中国語学習者のブログ

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北京史(三十四) 第六章 明代の北京(12)

2023年09月05日 | 中国史

雑技

第五節 明代の北京の文化

民間の技芸と歌謡

 明代中葉以後、都市住民と商工業者の文化娯楽の需要を満足するため、北京の街頭の講談(説書)、弾詞(江蘇、浙江の語り物)、琵琶、雑技も空前の隆盛を迎えた。

 琵琶を弾くのは北京でたいへん盛んになり、多くの店舗の前には「琵琶教えます」という張り紙が貼られた。歌姫たちは皆、陳大声の小曲を愛唱し、「聞く者を生き生きした表情にさせる」ことができた。陳大声は明代江南の著名な散曲(元曲の一形式で、せりふが入らない)家で、名を陳鋒といい、彼は微に入り細に入り人々の生活を思いやることができた。彼の作品は人々を褒め称えた。それゆえ彼の散曲を、各地の人々は皆喜んで聞き、愛唱した。

 北京の講談も、琵琶の伴奏を多用した。講談の演者の多くは最も圧迫を受け、最も蹂躙された男女のめくらで、彼らは「古今の小説を語り、以て生活を探求する。北方に多く、京師は特に盛ん」(姜南『洗硯新録』)であった。

 更に茶店で演じられる相声(漫才)のものまねがあり、ひとりで福建人、江西人、浙江人、安徽人、北京人の五種の方言を操ることができ(『野獲編』巻24『技芸』)、民間の芸人の驚くべき才能を表している。

 また一種の雑技があり、それには扒竿(さお登り)、觔斗(とんぼ返り)、𠴼喇(倒喇。ひとりで色々な楽器を演奏しながら歌う)、筒子(3本の空の筒の中からハトなどを出す手品)、馬弹解数(馬の曲乗りと弓矢の曲打ち)、烟火水嬉(渓流の上での仕掛け花火)などの演目があった。「筒子」は一種のマジックで、三つの筒をテーブルの上に置き、たちまちハトが中から飛び出し、猿が中から躍り出てきた。解数(武術の動作やスタイル)には馬解と弾解があり、各々24種の手(手段。招数)があった。馬解は馬の上で様々な曲乗りをすることで、弾解は騎馬上から弓を射て百発百中させることだった。祭日になる度、芸人たちが、西直門外の高梁橋の傍らの「アンペラ小屋を掛け、周りを黒い布で覆い」、そこで観衆に芸を披露した。祭日の観衆は、平均で1万人以上に達し(『帝京景物略』巻5『高梁橋』)、そこから彼らがどんなに北京市民に歓迎されていたかが分かる。

 嘉靖(15221566年)、隆慶(15671572)年間と万暦初年(1573年)、北京には更に「八絶」があり、李近楼は琵琶絶と号し、蘇楽壺は投壺絶と号し、王国用は吹簫絶と号し、蒋鳴歧は三弦絶と号し、郭従敬は踢毬絶と号し、閻橘園は囲棋絶と号し、張京は象棋絶、劉雄は八角鼓絶であった。正にこうした残酷な階級社会の中で地位が極端に低く、しかも勲功のある皇族や官僚たちに中傷され、蹂躙され、もてあそばれた民間の芸人たちは、彼らの際立った芸術によって幅広い群衆の文化生活を豊かにし、北京の文化を豊かなものにした。

 最も戦闘的で国民的な歌曲は、直接人々の間から現れた民間歌謡や民謡であった。北京では、人々は極めて切れ味の良い言葉で、しばしば統治者に対して強く心に響く非難や風刺を行った。こうした簡素で、粗野な歌声は、何千何万という搾取を受けた人々の感情や意志を代表していた。

 成化年間(14651487年)、宦官の専制による収賄を、民謡はこう歌った。「韋英の家、梁芳の馬、尚銘の銀子は磚瓦に似たり。正徳年間(15061521年)、宦官の馬永成、張永、谷大用、魏彬らの専権を、民謡はこう歌った。「馬が倒れれば餌をやる必要はなく、鼓が破れれば張る必要はない。」北京の人々は、宦官が権力をほしいままにしたことに憤慨した。嘉靖年間、厳嵩の専制を、民謡はこう歌った。「笑う可し厳介渓、金銀を山の如く積み、刀鋸を手当たり次第施す。常将は冷たい眼で蟹を見、おまえはいつまでのさばるのか。」人々のこうした終日人々の頭上にまたがっている統治者を極端に嫌悪していた。崇禎年間(16281644年)、あらしのような農民の大蜂起が勃発し、北京の人々は腐敗した明王朝を極めて恨んでいた。民謡はこう歌う。「崇皇帝、温閣老」。またこう歌う。「崇禎皇帝は疫病に罹った。」(計六奇『明季北略』巻10『京師謡』。 温閣老 は温体仁を指す。)当時、圧迫を受けるばかりだった大衆は、ようやくこのように勇ましい歌声を唱えることができた

 

科学の発展

 明代の中葉の社会生産レベルの向上により、科学技術面でも突出した発展があった。この時、前後して李時珍、徐光啓、宋応星らのような傑出した科学者が出現した。彼らは人々が長期にわたり医学、農業、手工業の生産経験を総括し、世界的に有名な三部の科学文献を著した。すなわち『本草綱目』、『農政全書』、『天工開物』であり、中国文化史上、三本の目を奪うばかりにあでやかな花が開花した。1556年(嘉靖35年)、明朝廷は各地の医学人材を推薦するよう命令し、傑出した医学者、李時珍は湖広官吏の推薦を受け、北京に来た。しかし、御殿医たちは、彼を田舎の医者に過ぎないと見なし、しかるべく重視することが無かったので、一年もしないうちに、李時珍は北京を離れた。1596年(万暦24年)、李時珍の息子が明朝廷に上書し、朝廷が彼の父の著した『本草綱目』を出版し、より広範に流通させることを望んだが、この請願は如何なる結果も得ることができなかった。『本草綱目』は幅広い人々の間で次々と人々の手に渡り、筆写されることで、ようやく保存されてきた。

 1600年(万暦28年)、西洋の宣教師、マテオリッチらが北京にやって来た。この時、中国の天文、暦法、算術学者、徐光啓もちょうど北京にいた。徐光啓は統治階級内部で、開明的な人物であったので、彼はマテオリッチといっしょに西洋の幾何学、天文、暦法、算術、水利、測量関係の書籍を翻訳し、これにより、西洋の自然科学が中国国内で伝播を開始した。ここに到り、この古い都は西洋科学の影響を受け始めることとなった。

マテオリッチ墓

 

特別な手工芸品

 明朝統治者は大量の職人を徴用して、彼らのために北京の城壁や宮殿を建築させただけでなく、手工芸に長けた塑工、玉工、堆朱工、銅刻工などを民間の各地から徴用して北京に集め、皇室のために精巧な文物や珍しい愛玩品(珍玩)を制作させた。

 しかし明代中葉になって商品経済発展に伴い、民営の手工業がさらに発展してきて、元々皇室の人々だけが手に取り鑑賞していた文物、例えば堆朱(ついしゅ。雕漆)、宣徳炉、七宝(景泰蓝)なども、私営の工房での制作が開始された。

 永楽年間(14031424年)、北京皇宮内の果園廠制作の堆朱(ついしゅ)はたいへん有名であった。堆朱は金、銀、錫、木の四種の原料を土台とし、朱漆を厚く塗り重ねて模様を彫ったもの(剔紅)、漆器の表面に模様を陰刻してから、異なる色の漆で模様を埋めたもの(填漆)の二種類がある。「剔紅」は朱漆を36回上塗りし、彫りが細かくきらびやかで、土台の漆が黒光りし、「大明永楽年制」の文字が針刻されている。

果園廠制作の堆朱

「填漆」は漆器の上に各種の花鳥を彫刻し、磨いた後は絵のように滑らかになり、作品は多くが小さな容器で、容器の縁に五色の霊芝や截金(きりかね。細金(ほそがね)とも呼ばれ金箔・銀箔・プラチナ箔を数枚焼き合わせ細く直線状に切ったものを、筆と接着剤を用いて貼ることによって文様を表現する技法)の模様を刻みつけた。(『帝京景物略』巻4『城隍廟市』、高士奇『金鰲áo退食筆記』下)

 果園廠の漆工は大部分が雲南人で、雲南の堆朱芸術は当時既に全国的に有名で、これらの職人は皆統治者に無理やり徴用されて北京に集められ、以後彼らの子孫は統治者に長期間北京に拘留され、彼らの仕事の成果も完全に皇室に独占された。(『野獲編』巻26『玩具』)

 明朝中葉になって、元々皇室が独占していた文物や珍しい愛玩具が、間もなく街角の工房で制作されるようになり、堆朱の技術も大いに発展し、一個の「剔紅」の容器に朱漆を百回以上塗らなければならず、製品は以前より更に精緻になった。堆朱(雕漆)は別名を「北京漆」と言い、また北京の有名な特産品となった。

 宣徳年間(14261435年)のいわゆる「御制」である宣徳炉は専ら精緻で小さいことで勝ちを制し、一般に口径が三寸(約10センチ)に過ぎない。銅の地金は12回の鍛錬を経なければならず、炉色は栗色、茄子皮色、棠梨色、褐色、蔵経紙(虎皮宣。虎斑(とらふ)模様のある画仙紙)色の五種類であった。宣徳炉は銅工たちが優れた芸術的な技巧を凝らし、しかも銅の製錬技術の発展が無かったことが分かる。このような精巧な物は、また制作を成功させるのがたいへん難しかった。

宣徳炉

 明朝中葉以後、各地で真似て作られた宣徳炉は益々増え、しかも民間の模倣品の品質もたいへん良かった。

 「景泰蓝」は明代北京の最も著名な手工芸品で、「景泰御前作坊」で作られたものが最も精巧であった。 景泰蓝は明朝の時に勃興した手工芸で、明代の北京の人々の発明であり創造である。

  景泰蓝の分業はたいへん細かく分かれていて、土台制作(制胎)、模様の形に針金を曲げる(掐丝)、土台の表面に接着剤を塗る(粘面)、針金を貼り付け模様を作る(圈花)、針金の溶接(捍烧)、釉薬を充填する(填色)、焼成(焼造)、メッキ(错工)、磨き(磋磨)などの複雑な過程があった。景泰蓝は焼成されると、色彩がきらびやかで、まばゆいほどに美しく、しかも豊かな模様と各種の異なる様式の製品があった。

景泰蓝

 景泰蓝は当時既に国の内外で有名で、後に、市場でも互いに競い模倣し合い、技術レベルも日増しに向上した。そして今日に到るまで、景泰蓝は国の内外の人々の珍重する工芸品であった。

 

 明代、花火には「響砲」、「起火」、「三汲浪」、「花筒」、「花盆」といったものがあり、これ以外にも何百種類もの違った名前の模様があり、その中には「百の技巧を集めて一つの花火にした」ものもあった。(『宛署雑記』巻上『民風』)もちろん、こうした最も貴重なものは、当時でも勲功のある皇族や官僚の子弟だけが思う存分楽しむことができた。

 飾り灯籠の制作の技巧は更に精緻で、紗(しゃ)を張った灯籠( 紗灯)、宮灯、紙灯や、様々な形の灯籠、上に色々な色彩で山水、人物、花鳥を描いたものもあった。灯籠の中には、一基が銀百両するもの、更には一千両するものまであり、明朝の人々はこう言った。「灯籠は高価できらびやかで、細工は神様が行ったようで、浮世には未だ無かったかのようだ。」(『談往』(『説鈴本』))これからも当時の灯籠を作る職人の技術がたいへん精巧であったことが分かる。この他、3厘の銀で買える「梅花紙灯」があり、貧しい市民はこうした安価な紙灯しか買えなかった。

 一般市民に最も喜ばれた手工芸品には他に凧(たこ)、風車、ガラス製の「葫芦」(ひょうたん形の容器)、「金魚鉢」、「風鈴」、「響葫芦」(空中ゴマ。唐ゴマ)、「玻璃片」があった。早くも400年前、これらの玩具が北京の廟会(社寺の縁日)で出現した。

 以上挙げた漆器、景泰蓝(七宝)、飾り灯籠、花火、凧など精緻な手工芸品は、北京地区の民間芸術の精華であり、また今日北京の人々が最も好み、最も貴重な文化遺産であり、これらの文化遺産中の精華は既に人々によって完全に継承されてきて、しかもより高く、より完璧に、より健全に発展してきた。搾取制度の下から解放された手工芸の職人たちは、より際立ってすぐれた労働により、民間芸術上より光輝く花を開かせた。