中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

修辞による文の推敲

2010年11月29日 | 中国語
 “推敲”ということばは、良く知られているように、唐の詩人・賈島が詩作中に“僧敲月下門”という句の“敲”の字を“推”にすべきかどうかと苦心したことに由来していますが、現代中国語の推敲は、修辞の面から考える必要があります。これを文に磨きをかけるということで、“錘煉”と言います。今回から何回かに分け、この“錘煉”について、見ていきたいと思います。

                 文に磨きをかける(“句子的錘煉”)

 文(“句子”)は思想交流の基本言語単位である。文に対し磨きをかける(“錘煉”)過程というのは、文を絶えず推敲し磨きをかけ、絶えず加工し最後に作品として取り出す過程である。このようにしてはじめて文の表現効果を高め、言語の交流効果を充分に発揮させることができる。

 “連貫”(文と文のつながりがとれている)、“周密”(ことばの使い方が緻密で、細かいところまで心配りがされている)、“簡練”(文が簡潔でよく練られている)、“生動”(表現が生き生きとしている)というのが、文に磨きをかける上での基本的な要求である。

      -*- -*- -*- -*- -*- -*- -*- -*-

 以下、“連貫”、“周密”、 “簡練”、 “生動”を順を追って説明していきます。

                 一 文のつながり(“連貫”)

 文のつながり(“連貫”)とは、主に二つの点が含まれる:一つは文と文の間の“配合”の問題、もう一つは文の内部の“組織”の問題である。文と文の間の“配合”というのは、前後の文のつながり(“銜接”)が緊密で途切れないこと、条理の組み立てがはっきりしていて乱れていないことである。文の内部の“組織”というのは、文の内部の成分の組合せが適当で、文脈がよく通っていることである。

(一) 前後の文とのつながり(“上下銜接”)

 文と文の組合せは、つながりが緊密であってはじめて、文章がつながり良く通じる。文の前後のつながりを緊密にするとは、主に意味の上での連続性を維持することである。郭沫若の《科学的春天》には、次のような文章がある:

   (1) ①「我們中華民族在人類文明発展史上,曾経有過杰出的貢献。②「現在,在共産党的領導下,我們民族正在経歴着一場偉大的復興。③「恩格斯在談到十六世紀欧洲文藝復興時曾経説過,那是一個需要巨人而且産生了巨人的時代。④「今天,我們社会主義祖国的偉大革命和建設,更加需要大批社会主義時代的巨人。⑤「我們不僅要有政治上、文化上的巨人,我們同様需要有自然科学和其他方面的巨人。⑥「我們相信一定会涌現出大批這様的巨人。

 この段落は全部で六つの文章から成っていて、文と文の間のつながりはたいへん緊密である。①で言っているのは、中華民族が歴史上で傑出した貢献をしたことである。②では、①に続いて、現在、共産党の指導下で中華民族が正に復興しようとしていると言っている。“曾経”と“現在”が緊密につながっている。中華民族の復興から、自然に話は③につながり、エンゲルス(“恩格斯”)のヨーロッパの文芸復興に関する有名な論断に話題が転じている。④は③の“需要産生巨人”という論断を受けて、今日私たちは更に社会主義時代の巨人が必要であると指摘している。続いて、⑤では具体的に私たちは各分野での巨人が必要であると述べている。最後に⑥で、私たちは必ずたくさんの巨人を生みだすことができると心から確信した断定で結んでいる。

 この段落は文と文が互いに受け継ぎ、緊密に結びつき、前後の文がつながり、一気呵成に述べられている。

 しかし、文章によっては表現上の一貫性(“連貫性”)に注意が払われていない場合がある。時には一つの話題がまだ言い終わっていないのに、別の話題が出てきて、聞く人に唐突感を与え、文脈がつながらないということがある。

   (2) 江南水郷,是捕魚捉蟹的地方。到了捕蟹季節,漁民們入夜便在河辺湖畔,処処是灯火在閃光,毎個公社可捉到数斤螃蟹。

 “漁民們入夜便在河辺湖畔”(漁民たちが夜になって川辺や湖畔で)とまで言って、その後どうするのか、文がまだ完結していないのに、その後にいきなり“処処是灯火在閃光”と、夜景の描写に入ってしまっており、意味がつながっていない。“湖畔”の後ろに“捕蟹”を付け加えると、全文の意味がつながってくる。

 一方、前の分句の意味は完全なのだが、後の分句が前の分句と意味がつながっておらず、話題が変わってしまい、語気がちぐはぐになってしまっていることがある。

   (3) 作家没有把簡・愛写成美麗多情、温柔嬌弱的天使,而是一個渇望自由平等、勇于和自己所処的悪劣環境作斗争的婦女。

 前の分句で、作者は“簡・愛”を天使であるとは書いていない、と言っており、後ろの分句は構造上、前句を受けており、意味の上では“簡・愛”のことを述べているようなのだが、これら二つの分句はつながっていない。もし後ろの分句の“而是”の後ろに“把她写成”を補うと、文の意味はつながるようになる。

 前後の文の意味の上での一貫性を保つためには、述べる方向を一致させるべきである。述べる方向の変換がうまくいかないと、文の前後のつながりがちぐはぐになりやすい。例えば:

   (4) 編輯人員要和人民群衆保持密切的聯系,要給他們深入生活和写作時間。

 前の分句では“編輯人員”のことを述べ、後ろの分句では述べる方向が変化し、彼らの上司のことを言っているかのように思われる。二つの分句は意味の上でつながりを欠き、ちぐはぐになっている。“給他們”を“有”に改めると、二つの分句は何れも“編輯人員”のことを言っていることになり、意味がつながる。

 述べる方向が一致した文であっても、分句と分句の間の構造が一致しない場合、文のつながりや文脈の流れに影響することがある。例えば:

   (5) 我們学校積極開展工作,落実各項政策,撥乱反正,整頓校風,把“四人幇”的流毒徹底粛清

 最後の“把”で始まる分句は、前の分句と構造が違い、調和していない。ここを“徹底粛清‘四人幇’的流毒”と改めなければならない。

 文の中間に、文と文をつなぐための接続性の語句が必要な場合がある。こうした接続性の語句は輪っかのようなもので、つながりの無い分句をつなげることができる。このような語句が無いと、文はちぐはぐなものになってしまう。例えば:

   (6) 許多青年同志喜歓読詩,也喜歓写詩。不管為了読詩或写詩,都不応該忘記我国詩歌的優良伝統,我們自然会想起唐詩,尋找這個詩歌的藝術宝藏。

 “不応該忘記我国詩歌的優良伝統”と“我們自然会想起唐詩”はつながりが無く、この間に接続性の語句が欠けている。もしここに“一談到詩”を加えてやると、文脈はきれいにつながる。

 接続性の語句は、関連語句(“関聯詞語”)である場合がある。関連語句を使うことで、分句と分句の間の意味の上でのつながりがよりはっきりする。必要な関連語句が欠けていると、文の一貫性に影響する。例えば:

   (7) 先澆了二十畝,過了四、五天,仍不見麦苗返青,倒有些発了銹,和県里的技術員研究,果然是澆早了。

  “和県里的技術員”と“研究”の間に、時間を表す関連語句の“一”を加えることにより、文脈はずっと通じやすくなる。

      -*- -*- -*- -*- -*- -*- -*- -*-

 文のつながり(“連貫”)の中で、前後の文のつながり(“上下銜接”)の問題を取り上げましたが、“連貫”にはまだ以下の課題があります。

(二) 文の組立てがはっきりしていること(“層次清楚”)
(三) 先ず列挙してそれを受け継ぐ(“列挙分承”)
(四) 補足説明が適当であること(“挿説適当”)

 これらについては、次回以降で説明していきます。


【出典】胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社 1995年


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中国語の修辞: 語句の模倣

2010年11月28日 | 中国語
 中国語の修辞技法の中には、熟語や成語といった決まり文句をわざと一部の字を置き換え、文にユーモアや風刺の意味合いを持たせる表現技法があります。これは使い方が難しく、なかなか真似られるものではありませんが、小説などの中に出てきたら、辞書に載っていないと焦らず、元の語句は何で、作者がどんな意志でこうした表現を使っているのか考えてみましょう。

                       語句の模倣(“倣用”)

 ことばの表現力を強め、諧謔、諷刺等の効果を得るため、特定の環境の下で、現有の語句の構造成分を変更し、一時的に新たな語句を真似て作り出すことを、“倣用”(模倣)と言う。

(一) 語素の変更

 前後の文の中のある語句に基づき、語素を変更するという方法で一時的に新たな語句を真似て作り出すことである。

 一つのやり方は、語素を相対し相反する意味に変える方法である。例えば:
   (1) 一個闊人要読経,嗡weng1的一陣一群狭人也要読経,豈但読而矣哉,据説還可以“救国”哩。
・闊人 kuo4ren2 金持ち

   (2) 有“小広播”,是因為“大広播”不発達。只要民主生活充分,当面掲了瘡疤,譲人家“小広播”,他還会説没時間,要休息。
・小広播 うわさを広める(人)
・掲了瘡疤 jie1lechuang1ba1 痛いところ(古傷)をつく

   (3) “您真是個天才!”戈勒校長笑道,“您的胆量令人欽佩,女士。”
     “我是‘地才’,博士!”女科学家冷冷一笑。“正如生命起源于大地一様,我們認識也是脚踏実地模索出来来的。……”

   (4) 好不値銭的干儿子!你有多少干儿子,湿儿子,我還不清楚!
・干儿子 中身がからっぽ(な人、もの)

 上のそれぞれの例の“狭人”、“大広播”、“地才”、“湿儿子”は現在使われている語句“闊人”、“小広播”、“天才”、“干儿子”をもじって、相対し相反する語素に変更して一時的に作り出したもので、ことばに風刺やユーモアを持たせ、興趣に富んだものにしている。二つの語句が照らし合わされ、色彩が鮮明になっている。

 もう一つは、語素を同類や関連する意味に変える方法である。例えば:
   (5) 這些,就是中国主和派即投降派的整套観点,整套做法,整套陰謀。這一套,不但汪精衛在演出,更厳重的就是還有許多的張精衛李精衛,他們暗蔵在抗日陣線内部,也在和汪精衛里応外合地演出,有些唱双簧,有些装紅白臉。

   (6) 別的人是一表人材,我們的菊霞小姐是両表人材,能文能武,天上少有,地上無双。
・一表人材 立派な容貌(の人)

   (7) 我們火速到湯陰去,把那老頭儿捶扁就完事,要那什麼虎符,馬符来干嘛?
・虎符 hu4fu2 虎の形の軍事用の割符

   (8) 結果你搞gao3了五六十年還不能超過美国,你像什麼様子呢?那就要従地球上開除你的球籍

 上の各例文の中の“張精衛”、“李精衛”、“両表人材”、“馬符”、“球籍”は、“汪精衛”、“一表人材”、“虎符”、“国籍”などの語句をもじって作ったもので、表現を生き生きとさせ、ユーモアがあっておもしろい。

 こうした語素の変更による語句の模倣は、多くの場合、元の語句と模倣した語句は前後の文の中で対照的に出現する。一般的には、こうした模倣された語句は一時的な修辞手法であり、特定の使用環境を離れると、独立した語句になることはできない。しかし、一時的に模倣された言い方であっても、多くの人が使うようになると、次第に独立した語句の地位を得るものもある。例えば“先進”から模倣された“後進”という語句がそうである。

  語句の模倣と新語を作ることは本質的な違いがある。語句の模倣は、一定の使用環境の中で弾力的に運用され、一定の修辞機能を備えている。新語を作ることは無理につなぎ合わせたり作ったりして、修辞機能が無いだけでなく、人に理解してもらうのが大変で、言語の規範を壊してしまう。

(二) 成語の作り変え(“翻新”)

 成語は固定的な構造を持ち、その中の成分は本来は変更することができない。しかし、修辞上の必要から、一定の使用環境の中では、既に有る成語を利用し、一時的に作り変えることができる。こうして作り変えられた成語は、語句の一部を意味が相対し相反するものや同類のものに変えて作られる。例えば:
   (9) 楚漢成皋之戦、新漢昆陽之戦、袁曹官渡之戦、呉魏赤壁之戦、呉蜀彝陵之戦、秦晋淝水之戦等等有名的大戦,都是双方強弱不同,弱者先譲一歩,后発制人,因而戦勝了。

   (10) 無理不能取閙,有理也不能閙。

   (11) 龍二井又有油和水的矛盾,這是它的特殊性,周隊長説,要促使矛盾転化,就要撈水,把水撈干,我們想一不做,二不休,搞gao3它個水落油出

   (12) 自成一辺吃山芋一辺想着糧食快完了,只能勉強支持三天,而這一帯又是窮山,不断地遭受天災和兵災,十室十空,即令找到百姓,在倉卒間根本没辧法找到糧食。

 上の各例の中の“后発制人”、“有理取閙”は、“先発制人”、“無理取閙”という成語をもじって作られたもので、ここでは意味が相対し相反するように変えられている。
・先発制人 先んずれば人を制す。機先を制する
・無理取閙 理由なく悶着を起こす。わざと挑発的なことをする

 “水落油出”、“十室十空”は、“水落石出”、“十室九空”という成語をもじって作られたもので、ここでは意味の関連した語句に変えられている。
・水落石出 水落ちて石出づ。物事の真相が明らかになること。
・十室九空 10軒のうち9軒が空き家になっている。戦乱・災害などのために人民が破産・流浪して荒れ果てたさま。

 更に語順を変えることにより作り変える方法がある。例えば:
   (13) 過去有了知識的人,往往“好逸悪労”,這是一種很低下的感情;我們今天応該把它翻転過来,“好労悪逸”。
・好逸悪労 hao4yi4wu4lao2 安逸をむさぼり、働くのを嫌がる

 語句を作り変える言い方の中には、広い範囲で長期に亘って使われてきたことにより、次第に独立した新しい成語になったものもある。例えば、“無的放矢”を真似て作られた“有的放矢”;“知難而退”を真似て作られた“知難而進”がそうである。
・無的放矢 wu2di4fang4shi3 的なしで矢を射る。目的のない行為や事実無根の批評のたとえ。
・知難而退 困難だと知って退く

 語句の模倣の他、文や文章全体を模倣するケースもある。例えば:
   賀敬之の詩《三門峡――梳粧台》:望三門,門不在,明日要看水閘開。責令李白改詩句:‘黄河之水“手中”来!’(“黄河之水天上来”をもじって作ったもの)

   《桂林山水歌》:呵!汗雨揮洒彩筆画:桂林山水――満天下!……(“桂林山水甲天下”をもじったもの)

 これらは文の模倣である。

 魯迅の《崇実》の中で、崔《黄鶴楼》の詩をもじって作った詩が出てくる。魯迅が張衡《四愁詩》をもじって書いたのが《我的失恋》である。これらは文章全体の模倣である。


【出典】胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社 1995年


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中国語の修辞: 語句の代用

2010年11月26日 | 中国語
 本来ある人やある事物を指す名詞を使わず、その代わりに別の、この人や事物に密接に関係する語句に置き換えることを「語句の代用」と呼びます。語句の代用の目的は、ある人や事物の特徴を突出させ、連想を引き起こし、印象を深くさせることにあります。またそれ以外に、直接にその場で事物の名称を言うのが都合が悪く、その語句の使用を避け別の関連する語句で代用することにより、婉曲で含蓄のある表現にしたり、直接を避けてごまかすことも、語句の代用と言えます。

(一) 関連語句への代用 (“相関的借代”)

 別の、ある人や事物と密接な関係にある語句を用いて、元々ある人や事物を表す語句に代えることを言う。この修辞方法は話をしたり文章を書いたりする中でしばしば用いられる。例えば:“節省筆墨,白費唇舌”、“三個臭皮匠,賽過一個諸葛亮”(三人寄れば文殊の知恵)などの文で、下線の詞は代用詞である。“龍井”を使って浙江省杭州の龍井で生産された緑茶のことを言ったり、“紹興”を用いて浙江省紹興で生産される酒のことを言うのは、ほとんど固定的な名称になっている。語句の代用は二つの言い方が密接な関係を持っていなければならない。関係の違いで分類すると、こうした語句の代用の方法は何種類もある。例えば:
   (1) “還是這様麼?”三角臉的拿起茶碗,問。
      “聴説,還是這様”,方頭説,“還是尽説‘熄掉他,熄掉他’。……”

   (2) 她在黄堡擁擠着庄稼人的街上,転了三個来回。要在動蕩的戴草帽和包頭巾的庄稼人群中盯ding1一個濃眉大眼的紅臉盤,她眼睛太忙、太累了。

   (3) 白頭髪哭鼻涕的留下,年青力壮的跟我来。

 例(1)の“三角臉”、“方頭”は顔の形が三角形の人、頭の形が四角い人のことを言っている。例(2)の“濃眉大眼的紅臉盤”は捜しているこういう顔つきをした人のことを言っている。例(3)の“白頭髪”は老人のこと、“哭鼻涕”は子供のことを言っている。これらは眼で見たイメージの特徴を表す語句を用いることにより、人や事物を表す語句に代えた例である。

   (4) 現在敵人已経在磨刀了,因此我們也要磨刀

   (5) 他又是個挺紅的干部,長的又英俊,労働更可以頂住一個半人;没念過多少書,但靠着自修,肚里的墨水也不少。

 例(4)では“磨刀”という動作のイメージにより、戦争の準備をすることを言っている。例(5)は“墨水”という具体的な事物により、学問や知識が豊富なことを言っている。これらは具体的な事物を表す語句によって抽象的な事物を表す語句に代えた例である。

   (6) 若要派他去敵人据点,捉個把活舌頭,那也是老牌子,手到擒来。

   (7) 咱村是几百口人種着這些地,好収成,也只够gou4吃;一遇着天旱雨澇,几百張等着政府救済,如果年年過這様的日子,啥sha2時候才能到社会主義!

  例(6)は“活舌頭”を“敵人”の代わりに使っている。例(7)は“嘴”を“人”の代わりに使っている。これらは事物の一部を表す語句によって事物全体を表す語句に代えた例である。

   (8) 大炮吼叫,一陣比一陣猛烈,鋼鉄向敵人頭上傾倒。

   (9) 老楊同志到場子里什麼都通,拿起什麼家具来都会用,特別是好揚家,不只給老秦揚,也給那几家揚了一会,大家都説“真是一張好木锨xian1”。

  例(8)は“鋼鉄”を使うことで“炮弾”に代え、例(9)は“好木锨”(“锨xian1”はシャベルなど土を掘り返す道具)を使うことで“好揚家”に代えている。これらは材料や工具を表す語句によってこれに関連する語句に代えた例である。

   (10)純情作家或者生来独眼,或者瞎了一眼,永遠只看見林黛玉,看不見劉姥姥

   (11)立波同志即使不搞創作,不研究中国文学,他也是可以研究和翻訳外国文学的。我們都記得他不但翻訳過基希,翻訳過肖洛霍夫,而且在延安時還翻訳過雪莱,似乎没有什麼文学工作他是無能為力的。

   (12)老王上県城啦?李経理請你吸紅牡丹了吧!

 例(10)は《紅楼夢》の中の代表的登場人物を応用し、心根の純粋な“林黛玉”によっていわゆる純情作品の中の人物を代表させ、やり手ばばあの“劉姥姥”によって純情でない文学作品の中の人物を代表させている。例(11)は“基希、肖洛霍夫、雪莱”というロシア文学の登場人物を挙げ、それぞれの作家の作品を代表させている。例(12)は“紅牡丹”、赤い牡丹の花により、“牡丹”ブランドの真っ赤なパッケージの煙草に代えている。これらは典型(代表)的なイメージ、作者、商標などの語句を用いてこれに関連する語句に代えた例である。

 語句の代用という修辞手法はよく用いられ、事物の間の関係も多岐に亘り、したがって異なった関係から分類すれば、もっと多くの種類に細分できる。上記で挙げたのはその中のいくつかの主要なものであるに過ぎない。こうした修辞手法を活用する鍵となるのは、ある人物や事象の顕著な特徴を把握し、それに関連する語句を用いてその本名と置き換え、言語を変化に富ませ、イメージを生き生きとさせる。

 語句の代用と比喩は同じではない。比喩の二つの事物の間には相似関係がある。たとえ比喩の語句のみ言い、比べられる語句は隠されて言わなくても、二者の間には依然として相似関係が存在する。語句の代用は、二者の間が一般に相似関係ではなく、相関関係がある。例えば“祖国的花朶”は少年・児童を指し、比喩である。“紅領巾”、赤いスカーフを用いて“少年先鋒隊”を指すのは、語句の代用であり、少年隊員のシンボルを用いて少年先鋒隊員の代称としているのである。


(二) 忌避の為の代用 (“避忌的借代”)

 一定の言語環境の中では、自分では言いたくない、或いは言いにくい、或いは人の忌嫌うことに触れるものに出会うことがあり、わざと直接これらの事物を表す語句を避け、これと関連する比較的含蓄のある婉曲な語句によって置き換える。このようにして特殊な表現効果を得ることができる。例えば:
   (13) 今天光明的新中国已経到来,他這個最有資格看見它的人却永遠閉上了眼睛

   (14) 我已経是到時候的人了,患這病患那病総是走同一条路……

   (15) 射手倒了,班長也掛了花

 上の三つの例で、“永遠閉上了眼睛”は“死去”、「死んだ」に代わって用いられ、“到時候的人”は“快要死的人”、「もうすぐ死ぬ人」に代わって用いられ、“倒了”は“犠牲”に代わって用いられ、“掛花”は“負傷”に代わって用いられている。中国語の中で、“死”はしばしば様々な忌避の語句であり、例えば“以身殉職”、“停止了呼吸”、“離開了我們”、“心臓停止了跳動”、“見上帝”、“老了”、“不在了”、“乗風飛天”、“寿終正寝”などを用いてそれに代える。これは人々が直接“死”という文字を使いたくないので、多種多様な忌避的な修辞手段を取るのである。

   (16) 你的個人問題怎麼処理呀?
      “個人問題”是個代名詞,那意思誰都知道,大姐提起這事,我臉熱得発燙……

   (17) 歇了一下,他忽然関切地問道:“瑞娟常有信来嗎?啥sha2時候你們的喜糖呢!”

 例(16)では“個人問題”を「結婚問題」と言う代わりに用い、例(17)では“吃喜糖”を「結婚」と言う代わりに用いている。結婚や愛情の問題に言及する時、人々はしばしばストレートに言うのは憚られると感じ、様々な忌避の語句が用いられる。例えば“朋友”を「恋人」と言う代わりに用いたり、“那一位”、“那口子”を妻や夫と言う代わりに用いたりする。

   (18) 隔壁益大銭庄老板銭達人筒着袖子,也凑cou4過来,対二人哈腰努嘴説:“怕是個‘草字頭’吧?”章介眉卑夷地従鼻孔里発出一声“嗯ng2?”黄竟白低声代答道:“銭老板説他怕是個革命党。”

・哈腰 ha1yao1 腰をかがめる
・努嘴 nu3zui3 口をとがらせる。口を突きだして知らせる

 ここでは“草字頭”を“革命党”の代わりに用いている。この小説の内容の当時の社会環境では、こうした非合法の政治組織に関することばは直接言うことができなかったので、他の語句を使うという方法が採られたのである。

 忌避の為の代用(“避忌的借代”)は代わりに婉曲な語句を用いることである事物を直接言うことを避ける方法で、本によってはこれを“避諱”、或いは“婉曲”と呼ぶ。こうした修辞手法を用いる時には話の対象や環境に注意しなければならず、実際に使う必要があって、こう表現して問題ないことが確かな時に使うべきで、乱用すると、反って逆効果になってしまう(上手にやろうとしてかえってしくじる=“弄巧成拙”nong4qiao3cheng2zhuo1と言う)。

【出典】胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社 1995年


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中国語の修辞: 語句の転用

2010年11月19日 | 中国語
 今回は、語句を本来とは別の用途に使ったり、品詞を変えて使ったりする修辞技法について、説明します。

                       語句の転用(“移用”)

 言語の中で、語句には固定の意味や用法があり、一定の詞性を備えているものがある。語句のこうした特徴を利用し、臨時にその用法や詞性を変え、それにより一定の修辞効果を得ることを「語句の転用(“移用”)」と呼ぶ。

(一) 用法の変更
 一定の言語環境で、もともとある用法の無い語句を、一時的にそういう本来無い用法に用いることがある。細かく言うと、更にいくつかの異なった状況に分かれる。その一つは語句の組合せの関係を変えることである。例えば:
   (1) 還有寂寞的瓦片風筝,没有風輪,又放得很低,伶仃地顕出憔悴可怜模様。

   (2) 傍晩,涼風従台湾海峡吹来。路旁的金合歓花散出甜絲絲的清香。厦門的夏夜是迷人的。

   (3) 姑娘従泉辺汲水帰来了,
      辮梢上沾着几滴水珠;
      歓笑盛開在眼睛、眉毛上
      心啊,要従嘴里跳出!

 例(1)は人を形容する語句を物に対して用い、実際に人の物に対する感情を描いている。このような転用は言語の中でよく見られるもので、あるものはそれが固定化して一つの詞や成語になっている。例えば、“喜酒”、“情書”、“寿桃”、“愁眉苦臉”、“怒発衝冠”、“老涙縦横”などがそうである。
 例(2)は味覚を表す語句を嗅覚の上に用い、花の「香り」に「甘み」を加え、これにより花をより美しく人を感動させるものに描いている。言語の運用の中には、しばしば甲という感覚の語句を乙という感覚に転用し、二つの感覚を相通じさせ、好ましい表現効果を持たせている。
 例(3)は“盛開”という動詞を暗に比喩を含ませる用法に用い、娘の笑顔を“盛開的鮮花”(満開の花)に譬えているが、これは動詞の転用によりもたらされたものである。

   (4) 打倒帝国主義,打倒軍閥,打倒貪官汚吏,打倒土豪劣紳,這几個政治口号,真是不翼而飛,到無数郷村的青年壮年老頭子小孩子婦女們的面前,一直進他們的脳子里去,又従他們的脳子里到了他們的嘴上。

   (5) 杜学詩這話可更了,他那猫臉上的一対圓眼睛拎起了,很叫人害怕。

 例(4)の“飛”、“鑚”、“流”といった動詞は、通常具体的な事物と組み合わされ、“鳥飛”、“釘子鑚”、“水流”のように用いるが、ここでは組合せ関係を変え、これらの動詞を用いて、政治宣伝の威力がどのようなものか、具体的なイメージを持たせている。
 例(5)の“辣”は一般には食物と組合せるが、ここでは組合せ関係を変え、ことばの残忍さを表している。

 このような語句の転用は、一時的に組合せ関係を変えることで抽象的な事物を具体化し、人に強烈な印象を与える。

 もう一つは語句の適用環境を変えることである。例えば:
   (6) 按“老規矩”,丈夫打老婆,老婆只能挨几下躱開,再経別人一拉,作為了事。孟祥英不只不挨,不躱,又了他的,他認為這是天大一件丟人事。

・繳械 jiao3xie4 武装解除する

   (7) 媽説:“你給陳師傅捎個信,什麼時候煨了湯,請他来喝一大碗。”這個意思,我貪汚了。心里佩服他,感激他,可帯他到我們喝湯不是時候,不不不,是絶対的不合適。

・捎信 shao1xin4 ことづける
・貪汚 tan1wu1 汚職行為をする。賄賂をとる

   (8)我們廠現在搞的配套表演,大家把先進経験拿来“集”,然后由大家把零砕的経験配成套。

・集 gan3ji2 市(マーケット)に行く

 上の三例の中で、“繳械”はもともと軍事用語で、“貪汚”はもともとお金にまつわることで、“集”は市(マーケット)の交易に用いられる。ここではこれらの元来適用される環境でなく別の環境(状況、場面)で使うことで、イメージが明確になり、ユーモアのある表現となっている。

(二) 詞性の変更
 一つの詞には、常にその属する品詞の種類(“詞類”)や文法上の特徴があるが、いくつかの詞は二つ以上の文法上の特徴を備えて(二つ以上の品詞に属する)おり、これを“兼類”と呼ぶ。一定の条件下で、一時的にその詞の詞性を変更して用いることがあるが、いつもそのような使い方をする訳ではないので、これはつまり「詞性の変更」の転用である。例えば:
   (9) 失了東三省只有几個学生上几篇“呈文”,党国倒愈像一個国,可以博得“友邦人士”的夸奨,永遠“”下去一様。

   (10) 他就盼望他的叔叔多多頭回来,也許這位野馬似的好漢叔叔又像上次那様帯几個小焼餅来偸偸地給他香一香嘴巴。

   (11) 我于是立即鎖了房門,出街向那酒楼去。其実也無非思姑且逃避客中的無聊,并不専為買

 例(9)の“国”は名詞を一時的に動詞として使っている。例(10)の“香”は形容詞を一時的に動詞として使っている。例(11)の“酔”は動詞を一時的に名詞として使っている。こうした一時的な詞性の変化は、一般にある意味を強調したり、ある強烈な感情を表現する修辞手段であるので、これらは言語環境への依存性がたいへん強い。もし具体的な言語環境を配慮せず、修辞上の必要性を考えず、勝手にある詞の詞性を変更したならば、それは言語規範化の要求に適合しない。

(三) 文の流れに乗じて転用する(“順勢移用”)
 甲乙二つの関連する事物を叙述する時、一般には甲という事物に適用される語句を、一時的に文脈の流れに乗じて乙という事物に用いることがある。例えば:
   (12) 紅燭啊!
       既制了,便焼着!
       焼罷!焼罷!
       焼破世人的夢,
       焼沸世人的血――
       也救出他們的霊魂,
       也搗破他們的監獄!

   (13) 白潔是一面鏡子,在這面鏡子里,不僅照出了我織的布上有疵点,也照出了我的思想上有疵点

   (14) 他,人老心不,村上各種活動,他全積極参加,事事帯頭。

   (15) 中央已経三令五申,可曹書記名義上是給市委職工蓋食堂,実際上在給他們少数領導人蓋高級内部電影。聴聴這声音吧,這哪里是砸za2地基,這是在砸za2群衆的心啊!

・三令五申 何度も命令や申し入れをする
・砸za2 (重い物で物を)打つ。砸za2地基:基礎工事をする

 以上の四つの例で、甲という事物を説明することにより、その流れで乙という事物に同じ動詞を連用している。甲という事物は通常具体的で、例では“紅燭”、“布”、“人”、“地基”である。これに対して乙は通常抽象的で、例では“夢”、“血”(ここでは実際の血液を指すのではない)、“思想”、“心”である。甲という事物を表現する動詞を乙という事物に用いるという、動作が似ていることから別の事物に言及する(“連類而及”)という語句の転用という方法は、作者の現実の事物に対する強烈な感情を表現することができる。後半の転用部分はしばしば前半の意味の深化、飛躍である。


【出典】胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社 1995年


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中国語の修辞について: 語句の選択

2010年11月16日 | 中国語
 これまで、中国語の表現力を向上するにはというテーマで、中国語の語彙、文法について見てきましたが、もう一つ大きな研究カテゴリーとして、修辞があります。修辞学は音韻、語彙、文法で定められた規律を基礎にして、如何に文としての表現効果を高めるかを研究する学問分野です。今回は、語句を如何にうまく選択するかということについて、紹介していきたいと思います。

                          語句の運用

 話は一字一句するものである。文は語句が組み合わされてできている。語句の運用が正確で適切でないと、直接に文の表現効果に影響する。修辞を究め(“講究”)、言語の表現効果を高めようと思えば、先ずたくさんの語句を蓄積し、語句に含まれている意味(“涵意”、“含意”)や用法を正確に掌握できていなければならない。そうしてはじめて、話をしたり文章を書いた時に自在に運用ができる。したがって修辞については、先ず語句の運用とそれに磨きをかける(“錘煉”)ことを言わなければならない。

                          語句の選択

(一) 語句選択の要求

 正確で的確(“貼切”)であることが語句選定の基本要求である。それを実現するには、語句の意味を正確に理解し、意味が類似した語句、ある語句に関連した語句の間の僅かな違いを正確に掌握していなければならない。いくつかの語句は、意味は似ていても、それらが代表する概念や適用対象が異なる。いくつかの語句はその基本的な意味の他に、感情的な色彩や語体の色彩を持っている。それゆえ私たちは大量に生命力に富んだ語句を蓄積し、それらの意味、用法、風格等の細かな差異を把握することを要求され、それを活用した時に思い通りの結果が得られる(“得心応手”)のである。

1.対象をはっきりさせること
 先ず、表現する内容の対象をはっきりさせなければならない。表現の対象が異なると、選ぶべき語句も異なる。魯迅の《狂人日記》は、使っている語句の意味が飛躍しており、前後の文としばしば一貫しておらず、このことが“狂人”の口ぶりとマッチしている。《社戯》が使っている語句は平易で分かりやすく、体の動きが強調され、農村の子供の表現にマッチしている。《傷逝》が書いているのは小資産階級の知識分子で、書面語が多く使われ、知識階級の人の言葉つき(“腔調”)が濃厚に出ている。また例えば、同様のことが酒を買って飲む場面の描写にも現れる。阿Qが街から喜び勇んで戻ってきて、酒屋のカウンターに入って来ると、腰のあたりをピンと伸ばすと“満把是銀的銅的,往柜上一扔”(一握りの銀貨、銅貨をカウンターにぶちまけた)。貧しく落ちぶれた知識分子の孔乙已は他の客達の嘲笑の中で、“排出九文大銭”(大枚九文を差し出した)。“扔”の字には阿Qの得意洋々とした、他人にひけらかす(“耀”)様子が生き生きと描写されている。“排”の字は孔乙已の金に困っている様子を反映している。同様に人の物を盗んだことがばれた場面で、孔乙已はこう言い訳をしている。“窃書不能算偸……窃書!……読書人的事,能算偸麼?”(本を盗るのは盗みのうちに入らない。本を盗るのは……読書人の事で、どうして 盗んだと言えるんだ?)阿Qはこう言っている。“這是你的?你能叫得他答応你麼?你……”(これは君のか?君が呼べばそいつは君に応えるのか?君……)これらの語句の選択はこれらの人物の身分にたいへんマッチしている。これは作者が表現内容の対象を正確に把握していることと切り離すことができない。

 次に、考えを伝える対象をはっきりさせなければならない。話をし、文章を書くのは、他人に聞かせたり他人に読ませたりするためで、聴衆や読者のことを考えざるを得ない。話をする対象は知識階層か、それとも工場労働者や農民か。上部機関に指示を仰ぐ報告か、それとも下部機関への決裁の承認通知か。考えを伝える対象が異なれば、選択する語句も異なる。趙樹理の小説《李有才板話》の中の人物の章工作員と老楊同志は、考え方や仕事の仕方が異なる他、ことばの使い方も全く異なる。どの会議、会合でも、章工作員は話の出だしで必ず“重要性”、“什麼的意義及其価値”といった硬いことばを言うので、他の多くの農民たちはうんざりしてしまう。老楊同志は農民が普段使っていることばで訴えかけるので、たいへん説得力がある。

2.環境に気をつけなければならない
 ここで言う環境とは、現実の環境と言語環境の両方を含む。

 魯迅の雑文は反語を多用し、笑いあり怒りあり、彼の表現能力が発揮されている。彼が時に選ぶ語句は難解で屈曲し、冷たいが味わいがあり、正に魯迅が生きた時代の社会環境の必然の産物である。1976年の清明節(4月5日)に、首都北京の人々が詩歌を武器に故周恩来を沈痛に哀悼し、「四人組」を糾弾した。「四人組」の支配下、これらの詩歌は語句の選択にしばしば同音語への置き換え、析字、借代、比喩などの方法が採られた。例えば、“江”の代わりに“僵”を、“姚”の代わりに“謡”を、“江青”の代わりに“青苹”を、“張春橋”の代わりに“喬木”を用い、“妖”、“鬼”を用いて「四人組」を暗示した。これらは当時の政治環境と区分できない。

 社会環境が語句の選択に関係するだけでなく、たとえ日常の生活環境でも語句の選択と関係がある。かしこまった場合には“父親”を用いるが、日常の会話では“爸爸”を用いる。日常生活では普通“塩”と言うものが、化学分析の場合は“氯lv4化鈉na4”(塩化ナトリウム)と呼ばれる。

 言語環境に留意するとは、主に前後の文の言語環境の要求に適応することである。ある語句はそれ単独で見ると良いも悪いもないが、一定の言語環境の中では優劣が明確に顕れる。どのような時に単音の語句を用い、どのような時に二音節の語句を用いるか。どのような時に平声の字を用い、どのような時に仄声の字を用いるか。どのような時に褒義の語句を用い、どのような時に貶義の語句を用いるか等は、一定の前後の文面と密接な関係がある。したがって語句の選択の時にはこの一点を考えざるを得ない。さもなければ人に言語環境が調和していないと感じさせ、意味の正確な伝達に影響を与えてしまう。

 例えば長い年月にわたり読み伝えられてきた王安石の《泊舟瓜洲》を見てみよう:
     京口瓜洲一水間,
     鐘山只隔数重山。
     春風又緑江南岸,
     明月何時照我還?

 第三句の“緑”の文字は、伝え聞くところでは、何度も“到”、“過”、“入”等の語に置き換えてみて、最後に“緑”が選ばれ、色彩を表す形容詞を動詞として用い、生気溢れる、春たけなわの江南の情景を描写し、また当時の作者の心情を表現したと言われている。“到”、“過”、“入”等のことばは“緑”より劣るのだろうか。いやそうではない。ことばは人間と同様、それぞれ長短があり、それぞれ用途がある。人材は活用しなければならず、ことばはその機能を発揮させなければならない。肝心なのは、話者や筆者が、対象、環境、事実に基づき、最も正確で適切なことばを選び、それらのことばを適材適所に用いることができたかどうか(“各得其所”)である。

 張継の《楓橋夜泊》で:
     月落烏啼霜満天,
     江楓漁火対愁眠。
     姑蘇城外寒山寺,
     夜半鐘声到客船。

 第四句の“到”がうまく用いられている。夜半の鐘声が、客船に伝わるのは、最初の二つの句と呼応し、船上の人が愁いから未だ眠れないことを暗示している。

 杜甫の《送蔡希魯都尉》で、“身軽一鳥過,槍急万人呼”の二句で、“過”という動詞には、蔡希魯が戦場を馬で駆け回る雄姿が鮮やかにスケッチされ、“疾”、“落”、“起”、“下”等のことばに容易く置き換えることができない。
 李白の《峨眉山月歌》で、“峨眉山月半輪秋,影入平羌江水流。”この中で“入”がうまく用いられている。月影が江に投じ、水光が天に接し、明月、高山、流水が“入”という字を通じて、三者が一つにつながり、一幅の美しい山水画を構成している。

 これらから、孤立した一つのことばからは優劣を論じることはできないが、どのような語句を選ぶのが妥当であるかは、特定の言語環境に基づき決定されるということが分かる。

3.真実に注意しなければならない
 現実の生活の中で、人々は客観世界に対する認識、思想感情活動を、言語を運用して表現している。このことは先ず言語が正確に客観的現実を反映していることが要求される。話者や作者は対象の性質や事物の相互関係に基づき、最もふさわしい語句を選択し、これらの語句を厳密に組み立て、正確・適切に考えを表現するのが上手くなければならない。語句の正確・適切な選択は、生活の中や歴史上の客観的事物に対する理解の正確さや深刻さと切り離すことができない。もったいをつけたり(“装腔作勢”)、虚勢を張るような所謂“豪言壮語”、美辞麗句や虚飾、人々をあっと言わせて関心を買う(“嘩衆取寵”)ような花言巧語、美辞麗句を並べたて(“堆砌詞藻”)、実際に合わない決まり文句の濫用は、語句の運用の上ではどんなに美しく飾り立ててあっても、正しく、適切であれとの要求に合致しない。

 正確・適切が、語句の選択の基本要求である。正確・適切の基礎の上に、ことばが簡潔で生き生きしていることが要求される。つまり、極力重複や回りくどさを避けなければならず、真実の基礎の上に、創造的に事物や人物を描かなければならない。

(二)語句選択の範囲

 修辞の角度から見て、動詞の選択は重要である。中国語の動詞はたいへん数が多く、各種の動作、行為の細かな違いが適当な動詞で区別して表すことができる。次に挙げるのは魯迅の《一件小事》からである:
   (1)我没有思索的従外套袋里出一大把銅元,交給巡警,説,“請你給他……”

 この“抓”は無造作に金を取り出すことを表し、動作がすばやく、“我”が気持が不安で、多少あわてている精神状態をうまく表現している。もしここに“摸”を使うと、同様に手の動作ではあるが、“摸”は比較的緩慢な動作を指すので、ここでは適切ではない。

 また王蒙の《説客盈門》に次のような文がある。
   (2)……他悠悠地着歩子,着牙花子,慢呑呑地着毎一個字。好像是在毎一個字的分量;又像是在咂za1毎一個字的滋味。是的,他的話語就像五香牛肉干,濃縮,醇厚。

 作者は“踱、嘬、吐、掂、咂”の五つの動詞を使い、最後に一つの比喩と二つの形容詞を配し、飾り気の無い表現(“白描手法”)で“他”の姿を描写した――今のポストに満足しそれ以上努力しようとせず(“吃老本”)、決まり文句ばかり言い、官職にしがみつく(“保烏紗”)役人根性(“官僚習気”)の幹部の姿である。作者がこれら人物の姿を描写する動詞を精一杯に選択したことが分かる。

  心理活動や抽象的な行為を表す動詞は、より細心に注意を払い、選択しなければならない。例えば:
   (3)“好媳婦!”村里人誰不這麼誇奨
      “好媳婦!”夫家的親戚誰這麼伝誦
      “好媳婦!”丈夫的朋友,誰不這麼賛嘆

  作者、王汶石はここで“誇奨”、“伝誦”、“賛嘆”の三つの動詞を用い、“村里人”、“夫家的親戚”、“丈夫的朋友”の三種の異なる身分の人の反応を正確に描写し、且つ人物関係の遠近を適切に表している。

 形容詞の選択も注意が必要である。例えば魯迅の《藤野先生》で:
   (4)従此就看見許多陌生的先生,聴到許多新鮮的講義。

  “陌生”と“新鮮”の二つの形容詞は、初稿では何れも同じ“新”が用いられていた。これでも勿論構わないが、一番目の“新”を“陌生”に変えることで、“従未見過”の意味を表し、二番目の“新”を“新鮮”に改め、“従未学過”の意味を表したが、単に“新”を用いるより更に正確・適切になった。

 一定の場面で、ある形容詞を用いるか用いないかで、表現効果に大きな違いが出てくる。例えば:
     (5)“阿呀阿呀,真是愈有銭,便愈是一毫不肯放松,便愈有銭……”圓規一面憤憤的回転身,一面絮絮的説,慢慢向外走,順便将我母親的一副手套塞在褲腰里,出去了。

 魯迅の《故郷》の中の一段の叙述だが、“圓規”(コンパス)が回転するように、すなわち楊二嫂が引っ越しの手伝いのついでに家の物(手袋)を持ち去る(“順手牽羊”)という行為から、語句が選択されている。先ず“憤憤”で、彼女がほしいと思った木器や家具がもらえず、腹を立てて帰っていくことを表す。“絮絮”は彼女が口達者(“利嘴”)でぶつぶつ文句を言い続けていることを書いている。“慢慢”は機会をうかがって何か持ちだしてやろうとしていることを表している。魯迅はこれら三つの形容詞と次の文の副詞“順便”、動詞“塞”を組合せ、この機会にうまい汁を吸おうと(“占便宜”)している楊二嫂を生き生きと描いている。

   (6)我希望他們不再像我,又大家隔膜起来……然而我又不願意他們因為要一気,都如我的辛苦展転而生活,也不願意他們都如閏土的辛苦麻木而生活,也不願意都如別人的辛苦恣雎而生活。他們応該有新的生活,為我們所未経生活過的。

 ここでは“展転”、“麻木”、“恣雎”の三つの形容詞を用い、三種の異なる人の生活を、正確、適切に表現している。

  名詞は人や事物の名称を表す詞であるので、どういうものは何と言うか決まっていて、選択の余地は無いように思える。しかしどういう名詞を使ってある人物や事物を指すかは、修辞の角度から見るとよく考えられている。例えば:
   (7)暁燕去的功夫不大就回来了。她睡在道静身辺,細心地照顧着她。天還没亮,她就悄悄爬起来,生怕惊醒了病人。但是在她摸着黒穿衣服的時候,道静也醒了。

  ここで書かれているのは王暁燕が病気の林道静の世話をしていることである。王暁燕がそっと起き上る場面で、作者は“生怕惊醒了病人”と表し、“生怕惊醒了道静”とはしていない。一面で林道静が病気であることを際立たせ、もう一方では“病人”を使った方が“生怕惊醒”とよりぴったり合い、その時点の言語環境に適応しているのである。

(8)“不!”韓同志把東西扔在草棚屋以后,精神振奮地説,“老大娘,甭beng2忙!志光,咱先看看秧子地去!”
歓喜説,“洗下臉,喝点水,歇歇再……”
“不!先看秧子地去!”韓同志興奮地立意要去。
大個子農技員拉着小徒弟的手,出了街門,向秧子地去了。

・秧子 yang1zi 苗

 前半で話をしているのは韓同志と歓喜(即ち志光)、後半では彼らが秧子地を見に行くと言うのに、彼らのことを“大個子農技員”、“小徒弟”ということばに置き換え、重複を避け、変化を明確にしているだけでなく、彼らの身分を突出させ、彼らの間の関係を突出させ、一石二鳥の表現効果を得ている。

 語句の選択は動詞、形容詞、名詞に限らない。数詞、量詞、副詞、代詞、更には虚詞に至るまで、うまく選択すると、表現効果を向上させる作用がある。例えば、同じ事物の数量を表すのに、“一絲”、“一縷”、“一線”、“一点”等の異なる表現法があり、どれが最も正確で適切かは、それぞれの表現対象や言語環境に基づき斟酌しなければならない。
 例えば郭沫若の歴史劇《屈原》の中で、“你是没有骨気的文人”を“你這没有骨気的文人”とし、代詞“這”を使い、陳述文を感嘆文に改めることで、このセリフはにわかに輝きを増した。
 老舎の話劇《宝船》の中で、“開船嘍lou!”というセリフがある。ある日本人が老舎に、なぜ“啦la”でなく“嘍lou”を使うのかと聞いたことがある。老舎は執筆中に繰り返し朗読してみて、“開船嘍lou!”と言うと、多くの人に対する呼びかけを表し、“開船啦la!”と言うと一人の人への呼びかけになっているということを発見したという。この二つの語気詞の細かな違いを作者は把握したのである。

 言語、文字を運用し、客観事物を表現する時、客観事物を繰り返し観察、体験、研究、分析しなければならず、認識が深まると、必然的に語句の正確、適切な選択の助けになる。したがって言語の表現効果を高めるには、語句そのものに磨きをかける(“錘煉”)だけでなく、その文の持つ思想や考えにも磨きをかけなければならない。

【出典】胡裕樹主編《現代漢語》重訂版・上海教育出版社 1995年


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