Bottonは《水の如き年月の追憶》の中の最も長い文章は、標準字体で印刷すると4メートルに達し、ワインのボトルの底を十七周できると算出したが、私も計算してみようと思うのは、一千万人民元を全部肉粽に換算し、その米粒を一粒一粒並べたら、厦門から一路マカオまで、芳しい香りを漂わせて敷き詰めることはできないだろうか。
【原文】沈宏非《写食主義》四川文藝出版社2000年9月より翻訳