明英宗
第三節 北京の政治
明朝が北京に遷都(1421年)以後、その最高統治集団、皇帝、王公、宦官、皇帝の親族、朝廷の大小の官僚たちは全て北京に集まり居住し、膨大な全部で78衛に分かれ、48万人いた軍隊が北京に駐屯した。北京は明帝国の政治、軍事の中心で、また全国最大の封建堡塁(ほうるい)であった。明朝朝廷は北京から中国全国各地に政令、軍令を発布し、中国全土の階級的矛盾や統治階級内部の矛盾が、ここ北京で集中的に反映していた。
明朝地主階級統治の強化
廠衛の北京での罪悪活動
成祖の永楽年間(1403年 - 1424年)から英宗の正統年間(1436年 - 1449年)初頭までが、明朝が最も強盛だった時期である。中国全土に亘って生産が一定の回復と発展が見られ、階級間の矛盾が比較的緩和され、明代の地主階級統治が比較的安定し、明の太祖洪武帝の統治時期の基礎の上に、専制主義と中央集権制度が以前よりも強化された。
明朝統治階級は中央集権を強化した。それは皇帝権力の高度な集中の現れで、皇帝は「小事と雖も耳を傾けなければならな」かった。皇帝が最も信任した人物は、内閣の大臣と司礼監と宦官であった。内閣は南京から遷都して以来、北京の皇城の午門内に設けられ、明朝統治者が全国的な重大な政務を処理する場所であった。内閣の大臣は皇帝が自ら官僚の中から選抜したが、これらの人々は皇帝の顧問にしかなれず、皇帝の指揮下、政事を処理する手助けをした。司礼監は明朝の北京の宦官の24衙門中の第一の衙門で、ここの宦官の権勢が最大で、彼らは皇帝が最も信頼していたしもべで、宣宗の宣徳年間から大学士の陳山を含め書堂に宦官へ学問を教えさせてから、彼らは皇帝に代わり上奏文(奏章)をチェックすることができただけでなく、また皇帝に代わり政令を広める(伝布)ことができ、権勢は実際に既に内閣の大臣より上であった。具体的に政務を執行する中央機構は、吏、戸、礼、兵、刑、工の六部と都察院であった。
北京には更に二つの直接皇帝の制御を受ける特殊な権力機関があり、「東廠」、「錦衣衛」と呼ばれた。 東廠は宦官を首脳とする警察(偵緝)機構で、1420年(永楽18年)北京東安門北(今の東廠胡同一帯)に設置を開始した(『明史』巻95『刑法3』)。「錦衣衛」は元々皇帝の警護隊(衛隊)であった。この二つの機構を結合し、共同で北京で特務活動に従事した。錦衣衛内には更に特殊法廷、監獄と特製の各種の刑具を設け、その中で在任の指揮(指揮官)、校尉(部隊長)、東廠の小番(外国、少数民族の文武官)、檔頭(労役担当の責任者)の中で職位が比較的高いのは勲戚(功績のある皇族、王族)や宦官の家の子弟で、それ以外は大部分が順天府域内の悪徳地主(悪覇地主)やごろつきが当てられた。檔頭と校尉は頭にとんがり帽子を被り、足には白い靴を履き、いつも北京城の内外を巡邏(パトロール)し、彼らが不審に思う人物に出会うと、逮捕して錦衣衛の獄中に連行し拷問をした。これら一群の血なまぐさい死刑執行人(刽子手)たちは、統治階級内部の、皇族に不満を持つ反対者を偵察する以外に、主に働く一般大衆に対し、残酷な迫害を行った。彼らは北京の人々の目の敵(死対頭)であった。人々は、「廠、衛」に対し、歯ぎしりをして恨み憎んだ(切歯痛恨)。
明朝朝廷は京城地区の人々を押さえつけるため、更に城内に五城兵馬司を設置し、兵馬司内に多くの巡捕(取り締まり兵)を設置し、校尉らと共同で城を守り夜間巡邏をし、また通行人の捜査の責務を負った。明朝朝廷はまた城内各坊の住民を、人数によって多くの舗に分け、舗毎に舗頭と火夫若干人(三五人)を置き、総甲が統率した。郊外に住む住民は保甲(10軒の家を牌、10牌を甲、10甲を保として組織内部で互いに監視し、不正を見逃した時は連帯責任を負わせた)に分け、保毎に牌、甲数人を設け、若干の精強な人民は強制的に兵とし、捕官が統率した。総甲と保甲の職務は明朝廷に代わって徴兵、懲役すること、及び人々が勝手に土地を離れ移住するのを制限することだった。こうした末端の組織の強化は、明朝朝廷が人々の反抗を防止するためであり、既に統治力が城坊や郷村まで及んでいたことが分かる。
北京防衛戦
明の英宗の正統年間(1436年 - 1449年)以後、明朝の地主階級の政権は日増しに腐敗し、統治階級の政権内部での矛盾も日増しに尖鋭化し、宦官による専制の局面が出現した。宦官の専制は極端な専制の中央集権政治の産物であり、明朝の地主階級の政権の腐敗の現れであった。この時、中国全土の土地併呑の趨勢が日増しに激しくなり、人々が封建国家に対して負担すべき租税や徭役も重くなり、土地を捨てて逃亡する人々が益々多くなり、農民蜂起が相次いで爆発した。
北方の辺境の情勢も緊張が高まり、モンゴル草原ではオイラート部(瓦刺部)の統治者トゴン(脱歓)が蒙古諸部を統一した。トゴンの死後、彼の息子エセン(也先)が引き続き実力を拡充し、積極的に明朝に対する進攻を準備した。
明朝の統治階級の内部で、政権を操縦していた宦官の首領の王振は積極的に辺境防備の手配をしていなかっただけでなく、却ってオイラートの使者からの賄賂を受け取り、こっそり兵器を個人的に輸送し、オイラートの統治者と交易を行った。内閣を中心とする官僚グループ中の一部の人は、オイラートの勢力が強まるのは明朝の災いであると見做し、北京が侵略される可能性があるのを心配し、軍備強化を主張した。しかしこれらの人は宦官の排斥を受け、自身の主張を実現することができなかった。
1449年(正統14年)7月、オイラートは軍を四路に分けて南下し、エセンは自ら兵を率いて大同を攻撃し、明朝は辺境に沿って各地で烽火に火を点けた。英宗は宦官王振の策動の下、軽はずみに「親征」をする命令を下した。
エセンの軍隊は各地で人々の勇敢な反撃を受けた。しかし英宗と王振らは大同に着くと、エセンの兵力を恐れたので、直ちにまた兵を率いて宣化に引き返した。明軍は土木堡(今の河北省懐来県の東)でオイラート軍と遭遇した。英宗はオイラートにより捕虜にされ、王振は陣中で死亡し、明軍はすんでのところで全軍が壊滅しそうになった。オイラート軍はほしいままに掠奪をはたらき、軍民男女数十万人を殺戮した。これがいわゆる「土木の変」である。
土木の変
明軍は土木堡で潰走し、北京城は非常に切羽詰まった状態に陥った。この時、明朝宮廷の官僚たちは二種の異なる態度をとった。宦官に付き従う大官僚の徐有貞らは妻子を本籍地に送り返し、また朝廷を南方に避難させるよう主張した。これらの人は恥ずべき逃亡派である。兵部侍郎于謙をはじめとする人々は直ちに戦争に備えよと主張した。彼らは北京の存亡は、明朝全体の存亡に関係し、北京を防衛すべしとした。彼らは抗戦派である。一連の議論を経て、最後に抗戦派が勝利を得た。
于謙
于謙を頭とする抗戦派はこの時数項目の緊急の措置を行った。第一、再び南遷を主張する者は、軍令に基づき斬首すると宣言した。第二、王振の一味(党羽)の誅殺を宣言した。第三、英宗の弟、郕王(せいおう)を立てて皇帝にすることを宣言した。第四、至急で北直隷、河南、山東等の地に書状を発し(馳書)、火急に兵を動員して北京の支援に来るよう命令した。これら数項目の措置は、士気を鼓舞する作用を果たした。王振の一味で錦衣衛の指揮、馬順の死体の首が街頭に晒され見せしめにされた時、「軍民は猶争い撃めるを已めず」(『正統実録』巻181)、そこから人々がこれら悪事の限りを尽くした(無悪不作)人民の敵(刽子手)に対し、たいへん強烈な憎悪を抱いていたことが分かる。
北京を守るため、北京の人々は直ちに戦闘行動を開始した。
軍仗局と盔甲(鎧兜)廠の手工業職人は優れた仕事により数日の内に大量の鎧、兜を製造した(『明史』巻153『周忱伝』)。軍器局の手工業職人も緊急で武器や大砲、戦車の生産に入った。戦車は驢馬の牽く車を改造して作り、車体を鉄の鎖でつなぎ、各車に「神銃」一基を据え、刀と盾を持った兵士(刀牌手)五人を載せることができた。
都市の住民たちも積極的に九つの門の防御の工事に加わった。数日のうちに沙攔(砂を突き固めて築いたバリケード)5100丈(1丈は3.3メートル)余りを完成させた。
住民たちは更に次々と食糧の運搬にも参加した。この時、通州に備蓄した倉米はまだ400万石(1石は100升)あり、京軍の一年の兵糧に十分であった。明朝朝廷が官吏や下士官に京城を出て食糧を取って来るよう命令を下し、住民が運搬を手伝い、軍糧の問題も円満に解決した。
更により多くの身体が丈夫で力が強い人々が槍や刀を持ち、「任官し着任の報告をし」、直接今回の防衛戦に参加した。元々城内の兵士は10万に満たなかったが、9月までに、22万人に増加した。
この年の10月、エセンは果たして英宗を擁して紫荊関に入り、一路火を放ち掠奪し、まっすぐ北京城下に至った。宦官派の将校(将領)石亨は城門を閉ざすよう主張し、于謙は甲冑を羽織り、徳勝門外に駐営し、抗戦の決意を示した。オイラート軍は徳勝門を猛攻し、于謙は軍民を率いて迎え撃ち、敵の将校、「鉄頸元帥」を切り殺し、エセンの兄弟の孛羅(ボロト)も「神炮」で撃たれて死に、敵軍は全部で1万人余りが死傷した。オイラート軍は西直門を猛攻し、都督の孫鏜が軍民を率いて迎え撃ち、敵を退けた。オイラート軍は更に彰儀門を猛攻し、明軍戦車は四方に出撃し、「神炮」を一斉に発射した。この時、北京西郊の農民は、多くが屋根に登って磚や瓦を投げて援助し、叫び声が地を揺らした。戦闘は5日間続き、北京軍民の攻撃下、エセンは良郷へ退去せざるを得なかった。
良郷、清風店、大同等の軍民も立ち上がり侵略者を邀撃し、北京の軍民と互いに呼応し、北京の人々の闘争を強く支援した。
北京防衛戦は人々を感動させる(可歌可泣)正義の戦争で、北京史に輝かしい1ページを記した。傑出した軍事家、政治家である于謙はこの度の戦闘の手配りをうまく終え、今回の戦争を組織し指揮する中で卓越した才能を発揮し、後に団営を設立して戦闘力を強化した。(永楽時代、「五軍」、「三千」、「神機」の三営を設け兵を北京に置き、徴発を待ち、「三大営」又は「京営」と称した。以降、三大営の軍政は整えず、下士官は多くは訓練せず、軍令も不統一で、于謙はその中の強い者を選び、それを合わせて「団営」とした。)しかし人々の支持が無く、人々が抗戦を堅持せず、人々の意気上がる戦闘への熱意が無く、何人かの統治者内部の将軍に頼るだけであれば、勝利を得ることは不可能だった。于謙が今回の戦闘の中でたいへん大きな役割を発揮し得たのも、正に彼が北京の人々を信頼することができたからであった。
オイラートが捕虜にした明英宗を北京に送り返すと、彼は間もなく宦官派の徐有貞、曹吉祥、石亨などと結託(勾结)し、彼の弟、景泰帝と皇位の争奪を展開した。1457年(景泰8年)正月、英宗は彼の手先(爪牙)と東華門を奪い、再度皇帝の宝座に登り、直ちに于謙の逮捕を命じ、7日後に于謙を殺害した。于謙が「西市」(西市は明朝統治者が処刑を行う場所で、城内西四牌楼にあった)で殺される時、人々は彼に深い同情を寄せた。于謙は元々北京崇文門内の裱褙胡同に住んでおり、後の人がここに祠堂を建てて彼を記念した。
北京の人々の統治者への反抗闘争
大地主の利益を代表する最も反動的な宦官グループが勢いを得、全国の人々が受けた苦痛、とりわけ北京の人々が受けた苦痛はより深刻なものだった。
北京の宦官、勲戚、大官僚、大地主たちは、寺院を下賜(勅賜 )されたり、領地を求める(乞請)等の方法を通じ、大量の民田を占拠した。彼らはたいへん多くの庄頭(荘園の管理人)や「伴当」(従僕)を派遣し、そこに属する小作人(佃户)や農村の貧しい人々に対し、勝手にいじめや搾取を行った。彼らは更に城内で旅館や店舗を独占し、高利貸しを行った。
明の中期、錦衣衛の指揮、将軍、校尉、力士の人数は既に数万人にまで増加し、そのうちの多くが勲戚大臣や順天府付近の土豪地主の子弟であった。宦官が統轄する警察機構も、この時期日増しに拡大した。憲宗の成化年間、東廠の他、西廠を設け、武宗の正徳年間には、更に東廠、西廠の他、内行廠を設けた。東、西廠と錦衣衛の校尉は 京城の内外至るところで「逮捕状を出し(駕帖 )人々を捕え」、「人々に盗賊のぬれぎぬを着せた」(誣民(良)為盗)。成化年間には、人々の反抗を鎮圧するため、西廠の特務、頭子汪はいつも布衣(木綿の着物)を着、小帽(おわん帽)を被り、驢馬に乗って北京の都市部と農村部を密接に訪問し、北京城内外の住民に対して政治的な迫害を行った。当時の農民と都市住民は正に弥勒教の組織を利用し統治者に反抗する活動を進め、廠衛(東廠、西廠、錦衣衛など明朝の特務機構)の首切り役人(刽子手)たちは五城兵馬司(中、東、西、南、北五城の兵馬指揮司)の巡捕とあちこち「妖書」(弥勒教の経典を指す)を捜査し、弥勒教の信徒を逮捕(捉拿)した。逮捕できなければ、彼らはまた弥勒教の僧侶に扮した人を派遣し、信仰を勧め、人々がひとたび罠にかかれば、逮捕し役所に連行し、「妖言の種を蒔く」と称した。
内閣大臣の中の多くの人は宦官の手中で制御されていた。憲宗の成化年間、皇帝が長期間朝政を顧みず、ある時いきなり朝政に臨むと、大学士の万安が百官を率い、口々に万歳を叫び、京師の人々は彼のことを「万歳閣老」と呼んだ。別の大学士の劉吉は、北京で官吏を19年勤め、宦官へ賄賂を贈ったので、御史たちは何度も彼を弾劾するも、倒すことができなかった。弾劾する度に昇格し抜擢された。京師の人々は彼のことをあだ名で「劉綿花」と呼んだ。武宗の正徳年間、宦官の劉瑾が専制を行い、内閣大学士の焦芳は甚だしきは家に走って戻り、「提出した上奏を点検し、回答を準備する」ことさえあり、明朝朝廷の腐敗は、ここからもその一端を窺うことができた。
宦官、勲戚、大臣たちは極めて気ままで贅沢で荒淫な生活を送っていた。彼らの住宅は皆、「壮麗を極め、朱色の門が開け放たれ、画戟(がげき。古代の武器。戈(か)や矛(ぼう)の機能を備えたもの)が厳めしく並べられた。中には玉器や絹織物、犬や馬が蓄えられた。」一方、都市の貧民は、一畝(6.667アール。667㎡)の土地の中に、百戸以上の人家が暮らし、「しばしばベッドとテーブルがくっつき合い、台所とトイレが連なり、部屋は狭苦しく、甚だしきは首を伸ばして息をすることができなかった」。(呉寛『瓠翁家蔵集』巻31『陋清閤記』)
城外に住む地主や土豪は皆、 勲戚、宦官、荘園を管理する庄頭(荘園の管理人)、伴当(従僕)と結託し、ある者は 勲戚、宦官の取り巻きを頼って彼らの手下になった。農民の生活は、王公や勲戚、地主、富豪の残酷な搾取や使役が頻繁に行われ、暮らしは日増しに貧困し悲惨であった。順天府が統轄している地域全体で、農民の逃亡者の人数が日増しに増加した。
北京城内に流れてきた人々の一部は、ある者は労務者として雇われ、ある者は乞食に没落し、ある者は街頭で野垂れ死にした。明の統治者はたいへん恐れ、前後三回に亘り北京の流民や無戸籍の労務者を城外に追い払ったが、何れも反抗に遭い取りやめとなった。1509年(武宗の正徳4年)内行廠は北京城内に住む研磨工、水利工、店舗の労務者計1千人余りを追い払った。労務者たちは東直門外に集まり、劉瑾を処刑しなければ、集会をやめないと公言した。劉瑾は恐れ、命令を取り消すしかなかった。
皇室の荘園、宮廷の荘園の管理者である軍の校尉の圧迫の下、多くの農村の人々が集まって反抗した。1497年(弘治10年)宦官の李広らが京畿で土地を占拠し、危うく人々の武装暴動を引き起こすところだった。この時期、北京西北郊外の西山と天寿山付近で農民が組織して武装した。1517年(正徳12年)順天府境の武清、東安、固安、涿州、盧溝橋、清河店の人々が次々立ち上がり、統治者に反抗した。北京西郊の農民は「千百を群」として官吏を襲撃した。
当時、明の統治者に対する打撃が最大であったのは、全国を震撼させた劉六、劉七が指導した農民蜂起であった。