中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

中国の泥人形(7)北京の泥人形

2021年06月22日 | 中国文化

張玉亭作「吹糖人」(吹き飴細工職人)

 

北京は長い歴史を持つ古都で、金、元、明、清など五つの王朝がここに都を置き、都の歴史は金代より起算すると700年余りとなります。ここは歴代王朝の政治、経済、文化の中心であり、悠久の文化の伝統と、多彩な民間芸術の成果が多く残されています。

 

封建時代末期、清朝政府は貴族階級の享楽を満足させるため、全国各地から職人を徴用し、宮廷内で働かせました。その中には、鳥かごの制作職人、木製玩具の制作職人、キリギリスやコオロギの飼育繁殖者、泥人形の制作職人なども含まれました。天津の「泥人張」の創始者、張明山もそうした職人のひとりでした。今日、北京の故宮博物院には、清代の玩具が数多く収蔵されています。宮廷に入った職人たちは、皇帝や宮中の人々の審美眼、趣味に応じて数々の創作を行いました。そのため宮廷の玩具は、次第に独自の芸術風格を形作るようになりました。しかし清朝末期、多くの貴族の子弟たちが権力を失い、没落すると、多くの職人たちは生活の糧を得る手段が無くなり、民間向けの玩具の生産に力を注ぐようになりました。おかげで宮廷玩具の繊細で精巧、華美で贅沢な気風が民間にももたらされ、北京の民間の玩具は、宮廷玩具の色彩をも備えるようになりました。そのため清朝宮廷の気風が、北京の民間玩具の独特の風格を生み出しました。当時、北京の民間の玩具の販売経路は三つありました。

 

①北京城内の各地区で定期的に開かれる「廟会」(社寺の縁日)。白塔寺、隆福寺、護国寺など、北京の主な仏教や道教の寺院の「廟会」の開催時期は、一年を通じ決まっていました。

陳蓮痕は『京華春夢録』の中でこう書いています。

「都の寺院で市の立つ日は決められていて、毎月三日は土地廟、四日は花市、五、六日は白塔寺、七、八日は護国寺、九、十日は隆福寺である。」

こうした定期的な廟会は、1950年代中頃までずっと維持されていました。廟会では、玩具を専門に販売する屋台がたくさん並びました。

玩具を売る屋台

 

②街の通り沿いに並ぶ屋台と、街や横丁を天秤棒を担いで売り歩く行商人の両方がありました。玩具の売り方には様々な方法がありました。物々交換をする者は、銅や鉄くず、布や毛糸、ガラス瓶などの廃品を客が持って来ると、いろいろな泥人形や紙のおもちゃと交換しました。また「轉糖得彩」と言って、客はあめを買ってくじを引き、当たると景品としておもちゃがもらえました。また、あめや落花生を売りつつ、おもちゃも売るという行商人もいました。昔の北京では、あちこちにおもちゃを専門に売る店舗もありました。例えば、東安市場の「耍貨劉」(「耍貨」shuǎhuòはおもちゃのこと)、「耍貨白」は、何れも「耍貨舗」(おもちゃ屋)と呼ばれました。

 

③春節の「廠甸」chǎngdiàn。昔の風習として、毎年旧暦正月の一日から十日まで、和平門外瑠璃廠に、お正月の人出を見込んで大きな縁日が立ちました。これを「廠甸」と呼ばれていました。(この土地は、宮廷の瑠璃瓦を焼く瑠璃窯があったところで、瑠璃窯の前に広い空き地があり、この空き地に市が立ったので、「廠甸」と呼ばれました)「廠甸」の期間中、北京市内や北京近郊、河北省各地のおもちゃ職人たちがそれぞれ自分たちの製品を市に並べました。様々な泥人形や、おもちゃ類が、「廠甸」に並ぶ商品の呼び物でした。

 

北京城内に、こうした玩具の販売市場があったことが、民間の玩具の普及と発展に良い環境をもたらし、玩具職人たちの創作活動を促しました。

 

北京の泥人形は、その題材と機能で分類すると、大きく四つのカテゴリーに分けることができます。

 

一番目は実際の生活を反映した作品です。このカテゴリーの人形は、北京の市井の生活に取材し、北京の人々の衣食住や生活の各方面を描写しました。玩具市場でよく見かける馬車のおもちゃは、昔の北京の交通手段を描写したものです。1950年代以前は、北京城内では荷馬車、乗用馬車が盛んに使われ、荷物も運べるし、客を乗せることもできました。専ら客を乗せる馬車の場合は、客室、幌があり、客室内には敷物を敷いた座席が設けられ、昔の北京の主要な人の輸送手段でした。泥人形の作者はこうした生活の実態に基づき、簡潔に生き生きと造形をしました。馬車の車輪は型で抜いて成形し、その他の部分は全て手で捏ねて作り、馬の四本の足は針金や竹ひごで代用し、生き生きと真に迫っていました。色彩には黒い石灰、濃い褐色、群青を多く用い、含蓄があって重々しく、作者の深い芸術的な造詣を表現しました。今日こうした泥人形は、芸術的価値以外に、現在の人々が昔の北京の生活を理解する上での形ある資料ともなっています。

馬車に乗る人

荷馬車を牽くロバ

 

実際の生活を反映した泥人形の中には、生活習俗に取材した作品もあり、例えば、「嫁取り」、「死者の出棺」、「馬に乗る人」、「ラクダに乗る人」などがあります。「嫁取り」は数十人の小さな泥人形で構成され、馬車、執事、花嫁を婚家に送る隊伍が揃っていて、それぞれの人形の大きさは3センチくらいで、個々の人物の造形は簡略化されています。長方形の粘土片を小刀で切って両足にし、粘土を球状にしたのが頭で、ひとつひとつ捏ねたら、それぞれ必要な持ち物を身に付けさせ、衣服を絵具で描き、順番に配置すると、全体はなかなか壮観で、生き生きとして真に迫っています。馬に乗る人やラクダに乗る人も、昔の北京の生活を写したものであり、家畜の足や蹄は針金や竹ひごで制作しています。

婚礼の行列

婚礼の行列(その2)

 

泥人形の「三百六十行」(「行」は仕事の業種)も昔の北京の生活の縮図で、様々な業種の物売りの様子を粘土で再現したものです。おかずを売る人、水売り、布地売り、ワンタン売り(てんびん棒の一方に具材を入れた籠、もう一方にスープを沸かすコンロを担いだ)、散髪屋、糖葫芦(山査子飴)売りなど、市井の商人たちが表現されました。

冬瓜売り

水売り

糖葫芦(山査子飴)売り

散髪屋

 

1930年代、北京の玩具業界に新しい泥人形が現れました。当時のスター俳優に取材し、3センチあまりの小さな人形を作り、彩色して顔に眼や口を入れたら、全体に白蝋を塗り、人形4、5体を一組にして屋台に並べ、子供たちを招き寄せて販売しました。人物の造形はアニメの人物のように作られ、俗に「滑稽人」と呼ばれました。こうした小型の人形は全て型で作られ、人形の頭は針金で体に取り付け、頭部は動かして向きを変えられました。

 

北京の泥人形の二番目のカテゴリーは動物や鳥、花や果物です。このカテゴリーの作品は主に手で捏ねて作られ、巧みで精緻で、妙趣にあふれています。作った小鳥は枯れ枝の上に取り付け、花瓶に挿して鑑賞できるようにしました。鳥はノゴマ、オガワコマドリ、カナリヤ、イカル、コウテンシなどで、それぞれポーズをとり、一羽一羽が異なります。また、稲わらで巣を作り、木の枝に取り付けたものもありました。こうした鳥の人形を売る商人は、鳥を取り付けた木の枝を束で持ち上げ、「花瓶付きだよ、花瓶付きだよ」と呼ばわって販売しました。また別の鳥の人形は木の枝に取り付けず、それぞれの小鳥の足下に粘土で台を作り、一羽だけで飾れるようにしました。また、何羽かの小鳥で組になっているものもありました。

 

花や果物の造形は北京以外ではめったに見られません。粘土で小さな植木鉢や金魚鉢、菓子盆を作り、それから蓮の花、蓮の葉、リンゴ、ザクロ、桃などの花や果物を粘土で作り、ホウキギや竹ひご、木の枝などで鉢や盆に挿し、色を塗ります。これは北京の人々の実際の生活の中の情景を再現したものです。

 

三つ目のカテゴリーは芝居の人物です。このカテゴリーの作品は、恵山泥人の「手捏戯文」とよく似ていますが、人形の大きさは小さく、人物は7センチ足らずで、2―3人で一組になり、芝居の一場面を再現しているので、俗に「泥戯出」と言います。よく見かける題目は、「二進宮」、「蘇三起解」、「三娘教子」、「白蛇伝」、「梁山伯与祝英台」などです。芝居の人物には、更に「高足踊り」と言って、春に行われる「花会」という行事の中で行われる、竹馬を付けて芝居や伝説の人物が練り歩く様子に取材したものがあり、人形二体が一組で、「文武扇」、「漁樵問答」、「売薬算卦」、「打鑼敲鼓」などの場面を再現し、祝日の行事の賑やかな雰囲気が表現されています。

張玉亭作「三娘教子」

高足踊り

 

四つ目のカテゴリーは、動くおもちゃ、音の出るおもちゃです。このカテゴリーの玩具は、子供がいじったり動かしたりして遊べ、音響や動作を伴うので、遊戯性や娯楽性が強い玩具です。よく見かけるものとして、例えば「猪八戒念経」は、型で作られ、人形は座っていて、右側に木魚があり、全体がつながっています。八戒の体は中空で、腕と下あごをつないだ後で取り付け、体の中に紐を通して下あごと腕を引っ張って動かします。紐を引くと、八戒の手が木魚を敲く動作をし、口がぱくぱく動き、まるでお経を唱えるようになります。「小鶏喫米」や「鴿子喫緑豆」は、三四羽の粘土のヒヨコがラケット状の木の板に固定され、板の中央に穴が開いていて、ヒヨコの頭は動くようになっていて、ヒヨコの頭の後ろに紐が付いていて、紐は木の板を通り抜け、それぞれの紐は板の下で一つにより合わさり粘土の重りにつながれています。軽く木の板を揺り動かすと、ヒヨコの頭はおもりの作用で都度おじぎをし、まるで米つぶをついばむように見えます。「小泥車」は粘土を捏ねて作った自動車、飛行機、汽船、戦車、砲艦、金魚などで、下には粘土の車輪が取り付けられ、車を引っぱると、車輪が回るので、俗に「小泥車」と言います。「小人鑚壇子」(「鑚」は潜り込む。「壇子」は壺)は、粘土の壺の口のところを一本の針金が貫いていて、針金の中間に粘土の人形が取り付けられています。手で針金をひねって動かすと、人形は回転し、壺の入口から人形の頭と足が順番に出て来て、あたかも壺に潜り込んだり出たりするように見え、滑稽でおもしろいものです。この他にも、「不倒翁」(起き上がりこぼし)、「叫猫」、「皮老虎」、「王小打虎」などがあり、何れも北京地区の伝統的な玩具です。

 

今日、泥人形の生産は、主に工芸美術品の生産工場や玩具工場によりなされています。伝統的な民間玩具は、室内のインテリア小物や旅行の際の記念品に変化し、時には貴重な芸術品に変化しています。

小鶏喫米(写真は木製玩具)

 


中国の泥人形(6)河南省

2021年06月16日 | 中国文化

淮陽泥泥狗

 

1.淮陽県の泥人形

 

淮陽県(周口市淮陽県)は河南省南部に位置し、古くは「陳州」と呼ばれていました。県内には太昊tàihào伏羲fúxī陵、伏羲画卦台、伏羲白亀池、神農五谷台、宛丘城遺跡など、多くの古跡があり、古くから古代の伝説中の伏羲氏と神農氏という二人の帝王の故郷と考えられてきました。当地の人々は、昔から「人祖爺」(人々の祖先)である伏羲は「太昊陵」に葬られたと伝承してきました。太昊陵は県城の正北1.5キロにあり、現存する御陵の建物は全て明代の遺跡であり、現在は公園になっていて、俗に「人祖廟」と呼ばれています。毎年旧暦の二月二日から三月三日まで、当地の人々は御陵の中で盛大な「太昊陵廟会」を行います。付近のおおむね50キロ内の人々は、廟会見物に訪れます。淮陽の泥人形は俗に「泥泥狗」と呼ばれます。御陵区域内で生産され、御陵の前の廟会で販売されるので、またの名を「陵狗」と言います。

 

河南省周口市淮陽県

 

「泥泥狗」は全て下地の色が黒色で、どれも呼び子が取り付けてあり、吹くとピーッと音が鳴るようにできています。大きさにより、「大花貨」、「中花貨」、「小泥餅」の三つに分かれます。「大花貨」は高さ約10―17センチ、「中花貨」は6-10センチ、「小泥餅」が最も小さく、2センチ以下の小さな陶器の呼び子です。「泥泥狗」の造形はたいへん変わっていて、多くが奇怪な禽獣のような姿かたちをしています。中でも猿の人形が最も変化に富み、「人祖猴」(「猴」は猿のこと)、「人面猴」、「抱膝猴」(膝を抱える猿)、「抱桃猴」、「搬腿猴」(足を持ち上げる)、「猫拉猴」(猫が猿を引っ張る)、「扛鋤káng chú猴」(鋤を担ぐ)、「打火猴」(火を付ける)、「兜肚dōudu猴」(「兜肚」は腹掛け)、「猴抱猴」などがあります。怪獣には、「八大高」、「草帽老虎」、「長毛」、「独角獣」(一角獣)、「多角獣」、「無眼獣」、「相駄tuó獣」(獣が別の獣を背負う。二頭の獣が一体になっている)、「双頭怪角」、「四不象」などがあります。

 

猫拉猴

 

鳥の像には、「斑鳩」、「子母燕」、「猴駄tuó燕」(「駄」は背負うこと)、「九頭燕」、「小燕」などがあります。水中の生物では、「八叉亀」、「神亀」、「神蛙」、「小泥鱉」(「鱉」biēはスッポン)などがあります。

 

これらは、淮陽の独特な泥人形で、他の地域では見られません。「泥泥狗」の造形は偶然にできたものではなく、この地域の文化的な背景が関係しているかもしれず、たいへん神秘的に感じられます。

 

「泥猴」(猿の泥人形)のカテゴリーで、最も典型的なものは、「人祖猴」です。一面の型で前面を押し出し、背面は手で捏ねて平らにしてあります。直立し、体の高さは13-17センチくらいです。「人祖猴」の口は突出し、両目は丸く目を見張っていて、頭のてっぺんには桃の形の装飾があります。中央には赤色で縦に立ったナツメの種の形が描かれ、それを何重も縦の曲線が囲んでいて、外を放射状の白い短い線が囲んでいます。こうした紋様は、通常はそれぞれ独立した紋様として亀や蛙、鳥の体の上に描かれることが多いものです。研究者によれば、猿の前面の装飾の図案は、女性の生殖器官を象徴し、上古の時代の生殖崇拝観念が伝承され、その名残であると考えられています。

人祖猴

 

鳥の像には、「子母燕」、または「子母駄」(「駄」は「背負う」こと)と呼ばれるものがあり、基本的な造形は、一羽の大型の鳥が背中に小鳥を背負うものです。こうした形と殷(中国では「商」)の遺跡で度々出土する玉や陶器でできた「子母燕」はたいへん良く似ています。

子母燕(子母駄)

殷時代、玉や陶器の「子母燕」

 

1979年淮陽県の県城の東南4キロで発見された新石器時代晩期の遺跡と殷時代の版築の城壁、並びに城壁の下から出土した陶製の下水管と食器は、現在の淮陽のあたりが、殷時代には既に城郭(中国式の町の周囲に築かれた城壁)があったことを証明しています。したがって、「泥泥狗」の「子母燕」との間にも、ひょっとすると一定の伝承関係があったかもしれません。それと似た事象が、多くの「泥泥狗」の造形にも反映されていて、研究者の中では、『山海経』(せんかいきょう。中国古代の神話、地理の書)の中で記載される様々な怪獣や怪鳥と関連付けて、「泥泥狗」に反映される神秘的な寓意について解釈する試みがなされていて、一定の成果を上げているそうです。

 

淮陽の泥人形やおもちゃの中で、「泥塤」ní xūn(土笛)も注目を引きます。「泥塤」はひょうたんのような形をした陶器の楽器で、大きさは様々で、穴の数は二、三、五、七と違いがありますが、オカリナのように吹いて音を出します。他に「双管塤」があり、吹き口がふたつあります。

五孔塤

塤の演奏の様子

 

「塤」は中国古代の重要な礼楽器で、湖北省曽侯乙墓やその他の「先秦」(始皇帝の中国統一以前の秦。一般に春秋戦国時代を指す)時代の古い墓から多数発見されています。古代の祭礼や式典などの行事で楽曲の演奏の時は必ず「塤」が必要でした。後に次第に伝承されなくなり、民間では見られなくなってしまいました。しかし、淮陽においては伝承され、今日まで残りました。

 

このような独特で古風な泥人形が、淮陽県城付近の金庄、武庄、白王庄、前丁楼庄、後丁楼庄、劉庄、段庄、張庄、趙庄で作られてきました。各村にはそれぞれ得意とする品目があり、優れた技能を持った職人がいました。金庄と武庄は大花貨が有名で、人祖猴、九頭鳥、子母駄など大型のものは、金庄の職人たちの得意とする品目でした。丁楼村は「泥塤」の生産で有名でした。

 

淮陽の泥人形の成形は手捏ねが中心ですが、一部は一面の型で押し出して作ります。全体は黒色の下地の色の上に、白、深紅、薄い緑、薄い黄色で彩色します。全体の工程は、「打泥」、「搓坯」、「成形」、「染色」、「画花」の5段階に分かれます。「打泥」は、よく捏ねた土を木の棒でよく打ち、むらなくなめらかにします。「搓坯」cuō pīは作るものに合わせて土の塊を製品に近い形にまとめることで、その後、ひとつひとつ捏ねて成形します。「泥泥狗」の下地の染色方法は、他の泥人形の産地が逐次色を乗せていくのと異なり、製品をまとめて「浸し染め」します。先ず、青(黒色染料)を大鍋で煮て調合し、成形し乾かした白地を大きな穴杓子の中に入れ、穴杓子を染料に浸し、すくい上げ、白地全体が均等に黒く染まったら、筵(むしろ)の上で乾かし、乾いたら次に「画花」、絵付けをします。絵付けの時は、毛筆は使わず、先を削ったコウリャンの茎の先に顔料を付け、線で輪郭を描いていきます。

 

2.浚県xùn xiànの泥人形

浚県泥咕咕(泥馬)

 

浚県は河南省北部に位置し、衛河が県内を斜めに通っています。漢代に黎陽県が置かれ、元代に浚州に改め、明代に浚県に改められました。現在は、鶴壁市の管轄となっています。県内に名勝古跡がたいへん多く、県城の南面には大山と浮丘山が東西に対峙し、これら二つの山の上には歴代の古跡、寺院、祠堂、石窟、石碑が400カ所以上に分布し、仏教、道教、儒教の三教が一カ所に集まった文化的名山となっています。毎年正月十五日から月末まで、二つの山の間では廟会が盛大に行われ、俗に「古正月会」と呼ばれています。廟会の期間中、大量に販売される民間工芸品として、南毛村の木製玩具「刀槍剣戟」(「戟」は矛のこと。)、張庄の竹柳製品「簸箕籠筐」(「簸箕」は箕(み)で、ちりとりのこと。「籠筐」は竹や柳の枝で編んだ籠(かご))、二郎高の花火と爆竹、そして最も特色のあるのが、楊圯屯の泥人形「唧唧咕咕」です。

河南省鶴壁市

浚県(鶴壁市)

 

「唧唧咕咕」は浚県の泥玩具の総称で、「泥咕咕」とも言います。吹いて音を鳴らすことから、こう名付けられました。「泥咕咕」を制作する職人は大部分が県城の東1.5キロにある楊圯屯で暮らしています。この村は、隋時代末期の農民蜂起軍の武将の名前から命名されました。『資治通鑑』によれば、隋末、李密を首領とする瓦崗軍が黎陽一帯で官軍と戦争になり、双方に死傷者が出て惨憺たる状態になりました。伝説によれば、李密の部下に姓が楊、名を圯という武将がおり、軍を率いて大山の下に駐屯しました。楊軍の中に泥人形を捏ねるのが上手な兵士がいて、沙場で殉難した戦友を記念するため、泥人形と泥馬を作って、死者に供養しました。これより後、土で像を作る技術が伝わり、発展しました。当時、兵隊が駐屯していた所に村が作られ、「楊圯屯」と名付けられました。「泥咕咕」の多くが馬に乗る兵士と双頭の軍馬で、これらは隋代より伝承されたといわれています。

 

浚県の「泥咕咕」の造形は大きく四つのカテゴリーに分けられます。珍禽瑞獣、家禽家畜、人物、軍馬です。最も代表的なのが軍馬で、大紅馬、大黒馬、小馬、双頭馬などがあります。

泥咕咕・泥馬

泥咕咕・泥馬

 

ここの馬の人形は、頭が大きく体が小さく、頭を振り上げ、たいへん勇猛な様子です。馬の人形の作者は、意識的に馬の頭や首を描写し、馬の元気さを誇張し、わざと馬の胴体と四本の足を小さくして、駿馬が勇壮で、威勢が良い様子を強調しています。この地方の伝説によれば、隋末の農民蜂起軍の軍馬の中には、手綱を垂らして主人を救け、死を賭して敵を迎えた良馬、義馬がいて、当時兵士たちは、こうした軍馬の主人を思う気持ちに託して馬の人形を作りました。今日、「泥咕咕」の中の軍馬は依然として当時の風格を保っていて、見る者に強い印象を残します。

 

珍禽瑞獣のカテゴリーの作品には、魔除け、一角獣、キジバト、座る獅子、燕、首を振る獅子、その他様々な縁起の良い動物が含まれます。家禽家畜のカテゴリーの作品には、鶏、アヒル、猿、豚、羊、ウサギ、牛、鳥などがあります。人物の像は比較的少なく、もっぱら一部の職人により作られました。主な作品は、関羽、西遊記、八仙、十二支の擬人像、三国志の武将などです。

キジバト

キジバト

首を振る獅子(獅子舞)

 

浚県の「泥咕咕」は多くが手で捏ねて形を作り、半分手捏ね、半分型押しのものもありますが、全て型で作られた作品は少ないです。「泥咕咕」は深い黒色のものが多く、また褐色や紫がかった濃紅色など濃い色を下地に塗ったものもありますが、下地に薄い色を塗ったものは皆無です。下地には松やにが擦りつけられています。下地が乾いたら、強火で生地を焼き、色を調合した松やにを下地の上に擦りつけ、松やにが熱で溶けて、下地の表面に薄い膜を作り、冷えると、つやつやとコーティングしたように光り輝きます。紋様の装飾は草花が多く、好んで白、ピンク、薄緑、卵色などを用いています。紋様の絵付けは直接いくつもの色で描き、筆のタッチの変化を重視し、点描の排列をよく考え、装飾性が強くなっています。

 

楊圯屯は700戸余りの人家のある大村落で、泥人形の生産が最も盛んだった時には、村の人家の90%が泥人形の生産に従事していました。ここでは俗にこう言われていました。「楊圯屯で飯を食ったら、泥人形を作れるようになる。」楊圯屯で短時間滞在するだけで、泥人形を作る技を覚えることができる。それほど、ここでは泥人形作りが日常あたりまえのことであったのです。

 

河南省の泥人形は、この他、瀋丘県、霊宝県、開封市、洛陽市などでも見られますが、生産規模は何れも淮陽、浚県に及びません。

 

 


中国の泥人形(5)山東省

2021年06月13日 | 中国文化

聶家庄の泥人形「拴娃娃」

 

1.聶家庄nièjiāzhuāngの泥人形

 

山東省には何カ所か泥人形の産地がありますが、先ず取り上げるのは、山東半島東部の濰坊市高密県(現在は高密市)です。青島市に隣接し、泥人形の産地は県城付近の東聶家庄、西聶家庄、高家庄の三つの村に集中しています。泥玩具の職人には聶niè姓の人が多く、高密泥人形は「聶家庄泥人形」とも呼ばれています。

濰坊市高密県(現在は高密市)

 

高密県は有名な民間工芸品の里であり、ここで生産される木版の年画(春節に門や室内に飾る絵画。吉祥の図柄を木版刷りの輪郭に筆または色刷りで彩色する)である「撲灰年画」(明代成化年間(1465-1487年)に始まり、清代に盛んに作られた。柳の枝を焼いて作った灰炭で輪郭を描き、それを上から紙で写し取ることから、この名が付けられた)と剪紙(切り紙細工)は何れも特色ある民間工芸品です。泥人形の生産は、明清時代に遡ります。聶家は元々、河北省泊鎮(ここも泥人形の産地です)の人で、明朝初期に高密に移り、聶家庄一帯に定住し、明の隆慶年間(1567-1572)、庄の人々は「鍋子花」の制作を副業としました。「鍋子花」は節句に使う花火で、粘土で本体を作り、中に火薬を詰め、外側は河北省白溝鎮で生産される「老頭花」、「獅子花」と似ていました。「鍋子花」の粘土の本体は、獅子、寿星(南極老人)、娃娃(赤ん坊)など、様々な形に作りました。これが聶家庄の泥人形の元になっています。清の康煕年間(1662-1722)、「鍋煙子花」の基礎の上に、泥人形の生産が始まりました。後に、「撲灰年画」制作の影響を受け、泥人形の造形や彩色に改善が加えられ、独特な風格が生み出され、今日まで伝わっています。

撲灰年画

 

聶家庄の泥人形は芝居の人物を題材にするのを得意とし、伝統演劇の人物に取材したり、木版年賀の内容を採り入れたりし、「劉海戯金蟾」,「猪八戒背媳婦」、「回娘家」、「孟良焦賛」など、人気のある芝居の場面を再現しました。また、縁起の良い動物を題材とした泥人形として、「対獅」、「坐獅」、「十二生肖」などのようなものもあり、石造彫刻の表現方法を採り入れ、豪胆で勇壮な風格を生み出しました。

猪八戒背媳婦

武財神

 

聶家庄の泥人形は全て型を使って作られ、重厚でしっかりしていて、凹凸が明確で、多くが本体の中が空洞になっておらず、ずっしり重く、存在感があります。彩色は華麗でおおらかで、泥人形でよく使われる深紅、深緑、黄色、青の他に、聶家庄では更に桃色、バラ色、深い紫を好んで使い、また補助的に金色と銀色も使います。上絵を描く時にはぼかしの技法を用い、筆に水と絵の具を十分含ませ、一気に筆を動かすと、色彩が深い色から浅い色へゆるやかに自然に変化します。獅子や虎の顔、人物の顔の頬には軽く桃色を塗り、健康で丈夫な様子を表し、更に金色、銀色の飾りを加えることで、華麗で堂々とした風格を出しています。

 

聶家庄の泥玩具で最も有名な製品は「大叫虎」で、虎は前後二つの部分に分けて制作し、本体が乾燥してから中間を羊皮紙や強靭な紙でつなぎ合わせ、本体の空洞になったところに竹の呼び子かヨシ笛を取り付けます。泥虎を前後に引っ張ったり押したりすると、空気が圧縮され、竹の呼び子を通って音が出ます。虎の頭の内部は大きな空洞が残してあり、虎の口が開き、呼び子の音が頭の空洞内で共鳴し、虎の口から音が出ます。音は低く重厚で、角笛のようです。こうした巧みな構造は、職人たちの創意工夫の現れです。

大叫虎

 

2.蒼山県の泥人形

蒼山県の泥人形

 

蒼山県(蘭陵県)は山東省の南部、江蘇省の北に接する臨沂línyí市の所轄で、臨沂市西南30キロに位置し、主に芝居の人物、皮老虎、揺尾翠鳥、牧童騎牛などの泥人形を作っていました。1940~60年代、蒼山の泥人形は百種類余りに達し、様々な人物や動物、動いたり音が出たりする玩具を生産していましたが、以後次第に衰退しました。1980年代より、一部の製品について生産が回復しましたが、まだ過去のレベルには戻っていません。

臨沂市蒼山県

 

ここで生産される芝居の登場人物の人形は、単体で直立したものが主で、高さは約18センチ、型を使って作られ、中が空洞になっていて、白粉で地色が着けられ、絵付けの時は小筆を使って色を塗り、広い面積に色を塗ることは少ないです。墨で描いた紋様はすっきりしていて、筆遣いは自由気ままな感じです。ここの泥人形の職人たちは、「先ず墨の線で衣服や顔かたち、主な部分の輪郭を描き、その後、様々な色を付けていく。たとえ色があまり正確でなくても、全体の印象にはあまり影響しない。なぜなら黒色が「一家の主」(全体の構図や色彩の中心)だから」と言います。ここの芝居の人物は色遣いが豊かで、墨の線が自由闊達に描かれ、生き生きとした動きが感じられます。

武旦

 

蒼山の泥人形の表面には、絵付けが終わると、たまごの白身がかけられます。これは化学塗料が未発達の時代の伝統的な彩色後の仕上げ方法です。たまごの白身を割りほぐし、水で薄めて、絵付けした人形の表面に塗るのです。乾くと弱い光沢が出て、てかてかと艶が出て、禿げにくくなります。現代の泥人形ではあまりこのような方法は使いませんが、蒼山泥人形ではまだこうした伝統的な方法を維持しています。

 

3.掖県(莱州)の泥人形

戯曲旦角(芝居の中の人物)

 

掖県は山東省東北部に位置し、北に莱州湾に臨み、古くは莱州と呼ばれました。ここで作られる民間工芸品は長い歴史を有し、曾ては泥人形、「江米人」(糝粉細工)、剪紙(切り紙細工)などの産地でした。この土地に伝わる民謡では、「坊や、泣かないでおくれ。父さんは莱州府に行ったよ。天秤棒の前には「江米人」、後ろには「皮老虎」を担いで行った」と歌われています。「江米人」は当地で年越しや節句のお祭りの時に作る、米粉を捏ねて作った人形で、「皮老虎」はここの泥人形のひとつです。

掖県(莱州)

 

泥人形の生産は、県城の西北の塔埠村と西坊北村に集中していました。塔埠村では、不倒翁(起き上がりこぼし)、揺叫(「揺鼓」とも言う。でんでん太鼓)、「四老爷打面缸」(滑稽劇の題名)など動くおもちゃが有名でした。起き上がりこぼしは粘土で張り子の本体を支えます。張り子の本体の型は粘土で作り、型の周囲にはぐるりと深い溝を付け、水に漬けた紙を何層にも貼り付けて乾いたら、深い溝に沿って紙の層をはずし、粘土の型から取り出し、粘土の支えの上に取り付けました。人形は上が軽く下が重いので、倒してもまた起き上がります。寿星(寿老人。七福神の一人)、娃娃(小さな子供)、小閨女(未婚の女性)、猴子(猿)など、様々な形の起き上がりこぼしが作られました。また、青蛙や小鼓の形の揺叫(でんでん太鼓)を考え出し、農家の子供たちに喜ばれました。

不倒翁(起き上がりこぼし)

揺叫(でんでん太鼓)

 

塔埠村には老作家、周紹榜がおり、長年泥人形を作ってきました。泥人形は、型を取って作りました。単体の人形は、古装束の人物、芝居の人物が多く作られました。「猪八戒背媳婦」(猪八戒が嫁を背負う)は高さ約10センチ、八戒の体と背負った人物は一つの型で作り、前面には小さな穴を残し、別に猪八戒の頭を取り付け、また書生や大男の頭にも取り換えることができ、こうして猪八戒が変身して人を騙す場面を表現しました。「猴子换草帽」(猿が麦わら帽子を交換する)は、猿の手足は紙の板で作り、ひもでつないだ把手を動かすことで、頭の麦わら帽子が二匹の猿の頭に代わる代わる被さるようになっていました。

猪八戒背媳婦

猴子换草帽

 

掖県の泥人形の特徴は、簡素で、実直で、過度な装飾はせず、本体は空洞になっていないので、堅牢で、ずっしりと重く、壊れにくいことでした。

 

 

4.臨沂línyíの泥人形

褚庄の泥人形(騎馬)

 

臨沂市の東、1.5キロの九曲郷・褚庄chǔzhuāng(臨沂市河東区)も泥人形の産地で、ここでは泥人形で鳥、雄鶏、馬が作られ、また牛頭哨、双音哨(「哨」は呼び子の笛)という呼び子の笛が作られました。

 

褚庄では曾て「五絲哨」という笛が作られていました。赤、黄、青、白、黒の五色の絹糸で一個の、陶器の呼び子を結び付けて子供が胸から吊るし、災いや疫病を避けるのを祈りました。『風俗通義』という古い書物に、「五月五日に五色の糸を腕に吊るし、妖怪や兵乱を避け、疫病にかからないようにする」という記載があります。「五絲哨」は残念ながら、今はもう伝わっていません。しかし「牛頭哨」と「双音哨」は今日でも作られています。これらの陶器の呼び子は全て二つの穴が開けられていて、一つは深くもう一つは浅く、一つは大きくもう一つは小さく作られています。一方からは高い音、もう一方からは低い音が出て、二つの音は共鳴し、耳に快いものです。

牛頭哨

 

褚庄の泥人形の鳥、雄鶏は、形は粗削りですが描かれた紋様は変化に富み、同じ鳥でも、個別に牡丹、菊花、縞模様、網目模様、点の模様など十種類以上の図柄が鳥の体を飾っています。下地は白粉が塗られておらず、「ベンガラ」(鉄土子。鉄丹とも言う)が塗られています。先ず、ベンガラを細かく砕いて擦り、水や膠と調合し、下地に塗り、乾いたら上絵を施します。ここの泥人形の主な色調は暗い赤色で、独特な色合いとなっています。

 

山東省内には泥玩具の産地が他にもたくさんあり、済南市、青島市、黄県、棗庄市などでも曾ては各種の泥玩具を生産していました。


中国の泥人形(4)陝西省の泥人形

2021年06月09日 | 中国文化

麒麟送子(鳳翔)

 

陝西省は歴史上多くの泥人形の産地を輩出してきました。鳳翔県、乾県、安塞県、富県、及び西安市郊外の狄寨、魚化寨などの地が泥人形の産地です。

 

 1.鳳翔の泥人形

 

鳳翔県(2021年1月より、これまでの鳳翔県を廃止し、宝鶏市鳳翔区になった)は行政的には宝鶏市に属し、陝西省の省都の省都西安より渭河を遡り、約170キロ西にあります。

陝西省宝鶏市鳳翔県

 

鳳翔県の泥人形は陝西省の民間工芸の重要な品目であり、中国西北地域の民間工芸を代表するものです。この地の泥人形は、四つのカテゴリーに分けることができます。

 

①大型の獣の像

「大坐虎」、「大坐獅」、「黒白坐虎」などがあり、高さは約60センチ、何れも季節の行事の際の室内の飾りです。

 

②小型の獣の像

花馬、花兎、泥牛、泥狗などがあり、大きさは3-15センチくらい。

 

③人物像

八仙人、西遊記、麒麟送子、牧童牛などがあります。

 

④掛飾(壁掛け)

「掛虎」が最も有名で、大きさは6-130センチ。他に「送子掛片」、「鍾馗掛片」、「哪吒掛片」などがあります。

 

4つのカテゴリーのうち、「掛虎」が最も有名です。「掛虎」は壁飾りで、土に紙糊を加え、型取りして成形したもので、本体はたいへん薄く、色合いは鮮やかで、農家の人々にたいへん好まれます。

鳳翔掛虎

 

「掛虎」は彩色したものと白黒のものの二種類があります。彩色掛虎は白粉の下地の上に墨の輪郭線で紋様を描き、その中に彩色を加え、最後に全体にラッカーをかけてあります。白黒の「掛虎」は墨の輪郭線だけで色を塗っておらず、ラッカーもかけていません。「掛虎」は彩色でも白黒でも、大きいものでも小さなものでも、その基本の造形は何れも、正面が虎の頭で、丸い目、大きな耳、大きな口、へこんだ眉、広い額、額の真ん中に「王」の字が描かれています。紋様は線描が主で、額、下あご、両頬には大きな牡丹の花、桃の花、ザクロ、佛手(佛手柑)、蓮の花などの縁起の良い草花が描かれ、その間には雲の渦やつる草の紋様が描かれます。全ての紋様の配置、間はよく考えられ、適度な間隔が取られ、全体の構図が対称になるように均衡が取られ、紋様の描線は伸び伸びとして流れるようで、筆遣いの変化に注意が払われています。彩色の掛虎は深紅、浅黄、黄色、バラ色、青緑などの色を多用し、色は鮮やかで目立ち、色合いが濃く鮮やかで、喜びや楽しみの気持ちに溢れています。

 

「掛虎」の成り立ちは、陝西省の「社火」(祭りの時に行う娯楽演芸。「高台」、「高跷」(高足踊り)、「旱船」(「跑旱船」。若い女性に扮した人が、模型の船から上半身を出し、歌いながら練り歩く)、「舞獅」、「舞龍」、「秧歌」(田植え踊り。ヤンゴ踊り)などの通称)や「地戯」(追儺(ついな)。鬼やらい。元々、商(殷)、周代に方相氏により、大みそかの夜、悪鬼を払い疫病を除く儀式に由来)などの風俗や行事と関係があります。「地戯」で使うお面には「掛虎」に似たものも見られ、それゆえ「掛虎」は「地戯」の面が変化したものと考えられています。民間では「掛虎」の面には邪鬼を払う効果があると考えられ、廃れることなく長い間伝承されてきました。毎年、春節の前に、この地の多くの農家では「掛虎」を買い、家の門の「門楣」(戸のかまちの上方の横木)の上に「掛虎」を掛け、新年の邪鬼払いに用いてきました。「大坐獅」、「大坐虎」を部屋に飾る目的も、「掛虎」と同じです。

鳳翔大坐獅

 

小型の泥玩具では、鳳翔の泥牛も特色があり、大で長さ約30センチ、小は約4センチ。何れも二枚の型から作られ、中は中空になっています。中空の部分に小石や豆が入っているものもあり、振るとカランカランと音がします。泥牛の造形は多くが寝そべって、頭は横を向いています。色は黒が多く、緑(青牛)、黄牛、紫紅(紫がかった濃赤色)の牛もあります。牛の顔は簡潔ですが威厳があり、背中に模様が描かれ、牡丹、桃、蓮の花、或いは「三多」(桃、佛手柑、ザクロが描かれ、それぞれ寿、福、多産の象徴)の図案で飾られています。

鳳翔泥牛

 

泥牛の起源は古く、漢代以前、農家には「土の牛を祭って寒気を追い払う」風習がありました。漢代以降は「立春に土の牛を作り」、節気を祭り、農耕の無事を祈りました。

 

宋の孟元老は『東京夢華録』で、

「立春の前日、開封府では春牛を禁中に入れ「鞭春」(立春に豊作を祈願して張り子の牛をむちで打つ行事)を行う」とあります。

 

古代には土の牛を制作する時に「五行」説の原則を守り、立春の日の干支と五行を総合して土の牛の色が決められました。こうした習俗は長い時間続けられ、1940年代ごろにはまだ盛んに行われていたそうです。

 

鳳翔の泥人形は、形にふくらみがあってつややかで、ふくよかで豊かで、立体的な造形が多く、面白みを増しています。本体は中空で、薄く軽くできていて、色は鮮やかできらびやかで、お祝いの喜びの気持ちに溢れています。鳳翔の泥人形の題材は、多くが昔の寓話から採られていて、中原文化の影響が色濃く映し出されています。

 

 

 

 2.西安の「泥哨」(土の呼び子)

魚化泥叫叫

 

魚化寨、狄寨は何れも西安市近郊の農村部でしたが、西安市市街地の拡大で、今は西安市市街に組み込まれてきています。これら両地は何れも「泥哨」、土の呼び子を生産してきました。低温の火で焼いた陶器の呼び子で、習慣上「泥叫叫」、「小泥叫」と呼ばれます。

 

魚化寨の「泥叫叫」は高さ約5センチ、正面は型押し、背面は手で捏ねてあります。一面の型で作られます。てっぺんには小さな丸い穴が設けられ、空気の通路になっていて、吹くと甲高い音が鳴ります。白地が乾いたら、穀物の糠やのこぎり屑を燃料に、熾火で焙り焼きにします。焼いている過程で、白地の表面の土の粒子と粒子の間に大量の炭素を吸収し、それにより全体が真っ黒になります。焼き上げた「泥哨」(呼び子)は白、赤、黄、緑、青で上絵を描き、表面には桐油が塗られます。黒く照り輝き、見栄えが良く、子供たちが手に取って遊ぶのにたいへん良いものです。

泥叫叫は一面の型で作られる

背面は手で捏ねて仕上げる

てっぺんと背面の空気を通す孔

焼いた人形に着色する

 

「泥叫叫」の造形は多くは歴史人物、芝居の人物、神話の人物、現在の生活の中の人物などを題材としていて、全て直立していて、基本の造形は顕著な変化が無く、人物の頭の飾り、服装、武器、道具などで人物の身分や特徴を表しています。

西安泥叫叫

 

狄寨泥叫叫の制作方法と形式は、基本的に魚化寨泥叫叫と同じです。狄寨付近の古い地名を取って、白鹿原の名を冠することもあります。魚化寨と狄寨の「泥叫叫」はいずれも小さいものを得意とし、堅実に作られ、作りは小さいが精巧で、持ち運びに便利に作られています。


中国の泥人形(3)河北省白溝鎮の泥人形

2021年06月08日 | 中国文化

白溝泥人

 

河北省内には泥人形の産地がいくつかありますが、その中でも有名なのは、新城県白溝泥人、泊鎮泥人、玉田泥人、保定泥人などです。ここでは新城県白溝鎮の泥人形を紹介します。

 

白溝鎮は、現在は行政的には河北省保定市高碑店市の管轄となっています。高碑店市の東南部で、東に雄県と接します。雄県は北京市の副都心として建設されている雄安新区の所在地で、白溝も近年は発展が著しく、急速に都市化してきています。北京、天津からだいたい100~120キロの距離にあります。白溝河東岸に位置することからその名があります。

 

白溝と北京、天津の位置関係

 

ちなみに、河北省の他の泥人形の産地ですが、泊鎮は河北省滄州市泊頭市に属します。玉田は河北省唐山市に属します。河北省の東北部で、唐山市の最西端に位置します。

 

さて、白溝鎮は歴史上も重要な民間玩具の産地で、泥人形だけでなく、花火や爆竹、布老虎(布で作られた虎の人形)、木製の刀や槍でも名が知られています。白溝鎮付近には多くの玩具生産専業の村が分布し、清朝末期には、各村それぞれ固有の製品が形成されていました。南劉村では「旗花」(花火の一種)を生産し、北劉村では泥人形を作りました。轆轤把村では専ら泥公鶏(雄鶏の泥人形)を作りました。花子営では花火、小謝村では「滴滴金」(花火の名前)と「陶模」(火を入れて焼き固めた泥人形の型)を作りました。市(赶集)が立つ度に、白溝鎮の「十大坑」(白溝鎮内の地名)では民間玩具を専門に販売する「泥娃娃市」が立ち、各村の玩具を集中的に販売しました。白溝鎮で作られた花火や泥人形は、北京まで売りに行かれ、北京城内の廟会(寺院の縁日)や「廠甸」の重要な商品となっていました。「廠甸」というのは、明清時代、北京の瑠璃窯の前に広い空き地があり、民国6年(1917)ここに海王村公園が作られ、旧暦正月の一日(春節)にこの付近に屋台が集まり物販が行われ、人々が集まったのを「逛廠甸」(「廠甸」を見物する)と言ったのが由来です。今は家が立て込んでいますが、瑠璃廠古文化街として、書画骨董を販売する店が並んでいます。現在の瑠璃廠が曾ての廠甸です。古くからの北京っ子の間では、白溝鎮のおもちゃはよく知られていました。

 

白溝鎮北劉荘には代々玩具作りをしている家がいくつもあり、特に泥人形作りを得意としていました。ここの泥人形は全て型から作られ、原型を土で作って乾かし、それを粘土で型に取り、それを窯で焼いて作った陶器の型から白地を作ります。白粉で白地に色を付けて上絵を描き、表面にニスを塗って仕上げます。泥人形の頭のてっぺんにはヨシ笛が付けられていて、泥人形の背中には空気の取り入れ穴があり、息を吹くと、ピーッと澄んだ音がよく響き、子供たちにたいへん好まれました。

 

白溝の泥人形は造形が簡潔で、色彩は鮮やかで、素朴でおおらかです。表現する題材は広範囲に亘りますが、子供の人形と芝居の一場面(「戯出」と言います)が最も典型的なものです。子供の人形には「吉慶有余」があり、男女の子供一組が、一人は鶏を抱き、一人は魚を抱いています。或いは片方は鶏に乗り、もう一方は魚に乗ったものもあります。

吉慶有余

吉慶有余(その2)

 

「麒麟送子」、「招財進宝」、「五谷豊登」という題材では、大きいもので30センチくらい、小さいのが10数センチです。「戯出」は芝居の場面に取材した泥人形であり、一人、二人組、三人組の三つの形式があり、大きいのが60センチぐらい、小さいのが10数センチくらいです。二人組のものが「梁祝」(梁山伯与祝英台)、「天仙配」、「孟良焦賛」、「関羽周倉」、「蘇三起解」、「小放牛」など。三人組のものが「劈山救母」、「白蛇伝」、「三進宮」、「桃園三結義」、「三娘教子」など。人物の多くは、「河北梆子」(河北省の地方劇。「梆子腔」と言って、拍子木で拍子をとりながら歌う)の舞台から取られています。二人組でも三人組でも、一つの型から抜いて作り、「連体式」と言って、人物と人物の間に隙間がありません。まとめて型を取って、全体の強度を確保しています。単体の泥人形は、表情がより豊かです。「八仙人」は一組八人で構成されています。「西遊記」は一組四人です。「三国演義」、「水滸」は一組が十数人から数十人に達します。「戯出」の中で、「刀馬人」は室内の装飾用の大型の泥人形で、高さは60センチ近くあり、左右の二体の人形が向かい合い、造形は木版画の「門神」に似ています。手に武器を持ち、母屋の中央の部屋の、出入口に面して置かれる方形の細長い机の上に、置時計か、正面の壁に掛かる掛け軸の両側に置かれ、邪を避け、祟りを除き、家内安全の効果があると信じられていました。

戯出・穆桂英

刀馬人

 

もうひとつ、もっと小さな泥人形があり、高さは約5センチ、型で作られ、絵付けがされ、品種がたいへん多く、男女、年寄、子供、芝居の男役、女形、敵役、脇役と、何でもそろっています。古今の神話や伝説、歴史上の人物と、含まれないものはありません。職人たちは自分たちの生活の認識と理解に基づき、思いのままにこうした小型の泥人形を作り、それぞれ頭にヨシ笛を付け、背中に穴を開け、吹くとピーッと音がするようにしました。

白溝泥人

 

白溝鎮の西側に位置する轆轤把村は「泥公鶏」(雄鶏の泥人形)の生産で有名です。ここで作られる「泥公鶏」は質素で簡潔ですが、力強く、豊満で、華北地区の泥玩具の代表作です。「泥公鶏」は大、中、小三種類あり、大は高さ約25センチ、小は約6センチです。「大公鶏」(雄鶏の大)は大型の泥人形と同様、高い工芸技術が要求されます。型に土を入れる時、先ず土を薄く伸ばして、刀で型の外形と同じ形状に裁断します。型の中に草木を焼いた灰を撒き、裁断した土片を型に押し込み、二枚の型を合わせて底を閉じ、ヨシ笛を挿入します。土の本体が水気を十分含んだら型から取り出し、乾かせば、白地は完成です。

泥公鶏

 

白溝の泥人形は、「泥公鶏」であれ他の人形であれ、全て白粉で下地を塗り、人形の種類によって彩色や絵付けを行います。泥人形の色彩はたいへん鮮やかですが、主要な部分の表現に注意し、適度に空白を残しています。泥人形の顔、鶏の頭部、台座の部分には何れも白粉の下地が露出し、色は深紅、深緑、淡緑、淡い黄色、深い紫が主に用いられます。着色後、墨の線で輪郭や模様を描き、顔を描きます。彩色部分の筆のタッチはさっぱりしていて自由で、墨の線はよどみがありません。

 

白溝鎮の東方10キロに小謝村があり、この村では専ら子供が型に土を詰めて遊ぶための陶製の型(「陶模」)を作っていました。陶製の型は円形で平たく、大小二種類あり、型の大は直径約6-7センチ、小は4-5センチで、低温で焼いて作り、オレンジ色をしています。制作方法は、先ず円形の木の板の上に図案を彫り、粘土で円形の型を写し取り、乾燥させたら、粘土の型と麦わら、米ぬかやのこぎり屑などの燃料を、一層毎に隔てて敷いて積み上げ、外側は泥で密閉し、てっぺんと端に空気穴を開け、燃料に点火して十数時間焼いて、陶器の型を作ります。

陶模

 

小さな陶器の型で泥人形を作るのは、子供にとってたいへん良い手先を使う作業になり、型から取り出した土の平たい人形は、瓦当(軒瓦の先端の模様)によく似ています。陶器の型の図案はたいへん豊富で、500種類以上あり、表現している題材は、歴史人物、生活風景、動物、植物や野菜、果物、吉祥図案などがありました。

陶模(農耕する人)

 

小さな陶器の型の中に、広い世界の様々な情景が描かれ、農村の子供たちにとって、遊びの道具であるとともに、学びの道具でもありました。「陶模」の図案は、陰刻か陽刻の何れかで、簡潔で素朴で、大胆で直感的で、わざとらしさが無く、簡単な線と面とで対象を描くのを特徴としています。「陶模」は価格の安いものですから、農村の子供たちにとっても手に入りやすく、遊ぶのに適していました。子供たちは、型を抜いて泥細工を作ることを通じて様々な知識を学び、手先と頭を使う訓練をすることができました。