中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

北京史(二十二) 第五章 元代の大都(10)

2023年06月26日 | 中国史

頤和園内、耶律楚材祠

第三節 大都の文化(続き)

園林名勝

 白雲観、東岳廟 大都の新城が完成後、旧城の人々は新城に移り住み、旧燕城はさびれ始めたが、道観や寺廟は相変わらず参拝者の線香が絶えることがなく、大都の人々が歳時に行楽に行く場所となった。白雲観は唐の開元時代に建設が始まり、金代は天長観と称し、金末元初に太極宮と改称し、1227年更にジンギスカンの詔を奉じて長春宮と改名した。長春真人邱処機(邱長春)が弟子の王志謹に命じ、彼を中心に建設し、20年かけてようやく完成した。「層檐(何層もの庇)峻宇(屋根の急峻な堂宇)、金碧(黄金とエメラルドグリーン)爛 然(燦然と輝く)」。邱処機の死後、弟子の尹清和などが彼を処順堂に葬って後、観名を白雲に改めた。

白雲観大門

「四方(方々から)傾心(心惹かれ)帰向(帰依し)、来奉香火者不可勝計(数えきれない)」。おおよそこれ以降、毎年正月19日、京城の住民は次々とここに行楽にやって来て、これを「燕九節」と呼び、或いは「宴邱節」と書いた。この時には人々が込み合い、押し合いへし合いし(摩肩接踵)、たいへんにぎやかであった。道教徒たちは次のような作り話をした。この日、邱真人が変身して地上に降りてくる。或いは紳士、或いは淑女、或いは乞食の格好をしているかもしれない。善男信女たちは彼の姿を見たいと渇望したので、このことはこの祭日の神秘的な雰囲気を増加させた。

 

 城東の斉化門外の東岳廟は、龍虎山正一天師、張留孫が創建した。彼の弟子の董宇定、王用亨が廟の中に石壇を建て、壇を巡って杏千余株を植えた。毎年春、杏の花が満開(怒放)になる時期には、訪れる人々が絶えない(絡繹)。乃賢の詩に言う。「上東門外杏花開、千樹紅雲繞石壇」。ここは当時の有名な行楽地であった。

 

 双塔寺、万松老人塔  双塔寺はすなわち有名な慶寿寺で、元の場所は今日の西長安街一帯にあった。初め、金の大定の末に建てられ、元初の再建を経て、精美雄壮、「京師の冠と為る」。寺には多く金、元の碑刻と壁画があった。寺の西南に僧海雲可菴の二基の霊塔があるので、俗に双塔寺と称した。九重の塔は海雲の霊塔である。海雲、名は印簡、山西寧遠の人である。蒙古軍は嵐州を陥落させ、海雲を得た。海雲は北でジンギスカンに行宮(あんぐう)でまみえ()、頗る礼を以てもてなされ、「小長老」と尊称された。以後、彼は燕京に来ると、慶寿寺の滞在し、「燕国大師」と号した。元初の著名な政治家、劉秉忠は彼の弟子で、また彼の推薦によりフビライの幕僚になった。可菴は海雲を継いで慶寿寺の主となり、七重の塔は彼の霊塔である。元初の王惲(おううん)の記載によれば、「慶寿精蘭丈室の前は、松の木陰(樾)が庭に満ち(盈)、景色は清浄で落ち着いている(蕭爽)。曾て流水が東西の梁を貫くも、今は水は塞がれ(堙yīn)橋は廃され、二石が存するに止まる。塀上に「飛渡橋」、「飛虹橋」の六字を刻む……言い伝えによれば(相伝)亡き金の道陵(章宗)の筆也」。至元4年に大都を造営すると、塔がちょうど南城の城壁(墻)線上にあった。フビライは特に城壁を迂回して避けさせた。明初、成祖朱棣が皇帝位に即位するのを助けた著名な僧、姚広孝は慶寿寺に住んだ。このため大興寺に改めた。

ありし日の双塔寺

(慶寿寺の所在地は今の西長安街の電報大楼の西であったが、1954年長安街拡幅の際に取り壊され、現存しない。海雲禅師塔の前に建っていた禅師を記念する石碑のみ、北京の法源寺に現存している。)

 

 万松老人塔は今の西四牌楼の西にあり、塔は七重である。万松老人耶律楚材の師傅で、金元の間、燕京の従容菴に住み、『従容録』を著した。元が滅び、従容菴は廃され、何度も世事が変化し(几経事変)、塔は酒食店の中に囲まれ、誰もその謂れを知らなかった。明の万暦年間、僧楽菴が塔上に「万松老人塔」の石額があるのを発見し、それで資金を募って買い戻し、ここに住んで守り、塔を完全な形で保存してきた。

万松老人塔

 寿安山寺 西山余脉寿安山(また五華山や聚宝山と称す)の南麓に一寺院があり、寺院内に一体の特に大きな釈迦牟尼の側臥像があることから、人々は俗に臥仏寺と呼んでいる。臥仏寺は初め唐の貞観年間に建てられ、名は兜率寺と言い、紫檀(香檀)で彫った臥仏が供えられた。その後、各時代に建立されたが、比較的大きな再建が元代になされた。臥仏寺(俗称)は元代には寿安山寺と称した。『元史』の記載によれば、「延祐79月甲申、寿安山寺を建てる」とある。当時、敬虔な(虔誠)仏教徒であった元の英宗碩徳八刺は「銭()千万貫を与え」、勅を下し大規模な再建を行った。翌年春正月、元の至治と改まった。この年、「銅五十万斤を製錬し」(推測では実際の重量は約54トンくらい)銅の仏像を鋳造した。この銅仏は今日までよく保存されている。銅仏の長さは5メートル余り、側臥入睡の状態に作られ、各部位は均整が取れ(匀称)体つきはのびやか(体態自如)で、中国の貴重な歴史文物(文化財)である。元の至治3年、英宗が大臣の鉄失に上都の南坡で殺された。これ以降、寺院の建設は中止された。それから10年後、文宗の至順2年(1331年)、「寿安山寺を以て、英宗が建設して未だ完成せぬは、中書省に詔し、鈔十万錠を与えその費用に供す」こととしたので、完成することができた。完成後、大昭孝寺と称し、後にまた洪慶寺と改称した。これは元代の規模が宏大な工事で、当時の人はこう記述している。「山を穿ち寺を開き、最も巨刹と称すべき」。

臥仏寺

 名園 大都の園亭は、主に城の西南郊外に集中していた。その中で有名なのは例えば廉園万柳堂で、これは元初の著名なウイグル族政治家廉希憲の別荘であった。園の中には名花数万本で、京師第一と号し、特に牡丹の名品は、とりわけ当時の人々の羨望の的であった。元朝の詩人の吟詠の中に、少なからず廉園の景色や事物の描写があった。例えば「万柳堂前の数畝の池は、広げた雲錦(高級な錦の織物)で覆われたように、風で水面に波紋が立って(漣漪)いる」(趙猛頫詩)張九思遂初堂は、「堂を繞る花や竹、水や石の景勝は、都城に甲たり」。城西の玉淵潭は、言い伝えでは、金末の王郁が釣台に隠居したというのは、ここのことだという。元代には丁氏の住まいとなり、「柳堤を環り抱き、景色は肖爽(幾分さわやか)、沙禽(砂州の水鳥)水鳥、多く翔きその間に集まり、游賞佳麗の所と為る。元人ここに遊び、詩を唱和(賡和)するのが一時期隆盛を極めた(盛極一時)」。

 

 甕山・耶律楚材墓 玉泉水は東流後、西湖に合流する。すなわち、今の頤和園である。湖の後ろに山があり、名を金山と言い、また甕山と言う。言い伝えでは、ある老人が山上でひとつの石甕を得た。彩色で龍が描かれていたが、はっきりとは分からなかった。甕の中に数十個の物が入っていた。老人は中の物を持って行き、石甕はそのまま山の南側に置いておき、また不吉な予言(谶语)を書いた。「石甕を移す( )と、帝都は貧しくなる」。聞くところによると、明の嘉靖年間、甕は行方知れずになった。ちょうど明の朝廷も、この頃から国家の収入が次第に減少し、人々はこれはあの予言が的中した(応験)と信じた。甕山の麓には耶律楚材の墓がある。契丹族の人、耶律楚材は蒙古初年の有名な政治家で、彼は太宗オゴタイ窩闊台)を補佐し、政治制度の改革を推進し、モンゴルの遅れた奴隷制度を、華北や中原の都市に住み農業を行う封建社会の基礎に適応し、当時の社会生産とモンゴル族自身の社会発展に対し、進歩的な役割を果たした。彼は死後甕山の南側に葬られた。少なくとも明朝中期には、彼の墓地は既に荒れ果て存在しなかった。明人の沈徳符の記載によれば、彼の友人のひとりが京城外の西山に別荘を建て、偶然に一塚を発見し、木棺を開けてみると、中から大頭の頭蓋骨(顱骨)が出てきて、常人よりずっと大きかった。続いて、その傍らから石碑(石碣)が掘り出され、耶律楚材の墳墓であるのが間違いないことが証明された。当時、墳墓の上には尚、一体の石人像(石翁仲)がかろうじて立っていた。1627年(明の天啓7年)夏の夜、数百匹の蛍が石人の頭に集まり、きらきら光っていた。住民は迷信にかられて、驚き恐れ(驚駭)叫び声をあげ(大嘩)、言った。「石人の眼が光っている。」夜が明けると、多くの人が集まり、石像を(群起)打ち壊した。夜になると、蛍がまた墳墓の傍らの樹木の上に集まった。住民たちはまた驚き騒ぎ、木を切り倒した。これより、彼の墓の上は跡形もなく消え去った(蕩然無存)。


北京史(二十一) 第五章 元代の大都(9)

2023年06月21日 | 中国史

郭守敬

第三節 大都の文化

大都の文化(続き)

 科学技術 元代の大都の科学技術の成果は、主に著名な天文暦算学、水利学者の郭守敬の名前と関連していた。元朝が中国全土の大統一を完成させて後、郭守敬らは暦法の改変を任じられた。郭守敬は提起した。「暦の根本は観測(測験)にあり、測定する器具は先ず何よりも天文儀(儀表)である。」金が使用した司天渾儀(星座の位置を測定する計器。渾天儀(こんてんぎ))は北宋の汴京で作られた古い物で、大都で用いると緯度が異なるので、正確な測定ができなかった。郭守敬はこれを作り直し、また簡儀、候極儀、玲瓏儀、仰儀、立運儀、証理儀、景符、窺几、日食月食儀、星晷定時儀などの天文儀を創作した。

司天台(古観象台)

また正方案、丸表、懸正儀、座正儀をよその土地へ行って天文観測(測候)する時の計測器とし、この他、仰規覆矩図、異方渾蓋図、日出入永短図などを作り、以上の諸計測器と相互に参照した。1279年(至元16年)郭守敬らは北はシベリアから、南は海南島チャンパ(インドシナ半島南東部)に到る広大な範囲の中で、(日時計の)日影の長さ(晷景)を測定した。この基礎の上で授時暦を初めて制作した。1年を365.2425日と定め、地球が太陽を回る周期とはわずか26秒しか差がなく、現在通用しているグレゴリオ暦とほぼ同じだが、その出現より3百年余り早かった。司天台(天文台)は大都城の東南角に位置し、全ての計測器は銅の鋳物で作られ、その性能は「皆精妙に至り、蓋し古人の未だ及ばざる所」であった。

黄道儀

地平経緯儀

 白浮堰の修築も、郭守敬の智慧と創造力を十分に示している。通恵河の水源を広げるため、郭守敬は昌平東南の白浮、神山の諸泉を西に引き、流れを更に南に曲げ、双塔、楡河、一畝、玉泉の諸水を、瓮山泊(今の昆明湖)に集めた。全長30里余り(約15キロ)である。経路の選択を見ると、当時既に大都付近の地形の起伏の変化を正確に掌握していたことが分かる。郭守敬はまた海水面(海抜)を大都と汴梁の地形と比較し、汴梁は京師より高いとの結論を導き出した。郭守敬はまた金口を開いて永定河の水を大都まで引いて使用するよう主張した。洪水の氾濫を予防するため、彼は金口河の西岸で一本分流する水路を開き、ぞれにより洪水の脅威を減らすよう提案したが、この計画は実現に至らなかった。

 

 機械の製造の面で、当時大きな成果があった。民間の紡績(紡紗)碾(穀物を挽く石臼)は、「その作りはたいへん巧みで、横向きの歯車と縦の歯車があり、大小の側輪があり、一日に350斤作ることができる。」(残本『順天府志』巻10『土産』)京西斎堂の水車を利用した臼は、水力で動き、昼夜を利用し穀物30石余りを挽くことができ、扇糖(扇形の型で固めた砂糖)も水力で動かして作られた。尚食局の小麦粉工場は、「2階で粉を挽き、1階の設備で軸を旋回させた。ロバに踏ませても、人夫に行ったり来たりさせても、及ばない。しかもほこりや匂い、汚れが着くことがない。」これは腕の立つ職人の瞿氏が発明したものである。(『南村輟耕録』巻5『尚食麺磨』)元の宮廷の中の興隆笙、玉漏は、作りがたいへん精巧であった。元朝の末代皇帝、順帝は荒淫がひどかったが、機械の制作が好きで、しかもたいへん創意工夫を備えていた。彼が自ら設計した龍舟は、移動する時、「龍の首、眼、口、爪、尻尾が皆動いた」。彼が作った水晶の宮漏は、元々の玉漏よりもっと精巧で、複雑であった。これらは当時の科学技術レベルを反映していた。

 

 中外文化交流 大都の経済、文化の空前の繁栄は、中国全土の統一と国内の各民族間の経済文化交流の基礎に基づいていた。中国と西域の間の経済文化交流が頻繁であるのも、大都の繁栄を促進する有力な要素であった。

 

 多くの色目人が大都に転入してくるにつれ、中央アジアの医学、天文学、数学、音楽、舞踊や、様々な巧みで完璧な手工業技術、科学や計器類が次々と大都に伝わってきた。大食人(アラビア人)也黒迭儿は、大都宮殿の築造の中で、大工の管理を担当し、「功勲が授けられ、朝から晩まで暇なく、心で語り目算し、頼りになる指揮を授け、ことごとく画策があった」。(欧陽玄『圭斎文集』巻9『馬合馬沙碑』)慧忽思の『飲膳正要』は、専門的に飲食、衛生を研究した著作である。景教徒の愛薛(Ngai-Sie)は弗林人(フランク人。ゲルマン民族の一部族。東ローマ)で、フビライにより天文暦法(星暦)、医薬の二司、後に広恵司と改称、の管轄を命じられた。ここで「宮廷御用の回回(イスラム)薬と混合薬を制剤し、以て宿衛(当直)の兵士や北京で独り身で貧しい者を治療した」。ジャマールッディーン(扎馬魯丁。ペルシャ人)は1267年(至元4年)フビライに『万年暦』を献上した。元朝朝廷の中に専門の回回司天台(天文台)を設け、ジャマールッディーン(扎馬刺丁。扎馬魯丁と同じ)を提点(官名)とし、「天文観測(天象)と暦の展開(衍暦)を管轄」した。1273年(至元10年)北司天台が用いた回回(イスラム)書籍は全部で242部に及び、これらは何れも天文暦算、儀器製造、医学の著作及びいくつかの天文儀器であった。郭守敬が作った玲瓏儀は、「星座(星象)をその本体に彫刻し、腹の中に仰向けになってこれを観察する」。回回の天文儀から学び取ったものだ。(葉子奇『草木子・雑制篇』)これらの儀器の鋳造は、阿尼哥Anigoが完成させたものだ。これらの外来の科学知識は、中国の科学遺産をより一層豊かなものにした。

 

 中国と西域の間の交通の発展により、幾人かの欧州の旅行家も、長旅に疲れつつ東にやって来た。彼らの旅行記の中に、大都に関する記述を見ることができる。

 

 マルコポーロはイタリア・ヴェニスの人である。1271年彼の父親と叔父が二回目の中国訪問の際、彼も同行して来た。彼らは中央アジアを横断し、1275年(至元12年)上都に到着した。彼は中国に17年滞在し、頗るフビライの信任を得た。彼は中国滞在の大部分の時間を大都で過ごした。彼は大都の城内の湖、宮殿、瓊華島(けいかとう。日記の中では「緑山」と呼んでいる)、街道、夜禁(夜間の外出禁止)、商業貿易、紙幣、賑粜(朝廷の備蓄米を売って罹災者を救済する)、及び朝廷の儀礼、制度、更にアフマド・ファナーカティー阿合馬)が刺殺された等の重大な政治事件などを、詳細に記述し、しかもその内容は基本的に正確だった。彼は最も美しく最も華麗な形容で、大都の様々な面を称賛した。彼は大明殿を「この宮殿の大きなこと、これまで見たこともない」、「壮麗で豊かで、しつらえのすばらしさは、誠にこれを越えるものはない」と形容した。 緑山(瓊華島)の上では、「世界で最も美しい樹木は皆ここに集まっている」。彼は大汗(ハーン)の宮中での金銀の食器(器皿qì mǐn )の多さを称賛し、「実際に見た者でないと信じられない」だろうが、宮廷の「只孫」(「只孫」はモンゴル語で色の意味。『元史』巻78『輿服志』に言う。「質孫、華言の一色服也、内廷の大宴は之を服す。」)の宴会では、毎回大汗と人数が12千人に達する怯薛qiè xuē(モンゴル語で当直の兵士の意味で、宮廷の衛兵)は皆同じ色の服を着、「世界中の君主でこれに及ぶ者はおそらくいないだろう」。毎年正月元旦の日、国中の数か所で華麗な白馬十万匹以上が貢ぎ物として入れられ、また5千頭の象、無数の駱駝が身に錦衣を纏い、金銀財宝を背負い、大汗の前に行列する。これは「世界で最も美しい奇観である」。彼は大汗の狩猟の様子を詳細に描述し、言った。「故に余は世界の人々に敢えて言う。娯楽の極みは、これを優ることができるのは、大汗を越える者はいない」。大汗のゲルを覆っているシロリス、テンの毛皮は、「最も高価で、最も美しい二種の毛皮」であり、「テント2基と寝所の価値の大きさは、一国の王がとても持てるものではない」。彼は紙幣の発行が、「大汗が全世界の全ての財宝を越える財貨を獲得する方法」となっている、などと述べている。(『マルコポーロ行紀』中冊P323-420)当時の西方の人々が彼の旅行記を読み、驚き羨ましくてならず、このため東方への交易を求めるブームが燃え上がるのも当然であった。

 

 もうひとりの旅行家、斡多里克(ポルデノーネのオドリコ)は、1322年(至治2年)から1328年(天暦元年)までの間に、3年間大都に滞在した。オドリコも大都の宮殿、儀衛(儀仗兵)、怯薛(宮廷の衛兵)組織、狩猟、宴会等を詳細に記載し、基本的には同様に正確である。彼は特に大明殿の玉榻(玉の寝台)の前の大酒甕を記載しており、全て宝石で作られ、金で箍箍(たがが締められ)、それぞれの角に一匹の龍が付けられ、天価の宝物である。皇宮の中から一本のパイプで酒をその中に引き、傍らには多くの金の盃が置かれ、飲酒の用に供していた。オドリコも元朝の紙幣にはたいへん不思議に思い、これにより大量の富が皇帝の手の中に流れ込み、その膨大な支出を維持する手段となっていたと考えた。


北京史(二十) 第五章 元代の大都(8)

2023年06月19日 | 中国史

元曲作家、関漢卿

第三節 大都の文化

大都の文化

 文学芸術 元曲は歌舞・音曲・演技が一体となった舞台芸術である雑劇(戯曲)の台本のことで、中国文学史上、唐詩、宋詞と艶やかさを競う一輪のきらびやかで美しい鮮花である。早期の元の雑劇は主に大都という肥沃な花畑の中で育まれてきた。鐘嗣成『録鬼簿』に記載された元曲作家の原籍を考察できる87人中、大都は19人を占めた。その中には著名な作家、関漢卿(かんかんけい)、馬致遠、王実甫らが含まれている。明初に編纂された『順天府志』が引用する『析津志』残編の中に残っている元曲の大家、 関漢卿に関する記載によれば、「関一斎、字は漢卿、燕人、生まれつき洒脱で、博学で文章を善くし、滑稽で智慧多く、含蓄があって風流で、一時の冠(第一人者)と為った。この時は文章が愚昧で、独り奮い立つことができず、修辞に溺れることが久しかった。」関漢卿の創作生活は、大部分が大都で行われた。現存する元人の雑劇の中で、喬夢符の『黄金台』、瀋和甫の『燕山逢敵人』と無名氏の『燕山夢』は大都で発生した歴史故事を題材にして書かれたものである。

 

 雑劇の俳優は主に元朝朝廷の教坊司(宮廷に仕える楽人や妓女たちに宮廷音楽を教習させるための機関)所属の官妓であった。珠簾秀は本来の姓は朱で、「雑劇では今や抜きんでている」と推奨されていた。彼女は花旦(派手な若い女性)、軟、末、泥等の役柄を演じるのにたいへん造詣が深く、関漢卿と深い交流があった。連枝秀は本来の姓が孫で、彼の演技はたいへん感動的で、「人気を独占し、万人の喝采を浴びた」。天然秀も一時期大評判になり、彼女と元曲の大家、白仁甫とは親友であった。李蘭秀が出演した雑劇は3百余りあった。その他、李心心、楊隷儿、袁当儿、于盼盼、牛四姐らも有名な俳優で、牛四姐の夫はある唱社(劇団)の主演であった(『青楼集』)。俳優、娼妓は封建時代は身分がたいへん低く、彼女たちはじぶんの演技活動で宋金以来の戯曲の脚本、諸宮調を継承し、それらを大いに発展させ、元の雑劇の繫栄に尽きぬ素材と豊富な演技技術を提供した。彼女たちが雑劇発展の中で果たした役割は、簡単には無視できないものだった。元朝朝廷の規定では、「籍が正当な楽人である者を除き、その他の農民、市戸、良家の子弟で、もし本業に就かず雑劇を学んだり、台詞を演じたりすることは、どちらも禁止され、取り締まりを受けた」。(『通制条挌』巻27『雑令』)大都の街角で『琵琶詞』を歌う物売りなどの民間芸人は、「人々を集め、通りを塞ぎ、男女が入り混じり、もめ事を引き起こすだけでなく、ひょっとすると別の事件の発端になるかもしれない」(『元典章』巻57『刑部19・雑禁』)ことから、厳しく禁止された。

 

 大都では画家も人材を輩出した。山水画が得意であったのは、劉融(伯熙)、喬達(達之)、韓紹煜(子華)、高克恭(彦敬)、李希閔(克孝)。竹石であれば李衎(仲賓)、于士行(遵道)、張徳琪(廷玉)、李有(仲方)、劉徳淵(仲淵)、及び張敏夫、高吉甫、劉広之。花果(花や果実)であれば謝佑之。人物であれば李士伝。伝写(模写)であれば焦善甫、冷起巖。その他、僧侶や道士の中でも、絵画を能くする者は少なくなかった。

 

 著名な塑画家(塑像作家)の劉元は、宝坻(天津市)の人で、若くして出家し道士となり、青州の杞道録に師事し、多才多芸で、特に塑像制作に長じていた。劉元はまた都にいたネパールの名声高い師で腕のある職人、阿尼哥(アニコ、アニゲ、またはアラニコ)から西天梵像(インド式の仏像)の制作を学んだ。「神思妙合すれば、遂に絶芸となる」。あらゆる両都の著名な寺院は、「土で形作った像に金を貼り、脱胎(摶換)して仏とするのは、一に劉元の手から出れば、天下に比べるもの無し。いわゆる「摶換」というのは、先に土偶の上を帠(絹布)で覆い、更に帠の上を漆を塗り、その後土を取り去れば、漆を塗った(髹)帠はそのまま像となる。北京の言葉でこれを「脱活」と言う(つまり乾漆像)。後代の人々は劉元の名前を訛って劉蘭と呼んだ。玄都(道教寺院の名前)の景勝に到り、「劉蘭塑」を見るのが、京師の住民の好む遊覧鑑賞活動であった。言い伝えでは、ここの塑像は劉元の手で作られたものと言われる。右殿の三清は、「容貌が厳かで、道気が深い」。左殿の三元帝君は、「上元(帝王を指す)は帳面を執り、首を側け問う、疑う所あるが若しと。一吏跪きて答う、甚だ戦慄すと。一堂の中、皆ひどく恐れおののく(悚聴)。表情や動作は、あたかもその謦咳(けいがい。咳払い)を聞くが如し。誠に絶芸と称すべし。」(高士奇『金鰲退食筆記』下)元人の塑像は、高い肉髻 (にっけい。仏・菩薩(ぼさつ)の頭の頂上に隆起した、髻(もとどり)のような形の肉塊)と、細い腰が特徴で、明らかに西域の風格を持っていた。

肉髻

 曲陽県の人、楊瓊(ようけい)は、著名な石刻家であった。彼の家は代々石工であった。彼の玉刻を、フビライはたいへん楽しみ、絶技だと褒めた。大都で建造された石刻は、その多くが彼により完成された。(光緒『曲陽県志・工芸伝』)


北京史(十九) 第五章 元代の大都(7)

2023年06月17日 | 中国史

「江漢先生」趙復が理学を燕京に伝播した

第三節 大都の文化

大都の文化

 理学の伝播 理学は南宋の朱熹により集大成されたが、当時は中国全土の思想界の中では依然として支配的な地位にはなかった。北方では、金代に流行したのは三蘇(洵、軾、轍)の学で、北方の学者は多くは朱が注釈した『四書』を読んだことがなかった。1235年、オゴタイ(窩闊台)はクチュ(闊出)に宋を攻めさせた。当時、楊惟中(よういちゅう)、姚枢(ようすう)がちょうど従軍し、技術を持った儒者、道士、僧侶、医師、占い師を探し求めるよう命令を受けていた。彼らの庇護の下、捕虜となった儒者は皆罪を解かれた。江西省徳安の人、趙復、字は仁甫、彼は理学の信者で、捕虜にされてから、姚枢が彼を燕京に連れ帰った。これ以前は、「南北の道は絶たれ、載籍(典籍)は相通ぜず」。 趙復は燕京に来てから程朱(程顥(ていこう)、程颐(ていい)兄弟と朱熹)の著した諸経伝に注を記し、できるだけ記録して、重要な部分を付け足そうとした。この時、王擑(おうせつ)が燕京で創設した廟学は既に閉鎖され、 楊惟中と姚枢は対極書院を建立し、 趙復に程朱の理学を講義するよう依頼し、学者は彼を江漢先生と尊称した。楊惟中は書院の中に祠を立て周敦颐を祀り、また二程(颢、颐)、張(載)、楊(時)、游(酢)、朱(熹)を以て配食(配享。祭祀で主神に添えていっしょに他の神を祭ること)した。趙復の影響により、姚枢、許衡、郝経、劉因らは皆理学に改宗し、「北方で程朱の学を知るは、復より始ま」った。趙復の講義の助手を務めた王粋(元粋)は、若い頃は襄陽を放浪していたが、後に単身燕に帰り、道士となった。彼の詩は、もの悲しくわびしく、当時の社会の破綻や、人々が流浪し困窮する惨状をよく反映していた。

 通訳の人材を育成するため、1233年オゴタイは詔を出して国子学を燕京に建てさせ、モンゴルの子弟18人を遣わして漢語の文字を学習させた。漢人の子弟12人には、モンゴル語、弓矢を学習させ、儒士と儒学に通じた道士を選んで教えさせた。また学業を伝授された生徒は漢人の文書を学習する以外に、「併せて匠の技に習熟し、事は薬剤を用い、彩色を出し、地理州郡を記憶するに及び、下は酒の醸造、麹(こうじ)の種付け、水銀の製造、飲食の調理に至るまで、皆詳しく見て暁通するよう規定した。当時は全真教の道士が燕京で勢力が甚大で、儒士大夫の多くは道門に庇護を託した。燕京の学宮も「老氏(老子)の徒であるを保った」。学宮の主催者は楊惟中以外、葛志先、李志常の徒は皆当時有名な全真教の道士であった。

 元朝建立以後、1270年(至元7年)、フビライは近臣(侍臣)の子弟を11人選び、 許衡(きょこう)、王恂(おうじゅん)から学ばせた。 許衡は元代の著名な理学家で、 朱熹の学を伝えた。1287年(至元24年)政府は国子学を拡張し、生員(太学などで勉強する学生)120人、モンゴル、漢人が半々で、許衡の弟子の耶律有尚が祭酒を務め、「その教法は一に衡(許衡)の旧に従って」いた。「その立教は義理(言論の内容と道理)を本とし、省察(自分の思想、行動の検査)は真切(はっきりしている)でなければならない恭敬(礼儀正しい)を先にし、践履(実践)は正直で誠実でなければならない。およそ文詞の小技、編集(綴緝)彫刻は、聖人の大道を破裂させるに足り、皆これを排斥(屏黜)する。(『元史』巻174『耶律有尚伝』)これより、国子学は理学伝播の中心になった。1298年(大徳2年)丞相哈剌哈孙(ハラハスン,1257—1308)は城の東北に孔子廟と国子学舎を興し、皇慶(仁宗の代、1312‐132年のみ)の初め、集(ぐしゅう)が大都の儒学教授に任じられ、また岐陽の石鼓をその中に安置した。

 

 宗教 元朝は多民族の統一国家で、西方と特殊な連携を保持し、宗教上は一貫して兼容(包容)政策を取った。このため、大都城内では各種の宗教教派が同時に流行した。その中でも、ラマ教は皇帝の崇拝を得て、最も盛んであった。

 ラマ教はオゴタイの時代にモンゴルに伝わり、モンゴルの統治者の信仰を得た。フビライの時代、薩斯迦派(サキャ派)の八思巴(パスパ、パクパ)が帝師に封じられ、尊敬され光栄に輝くこと、比べる者が無かった。パスパの死後、歴代の皇帝の師を継承した。皇帝の即位に当り、必ず先ず皇帝の師が七回受戒してから、大位に登った。元朝の皇帝は皆仏教寺院を大いに建立した。フビライは高梁河に大護国仁王寺を建て、城内に大聖寿万安寺を建てた。成宗は大天寿万寧寺を建て、武宗海山(カイシャン)は城南に大崇恩福元寺(最初の名は南鎮国寺)を建て、また大承華普慶寺を建てた。仁宗は承華普慶寺を建て、英宗碩徳八刺(シデバラ)は寿安山佛寺を建て、泰定帝也先鉄木儿(イェスン・テムル)は天源延聖寺を建て、文宗図帖木儿(トク・テムル)は大承天護聖寺を建てた。これらの寺院は規模が広大で、装飾が豪壮であった。元朝政府は毎年仏事を行う累計が5百回以上にまで増えた。仏事を行うため、毎日羊を何万頭も用い、年間の消費が、小麦439500斤、油79千斤、バター21870斤、蜂蜜27300斤になった。仏教の経典を書き写すのに、金32百両余り消費した。その他の銀貨、(不動産としての)田畑の寄進の額は数えきれなかった。武宗の時、張養浩が上書してこう言った。「国家の経費は、三分割すると、仏教関係が二を占める」と。この面での浪費が深刻であったことが分かる。

 金、元時代に大都で流行した仏教は、ラマ教及び臨済、雲門、曹洞などの禅宗諸派以外に、いくつかの外道と見做された禅宗の別派、すなわちいわゆる糠禅、瓢禅の類があった。金朝政府は糠禅、瓢禅、五行、毗(毘)盧などの教派を厳禁する命令を出した。糠禅の創始者は劉紙衣である。この宗派は金末に伝播してから百年余りになり、弥勒仏の出現を信じていた。耶律楚材は彼らを「仏像を破壊、仏法を誹謗し、僧を排斥し経典を滅ぼし、布施の方法を捨て、懺悔の道を閉ざし、苦しみを救わず、孝行の気風を傷つけ、実に風俗教化を破壊すること甚だしい」と叱責した。ジンギスカンの時代、糠禅は燕京城内でたいへん流行し、「市井の工商の徒、糠を信じる者十に四五」と言われ、士大夫の中にも信仰する者が多かった。元に入ると、糠禅は頭陀教の名前で流行し、宮廷の中にも多くの信仰者がいた。張昱(ちょういく)『 輦 下曲』(れんかきょく)に言う。「肩に緑髪垂れ糠禅に仕える、淡く娥眉を掃き、自ずと憐れむ可し。内門を出入りし装飾盛んなり、満宮争いて女神仙を迎えん。」この記述がたいへん良くそれを証明している。この一派の廟宇が有名な有勝因寺である。白蓮教も釈迦外道の一種である。耶律楚材の『西游録』に言う。「西域に96種、これは毗盧、糠瓢、白蓮、香会の徒で、釈氏の邪也。」1274年(至元11年)大都の屠文正が百人余りを集め、白蓮社を建てた。しかし、この白蓮社と当時流行した南宋の白蓮会が、教義上で関係があるかどうかは、はっきりしない。

 元代に大都で流行した道教は、全真、正一、真大、太一の諸派であった。全真道士、邱処機(きゅうしょき)、号は長春真人(邱長春)、1219年お召を受け、万余里も跋渉(ばっしょう)し、往復3年をかけ、中央アジアで西征中のジンギスカンに見えた。彼はジンギスカンに対して言った。「国を治める方は、天を敬い民を愛するを本とする。長生の道は、清心寡欲を以て要となす」。彼は大いにジンギスカンの歓心を得た。当時、中央アジア回教徒が賦役を免除される制度に基づき、ジンギスカンより邱長春に聖旨を賜った。「邱神仙が必要な修行の院舎などは、日日経文を唱え、天下の人々に告げ、皇帝に長寿の万万歳を祝う場所である。大小の賦役を発すると布教を休まないといけない。邱神仙は出家した仏門の人であるので、随所の院舎は賦役を発するを免じる。」(李志常『長春真人西游記』。「底」は「的」、「毎」は「們」である)長春真人は燕京に戻ると、天長観(後に長春宮に改称)に住み、また瓊華島の万安宮に移った。当時、瓊華島は長く兵火を経て、深刻な破壊を受けた。邱長春は道院を拠点にしてから、「薪を切り魚を捕る者が後を絶ち、数年すると、園の池の中は鳥、魚が繁殖した」。全真道は賦役免除の詔書を持っているので、信者になって庇護を求める人が益々多くなった。道教徒は勢力を頼みにのさばり、仏教寺院を占拠し、勢力は極めて盛んだった。1227年夏、邱長春が赤痢に感染して死亡した。道士たちは物語を捏造し、長春は葆玄堂に登り仙人となり、「異香が部屋に満ちた」と言った。僧徒たちは極力彼が病の中苦しんだ有様を明るみに出し、また歌を作って言った。「一把(ひとつかみ)の形骸(身体)痩せた骨、長春一旦変ずる時、和濉は屎を帯び圊厠に亡ぶ、一道流れ来たり両道流る。(『至元辨偽録』巻3)道徒があまりにのさばっていたので、仏教徒、回教徒、キリスト教徒は連合して全真道を攻撃した。モンケの時代、和林で阿里不哥が宗教弁論会を主催した。その結果道教は失敗し、道士は強制的に髪を下ろさせられ、占拠していた寺院2百ヶ所余りを返還し、『老子化胡経』を焼却した。これ以降、ラマ教の勢力が益々盛んになり、引き続き全真道に対し攻撃と排斥を行った。フビライはそれで12801281年(至元1718年)の2回道蔵偽経雑書と印板の焼却を命じ、ただ老子の『道徳経』一書のみ焼かずに留保させた。しかし、全真教の基盤はしっかりしており、打撃を経ても、社会で尊びあがめられるのは衰えなかった。フビライが死に、成宗が即位すると、1295年(元貞元年)正月、詔を下し、凡そ道家が行う金箓(天帝の詔書)と科範(儀式の規格)は、仏教を侵犯しない条件で、自由に発展させた。元の時代を通じ、全真道はその他の宗教と同様、元朝政府の遵奉を受け、賦役免除の特権を享受した。

 元朝の時代、中国と西方の関係の密接化と中国と西方の交通の発展に伴い、大勢の中央アジア、或いは東欧の各民族の人々が大都に流入し、或る者は定住し、或る者は寄寓(僑寓)した。その中には、官吏、商人、伝教師、使節、下士官、職人、奴隷が含まれていた。このことは、大都城内でイスラム教やキリスト教が盛んになるのを促した。

 大都のイスラム教の情況については、残された史料がたいへん少ない。知ることができるのは、元初に、回回哈的(「回回」は回族。「哈的」カーディー。「卡迪」と表記することも。アラビア語でイスラム教法官の称号)の宗教事務を行う機関を設けたということだ。1311年(至大4年)朝廷の政局の変動に伴い、一部の色目人の高官が勢力を失い、そのため元朝政府は同時に明文で「回回哈的司属をやめる」と命令した。こう規定した。「哈的大司達は、彼らのよく理解している経典を教えることだけすればよい。回教徒の刑罰、婚姻、地租(銭糧)、訴訟、大小の公事は、哈的達がよく知っており、司官が委託した者に具体例を聞けば教えてもらえる。外に衙門(役所)を設立し、且つ委託した者達は罷免された。」(『通制条挌』巻29『僧道』)文宗が即位し、1328年(致和元年)11月、また 回回掌教哈的所をやめた。統治階級内部の複雑で激しい権力闘争の中で、色目人官僚のグループが再び打撃を受け、イスラム教組織も続けて打撃を受け、取り締まりを受けた。

 大都のキリスト教は、東方のネストリウス派(景教)だけでなく、ローマ天主教のフランシスコ会もあった。大都の景教徒の人数は3万人を越えたと言われる。彼らの中にはモンゴル地区の克烈部(ケレイト部)、汪古部(オングート部)、ナウマン部及び新疆と中央アジアの境の少数民族が含まれていた。彼らは皆「たいへん富裕な人」であり、「各種の封建官吏を独占し、たいへん大きな特権を有していた」。彼らは美しい教会を建設した。著名な景教徒Liebian Xiama(列辺・霞馬)が大都の人であった。 霞馬の父親がボイコットしたのは景教会の視察員であった。霞馬は1275年(至元12年)頃、東勝(オルドス)人の馬儿古思と共にエルサレムを巡礼した。馬儿古思は1280年(至元17年)契丹と汪古(オングート)の大教主に任じられた。1281年には景教の総主教に選ばれ、アブラハム3世と改名した。霞馬は1286年イリ(伊利)のハーン(汗)、総主教の使者となり、欧州諸国を遍歴した。

 大都の天主教は1293年(至元30年)頃、著名な宣教師ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノ(約翰·孟德高維諾)が転入した。モンテコルヴィーノはイタリア北部の人で、教皇ニコライ4世により派遣され、小アジア、インドを経て、海を渡って大都に到着した。1306年(大徳16年)までに、彼は大都で前後して二か所の教会を建設し、洗礼を受けた信者は6千人に達した。モンテコルヴィーノの宣教活動は、とりわけ大都に移住してきたアルメニア人、アラン人(阿速人)から歓迎された。当時、大都のアラン人( 阿速人 )は3万人いたと言われ、右、左衛阿速親軍指揮使司に分かれて所属し、元朝京師衛戍軍(守備軍)の主力軍団であった。モンテコルヴィーノの請求の下、教皇は1307年(大徳11年)宣教師7人を大都に派遣し、宣教を手伝い、またモンテコルヴィーノを大都大主教に任命する勅令を伝達した。この7名の宣教師は、ただガラルドゥス、ペレグリウス、ペルージャのアンドレウスの三人だけが1311年(元至大4年)頃大都に到着した。モンテコルヴィーノは1328年(泰定5年)死去した。阿速軍の高官は1336年(元の順帝の至元2年)使者をローマ教皇に派遣し、引き続き後継の主教を派遣するよう依頼した。教皇は1338年(至元4年)マグノリアを含む使節を陸路で東に派遣し、元の順帝に「天馬」を贈った。使節は大都に3年滞在してから、海路で西に戻った。

 当時の宣教師の報告によれば、彼らは大都で自由に宣教ができ、皇帝の尊崇を受け、皇帝の方から衣食に足りる「阿剌法」(アラビア語、意味は糧食や下士官の給料)を受けた。『元史・世祖紀』によれば、至元19年(1359年)「敕也里可温依僧例給糧」(「也里可温」エルケウンに僧例に基づき「糧」を給するよう勅令を出した)。ここでの「糧」は宣教師たちが言うところの「阿剌法」である。「也里可温」エルケウン は元朝のキリスト教徒に対する呼称である。


北京史(十八) 第五章 元代の大都(6)

2023年06月15日 | 中国史

元順帝(トゴン・テムル)

 

第二節 大都の政治経済情況

 

元末の農民大蜂起の衝撃下の大都

 財政破綻の大都 元朝末年、政治の暗黒、財政の破綻、階級矛盾、民族矛盾がこれまでに無く先鋭化した。統治階級内部の対立、争いも増加し止むことはなかった。1333年、和世㻋(コシラ。廟号は明宗)の子、妥懽帖睦トゴン・テムル)が即位した。順帝(明の追諡。廟号は恵宗)である。この時、燕の帖木が病死し、伯顔(バヤン)が代わって立ち、朝政を一手に握った。続いて、伯顔の甥の脱脱(トクト)がまたその叔父と対立し排除し、代わって右丞相となった。財政を救済するため、通恵河の運輸を改善し、脱脱は1342年(至正2年)強く主張し金口を再び開き、新河120里余りを開鑿し、 渾河(こんが)の水を通州の南の高麗庄に引き、御河(南運河。海河流域、永定河支流、桑干河の支流)と合流させ、海運した税糧を引継ぎ大都城内まで運ぼうとした。全部の工事を4か月以内で完了させ、水門を開いて放水した。しかし水流の勢いが急で、泥や砂が詰まって、船が航行できず、埋めてしまうしかなかった。その結果、人々を労役で苦しめ、財政を浪費し、使った費用はおびただしいものだった。京師では脱脱丞相が無駄な川を開いたことを笑い種として広まった。その後、脱脱はまた1350年(至正10年)独断専行し、貨幣を改め、至正宝鈔を発行した。その結果、またも「これを行ってしばらくして、物価が高騰し、物の価格が十倍を越えた」。大都城中で料鈔10錠で1斗の粟に交換しようとしたが、得ることができなかった。京師から江南に行くと、『酔太平』という小令(元曲の一形式)が流行していた。「堂々たる大元、姦佞専権、川を開き貨幣を変えるが禍根の源。紅巾万千を惹きつける。官法が氾濫し、刑法は重く、民衆は怨む。人が人を食べ、貨幣が貨幣を買う何ぞ曾て見る。賊が官になり、官が賊になり、賢愚が混同する。哀しいかな憐れむべし。(陶宗儀『輟耕録』巻23)その実、元朝の病症は深く、救い難い状態になっており、決して脱脱が丞相になったことに始まるのではない。けれども脱脱が推進した財政を救う措置がでたらめであったので、その結果なおさら民衆の怨みが沸騰した。1341年(至正元年)以来、全国各地の人々の反抗闘争が、あちこちから巻き起こった。この年、山東、燕南では、「盗賊が縦横無尽に出没し、それが3百ヶ所以上に達した」。1342年、「京城の強賊が四方より立った」。1346年「京畿で盗賊が立ち上がった」、1347年「通州で盗賊が立ち上がった」。京城の天子のおひざ元で、民衆蜂起が火が原野で燃え盛るように起こり、その勢いは消し止めるのが困難だった。京師で流行った童謡に言う。「一陣の黄風一陣の砂、千里万里人家無し。振り返れば雪は消え見るに堪えず、三つ目の和尚は馬の目を見えなくさせた」。また言う。「塔は黒い。北人が主人となり南人は客。塔は赤く輝き、朱衣の男が主人公になった」。(『元史』巻51『五行志』第三下)これらは皆ひとつの角度から人心が揺れ動き、当時の嵐が起ころうとしている不穏な情勢を反映している。1351年(至正11年)江淮地区で勢いの盛んな紅巾軍が蜂起した。元朝の絶大な部分の軍事需要と、大都の様々な生活物資は、主に運河と海運に依存して取り寄せていた。統計によれば、平時には、毎年恵通河から京師に届く米は5百万石に達した。海運の食糧は最高で毎年350万石余りに達した。その他の官府に納められる賦税(征輸)を加えると、総計で毎年京師に入る歳糧は13508884石であった。そのうち江浙(江蘇、浙江)が40%強を占め、河南が20%強、江西が10%強、腹里(すなわち中書省直轄の河北、山東、山西等の地)10%強、湖広(湖南、広東)、陝西、遼陽が全部で20%であった。この他、また金3百錠余り(1錠当り50両)、銀1千錠余り、鈔1千万錠余り、生糸100万斤余り、綿7万斤余り、布帠(ふはく)48万匹余りを徴収した。(『庚辛外史』)これらの物資の半分は江浙より来た。農民蜂起は元帝国を腰のところから真っ二つに分断した。「蘇州を失い、江浙から届かない。湖広を失い、江西から届かない」。そして「元京は飢え困窮し、人が人を食べた。」これに加え、中原は毎年干ばつとイナゴの害で、田畑の穀物は悉く空となり、人は食べ物が無く、イナゴを取って食料とした。元朝は瞬く間に政治が麻痺状態に陥り、財政は破綻状態であった。

 

 食糧の欠乏を救済するため、1352年(至正12年)、脱脱の建議により、北京郊外の西の西山から、南は河間、保定まで、北は檀州、順州まで、東は遷民鎮(今の河北省秦皇島市東の山海関)の地まで、稲田を開拓し、江南の農民を募集し、法律を制定し田を耕し、司农司を分けて指導させた。年間収入は20万石に達し、これを「京糧」と名付けた。実行の過程で、官吏は屯田を名目に、ほしいままに良田を占拠し、人々に苦痛をもたらした。これに加え、官吏の統治は腐敗し、管理が混乱し、使った費用は極めて多かったが、その成果は焼け石に水で、欠乏を和らげるには百に一つ、遠く及ばなかった。特に中原地区の農民蜂起の高揚に伴い、また大量の山東、河南、河北の人々が逃亡して大都に入り、城中の人口が大量に増加し、食糧問題は更に深刻になった。凶作が大都城をすっぽり覆い、疫病もそれにつれ猛威を振るった。1358年、1359年(至正1819年)の間、人々の餓死、病死は百万人近くに達した。大都城の十一の城門の外に、それぞれ万人坑を掘って死体を埋めた。この時の大都は既に見渡す限り荒涼とし、生活が困窮してたまらず、もはや昔の状態に戻ることはなかった。

 

 北京郊外の破壊はとりわけひどかった。官軍は貪欲で狂暴で、「京師は煩瑣で規律が無く、数百里内では人をさらって食料にし、府県を率先して破壊した」。北京郊外の諸城は、涿州が比較的良い状態を保っていたが、このためなおさら諸軍閥が垂涎を垂らして占拠する目標にされた。1359年(至元19年)3月、官軍の一師団が涿城に入って割拠し、「人々の鼎や鍋で油を煮られる者(食べられた者)は毎日合わせて何千何百になり」、このような状態がずっと15日続いてから去って行った。その翌年の4月、また別の一師団が州城を陥落させ、財物を掠奪し焼き払い、より残酷極まる状況だった。(『日下旧聞考』巻129『京畿・涿州3』、夏以忠『昭祐霊慧公廟碑記』)涿州の一例を通して、北京郊外各地の破壊が如何に深刻な程度に達していたかをあらまし知ることができる。

 

 一面では餓死者が町中に溢れ、至るところ、故郷を追われ、苦しみうめく被災者がいた。また一方、元朝の最高統治者である順帝は、逆に益々贅沢で堕落した生活に溺れていた。吐蕃(とばん)の僧が順帝に荒淫を欲しいままにするよう教え、また彼に人生はいくばくも無く、我が「秘密大喜楽禅定」を受けよ、と言った。そして、皇帝は毎日その法術を行い、広く婦女を集め、公然と淫乱行為をし、「聞くに堪えない声、みだらな行為がはっきり外まで聞こえ、市井の人々といえども、これを聞いて憎悪した」。彼はまた宮女を選んで十六点魔舞を踊らせ、荒淫の宴を楽しみ、夜も昼間のようにして騒いだ。倉庫に保管した穀物を、悉く寵愛する女につぎ込み、百官の俸禄は、茶、紙、こまごまとした物で帳尻合わせがされた。順帝、奇后、皇太子が互いに対立し、朝臣もそれぞれ徒党を組んだ。地方で軍を擁立し対立していた孛羅帖木儿(元末の将校。ボロト・テムル羅」はモンゴル語で「鋼鉄」の意味))と拡廓帖木儿(ココ・テムル 。「拡廓」はモンゴル語で「青」の意味)が、互いに腹をさぐり合い争った。 羅帖木儿は二度、兵を挙げて北京を攻め、 奇后を監禁し、皇太子を追放し、自ら大権を一手に握った。1365年(至正25年)6月、順帝は羅の侮辱に耐えきれず、人を遣って羅を刺殺させ、また人々に、羅の統率する川軍を見たら皆殺しにせよと命令を発した。人々は次々家の屋根に上がり、瓦や石を投げ、川軍の死者は町中に溢れた。続いて拡廓帖木儿が兵隊で太子を護衛して北京に戻って来た。彼らの隊伍が入城する度に、城内では何度も掠奪が行われた。

 

 紅巾軍の北伐 1358年(至正18年)韓林儿、劉福通が率いる紅巾軍3ルートから大挙して兵を進め、西路が関中に出て牽制の役割を担った以外、他の東路中路は大都の包囲、奪取を目標としていた。

元末農民蜂起と紅巾軍の北伐ルート

毛貴が率いる東路軍が2月に済南を占拠後、勝ちに乗じて北にまっすぐ進み、清、滄、長蘆を攻略した。3月、漷州(今の河西務。天津市武清区)に迫り、先鋒は既に大都から120里の棗林(今の通県東南)に達した。元の枢密副使達国珍は戦いに破れ殺された。元の朝廷はあわてふためき、群臣の多くは都を移し、しばらく避難するよう主張した。丞相の賀太平は力攻めはだめだと考え、急いで彰德(河南省安陽)に軍を駐屯させている同知枢密院事の劉哈剌不花に阻止に行かせた。毛貴の兵は挫折し兵を済南に後退させた。

 

 これと同時に、関先生、破頭潘らが率いる中路軍は、衛輝、彰德の一線で元朝が駐屯させている大軍を避け、山西に進入し、勝ちに乗じて北上した。この軍隊は「ルートを分けて太行山脈を越え、上党を焼き、晋、冀(河北)を掠奪し、雲中、雁門、代郡を陥落させた」。

元末紅巾軍系統

関先生は東に保定を攻めたが、攻略できなかった。この時、毛貴の東路軍は既に引き揚げ、策応(友軍との連携作戦)ができなくなった。察罕帖木儿(チャガン・テムル。モンゴル語で「白色の鉄」の意味)の大軍がまた南山の帰路を封鎖した。この農民軍はそれで塞外へ遁走した。12月、上都を攻略し、宮殿を焼き払った。その後、東の遼陽に進出し、朝鮮に入ったが、最後には失敗に帰した。しかし王士誠が率いる蜂起軍が依然晋北地区で活動し、引き続き北京の西側一帯を威嚇した。元の朝廷は羅帖木儿(ボロト・テムル)の軍を移して大同を鎮圧させ、以て京師への侵入を防いだ。1359年(至正19年)3月、京城北兵馬司指揮の周哈剌歹と林智和らが謀反を図ったが、事前に発覚して殺された。農民蜂起のうねりが猛威を振るい、京城の官僚、貴族は恐怖のあまり生きた心地がせず、京師の11の城門には皆甕城(城門の外を取り囲む半円形の小城郭。櫓)を築き吊り橋を架け、防御を強化した。1368年(至正28年)、朱元璋南京で皇帝の位に付き、建国し国号を明とした。大将の徐達、常遇春に命じ、大軍を率いて北伐させた。明軍は山東、河南を攻略後、軍馬を集結させ、山東から運河に沿い、水陸両方で前進した。閏7月、通州を攻略し、元の知枢密院事卜顔帖木儿を殺した。28日、順帝は清寧殿で御前会議を召集し、北の上都に逃げることを決定し、淮王帖木儿を不花監国、慶童を中書左丞相とし、共に京城を守らせた。その晩の夜半、順帝は健徳門を開け、急いで北に逃げ、従者は百人余りに過ぎなかった。北に居庸関を過ぎると、道路は人影がなく、関所には一兵もいなかった。82日、明軍は大都城下に到着し、斉化門に猛攻を加え、将兵は塹壕を埋め尽くして城に登って侵入し、帖木儿不花らは皆捕らえられ殺された。元は滅亡した。