中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

北京史(二十七) 第六章 明代の北京(5)

2023年07月29日 | 中国史

明英宗

第三節 北京の政治

 明朝が北京に遷都(1421年)以後、その最高統治集団、皇帝、王公、宦官、皇帝の親族、朝廷の大小の官僚たちは全て北京に集まり居住し、膨大な全部で78衛に分かれ、48万人いた軍隊が北京に駐屯した。北京は明帝国の政治、軍事の中心で、また全国最大の封建堡塁(ほうるい)であった。明朝朝廷は北京から中国全国各地に政令、軍令を発布し、中国全土の階級的矛盾や統治階級内部の矛盾が、ここ北京で集中的に反映していた。

明朝地主階級統治の強化

廠衛の北京での罪悪活動

 成祖の永楽年間(1403- 1424年)から英宗の正統年間(1436- 1449年)初頭までが、明朝が最も強盛だった時期である。中国全土に亘って生産が一定の回復と発展が見られ、階級間の矛盾が比較的緩和され、明代の地主階級統治が比較的安定し、明の太祖洪武帝の統治時期の基礎の上に、専制主義と中央集権制度が以前よりも強化された。

 明朝統治階級は中央集権を強化した。それは皇帝権力の高度な集中の現れで、皇帝は「小事と雖も耳を傾けなければならな」かった。皇帝が最も信任した人物は、内閣の大臣と司礼監と宦官であった。内閣は南京から遷都して以来、北京の皇城の午門内に設けられ、明朝統治者が全国的な重大な政務を処理する場所であった。内閣の大臣は皇帝が自ら官僚の中から選抜したが、これらの人々は皇帝の顧問にしかなれず、皇帝の指揮下、政事を処理する手助けをした。司礼監は明朝の北京の宦官の24衙門中の第一の衙門で、ここの宦官の権勢が最大で、彼らは皇帝が最も信頼していたしもべで、宣宗の宣徳年間から大学士の陳山を含め書堂に宦官へ学問を教えさせてから、彼らは皇帝に代わり上奏文(奏章)をチェックすることができただけでなく、また皇帝に代わり政令を広める(伝布)ことができ、権勢は実際に既に内閣の大臣より上であった。具体的に政務を執行する中央機構は、吏、戸、礼、兵、刑、工の六部と都察院であった。

 北京には更に二つの直接皇帝の制御を受ける特殊な権力機関があり、「東廠」、「錦衣衛」と呼ばれた。 東廠は宦官を首脳とする警察(偵緝)機構で、1420年(永楽18年)北京東安門北(今の東廠胡同一帯)に設置を開始した(『明史』巻95『刑法3』)。「錦衣衛」は元々皇帝の警護隊(衛隊)であった。この二つの機構を結合し、共同で北京で特務活動に従事した。錦衣衛内には更に特殊法廷、監獄と特製の各種の刑具を設け、その中で在任の指揮(指揮官)、校尉(部隊長)、東廠の小番(外国、少数民族の文武官)、檔頭(労役担当の責任者)の中で職位が比較的高いのは勲戚(功績のある皇族、王族)や宦官の家の子弟で、それ以外は大部分が順天府域内の悪徳地主(悪覇地主)やごろつきが当てられた。檔頭と校尉は頭にとんがり帽子を被り、足には白い靴を履き、いつも北京城の内外を巡邏(パトロール)し、彼らが不審に思う人物に出会うと、逮捕して錦衣衛の獄中に連行し拷問をした。これら一群の血なまぐさい死刑執行人(刽子手)たちは、統治階級内部の、皇族に不満を持つ反対者を偵察する以外に、主に働く一般大衆に対し、残酷な迫害を行った。彼らは北京の人々の目の敵(死対頭)であった。人々は、「廠、衛」に対し、歯ぎしりをして恨み憎んだ(切歯痛恨)。

 明朝朝廷は京城地区の人々を押さえつけるため、更に城内に五城兵馬司を設置し、兵馬司内に多くの巡捕(取り締まり兵)を設置し、校尉らと共同で城を守り夜間巡邏をし、また通行人の捜査の責務を負った。明朝朝廷はまた城内各坊の住民を、人数によって多くの舗に分け、舗毎に舗頭と火夫若干人(三五人)を置き、総甲が統率した。郊外に住む住民は保甲(10軒の家を牌、10牌を甲、10甲を保として組織内部で互いに監視し、不正を見逃した時は連帯責任を負わせた)に分け、保毎に牌、甲数人を設け、若干の精強な人民は強制的に兵とし、捕官が統率した。総甲と保甲の職務は明朝廷に代わって徴兵、懲役すること、及び人々が勝手に土地を離れ移住するのを制限することだった。こうした末端の組織の強化は、明朝朝廷が人々の反抗を防止するためであり、既に統治力が城坊や郷村まで及んでいたことが分かる。

 

北京防衛戦

 

 明の英宗の正統年間(1436- 1449年)以後、明朝の地主階級の政権は日増しに腐敗し、統治階級の政権内部での矛盾も日増しに尖鋭化し、宦官による専制の局面が出現した。宦官の専制は極端な専制の中央集権政治の産物であり、明朝の地主階級の政権の腐敗の現れであった。この時、中国全土の土地併呑の趨勢が日増しに激しくなり、人々が封建国家に対して負担すべき租税や徭役も重くなり、土地を捨てて逃亡する人々が益々多くなり、農民蜂起が相次いで爆発した。

 北方の辺境の情勢も緊張が高まり、モンゴル草原ではオイラート部(瓦刺部)の統治者トゴン(脱歓)が蒙古諸部を統一した。トゴンの死後、彼の息子エセン(也先)が引き続き実力を拡充し、積極的に明朝に対する進攻を準備した。

 明朝の統治階級の内部で、政権を操縦していた宦官の首領の王振は積極的に辺境防備の手配をしていなかっただけでなく、却ってオイラートの使者からの賄賂を受け取り、こっそり兵器を個人的に輸送し、オイラートの統治者と交易を行った。内閣を中心とする官僚グループ中の一部の人は、オイラートの勢力が強まるのは明朝の災いであると見做し、北京が侵略される可能性があるのを心配し、軍備強化を主張した。しかしこれらの人は宦官の排斥を受け、自身の主張を実現することができなかった。

 1449年(正統14年)7月、オイラートは軍を四路に分けて南下し、エセンは自ら兵を率いて大同を攻撃し、明朝は辺境に沿って各地で烽火に火を点けた。英宗は宦官王振の策動の下、軽はずみに「親征」をする命令を下した。

 エセンの軍隊は各地で人々の勇敢な反撃を受けた。しかし英宗と王振らは大同に着くと、エセンの兵力を恐れたので、直ちにまた兵を率いて宣化に引き返した。明軍は土木堡(今の河北省懐来県の東)でオイラート軍と遭遇した。英宗はオイラートにより捕虜にされ、王振は陣中で死亡し、明軍はすんでのところで全軍が壊滅しそうになった。オイラート軍はほしいままに掠奪をはたらき、軍民男女数十万人を殺戮した。これがいわゆる「土木の変」である。

土木の変

 明軍は土木堡で潰走し、北京城は非常に切羽詰まった状態に陥った。この時、明朝宮廷の官僚たちは二種の異なる態度をとった。宦官に付き従う大官僚の徐有貞らは妻子を本籍地に送り返し、また朝廷を南方に避難させるよう主張した。これらの人は恥ずべき逃亡派である。兵部侍郎于謙をはじめとする人々は直ちに戦争に備えよと主張した。彼らは北京の存亡は、明朝全体の存亡に関係し、北京を防衛すべしとした。彼らは抗戦派である。一連の議論を経て、最後に抗戦派が勝利を得た。

于謙

 于謙を頭とする抗戦派はこの時数項目の緊急の措置を行った。第一、再び南遷を主張する者は、軍令に基づき斬首すると宣言した。第二、王振の一味(党羽)の誅殺を宣言した。第三、英宗の弟、郕王(せいおう)を立てて皇帝にすることを宣言した。第四、至急で北直隷、河南、山東等の地に書状を発し(馳書)、火急に兵を動員して北京の支援に来るよう命令した。これら数項目の措置は、士気を鼓舞する作用を果たした。王振の一味で錦衣衛の指揮、馬順の死体の首が街頭に晒され見せしめにされた時、「軍民は猶争い撃めるを已めず」(『正統実録』巻181)、そこから人々がこれら悪事の限りを尽くした(無悪不作)人民の敵(刽子手)に対し、たいへん強烈な憎悪を抱いていたことが分かる。

 北京を守るため、北京の人々は直ちに戦闘行動を開始した。

 軍仗局と盔甲(鎧兜)廠の手工業職人は優れた仕事により数日の内に大量の鎧、兜を製造した(『明史』巻153『周忱伝』)。軍器局の手工業職人も緊急で武器や大砲、戦車の生産に入った。戦車は驢馬の牽く車を改造して作り、車体を鉄の鎖でつなぎ、各車に「神銃」一基を据え、刀と盾を持った兵士(刀牌手)五人を載せることができた。

 都市の住民たちも積極的に九つの門の防御の工事に加わった。数日のうちに沙攔(砂を突き固めて築いたバリケード)5100丈(1丈は3.3メートル)余りを完成させた。

 住民たちは更に次々と食糧の運搬にも参加した。この時、通州に備蓄した倉米はまだ400万石(1石は100升)あり、京軍の一年の兵糧に十分であった。明朝朝廷が官吏や下士官に京城を出て食糧を取って来るよう命令を下し、住民が運搬を手伝い、軍糧の問題も円満に解決した。

 更により多くの身体が丈夫で力が強い人々が槍や刀を持ち、「任官し着任の報告をし」、直接今回の防衛戦に参加した。元々城内の兵士は10万に満たなかったが、9月までに、22万人に増加した。

 この年の10月、エセンは果たして英宗を擁して紫荊関に入り、一路火を放ち掠奪し、まっすぐ北京城下に至った。宦官派の将校(将領)石亨は城門を閉ざすよう主張し、于謙は甲冑を羽織り、徳勝門外に駐営し、抗戦の決意を示した。オイラート軍は徳勝門を猛攻し、于謙は軍民を率いて迎え撃ち、敵の将校、「鉄頸元帥」を切り殺し、エセンの兄弟の孛羅(ボロト)も「神炮」で撃たれて死に、敵軍は全部で1万人余りが死傷した。オイラート軍は西直門を猛攻し、都督の孫鏜が軍民を率いて迎え撃ち、敵を退けた。オイラート軍は更に彰儀門を猛攻し、明軍戦車は四方に出撃し、「神炮」を一斉に発射した。この時、北京西郊の農民は、多くが屋根に登って磚や瓦を投げて援助し、叫び声が地を揺らした。戦闘は5日間続き、北京軍民の攻撃下、エセンは良郷へ退去せざるを得なかった。

 良郷、清風店、大同等の軍民も立ち上がり侵略者を邀撃し、北京の軍民と互いに呼応し、北京の人々の闘争を強く支援した。

 北京防衛戦は人々を感動させる(可歌可泣)正義の戦争で、北京史に輝かしい1ページを記した。傑出した軍事家、政治家である于謙はこの度の戦闘の手配りをうまく終え、今回の戦争を組織し指揮する中で卓越した才能を発揮し、後に団営を設立して戦闘力を強化した。(永楽時代、「五軍」、「三千」、「神機」の三営を設け兵を北京に置き、徴発を待ち、「三大営」又は「京営」と称した。以降、三大営の軍政は整えず、下士官は多くは訓練せず、軍令も不統一で、于謙はその中の強い者を選び、それを合わせて「団営」とした。)しかし人々の支持が無く、人々が抗戦を堅持せず、人々の意気上がる戦闘への熱意が無く、何人かの統治者内部の将軍に頼るだけであれば、勝利を得ることは不可能だった。于謙が今回の戦闘の中でたいへん大きな役割を発揮し得たのも、正に彼が北京の人々を信頼することができたからであった。

 オイラートが捕虜にした明英宗を北京に送り返すと、彼は間もなく宦官派の徐有貞、曹吉祥、石亨などと結託(勾结)し、彼の弟、景泰帝と皇位の争奪を展開した。1457年(景泰8年)正月、英宗は彼の手先(爪牙)と東華門を奪い、再度皇帝の宝座に登り、直ちに于謙の逮捕を命じ、7日後に于謙を殺害した。于謙が「西市」(西市は明朝統治者が処刑を行う場所で、城内西四牌楼にあった)で殺される時、人々は彼に深い同情を寄せた。于謙は元々北京崇文門内の裱褙胡同に住んでおり、後の人がここに祠堂を建てて彼を記念した。

北京の人々の統治者への反抗闘争

 大地主の利益を代表する最も反動的な宦官グループが勢いを得、全国の人々が受けた苦痛、とりわけ北京の人々が受けた苦痛はより深刻なものだった。

 北京の宦官、勲戚、大官僚、大地主たちは、寺院を下賜(勅賜 )されたり、領地を求める(乞請)等の方法を通じ、大量の民田を占拠した。彼らはたいへん多くの庄頭(荘園の管理人)や「伴当」(従僕)を派遣し、そこに属する小作人(佃户)や農村の貧しい人々に対し、勝手にいじめや搾取を行った。彼らは更に城内で旅館や店舗を独占し、高利貸しを行った。

 明の中期、錦衣衛の指揮、将軍、校尉、力士の人数は既に数万人にまで増加し、そのうちの多くが勲戚大臣や順天府付近の土豪地主の子弟であった。宦官が統轄する警察機構も、この時期日増しに拡大した。憲宗の成化年間、東廠の他、西廠を設け、武宗の正徳年間には、更に東廠、西廠の他、内行廠を設けた。東、西廠と錦衣衛の校尉は 京城の内外至るところで「逮捕状を出し(駕帖 )人々を捕え」、「人々に盗賊のぬれぎぬを着せた」(誣民(良)為盗)。成化年間には、人々の反抗を鎮圧するため、西廠の特務、頭子汪はいつも布衣(木綿の着物)を着、小帽(おわん帽)を被り、驢馬に乗って北京の都市部と農村部を密接に訪問し、北京城内外の住民に対して政治的な迫害を行った。当時の農民と都市住民は正に弥勒教の組織を利用し統治者に反抗する活動を進め、廠衛(東廠、西廠、錦衣衛など明朝の特務機構)の首切り役人(刽子手)たちは五城兵馬司(中、東、西、南、北五城の兵馬指揮司)の巡捕とあちこち「妖書」(弥勒教の経典を指す)を捜査し、弥勒教の信徒を逮捕(捉拿)した。逮捕できなければ、彼らはまた弥勒教の僧侶に扮した人を派遣し、信仰を勧め、人々がひとたび罠にかかれば、逮捕し役所に連行し、「妖言の種を蒔く」と称した。

 内閣大臣の中の多くの人は宦官の手中で制御されていた。憲宗の成化年間、皇帝が長期間朝政を顧みず、ある時いきなり朝政に臨むと、大学士の万安が百官を率い、口々に万歳を叫び、京師の人々は彼のことを「万歳閣老」と呼んだ。別の大学士の劉吉は、北京で官吏を19年勤め、宦官へ賄賂を贈ったので、御史たちは何度も彼を弾劾するも、倒すことができなかった。弾劾する度に昇格し抜擢された。京師の人々は彼のことをあだ名で「劉綿花」と呼んだ。武宗の正徳年間、宦官の劉瑾が専制を行い、内閣大学士の焦芳は甚だしきは家に走って戻り、「提出した上奏を点検し、回答を準備する」ことさえあり、明朝朝廷の腐敗は、ここからもその一端を窺うことができた。

 宦官、勲戚、大臣たちは極めて気ままで贅沢で荒淫な生活を送っていた。彼らの住宅は皆、「壮麗を極め、朱色の門が開け放たれ、画戟(がげき。古代の武器。戈(か)や矛(ぼう)の機能を備えたもの)が厳めしく並べられた。中には玉器や絹織物、犬や馬が蓄えられた。」一方、都市の貧民は、一畝(6.667アール。667㎡)の土地の中に、百戸以上の人家が暮らし、「しばしばベッドとテーブルがくっつき合い、台所とトイレが連なり、部屋は狭苦しく、甚だしきは首を伸ばして息をすることができなかった」。(呉寛『瓠翁家蔵集』巻31『陋清閤記』)

 城外に住む地主や土豪は皆、 勲戚、宦官、荘園を管理する庄頭(荘園の管理人)、伴当(従僕)と結託し、ある者は 勲戚、宦官の取り巻きを頼って彼らの手下になった。農民の生活は、王公や勲戚、地主、富豪の残酷な搾取や使役が頻繁に行われ、暮らしは日増しに貧困し悲惨であった。順天府が統轄している地域全体で、農民の逃亡者の人数が日増しに増加した。

 北京城内に流れてきた人々の一部は、ある者は労務者として雇われ、ある者は乞食に没落し、ある者は街頭で野垂れ死にした。明の統治者はたいへん恐れ、前後三回に亘り北京の流民や無戸籍の労務者を城外に追い払ったが、何れも反抗に遭い取りやめとなった。1509年(武宗の正徳4年)内行廠は北京城内に住む研磨工、水利工、店舗の労務者計1千人余りを追い払った。労務者たちは東直門外に集まり、劉瑾を処刑しなければ、集会をやめないと公言した。劉瑾は恐れ、命令を取り消すしかなかった。

 皇室の荘園、宮廷の荘園の管理者である軍の校尉の圧迫の下、多くの農村の人々が集まって反抗した。1497年(弘治10年)宦官の李広らが京畿で土地を占拠し、危うく人々の武装暴動を引き起こすところだった。この時期、北京西北郊外の西山と天寿山付近で農民が組織して武装した。1517年(正徳12年)順天府境の武清、東安、固安、涿州、盧溝橋、清河店の人々が次々立ち上がり、統治者に反抗した。北京西郊の農民は「千百を群」として官吏を襲撃した。

 当時、明の統治者に対する打撃が最大であったのは、全国を震撼させた劉六、劉七が指導した農民蜂起であった。


北京史(二十六) 第六章 明代の北京(4)

2023年07月27日 | 中国史

都城隍廟

 

第二節 北京の経済(続き)

 

 商業の繁栄 明朝廷の商人に対する苛斂誅求

 

 永楽初年、北京の商業はまだたいへん不景気(蕭条)で、当時は「商人(商賈)がまだ集まらず、市の喧噪(市塵 )はなお疏(まれ)」で、城外の交通はたいへん困難で、城内は至るところ広い空地であった。ここに建都後、明朝朝廷は前後して皇城の四門(大明門、東安門、西安門、北安門)、鐘鼓楼、東四牌楼、西四牌楼、及び朝暘、安定、西直、阜成、宣武各門付近に、数千軒の民家を建築し、一部は「民を召集し居住」させ、一部は「商人を召集し貨物を居」き、何れも「廊房」と呼んだ。このようにして、街の様子(市容)はかなり賑やかだった。

 その後、運河が通じ、北京と通州の街の内外で、また前後して多くの新しい「客店」と「塌坊」を建設した。「客店」は専ら客商(行商人)を呼び寄せ休憩させ、売買の紹介に責任を持つ仲買店(牙店)であった。「塌坊」は貨物を保管する倉庫であった。

 北京城の郊外にもたくさんの集市(マーケット、バザール)が出現した。北郊の碧霞元君廟は、市が立つ期間が来る度に、たくさんの農民がここに駆けつけ、糧食、農具など日用の必需品を売買した。城内には米市、豚市、騾馬市、菜市、驢馬市、果物市があった。徳勝門橋頭と崇文門外には窮漢市があり(一説には正陽橋に窮漢市があった。劉侗『帝京景物略』巻4『城隍廟市』参照)、ここは貧しい市民、中小商人、小規模商人が交易をする場所であった。西城旧刑部街の都城隍廟(全真教の道教寺院)は、永楽年間に建設され面目を一新した。毎月1日、15日、25日の廟会では、商品の陳列が三四里にも達し、綾衣やラシャ、磁器、書画、紙など、品種がたいへん多く、更に雑技場や食品の屋台があった。都城隍廟は明朝北京の繁華な娯楽(文娯)場所で、また北京城内で最も古い廟会(寺社の縁日)であった。また東城の灯市は毎年正月11日から18日まで開催され、会期になると各業界の商人がここで商いをし、真珠や宝石、玉、綾衣やラシャ、繻子や緞子が売られ、また各種の花火や飾り灯籠が販売された。皇城東安門の内市(宮中の人々が不要になった物を売る市場)では、しばしば多くの珍品が売りに出され、例えば園廠の漆器、景泰御前作坊の琺瑯器などのようなもので、ここは王公、勲戚、宦官、大臣が活動する場所であった。

 この他、北京の街市では、多くの大小の店舗が新たに店を開き、これらの商店は舗戸、或いは舗行と称された。舗戸はただ専ら商品を売るだけで、前述したように、少数は作坊(工房)を付設した店もあった。

 舗戸の中には、数千両、一万両以上、甚だしきは数万両の資金を持つ者もあり、店主は農村に土地を持ち、自身は土地を貸して利益を得る地主であった。彼らは北京に店を開き、自身は働かず、大部分が店員を雇って労働をさせた。これらの人には「富戸」(「富戸」は永楽年間に全国各地から北京に移って来た地主たちを指す。これらの北京に来た人は全部で3800戸で、明朝朝廷は彼らを徳勝門と安定門の城厢(城壁近く)を手配して住まわせた。その中のある者は幾つかの商業を兼業し、「一軒が何か所かで店を出す」者もいた)、一部の「軍戸」(軍戸中の一部の人は豊かな財産を持っていた。彼らは農村の中で軍屯地を領有していたが、屯田を「人に貸して、食糧(子粒)を分収」し、事実上搾取し地租を得る地主で、自分たちは都市に住み、別に生計を立てた。)、「匠戸」(当時一部の人は、食糧生産の賦役を避けるため、「匠戸」と偽称し、北京に来て店舗を開いた。)、「民戸」(民戸にも一部の地主が含まれ、彼らは農村で大量の土地を占有し、同時に城内では工商業を兼業していた)が含まれ、更に資金が豊富な大商人もいて、完全に城内の消費者で搾取者であった。その間に更に「貴戚舗行」があり、これは勲戚(功績のあった王族)たちが家人を駆使して開設した店舗で、彼らは権勢を頼みに、市場を独占し、商人に対し強奪行為を行い、どんな不正もやらないことはなかった。明朝の人々は、貴戚舗行は京城の一大災難だと非難した。

 またある舗戸は百両かそこら、或いはそれ以下の資金しかなく、彼らは中小の商人、小手工業者で、都市の下層に属した。ある店は自分ひとりや家族全員で働き、個別には一二名の丁稚(学徒)や店員(店伙)を雇い、普段は「人から店を借り」、時には街角で臨時に雑貨を売ることもあった。これらにも一部の「軍戸」、「匠戸」、「民戸」が含まれ、一般には自力によって生活し(自食其力)、これ以外は他に生活の術が無く(別無営生)、長期間生活は貧困に窮し、また封建国家と大商人の搾取を受け、いつでも元手を割って欠損を出し(賠本)、失業する可能性があった。

 明朝朝廷は北京の全ての舗戸の財産、人丁(人口。働き手の人数)を戸冊(戸籍)に登録し、また舗戸を三等九則に区分し、臨時の軍需があったり、内府の各衙門で足らない物があると、戸籍により舗戸に買弁を派遣した。明朝朝廷は北京の舗戸を132行に規定した。これは当時の業種により区分され、その目的は「官に応じて用を取」るためであった。自分の業種を督促する責任のある舗戸は国に代わって買弁の仕事をする人を「行頭」と呼び、佥(同業の人々)の中で買弁役とされた人は「当行」と呼んだ。 当行の人は随時朝廷に賦役を提供しただけでなく、多大な資財を立て替えなければならなかった。勲戚の官僚たちが開いた店舗は、国から賦役免除(「免帖」)され、富豪巨商も勲戚たちと結託(勾結 )し、賄賂(行賄)を用い、あらゆる方法を講じ(千方百計)「当行」となるのを避け、本当の「当行」となった人は圧迫された地位の小手工業者、中小商人であった。

『皇都積勝図巻』(部分)

 

 

 北京は孝宗の弘治年間(1488-1505年)には既に「人口が絶えず増加(生歯日繁)し、貨物は益々満たされ、坊市の人跡は、ほとんど容れるところが無」かった(呉寛『瓠翁家蔵集』巻45『左都御史閔公七十寿詩序』)。城内の住民は既に満ち、多くの人々は城外に住んだ。世宗の嘉靖年間、南郊の人口が増大し、京城南郊に位置する外城城壁も修築された。外城は新たな商業区となり、全国各地から北京に来た商人たちは、外城に部屋を借りて住み、民営の客店(規模の小さい旅館)、塌坊(一時預かりの倉庫)、大店舗はもっと数が多く、正陽門外大街は既に北京で最も繁華な街市のひとつとなっていた。『皇都積勝図巻』の中で描かれた正陽門外の商業の情況は、明代嘉靖末期から万暦初頭に至る北京の商業の繁栄する情景を反映していた。大明門前に位置する棋盤街、ここも「天下の士民工賈各々牒を以て至り、ここに雲集し、肩が触れ轂(こしき。車輪の中心の太く丸い部分)を撃ち、一日中(竟日)喧噪が止まなかった」(蔣一葵『長安客話』巻1『棋盤街』)。

 この時期、全国各地の商品の多くが北京に集まった。ここには、蘇州、杭州二州の錦緞(花柄の絹織物)、松江の三棱(ひ。杼)布、江西の南豊大篓紙(明代、江西省南豊県特産の竹紙(竹を原材料に作った紙)で、竹籠に入れて販売された)、景徳鎮の磁器、佛山鎮の鉄鍋などがあった。ここでは、全国から来た生銅(製錬されていない銅)、熟銅(製錬された銅)、響銅(銅、鉛、錫の合金で、楽器などに使われる)、生鉄、熟鉄、鋼材、桐油、綿花、各種染料があり、また全国から来た薬剤、香料、茶葉、蔗糖(しょとう)、海産物(干物、海鮮)などがあった。『酌中志』の記載によれば、熹宗の天啓年間以前、毎年北京に来る貨物は、朝廷が直接徴税し、宝石、金珠、鉛、銅、砂汞(辰砂(しんしゃ)や水銀)、犀象(犀の角、象牙)、薬剤、布帛、絨貨の他、テン(貂)の毛皮1万枚余り、キツネの毛皮6万枚余り、平機布(機械織りの布)80万匹余り、粗布(太さの不揃いの糸で織った布)40万匹、綿花6千包、定油(印刷インク)、河油45千篓、荆油35千篓、焼酒(白酒)35千篓(籠の数。京師で醸造されたものは含まず)、ゴマ3万石、草油2千篓、南絲5百馱(家畜が背負う荷の数)、楡皮3千馱(各香舗に提供して香を作るのに用いた)、北絲3万斤、串布10万筒、江米35千石、夏布20万匹、瓜子1万石、醃(腌)肉(塩漬けの豚肉)2百車(1輌の車に載せられる分量)、紹興茶1万箱、松羅茶2千馱、大曲、中曲、面曲140万塊、四直河油5千篓、四直大曲20万塊、玉5千斤、豚50万匹、羊30万頭などがあった。もちろん、これはおおよその推定数であるが、これは明朝後期の商品経済の発展を反映していて、その中の大多数が封建貴族、官僚、地主の享楽に供する消費物であった。

 また、多くの貨物が北京を経由して西北の韃靼、東北の女真などの少数民族地区へ転送された。万暦年間、沈徳符が北京会同館前で、貨物の積み込み状況を見ると、磁器の積み込みだけでも、車一輌毎の木箱の高さが3丈余り(約10メートル)で、全部で数十輌にも達したルソンから伝わったタバコは、天啓年間には「北土でも多く之を植え」、思宗の崇禎15年(1642年)、北京では既に「売る者が四方に満ち」た。そしてとっくに「九辺」(辺境地域)に伝わっていた。

 この時、白銀(銀。銀貨)は既に北京市場で通用する貨幣となっていて、商品は多くが銀で勘定した。労働者を雇うのも、銀で給与を計算し始めた。都市郊外に住む貧民は商店で雇われ、朝早く出勤して夜遅く帰宅し、給料は毎日25文か30文で、30文毎に約銀4分に換算された。内府で皇后や妃に雇用されたコックは、こまごまとした褒美以外に、毎月更に受け取る工食銀(銀で受け取る給料)が数両になった。

 商品貨幣経済の発展に伴い、明朝朝廷も嘉靖45年(1566年)こう規定した。上二等の舗戸を除いて、それ以外の7等の舗戸は一律に銀両(銀。両はテール(tael)、銀貨の単位)を納めることになり、銀で以て賦役に代えた。1579年(万暦7年)北京の132行中の網衬、針篦、碾子(ひき臼)、焼煤、刊字、淘洗(洗濯)など32行は、皆「当行」(職人に対する賦役)を改めるという名目で、その納銀を免除した(『宛署雑記』巻13『舗行』)。このことは、当時の都市の工商業の繁栄にとって有利であった。しかし別の面では、明朝の統治者はまた商人に対し種々の制限と掠奪を行った。武宗の正徳年間以降、北京にはより多くの官営の店舗が出現し、著名なものには福徳店、福順店、和遠店、宝源店、順寧店、普安店などがあった(皆今の王府井大街一帯にあった)。(『酌中志』巻16『内府職掌』)北京に来た商人は大多数が官営の店で荷下ろしし、彼らはただ官営の店の紹介を通じて、貨物を各商店に販売することができた。こうした官営の店は宦官が管理していて、毎年商人から税として銀を数万両徴収し、既に皇室の巨大な収入となっていた。万暦の時、神宗は崇文門と張家湾の官営店を彼の兄弟の潞王と皇帝の第三子の福王に賜い、彼らはそこで店租(店舗の家賃)を徴収し、また商税(商業税)を徴収し、外地の商人を招いたり止めたりし、また商品を卸売りし、また皇帝より専売権を取得し、付近の仲買の利権も一律で奪い取った。万暦24年(1596年)神宗はまた宦官を方々に派遣し商税、礦税(一部の有色金属に対する特別税)を徴収した。北京も中国全土と同様、徴税監の張嘩、王忠が大挙商業税を徴収し、商業税の額は10万余りにまで増加し、そして「河西での税務は外税、また通湾で税の調査があった。崇文門の税務は内税で、また視察して回り損害を取り締まった。城中にはまた税課司があった。」「北京の東は要害の地で、水運、陸運が合流し、重複して徴税され、数倍から数十倍になった」というような状況であった(『万暦実録』巻503)。城中の舗行に対しては、銀両を徴収するだけでなく、商人から搾取し、「命令下、搾取される者は死に赴くが如く、厚く賄賂を贈って税の免除を求め」、或いは「別途、貧民から代わりに搾取した」。(『明史』巻82『食貨』6『上供採造』、『万暦実録』巻373)こうした苛斂誅求(横征暴斂)の下、外地の商人が足を止めて北京に入って来なくなった(裹足不前)だけでなく、舗商も多くが倒産して取引をやめた。このことは工商業の発展に深刻な阻害要因となった。

 


北京史(二十五) 第六章 明代の北京(3)

2023年07月19日 | 中国史

瑠璃廠

第二節 北京の経済(続き)

手工業 官営から民営へ

 元末の農民蜂起以降、元々ずっとモンゴルの支配者の官営の手工業部門で働いていた職人たちも、一定程度は解放された。明朝の支配層は手工業の職人を引き続き使役するため、職人を交替制の当番(輪班)と家住み(住坐)の二種類に分けた。職人たちは定期的に皇室のために使役される以外に、いくらかの自由時間でちょっとした手仕事で生計を立てた(営生)が、このことは明代の手工業発展にとりたいへん有利であった。

 

 永楽の遷都で、明朝朝廷は18万戸を交替制当番の職人とし、定期的にグループ毎に北京へ来て使役に就くよう規定した。三年或いは四年毎に一回当番(輪班)に当り、各戸から職人を一人出すので、推計で毎年北京に来て使役に就く職人は45千人余り、季節毎だと11千人余りであった。この他、更に27千戸の家住み(住坐)の職人を南京から引っ越しさせ、彼らは以後大興宛平両県の戸籍に附き、長期間北京に留まった(顧炎武『天下郡国利病書』14江南応天府の条。『宣徳実録』巻64

 

 全国各地の職人が北京に集まり、全国の様々な手工業技術もそれにつれて北京にもたらされた。手工業の職人がここで多くの精巧な手工芸品を作り出し、その他の軍人、庶民と共に気迫溢れる北京城を打ち立てた。明初の北京の官営の手工業は、鉄の製錬、銅の鋳造、紡織、或いは武器、火薬の製造の技巧で、何れも前代を超越した。織染局では、藍染(藍靛)工場で働く職人には32種の職種があり、糸打ち(打線)から巻き付け(絡絲)、クロスステッチ(挑花)、紡織、漂白(洗白)から染色まで、織りと染めの工程を含み、細かく分業されていた。兵仗局で使役されている職人は34種の職種があり、その中には弓職人、火薬職人、神箭(衛矛)職人などのように、皆特殊な制作技能を持っていて、彼らと軍器局の工匠が共同で生産した火器は58種の多さに達した。内府に服務する工匠の制作の漆器、香炉、景泰藍(七宝)瓶、鏤金 (彫刻し金メッキした)器物、宮扇(うちわ)などの工芸品は皆たいへん精巧で緻密で、雕漆(漆を塗り重ねて浮彫にした漆器)と 景泰藍は既に全国に名をはせた珍品となっていた。

雕漆

北京城郊外の各地で、官府(官庁、役所)の管理下で石を穿ち、焼き物を焼き、鉄の製錬に従事したかまどや炉の職人たちが、専ら北京城の石垣、宮殿、寺院やそれらの居室の修築のため原料を供給し、その中でもかまど職人が焼いた光輝く瑠璃瓦は猶更独特の風格を備えていた。手工業の職人たちが北京の面影を変化させたが、彼らが官府から受けた搾取はたいへんひどいもので、生活は苦しく、逃亡した者は「首枷や鎖をつながれ仕事をした」。

 

 当初、北京の手工業の工場や工房は、大部分が官営であった。明朝朝廷は一切の造営、制作の作業を内府工部で分担管理し、その下に更に若干の局、廠、窯、作が設けられた。局、廠は手工業或いは建築を管理する機構で、著名な五大廠が含まれていた。すなわち木廠、大木廠、瑠璃廠、黒窯廠、台基廠である。(朱一新『京師坊巷志稿』から高道素『明水軒日記』を引用)

北京の五大廠

窯、作は生産に従事する基礎組織で、例えば内官監の土、木、石、漆などの十作である。(劉若愚『酌中志余』巻下に附された天啓宮詞)内府に属する手工作坊は、生産品は専ら皇家の消費に供していた。工部に属する手工作坊は、生産品は国の大プロジェクトや軍需に供応された。各々の作坊は原料から職人まで全国各地から無理やり集めて来られ、作った製品は主に販売のためではなく、市場とは何の関係も無かった。

 

 しかし明朝中後期になると、官営の手工業はもう衰退の趨勢に向かい、手工業の職人たちは絶えず「冒籍」(戸籍のごまかし)、「脱籍」(氏名を官職名簿から削除する)、「失班」(勤務拒否)、消極的怠工(サボタージュ)や逃亡といったやり方で、激しい闘争を展開し、その結果官営作坊の職人は日増しに減少し、製品は日増しに品質が劣化していった。また商品貨幣経済が日増しに発展した影響下、統治者も労役制の職人を使うのは却って金で雇った労働者を使う方が有利であるのに及ばないと感じた。1485年(憲宗の成化21年)の統計では、内織染局には職人が10人しかおらず、針工局38人、銀作局23人、巾帽局はやっと5人で、このことは明朝朝廷をして工匠制度を少々改めざるを得なくなり、前後二回宣告し、全国の職人を交替で北京へ賦役に来させる方法を改め、銀で徴収することとし、一部の住み込みの職人はそれを改め朝廷雇用の短期工とした。(万暦『明会典』巻189『工匠』2)そして故郷に戻るにせよ北京に留まるにせよ、職人たちが大量に民間に流れ、「巷間で様々な仕事をし、衣食の糧とする者がとりわけ多い」という現象が出現した。(張瀚『松窓夢語』巻4『百工紀』)朝廷は次第に雇い人を使って生産するようになっただけでなく、必要な物に至っては、日増しに拡大する商品市場にも頼らざるを得なくなり、随時民間に行って買い付けた。

 

 北京城の郊外にはまた一部分私営の手工作坊と礦場(鉱石の採掘場)があった。手工作坊は例えば磨坊、酒坊、機坊、染坊、銅作坊、鉄作坊等々であった。嘉靖年間に、いくつかの胡同では、例えば馬絲胡同、包頭張家胡同、石染家胡同、唐刀儿胡同、沈篦子胡同、唐洗白街(張爵『京師五城坊巷胡同集』)は、私たちの推測では、これはおそらくここに住んでいた手工業者にちなんで名付けられたのだろう。これらの手工業者は正に彼らが際立って優れた技能と優秀な製品を以て北京の人々の称賛を得たのである。多くの作坊は店舗とつながり、前面が店舗で後方に小作坊(工房。工場)が設けられていた。そのうち隆慶、万暦年間に最も有名であったのは、制帽業では王府街の紗帽、金箔胡同の紗帽、双塔寺の李家冠帽。制鞋業では、東江米巷の党家靴。大柵欄の宋家鞋。制香業では本司院の劉鶴家香、前門外の李家線香。生薬舗では西鶴年堂の丸薬、帝王廟街刁家の丸薬。布店では勾欄胡同の何闉門家布があった。以上の作坊、店舗は主に封建貴族のために服務していた。それゆえ万暦年間に張瀚は全国、及び北京地区で大量の百工(様々な職人)を擁して様々な仕事をする(雑作)のを論述する時、すぐ続けてこう指摘した。「元勲、国戚(皇帝の親戚、外戚)、世胄(名門の子弟)、貂珰(宦官)で、贅沢が尽きることの無い(靡窮)のは、これでその欲望をかなえるに非ざる也」。(張爵『京師五城坊巷胡同集』『百工紀』)そうではあるけれども、彼らは市場と直接関わっていて、生産の目的は販売するためであり、これと官営の手工作坊とは既に明らかに異なっていた。

 

 北京の酒醸造業は比較的突出していて、北京城郊外の各地には酒店と酒醸造の作坊があった。酒の品種はたいへん多く、北京の名産には、玉蘭酒、臘白酒、珍珠酒、刁家酒、麻姑双料酒、奇味薏米(ハト麦)酒があり、最も流行したのは高粱を醸造した白酒であった。皇帝が飲んだ「御酒」の多くは御前作坊で醸造された。皇宮の北安門東の「廊下家」では、「凡そ宮廷内で同意し、長らく追随している者は皆、こうした酒の醸造で、金銭的な利益(射利)を得ていた。」その酒は黒っぽい赤色(殷紅)を呈し、「内酒」と呼ばれた。

 

 北京の印刷業は明朝中後期にも発展がみられた。「金台岳相」家が印刷した小説、戯曲は挿絵が精巧で美しいことで有名であった。また国子監と都察院が印刷した本は、市場へ行って販売し、民営の版木印刷の書物印刷業と利益を争った。この他、打磨廠と西河沿にも版木印刷の書物印刷の作坊があった。1638年(思宗の崇禎11年)、元々写本(抄写)で伝わって(傳递)いた『邸報』も北京で活字板を用いて組版印刷(排印)を開始した。

 

 北京郊外には更に採炭場(煤窑)、石窑、灰窑があった。採炭場を例にすると、成化、弘治年間、門頭溝などの地には既に多くの私営の採炭場があった。この後、この土地の 潘闌廟、孟家胡同一帯の住民は、多くが石炭売買で生計を立てた。(朱彝尊『日下旧聞』巻24宋慶明『長安可游記』の引用)石炭の販売市場は比較的大きく、故に邱浚はとっくにこう指摘した。「今京師の軍民百万の家は、皆石炭を以て給与に代えた。」(『明経世文編』73邱浚『守辺議』)1603年(神宗の万暦31年)、順天府尹の許弘綱は上疏してこう言った。西山等の地の石炭採掘業は、「官窯は一、二ヶ所しかなく、それ以外は悉く民窯に属し」(『万暦実録』巻381)、官営の鉱山の衰退と私営の鉱山がこれに代わり勃興したことを反映していた。

 

 民窯の多くは合資経営で、雇われ工員が採掘して運営された。雇われ工員の生活は貧困にあえいでいた。ここでは、広大な商品市場の基礎の元に、既に資本主義の萌芽が出現する可能性があった。しかし別の面で、明朝の人がまた盧溝橋以西の窯を開いた家を記載し、しばしば住民の子女に甘い言葉をかけて騙して炭鉱に入れて労働をさせ、逃げ出した者には問答無用で殺害し(『弘治実録』巻93)、民窯の中でも、その野蛮で遅れた工奴制の痕跡があることがまだ保たれていた。


北京史(二十四) 第六章 明代の北京(2)

2023年07月16日 | 中国史

染牙雕瓜蝶洗(北京故宮博物院蔵)

 

第二節 北京の経済

 北京は1421年(永楽19年)から正式に明帝国の首都になった。この時、南北を貫く大運河が既に開通し、全国各地の商品と物資が川の流れのように絶え間なく北京に運ばれた。農業、手工業生産の技術もここで広範な交流を得て、北京の経済は顕著に発展した。皇帝を頭に功績を上げた王族(勲戚)、宦官、官僚、地主から成る明朝の最高統治グループも大挙して北京城に引っ越して来た。北京の農業、手工業、商業も突出して封建統治者に服務し、北京は全国最大の消費都市となった。

農業と土地の占有関係

 元末の農民戦争は蒙古貴族の統治を打ち倒し、同時に漢族地主階級に極めて重い打撃を与えた。蒙古貴族と若干の漢族地主は彼らが元々権勢を頼みに占有していた一部分の土地を放棄するよう迫られ、農民と地主の緊張関係は暫時一定の緩和が見られた。北平府地区を含め、全国のある地域では、耕す者のいない荒地(荒田)や所有者のいない田地(閑田)が増加していた。農民の懸命なる耕作の下、耕地は絶えず開墾されていき、洪武2年(1369年)北平府が私有地(民地)として報告した土地がやっと780頃(1頃は6.6667ヘクタール)に過ぎなかったのが、同8年(1375年)には29114頃、26年(1393年)には少なくとも既に7万頃を超過していた。(永楽大典本『順天府志』巻8の洪武『図経』から引用。7万頃の土地は正徳『明会典』巻19『田土』に掲載の順天等八府の洪武26年の田地582499頃に基づき推定。

 

 早くも都建設以前、明朝朝廷は前後して山西太原、平陽、澤、潞等の土地から住民を北京に遷し(遷民)て開墾(屯種)させ、耕牛、農具、種籾を与えた。宣宗の宣徳年間、北直地方(直隷。今の北京、天津)では、洪武年間の山東、河南の事例を参考に、「民間で新たに荒地を開墾した者には、永久に銭糧を課さない(不起科)」と規定した。このようにした目的は農民を土地に縛り付けるためであるが、客観的には北京地区の農業の回復と発展を加速するのに有利であった。

 

 北京近郊の土地は多くが小麦を植え付けたので、小麦が北京地区の主要な農産品になった。遠い郊外の山区は小麦が植えられた以外に、大麦、蕎麦、高粱、粟、橹豆(黒豆の別名)、黒豆などの雑穀も産出した。次第に北方に経済作物の綿花が広まり、明初は既に北京順天府に属する各県で植えられていた。(永楽大典本『順天府志』巻11『土産』。万暦『順天府志』巻3『食貨』)

 

 個別の地区でも水稲が植えられた。京城内の西苑、積水潭、近郊の海甸、西湖、青龍橋、草橋、京西の房山大石窩、京東の通県、薊州、玉田、宝坻、豊潤、さらに北京西南の良郷、易州でさえも、畦(あぜ)の連なる水田があった。

 

 園芸業もたいへん大きな発展があった。平則門(阜成門)外の住民は、ある者は野菜を植えることを業とし、野菜畑はたいへん良く手入れされ、数十畦毎に井戸と桔槔(きっこう。はねつるべ)が置かれた。野菜の品種はたいへん多く、またたいへん良く育った。(孫承澤『春明夢余録』巻64の楊士奇『郊游記』引用)北京地区の野菜では蔓菁(蘿蔔。ダイコン)と菘菜(白菜)が最も有名で、蔓菁には紅、白、青、水、胡の五種類あり、菘菜の中の箭杆(矢柄)白菜は、粒が大きく、美味で、ひとたび冬に入ると、皆が次々窑(洞窟)を掘り貯蔵し、一層北京の人々が好む特産になった。(陸容『菽園雑記』巻6

白菜を洞窟の中で保存

明末の人、徐光啓によれば、北京の菘菜の施肥の技巧は南方に勝っていた。豊台、草橋一帯の農民の多くは花卉栽培を業とした。そこでは、「牡丹、芍薬など、栽培品種がたいへん多かった」。農民たちは接ぎ木(接枝)が巧みであっただけでなく、「穴地煴火(熾火、おきび)」(つまり温室)の栽培方法を用いた。(楊士聰『玉堂薈記』下)そして厳冬の季節にも、春夏秋に育つ瓜や鮮花を得ることができた。

 

 いくらかの土地は直接皇室が占有し、宦官、衙門の経営管理に属するものは、「禁地」或いは「禁場」と呼ばれた。禁地には護壇地、護陵地、海子(湖沼)地、牧養地、畜養地、果園地、菜地、牧馬草場、公田、皇庄が含まれていた。これらの地域には一般の軍民の出入りが厳しく禁じられ、魚を捕ったり、狩りを行ったり、草を刈ったりすることは何れも許可されなかった。ここで耕作を行う農民は、多くが外地から移ってきた者、或いは順天府からその「投充」(充当、投入)が許可されていた。彼らは若干の土地を分配され、賦税、徭役が減免されたが、皇家の代わりに特殊な科差 (課税や賦役)を負担しなければならなかった。例えば壇戸(祭祀場の財物やお供えを司る)、陵戸は祭祀用のお供えを準備しなければならず、牧養戸は牛馬を畜養し、畜養戸は鶏やアヒルを畜養し、海戸は樹木を栽培し、園戸は野菜や果物を栽培した。皇庄や牧馬草場で耕作をするのは農民で、皇家に高額の地租を納めなければならなかった。

 

 別のいくらかの土地は直接朝廷の官府(官庁や役所)或いは衛所(軍隊)が占有した。そのうち軍士(下士官)に分配されたものは軍屯と呼ばれ、農民に分配して耕作させたものは民屯と呼ばれた。軍士は各戸が田50畝(1畝(ムー)は6.667アール)領有し、毎年糧食を24石(1石は100升)納めなければならなかった。若干の軍餉(軍人の俸給)を与えなければならなかったが、もし毎年1畝当りの土地で5斗(1斗は10升)の糧食しか獲れないと、彼らの収穫は朝廷に持って行かれてしまった。農民は1戸当り田50畝を与えられ、1畝当り糧食1斗納める必要があったが、民屯の畝は比較的狭く、しかも多くが土地の痩せた(貧瘠 )山地にあり、地租を納める以外に、重い徭役も負担しなければならなかった。屯民の生活は少しも保障されておらず、彼らは封建国家の佃農(小作人)であった。

 

 官田以外、残りは民田であった。民田は糧食を徴収する土地とそれを免除する土地の二種類があり、糧食を徴収する土地は糧食を納めるのが賦役(当差)で、糧食免除の土地は官の代わりに馬を飼わなければならなかった。1412年(永楽10年)北直隷(直隷。京師に直属する地区)の人々は馬を受け取って飼い(領養)繁殖させ(孳生)(『宛署雑記』巻9『馬政』)、これより馬を飼うことが人々の負担の大きい賦役となった。種馬が病死したり、繁殖した子馬(1歳以下の馬。馬駒)の数が足らない時は、賠償しなければならなかった。それ以後、馬の飼育の政策は修正されず、土地の広さに応じて銀両に換算して納める(編派銀両)よう改められ、農民の負担は一層重くなった。

 

 北京城内に居住した王公、勲戚(勲功のあった王族)、宦官も近郊や順天府の各県に多くの土地を占有した。明朝中後期、もっと広い土地を併呑するうねりがこの地域で巻き起こった。王公、勲戚は表面上は皇帝に荒田を請求(請乞)しつつ、実際には大量に民地を併呑、またある場合は官田を占有、没収し、またある場合は地主の「投献」(田畑の収穫を官に委託し、それによって賦役を減らしてもらう)のためであった。地主たちの土地の献上、放出により、賦役から逃れることができるだけでなく、更には王公、勲戚の荘園の管理者(庄頭)とそのお供(親随)に委託し、或いはこれによって彼らの子息たち(子侄)が錦衣衛(明の役所名で、軍政の情報収集機関)の校尉(武官の官職)、力士(官職名)を担当し、勢力を頼みに人々を搾取する(漁肉人民)ことができた。

錦衣衛

1489年(孝宗の弘治2年)の統計では、京畿の各部門の勲戚、中官(中官は即ち宦官)の荘園(領地)は全部で332ヶ所あり、占有地は33100顷余り(『明史』巻185『李敏伝』)で、1521年(武宗の正徳16年)、北直(直隷)の荘園は20900顷余りにまで広がった。

 

 

 

 土地の併呑に参与したのは更に皇庄があり、皇庄は皇室或いは皇帝自身の荘園であった。弘治年間、京畿内外の皇室の荘園は五か所だけだったが、正徳年間以降は36か所にまで増加した。その中には、北京近郊の十里舗、大王庄、深溝儿、高密店、石婆婆営、六里屯、三里河、土城など九か所があった。皇庄を管理する宦官、軍校は一か所当り多いところで340人に及んだ。これらの人は荘園に着くや、租銀の徴収以外に、「およそ民間で舟や車の運行を管理し、牛馬を放牧し、魚やエビ、巻貝やカラスガイの捕獲、ガマの収穫、かすめ取らないものはなく」、それによって「天子のおひざ元で、生活が思うようにできなくなった。庶民の間で、貧苦が極限に達した。」(夏言『勘報皇庄疏』)荘園を管理する軍の校尉たちが、皇帝の看板を使って人々に損害を与え、その厳しさは王公、勲戚をも上回った。

 

 皇庄や王公、勲戚の荘園は最初は実際の収穫物を地租として徴収していたが、商品経済の発展と統治階級の貪欲さの増長にともない、明中期になると、相次いで「畝を見て銀を徴収する」、1畝当り租

銀は3分、5分、甚だしきは1銭にまでなった。こうした地租は「子粒銀」と呼ばれ、糧食を「時価」に基づき換算したもの(正徳『明会典』巻19『田土』)で、基本的には地租に換算し、収穫物による地租から貨幣による地租に変える過渡期の形態であった。

 

 明の世宗の嘉靖年間、穆宗の隆慶年間、神宗の万暦年間の統治初期、北京地区の土地の併呑の風潮はやや収斂した。これは北京南部での劉六、劉七の蜂起が明朝の統治者に巨大な衝撃を与えたからだった。そのため彼らは多少実地調査を行い、荘園を制限し測量する措置を取った。しかしこれらの措置は結局効果は微々たるものだった。嘉靖年間、外戚の陳万言は武清、東安の土地千頃を請い、皇帝は8百を賜うよう命じた。隆慶年間、また外戚の杜継宗に田地7百頃を賜った。神宗の万暦年間、北京に前後して清河皇庄、梁山河皇庄、寿宮皇庄が設けられた。『宛署雑記』の記載によれば、北京城の周囲百里の間に、王侯、妃主、勲戚、中貴(権勢を持った宦官)が墓を護り、線香を捧げる土地、各種の寺田(寺院所有の荘園)、皇帝から賜った土地がたいへん多かった。(『宛署雑記』巻4『山川』)北京近郊の房山、良郷、涿州に開いた水田も、多くが権勢を持った人々により併呑された。熹宗が宦官の魏忠賢に下賜(敕賜 )した田地は一度に2千頃に達し、魏忠賢は京師一帯に「公侯伯を封じた田地は、肥沃な土地を選び、1万頃を下らなかった。」(『天啓実録』710月)このことはまた、北直(直隷)地区、特に北京地区の土地が限られた層に甚だしく集中していて、そのひどさは、終始減らされることがなかった。


北京史(二十三) 第六章 明代の北京(1)

2023年07月12日 | 中国史

大明太祖朱元璋

 

第一節 北京への遷都

 1368年(明太祖の洪武元年)8月明軍が大都に攻め入って後、明朝統治者は大都を北平府に改称し、ただちにここに地方行政機構、北平布政使司を設立した。この時、北平はもう全国の首都ではなくなったが、政治、軍事上は依然として重要な地位を占めていた。明朝統治者はここを蒙古統治者の北方、東北の残余勢力から防御する主要拠点とした。応昌に逃げた蒙古貴族(応昌は今の内蒙古自治区達里泊(達来諾尔、元の捕魚儿海)付近)は、従前のように北平を奪い返し、明朝と対抗しようとした。

 明代辺境の各民族と内地の関係は継続して強化され、各族の統治者は政治上明朝と隷属関係を保持し、各族の人々と漢族の人々の経済、文化の付き合いは一層頻繁になった。当時、蒙古地方の統治者は明朝と対立する地位に処せられていたが、蒙古族の人々は漢族及びその他各族の人々との関係はまだ絶たれておらず、多くの蒙古族の人が依然内地に留まり生産を行い、また多くの蒙古族の人が正に内地に向け移動していた。(『洪武実録』巻66記載、洪武46月、「沙漠の遺民32860戸が北平府管内の地に屯田する」を以て、その中にたいへん多くの蒙古族の人々がいた。以後永楽、宣徳、正統の時代に更に多くの蒙古軍民が南に向け移動した。)蒙古地区の蒙古族の人々が農業経済生活に従事する比率は益々大きくなり、遊牧民も内地の物資を切実に必要とした。漢族と蒙古族の人々の関係の強化は、両民族の人々の共通の願望であった。

 各民族の関係の一層の強化も、政治上の一層の統一を要求した。当時、北平はたいへん多くのこの統一された多民族国家の都城となる上で優れた条件を備えていた。

 北平は曾て元朝の首都で、多民族統一国家の首都の伝統を備えていた。

 北平は蒙古と東北からたいへん近く、また東北と内地の連絡で必ず経由しないといけない土地で、明朝統治者は、ここに都を建設することは、東北の統治を維持継続するのに都合がよく、これにより蒙古族統治者の勢力を牽制することができると考えていた。

 明政権が打ち立てられて以降、元朝のすべての領土の統治権を極力継承しようとし、塞外の蒙古族地区を明朝の版図に組み入れることを望んだが、これは蒙古族統治者の拒絶に遭った。以後、蒙古族内部は三つの部族に分裂した。韃靼は蒙古高原の中部におり、西側は瓦剌オイラート)、東側は兀良哈ウリャンカイ)である。三部の統治者の間では、互いに惨殺し合い、争いが止まず、一面では絶えず内地に侵犯し騒乱を起こしていた。このことは、新たに建国した明政権にとって、最も深刻な脅威であった。明王朝は大軍を進駐させて北平を守り、将軍を派遣して北方の軍事を主管させた。明朝の統治者が次第に理解したのは、もし北平を首都にして、北平を最高統帥部の進駐場所にすれば、よりタイムリーに情勢の変化を把握でき、よりタイムリーに軍事力の手配や調整ができるということだった。

蒙古族3つの部族(西からオイラート、韃靼、ウリャンカイ)に分裂

 

北平地区の地勢は非常に険しく、敵を防ぐのに都合が良かった。東、北、西の三方の奇峰峻嶺は、北平の天然の障壁であり、しかも「水は甘露で土は豊潤、物産は豊富」であり、また長期間の防備にも有利だった。(『永楽実録』巻130)ここは南方との連係も比較的便利で、海上輸送で往き来でき、また運河を利用することもできた。

 洪武初期、明朝廷は北平に都を建設する計画があった。しかし、北方は元末に多大な破壊を受け、土地は広いが人口が少なく、経済がさびれ衰えていて、運河もまだ修復が終わっておらず、江南の食糧や物資を大量に北に運ぶ術がなく、首都を南京に建設するしかなかった。永楽帝の即位後、客観的な形勢がより切迫して北平への遷都を要求しており、永楽帝本人が曾て燕王に封じられ、長期間北平に進駐したことがあり、北平への重要な位置づけをより深刻に理解していた。1403年(永楽元年)、北平は北京と改称した。この時から、明朝は北京への遷都を計画し、長期の準備を行った。

 先ず解決したのは北京城への食糧とその他の物資の供給問題であった。北京付近には大量の軍隊が駐屯していた。また膨大な官僚組織を移してくる必要があり、また多くの大工がここで土木建設を行っていた。このため、食糧の需要への対応が切迫した問題であった。

 食糧供給解決の方法は、第一が北京での屯田であった。元朝末期、北京地区の農村はひどく破壊されていた。洪武年間を経て、農業生産は既にある程度回復していた。永楽初年、明王朝は一面では流浪している人々に、故郷に戻り職に復するよう命じた。また一面では山西等の地から土地の無い、或いは土地の少ない農民を北京に移して耕作させた。北京地区の軍隊も屯田を行い、また「罪を侵した囚人」にも北京に来て屯田するよう命じた。これらの農業労働に駆り出された人々の懸命な耕作により、北京の農業生産は顕著に発展した。

 第二は「開中」の塩法の実施である。「開中」とは辺境の地の駐留軍への給与(糧餉)支給を解決するため、商人に辺境に糧食を送るのを奨励し、その後、彼ら商人にそれと引き換えに「塩引」を与え、指定した地域へ行って塩を受け取らせた。永楽の時代、一度その他の地域の「開中」を停止し、「糧餉」をできるだけ北京に集中させた。

 北京の糧食は南方からの漕糧(水路で輸送する食糧)の「接済」(仕送り、援助)に依存していた。永楽の初期、明朝は元朝の時の古いやり方で、海上輸送で糧食を北に運んだが、海運はしばしば暴風雨や倭寇の強奪に遭い、損失がたいへん大きかった。陸路での輸送費の代価はさらに高かった。このため、1411年(永楽9年)臨清から済寧に到る会通河が開鑿された。揚州から淮安までの「湖漕」と、通州から北京までの通恵河に対しても、整備が行われた。1415年、江南から北京の運河が開通した。この年、北京に輸送された糧食は646990石に達した。

 糧食の供給が基本的に保証され、北京城の建設も積極的に進められた1420年(永楽18年)、宮殿が基本的に完成した。翌年、正式に北京に遷都した

 北京は明朝の都城となり、統一した多民族国家の強化、発展に対し、また北京城自身の発展に対し、重要な影響を与えた。

 明朝が都を北京に定めて後、各兄弟民族と北京中央政権の連係は更に緊密になり、全国の統一は一層強化された。当時、東北の女真族各部の首領は明王朝の封号(帝王や君主が授けた爵号や称号)や官職を受け取り、しばしば代表を派遣したり、自ら北京に来て、情勢報告をした。烏斯蔵(元明時代のチベット、チベット族への呼称)各部の首領も絶えず官員を北京に派遣し朝貢し、封号を与えるよう要求した。例えばパクモドゥパ帕木竹巴)法王のグループは新たな法王が出る度に、代表を北京に派遣し、明朝朝廷がその地位を承認するよう要求した。当時、北京に来たのは女真人チベット人モンゴル人、回人(ムスリム)、ウイグル人だけでなく、西南各地の壮族、苗族、傜族、傣族など各兄弟民族(少数民族)の代表もやって来た。明王朝は北京に会同館を設けて彼らを招待し、こうして中国全土の各民族間の連携を強化し、各民族の経済文化交流を促進した。各民族の代表に付き従い、多くの僧侶、商人が北京にやって来た。例えば1499年(弘治12年)烏斯蔵人(チベット族)が北京に来た時には、2800人余りがやって来た。とりわけ北方の各民族の場合は、もっと頻繁に北京に来て交易を行った。兄弟民族の人々の中には、北京に住みつく人さえいた。

明順天府行政管轄区略図

 

 北京遷都は、明朝の統治を強化する重要な措置であった。なぜなら、明朝朝廷が北京に遷都して以後、モンゴル貴族の侵攻の脅威を防止するのに効果があっただけでなく、これによって北方諸王の軍権や政権を解除し、彼らが分裂割拠する要素をできるだけ取り除き、明王朝の統一をより一層強固なものにすることができた。

 北京が再び中国全土の首都になって後、政治、経済上もたいへん大きな変化があった。

 明王朝は極端な専制主義中央集権の王朝で、この王朝を代表する皇帝と封建統治機構の中枢は何れも北京にあり、全国各地の全ての重大事件は、何れも北京で集中的に反映された。明の中葉及び明末の大規模な農民蜂起は、最後は必ず矛先を北京に向けた。

 封建統治階級の力は北京が最も強大であるので、政治の弾圧、階級の弾圧はその他の地方よりも苛酷であった。とりわけ人々を鎮圧する重要な道具となった東廠(特務機関、秘密警察)、西廠(東廠に追加して設けられた特務機関)、錦衣衛(明朝の諜報機関)は、北京の人々の鮮血で染められた。しかし北京の人々は終始屈服することなく、前の者が倒れたら後の者が続いていく、というように反政府活動を行った。

 多くの官僚、貴族が集まっていたので、数十万の軍隊が駐屯し、それに加え金を湯水のように使う富豪や大商人により、北京は全国最大の消費都市となった。商人たちは各地からここに来て取引を行った。とりわけ運河が開通後、南方の物資が続々と北京に入って来た。商業はとりわけ盛んになり、北京は当時北方で最大の市場であった。

 北京が15世紀初頭に明朝の首都になったことは、以後数百年の北京城の歴史的発展にとり、重大な意義を持った。