今回は「趾高气扬」zhǐ gāo qì yáng、これは、『春秋左氏伝』(『左伝』と通称される)に出てくる話です。『左伝』は、孔子が編纂したとされる歴史書、『春秋』の注釈書のひとつで、孔子の弟子の左丘明によって書かれたものとされています。尚、文中で中国湖北省、河南省近辺の地名が出てきますが、もしお手元に中国の分省地図をお持ちでしたら、それで場所を確認しながら見ていただくと、当時の楚の領土拡張の動きが分かって、おもしろいです。
春秋时期,楚国的莫敖(官名)屈瑕几次带领大军出征,都获得了胜利,因而威震一时。公元前六九九年,屈瑕领兵进攻“绞”国,用计打败了固守城池的绞军,迫使绞人与楚国签订了屈辱的条约。
Chūnqiū shíqī, chǔ guó de mò áo (guān míng) qū xiá jǐ cì dàilǐng dà jūn chūzhēng, dōu huòdé le shènglì, yīnér wēizhèn yīshí. Gōngyuán qián 699 nián, qūxiá lǐng bīng jìngōng “jiǎo” guó, yòng jì dǎbài le gùshǒu chéngchǐ de jiǎo jūn, pòshǐ jiǎo rén yǔ chǔ guó qiāndìng le qūrǔ de tiáoyuē.
春秋時代、楚の最高の官位である「莫敖」であった屈瑕は、何度も大軍を率いて遠征し、毎回勝利をおさめた。このため、一時期は人々が震え上がる程の勢いがあった。紀元前699年、屈瑕は兵を率いて「絞」国を攻撃し、計略を用いて都城を固く守っていた絞軍を打ち破り、絞の人々に楚と屈辱的な条約を結ぶよう迫った。
絞は春秋時代、湖北省西北部を流れる長江の支流である漢水の、中、上流地域にあった小諸侯国で、その中心は今日の丹江口市習家店一帯、或いは一説には鄖(yún。うん)県の西北(何れも湖北省北部、河南省境)にありました。丹江口というと、今日、長江水系の水を首都北京に運ぶ「南水北調」プロジェクトでの中心となる水源地域です。ちなみに、この頃の楚の都、丹陽は、丹江の下流と淅川が合流するあたりにあったと言われ、現在丹江口ダムとなっているあたりです。
屈瑕は楚の国王、武王の息子でした。屈(現在の湖北省秭帰(しき)県(宜昌市))に封じられ、子孫からは詩人、屈原が出ています。
楚の屈瑕の周辺国遠征
第二年春天,屈瑕又带兵去讨伐“罗”国,许多官员都来为他送行。临别的时候,屈瑕眉飞色舞,意气高昂,觉得打败“罗”国易如反掌。当大军出发之后,大夫斗伯比满怀忧虑地对他的驾车人说:“莫敖这次出征一定会遭到惨败的!你看他走起路来把脚抬得那么高,自以为一定能取胜,一点都不把这次征战放在心里啊!”(原文是:“莫敖必败,举趾高,心不固矣!”)
dì èr nián chūntiān, qūxiá yòu dài bīng qù tǎofá “luó” guó, xǔduō guānyuán dōu lái wèi tā sòngxíng. Línbié de shíhou, qū xiá méi fēi sè wǔ, yìqì gāo áng, jué de dǎbài “luó” guó yì rú fǎn zhǎng. dāng dà jūn chūfā zhī hòu, dàfū dòu bóbǐ mǎn huái yōulǜ de duì tā de jià chē rén shuō: “mòáo zhè cì chūzhēng yīdìng huì zāo dào cǎnbài de! Nǐ kàn tā zǒu qǐ lù bǎ jiǎo tái de nàme gāo, zì yǐwéi yīdìng néng qǔ shèng, yīdiǎn dōu bù bǎ zhè cì zhēng zhàn fang zài xīn lǐ a!” (yuan wén shì: “mòáo bì bài, jǔ zhǐ gāo, xīn bù gù yǐ!”)
翌年の春、屈瑕はまた兵を率いて「羅」国の討伐に向かい、多くの役人が彼を見送りに来た。別れに臨んで、屈瑕は喜色満面で、意気軒昂として、「羅」国を打ち破るのは、たなごころを返すように容易であるように思った。大軍が出発した後で、大夫(古代の官職で、卿の下、士の上)の斗伯比が、心から心配して、彼の馬車の御者に、「莫敖殿のこの度の遠征はきっと惨敗を喫するだろう。ほら、彼が通りを進む時、足をあんなに高々と上げ、自分ではきっと勝利すると確信し、今回の遠征のことなど少しも心に留めていなかったのだから。」(原文は、「莫敖は必ずや敗れん、足を挙げること高く、心固まらず」)と言った。
羅というのは、少数民族(蛮夷)の建てた国で、元々河南省の羅山県あたりにいたものが、周などの討伐を受け、この頃は、湖南省の汨羅(べきら)江河畔の平江県あたりで小国を営んでいました。
羅は過去、何度も大国に攻められては敗れていたので、屈瑕としては、負けるはずがないと、たかをくくっていたのだと思います。
斗伯比对这次出征很不放心,他马上去见楚武王,说:“我看,应当立刻增派军队去援助屈瑕;否则,他一定要吃亏的!”楚武王非常信任屈瑕,认为他很有才干,没有答应斗伯比的请求。
Dòu bóbǐ duì zhè cì chūzhēng hén bù fàngxīn, tā mǎshang qù jiàn chǔ wǔ wáng, shuō: “wǒ kàn, yīngdāng lìkè zēng pài jūnduì qù yuǎnzhù qū xiá; fǒuzé, tā yīdìng yào chī kuī de!” chǔ wǔ wáng fēicháng xìnrèn qū xiá, rènwéi tā hěn yǒu cáigàn, méiyǒu dáyìng dòu bóbǐ de qǐngqiú.
斗伯比は今回の遠征が心配でならなかったので、すぐに楚の武王に接見して、「私の見るところでは、直ちに援軍を派遣し、屈瑕様を助けるべきです。さもないと、屈瑕様は必ずや敵にしてやられることとなりましょう。」と言った。楚の武王は屈瑕を非常に信頼していて、彼にはたいへん才能があると思っていたので、斗伯比の請願に同意しなかった。
后来,楚武王把斗伯比的话告诉了夫人邓曼。邓曼是个精细的女人,就劝楚武王说:“大夫的话很有道理。屈瑕连年征战,屡建战功,很容易骄傲轻敌。前年他大败郧人,如今讲起来还觉得很了不起呢!这次出征,您没有提醒他要小心谨慎,万一他真的麻痹轻敌,那结果就不堪设想了。”
Hòulái, chǔ wǔ wáng bǎ dòu bóbǐ de huà gàosu le fūrén dèng màn. Dèng màn shì ge jīngxì de nǚrén, jiù quàn chǔ wǔ wáng shuō: “dàfū de huà hěn yǒu dàolǐ. Qū xiá lián nián zhēng zhàn, lǚ jiàn zhàn gong, hěn róngyì jiāoào qīng dí. Qián nián tā dà bài yún rén, rújīn jiǎng qǐlái hái jué de hěn liǎobuqǐ ne! zhè cì chūzhēng, nín méiyǒu tíxǐng tā yào xiǎoxīn jǐnshèn, wànyī tā zhēn de mábì qīng dí, nà jiéguǒ jiù bùkān shèxiǎng le.”
その後、楚の武王は斗伯比の話を夫人の鄧曼に話した。鄧曼は冷静に物事を判断できる女性であったので、楚の武王に、「大夫の話はたいへんもっともです。屈瑕様は何年も続けて遠征し、度々戦功を上げておられますので、ややもすると傲慢になり、敵を軽視するようになります。おととし、屈瑕様は鄖(うん)人を大いに破り、今思い返しても大したものだと思います。この度の出征で、あなた様は屈瑕様に注意して慎重に対応するよう忠告なさりませんでした。万一、屈瑕様が本当に油断して敵を軽く見るようだと、その結果は想像するのも恐ろしいですわ。」と忠告した。
武王觉得邓曼的话有理,就派人火速追赶屈瑕。但是,屈瑕统率的大军出发已久,无法追上了。
Wǔ wáng jué de dèng màn de huà yǒu lǐ, jiù pài rén huǒsù zhuīgǎn qū xiá. Dànshi, qū xiá tǒngshuài de dà jūn chūfā yǐ jiǔ, wúfǎ zhuī shàng le.
武王は鄧曼の言うのはもっともだと思い、人を遣って、超特急で屈瑕の後を追った。けれども、屈瑕の率いる大軍は、出発してからもうずいぶん時間が経っていて、追いつくことができなかった。
屈瑕统帅大军直逼到下罗国,楚军从上到下都不把罗军放在眼内,因此纪律极为松弛。无论白天黑夜,他们对敌人都不作任何防备。这样,罗国便和邻国卢戎联合起来,利用楚军的麻痹轻敌思想,发动突然袭击,把楚军打得落花流水,一败涂地。结果,楚军的主帅屈瑕自杀了,其余逃回楚国的将领,把自己捆绑起来,听候楚武王的处分。楚武王说:“我事前没有提醒屈瑕要小心谨慎,这是我的过失,与你们无关。”于是,他就把请罪的将领赦免了。
Qū xiá tǒngshuài dà jūn zhíbī dàoxia luó guó, chǔ jūn cóng shàng dào xià dōu bù bǎ luó jūn fang zài yǎn nèi, yīncǐ jìlǜ jíwěi sōngchǐ. Wúlùn báitiān hēiyè, tāmen duì dí rén dōu bù zuò rènhé fǎngbèi. Zhèyang, luó guó biàn hé línguó lúróng liánhé qǐlái, lìyòng chǔ jūn de mábì qīng dí sīxiǎng, fādòng tūrán xíjī, bǎ chǔ jūn dǎ de luò huā liú shuǐ, yī bài tú dì. Jiéguǒ, chǔ jūn de zhǔshuài qū xiá zìshā le, qí yú táo huí chǔ guó de jiānglǐng, bǎ zìjǐ kǔnbǎng qǐlái, tīnghòu chǔ wǔ wáng de chǔfèn. Chǔ wǔ wáng shuō: “wǒ shìqián méiyǒu tíxǐng qū xiá yào xiǎoxīn jǐnshèn, zhè shì wǒ de guòshī, yǔ nǐmen wú guān.” Yúshì, tā jiù bǎ qǐng zuì de jiānglǐng shèmiǎn le.
屈瑕が率いる大軍は羅に近づいたが、楚軍は上から下に至るまで羅軍など眼中になく、そのため軍内の規律はゆるんでしまっていた。昼も夜も、彼らは敵に対して如何なる防備もしていなかった。そのため、羅は隣国の廬戎(ろじゅう)と連合し、楚軍が油断して敵を軽んじているのに乗じて、突然襲撃し、楚軍をさんざんに打ちのめし、楚軍は一敗地にまみれた。その結果、楚軍を率いる屈瑕は自殺し、それ以外の楚に逃げ帰った将校たちは、自ら自分を縄で縛り、楚の武王の処分を待った。楚の武王は、「私が事前に屈瑕に注意して慎重に行動するよう忠告しなかったのは、私の過ちだ。おまえたちとは関係が無い」と言い、屈瑕は罪を請うた将校たちを放免した。
これより、「趾高气扬」は、足を高くあげて意気揚々と歩くさま、つまり、得意満面の様子をあらわす成語として使われるようになりました。