中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

北京史(三十三) 第六章 明代の北京(11)

2023年08月25日 | 中国史

国子監

第五節 明代の北京の文化

 明代の北京は封建政治と軍事の中心であり、且つ封建文化の堡塁(ほうるい)であった。ここで、統治する立場を占めた文化は封建文化であった。これは封建統治階級の独占した文化であった。しかし、直接一般の人々に属する民間文化と進歩した文化も絶えず闘争の中で成長した。

統治階級の北京での文化統治

 明朝の統治者が北京に建都後、直ちに北京にいくつかの文化教育機構を設置した。明の統治者はこれらの機構をを用いて文化を独占し、同時にまたこれらの機構を利用し、地主階級の子弟を養成、選抜し、それによりさらにうまく封建統治を維持しようとした。明朝廷で試験を管轄していたのは礼部で、礼部の主な職責のひとつは三年に一回の会試殿試であった。明朝では、地主階級の子弟は会試や殿試を通じて選抜され、上層の統治グループの中に入ることができた。このため三年毎に、何千何万の受験生が北京に集まって来た。会試、殿試の主要な内容は、四書五経から出題される問題に、八股の対句形式の文章を作ることで、八股文は一定の格式に基づいていなければならず、「聖人の代わりに立言」しなければならず、且つ朱熹四書注を根拠にしなければならなかった。八股文成化帝9代。1465年‎ - ‎1487年)の時に始まり、その後、一般に名誉や利益を求める地主階級の知識分子の間で広まり、思想的には完全に程朱理学の範囲内に限られていた。

 明朝の最高学府である国子監は地主階級知識分子を養成するところで、一般の人々は根本的に入学できなかった。明朝の国子監は二か所あり、南京のものは南監と呼ばれ、北京のものは北監と呼ばれた。国子監の中には孔子廟、講堂、宿舎、図書館、刻書処があり、国子監に入学し勉強する生員を監生と呼んだ。第5宣徳帝14251435年)の時、北京の国子監で学習する学生は約1万人に達し、明朝中葉でも56千人おり、その中で国子監に寄付をする人数はもっと多かった。ここにはまた各地の少数民族の学生もおり、高麗、シャム(暹罗。タイの古称)、ベトナムの学生もいた。学生は主に四書を読み、八股文を学び、学習の内容はまた程朱理学の範囲を越えてはならなかった。

 明朝廷はまた太医院、欽天監、四夷館にそれぞれ学習班を附設して専門の人材を育成し、ここで学習するのも地主階級の子弟であった。太医院は大方脈、小方脈、婦人、瘡瘍(腫瘍)、針灸、眼、口歯(口腔)、接骨、傷寒(腸チフス)、咽喉、金鏃、按摩等、13科に分かれていた。1443年(正統8年)、ここで人の体の各つぼの位置を示した銅の人形が鋳造され、この銅の人形はたいへん高い科学的価値を備え、しばしばこれを用いて針灸科の学生の試験が行われた。欽天監には天文、暦日、回回、漏刻の4科が設けられ、これ以外に観象台(天文台)が設けられ、この中には各種の測定用の計測器が置かれた。四夷館は八つの館に分かれ、学生たちはここで各種の少数民族と各国の言語や文字を学習し、その中にはモンゴル語、チベット語、ウイグル語、タイ語、ビルマ語、梵語があった。

 明朝廷は更に地主階級の知識分子を組織し、図書編集の仕事に従事させた。図書編集の目的は、文化を独占し、より多くの人を集めて封建統治者に奉仕させるためであった。明初に南京で『永楽大典』を編集した時は、2100人余りの文人が参加し、この本を編集した後、皇帝はこれを北京に運び、文淵閣の中に置き、皇帝の御覧に供する以外は、特別な許可が無ければ、如何なる人も中に入って読むことを許されなかった。

 『永楽大典』は全部で22,937巻あり、中国で最も古く、最大の百科事典であり、中国で最も貴重な文化遺産である。明朝では正副二部を写し取っていたが、正本は既に消失し、副本は今日尚300冊余り現存する。これらの貴重な図書は大多数が英仏連合軍と八か国連合軍が北京に侵攻した際、帝国主義者により焼かれたり掠奪されたりした。

 明朝廷はまた多くの禁令を発布し、全ての統治者の利益に反する、進歩的、民主的な思想、文学、小説、戯曲については、徹底的に破壊した。しかし、封建地主階級が如何に文化を独占し、文化に損害を与えても、民間文化と文化の進歩は依然として争いの中で成長し、発展した。

王学左派の北京での活動

 明朝初年、封建統治者は客観唯心主義の程朱理学(宋、明代の唯心論哲学思想で、程は程顥(ていこう)・程頤(ていい)兄弟、朱は朱熹(しゅき)(朱子)のこと)を強力に提唱し、程朱理学は地主階級知識分子の思想の中で支配地位を占めるものであった。

 

程顥・程頤兄弟

明朝中葉になって、程朱理学の思想界での支配的地位は動揺を始め、王陽明が広く宣伝した主観唯心論の「致良知」(「良知」(先天的に人の心にそなわった理性知)を推し究め発現すること)学説がこれに代わって流行した。王陽明は「天地万物は皆吾が心中に在り」、「物の理(ことわり)は吾が心に外ならず」、そのため彼は「致良知」を用いて程朱の「挌物致知」(後天的知を拡充(致知)して自己とあらゆる事物に内在する個別の理を窮め、究極的に宇宙普遍の理に達する(挌物)ことを目指す)に反対した。王陽明の学説と程朱理学は同様に唯心主義の範疇に属し、何れも統治階級の利益を擁護するものだった。しかし、王陽明の弟子の王艮(おうこん)らに到り、彼らは程朱理学に対しなお反対しただけでなく、君主専制体制についても厳しく非難した。王艮らは比較的一般大衆に近く、彼らに同情していたので、「王学左派」に発展し、王学の対立者となった。

 王学左派の代表は、王艮を除き、他に顔山農、梁汝元、李贄らがいた。

  梁汝元顔山農の学生で、彼には空想的原始社会主義の理論があり、同族の人の「貧富互助、有無相通」を主張した。こうした理論は正に当時の農民の未来の見通しに対する一種の理想と互いに符合し、そのため彼の理論は一部の人々の擁護を得ることができた。嘉靖年間、梁汝元は北京で「辟谷(断食)派会館にて、四方の士を招来し」、会館を利用して講演を行い、当時の統治者の専制や腐敗した権力に対して攻撃を加え、「方技雑流、これに従わざるは無し。」明朝の人は、北京は嘉靖から隆慶年間にかけ(15221572年)、商人や侠客が活躍し、そのいわゆる侠客とは梁汝元などを指した。梁汝元のこうした活動は、統治者をたいへん不安に感じさせ、彼らは百方手を尽くして彼を逮捕しようとした。万暦初年、張居正が宰輔(宰相)になり、専制統治を強め、湖北巡撫に梁汝元を殺すよう、ほのめかした。

 王学左派のもうひとりの代表人物は李贄(りし)で、1601年(万暦29年)通州に来て講義を行った。李贄は君主専制、旧礼学、程朱一派の理学に反対した。彼は孔子が提起した是非の基準も疑ってみるべきだと考え、卓文君が司馬相如と駆け落ちをしたのは「良き伴侶をうまく選んだ」のだと考えた。彼は民間の文学、芝居、民間歌謡をたいへん好み、彼が評注を加えた『忠義水滸伝』の中で、梁山泊の好漢たちにも心からの同情を寄せた。李贄は当時の政治制度、統治思想に猛烈な攻撃を展開したので、彼が通州に来るや、北京の統治者たちは恐れおののき、甚だしきは彼を「魔物」と呼んだ。

 

李贄

 統治者たちが李贄を恐れるのは、李贄の思想が多くの人々の共鳴を得ているからであった。1602年(万暦30年)になり、明朝朝廷は「敢えて乱道を唱え、世を惑わし民を偽る」という罪状で李贄を逮捕し、北京に連行した。この時、李贄は既に76歳の老人であったが、彼は自分が無実の罪に貶められたことにたいへん憤懣し、錦衣を着て獄中で刀で喉を割き自殺した。

 李贄の専制に反対し個性の解放を追求する思想は、当時たいへん進歩した思想であった。李贄は統治者たちに対し真正面から痛撃を与え、当時圧迫を受けていた人々の願望を最大限表現した。明、清の統治者は李贄が書いた『蔵書』、『焚書』、彼が評注を加えた『忠義水滸伝』などに対して、何度も焼き払うよう命令を出したが、しかしながらこれらの書物はずっと社会の中で人々に読み継がれていた。

 李贄の墓は今なお通県にあり、彼を記念するため、新たに修築されている。

 

文学

 明朝統治者は八股文で人々の思想を束縛し、甚だしき場合、検閲によって専制主義に抵触する書物を書くことを厳禁した。こうした措置は文学の発展を甚だしく阻害した。

 永楽年間の北京遷都以後、専制主義の中央集権体制が安定期を迎え、この時北京の文人の中で、地主階級が天下太平を引き立て、その功績をほめたたえた「台閣体」の文章が出現した。明の翰林、李時勉の『北都賦』がその一例である。

 明朝中葉以後、封建士大夫たちの文壇では、専らことばのあやを弄した 台閣体はもはや歓迎されず、これに代わり起こったのが、「前後七子」の復古派の文体であった。復古派は、「文は必ず秦漢、詩は必ず盛唐」を主張し、ひたすら古人を模倣しなければならず、そのため形式の上でも内容でも如何なる創造的な成果も見られなかった。万暦年間になり、進歩性を帯びた文学が活発になり、反復古主義の改良運動が出現した。これは明らかに当時の社会経済の発展と、哲学の先進思想の影響を受け、生まれたものである。反復古主義改良運動の提唱者は公安、竟陵の両派で、公安派の代表は袁宗道、袁宏道、袁中道の三人で、彼らは文学での模倣に反対し、「挌套」(格式、型を守ること)に反対し、 「文は必ず秦漢」の復古主義者に反対し、「ただ情感を表現し、型にとらわれない」ことを主張した。彼らと李贄は、「師友」(師として敬い仰ぐほどの友人)の関係で、李贄の言葉や行動に対し、たいへん敬服していた。彼らは、当時正に日増しに盛んに興っていた小説、芝居、民間歌謡、メロディを好み、圧迫を受けていた大衆に対しても一定の同情を感じていた。彼らが書いた文章は比較的わかりやすく親しみがあった。袁氏兄弟は北京に住んでいたことがあり、多くの北京の名所に関する文章を書いている。竟陵派の代表は鐘惺、譚元春らで、彼らも復古に反対であった。竟陵派の作家、劉侗が書いた『帝京景物略』は、北京城郊外の庭園の古跡を描いた名著で、多くの北京をたたえる詩歌や、北京に関する史料を記録している。

 公安派、竟陵派の作者は皆地主階級の知識分子であり、彼らの生活圏は限られており、一般大衆との接点は少ない。彼らの闘争性は希弱で、とりわけ 公安派には退廃的消極的な一面があった。

 

芝居

 明朝統治者は民間の芝居の歌詞や曲に対しても厳しい制限と危害を加えた。永楽年間、刑科給事中の曹潤がこう上奏した。「今後、人民は雑劇を歌い演じる際、戒律を守る仙人や道士、妻への忠義を守る夫、夫に節操を守る妻、親孝行の子や孫、人に善行を勧め平和を喜ぶ者は禁じないが、帝王や聖賢を冒涜する歌詞や曲、皇帝の登場する芝居、戒律を守らず、敢えて収蔵、語り伝え、出版販売する者は、その場で逮捕、護送、訴訟、追求する」。「上意を承った内容:これらの歌詞や曲は、告示後、五日以内に処分し、役所に行き焼却すること。敢えて収蔵した者は、家族全員殺害する。」(顧起元『客座贅語』巻10『国書榜文』)ここから、明初の統治者は大衆的なシナリオや歌詞をたいへん恐れていたことが分かる。また、当時「帝王や聖賢を冒涜」した芝居は確かに既に結構あったことが分かる。

 明の統治者が大いに提唱したのは、彼らの統治に有利な芝居であった。例えば、明初の朱有燉 らが創作した雑劇は、その内容が封建倫理を大いに宣伝するものであることを除き、でたらめでとりとめがない仙人や仏教道教の物語で、農民蜂起に対し極端に中傷していた。そして当時の宮廷の勲戚(功績のある皇族)たちは専らこうした雑劇によって退屈しのぎをした。宮廷内で流行した「宮戯」(宮廷内で上演された人形劇)には「打稲」「過錦」などの芝居が含まれ、これらはなおさら単調で退屈なものだった。ただ民間の人形劇を利用して、半身を水上に浮かべたものがあり、これは「宮戯」の中でも最も人々を惹きつけたものだった。

 明朝中葉になり、都市の商工業が日増しに盛んになると、こうした都市の住民たちにたいへん喜ばれる芝居が雨後の竹の子のように広がってきた。この時、各地で上演された民間雑劇は既に千余りにもなっていた。多くの劇の脚本が統治者による出版禁止や上演禁止の処分を受けていたが、その中で強烈な反封建的な礼儀道徳意識を備えた『小尼下山』、『墻頭馬上』などは依然として広く伝わり、しかも上演され、更には『元夜鬧花灯』(水滸伝の中の物語)さえも禁止できなかった。さらに注目すべきは、江南の芝居までもがたいへん速いスピードで北京に入って来たことで、万暦年間、弋陽腔(よくようこう。江西省弋陽県から始まった地方劇の節回し)や昆曲が北京でたいへん流行した。更には統治者までも「宮戯」は単調だと感じ、何人かの宦官に命じて宮廷外の芝居の演出を勉強させた。外の芝居は既に 宮戯を圧倒していた。

 1583年(万暦11年)明代の著名な演劇作家湯顕祖(とう けんそ)が北京にやって来た。彼は科挙の受験で来たのだが、政権当事者の排斥に遭い、すぐに故郷へ帰ってしまった。湯顕祖の哲学思想は王学左派に近く、彼は李贄に対してもたいへん尊敬していた。文学の面では、彼は公安派の、ただ人の情感を表現するという主張に完全に同意し、芝居の上で過度に音韻や形式、韻律を重んじることに断固反対した。そのため彼が創作した脚本の中でも音韻や形式、韻律の制限を打ち破り、その構成や思想内容に注意した。彼の代表作、牡丹亭は、労働者も含む北京の人々が最も愛し、幅広く伝播した劇本である。この劇の中で、彼は一組の男女の恋愛の物語を通じ、自由で幸福な愛情をたたえ、彼らの個性解放を強く求める心情と、人間性を奪う礼儀、道徳がもたらす情け容赦の無い鞭打ち(鞭笞)を描写した。

 長編戯曲の昆曲が北京に伝わって以後、専ら勲功のある皇族や王公が楽しんだ朱有燉のような作家が創作したものは、とっくに正に進展する巨大な浪の中に埋没してしまった。芝居の劇団はこの時も王侯の邸宅から劇場に移動した。今日の広和劇場の前身、査楼は、明末には既に建てられていた。

 

 


北京史(三十二) 第六章 明代の北京(10)

2023年08月13日 | 中国史

山海関

第四節 北京での大順政権(続き)

大順政権の経済措置

 李自成は河南にいた時、声高らかに「均田免賦」のスローガンを唱えた。北京にいた時期、農民軍は終始働く人々から銭一文、穀物一粒徴収したことがなかった。農民軍の軍糧は、全て富豪からの追贜(隠匿した贓品(ぞうひん。窃盗など財産に対する罪に当る行為によって得た財物)の取り立て)、索餉(軍糧の請求)に依存した。これと同時に、農民軍はいくつかの場所で、「均田」を実行した。山東地区では、農民軍の官吏は着任後、「富を切り分け貧しきを助けるの説を以て、主な政策(通衢)を明示し、戸は遠近を分かたず、所有者が耕すを認可」し、そして「大きな屋敷、肥沃な田畑」は皆「貧しき輩」の占有するところとなった。山西のあるところの農民や群衆は、農民軍官吏の指導の下、豪紳地主の手から土地、屋敷やその他の財産を取得し、そして「貧しい人々が富家になった」。

 農民軍はまた一貫して商工業保護の政策を執行した。明朝統治者の、都市の商工業者への苛斂誅求(かれんちゅうきゅう。横征暴敛)、ゆすりたかり(勒索)をほしいままにし(肆行)、このため都市部の不景気を引き起こしている状況に対し、農民軍は「安く買って安く売る」経済政策を実行し、公平な取引を行った。農民軍が北京にいる期間、北京城内外の住民たちが盛んに往来し(熙来攘往)、各々が安心して生業を行った(各安生業)だけでなく、ひいては依然として地主統治下の江南地区の商人たちも、次々夏物の衣類、扇、茶葉などを満載して北方に来て商取引を行った。

 明末の銭法はたいへん混乱した。明朝廷は膨大な支出に対応するため、およそ兵馬処にも即時に炉を開いて銭を鋳造するよう命令したので、崇禎銭はこれにより百種類余りに達し、また品質も極めて劣悪で、手で触れば割れてしまうものさえあった。明朝の中期には、紋銀(純度の高い銀)一両の値が銭6百であったが、崇禎期になると、銭56千でようやく銀一両と両替することができた。こうした状況は商品の流通を甚だしく阻害し、人々の生活に影響を与えた。農民軍が北京に入城すると、直ちに鋳銭局を24か所開設し、至るところで銅器を回収して銭を鋳造し、鋳造した永昌銭は「重くて大き」く、品質もたいへん良く、このことは当時の社会経済発展に有利であった。

 大順政権はこれら一連の封建地主打倒と人々の生活改善の措置により、人々の支持を受けた。彼らは次のように歌った。

 「金の国、銀の国、闖王(李自成)の国では税金の取り立てをしなかった。」

 「星を眺め、月を眺め、闖王が意見を出すのを待ち望んだ。」

 

農民軍の北京退去

 農民軍の北京入城後、中国全土の政治情勢は錯綜し複雑に変化した。明王朝の中央政権は打ち倒されたが、地主たちは武装し、消滅していなかった。江南地域では、様々な復古勢力が一か所に集まり、ちょうど小さな朝廷を打ち建てるのを画策し、数十万人残った軍隊を頼りに、大順政権の打倒を画策した。大順政権がコントロールしている地域では、地主階級も一定の力を持っており、ある者は砦(とりで)を築いて反抗し、ある者は復活の機会を待ち、ある者は愚かにもなんとか大順政権の性質を変えようと企(くわだ)てた。東北地区では、虎視眈々と勢力拡大を狙った満州貴族がちょうど山海関に盤踞した明朝総兵の呉三桂と一緒に結託し、大挙して関所の内側へ侵攻する準備をした。北京は随時反攻を受ける危険に迫られていた。

 こうした危なく恐ろしい情勢を前にして、農民軍の前に置かれた主要な任務は、如何にして地主階級の捲土重来の野望を防ぐか、如何にして満州貴族の軍事侵攻を防ぎ止めるか、また勝ちに乗じて前進し、逃げ場を失った敵を追撃、殲滅することだった。レーニンはこう言ったことがある。革命の進んで行く過程で、「第一に勝利に酔いしれてはならず、驕り高ぶってはいけない。第二に自らの勝利を強固なものにしなければならない。第三に相手を徹底的に壊滅させなければならない。なぜなら相手が打倒されただけでは、まだ壊滅していないからである。」(『スターリン全集』第6P47『レーニンを論ず』より引用)しかし農民軍の指導者は、李自成のような傑出した人物も含め、ちょうどこうした問題について、冷静な認識が不足していた。彼らは大順政権を打ち建てたけれども、つまるところ新たな生産関係を代表していなかったので、結局は新たな制度を生み出し腐敗した封建制度を代替えすることができなかった。彼らは「均田免糧」の革命スローガンを打ち出したけれども、封建土地所有制と封建搾取を廃除する政治綱領を持たなかったし、そういうものを提起することもできなかった。農民軍に対し、次にどうすべきかさえ分からなかったし、なすべきことも全く分からなかった。彼らは短期間のうちに軍事上輝かしい成果をあげたが、それでのぼせ上り、勝利のよろこびにふけるうちに、「勝利に驕り高ぶるという過ちを犯した」。その最初の現れは、農民軍の中に相当深刻な平和ボケの思考がはびこったことである。多くの農民軍の下士官、兵卒が人に託して家への手紙を代書してもらい、父や子、妻に送り、戦争に対してうんざりし、家に帰ってまた農業をしたいという願望を伝えた。相当多くの農民軍の士官、兵士が、戦乱がまだ鎮まらない時期に、慌ただしく北京で結婚し、所帯を持った。その次の現れは農民軍将校の敵への軽視であった。彼らはヤマイヌやオオカミが前におり、虎やヒョウが後ろにいるという厳しい情勢下で警戒を怠り、明朝は南方の軍事勢力で、「檄を飛ばせば下せる」と考え、劉宗敏らは更に呉三桂など眼中に無く、山海関は「猫の額」(弹丸)ほどの土地で、「京師の一角に当てるに足らず、靴のつま先で倒すのみ」と考えた。よしんば最もまじめでつつましく、身を清く保ち悪に染まらなかった李自成でさえも、明朝の投降した官吏がほめたたえるのを聞くと、うれしさが顔色に現れ、浮つくのを免れなかった。このような情況下、農民軍内部の指導グループの不一致が次第に表に現れ、三つの異なる考えが出現した。

 一つ目は流寇(逃げ回って拠点を持たない匪賊)主義の考えである。李自成の軍隊の中は、流民、辺境守備兵、驛卒が大きな比重を占め、こうした人々は流寇主義の風習を色濃く帯びていた。流寇主義は克服されなかったばかりか、却って大きくなった。劉宗敏、李過、田見秀らがこうした思想の代表である。彼らはしばしば互いに信服せず、甚だしくは命令に服従しなかった。李自成が彼らに呉三桂を攻撃させようとした時、 劉宗敏はなんと「馬賊を以て馬賊を拝し、誰も膝を屈するを肯ぜず」という考えに支配され、出征を拒んだ。

 二つ目は官僚地主思想である。農民蜂起の盛んであった時に加わった地主階級の知識分子である牛金星、宋企郊、宋献策らが代表である。彼らは北京入城後、その本来の姿を露呈し、百方手を尽くして革命政権をむしばみ、大順政権を封建政権に変えようとたくらんだ。牛金星は極力門人を招き寄せ、私人を任用し、彼の政治権力を拡大しようとした。李自成の東征時、彼は北京で「大轎(大かご)、門棍(ドアの柱)、金を撒いた扇の上に「内閣」の文字を貼り、玉帯、藍の長衣、丸い襟の衣服を身に着け、行き来し訪問し、あまねく同郷の者を招請した」。宋企郊も私利をはかり賄賂を取り、「その親戚、友人を私のものとした」。宋献策は天文現象で以てデマを作り出すのを得意とし、先ず李自成を「十八子、主神器」と言ってほめたたえた。北京入城後、重用されなかったため、至るところで李自成が「ただ馬上王に留まり、数年入り混じって亡くなる」、「秦に遇って興り、魯に遇って亡くなる」などと触れまわり、下心を抱いて軍隊の士気を動揺させた。彼らは後に形勢が少し不利になると、投降せず、雲隠れ(逃之夭夭)した。

 三つめは李岩思想である。李岩は政治上かなり先々までの見通しを持っており、劉宗敏らの流寇主義のやり方に反対しただけでなく、牛金星らの腐り果てた行為をも反対した。彼はいくらか適当な改革を実施し、速やかに新たな封建秩序を打ち建てることを希望した。李岩は曾て李自成に向け四つのことを直接諫言した。一、早期に即位し皇帝を称する。二、「追餉(追赃助饷。贓品を追求し取り立て、農民蜂起鎮圧の軍費調達に当てる)」は刑部が責任を持ち、汚職行為、投降拒否、清廉の三つの情況に基づき、対応を区分けする。三、城内に住む軍隊を城外に移し、軍紀を整頓、訓練を強化することにより、征戦に備える。四、呉三桂を宣撫する。これらの建議は完全に正確とは言えないが、一部は合理的であり、実行して差支えないものである。遺憾なのは、李岩の主張が十分に重視されることがなく、李自成もただこれに「分かった」と意見を記したのみで、実行することはなかった。

 しかし、こうした農民軍の分裂はまだあまりたいへん深刻な程度にまで強まっていなかった。農民軍を北京から退去するよう迫った主要な原因は満漢各族の統治者が結託して後形作られた階級勢力の力の割合の変化にあった。

 封建地主と農民軍の間には本来調和できない矛盾が存在した。大順政権が北京で推進した一連の農民の利益を代表する措置は、封建地主の農民軍に対する憎しみと反抗をなお一層激しくさせた。農民軍が北京入城後間もなく、官僚地主は、ある者は「雇用労働者になったり、僧侶や道士の姿にあることに承諾」し、次々城外に逃亡した。ある者は積極的に兵器を集めて、秘密裏に大順政権を転覆させる暴動を引き起こすことを画策した。宣武門大街に「明当に中興すべし」の張り紙が出現した。西長安街には「東宮を立てて帝と為し、義興と改元すべし」との私的な告示が現れた。北京付近の地区の封建地主は更に勝手気ままに暴れ狂い、至るところで反革命武装を組織し、農民軍の占領する県城を襲撃し、また人を激怒させる残酷な手段を使って、彼らの手の中に落ちた農民軍の官兵を野蛮に殺害した。

 なおいっそう危険なことには、清軍が正に速度を倍にして関内に向け前進しており、大順政権の安全に深刻な脅威を与えていた。

 山海関を鎮守する明の総兵、呉三桂は、10数万の関寧鉄騎(明朝の辺境を守る騎馬軍団のひとつで、関は山海関、寧は寧遠(遼寧省南部、今の興城市))を掌握し、同時にまた清軍が入関するのに通らなければならない要道を守っていた。彼の向背(従うのか背くのか)が、大順政権の安否に関係する重大問題となっていた。李自成は曾て様々な方法を用いて呉三桂を味方に引き入れていた。呉三桂はずっとぐらつきながら、自分を高値で売ろうとした。商談は半月以上続いたが、依然少しも結果が出なかった。412日、李自成は自ら20万の大軍を率いて東征し、呉三桂問題を解決しようとした。この時、呉三桂は逃亡した官僚地主のところから農民軍の北京での情況を理解し、農民軍に対する恐れと憎しみを深めた。彼は自分の武力だけでは、根本的に農民軍と対抗することができないと知り、清軍と結託し、共同で農民軍を鎮圧する決心をした。搾取階級の本質は、彼をむしろ満州貴族の手先となる方が良く、また農民革命政権が引き続き存在することは容認できないと判断させた。呉三桂はそれで一方では檄文を発し、地主階級が共同で農民軍に向け反撃するよう呼びかけた。一方では清軍に投降し、清軍が迅速に入関するよう促した。満州貴族は過去に李自成が率いる農民軍に書簡を送り、彼らと連合し、共同で明朝の天下を奪い取ろうと要求したが、李自成が北京を攻略した後は、彼らは作戦を変え、呉三桂と結託し、大順政権の転覆を図った。

農民軍と呉三桂、清軍の山海関での戦い

 呉三桂と清軍の結託は、農民軍にとってたいへん不利な形勢をもたらした。呉三桂の関寧鉄騎は、兵は精悍で武器は鋭利(兵精械利)であった。清軍は更に戦闘力がたいへん強い軍隊で、且つ呉三桂と清が連合して武器の数の上でも農民軍の二倍を越えた。同時に、階級の力のバランスも、大きな変化を起こした。呉三桂と清軍の連合武装は大官僚大地主の擁護と支持を得ただけでなく、元々大官僚、大地主と矛盾があったため、農民軍に対して中立或いは同情的態度を取っていた中小地主が、今や断固として明朝の大官僚大地主と満州貴族の方へ移り始めた。農民軍の敵は増加し、革命の力は相対的に弱められ孤立した。

 423日、農民軍と呉三桂の軍隊は山海関外の一片石で激戦が発生した。戦いが正午になった時、牙を研いで待って(蓄锐以待)いた清軍が、突然農民軍に猛攻を仕掛けて来た。農民軍は虚を突かれて防ぐ暇がなく(猝不及防)、損失はきわめて大きかった。

 427李自成は北京を退却した。429日武英殿で帝位に就き、徹底抗清の決意を表し、民族自衛の大旗を高く掲げた。30日、李自成は北京を放棄し、関中へ撤退し、陝西を根拠地にして、引き続き抗清を行う準備をした。北京を離れるに際し、李自成は北京の人々に対する情愛に溢れ、彼らにこう言い聞かせた。「呉三桂が来たら、街中が皆殺しにされるから、おまえたちは急いで逃げろ。」そう言って城門を大きく開き、人々を脱出させた。

 以後、農民軍は英雄の気概を持ち、また不撓不屈の精神で以て、満漢の地主階級連合の武装勢力と数えきれない回数の苦しい戦いを行ったが、遂には、敵が強大であるため、最後には彼らの蜂起は失敗に帰した。

 李自成率いる農民軍が北京にいた時間は短いが、北京の歴史上輝かしい1ページを残した。


北京史(三十一) 第六章 明代の北京(9)

2023年08月09日 | 中国史

大順政権による「追贜索餉」

第四節 北京での大順政権(続き)

大順政権の政治措置

 時代条件や階級意識の制約のため、農民軍は封建制度を廃除し、新たな社会制度を打ち建てるよう努めることは無かったし、不可能であった。しかし、既存の社会を深く恨み、すばらしい生活を渇望していた農民軍は、北京にいた期間にも彼らの経験、智慧や才能を活かし、明朝の政治経済制度に対し、一連の改革を行い、何とか彼らの理想の社会秩序を実現すべく努力した。

 政治経済改革の実施の責任者は、李自成、劉宗敏、李過、田見秀など二十人余りから成る指導部であった。これら農民軍の指導者は、互いに兄弟と呼び合い、「一緒に座って飯を食い」、「何事も衆議を集めて計画し」、終始共同で議論する民主的なやり方を保った。

 早くも1640年(崇禎13年)、李自成が湖北省襄陽にいた時、中央政府の組織の建設に着手した。1644年(崇禎17年)正月、李自成は陝西省で正式に政権を打ち建て、西安を西京とし、国号を大順とし、元号を永昌とした。北京を攻略して後、大順政権の政治制度は更に完全なものとなり、中央に内閣と六政府などの機構を設立し、同時にまた明朝が設置したいくつかの無用な機関を廃止、併合し、人数が万に及ぶ宦官を宮廷から駆逐した。

 この時、大順政権が統治した地域は直隷(今の河北省)、山東、山西、河南、陝西の五省及び湖北、安徽、江蘇、甘粛、青海の大部分或いは一部であった。大順政権が統治した地域には、軍が駐屯、防衛し、官吏を派遣し統治した。地方の官職には、節度使、府尹、州牧、県令があった。

大順政権支配地域

 中央政治機構の改組、拡大と地方政権の増加に伴い、大順政権は大量の官吏の必要に迫られ、農民軍の将校と山西、陝西一帯から軍に随行してきた貧しい士大夫に頼るだけでは、この需要をはるかに満足させることができなかった。李自成が北京に入って間もなく、次のように命令した。「およそ文武官員は皆21日に朝廷で謁見を受け、故郷に帰ることを願い出た者は各自の都合に任せ、従属を願い出た者は才能を評価して登用する。もし抵抗して出て来ず、罪に死刑が加わり、それをかくまった家も、併せて連座させる。」

 明朝官僚は元々皆「衣冠のせいで罪過を招くのを恐れ、悉くその進賢冠(皇帝に朝見する時の礼帽)を壊した」。この時、李自成の命令に接し、自分たちが昇格し金儲けができる好機が来たものと誤解した。そして、「しばしにこにこしながら、梨園の中から冠を捜して被り」、有頂天になって昇格の夢がかなうと思った。21日の朝、3千人余りの明朝の官僚が承天門前に集まり、争って官職希望の名簿に応募した。

 大順政権はこれらの官僚に対して厳格に審査(甄别)した。三品以上の大官は、原則的に登用せず、四品以下の官吏も、犯罪、汚職、悪辣な行為をしていない者だけが、ようやく「才能を評価して官職を授けた(量才授職)」。審査の結果、92名だけ採用したが、「大部分が新たに科挙に合格した者が多くを占めた」。

 大順政権はまた試験を通じて一部の官吏を採用した。科挙制度の弊害に鑑み、まだ西安にいる時、農民軍は八股文の廃止を明確に命令し、「政策論を以て士を取る」方法に改めた。北京では、依然として 政策論を以て士を取り、試験の題目には、「天下は仁に帰す」、「大雨数千里」、「もし大旱魃で雨雲を望む」などがあった。採用の基準は、受験者が実学の才能を備えているかどうかを見るだけでなく、彼らの農民軍に対する態度も見た。採用の基準はかなり厳しかった。当時は「受験を希望する儒者が、市を埋め尽くした」が、最後に挙人50名だけが採用された。採用者は皆才能を評価して官職を授けた。歴史史料の記載によれば、「新たに兵部に選ばれ従事する有り、朝の中から出づ。「賊兵」は坐して問うて云う。「汝何の職を選ぶや」すなわち実を以て告ぐ。乃ち其の背を拍いて説く。「また好し、また好し。但し前朝の如く銭を要すべからず、我主に法を立つるを厳しくし、官を貪り吏を汚すは、便ち梟首(きょうしゅ。さらし首)を要す」。「偽官」は恭順して去る。」これは大順政権が自分の官吏に対する要求で、幅広い農民の官吏に対する希望でもあった。

 農民軍はこれらの新たに採用された官吏に対して決して警戒を失っていなかった。大順政権の多くの最重要の職務が労働者出身の農民軍指導者の担当であった。北京にいた期間、鍛造工出身の劉宗敏が軍政の司法の大権を掌握し、文武の将校は皆彼の管轄を受けなければならかった。順天府では「刑名を管轄し、都察院堂の比餉に坐す」のは僮僕(童僕。召使の少年)出身の制将軍、魏某であった。後軍都督府の張家は元々鍋の繕い人であった。赴任してきた地方官は、家族を北京に「人質」に置かねばならなかった。大順政権は明確に彼らにこう宣告した。必ず着任後12年「うまく治められれば」、はじめて北京に戻って家族を連れ帰ることが許された。

 大順政権は賢明で能力ある人の選抜に力を入れ、それに加え「号令がおごそかで厳しく」、「立法が厳密」であるので、「土地を守る官吏を派遣するところ、敢えて民を暴する無し」、政治は清明、民心は安定した。とりわけこうした官吏が各府県に着任後、農民軍の階級路線を遵守することができ、横暴な地主を鎮圧し、「体罰を加え(拷掠)(農民軍の)軍糧を援助し(助餉)」、貧しい農民を救済したので、大順政権は幅広い人民群衆の歓迎を受けた。李自成は北京で劉宗敏、李過が主管する「比餉鎮撫司」を設立し、専ら明朝の勲戚、顕宦(高官)、豪商から隠匿した贓品(ぞうひん。窃盗など財産に対する罪に当る行為によって得た財物)を取り立て(追贜)、軍糧を請求(索餉)した。324日、農民軍は一部の明の勲戚、廠衛(明朝の東廠、西廠、錦衣衛の総称)の武将を処刑した。続いて、「比餉鎮撫司」が北京で大規模な「追贜索餉」を展開した。農民軍は「卿相(大臣)の所有財産は、盗んだものでなければ搾取したもので、皆贓品である」、「衣冠が蓄えるものは皆贓品のみ」とし、このため「追贜」の対象は貪官汚吏汚職をし法律を捻じ曲げる役人)だけに限定するのでなく、明朝の全ての大小の官僚、「各店舗、絹織物商などの業界全ての郷紳、富豪が含められた。明朝の官吏に対し、三つのクラスに分けて処分が行われた。一、罪悪が顕著な者は、家財没収、死刑。二、貪官汚吏は刑を厳格にし、隠匿した贓品を取り立てる。三、「清廉潔白」な者は、寄付(捐輸)をさせ、刑罰で責め立てることはしない。寄付の金額は、官位の高低や家財の多寡で決められ、だいたい、内閣は10万、部院京堂錦衣帥は7万、科道吏部郎は5万、3万、翰林は1万。部下は千で数え、戚勲は金額を定めなかった。一般の郷紳、金持ちの家、及び大商人は、「その資産の十分の三を税として徴収」した。

 追贜の過程で大順政権はまた前後して大量の、罪悪の甚だしい、累々たる血なまぐさい犯罪を犯した悪辣なボス、廠衛の名の知れた者、要職にある狡猾な小役人や権臣、勲戚をを死刑に処し、その中には一貫して貪婪(どんらん)で狂暴、「平民を鞭打ち財産を掠奪」した陽武侯薛濂 。専ら「借金を貧民たちに負わせ、利息を取り、寝室には貯めた銭が常に満ちて」いた嘉定伯周奎。「家の資産は数百万、経営している質屋は数十ヶ所、女中や妾は数知れず」の徽商汪簑が含まれていた。北京の市民はこれらの悪党どもが処刑された知らせを聞き、気持ちが晴れ晴れとし、意気が上がり、手をたたき称賛しない者はいなかった。

 農民軍の追贜索餉政策は人々の利益を代表したので、北京の幅広い人々の熱烈な擁護と支持を得ることができた。追贜の過程で、各官庁の小役人や召使、貧しい市民は、自然と農民軍に、役人や金持ちに関する汚職やゆすり、家財の多寡の情報を提供した。彼らは積極的に農民軍に協力し、逃亡したり隠れている役人や金持ちを追跡して逮捕し、彼らが隠していた金銀や財宝を探し当てた。幅広い人々の積極的な協力により、不正や汚職にまみれた官吏で逃亡、脱走できた者はたいへん少なかった。追贜の結果、7千万両を獲得し、そのうち勲戚のものが十分の三、宦官のものが十分の三、百官のものが十分の二、大商人のものが十分の二を占めた。

 追贜、助餉の過程で、大順政権の法律の執行は厳しく公正であった。不正や汚職にまみれた明の東閣大学士魏藻徳を尋問した時、魏藻徳は恥知らずにも彼を尋問した旗鼓の王某に言った。「どうか将軍、私を救ってください。私の娘は十七で美しいので、将軍にお仕えしたいと願っています。」王旗鼓は「蔑んで之を蹴り」、正しい道理を踏まえ、言葉厳しく魏藻徳の買収を拒絶し、法に依り彼を死刑に処した。

 農民軍は追贜政策を実行すると同時に、封建的な賦役の免除を行い、貧しい労働者階級の人々を救済する政策を実行した。


北京史(三十) 第六章 明代の北京(8)

2023年08月06日 | 中国史

李自成軍北京入城

第四節 北京での大順政権

李自成の農民軍が北京に進軍

 明朝末年、地主階級は気が狂ったように土地を併呑し、農民に対し極端に残酷な搾取と掠奪を行い、幅広い農民が着るもの食べるものの当てもなく、貧困絶望の深淵に陥り、次々と破産し逃亡し、階級間の矛盾が既に極めて激しくなり、農民戦争は一触即発の状態であった。

 1627年(天啓7年)、陝北澄城県の飢えた人々が、県城になだれ込み、知県を殺し、明末の農民大蜂起が幕を開けた。これより、農民蜂起が野火のように中国全土各地で瞬く間に燃え上がった。

明末農民蜂起

 蜂起の勢いが明朝の統治者を震撼させ、統治階級は慌てふためいた。農民軍は厳しく鎮圧すべきと主張する者がいた。「宣撫(招撫)」政策を採り、農民軍を分裂、瓦解させるべきと主張する者もいた。その他少数の人は土地問題の重大性を見て取り、「限田」、「均田」の方法を提起し、これにより階級矛盾を緩和し、ぐらぐらして今にも倒れそうな明政権を救わんと企てた。崇禎帝を首とする保守派は如何なる改革を行うことも拒絶し、武力で蜂起を消滅させようとした。

 1640年(崇禎13年)、ちょうど明の統治者が北京で「限田」問題について言い争いが絶えない頃、李自成が指導する農民軍が既に河南で甲高く「均田免賦(農地を均等に分け、一定期間税も免除する)」のスローガンを呼びかけ、農民に新たな希望をもたらした。農民は熱烈に支持し、蜂起軍を擁護し、先を争い(踊躍)蜂起軍に加した。

 わずか二三年のうちに、李自成の農民軍は河南、湖北、陝西等を占領した。1644年(崇禎17年)正月、李自成西安大順政権を打ち建てた。同年2月、農民軍は陝西から長躯北京を叩き、途中幅広い人々の歓迎を受け、「国を挙げて次々、尽く時雨の大雨のよう」(顧炎武『明季実録』)であった。

 この時、北京城内の勲戚、官僚は、既に自分たちの終わりが間もなくやって来るのが分かっていた。何人かの人は一日中酒に酔って夢を見ているかのようにぼんやりし(酔生夢死)、「ただ今日のことだけ考え、明日のことは考えなかった」。何人かの人は急いで金銀や金目のもの(細軟)を整理し、如何に逃げるか考えた。北京の住民たちは公然とこう言いふらした。農民軍が「やって来たら、門を開けて入ってきてもらう」と。少しも飾らず彼らは農民軍に期待した。当時、北京城では農民軍のことをこう噂した。「人を殺さず、財を愛さず、姦淫せず、掠奪せず。安く買い安く売り、銭や糧食での賦役を免除(蠲免)し、且つ富家の銀銭を貧民に分け与えて救済する。」「すこぶる学問を重んじ、秀才を迎えると、先ず銀貨を与え、続いて照合し、一等は府を、二等は県を担当させた。」このため、幅広い都市住民が「大門を大きく開いて闖王、李自成を迎える」準備をしたので、幾分失意の士大夫までも、宮殿の壁に「ここには人を留めず、自ずと人を留める所有り」という張り紙を出した。

 統治者はこの期に及んでも、断末魔のあがき(垂死挣扎)をしなければならなかった。明朝朝廷は三大営の軍隊に命じて城外に駐屯し防衛させ、全ての城門と城内の各街路と路地に守備軍を配備し、大砲を据え付けた。崇禎帝は逃亡しなかった勲戚、官僚たちに金銭、物資面の支援をした。

 しかし農民軍の侵攻はたいへん迅速で、明朝廷の作戦部署がまだ準備ができていないうちに、彼らは既に柳溝(今の延慶県東南)から明陵を攻略し、突然北京城下に出現した。316日、農民軍は北京城を包囲した。

 

農民軍は北京城を攻め落とした

 

 李自成は城攻めの前に、投降を勧める文書を矢文にして城内に入れたが、崇禎帝は投降を拒絶し、大衆をあくまで敵と見做した。

 317日、戦闘が開始した。北京城外の三大営はちょっと攻撃すればすぐ潰れてしまい(一触即潰)、輜重(軍隊に付属する糧食、被服、武器、弾薬などの軍需品の総称)、大砲は尽く農民軍が分捕った(繳獲)。

 318日、農民軍は大風やにわか雨(驟雨)を冒して、彰儀、西直、平則、徳勝などの城門を猛攻し、戦闘はたいへん激しかった。農民軍は皆黄色の甲冑を身に着け、四方から望むと黄色い雲が野を覆いつくすようだった。北京郊外の住民たちは矢や石が雨のように降り注ぐ中、争って大きな石を背負い、溝を埋め堀を塞ぎ、農民軍の城攻めを援けた。

 城を守る士卒は皇帝のために命がけで働くを良しとせず、監督者が「一人を鞭打ち起たせると、一人がまた横になった」。軍士の中には城の上から農民軍に向け手を振って意図を示す者がおり、農民軍が行ってしまうのを待ってから、空砲を放った。

 18日の夕刻、彰儀門が攻め落とされた。農民軍は外城を占領して後、直ちに内城の各門に対し更に猛烈な攻撃をかけた。その勢いは暴風雨に遭ったかのようで、その情勢がますます明らかになった。

 崇禎帝は大勢が既に決したと思い、無理やり周皇后を自殺させ、妃嬪公主数人を手打ちにし、数百人の宦官が同行する中、夜半に城を脱出しようとした。しかし北京城は既に農民軍にブリキの桶のように取り囲まれていた。こうした強情で独りよがりで、頑固で考えを変えない皇帝は、人々の正義の制裁を受けるのを怖れ、密かに万歳山(すなわち現在の景山)に逃れ、寿皇亭の前の槐(エンジュ)の樹の下で首を吊って亡くなった。

 これと同時に、農民軍の猛将(驍将劉宗敏李過は、自ら率先して北京城に登った。城を守る兵士たちは鎧兜を捨て、狼狽して逃亡した。徳勝、斉化、平則、宣武、正陽の諸門は速やかに攻略を受け開放され、農民軍は勝利の雄叫びを上げ、潮流のように城内になだれ込んだ。

 19日早朝、北京城内の家々は皆、家の門の上に「永昌元年順天王万々歳」、「新皇帝万々歳」などの字句を貼りだした。住民たちは色絹で飾ったランタンを吊るし、テーブルを設けてお香を焚き、大通りの両側と胡同の入口に一斉に立って、蜂起軍を迎える準備をした。お昼に、農民軍の大部隊が城内に入った。その中で黒いぶちの馬に乗り、フェルトの笠、縹(はなだ)色(うすい藍色)の衣服を着た人が、農民軍の指導者、李自成であった。

 北京城は農民軍に占領され、270年余り続いた明王朝は打ち倒された。元々ずっと社会の底層で侮辱され圧迫され尽くした農民が、初めて北京の政治の舞台に登ったのだった。北京の歴史は新たな一ページを開いた。

李自成軍の北京攻略

李自成の農民軍の軍紀

 

 李自成が指導する農民軍は、北京でトータル43日駐留したが、北京の人々の心にすり減らすことのできない印象を残した。

 農民軍の紀律の厳正さは、封建歴史学者までも承認せざるを得なかった。『明史』は李自成の軍令をこう記載している。「白金を蔵するを得ず、城邑を過ぐるに室処を得ず、妻子の外に他の婦人を携えるを得ず、寝興は悉く単布の幕綿を用うべし……馬の田苗に騰󠄁入するは之を斬る」。農民軍は城に入る度に、指導者たちは必ず何度も命令し戒め(三令五申)、厳格に自分の部下を束縛した。農民軍が北京城に入ると、李自成は矢を抜いて矢じりを取り去り、後ろに向け続けて三本矢を放ち、こう宣言した。「軍人は入城し、敢えて一人傷つければ殺して赦さず」。入城後、李自成は直ちに各衙門の吏書(秘書)班の下級役人を引見し、彼らに民間に告示させ、通常通り運営させた。同時に、軍政府も掲示を出して民心を安定させた。「大師の城に臨み、秋毫も犯さず、敢えてほしいままに民を掠えば、凌遅(死刑の一種。人体をばらばらに切る)し死に処す」。李自成の軍隊は大部分が城外と城壁の上に駐屯し、入城した官兵は勲戚や官職にある人の屋敷や金持ちの住宅を分散して占有し、一般の市民は少しも侵し騒がすことはなかった。極めて少数、財貨が蝕まれるのが堪えられず、そのため法に背き紀律を乱す者は、軍法による厳しい制裁を受けた。このため、市民たちは皆「以前のように安堵」し、且つ「安心して店や市を開き、普段と変わらずにこにことして」暮らした。農民軍が北京にいた期間、基本的に質素でよく艱難辛苦に耐える優れた伝統を保持した。彼らは毎日、携行していた「黒く砕かれ干された」干飯だけを用い、水で飲み込み、たいへん苦しい生活を送った。北京の住民は、彼らに多くの食物を贈ったが、彼らは一一丁寧に辞退した。

 農民軍と北京の住民の関係はたいへん打ち解け、多くの住民が自分の娘を農民軍の官兵に嫁がせ、農民軍と縁組みできることを栄誉とした。農民軍が北京を撤退する時、これらの婦女の多くが農民軍と一緒に関中に戻った。

 農民軍の将校は北京に入った後も、依然として方巾(文人、処士が被る帽子)布衣(質素な服)で、紗帽(文官が被った帽子)を被らず、官袍を身に着けず、そのまま4月以降になっても、冠を帯びた者は十中一二に過ぎなかった。その中で比較的突出していたのが、例えば、農民軍将校の劉宗敏は北京滞在の期間、終始或いは方巾を身に着け、或いは白絨帽を被り、出入りする時、四五騎の先導しかなく、「無冠で儀仗衛士や随従を帯びず」、生活はたいへんつましかった。彼が対処する仕事は特にまじめで積極的で、事の大小を問わず、自ら関与した。毎日早朝、彼は馬に騎乗し西華門を入って議事を行い、深夜になってようやく帰宅した。

 李自成は幼い時から貧農の家庭に育ち、この世の辛酸と苦痛を嘗め尽くした。彼は色を好まず、飲酒せず、財貨を貪らず、終始「皮を除いただけの精米していない米で、配下と苦楽を共に」した。北京にいた期間、彼は古い毯帽を被り、青い箭衣(矢を射るため袖を窄め、体に密着した上着)を身に着け、最後に北京城を退出する時には、「一枚多く黄色い覆い」を身に着けただけであった。精力を忙しい仕事に集中させるため、彼は遅遅として皇帝の位に就くのに同意しなかった。毎朝早朝、彼は「米の飯を少し啜る」と、宮殿を出て仕事をし、夜が深まり人々が寝静まった(夜闌人静 )時分になっても、彼はまだ他の農民軍の将校と国家の重大事を議論した。更に良く時分を鞭撻するため、彼は明朝の乾清宮の扁額に書かれた「敬天法祖」を「敬天愛民」に改めた。彼はまた自ら一般の群衆に接見した。46日、9日の両日、彼は文華殿で二度にわたり北京城内外の各村の老人に会い、「民間の苦しみ」や農民軍が「民衆をかき乱していないかどうか」といった状況を尋ね、更に彼らにこう告げた。彼が挙兵した目的は「人々を深い災難から救い出す(救民水火)」ためであると。

 

 


北京史(二十九) 第六章 明代の北京(7)

2023年08月03日 | 中国史

明朝第14万暦帝、在位15721620

 

第三節 北京の政治(続き)

北京の人々の鉱監、税監に対する反対闘争

 1596年(万暦24年)、明朝の統治階級内部で腐敗の最も甚だしかった大地主グループは、工商業に対する掠奪を強化するため、大量の宦官を派遣し、鉱山開発を名目にほしいままに金銀を掠奪することを開始し、その後更に全国各地で商業税を徴収した。

 宦官の鉱山開発と商業税徴収は北京より始まり、その後全国各地で行われた。鉱監、税監は天下に遍き、極めて大きな混乱や損害をもたらした。商業税徴収は辺鄙な片田舎まで深く入り込み、米、塩、鶏、豚までも納税させた。一般の土豪劣紳(地方のボスども)は更にこの機に乗じて宦官に賄賂を納め、朝廷の符札を取得し、勢いに乗じて商人や人々を痛めつけ、ほしいままに彼らの資財をかすめ取った。鉱山開発も同様に一種のゆすりたかり(敲詐勒索)の手段であった。宦官と土豪劣紳が結託し、任意に他人の田地や住宅の下に鉱脈があるのを指して、彼らに重い賄賂を請求し、少しでも思い通りに(遂心)ならないと、兵を率いて逮捕し、ひどい時は「人の手足を斬り」、「婦女を辱め」た。

 反鉱監、税監の闘争は、湖広(湖北、湖南、広東)より始まり、以降臨清、蘇州、景徳鎮などの地で次々と同様の闘争が発生した。北京順天府及び付近の蔚州、香河、広昌及び門頭溝などの地で反税監の闘争が展開された。

 1600年(万暦28年)、宦官の王虎が 香河県で漁船、葦場、鉱山への税金を徴収し、手下(爪牙)を派遣し人々をゆすった。「生員(せいいん。科挙の最初の試験に合格し、府県の学校で勉強できる書生)士民(士大夫階級)」約1千人が、手にこん棒やレンガ、石を持ち、王虎に向けてデモ行進を行った。指摘しておかなければならないのは、ここで言う「生員士民」とは地主階級の知識分子であり、彼らの闘争は主に地主階級内部の闘争であった。しかしこの時のデモには労働者の人々も参加した。というのは、大地主のグループの苛斂誅求(かれんちゅうきゅう。重税を搾り取ること。)に反対することは、人々にとって有利であったからである。

 この時、宦官の王朝も京西の房山、門頭溝一帯で鉱山税を徴収していた。彼はいつも京営の精鋭(選鋒)を率いてここで「劫掠(掠奪し)立威(威信を示した)」。当時、門頭溝にはたいへん多くの石炭採掘の炭鉱夫と石炭運搬の人夫がいた。彼らは炭鉱経営者の残酷な搾取を受け、生活はたいへん困窮していた。中には炭鉱経営者に騙されて坑道に入れられ、一生出て来れない者がいた。また炭鉱経営者と契約し、日割りで給料を取得したが、給料がたいへん低く、まったく家族を養うことができなかった。宦官の王朝がここで税を徴収することは、炭鉱経営者にとっても不利で、炭鉱経営者は自分が搾取して得たものの一部を朝廷に渡したくはなかった。王朝は毎年炭鉱経営者から銀5千両を受け取り、炭鉱経営者は税徴収の減免を要求し、代表として王大京を北京に派遣し交渉させ、王大京は錦衣衛に逮捕された。

 王朝はここで「劫掠立威」(掠奪し威張り散らす)したので更に広大な炭鉱労働者を激怒させた。1603年(万暦31年)3月、炭鉱労働者と石炭運搬夫を組織し、更に炭鉱経営者も加わった隊伍が北京へ向け出発した。これら「黧面(薄汚れた顔で)短衣(すその短い上着を着た(平民))之人」は北京城内で「填街塞路(街路を埋め尽くし)」、明朝の統治者に向け大いに示威行為を展開し、宦官の王朝の交替と鉱山税の減免を要求した。

 この北京の歴史上初めての大規模な炭鉱労働者の鉱監税使に反対する闘争は、明朝政府を大いに震撼させた。一部の官僚は次々と上書し王朝の交替を求め、ある者は言った。「今は朝廷内部(萧墙)の災難が方々で起こり、石炭産地、石炭運搬夫、石炭の利用者は、命に関り、畿甸(北京地区)を震撼させた。」またある者はこう言った。「ひとたびむしろ旗を掲げて立ち上がれば(揭竿而起)、天子のおひざ元では(輦轂之下)、皆災い(胡越)となった。」このことは統治階級の群衆の力に対する恐怖を十分に説明していた。鉱山労働者たちの大きな圧力の下、統治者は遂に宦官の王朝を交替させざるを得なかった。

 

閹党が北京で暴れ狂った

 天啓年間(1621‐1627年)、明王朝は既に絶体絶命の状態に陥り(窮途末路)、しかも腐敗がはびこっていた。このことは瀕死(垂死)でもがき苦しんで(挣扎)いる大地主グループがより一層狂ったように人々を痛めつけ、統治階級内部の党争は一層激化していた。

 宦官の魏忠賢は明朝廷の権勢のトップになった。魏忠賢は司礼(尚書省礼部)秉筆 (執筆)太監、また提督東廠で、全国軍政の大権は彼の手中に握られていた。彼の周囲で追随する官吏は彼を「九千歳」と呼び、喜んで彼の義子、干孫(義理の孫)になりたがった。天啓5年、何人かの恥知らずの官僚たちが次々と彼のために生祠(生前に建てた祠(ほこら))を建てた。一時は「都城数十里の間、祠宇(祠堂)が相望んだ」。(『明史』巻306『閻鳴泰伝』、文秉『先撥志始』下)魏忠賢はまた香山碧雲寺に自分の墳墓を前もって作った。その豪奢で金に糸目をつけぬことは皇帝の陵墓にも劣らない。彼の密偵(暗探)は北京城内至るところにいて、人々が街頭や横丁で一言悪口を言おうものなら、錦衣衛に捕えられて殺された。

魏忠賢

 当時、斉、楚、崑、宜、浙の各党は魏忠賢に追随し、「閹党」(宦官に追随する官僚の一党)を形成し、且つ断固東林党と敵対していた。明代の統治階級内部の党争はここに至り既に最高潮に達した。

 閹党は彼らの反対派を一律に東林党と呼び、且つそれらをまとめて309人の名簿を作成し、この名簿に基づき全国各地に行って関係者を捕えた。東林党の楊漣、左光斗、黄尊素、周順昌らは閹党により捕えられ北京に送られ、錦衣衛の監獄に拘禁され、非人道的な刑罰により虐待され惨殺された。しかし彼らはずっと閹党との闘争を堅持し、少しも死を恐れなかった(視死如帰。死ぬことを我が家に帰るように恐れない)

 

白蓮教の大蜂起

 明朝末期、統治階級は皆農村の人々への搾取と鎮圧を強化した。とりわけ北京に住む勲戚、宦官、大官僚たちは狂ったように近郊で田地を侵略し、農民を搾取し、彼らは社会生産の発展を著しく阻害する最も反動的な勢力となっていた。そして一般の農民は地租、高利貸、商業資本の残酷な搾取の下、生活は極端に困窮し、より多くの人々が自分の土地から離れて行った。

 この時、ひとたび北京城の郊外に出ると、農民の反抗武装が見られた。農民の武装勢力は長期間、北京南城外の海子などの地に集中していた。1596年(万暦24年)、宦官が方々に税徴収に出向いた際、1千人余りの人々が京南の農民、左文俊の指導の下、討伐に来た「官軍」に対し蜂起、反抗した。1623年(天啓3年)京営操軍は前後して北京、通州の両地で軍事クーデター(兵変)を発動した。これは当時の京営の将校の下士官に対する残酷な搾取により引き起こされたものだった。統治者は軍事クーデターの指導者、成鋒、柴登、李成、姜才らを逮捕し、彼らを殺害した。その他の兵士は南海子に逃げ込み、ここの流民と合流した。ここに至り、京南の農民軍の勢力は更に強大となり、ひとたび機会があると、統治者にひどい打撃をを与えた。

 北京地区の農民が白蓮教を利用進めた反抗活動は既に長い歴史があった。白蓮教は農民戦争の中でしばしばたいへん大きな宣伝効果と組織効果があった。農民たちは平時はこれを利用して緊密に連携し、白蓮教の経書の中の神秘な予言により、より一層農民の戦闘への自信を強めた。万暦初年、順天府で蘇州の皮革工、王森白蓮教を提唱した。搾取を受け尽くした農民たちは正に組織する必要があり、それで次々白蓮教に加入した。白蓮教徒は河北、山東、河南、陝西、四川等の地にあまねく分布していた。農民たちは竹の籤で暗号を伝えて連絡をし、同時に更に各地に教主、大伝頭、小伝頭の名称を設けた。この時、白蓮教の経書は既に三四十部まで広められ、通用する教派は十六七種にまで増加した。(当時北方で広まった白蓮教の支派は紅封、無為、紅陽、浄空、黄天、龍天、南無、南陽、悟明、金山、頓悟、金禅、還源、大乗などの教派である。)

 1595年(万暦23年)王森は北京に来て秘密活動を指導し、白蓮教の勢いは大いに増した。その後、王森は逮捕され獄中で病死し、彼の弟子、徐鴻儒于弘志が教団を継承し、各地の教徒は2百万人を下らなかった。1615年(万暦43年)内閣大学士の上奏文によれば、北京では、「游食の僧や道士が千百と群を成し、名は煉魔と為し、行踪(行方)は詭秘(なぞめいて察知できず)、究詰(突き詰める)ことができない。」またこう言った。「白蓮、紅封などの教団は、それぞれ新奇な名義を立て、妖言で衆を惑わし、実に煩わしい輩である。」(『明神宗実録』巻580)このことは北京の統治者の極めて大きな恐慌を引き起こした。北京城内に流入する流民や僧侶のうち、多くが白蓮教徒で、こうした僧侶は元々各地の農村の出身で、彼らは蜂起を組織した人間であった。

 1622年(天啓2年)、徐鴻儒が指導する白蓮教の大蜂起が山東で勃発した。間もなく、京畿南部の人々もこれに呼応した。蜂起軍は江南から北京に到る食糧供給ルートを遮断し、山東、河北の多くの州県を攻略した。北京城の統治者は大いに震撼し、大急ぎで関外の満州族統治者を抵抗防御していた軍隊を呼び戻して鎮圧した。

 この時の蜂起は準備不足と彼ら自身の教派の争いにより、統治者に間もなく鎮圧されたが、この時の蜂起軍は明の統治者に容赦のない打撃を与え、中国全土の圧迫された農民、群衆を喚起し、明末の農民大蜂起爆発の前奏となった。

 

清統治者の北京地区での破壊と騒乱

北京の人々の反清闘争

 万暦年間以降、東北の建州部が日増しに強大となり、後金政権を建立し、明朝と長期間戦った。明朝統治階級の腐敗、無能、政治軍事の堕落により、前後して遼陽、瀋陽など72都市を失った。北京は既に厳しい脅威の下にあった。

後金政権の建立

 1629年(崇禎2年)10月、後金の指導者ホンタイジ(皇太極)が兵を率い龍井関(喜峰口の西にあった)から長城を壊して関内に侵入し、近畿の要衝、遵化を攻め落とし、三河県全域の住民を屠殺し、彼らは程なく順義、通州を経由し、116日に北京に迫った。明朝の薊遼督師、袁崇焕はホンタイジが回り道をして北京に迫ったことを知って後、直ちに9千の精鋭部隊(勁旅)を率いて、その日の夜(連夜)関外から北京に急行し、落ち着いて北京の周囲の防衛線を手配し、自ら兵を広渠門外に駐屯させた。崇禎帝は袁崇焕を各鎮の援兵に移動させ、状況に合わせて進むか止めるか判断し、後金兵に反抗した。

 1120日、明軍は双方の人数の多寡の差の大きい(衆寡懸殊)状況下、後金兵と広渠門外で戦い、敵兵1千人余りを殺し、後金兵は大敗した。袁崇焕は自ら軍を率いて自陣を監督し、彼は矢が当り「両脇がハリネズミのように(両肋如猬)」なっても依然軍を監督して懸命に戦った。(周文郁『辺事小記』(『玄覧堂叢書続集』))ホンタイジは兵を南海子に移すよう迫られ、北京城は危機から安全に転じた。ホンタイジは軍事上敗北して後、袁崇焕を骨の髄まで恨み、逆スパイの計(反間計)を使って彼を陥れた。彼は二人の南海子で捕虜にされた太監(宦官)を利用し、彼らに袁崇焕とホンタイジが密約を結んでいるとのデマを聞かせ、その後彼らを解放して帰らせた。デマは宮廷にもたらされ、愚昧な崇禎帝はそれを真に受け、12月初旬に袁崇焕を錦衣衛の監獄に投獄した。

袁崇焕

 ホンタイジの陰謀は目的を達し(得逞)、勢いがまた盛んになり、良郷で虐殺を行い、薊州で掠奪をし、転じて河北各州県で掠奪をし、崇禎35月になって、ようやく各地で軍民の打撃の下、関外に退いた。

 1630年(崇禎3年)8月、袁崇焕は明朝に体を切り刻まれ(凌遅)死に処せられた。袁崇焕は明末満州族の統治者に抵抗し反撃を加えた最も傑出した将校で、明朝の統治者が既に極端に腐敗し無能であった時期、袁崇焕が立ち上がり徹底的に抗戦することができ、関内の人々の生命財産を守り、彼の抗戦は人々の支援を獲得し、しかも幅広い人々の願望に適合した。(袁崇焕の墓は北京の広渠門外にあり、左安門龍潭東湖西岸に袁督師廟があり、解放後何れも人民政府が装いを一新(修飾一新)させた。)

 ホンタイジ1636年(崇禎9年)建国し、国号をとした。この時、清軍は既に山海関を押えていただけでなく、更に内蒙古を攻略していた。これより、明朝の「藩屛」は尽く失われ、清軍の侵攻は一層激烈になった。1636年、1638年、1642年と、清軍は三度京畿まで攻撃を加えた。彼らは毎回国境を入る度に都市を虐殺し、村に火を燃やし、大量の人口、家畜、、財物を奪い、北京郊外の人々の生産にひどく破壊を加えた。初めて清軍が京畿で破壊活動を行ってから、五年後に二回目の南下の時もまだ回復していなかった。二度目も、清軍はまた近畿の州県の「人や家畜18万」を奪って行った。