中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

中国語で読む成語のお話Vol.7「趾高気揚」

2020年05月31日 | 中国語成語

 今回は「趾高气扬」zhǐ gāo qì yáng、これは、『春秋左氏伝』(『左伝』と通称される)に出てくる話です。『左伝』は、孔子が編纂したとされる歴史書、『春秋』の注釈書のひとつで、孔子の弟子の左丘明によって書かれたものとされています。尚、文中で中国湖北省、河南省近辺の地名が出てきますが、もしお手元に中国の分省地図をお持ちでしたら、それで場所を確認しながら見ていただくと、当時の楚の領土拡張の動きが分かって、おもしろいです。

 春秋时期,楚国的莫敖(官名)屈瑕几次带领大军出征,都获得了胜利,因而威震一时。公元前六九九年,屈瑕领兵进攻“绞”国,用计打败了固守城池的绞军,迫使绞人与楚国签订了屈辱的条约。

Chūnqiū shíqī, chǔ guó de mò áo (guān míng) qū xiá jǐ cì dàilǐng dà jūn chūzhēng, dōu huòdé le shènglì, yīnér wēizhèn yīshí. Gōngyuán qián 699 nián, qūxiá lǐng bīng jìngōng “jiǎo” guó, yòng jì dǎbài le gùshǒu chéngchǐ de jiǎo jūn, pòshǐ jiǎo rén yǔ chǔ guó qiāndìng le qūrǔ de tiáoyuē. 

 春秋時代、楚の最高の官位である「莫敖」であった屈瑕は、何度も大軍を率いて遠征し、毎回勝利をおさめた。このため、一時期は人々が震え上がる程の勢いがあった。紀元前699年、屈瑕は兵を率いて「絞」国を攻撃し、計略を用いて都城を固く守っていた絞軍を打ち破り、絞の人々に楚と屈辱的な条約を結ぶよう迫った。

 絞は春秋時代、湖北省西北部を流れる長江の支流である漢水の、中、上流地域にあった小諸侯国で、その中心は今日の丹江口市習家店一帯、或いは一説には鄖(yún。うん)県の西北(何れも湖北省北部、河南省境)にありました。丹江口というと、今日、長江水系の水を首都北京に運ぶ「南水北調」プロジェクトでの中心となる水源地域です。ちなみに、この頃の楚の都、丹陽は、丹江の下流と淅川が合流するあたりにあったと言われ、現在丹江口ダムとなっているあたりです。

 屈瑕は楚の国王、武王の息子でした。屈(現在の湖北省秭帰(しき)県(宜昌市))に封じられ、子孫からは詩人、屈原が出ています。

楚の屈瑕の周辺国遠征

 第二年春天,屈瑕又带兵去讨伐“罗”国,许多官员都来为他送行。临别的时候,屈瑕眉飞色舞,意气高昂,觉得打败“罗”国易如反掌。当大军出发之后,大夫斗伯比满怀忧虑地对他的驾车人说:“莫敖这次出征一定会遭到惨败的!你看他走起路来把脚抬得那么高,自以为一定能取胜,一点都不把这次征战放在心里啊!”(原文是:“莫敖必败,举趾高,心不固矣!”)

dì èr nián chūntiān, qūxiá yòu dài bīng qù tǎofá “luó” guó, xǔduō guānyuán dōu lái wèi tā sòngxíng. Línbié de shíhou, qū xiá méi fēi sè wǔ, yìqì gāo áng, jué de dǎbài “luó” guó yì rú fǎn zhǎng. dāng dà jūn chūfā zhī hòu, dàfū dòu bóbǐ mǎn huái yōulǜ de duì tā de jià chē rén shuō: “mòáo zhè cì chūzhēng yīdìng huì zāo dào cǎnbài de! Nǐ kàn tā zǒu qǐ lù bǎ jiǎo tái de nàme gāo, zì yǐwéi yīdìng néng qǔ shèng, yīdiǎn dōu bù bǎ zhè cì zhēng zhàn fang zài xīn lǐ a!” (yuan wén shì: “mòáo bì bài, jǔ zhǐ gāo, xīn bù gù yǐ!”)

 翌年の春、屈瑕はまた兵を率いて「羅」国の討伐に向かい、多くの役人が彼を見送りに来た。別れに臨んで、屈瑕は喜色満面で、意気軒昂として、「羅」国を打ち破るのは、たなごころを返すように容易であるように思った。大軍が出発した後で、大夫(古代の官職で、卿の下、士の上)の斗伯比が、心から心配して、彼の馬車の御者に、「莫敖殿のこの度の遠征はきっと惨敗を喫するだろう。ほら、彼が通りを進む時、足をあんなに高々と上げ、自分ではきっと勝利すると確信し、今回の遠征のことなど少しも心に留めていなかったのだから。」(原文は、「莫敖は必ずや敗れん、足を挙げること高く、心固まらず」)と言った。

 羅というのは、少数民族(蛮夷)の建てた国で、元々河南省の羅山県あたりにいたものが、周などの討伐を受け、この頃は、湖南省の汨羅(べきら)江河畔の平江県あたりで小国を営んでいました。

 羅は過去、何度も大国に攻められては敗れていたので、屈瑕としては、負けるはずがないと、たかをくくっていたのだと思います。


 斗伯比对这次出征很不放心,他马上去见楚武王,说:“我看,应当立刻增派军队去援助屈瑕;否则,他一定要吃亏的!”楚武王非常信任屈瑕,认为他很有才干,没有答应斗伯比的请求。

Dòu bóbǐ duì zhè cì chūzhēng hén bù fàngxīn, tā mǎshang qù jiàn chǔ wǔ wáng, shuō: “wǒ kàn, yīngdāng lìkè zēng pài jūnduì qù yuǎnzhù qū xiá; fǒuzé, tā yīdìng yào chī kuī de!” chǔ wǔ wáng fēicháng xìnrèn qū xiá, rènwéi tā hěn yǒu cáigàn, méiyǒu dáyìng dòu bóbǐ de qǐngqiú.

 斗伯比は今回の遠征が心配でならなかったので、すぐに楚の武王に接見して、「私の見るところでは、直ちに援軍を派遣し、屈瑕様を助けるべきです。さもないと、屈瑕様は必ずや敵にしてやられることとなりましょう。」と言った。楚の武王は屈瑕を非常に信頼していて、彼にはたいへん才能があると思っていたので、斗伯比の請願に同意しなかった。


 后来,楚武王把斗伯比的话告诉了夫人邓曼。邓曼是个精细的女人,就劝楚武王说:“大夫的话很有道理。屈瑕连年征战,屡建战功,很容易骄傲轻敌。前年他大败郧人,如今讲起来还觉得很了不起呢!这次出征,您没有提醒他要小心谨慎,万一他真的麻痹轻敌,那结果就不堪设想了。” 

Hòulái, chǔ wǔ wáng bǎ dòu bóbǐ de huà gàosu le fūrén dèng màn. Dèng màn shì ge jīngxì de nǚrén, jiù quàn chǔ wǔ wáng shuō: “dàfū de huà hěn yǒu dàolǐ. Qū xiá lián nián zhēng zhàn, lǚ jiàn zhàn gong, hěn róngyì jiāoào qīng dí. Qián nián tā dà bài yún rén, rújīn jiǎng qǐlái hái jué de hěn liǎobuqǐ ne! zhè cì chūzhēng, nín méiyǒu tíxǐng tā yào xiǎoxīn jǐnshèn, wànyī tā zhēn de mábì qīng dí, nà jiéguǒ jiù bùkān shèxiǎng le.”

 その後、楚の武王は斗伯比の話を夫人の鄧曼に話した。鄧曼は冷静に物事を判断できる女性であったので、楚の武王に、「大夫の話はたいへんもっともです。屈瑕様は何年も続けて遠征し、度々戦功を上げておられますので、ややもすると傲慢になり、敵を軽視するようになります。おととし、屈瑕様は鄖(うん)人を大いに破り、今思い返しても大したものだと思います。この度の出征で、あなた様は屈瑕様に注意して慎重に対応するよう忠告なさりませんでした。万一、屈瑕様が本当に油断して敵を軽く見るようだと、その結果は想像するのも恐ろしいですわ。」と忠告した。


 武王觉得邓曼的话有理,就派人火速追赶屈瑕。但是,屈瑕统率的大军出发已久,无法追上了。

Wǔ wáng jué de dèng màn de huà yǒu lǐ, jiù pài rén huǒsù zhuīgǎn qū xiá. Dànshi, qū xiá tǒngshuài de dà jūn chūfā yǐ jiǔ, wúfǎ zhuī shàng le.

 武王は鄧曼の言うのはもっともだと思い、人を遣って、超特急で屈瑕の後を追った。けれども、屈瑕の率いる大軍は、出発してからもうずいぶん時間が経っていて、追いつくことができなかった。


 屈瑕统帅大军直逼到下罗国,楚军从上到下都不把罗军放在眼内,因此纪律极为松弛。无论白天黑夜,他们对敌人都不作任何防备。这样,罗国便和邻国卢戎联合起来,利用楚军的麻痹轻敌思想,发动突然袭击,把楚军打得落花流水,一败涂地。结果,楚军的主帅屈瑕自杀了,其余逃回楚国的将领,把自己捆绑起来,听候楚武王的处分。楚武王说:“我事前没有提醒屈瑕要小心谨慎,这是我的过失,与你们无关。”于是,他就把请罪的将领赦免了。

Qū xiá tǒngshuài dà jūn zhíbī dàoxia luó guó, chǔ jūn cóng shàng dào xià dōu bù bǎ luó jūn fang zài yǎn nèi, yīncǐ jìlǜ jíwěi sōngchǐ. Wúlùn báitiān hēiyè, tāmen duì dí rén dōu bù zuò rènhé fǎngbèi. Zhèyang, luó guó biàn hé línguó lúróng liánhé qǐlái, lìyòng chǔ jūn de mábì qīng dí sīxiǎng, fādòng tūrán xíjī, bǎ chǔ jūn dǎ de luò huā liú shuǐ, yī bài tú dì. Jiéguǒ, chǔ jūn de zhǔshuài qū xiá zìshā le, qí yú táo huí chǔ guó de jiānglǐng, bǎ zìjǐ kǔnbǎng qǐlái, tīnghòu chǔ wǔ wáng de chǔfèn. Chǔ wǔ wáng shuō: “wǒ shìqián méiyǒu tíxǐng qū xiá yào xiǎoxīn jǐnshèn, zhè shì wǒ de guòshī, yǔ nǐmen wú guān.” Yúshì, tā jiù bǎ qǐng zuì de jiānglǐng shèmiǎn le.

 屈瑕が率いる大軍は羅に近づいたが、楚軍は上から下に至るまで羅軍など眼中になく、そのため軍内の規律はゆるんでしまっていた。昼も夜も、彼らは敵に対して如何なる防備もしていなかった。そのため、羅は隣国の廬戎(ろじゅう)と連合し、楚軍が油断して敵を軽んじているのに乗じて、突然襲撃し、楚軍をさんざんに打ちのめし、楚軍は一敗地にまみれた。その結果、楚軍を率いる屈瑕は自殺し、それ以外の楚に逃げ帰った将校たちは、自ら自分を縄で縛り、楚の武王の処分を待った。楚の武王は、「私が事前に屈瑕に注意して慎重に行動するよう忠告しなかったのは、私の過ちだ。おまえたちとは関係が無い」と言い、屈瑕は罪を請うた将校たちを放免した。

 これより、「趾高气扬」は、足を高くあげて意気揚々と歩くさま、つまり、得意満面の様子をあらわす成語として使われるようになりました。


中国語で読む成語のお話Vol.6「亡羊補牢」

2020年05月29日 | 中国語成語

 

 「亡羊补牢」wáng yáng bǔ láoの話は、『戦国策』(前漢(BC206-AD8)の劉向が編纂。戦国時代の遊説の士の言説、国策、献策や逸話を、国別に分類し、まとめたもの)のうち、『楚策』の中に記載されているものです。

 战国时期,楚襄王昏庸腐败,信用小人,使国家一天天衰落下去。

Zhànguó shíqī, chǔ xiāng wáng hūnyōng fǔbài, xìnyòng xiǎorén, shǐ guójiā yī tiāntiān shuāiluò xiàqù.

 戦国時代、楚の襄王(じょうおう)は愚昧で堕落し、つまらない人間を信用し、国を日に日に衰えさせた。


 大臣庄辛劝谏襄王说:“大王,您身前身后,总是围着州侯,夏侯,鄢陵君,寿陵君这几个人,可他们无德无才,只会献媚取宠,使您一味放荡奢侈,沉迷酒色。这样下去,郢都(楚国的首都)就危险了。”楚襄王说:“先生,您老糊涂了吗?难道这就是楚国的凶兆吗?”庄辛说:“我确实是这样看的。如果大王还是一味宠信这四个人,楚国是一定要败亡的。我要到赵国去,在那里看看楚国的情况。”

Dàchén zhuāng xīn quànjiàn xiāng wáng shuō: “dàwáng, nín shēn qián shēn hòu, zǒng shì wéi zhe zhōu hóu, xià hóu, yān líng jūn, shòu líng jūn zhè jǐ ge rén, kě tāmen wú dé wú cái, zhǐ huì xiàn méi qǔ chǒng, shǐ nín yīwèi fang dàng shēchǐ, chénmí jiǔsè.zhèyàng xiàqù,yǐngdū (chǔ guó shǒudū) jiù wēixiǎn le.” Chǔ xiāng wáng shuō: “xiānsheng, nín lǎo hútu le ma? Nándào zhè jiùshì chǔ guó de xiōngzhào ma?” zhuāng xīn shuō: “wǒ quèshí shì zhèyang kàn de. Rúguǒ dàwáng háishì yīwèi chóngxìn zhè sì ge rén, chǔ guó shì yīdìng yào bàiwáng de. Wǒ yào dào zhào guó qù, zài nà lǐ kànkan chǔ guó de qíngkuàng.”

 大臣の荘辛(しょうしん)が襄王を諫めてこう言った。「大王、あなたの近くは、いつも州侯、夏侯、鄢陵君(えんりょうくん)、寿陵君といった人たちに囲まれていますが、彼らは人徳も無ければ才能も無く、ただ媚を売って王の寵愛を受けることができるだけで、あなたをひたすら勝手気ままで贅沢にふけらせ、酒色に溺れさせています。こんなことをしていたら、郢(えい。楚の都)は危ないです。」楚の襄王は、「先生、あなたは年をとって、ボケてしまわれたのですか。どうしてこれが楚の不吉な兆しなのですか。」と聞いた。荘辛は、「私は確かにそう思います。もし大王がまだ彼ら四人を寵愛し信用しているなら、楚は必ずや滅亡してしまうでしょう。私は趙に行こうとおもうので、そこで楚の様子を見ていることにします。」と答えた。


 不久,庄辛果然到赵国去了。不到半年,秦国大举进攻楚国,占领了鄢,郢,巫,上蔡,陈等广大地区。楚襄王被迫流亡到城阳。这时,他想起了庄辛,马上派人到赵国去请庄辛回国。

Bù jiǔ, zhuāng xīn guǒrán dào zhào guó qù le. Bù dào bàn nián, qín guó dàjǔ jìngōng chǔ guó, zhànlǐng le yān, yǐng, wū, shàngcài, chén děng guǎngdà dìqū. Chǔ xiāng wáng bèipò liúwáng dào chéngyáng. Zhè shí, tā xiǎng qǐ le zhuāng xīn, mǎshang pàirén dào zhào guó qù qǐng zhuāng xīn huí guó.

 間もなく、荘辛は果たして趙に行った。半年もしないうちに、秦が大挙して楚を侵略し、鄢(えん)、郢、巫(ふ)、上蔡、陳など、広大な地域を占領した。楚の襄王はやむなく城陽に逃れた。この時、襄王は荘辛のことを思い出し、すぐに人を趙に遣って、荘辛に帰国するよう請うた。


 庄辛立即动身,不久便来到城阳。襄王惭愧地对他说:“我当初不肯听信您的忠告,如今真的兵败将亡,国土沦丧,这叫我怎么办呢?”庄辛满怀信心地说:“大王不必灰心!俗话说:‘发现了野兔才回头去唤猎犬,把它放出去,这不算晚;羊走失了,赶快把羊圈修补好,这也不算迟。’(原文是:‘见兔而顾犬,未为晚也;亡羊而补牢,未为迟也。’)从前,商汤王,周武王凭借百里的土地而强盛起来,统一了天下;桀,纣虽然称霸天下,却终于兵败国亡。现在,楚国虽然不算大,但是方圆有好几千里地,怎么不能强大兴盛起来呢!”

Zhuāng xīn lìjí dòng shēn, bùjiǔ biàn lái dào chéngyáng. Xiāng wáng cánkuì de duì tā shuō: “wǒ dāngchū bù kěn tīng xìn nín de zhōnggào, rújīn zhēn de bīng bài jiàng wáng, guótǔ lúnsàng, zhè jiào wǒ zěnme bàn ne?” zhuāng xīn mǎn huái xìn xīn de shuō: “dàwáng bù bì huīxīn! Súhuà shuō: ‘fāxiàn le yě tù cái huí tóu qù huàn lièquǎn, bǎ tā fang chūqù, zhè bù suàn wǎn; yang zǒu shī le, gǎnkuài bǎ yang quān xiū bǔ hǎo, zhè yě bù suàn chǐ.’ (yuan wén shì: ‘jiàn tù ér gù quǎn, wèi wéi wǎn yě; wáng yáng ér bǔ láo, wèi wéi chǐ yě.’) cóng qián, shāng tang wáng, zhōu wǔ wáng píngjiè bǎi lǐ de tǔdì ér qiángshèng qǐlái,tōngyī le tiānxià; jié, zhòu suīrán chēngbà tiānxià, què zhōngyú bīng bài guó wáng. Xiànzài, chǔ guó suīrán bù suàn dà, dànshì fāngyuán yǒu hǎo jǐ qiān lǐ dì, zěnme bù néng qiángdà xīngshèng qǐlái ne!”

 荘辛は直ちに出発し、間もなく城陽にやって来た。襄王は恥ずかしそうに荘辛に、「私は最初、あなたの忠告を聞いても信用しようとしませんでした。今や本当に戦争に負けて将校たちも戦死してしまい、国土も喪失しました。この状況をどうすれば良いのでしょうか。」と尋ねた。荘辛は自信満々でこう言いました。「大王、どうか気を落とさないで。ことわざに、「野ウサギを見つけてから、猟犬を呼んで、犬を猟場に放っても、まだ遅いとは言えません。羊が逃げ出してから、大急ぎで羊の囲いを修理しても、まだ遅いとは言えません。」(原文は、「兎を見て犬を顧みるも、未だ晩しと為さず。羊を亡くして牢を補うも、未だ遅しと為さず。」)昔、殷の湯王、周の武王は、百里の土地を頼りに、国力を強化し、天下を統一しました。桀王や紂王は天下に覇を称えましたが、遂には戦いに敗れ、国を滅ぼしました。今、楚は国土が大きいとは言えませんが、それでも周囲が何千里もあります。どうして国を強大にし、栄えさせることができないことなどありましょうか。」


 荘辛の言った「亡羊补牢」は、過ちを犯してしまっても、すぐにそれを反省して改めれば、それは決して遅いとは言えないということの喩えとして使われています。

 また、荘辛が言ったもうひとつのたとえ話、「见兔顾犬」jiàn tù gù quánも、成語として使われています。意味はよく似ていて、動作の開始が遅くなっても、すぐに方策を考え、手を打てば、まだ間に合う、という意味です。

殷の湯王は、賢臣、伊尹の献策を採り入れ、また周の武王は、太公望や周公旦を重用し、何れも国力を充実させ、それぞれ夏、殷を滅ぼします。一方、夏の桀王、殷の紂王は、何れも武勇に優れた君主であったにもかかわらず、酒池肉林に溺れ、国を滅ぼしてしまいます。

 ここで、荘辛が言いたかったのは、襄王は若いころ、取り巻きの悪い連中にそそのかされ、国を傾け、国土のかなりの部分を秦に奪われてしまいましたが、襄王が自分の過ちに気づき、今からでも国を立て直し、国力の充実を図れば、領土の回復も夢ではない、ということです。事実、その後、楚は淮河以北の領土を秦から奪い返すことに成功し、荘辛は陽陵君に封ぜられました。


中国語で読む成語のお話Vol.5「熟能生巧」

2020年05月27日 | 中国語成語

 今回のお話は、北宋(960-1127年)の時代、政治家であり文人であった欧陽修(1007-1072年)が著した『欧陽文忠公文集』に出てくる話で、一般には『卖油翁』(油売りの翁)という寓話で知られています。また、陳堯諮(ちん ぎょうし)は実在の人物で、科挙の試験に首席で合格して役人となり、書を能くし、武術にも秀でた人物でした。

 北宋年间,有一位叫陈尧咨的官员,他很擅长射箭。有一次,他拿了一个铜钱作为靶子,一箭射去,不偏不倚,正好射中钱眼。人们纷纷赞他的箭法举世无双,他自己也有点自命不凡了。

Běisòng niánjiān, yǒu yī wèi jiào chén yáozī de guānyuán, tā hěn shàncháng shè jiàn. Yǒu yī cì, tā ná le yī ge tóngqián zuòwéi bǎzi, yī jiàn shè qù, bù piān bù yǐ, zhènghǎo shè zhòng qiányǎn. Rénmen fēnfēn zàn tā de jiàn fǎ jǔ shì wú shuāng, tā zìjǐ yě yǒu diǎn zì mìng bù fán le.

 北宋年間、陳堯諮という役人がおり、弓矢を射るのが得意であった。ある時、彼は銅銭を的にし、矢をひとたび射ると、矢は少しも片寄ることなく、ちょうど銅銭の真ん中の穴に命中した。人々は次々と彼の弓矢の腕前を世に並ぶものなしと褒め称え、彼自身も多少自分は非凡だとうぬぼれていた。

 銅銭は、日本でも平安末期から鎌倉時代に多く輸入された宋銭ですね。中央に四角い穴の開いたものです。この中央の穴が「钱眼」です。当時、銅銭は紐を通して流通しました。銅銭千枚を紐で通したものを「一贯」yī guànと言いました。「万贯」と言うと、巨万の富の意味となり、「万贯富翁」、「万贯家私」などという言い方があります。


 有一天,陈尧咨在屋后的庭院里练习射箭。只听见“嗖嗖”箭响,几乎每一支箭都射中靶心。围观的人赞叹不绝。

Yǒu yī tiān, chén yáozī zài wūhòu de tíngyuàn li liànxí shè jiàn. Zhǐ tīng jiàn “sōusōu” jiàn xiǎng, jīhū měi yī zhī jiàn dōu shè zhòng bǎ xīn.

 ある日、陳堯諮は家の裏の庭で弓矢を射る練習をしていた。ただ「ひゅうひゅう」と矢の飛ぶ音だけが聞こえ、ほぼ全ての矢が的の中心に命中した。彼を取り囲んで見ていた人々は絶え間なくそれを称賛した。


 这时,一个卖油的老汉刚好经过这儿,就放下油担看热闹。陈尧咨又射了好多支箭,十有八九射中靶心。这时,他发现那个卖油的老汉毫无敬佩的表情,只是微微地点点头。陈尧咨不高兴了,他走到老汉面前,说:“你也会射箭吗?你看,我的箭法不错吧?”老汉淡淡地一笑,回答道:“不错,但也没有什么特别的,这只不过是手势熟练罢了。”

Zhè shí, yī ge mài yóu de lǎohàn ganghǎo jīngguò zhèr, jiù fàng xià yóudàn kàn rènào. Chén yáozī yòu shè le hǎo duō zhī jiàn, shí yǒu bā jiǔ shèzhòng bǎxīn. Zhèshí, tā fāxiàn nà ge mài yóu de lǎohàn háo wú jìngpèi de biǎoqíng, zhǐ shì wēiwēide diǎndiǎn tóu. Chén yáozī bù gāoxìng le, tā zǒu dào lǎohàn miànqián, shuō: “nǐ yě huì shè jiàn ma? Nǐ kàn, wǒ de jiàn fǎ bù cuò ba?” lǎohàn dàndàn de yī xiào, huídá dào: “bù cuò, dàn yě méiyǒu shénme tèbié de, zhè zhǐ bùguò shì shǒushì shúliàn bàle.”

 この時、ひとりの油売りの老人がちょうどここを通りかかり、油を担いだ天秤棒を下に置くと、この様子を見物した。陳堯諮はまた何本も矢を放ち、十中八九が的の中心に命中した。この時、彼は油売りの老人が少しも敬服する様子を見せず、ただわずかにうなずくだけなのに気が付いた。陳堯諮はおもしろくないので、老人の前まで歩み寄ると、「あなたも矢を射ることができるのですか。どうです、私の矢を射るやり方は悪くないでしょう」と尋ねた。老人は気のなさそうに笑うと、「悪くないね。でも、取り立てて言うほどのことでもないね。弓矢に熟練しているだけのことだ」と答えた。


 陈尧咨火了,气愤地责骂说:“你这个老头,怎么敢这样轻视我的神箭!”老汉却不慌不忙地说:“我怎么会轻视您呢!我之所以这样说,是我每天舀油倒油,从而知道了熟能生巧的道理。”说着,他从油担子上取下一个葫芦,拔开塞子,放在地上,再掏出一个铜钱,小心地平放在葫芦嘴上。然后,他拿起勺子,舀满了油,高高地举起来,把油向葫芦倒下去。只见油象一条线一样,穿进铜钱中间的小孔,连续不断地钻到葫芦里去。不久,满满的一勺油都倒光了,老汉弯腰取下葫芦嘴上的铜钱,拿给周围的人看,那个铜钱干干净净,一点油星都没有。

Chén yáozī huǒ le, qìfèn de zémà shuō: “nǐ zhè ge lǎotóu, zěnme gǎn zhèyàng qīngshì wǒ de shénjiàn!” lǎohàn què bù huāng bù máng de shuō: “wǒ zěnme huì qīngshì nín ne! wǒ zhī suǒyǐ zhèyàng shuō, shì wǒ měitiān yǎo yóu dào yóu, cóng’ér zhīdào le shú néng shēng qiǎo de dàolǐ.” Shuō zhe, tā cóng yóu dànzi shàng qǔ xià yī ge húlu, bákāi sāizi, fàng zài dìshàng, zài tāochū yī ge tóngqián, xiǎoxīn de píngfàng zài húlu zuǐ shàng. Ránhòu, tā ná qǐ sháozi, yǎo mǎn le yóu, gāogāo de jǔ qǐlái, bǎ yóu xiàng húlu dào xiàqù. Zhǐ jiàn yóu xiàng yī tiáo xiàn yīyàng, chuān jìn tóngqián zhōngjiān de xiǎokǒng, liánxù bùduàn de zuān dào húlu lǐ qù. Bùjiǔ, mǎnmǎn de yī sháo yóu dōu dào guāng le, lǎohàn wānyāo qǔ xià húlu zuǐ shàng de tóngqián, ná gěi zhōuwéi de rén kàn, nà ge tóngqián gāngānjìngjìng, yīdiǎn yóuxīng dōu méiyǒu.

 陳堯諮はかっとなり、怒って「おまえのような年寄りが、どうして敢えて私の神業の弓矢を軽んじるのか」とどなりつけた。老人は慌てず騒がず、「私がどうしてあなた様を軽んじることができましょう。私がこのように言うのは、私が毎日油をひしゃくで汲んでは注ぎ入れ、そこから何事も慣れればこつが分かる道理を知ったからなのです」と言った。そう言うと、彼は油を入れた荷物の中からひょうたんをひとつ取り出し、栓を抜き、地面に置くと、更に銅銭を一枚取り出し、ひょうたんの口の上に注意深く水平に置いた。それから、彼はひしゃくを持ち、油をひしゃく一杯にすくうと、それを高々と持ち上げ、油をひょうたんに注ぎ入れた。油は一筋の線のように、銅銭の真ん中の小さな穴を通り、途絶えることなくひょうたんの中に注ぎ入れられた。間もなく、ひしゃくに一杯の油はすっかり注ぎ終わり、老人は腰を曲げてひょうたんの口の銅銭を取り上げ、周囲の人々に見せた。その銅銭はきれいなままで、油のしずく一つ付いていなかった。

 銅銭の穴めがけて油を注ぎ入れる技、どこかで聞いたことがありませんか。そう、戦国武将の斎藤道三が若いころ油売りの行商をしていた時の一文銭の油売りの話と瓜二つです。油の売り方も、中国から日本に伝わったのでしょうか。


 众人先是呆呆地看着,接着便情不自禁地叫起好来。陈尧咨无话可说,心中不得不佩服老汉过人的手艺。

Zhòngrén xiān shì dāidāi de kàn zhe, jiē zhè biàn qíng bù zì jìn de jiào qǐ hǎo lái. Chén yáozī wú huà kě shuō, xīn zhōng bù dé bù pèifu lǎohàn guòrén de shǒuyì.

 人々はあっけにとられて見ていたが、続いて思わず「すばらしい!」と叫んだ。陳堯諮は言うべき言葉もなく、内心では老人の人並外れた腕前に敬服せざるを得なかった。


 老汉把东西收拾好,转身对陈尧咨说:“看起来,这也不是容易做得到的,不过我却做到了。这也没有什么,只不过是我的手势熟练罢了。”

Lǎohàn bǎ dōngxi shōushi hǎo, zhuǎnshēn duì chén yáozī shuō: “kàn qǐlái, zhè yě bùshì róngyì zuò de dào de, bùguò wǒ què zuò dào le. Zhè yě méiyǒu shénme, zhǐbuguò shì wǒ de shǒushì shúliàn bàle.” 

 老人は荷物をしまうと、こちらを向いて陳堯諮に言った。「見ての通り、これも決してたやすくできることではありませんが、私にはできます。だからって、どうということはありません。私が油の扱いに慣れているだけの話です。」


 これより、「熟能生巧」は何事も慣れればこつが分かる、という意味の成語として使われるようになりました。

 けれども、この話で欧陽修は、実は宋王朝の文を重んじ武を軽んずる政策を批判し、陳堯諮が如何に武芸に優れていても、その技能は一介の油売りの芸と同程度にしか評価されないことを風刺したのだと言われています。

 


中国語で読む成語のお話:「門庭若市」

2020年05月26日 | 中国語成語

 「门庭若市」という成語は、『戦国策』に出てくることばです。戦国時代、斉の宰相、鄒忌(すうき、BC385年-BC319年)が斉の威王に、人々の諫言を受け入れるように勧める話です。

 邹忌是战国时代的齐国人,曾经担任过相国职务。他身高八尺多(这是指古代的尺,比今天的尺要短),相貌非常漂亮。一天早上,他穿戴好衣帽,对着镜子看了很久,然后问他的妻子说:“我和城北的徐公相比,谁更漂亮些?”这个城北的徐公,是齐国一个著名的美男子。妻子回答说:“当然是您漂亮,徐公怎么能比得上您呢?”邹忌不大相信,再问他的妾侍说:“我和徐公相比,哪一个漂亮?”妾侍回答说:“徐公怎么能比得上您呢?”第二天,家里来了一位客人,邹忌和他谈了一会,又问他:“我和徐公比较,哪一个漂亮呢?”客人同样说:”您的容貌当然比徐公漂亮。”

Zōu jì shì zhànguó shídài de qí guó rén, céngjīng dānrèn guo xiàngguó zhíwù. Tā shēn gāo bā chǐ duō (zhè shì zhǐ gǔdài de chǐ, bǐ jīntiān de chǐ yào duǎn), xiàngmào fēicháng piàoliang. Yītiān zǎoshang, tā chuāndài hǎo yīmào, duì zhe jìngzi kàn le hěn jiǔ, ránhòu wèn tā de qīzi shuō: “wǒ hé chéng běi de xú gōng xiāng bǐ, shuí gèng piàoliang xiē?” zhè ge chéng běi de xú gōng, shì qí guó yī ge zhùmíng de méi nánzǐ. Qīzi huídá shuō: “dāngrán shì nín piàoliang, xú gōng zěnme néng bǐ de shàng nín ne?” zōu jì bù dà xiāngxìn, zài wèn tā de qièshì shuō: “wǒ hé xú gōng xiāngbǐ, nǎ yī ge piàoliang?” qièshì huídá shuō: “xú gōng zěnme néng bǐ de shàng nín ne?” dì èr tiān, jiā lǐ lái le yī wèi kèrén, zōu jì hé tā tán le yīhuì, yòu wèn tā: “wǒ hé xú gōng bǐjiào, nǎ yī ge piàoliang ne?” kèrén tóngyàng shuō: “nín de róngmào dāngrán bǐ xú gōng piàoliang.”

 鄒忌は戦国時代の斉国の人で、曾て相国(宰相)の職務を担当していた。彼の身長は8尺余り(これは古代の尺を指し、現在の尺よりも短い)、容貌はたいへん美しかった。ある日の朝、彼は衣服をきちんと身に着けると、鏡を長い間見ていたが、その後で妻に、「私と城北に住む徐公と比べたら、どちらが美しいだろうか」と尋ねた。この城北の徐公というのは、斉国の有名な美男子であった。妻は、「もちろん、あなたの方が美しいわ。徐公など比べものにならないわ」と答えた。鄒忌はそれをあまり信用せず、更に妾にも「私と徐公を比べたら、どちらが美しいだろうか」と尋ねた。妾は、「徐公など比べものになりません」と答えた。翌日、家に一人の客が訪ねて来た。鄒忌は客としばらく話をしていたが、客にも「私と徐公を比べたら、どちらが美しいか」尋ねた。客も同じように「あなたの容貌はもちろん徐公より美しい」と答えた。

 「尺」chǐ、ここでは市尺のことで、今は1尺は33センチに相当しますが、戦国時代の秦の度量衡では1尺は23センチであったので、8尺というのは、185センチくらいの身長になります。


 过了一天,徐公来探访邹忌。邹忌仔细地端详着徐公,觉得自己的容貌比不上他。后来,邹忌再对着镜子照照自己,就更觉得自己的容貌比不上徐公。

guò le yī tiān, xú gōng lái tànfǎng zōu jì. Zōu jì zǐxì de duānxiáng zhe xú gōng, jué de zìjǐ de róngmào bǐ bu shàng tā. Hòulái, zōu jì zài duì zhe jìngzi zhàozhào zìjǐ, jiù gèng jué de zìjǐ de róngmào bǐ bu shàng xú gōng. 

 一日経ち、徐公が鄒忌を訪ねて来た。鄒忌は徐公を細かく観察したが、自分の容貌は徐公にかなわないと思った。それから、鄒忌はもう一度鏡で自分を映してみて、自分の容貌は徐公にかなわないと確信した。

 「端详」duānxiáng、本来は詳細、委細という意味の名詞で、「听端详」「说端详」という使い方をします。また動作がおだやかで落ち着いている意味で、「举止端详」という使い方をします。動詞として使うことがあり、その場合は「观察」の意味に近いのですが、多少ニュアンスの違いがあり、「观察」は細かく現象を調査し、結論を推察することに重点が置かれるのに対し、「端详」は現象を細かく見ることに重点が置かれます。


 “为什么人们都说我比徐公美呢?”邹忌觉得奇怪,他日思夜想,后来终于想通了:我的妻子说我美,是因为她偏爱我:我的妾侍说我美,是因为她害怕我;客人说我美,是因为她有求于我。

“wèi shénme rénmen dōu shuō wǒ bǐ xú gōng měi ne?” zōu jì jué de qíguài, tā rì sī yè xiǎng, hòulái zhōngyú xiǎng tōng le: wǒ de qīzi shuō wǒ měi, shì yīnwèi tā piānài wǒ: , wǒ de qièshì shuō wǒ měi, shì yīnwèi tā hàipà wǒ; kèrén shuō wǒ měi,shì yīnwèi tā yǒu qiú yú wǒ.

 「どうして人々は私が徐公より美しいと言うのだろうか。」鄒忌は不思議の思い、日夜いろいろ考えたが、その後ついに合点がいった。私の妻が私を美しいと言うのは、妻が私のことを一途に思っているからだ。私の妾が私を美しいと言うのは、妾が私を恐れているからだ。客が私を美しいと言うのは、客が私に頼みごとがあるからだ。


 第二天清早,邹忌上朝去见齐威王,对他说:“我知道自己的容貌实在比不上徐公。但我的妻子偏爱我,我的妾侍害怕我,我的客人有求于我,他们都说我比徐公漂亮。如今齐国土地方圆千里,有一百二十座城池。宫内的妇女和左右的侍从没有一个不偏爱大王;朝廷上的文武百官没有一个不惧怕大王;国内没有一个不是有求于大王。由此看来,大王受的蒙蔽真是太厉害了!”

Dì èr tiān qīngzǎo, zōu jì shàngcháo qù jiàn qí wēi wáng, duì tā shuō: “wǒ zhīdao zìjǐ de róngmào shízài bǐ bu shàng xú gōng. Dàn wǒ de qīzi piānài wǒ, wǒ de qièshì hàipà wǒ, wǒ de kèrén yǒu qiú yú wǒ, tāmen dōu shuō wǒ bǐ xú gōng piàoliang. Rújīn qí guó tǔdì fāngyuán qiān lǐ, yǒu yī bǎi èrshí zuò chéngchǐ. Gōng nèi de fùnǚ hé zuǒyòu de shìcóng méiyǒu yī ge bù piānài dàwáng. Cháotíng shàng de wénwǔ bǎiguān méiyǒu yīge bù jùpà dàwáng; guónèi méiyǒu yī ge bù shì yǒu qiú yú dàwáng. Yóu cǐ kàn lái, dàwáng shòu de méngbì zhēn shì lìhai le!”

 翌日の早朝、鄒忌は朝廷に参内し、斉の威王にお目通りすると、王に言った。「私は自分の容貌が確かに徐公にかなわないことが分かりました。けれども私の妻は私のことを一途に思い、私の妾は私を恐れ、私の客は私に頼みごとがあるので、彼らは皆私が徐公より美しいと言うのです。今、斉国は国土が周囲千里におよび、百二十の町があります。宮廷 内の女たちやお傍にいる侍従たちで、大王のことを一途に思わぬ者はひとりもおりません。朝廷の文武百官で、大王のことを恐れない者はひとりもおりません。国内に大王にお願いごとの無い者はひとりもおりません。こうしてみると、大王が受けているごまかしは本当にたいへんひどいものです。」

 ここまで読んでみて、リズムがよく、聞いて心地よい感じがしませんか?それは、鄒忌に対する妻、妾、客の態度の表現、斉王に対する宮廷の女たちや侍従、文武百官、国内の人々の態度の表現が、「偏爱」、「害怕(惧怕)」、「求于」で合わせてあるからだと思います。


 齐王点头说:“你说得很有道理。”于是,齐王就发布了一道命令:“全国的臣民百姓,能当面指出我的过失的,受上奖;能上书向我进谏的,受中奖;在公共场合指出我的过失,并能传到我的耳中的,受下奖。”

qí wáng diǎn tóu shuō: “nǐ shuō de hěn yǒu dàolǐ.” Yúshì, qí wáng jiù fābù le yī dào mìnglìng: “quánguó de chénmín bǎixìng, néng dāngmiàn zhǐchū wǒ de guòshī de, shòu shàng jiǎng; néng shàng shū xiàng wǒ jìn jiàn de, shòu zhōng jiǎng; zài gōnggòng chǎnghé zhǐchū wǒ de guòshī, bìng néng chuán dào wǒ de ěr zhōng de, shòu xià jiǎng.” 

 斉王はうなずいて、「おまえの言うことはたいへんもっともである」と言った。そして、斉王は次のような命令を出した。「全国の臣下の人民大衆で、私の目の前で私の過ちを指摘できる者は上等の褒美を受けるであろう。書面で私を諫めることができる者は中等の褒美を受けるであろう。公共の場所で私の過ちを指摘し、且つそれを私の耳に伝えることのできる者は、下等の褒美を受けるであろう。」

 ここでも、褒美をもらえる条件を、「上奖」、「中奖」、「下奖」と三段階に分け、リズムを作っています。
 それから、ここで言っている「公共场合」とはどういう場所を言っているのでしょうか。きっと、「茶馆」のような多くの人々が毎日集まり、世間話やうわさをするような場所のことを言っているのだと思います。


 当齐王这道命令一公布,臣民便纷纷前来提意见,宫庭门口,人来人往,热闹得像个集市。(原文是:“令初下,群臣进谏,门庭若市。”)齐王也真能按照臣民提的意见进行改革,兴利除弊,使国力一天天强大起来。由于齐国的强大,燕,赵,韩,魏等国不敢前来侵略齐国。这些国家都纷纷派出使者向齐国朝拜,与齐国交好。

Dāng qí wáng zhè dào mìnglìng yī gongbù, chénmín biàn fēnfēn qián lái tí yìjian, gongtíng ménkǒu, rén lái rén wǎng, rènào de xiàng ge jíshì. (yuánwén shì: “lìng chū xià, qún chén jìn jiàn, mén tíng ruò shì.”) qí wáng yě zhēn néng ànzhào chénmín tí de yìjian jinxing gǎigé, xīng lì chú bì, shǐ guólì yī tiāntian qiángdà qǐlái. Yóuyú qí guó de qiángdà, yàn, zhào hán, wèi děng guó bùgǎn qiánlái qīnlüè qí guó. Zhè xiē guójiā dōu fēnfēn pàichū shǐzhě xiàng qí guó cháobài, yǔ qí guó jiāo hǎo.

 斉王がこの命令を公布するやいなや、臣下の人民が次々とやって来て意見を提出し、宮殿の庭の入口は人々が行き来し、賑やかなことといったら市場のようであった。(原文は、「命令ひとたび下されるや、群臣進みて諫め、門庭市の如し」)斉王も本当に臣下の人民の提出した意見にもとづき改革を行い、利を興し弊を除き、国力は日に日に強大になっていった。斉国が強大であるため、燕、趙、韓、魏などの諸国は斉を侵略することがなくなった。これらの諸国は次々と使者を斉に派遣して斉王に拝謁し、斉と友好関係を結んだ。

 その後、このお話に出てくる「门庭若市」は成語となり、来訪者が多くて、門前が市場のように賑やかなことを表すことばになりました。


諱疾忌医(成語物語Vol.3)

2020年05月22日 | 中国語成語

 『韓非子・喩老』と『史記・扁鵲倉公列伝』の中で、蔡の桓公が病気の治療を嫌がる話が出てきます。

 春秋战国时期,名医扁鹊见到蔡桓公。他仔细地察看了蔡桓公一会,对桓公说:“大王,您病了,如今这病还在皮肤,但是,如果不治,就会加深的。”桓公皱皱眉头,说:“我没有病。”扁鹊走后,桓公就对左右的人说:“这些医生最喜欢医治那些没有病的人,以显示他们的本领。”

Chūnqiū zhànguó shíqī, míngyī piān què jiàn dào cài huán gōng. Tā zǐxì di chákàn le cài huán gōng yīhuì, duì huán gōng shuō: “dà wáng, nín bìng le, rújīn zhè bìng hái zài pífū, dànshì, rúguǒ bù zhì, jiù huì jiā shēn de.” Huán gōng zhòuzhòu méitóu, shuō: “wǒ méiyǒu bìng.” Piān què zǒu hòu, huán gōng jiù duì zuǒyòu de rén shuō: “zhè xiē yīshēng zuì xǐhuān yīzhì nàxiē méiyǒu bìng de rén, yǐ xiǎnshì tāmen de běnlǐng.” 

 春秋戦国時代、名医の扁鵲(へんじゃく)は蔡の桓公に会った。彼は蔡の桓公をつぶさに観察すると、桓公に言った。「大王、あなたは病気です。今、この病はまだ皮膚にありますが、もし治療をしないと、病はひどくなるでしょう。」桓公は眉間にしわを寄せて言った。「私は病気ではない。」扁鵲が去って後、桓公は側近の者に言った。「彼ら医者は病気でもない人間を治療し、彼らの腕前を顕示したがるものだ。」


 过了五天,扁鹊又来见蔡桓公,对他说:“您的病已经进到肌肉和血脉里了,再不治,病就更深了。”桓公依然很不高兴。又过了五天,扁鹊再来见蔡桓公,对他说:“您的病如今已经深入肠脏,再不治疗就危险了。”桓公更不高兴,根本不听扁鹊的话。

Guò le wǔ tiān, piān què yòu lái jiàn cài huán gōng, duì tā shuō: “nín de bìng yǐjīng jìn dào jīròu hé xuèmài lǐ le, zài bùzhì, bìng jiù gèng shēn le.” Huán gōng yīrán hěn bù gāoxìng. Yòu guò le wǔ tiān, piān què zài lái jiàn cài huán gōng, duì tā shuō: “nín de bìng rújīn yǐjīng shēn rù chángzàng, zài bù zhìliáo jiù wēixiǎn le.” Huán gōng gèng bù gāoxìng, gēnběn bù tīng piān què de huà.

 5日経って、扁鹊はまた蔡の桓公に会いに来て、王に言った。「あなたの病はもう筋肉と血管に達しています。まだ治療しないと、病はもっとひどくなります。」桓公は相変わらずたいへん不機嫌であった。また五日経って、扁鹊は再び蔡の桓公に会いに来て、王に言った。「あなたの病は、今はもう腸(はらわた)深くに入り込み、もう治療しないと危険です。」桓公はもっと不機嫌になり、扁鹊の話を全く聞こうとしなかった。


 再过了五天,扁鹊遇见蔡桓公,立刻就转身走了。桓公很奇怪,派人去问扁鹊。扁鹊说:“一个人的疾病在皮肤,肌肉,肠脏,都可以用针灸,服药等方法来医治;但是,如果疾病深入到骨髓里去,那就没有办法治疗了。如今桓公的病已经深入骨髓,我还有什么办法呢?!”

Zài guò le wǔ tiān, piān què yùjiàn cài huán gōng, lìkè jiù zhuǎnshēn zǒu le. Huán gōng hěn qíguài, pài rén qù wèn piān què, piān què shuō: “yī ge rén de jíbìng zài pífū, jīròu, chángzàng, dōu kěyǐ yòng zhēn jiǔ, fú yào děng fānfǎ lái yīzhì; dànshì, rúguǒ jíbìng shēnrù dào gǔsuí lǐ qù, nà jiù méiyǒu bànfǎ zhìliáolle. Rújīn huán gōng de bìng yíjīng shēnrù gǔsuí, wǒ hái yǒu shénme bànfǎ ne?!”

 更に5日が経ち、扁鹊は蔡の桓公に出会うと、直ちに体の向きを変え、立ち去った。桓公は不思議に思い、人を遣って扁鹊に尋ねさせた。扁鹊はこう言った。「人の病が皮膚や筋肉、腸(はらわた)にあるうちは、鍼灸や服薬などの方法で治療することができます。けれども、病が深く骨髄の中にまで入ってしまうと、もはや治療する方法はありません。今、桓公の病は既に骨髄に達しています。私に他にどんな方法があるというのですか。」


 过了五天,桓公浑身疼痛,急忙派人去请扁鹊,扁鹊已经去了秦国。不久桓公就病死去了。

Guò le wǔ tiān, huán gōng húnshēn téngtòng, jímáng pài rén qù qǐng piān què, piān què yǐjīng qù le qín guó. Bù jiǔ huán gong jiù bìng sǐ qùle.

 5日経って、桓公は全身が痛くなり、大急ぎで人を遣って扁鹊に来てもらおうとしたが、扁鹊は既に秦に行ってしまった。間もなく、桓公は病で亡くなった。


 宋代的大儒周敦颐说:“今人有过,不喜人规,如讳疾而忌医,宁灭其身而无悟也。”这话的意思是说,现在的人有了过失,不喜欢别人批评指正;这正如一个人有了疾病,不肯讲出来,也不去请医生治疗,宁愿病死也不觉悟。

Sòng dài de dàrú zhōu dūnyí shuō: “jīnrén yǒu guò, bù xǐ rén guī, rú huì jí ér jì yī, nìng miè qí shēn ér wú wù yě.” Zhè huà de yìsi shì shuō, xiànzài de rén yǒu le guòshī, bù xǐhuān biérén pīpíng zhǐzhèng; zhè zhèng rú yī ge rén yǒu le jíbìng, bù kěn jiǎng chūlái, yě bù qù qǐng yīshēng zhìliá, nìng yuàn bìng sǐ yě bù juéwù.

 宋代の大学者、周敦頤は、「今の人は過ちがあっても、規則に縛られるのを喜ばない。これはちょうど、病をはばかって治療を忌み嫌い、その身を滅ぼしてもそのことを悟ろうとしないのと同じだ」と言った。この話の意味は、現在の人は自分の過失があっても、他人から批判され正されるのを喜ばない。これはまさに、人が病気にかかっても、口に出して言うのを良しとせず、また医者に治療してもらおうともせず、たとえ病死しようとも、自覚しないのと同じだと言っているのだ。


 この後、「諱疾忌医」という成語は、自分の欠点や過ちをごまかし、他人の批判を拒絶し、改めようとしないことを喩える意味で使われるようになりました。