頤和園内、耶律楚材祠
第三節 大都の文化(続き)
園林名勝
白雲観、東岳廟 大都の新城が完成後、旧城の人々は新城に移り住み、旧燕城はさびれ始めたが、道観や寺廟は相変わらず参拝者の線香が絶えることがなく、大都の人々が歳時に行楽に行く場所となった。白雲観は唐の開元時代に建設が始まり、金代は天長観と称し、金末元初に太極宮と改称し、1227年更にジンギスカンの詔を奉じて長春宮と改名した。長春真人、邱処機(邱長春)が弟子の王志謹に命じ、彼を中心に建設し、20年かけてようやく完成した。「層檐(何層もの庇)峻宇(屋根の急峻な堂宇)、金碧(黄金とエメラルドグリーン)爛 然(燦然と輝く)」。邱処機の死後、弟子の尹清和などが彼を処順堂に葬って後、観名を白雲に改めた。
白雲観大門
「四方(方々から)傾心(心惹かれ)帰向(帰依し)、来奉香火者不可勝計(数えきれない)」。おおよそこれ以降、毎年正月19日、京城の住民は次々とここに行楽にやって来て、これを「燕九節」と呼び、或いは「宴邱節」と書いた。この時には人々が込み合い、押し合いへし合いし(摩肩接踵)、たいへんにぎやかであった。道教徒たちは次のような作り話をした。この日、邱真人が変身して地上に降りてくる。或いは紳士、或いは淑女、或いは乞食の格好をしているかもしれない。善男信女たちは彼の姿を見たいと渇望したので、このことはこの祭日の神秘的な雰囲気を増加させた。
城東の斉化門外の東岳廟は、龍虎山正一天師、張留孫が創建した。彼の弟子の董宇定、王用亨が廟の中に石壇を建て、壇を巡って杏千余株を植えた。毎年春、杏の花が満開(怒放)になる時期には、訪れる人々が絶えない(絡繹)。乃賢の詩に言う。「上東門外杏花開、千樹紅雲繞石壇」。ここは当時の有名な行楽地であった。
双塔寺、万松老人塔 双塔寺はすなわち有名な慶寿寺で、元の場所は今日の西長安街一帯にあった。初め、金の大定の末に建てられ、元初の再建を経て、精美雄壮、「京師の冠と為る」。寺には多く金、元の碑刻と壁画があった。寺の西南に僧海雲と可菴の二基の霊塔があるので、俗に双塔寺と称した。九重の塔は海雲の霊塔である。海雲、名は印簡、山西寧遠の人である。蒙古軍は嵐州を陥落させ、海雲を得た。海雲は北でジンギスカンに行宮(あんぐう)でまみえ(覲)、頗る礼を以てもてなされ、「小長老」と尊称された。以後、彼は燕京に来ると、慶寿寺の滞在し、「燕国大師」と号した。元初の著名な政治家、劉秉忠は彼の弟子で、また彼の推薦によりフビライの幕僚になった。可菴は海雲を継いで慶寿寺の主となり、七重の塔は彼の霊塔である。元初の王惲(おううん)の記載によれば、「慶寿精蘭丈室の前は、松の木陰(樾)が庭に満ち(盈)、景色は清浄で落ち着いている(蕭爽)。曾て流水が東西の梁を貫くも、今は水は塞がれ(堙yīn)橋は廃され、二石が存するに止まる。塀上に「飛渡橋」、「飛虹橋」の六字を刻む……言い伝えによれば(相伝)亡き金の道陵(章宗)の筆也」。至元4年に大都を造営すると、塔がちょうど南城の城壁(墻)線上にあった。フビライは特に城壁を迂回して避けさせた。明初、成祖朱棣が皇帝位に即位するのを助けた著名な僧、姚広孝は慶寿寺に住んだ。このため大興寺に改めた。
ありし日の双塔寺
(慶寿寺の所在地は今の西長安街の電報大楼の西であったが、1954年長安街拡幅の際に取り壊され、現存しない。海雲禅師塔の前に建っていた禅師を記念する石碑のみ、北京の法源寺に現存している。)
万松老人塔は今の西四牌楼の西にあり、塔は七重である。万松老人は耶律楚材の師傅で、金元の間、燕京の従容菴に住み、『従容録』を著した。元が滅び、従容菴は廃され、何度も世事が変化し(几経事変)、塔は酒食店の中に囲まれ、誰もその謂れを知らなかった。明の万暦年間、僧楽菴が塔上に「万松老人塔」の石額があるのを発見し、それで資金を募って買い戻し、ここに住んで守り、塔を完全な形で保存してきた。
万松老人塔
寿安山寺 西山余脉寿安山(また五華山や聚宝山と称す)の南麓に一寺院があり、寺院内に一体の特に大きな釈迦牟尼の側臥像があることから、人々は俗に臥仏寺と呼んでいる。臥仏寺は初め唐の貞観年間に建てられ、名は兜率寺と言い、紫檀(香檀)で彫った臥仏が供えられた。その後、各時代に建立されたが、比較的大きな再建が元代になされた。臥仏寺(俗称)は元代には寿安山寺と称した。『元史』の記載によれば、「延祐7年9月甲申、寿安山寺を建てる」とある。当時、敬虔な(虔誠)仏教徒であった元の英宗碩徳八刺は「銭(鈔)千万貫を与え」、勅を下し大規模な再建を行った。翌年春正月、元の至治と改まった。この年、「銅五十万斤を製錬し」(推測では実際の重量は約54トンくらい)銅の仏像を鋳造した。この銅仏は今日までよく保存されている。銅仏の長さは5メートル余り、側臥入睡の状態に作られ、各部位は均整が取れ(匀称)体つきはのびやか(体態自如)で、中国の貴重な歴史文物(文化財)である。元の至治3年、英宗が大臣の鉄失に上都の南坡で殺された。これ以降、寺院の建設は中止された。それから10年後、文宗の至順2年(1331年)、「寿安山寺を以て、英宗が建設して未だ完成せぬは、中書省に詔し、鈔十万錠を与えその費用に供す」こととしたので、完成することができた。完成後、大昭孝寺と称し、後にまた洪慶寺と改称した。これは元代の規模が宏大な工事で、当時の人はこう記述している。「山を穿ち寺を開き、最も巨刹と称すべき」。
臥仏寺
名園 大都の園亭は、主に城の西南郊外に集中していた。その中で有名なのは例えば廉園万柳堂で、これは元初の著名なウイグル族政治家廉希憲の別荘であった。園の中には名花数万本で、京師第一と号し、特に牡丹の名品は、とりわけ当時の人々の羨望の的であった。元朝の詩人の吟詠の中に、少なからず廉園の景色や事物の描写があった。例えば「万柳堂前の数畝の池は、広げた雲錦(高級な錦の織物)で覆われたように、風で水面に波紋が立って(漣漪)いる」(趙猛頫詩)張九思の遂初堂は、「堂を繞る花や竹、水や石の景勝は、都城に甲たり」。城西の玉淵潭は、言い伝えでは、金末の王郁が釣台に隠居したというのは、ここのことだという。元代には丁氏の住まいとなり、「柳堤を環り抱き、景色は肖爽(幾分さわやか)、沙禽(砂州の水鳥)水鳥、多く翔きその間に集まり、游賞佳麗の所と為る。元人ここに遊び、詩を唱和(賡和)するのが一時期隆盛を極めた(盛極一時)」。
甕山・耶律楚材墓 玉泉水は東流後、西湖に合流する。すなわち、今の頤和園である。湖の後ろに山があり、名を金山と言い、また甕山と言う。言い伝えでは、ある老人が山上でひとつの石甕を得た。彩色で龍が描かれていたが、はっきりとは分からなかった。甕の中に数十個の物が入っていた。老人は中の物を持って行き、石甕はそのまま山の南側に置いておき、また不吉な予言(谶语)を書いた。「石甕を移す(徙 )と、帝都は貧しくなる」。聞くところによると、明の嘉靖年間、甕は行方知れずになった。ちょうど明の朝廷も、この頃から国家の収入が次第に減少し、人々はこれはあの予言が的中した(応験)と信じた。甕山の麓には耶律楚材の墓がある。契丹族の人、耶律楚材は蒙古初年の有名な政治家で、彼は太宗オゴタイ(窩闊台)を補佐し、政治制度の改革を推進し、モンゴルの遅れた奴隷制度を、華北や中原の都市に住み農業を行う封建社会の基礎に適応し、当時の社会生産とモンゴル族自身の社会発展に対し、進歩的な役割を果たした。彼は死後甕山の南側に葬られた。少なくとも明朝中期には、彼の墓地は既に荒れ果て存在しなかった。明人の沈徳符の記載によれば、彼の友人のひとりが京城外の西山に別荘を建て、偶然に一塚を発見し、木棺を開けてみると、中から大頭の頭蓋骨(顱骨)が出てきて、常人よりずっと大きかった。続いて、その傍らから石碑(石碣)が掘り出され、耶律楚材の墳墓であるのが間違いないことが証明された。当時、墳墓の上には尚、一体の石人像(石翁仲)がかろうじて立っていた。1627年(明の天啓7年)夏の夜、数百匹の蛍が石人の頭に集まり、きらきら光っていた。住民は迷信にかられて、驚き恐れ(驚駭)叫び声をあげ(大嘩)、言った。「石人の眼が光っている。」夜が明けると、多くの人が集まり、石像を(群起)打ち壊した。夜になると、蛍がまた墳墓の傍らの樹木の上に集まった。住民たちはまた驚き騒ぎ、木を切り倒した。これより、彼の墓の上は跡形もなく消え去った(蕩然無存)。