※ 口絵は、凸碧堂中秋賞月図
今回は、中秋節の続きです。過年、元宵節もそうですが、娯楽の少なかった当時に於いて、これらの節句は夜通しはめをはずして騒げる数少ない機会であったことから、宴会が終わっても、すぐに寝てしまうのでなく、ゲームをしたり、詩を作って競い合ったり、という場面が描かれています。
■[1]
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・壁廂 bi4xiang1 このあたり。あのへん。
・煩心 fan2xin1 心を悩ます。心配する。
・古往今来 gu3wang3 jin1lai2 [成語]昔から今まで。古今を通じて。
・后半夜 hou4ban4ye4 夜の12時から夜明けまでの時間。
・鳴咽 wu1ye4 むせび泣く声。
・嫋嫋 niao3niao3(簡体字では“鳥”の下に“衣”)音声が長く響いて絶えないさま。
・聯詩 lian2shi1 日本の連歌のように、一人が五言や七言の句を発すると、次の人がそれに和して、韻を踏むなどの体裁を取って、それに続く五言或いは七言の対句を返すこと。
□ “撃鼓傳花”の遊びが終わっても、ご隠居様のお気持ちは猶尽きず、「こんなに佳い月なら、笛の音を聴かなくっちゃ」と言われた。しばらくすると、「あのキンモクセイの樹の下あたりから、むせびなくような、抑揚のある、笛の音が聞こえてきた。この、月が輝き風は澄渡り、空は晴れ地面には塵一つ無い時に乗じて、人々の心の悩みをしばし解き放たせ、全ての愁いは除かれ、皆ひっそりと畏まって座り、黙って月を見上げていた。茶を二杯喫するほどの時間、笛の音に聴き入っていたが、それが止まるや、皆は口々にそれを称賛し、止まることがなかった。」笛の音はたいへん美しかったが、もの寂しい美しさで、古今を通じて、あらゆる笛に関する描写、例えば、「山の南の笛の残響は聞くに堪えず」、「旧きを懐い空しく吟じ、笛の賦を聞く」など、ほとんど全てが悲惨で悲しい意味を帯びている。果たして、夜ふけになると、さわやかな風が月夜に吹きぬけ、あたりは灰色に染まり、「ただキンモクセイの蔭に、むせび泣くように、長く絶え間なく、再び笛の音が発せられ、その結果先ほどより一層もの寂しく感じられた。皆静まり返って座っていた。静かな月夜に、笛の音の物悲しさが加わり、ご隠居様のように年老いて酒に酔った人は、このような音を聞くと、心を動かされ、涙が落ちるのを止めることができなかった。人々はお互いにもの寂しい気持ちになるのを禁じ得ず、しばらくして、ご隠居様が泣かれているのを知ると、急いでご隠居様に向かって作り笑いをし、言葉をかけて取り繕った。更に暖かい酒を持ってくるように命じ、笛をやめさせた。」
このむせび泣くような笛の音の中で、二人の人物がこの場を離れた。それは林黛玉と史湘雲であった。二人は水辺の凹晶渓館に来ると、その風景に感動し、しばらくの間、それを詩に詠み、相手がそれに和して返すというやり取りをしていた。二人の詩才はその詩の中に余すところなく表現され、その中の一句、「寒き池に渡る鶴の影、冷たき月は花の魂を葬る」は尚更に静寂な美しさが絵の中に描き切られ、妙なる玉がそれを聞いても、悲しみに涙するとも、怪しむに足りないほどであった。
■[2]
・闌干 lan2gan1 “欄干”に同じ。五言詩や七言詩は、同じ字数の語句が並んでいるので、その形を欄干に見立てた。
・対仗 dui4zhang4 詩の修辞法の一つで、字音の平仄や字義の虚実を考えて対句を作ること。
・粘対 zhan1dui4 律詩の平仄の規律。平には平がくっつく(“粘”)、仄には仄がくっつく、という意味。
・四声八病 si4sheng1 ba1bing4 南朝斉の永明年間、周顒zhou1yong2が《四声切韻》で“平上去入”の四声を唱え、沈約が四声の区別と伝統的な詩賦の音韻知識を結合させ、五言詩を作る時に避けないといけない音律上の問題を規定し、後の人がこれを“八病”と称した。
・向晩 xiang4wan3 夕方
・闕如 que1ru2 欠如
・懺語 chen4yu3 不吉な予言
・脂硯斎 zhi1yan4zhai1 小説《紅楼夢》の初期の印刷出版の版元で、小説に注釈やコメントを加えた批評家。
・俟 si4 待つ
・江郎才尽 jiang1lang2 cai2jin4 [成語]江郎、才尽く。文筆の才能が衰えることの喩え。南朝の江龍は若いころ才で名を挙げながら、晩年は詩文に佳作が無かったことによる。
□ 林黛玉と史湘雲が“聯詩”のやりとりをする際、先ず韻を選ぶ遊び、“数闌干”(“欄干”を数える)をした。これはどういうことだろうか。実は、嘗ては詩を書く時の要求がたいへん厳格で、押韻、平仄、対仗、四声八病などに気をつけなければならなかった。当時の韻には順番がついていて、一東、二冬、三江、四支、五微、六魚などと続き、最後が十三元、十四寒であった。平声は更に上平声、下平声に分かれ、この他、上声、去声、入声にもそれぞれ韻の部分の順番があった。黛玉はこう提案した。「この“欄干”(詩の一句)の棒の部分を数えてみましょう。この頭のところからあの頭のところまでです。それが何本目かによって、それに合った順番の韻を用いることになります。」二人は13本の欄干(詩句)を数えたので、十三元の韻を踏む必要がある。けれどもここで問題があり、つなげられた詩の語句の韻脚は“門”、“昆”、“痕”などで、それと“元”にはどんな関係があるのか。実は、十三元の韻は、当時は “元”は、 “門”、 “昆”、“痕”と同じ韻部にあり、したがって韻を踏んでいることになるのだ。例えば:“向晩意不適,駆車登古原(夕方、気分がすぐれなかったので、車を駆って古原に上った);夕陽無限好,只是近黄昏(夕陽はとてもすばらしかったが、程なくたそがれて暗くなった)”がその一例である。
中秋の夜宴で賈宝玉、賈環、賈蘭は三首の詩を作った。この三首の詩は物語では、ただ賈政に渡して見てもらった云々とされているが、三首がどのような詩であったかは、物語では触れていない。《紅楼夢》の中の詩は多くが不吉な予言手か性質を帯びており、後ろの物語の伏線となっている。この回の題目は「中秋の新たな詞を賞し、佳懺(佳い予言)を得る」である。明らかに、家運が傾いている中で、これらの詩はたいへんめでたい吉兆である。脂硯斎はここでこうコメントを加えている:「中秋の詩の欠落は、雪芹を待つ」、つまり、この三首の詩が暫時欠落していることについては、曹雪芹が完成されるのを待つ、と言っている。《紅楼夢》には二百首近い詩や賦があるが、それぞれ特色があり、作者の才気や智慧を充分に表しているが、ひとりこの中秋の夜宴では、一貫して詩を用いて未来を予言し、運命を暗示するのに長けた曹雪芹がこの三首の中秋の詩を書いていないのは、「江郎、才尽く」で能力が衰えたのか、それとも別に隠れた理由があったのだろうか。
■[3]
・秋爽斎 qiu1shuang3zhai1 《紅楼夢》の中で、大観園の中の建物の一つ。
・藕香榭 ou3xiang1xie4 これも、大観園の中の建物の一つ。“榭”とは、四方を展望できるように造った高殿。
欣欣向栄 xin1xin1 xiang4rong2 [成語]草木がすくすく伸びる。勢いよく発展すること。
・粛殺 su4sha1 厳しい秋や冬の寒さが草木を枯らす。
・愁緒 chou2xu4 憂慮。心配。
・凄風苦雨 qi1feng1 ku3yu3 [成語]寒い風と冷たい雨。悲惨な境遇の喩え。
・炎涼 yan2liang2 暑さと涼しさ。転じて、人情の移り変わりの激しさの喩え。相手の地位などが変わると、すぐに態度を変えること。[用例]人情冷暖,世態~(人情は変わりやすく、世間は薄情なものだ)
・糟粕 zao1po4 滓(かす)。
□ 本来、中秋の佳節は、一家団欒を祝う祝日である。大観園が真っ盛りであった時期には、秋爽斎で海棠社を結成し、藕香榭で菊の花を題した詩を作って競い、大観園は勢いよく発展するにぎやかで盛んな情景を呈していた。然るにこの時の大観園はちょうど「役所の取り調べを受ける」騒ぎがあったばかりで、厳しい冬の時代の情景であった。こうした情況の下、皆ふつふつとふさぎ込んで歓び少なく、精神を鼓舞してうら寂しい中秋節を過ごそうとしたのであった。曹雪芹はここまで書いてきて、既に頭の中は憂いで一杯であったに違いない。自分自身の栄華から衰退、度重なる一族のもめ事が連想され、どうしてまた良い予言となる詩を考えようという気持ちになれるだろうか。だから、気持の上で、言葉にならず、書くことができなかったという可能性が、能力が衰えたので書けなかった可能性よりずっと大きい。
曹雪芹の筆による中秋節は美しく華麗であるが、もの寂しくもある。悲惨な境遇により作られた物悲しい心境は、彼の筆に無限の霊感と力を与えた。正にこうした心境が、その重々しいけれどもバランスを崩していない精神の筆に触れて、中秋をより深化させ、中秋に詩意を持たせ、濃く解けることのない愁いの雲にし、読者の心の中で固まり、いつまでも振り解こうにも解けない……
課題研究はこれで終了する。けれどもこの幾つかの重要な節句行事から分かってくるのは、単なる伝統文化の話ではなく、これらの節句を通じ、物語の中のたくさんの、そして現実の生活の中での人情の移ろいやすさと世間の薄情さを説明しているのである。だから、私がこのテーマで主に研究しているのは、古典作品の研究だけでなく、古典作品の背後の、後世の人々に残された貴重な財産の研究であり、現象を通じて本質を理解することである。私たちはこのことを理解し、時が来ればできるだけそれを継承し、それを発揚させ、再び育てると同時に、かすを除き、精華を留め、世界に我々民族の財産を残していくこと、これこそが私の最終目的である。
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以上で、《紅楼夢中的節日》の全文の紹介を終わります。最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。なにかご質問がございましたら、遠慮なくお問い合わせください。
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※ 口絵は、“撃鼓傳花”、宴会の余興として行われたゲーム
紅楼夢の中で取り上げられている節句行事、最後は中秋節です。ここでも、中秋節が物語の展開に重要な役割を果たしています。この部分の説明もやや長いので、二回に分けます。
■[1]
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・当下 dang1xia4 即刻。すぐさま。
・羊角灯 yang2jiao3deng1 透明な角質で覆いを作った照明。羊の角を切って、それを煮て作ったことからこの名がある。
・斗香 dou3xiang1 線香を一束に束ねたもの。燃やすと煙や火が盛んに出るので、祖先に対する敬虔さを表すものとされた。
・伏筆 fu2bi3 伏線。“暗筆”ともいう。・嘆惋 tan4wan3 ため息をついて惜しむ。
・皎潔 jiao3jie2 (月が)白く光って明るいさま。
□ 「月の明かりに灯の彩り、人々の息吹に線香の煙」
《紅楼夢》第75回で、寧国府は一日前に「中秋節」を過ごし、人々は「西瓜と月餅は全て揃ったので、後はそれを分けて皆に送るだけ」という状態になっていた。翌日、ご隠居様は賈珍に言った:「おまえが昨日送ってきた月餅は上等だ。西瓜は見たところ良さそうだけど、切ってみないとね。」賈珍は笑って言った:「月餅は新しく来た点心専門の料理人が作ったもので、私も試してみましたが、予想通り良かったので、お贈りできると思いました。西瓜は例年はまずまずでしたが、今年はどうも良くないかもしれませんよ。」ここから、西瓜と月餅が中秋節で並んで取り上げられる、無くてはならない食品であったことが分かる。したがって“瓜餅”(西瓜と月餅)、“瓜餅酒”(西瓜と月餅と酒)という言い方があり、例えばご隠居様が人々を連れて屋敷内をお祝いの挨拶に回る時、本ではこう書かれている:「すぐさま屋敷の正門は悉く開け放たれ、大きな明かりが吊るされた。嘉蔭堂の前のバルコニーの上では、大いに線香を焚き、蝋燭の光を手に持ち、西瓜と月餅、その他様々な果物やお菓子を並べていた。」ここで“各色果品”とあるように、他は簡略にして一々書かなくてもよいが、“瓜餅”、西瓜と月餅は無くてはならないものなのである。
中秋節は民族の習俗的色彩の濃い節句で、人々は月明かりの下で酒を飲み、足を踏み鳴らして歌を歌い、賑わいは夜通し、明け方まで続くだけでなく、故人を懐かしみ、一家団欒を願うための祝日である。《紅楼夢》の中では二回、中秋の晩が描かれ、何れも物語の重要な転機となっている。正にいわゆる「人には悲しみと楽しみ、別れと出会いがあり、月には曇りと晴れ、満ち欠けがある」であり、物語中の人物の秦可卿が言うように、「水は満ちれば溢れ、月は満ちれば欠ける」で、比類無く賑やかな中秋の夜宴の中に、作者は巧妙に玄妙な道理の伏線を埋め込み、月を隠喩にして、楽しそうな情景によって悲しみを描き、物語中の人物が、読者をしてため息をつきて惜しませる運命を、白く輝く月光と見かけの派手やかさの下に潜ませている。
■[2]
・聯袂 lian2mei4 手を携えて。[用例]~而往(いっしょに行く)
・開場白 kai1chang3bai2 前口上。
・寓懐 yu4huai2 想いを託する。“寓”は意味を含ませること。
・口占 kou3zhan4 口ずさむ。原稿を書かないで、気の向くままに話をすること。即興の詩を自由気儘に唱えること。
・潦倒 liao2dao3 落ちぶれる
□ 《紅楼夢》の最初の第1回に中秋節を書き、物語全体の始まりとしている。作者は甄士隠、賈雨村の二人を鍵となる意味を備えた人物として同時に登場させている。一人は“真事隠去”(真実を隠し去る。“甄士隠”と“真事隠”は中国語の音が同じ(“諧音”xie2yin1という))、もう一人は“假語村言”(うそや粗野なことば。“賈雨村”と“假語村”は“諧音”)で、両者は手を携えて《紅楼夢》の実際の意味での前口上となる話を完成させている。賈雨村は都へ出て功名を上げることを望んだのだが、懐具合が乏しかったので、甄家の隣の瓢箪廟に下宿していた。ある時、偶然の機会に、彼は甄家の下女の嬌杏を見かけ、中秋の夜、月に想いを託し、五言の律詩を口ずさんだ:「未だ三世の契りを占わざるに、頻りに一段の愁いを添う。悩ましき時、額に皺寄せ、行きては何度も振り返る。自ら浮世に一人居るも、誰か月下の伴侶にふさわしからん。月光よ、もしその意あらば、先に楼に上りてその美人を照らせ。」白く光る月光は、彼にまとわりついた恋心を燃え上がらせ、また彼の盛んな野心を呼び覚まさせた。
《紅楼夢》の出だしは末世の悲観に満ち、落ちぶれた書生の自負心と軽度の狂騒、蘇州の名家での事件と没落が、ある種の牽引力となり、全篇、人の世の無常という悲劇性が基調を成している。こうした基調の下では、如何に楽しい情景やにぎわいを描いても、ある種のむなしさを帯びる。それゆえ、《紅楼夢》の一番目の中秋節は、小から大を見、小さな栄枯盛衰を伏線として、大きな栄枯盛衰を予告しているのである。
■[3]
・灯紅酒緑 deng1hong2 jiu3lv4 [成語]あかいともしび、緑の酒。ぜいたくで享楽的な生活のたとえ。
・本応 ben3ying1 本来ならば……すべきである。
・守制 shou3zhi4 昔、父母が死ぬと、その子は27カ月、家に閉じこもって身を慎み、官職にある者は必ず一時その職を退いたことをいう。
・酒酣耳熱 jiu3han1 er3re4 酒が回って顔がほてる。“酣”は気持ちよく存分に酒を飲むこと。
・恍惚 huang3hu1 どうも……のような気がする。(中国語の“恍惚”は、「ぼんやりする」という意味で、日本語の恍惚の「うっとりする」という意味はない)
・隔扇 ge2shan 部屋の仕切り板。紙、またはガラスをはめ込んだ板製の戸を屏風のように連ねたもの。部屋の入口としても使う。“格門”ともいう。(“隔”は「木」偏を使うこともある。発音は同じ)
・森森 sen1sen1 うす暗く、陰気で、薄気味悪いさま。
・詭譎 gui3jue2 怪しい。奇怪な。
・毛骨悚然 mao2gu3 song3ran2 [成語]恐ろしくて、身の毛がよだつ。ぞっとして、鳥肌が立つ。
・怪力乱神 guai4li4 luan4shen2 怪異現象、妖怪の存在。
・看官 kan4guan1 読者
・隠約 yin3yue1 かすかなさま。はっきりしないさま。
・描摹 miao2mo2 描写する。
・觥筹交錯 gong1chou2 jiao1cuo4 酒宴が盛んに行われるさま。“觥”は昔、獣の角で作った酒器。
・天倫之楽 tian1lun2 zhi1 le4 一家団欒の楽しみ。“天倫”は、親子兄弟の関係(これは自然の秩序であることから)をいう。
・温情脉脉 wen1qing2 mo4mo4 [成語]人や物に対し、やさしい感情がこもっているさま。まなざしに愛情がこもっているさま。
・面紗 mian4sha1 女性がかぶる、ベール。
□ もう一回の中秋節に関する描写は第75回である。この回では、一家が団欒し、贅沢な飲食を享受しているのだが、繁華でにぎやかな背後には、悲しさ、さびしさの霧が次第に広がってきている。中秋の前夜、本来ならば賈敬のため喪に服さなければならない賈珍は、大々的に一族の宴席を催し、簫の演奏や歌を聴き、月を愛でて楽しんだ。ちょうど酒が回って顔がほてってきた時、突然壁の下あたりから長いため息が聞こえてきた。「一言も発せず、ただひとしきり風の音が聞こえるばかりで、やがて壁越しに消えていった。ふと祀堂の中の折戸が開いたり閉じたりする音が聞こえてきた。」この時の情景は「薄気味悪く、月明かりもうす暗く」、元々こっそりどんちゃん騒ぎをしようと思ったのに、楽しめずに終わった。不思議な怪奇現象を書いて、読む者をぞっとさせている。
曹雪芹が怪異現象や妖怪の存在を信じていたかどうか、祖先の霊魂のようなことを信じていたかどうかは、知る由も無い。曹雪芹はふと聞こえてきたため息によって、中秋節前のこの時の一族の宴会は、実は不吉の兆しであったと、読者の注意を喚起したのである。行間に、私たちはかすかに、悲劇の序幕が既に開き、百年続く名門の一族が正に一歩一歩衰亡に向かおうとしていることが見てとれるのである。
その後、作者は再び栄国府が凸碧山庄で中秋の夜宴を催すところを描写した。ご隠居様は一家の者全員を連れて線香を手向け月を拝み、月餅を賞味した。月明かりと提灯の火の下で、酒宴が盛んに催され、たいへん賑やかである。酒が三巡すると、ご隠居様は皆に“撃鼓傳花”の遊びをするようお命じになり、負けて罰として酒を飲まされたり、冗談を言ったりして、この大家族の一家団欒の楽しみを思う存分に描き出した。しかしながらこのやさしさに満ちたベールが破られると、家族の内部に隠されていた様々な矛盾が遂に水面に浮かび上がり出した。
■[4]
・心火 xin1huo3 癇癪。漢方で、人体の臓器に発生する熱のこと。漢方では、この熱が様々な病気を引き起こす原因と考えられている。
・肋条 lei4tiao 肋骨。あばら骨。
・遮掩 zhe1yan3 遮り隠す。ごまかす。
・避忌 bi4ji4 禁句を言わない。忌み嫌う。タブーとする。
・前程 qian2cheng2 官吏の資格。官職。
・庶 shu4 妾腹の。
・長房 zhang3fang2 長男の家系。
・二房 erfang2 妾。側室。
・嫡 di2 嫡出の。
□ 先ず賈赦が冗談を言ったのだが、そのためご隠居様を怒らせてしまった。この冗談の内容は、鍼灸をやるばあさんに来てもらって癇癪の治療をしてもらったのだが、針がつぼに刺さらず(中心に刺さらず)、あばら骨に刺さっただけと、こう言ったのである。ご隠居様はそれを聞かれて、いくらか皮肉の意味を感じられた。それでこう言われた:「私もその婆さんに針を打ってもらった方が良いね。」(自分が“偏心”、つまり公平でなく依怙贔屓をしていると皮肉られたので、“心”に針を打ってもらったら依怙贔屓は直るね、と返した。)賈赦はそれを聞くと、大慌てでごまかして言い訳をした。それから、賈政と賈環の詩の評価をしたのだが、その時タブーを避けるのを忘れた。賈政は賈環の詩の語句の中に勉強が嫌いであるという意味が込められているように感じ、「おまえと宝玉の二人は、「二つの難物」と並び称すことができる」と言った。一方、賈赦がこの詩が通り過ぎようとする時、続けざまに褒めて、賈環に言った:「今後はこのようにしよう。そうして初めて私たちの言葉になるし、将来の世襲の資格も定まり、おまえが跡継ぎ間違いなしになる。」
爵位の継承者はただ一人で、何人もが分担できるものではない。賈環は賈宝玉の弟で、めかけの子供であり、この世襲の資格がどうして彼の手に来ることがあろうか。これはなぜかというと、世襲の資格は一つ前の世代では賈赦の名義だからである。彼は殊更に賈環はこういう所やああいう所が良いと言うが、実際には暗に賈政一派に強い対抗心があるからである。したがって、私たちは話の内外から、長男の家と側室の家との間、嫡子と庶子の間に、様々な錯綜した複雑な矛盾が存在していることが分かる。
[次回に続く]
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※口絵: “猜灯謎”
今回は、春節に続く、正月15日の元宵節のことと、5月5日の端午節についてです。
元宵節は、暮れの年越しの行事から春節までの一連の正月の行事を締めくくる行事ですが、《紅楼夢》にあっては、物語の展開の契機となる、重要な転機として描かれています。
端午節も、その行事の中で、賈宝玉、林黛玉、薜宝釵の将来の関係についての暗示があり、この小説は、こうした中国の伝統的な節句行事を物語展開の契機として、うまく使っています。
■[1]
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・倏忽 shu1hu1 たちまち
・寥寥 liao2liao2 極めて少ない。数えられるほどの。
□ この後、53回の後半及び54回の中で描写されているのは、大観園での元宵節のにぎわいであるが、元宵節の描写はここだけに止まらない。例えば小説の第1回《甄士隠は夢に通霊を識り、賈雨村は風塵に閨秀を懐う》の中で、元宵節は二度描かれている。一番目は、「士隠は娘が白粉を塗り玉を磨いたように真っ白な肌に育っており、おりこうさんで好ましいのを見ると、手を伸ばして胸の中に抱きかかえ、ひとしきり遊ばせると、彼女を連れて通りの方へ行ったところ、そちらは縁日でたいへんにぎやかであった。」ここで文中の“過会”(“会”は“廟会”で、お寺の縁日)というのは、元宵節の行事の一つである。この節の初めに詩があり、「なんぞ防げよう、佳節元宵の後、煙消火滅の時を」とあり、ここから元宵節がこの話の重要なヒントになっていることが分かる。それに続いて二番目にこう書かれている:「誠に閑居していると光陰矢のごとしで、たちまち元霄の佳節となった。士隠は召使の霍啓に命じて英蓮を抱いて、出し物や提灯を見に行かせた。夜半に霍啓が小便に行きたくなり、英蓮を一軒の家の敷居の上に座らせ、小用を終えて帰って来ると、どこにも英蓮の影も形も無くなっていた。」文中の“社火花灯”とは、元宵節の夜の街角での鳴り物入りの音楽、歌や踊り、様々な芝居、手品や曲芸、飾り提灯を照らすといった娯楽活動で、当時の一般の人々が出し物や提灯を見る行事の盛況さが描かれている。作者は限られた字数の中で、元宵節のにぎやかさが並はずれている様子を描いている。“社火花灯”というのは、当時の元宵節のにぎやかな情景を言い尽している。
■[2]
・花団錦簇 hua1tuan2 jin3cu4 [成語]色とりどりに着飾った華やかな一団。
・撃鼓傳花 ji1gu3 chuan2hua1 民間の遊び、或いは宴会の余興。十数人が円形に座り、一人が花束を持つ。鬼を一人決め、皆に背中を向け、目隠しをして太鼓を叩く。その間、円座の皆は花束を手渡しし、太鼓が止まったら手を止める。太鼓が止まった時に花束を持っていた人が負けとなる。宴会の時は、負けると酒を飲まされた。
※現在の農村での“撃鼓傳花”風景
・酒令 jiu3ling4 酒席に興を添える遊び。負けると酒を飲まされる。
・亭台楼閣 ting2 tai2 lou2ge2 あずまやや高殿、楼閣といった、庭園の中の様々な建物。
・張灯結彩 zhang1deng1 jie2cai3 [成語]提灯を掲げ、色絹で飾り付ける。
・興高採烈 xing4gao1 cai3lie4 [成語]上機嫌である。大喜びだ。
・如花美眷 ru2hua1 mei3juan4 咲く花のように美しい一族。“眷”は“眷属”のこと。
・筆 bi3 [量詞]ここでは、絵画、転じて景色、風景を数えるのに用いてる。
・閨中 gui1zhong1 婦人が暮らす場所をいう。
□ 《紅楼夢》の中で賈府が元宵節を過ごす様子は二回、詳細に描かれている。一回目は元妃が里帰りした時で、当時の賈府は最も繁栄していた時で、栄国府全部の人々が色とりどりに着飾り、灯火が光り輝き、普通の家とは比べようもなかった。賈府の元宵節は、《紅楼夢》第18回、《林黛玉誤って香嚢の帯を剪り、賈元春は帰省し元宵を慶う》より始まる。元春晋封賢徳妃が、実家に里帰りした時は、ちょうど元宵の佳節であった。
元妃が帰省を終えて宮廷に戻ってから、特に“灯謎”(元宵節に飾り付ける提灯に吊るすなぞなぞ)を作り、一家で楽しんだ。ご隠居様を頭に、多くの美女を率いて芝居を見たり、講談を聞いたり、酒席の遊びを楽しんだり、なぞなぞをしたり、花火を見たりと、どんなに楽しんでも疲れることを知らなかった。大観園での元宵節は、園内の様々な建物の到るところに提灯を吊り飾り付けがなされ、多くの女達や召使達が大喜びで参加し、節句の楽しみを心行くまで味わい、節句をたいへんにぎやかなものにした。紅楼夢の中での元宵節は、大観園の咲く花のように美しい一族のため、女達の花園に一風景を添えることとなった。
■[3]
・笙歌 sheng1ge1 笙(しょう)に合わせて歌う。楽器を奏で、歌うこと。
・聒耳 guo1er3 やかましい。うるさい。
・喧天 xuan1tian1 騒々しさが天まで響く。
・年邁 nian2mai4 年をとる。高齢になる。
・淹纏 yan1chan2 まとわりつく。
・(有)一等 yi1deng3 ある種。~のたぐい。
・妬富愧貧 du4fu4 kui4pin2 他人の富みに嫉妬し、自分の貧しさを恥じること。
・賭気 du3qi4 不平でふてくされる。怒って意地になる。
・羞口羞脚 xiukou3 xiu1jiao3 恥ずかしくてものが言えず、はにかんで前に出ようとしない様。
・流光溢彩 liu2guang1 yi4cai3 光り輝き、色彩が溢れる。
・浮華 fu2hua2 派手。華美。
・雍容華貴 yong1rong2 hua2gui4 おっとりしていて美しい。“雍容”は態度が鷹揚で、ゆったりしていること。
・万千気象 wan4qian1 qi4xiang4 人々の雰囲気が変化に富んでいる。
・盎然 ang4ran2 満ちあふれる。
□ 賈府が翌年また元宵節を迎える時には、(さしもの栄華を誇った一族にも)衰退の気配がはっきりと現れ出した。《紅楼夢》第53回《寧国府は大晦日に宗廟を祭り、栄国府は元宵に夜宴を開く》のお話の中で、ご隠居様が夜に宴会を開く時、栄国、寧国の両府では、提灯を愛で、酒を飲み、にぎやかに楽器を奏で、歌を歌い、にぎやかさは天まで響くほどであたが、賈氏一族の参加者は数えるほどしかなかった:「ご隠居様も人を遣って一族の男女に来るように言ったが、如何せん、彼らはある者は年をとったので賑やかなところは苦手となり、またある者は家に他に人がいないので出かけるのは都合が悪く、またある者は病気が体にまとわりつき、来ようにも来られず、またある者は他人の富を妬み自分の貧しさを恥じるたぐいであり、甚だしきは煕鳳の人となりを憎み恐れ、意地になって来ないたぐいの者までいる。またある者は恥ずかしがってものを言ったり前に出たりできず、人に会うのに慣れておらず、来る勇気がない……」今宵は元宵の佳節で、なお光り輝き色彩が溢れ、派手でぜいたくであるけれども、嘗てのゆったりとして美しい、変化に富んだ雰囲気は、もはやとっくに失われていた。かくの如き尋常ならざる情景により、この年の元宵節は賈府の最後の輝きとなった。
元宵節はこの小説全体を貫き、《紅楼夢》の幕開けでは、賈府はまだ出てこず、最初に甄家が出てくる。物語の中での甄家の滅亡は、実は賈府の滅亡の前奏であり、甄家は元宵節の後、大火に遭って衰退し、曹雪芹の筆により、賈府が最後に滅亡するのも元宵節であり、実際に曹家が家財を差し押さえられたのも元宵節の後であった。曹雪芹の筆による元宵節は、悲喜こもごもが加わり、現実と幻想が互いに生じ、同時にまた生き生きとしていて、かつ詩趣が満ち溢れている。
■[4]
・冰片 bing1pian4 龍脳香
・孝敬 xiao4jing4 目上の人に物を差し上げる。贈り物をする。
□ 《紅楼夢》第24回で初めて端午節が描かれる。賈宝玉の本家のおいの賈芸は、賈府の中でちょっとした使い走りをしようとしていた。つまり端午節に王煕鳳に贈り物をしようとしていた。賈芸は金を借り、龍脳、麝香などの香料を王煕鳳に贈った。賈芸は王煕鳳に言った。「いつもの年はおばさんがたくさんのお金でこれらの物を買われているのを知っています。今年はお妃さまが宮中におられるのは言うまでもなく、まして端午節であれば、これらの香料は当然いつもの十倍の値がつくのは当然のことです。」それに続いて、《紅楼夢》ではこう書かれている:「煕鳳はちょうど端午節の祭礼をするのに、香料や薬、お菓子を買おうとしていたので、突然賈芸がこうしてやって来て、この話をしたので、心の中では得意になり、また嬉しく、召使の豊儿にこう命じた:「芸兄さんの贈り物を受け取ったら、家に届けて、平儿に渡してちょうだい。」賈芸のこの端午節の“薄礼”(ちょっとした贈り物)により、賈芸は賈府の中で、庭木を植えるのを管理するほどの使い走りを果たすことができたのである。
■[5]
・太監 tai4jian4 宦官の通称。
・賞賜 shang3ci4 下賜する。
・宮扇 gong1shan4 うちわ。宮中で多く使われたので、こう言われる。
※宮扇
・淋漓尽致 lin2li2 jin4zhi4 [成語]文章や話が詳しく徹底していること。
・玄机 xuan2ji1 (道教でいう)玄妙な道理。
・用意 yong4yi4 意図。心づもり。
・鉄心 tie3xin1 揺るぎない決心をする。
・保駕護航 bao3jia4 hu4hang2 ある事物を保護し、それが正常に発展するようにさせる。“保駕”、“護航”ともに護衛すること。
・不了了之 bu4liao3liao3 zhi1 [成語]事を未解決のまま棚上げにする。うやむやのうちに終わらせる。
□ 第28回では賈元春が賈宝玉に下賜した「贈り物」のことが書かれていて、これは夏太監に言って端午節に下賜させたもので、上等のうちわ二本、紅麝香の数珠の腕輪二つ、鳳の尾の薄絹二反、蓮の花の図柄の竹のむしろ一枚が見られた。宝玉はこれを見て、うれしくて仕方が無く、「他の人のも同じなの?」と聞いた。襲人は言った:「大奥様のは、この他に香の如意と瑪瑙の枕がございました。奥様、旦那様、薜の奥様には如意が一つ余分にございました。若様のは、宝のお嬢様のと同じでございます。林のお嬢様のは、迎春様、探春様、惜春様と同じでうちわと数珠だけで、他の人にはございませんでした……」宝玉はそう聞くと、笑って言った:「これはどうしたことだろう。どうして林ちゃんのは僕と同じでなくて、宝姐ちゃんのが僕といっしょなのだろう。渡し間違えたということは無いの?」ごく短い限られたことばの中に、宝玉が端午の贈り物をもらった喜びの心情が余すところなく表現されている。紅楼夢研究家によれば、この時の端午節の贈り物には暗に玄妙な道理が隠されている。というのは、林黛玉がもらったものは、賈迎春、賈探春、賈惜春と同じで、品種も数量も少なく、レベルも低いのだが、賈宝玉に下賜したものは、薜宝釵のものと全く同じで、品種も数量も多く、レベルも高かった。その中には同じように特別なもの、蓮の花の図柄の竹のむしろ、これは細い竹で編んだもので、上に蓮の花の図案のあるむしろで、この前の三つのものが皆二つなのに、これだけが一枚なのは、どうしてだろうか。なぜなら二人用なのである。賈元春の心づもりは言うまでもなく明らかで、二人を結婚させようという意向が込められていて、彼女は暗に、薜宝釵を賈宝玉に嫁がせようという意向を表しているのである。このことは賈のご隠居様はあまり賛成でなかった。ご隠居様は賈宝玉と林黛玉を結婚させたいと堅く決めていたので、知らないふりを装い、この事はその後もうやむやにした。この意図は宝玉と黛玉は知らなかったが、薜宝釵は分かっており、理屈から言うと、普段は薜宝釵は自分の感情が外に現れ出るのを拒んだが、この時はそうではなかった。第28回の題名の後半に「薜宝釵恥じらいて紅麝の串(うでわ)を籠(は)む」とあり、ここから分かるのは、たとえ彼女自身は本能では恥ずかしがっていたとしても、彼女は公然とそれを身につけ、故意に賈宝玉にそれを見せたということは、この時彼女自身も賈宝玉が好きで、敢えて彼を射とめたいと表に現したことを物語っている。
■[6]
・布帛 bu4bo2 綿織物と絹織物の総称。
・雄黄酒 xiong2huang2jiu3 雄黄を入れた酒で、端午の節句に飲み、解毒作用があるとされる。雄黄は鶏冠石ともいい、硫化砒素の一種で橙黄色で光沢があり、本来は色ガラスや染料の原料。
・桑椹(子) sang1shen4 クワの実
・不失為 bu4shi1wei2 ……たるを失わない。……だといえる。
□ 第31回で端午節を描写している言葉数は多くはないが、端午節に関わる民間の習俗を書き留めている。その中でこう言っている:「この日はちょうど端陽(“端午”に同じ)の佳節で、菖蒲とヨモギを門に挿し虎符を腕に付ける。午後、王夫人は酒席を設え、薛家の女達を招き端午節の宴席を共にした。」ちょっと資料を捜してみると、“蒲艾簪門”、“虎符系臂”は端午節の習慣で、今日では虎符を腕に付けるのはあまり見かけないが、菖蒲、ヨモギを挿す習慣は広く流布しており影響は強い。“蒲”は菖蒲のことで、香りがあり、水辺に生える。“艾”はヨモギであり、茎や葉に香りがある。“蒲艾簪門”とは、菖蒲、ヨモギを門の上に挿すことで、それにより蚊、蠅、蟻を駆除するとおもに、邪気を払い、邪気を避ける意味を含む。“虎符”とは昔の人が邪気を避けるお守りとしたもので、人々は綾や薄絹、綿や絹などで小さな虎の形を作り、子供の(服の)腕の上に縫い付ければ、悪を避け災いを消すことができると信じた。“賞午”も端午節の風習で、端午節の午後、雄黄酒を飲み、桃、桑の実、サクランボ、チマキなどを食べ、ザクロの花などを鑑賞し、金持ちも貧しい者も、互いに食事に招待する。こうした活動一切を、“賞午”と総称する。紅楼夢のこの回で書かれているのは、王夫人が端午節の酒席を整え、「薛家の女達を招いて“賞午”をする」、すなわち客を招いて端午節の宴会に加わるということである。この回にはもう一つ、「チマキの分け前のことで争い、腹を立てる」というのがあり、それは黛玉のたった一言、「節句だというのにどうしてそんなに泣いているの?まさかチマキの分け前のことで腹を立てているのではないでしょうね」という場面が付け加えられている。
端午節には他に“斗百草”(百草勝負)という遊びがあり、第62回に“斗草”遊びが描かれている:「たちまち、また宝玉の誕生日(紅学の学者の考証によれば、宝玉の誕生日には二説あり、一つは4月26日、もう一つは5月4日、すなわち端午節の前日である)がやって来た。実は宝琴もこの日が誕生日で、二人いっしょである……外には、小螺、香菱、芳官、蕊官、藕官等4~5人がいて、中庭中を捜しまわって、皆が草花を摘んで袋に入れ、草むらの上に座って“斗草”遊びをした。」“斗草”には“武斗”と“文斗”の別があり、“武斗”というのは、二人がそれぞれ草の茎の一端を持ち、力を入れて引っ張り、先に切れた方が負けである。“文斗”は、双方が詩で問答するかのように、草の名前について、一方が草の名前の質問を出し、相手が答えられなかったら、勝ちである。“斗草”遊びを通じ、人々は草花の名前を憶え、新鮮な空気も吸え、有益な遊びの風習だといえる。
※蒲艾簪門
※斗草(左は武斗、右は文斗)
(次回に続く)
子供の服の腕のところに縫い付ける布製の“虎符”について、写真がないか、捜してみたのですが、見つかりませんでした。こういうものは残りにくいのかもしれません。ただ、虎をデザインした赤ちゃんの布製の帽子、布靴はよく見ますが、ああいうものではないかと思います。もしご存じの方がいらっしゃいましたら、お教えください。
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※挿絵: 賈母受大家的礼
前回は、春節前の年越しの行事として、12月8日の“臘八節”から、恩賞の銀子の受け取り、祖先を祭る宗廟の礼拝の様子などについて述べていましたが、次には皆のお楽しみ、“圧歳銭”、お年玉が待っています。《紅楼夢》の中での春節の行事の風景について、見ていきます。
■[1]
( ↓ クリックしてください。中国語原文が表示されます。)
・荷包 he2bao1 昔の中国服にはポケットが付いていなかったので、様々な形のポシェットを肩から掛け、その中に細々とした小物を入れて携帯した。絹の布地で作られ、色や形は様々で、刺繍などで飾り付けたものも多い。
□ 若い人たちにとって、年越しはこの上なく幸福である。それはただ、年長の人たちがお年玉をくれるからである。では、賈府の中ではどのようであるのだろうか。
ご隠居様は宗廟から出て来ると、先ず寧国府へ行って、皆の挨拶を受けた。なぜなら彼女の世代の老人の中では、彼女が代表で、長幼の順が一番だからである。それゆえ、彼女に寧国府に来てもらい、屋敷の中で座ってもらい、一族の人々の、ひざまずいて地に頭をつける礼を受けた。一人ずつやって来て、挨拶が済むと、今度はご隠居様から、お年玉を渡し、荷包を渡した。
■[2]
・寒門小戸 han2men2 xiao3hu4 “寒門”も“小戸”も「貧しい家」の意味。
・前儿 qian2r (=前天)おととい。一昨日。
・[金果]ke4 昔、貨幣として使用された、金や銀の小さな塊。
・磕頭 ke1tou2 ぬかずく。頭を地面につけて拝礼する。
・奢靡 she1mi3 贅沢三昧
□ お年玉は、今日もまだ有り、赤い紙袋に、お金を入れて、挨拶をしてから、年長者が年少者に手渡す。現在、次第に“利市”という呼び名に変わっている。会社でも渡すし、プライベートでも渡すし、正月にお年玉を渡すのは、皆がよく知っている行事となっている。
当時のお年玉は、現在とは少し異なり、第一にそれは正月の一日に渡すのではなく、大晦日に渡し、年越しの時に渡した。どれだけの金額を渡したか。貧しい家では、普通、渡す金額はたいへん少なく、形ばかりのものだった。賈府のような貴族、諸侯の家では、その様子は全く違ったものであった。
どれだけの金額を渡すのか。《紅楼夢》53回を見てみよう。賈珍と尤氏が部屋で座っていると、召使の女がお盆を捧げ持って入って来て、こう報告した。興儿からお盆を持って行くように言われました。また興儿の話を告げた。おととい、153両6銭7分の金の粒を型に入れて、220個の金の塊を作りました。
“傾”とは、型に入れて、一個一個の小さな塊の金を作ることである。金の塊はどれくらいの大きさか。一般には一両(50グラム)以下である。153両6銭7分の金の粒を型に入れて、220個の金の塊を作ったのだから、計算するとだいたい1個が7銭(約35グラム)である。それを捧げ持って来た。尤氏が受け取って見てみると、梅の花の形のもの、ハスの花の形のもの、如意の形のもの、八宝連春(仏法での八種類の宝物の図案を連ねたもの)の形など、様々な形の小さな金の塊であった。これを何に使うのか。大晦日の日に、お年玉として配るのである。
賈府でお年玉を配る時は、金の塊を配った。1個が7銭の重さである。7銭の重さの金の塊はどれくらいの金額に相当するのだろうか。烏進孝が地租を納める時、賈蓉と少し話をしているが、その中でお妃さまが年越しをされる時は、最高で百両の金をお渡しになるが、それは銀千両余りに相当する。金と銀の交換レートは、変化が大きい。最も古くは1:5で、後に1:10、嘗ては1:30、1:50で交換したこともある。いわゆる“換”というのは、銀何両を金1両と交換するかということである。曹雪芹の時代には、当時の物価からみて、だいたい金1両が銀数十両と交換された。
私たちは劉ばあさんが言った次の話を参考にすることができる:「あんたがたのお屋敷では、蟹(上海ガニ)を一回食べるのに、20両の銀子を使われる。銀子20両といえば、私たち農家の者が一年暮らしていける。」それなら、7銭の金は、だいたい銀10両くらいなので、つまり、お年玉で渡される一個の金の塊は、劉ばあさんのような家では、半年分の生活費に相当する。
ましてや、中にはもらえるお年玉が、一個の金の塊に止まらない人もいた。例えば、賈宝玉は、新年の挨拶の時は、全ての年長者に対し、額を地面につけて拝礼し、彼らは皆お年玉をくれるので、一人賈のご隠居様に止まらない。もし宝玉のような人物に金の塊をあげないなら、他に誰に渡すというのか。賈宝玉がもらえるお年玉は、きっとたいへん多いに違いない。具体的にはどれくらいもらえるのか。紅楼夢の中では書かれていないが、私たちはこう想像すればよい。彼はどれくらいの年齢の世代か。彼が額を地面につけて拝礼しなければならない相手は何人いるか。毎回、無駄に頭を下げる訳ではない。しかもこれは寧国府だけの話であって、栄国府の分はまだ勘定に入れていない。
次に、尤氏はまだこう言っている:前に言ったあの銀の塊を、あの人に言いつけて早く配ってくださいな。どうです、まだ銀の塊がある。つまり、お年玉を配るのには、ランクが分かれていて、どのような人は、金の塊を配り、どのような人は、銀の塊を配るかの別がある。
賈府で配られるお年玉から、こうした貴族、諸侯の家の贅沢な生活が見て取れる。年越しの、一年に一回のこととはいえ、これはたいへんなことだ。
■[3]
・博大精深 bo2da4 jing1shen1 学問などが幅広くて深いこと。
・可見一斑 ke3jian4 yi1ban1 一端が垣間見られる。→本来の成語は、“管中窺豹kui1bao4,可見一斑”管を通してヒョウを見ても、斑紋の一部は見ることができる。(そこから転じて)見方が狭くても、およその見当はつく。前句、後句それぞれ単独でも、同じ意味で用いられる。
・登峰造極 deng1feng1 zao4ji2 [成語]学問や技能が最高潮に達する。
・経意 jing1yi4 注意する。
□ 中国文化は非常に幅広くて中身が深く、非常に具体的な物にそれが現れる。お正月に人々が身に付ける装飾品での、その一端が垣間見られる。我が国の古代の男女は、荷包(小さなポシェット)を身に付ける習慣があった。それが清朝になって、最高潮に達した。上は皇族百官から下は平民大衆に至るまで、皆が精緻に作った荷包を身に付けた。荷包は一般に祝い事の時に、贈り物として親しい友人に贈られた。或いは男女が愛し合い、婚約をしたしるしとなった。それでは、小さな荷包の中にどのような伝説や物語、深い寓意が含まれるのだろうか。
紅楼夢という本は、わざとその王朝や年代、地方や国を、ぼやかせた。これはその芸術的な意向に則らせるためである。けれども、しばしば注意しないうちに、その時代の情報が漏れ出す。荷包もその一例である。なぜなら荷包が広く使われるのは、清代に於いてであり、清朝以前は、荷包はめったに使われなかった。
■[4]
・華佗、或いは華陀 hua2 tuo2 後漢末、魏初の名医。字は元化。麻沸散(麻酔薬)による外科手術、五禽戯と称する体操などを始める。曹操の侍医となったが、後殺された。
・孫思邈 sun simiao3 581(西魏大統7年)~682(唐永淳元年)京兆華原(現在の陝西省耀県)の人。一生を漢方薬の研究に充て、峨嵋山や終南山で薬草の採集を行いつつ、臨床試験を行った。中国で系統的な漢方研究した先駆者。
・守歳 shou3sui4 大晦日の夜、寝ずに年越しをする。
・総而言之 zong3 er2 yan2zhi1 [成語]要するに。
・討口彩 tao3 kou3cai3 “口彩”は縁起の良いことば。“討口彩”で、縁起の良いことばを追い求める。
□ ご隠居様は新年の挨拶を受けた後、家族が集まり宴会が始まる。宴会では、一つ一つの料理について細かくは紹介しないが、いくつかの特別なものについて見てみよう。その中で、最も特別なものは、“屠蘇酒”と呼ばれる。“屠蘇酒”とは何か。
北宋の王安石に一つの詩があり、こう言っている:「爆竹の音の中の今年の大晦日、春風が温かい風を屠蘇に吹き入れる。」嘗ては年越しの時、どの家でも屠蘇を飲んだ。これは一種の薬酒で、華佗が処方したものである。後に、孫思邈がそれを伝え、今日でもこの処方が存在する。
年越しの前に、この薬を調剤して布で包み、井戸の中に吊るしておく。大晦日に、取り出して、これを酒に漬ける。大晦日が過ぎ、年越しの食事の時、家中の老いも若きも皆が飲む。これは邪気を払い、不浄を遠ざけ、百病に罹らぬよう、予防的な意味もあるものである。これは儀礼上の意味だけでなく、一種の健康保険食品であった。
この酒を飲む時、飲み方も特別であった。一般に家の中では老幼の順序があり、酒を飲む時は、年長者が先に飲み、年配の人を敬った。屠蘇酒はしかしこれと異なり、年齢の最も小さい者から飲み始め、長幼の順序の最低の者が先に飲んだ。
蘇東坡にそれにちなんだ詩があり、毎年最後に屠蘇を飲んだ、と言っている。年齢が高いと、毎年の年越しで、いつも屠蘇酒を飲むのが一番最後であった。彼の弟の蘇轍にも詩があり、最後に都市を飲むのを辞せずと言っている。これも年齢が高いから、屠蘇酒を飲むのが最後であったと言う。
爆竹の音の中、大晦日を迎え、年越しは寝ないで過ごすのは、賈家も例外でなく、一家団欒して、屠蘇酒を飲み、“合歓湯”を飲み、“吉祥果”も有り、“如意糕”も有りで、しかしこれらのものがいったい何であったのかは、もはや考証しようが無い。要するに、皆縁起を担いだ食品である。
これらのものを食べ終わった後も、まだたくさんの行事が有り、先ず爆竹を鳴らす。これは紅楼夢第54回で書かれていて、パチパチと爆竹が鳴ると、林黛玉は体が弱いので、ご隠居様は林黛玉を胸の中に抱きしめた。賈宝玉、史湘去、薛宝釵も大人達に抱きしめられていた。この時、王煕鳳が言った:私だけ誰も抱いてくれないのね。王煕鳳という人はたいへん可愛らしい人で、時にはチャンスがあると可笑しなことを言って、皆を楽しませてくれる。尤氏はこう言った:よしよし、私があなたを抱いてあげるわ。
これは紅楼夢の中の、爆竹を鳴らす時のたいへん心温まる場面である。これは大晦日の晩に、賈府の中の寧国府と栄国府で起こった一連のお話である。
そしてここから見て取れるのは、中国の伝統的な節句である春節は、いつ如何なる場所でも、当時の人にとって厳粛なものであり、私たちにとっても、紅楼夢のこの一節の描写は同様に研究する価値のあるもので、それは我が国の古代、とりわけ清代に、裕福な家の風習がどのようであったかについて、充分な描写である。同時に、裕福な家と貧しい家の生活との間には、大きな格差があったのである。
(次回に続く)
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紅楼夢第53回寧国府過年祭宗廟
春節、端午節、中秋節という中国の伝統的な節句は、人々の生活に深く根ざしたもので、今日でも季節の節目としてこれらの節句を過ごしますし、様々な伝統行事が行われています。
清代の小説《紅楼夢》の中では、旧時代の上流階級の人々が、これらの節句をどのように過ごしていたかが書かれています。
この《紅楼夢》の中で描かれた伝統節句というテーマで、中国中央電視台の人気番組、《百家講壇》の中で周嶺という方がお話をされています。この《紅楼夢中的節日》の文章版が、《百度文庫》に収められていました。今回から数回に分け、この内容について、見ていきたいと思います。
周嶺(1950~)は、中国科技財富雑誌社社長、南海石油控股有限公司董事局主席という実業家として活躍していると共に、《紅楼夢》研究、いわゆる紅学の学者でもあります。
■[1]
《红楼梦》中描写的节日有许多,如端午,元宵,中秋等,都是中国的传统节日。然而其中曹雪芹给予重中之重的描写的仍是春节。而我本次研究的正是这传承文化。
首先,先来看看春节。
根据周汝昌先生《红楼纪历》,红楼梦前八十回的故事,发生在十五年的时间段里。其中第十三年,占的篇幅最多,从十八回后半到五十三回,前后跨了三十五回,差不多将近八十回的一半。
十八回的后半讲的是贾元春省亲,五十三回就说到,又到一年的年尾了。既然写的是十五年当中的故事,一定是过了十五个年。十五个年,大部分都是略写的,详细写过年,写得最多的是五十三回到五十四回,也就是第十三年的年尾,到十四年的年初。
五十三回,一开始就讲,王夫人和凤姐在忙年事。接着,就是贾珍看着丫头,仆妇,小厮,抬供桌,洗供器,开祠堂,打扫房屋,准备祖宗的遗真影像,准备过年了。
过去过年,和今天过年的说法,略有不同。在中国,过年这个庆祝活动,已经有四千多年的历史了。但是,称做春节,大概只有近百年的事。过去也有春节这个说法,但这个春节指的是立春,不是大年初一,不是这一段节庆的时间。
・周汝昌 1918年4月14日——2012年5月31日。紅楼夢研究の第一人者だった。
・省親 xǐngqīn 帰省する。里帰りする。
・鳳姐 fèngjiě 王熙鳳のこと。賈璉の妻。
[和訳]《紅楼夢》中で描写された節句はたいへん多く、端午、元宵、中秋などは、皆中国の伝統の節句である。しかしその中で曹雪芹がとりわけ重視して描いたのはやはり春節である。そして私が今回研究したのも正にこうした伝統的に継承された文化である。
先ず、春節を見てみよう。
周汝昌先生の《紅楼紀歴》によれば、《紅楼夢》の前半80回の物語は、15年の時間の間に起こったことである。そのうち13年目が、割かれた紙面が最も多く、18回後半から53回まで、前後35回を跨り、80回のほぼ半分近くを占める。
18回の後半で述べているのは、賈元春の里帰りで、53回まで来て、また一年の終わりの話になるのである。15年の間の出来事を書いている以上、15年が経ったのは間違いない。15年の間、大部分が簡略に書かれていて、年越しのことが詳しく書かれているのは、最も多く書かれているのは53回から54回までで、つまり13年目の年末から14年目の年初について書かれている。
53回は、最初から、王夫人と熙鳳が年越しの準備をする話である。続いて、賈珍が若い女中、年かさの女中、小僧に会い、供物台を運び、お供えの器を洗い、祠堂を開けて、お堂の掃除をし、祖先の遺影を準備し、年越しの準備をした。
昔の年越しは、今日の年越しのやり方とは、いささか異なる。中国では、年越しという節句の行事には、4千年余りの歴史がある。しかし、それを春節と称するのは、おおよそここ百年の事に過ぎない。過去にも春節という言い方はあったが、それは立春のことを言い、農歴の1月1日ではなく、この日を中心とする祝日のことではない。
■[2]
过年,过春节,第一件要做的事情,就是忙年。过去中国是一个农耕国家,是一个农耕社会。到了冬天,进入农闲,曹操有诗说:孟冬十月,锥不入地,流澌浮漂。意思就是说,这个时候地也冻了,水也冻了,所有的农具都收起来了,农活都干完了,劳累了一年,收成也上来了,猎物也收到家里来了,因此,大部分时间,大家都在忙于庆祝和休息,久而久之,就形成了一个非常特殊的民间习俗。就是选择一段时间,大举庆祝一下,要庆祝,就要准备庆祝活动所需要的东西,发展到后来,就变成了“忙年”。
忙年,要忙很多天,基本上入了腊月,忙年就开始了。所以,红楼梦里,进入腊月以后开始忙年,正是反映了这样一个久远的风俗。
农历腊月里,最重大的节日之一,就是十二月初八,这一天,在古代被称为“腊日”,俗称“腊八节”。而这一点在第十九回有着记录,其所记配方:各色米豆加五种菜果(红枣、栗子、花生、菱角、香芋)。而香芋则另比“香玉”,代指林黛玉。由贾宝玉的一个故事引出。这一点记载和我们现在的腊八粥存在差别。所以从这之中也可发现在当时同样有吃腊八粥过节的习俗。那么过完腊八之后就要开始忙年了,俗话说“二十三糖瓜粘,二十四扫房子”其中的“糖瓜粘”就是祭灶。
出这两项主要活动以外还有采买年货等活动,而在红楼梦中还有两项曹雪芹着重进行了描写。一种是恩赏银子。他们家是世袭的官,因为祖上有功,所以有银子可领。于是在五十三回中就有了贾蓉去领银子的一段。即以下一部分:
・孟冬 mèngdōng 旧暦10月。“孟”は季節の最初の月のことを言った。
・澌 sī 尽きる
・浮漂 fúpiāo 浮かび漂う。
[和訳] 年越し、つまり春節を過ごすのに、第一にやらないといけないことは、年越しの行事である。嘗て中国は農耕国家であり、農耕社会であった。冬になると、農閑期になり、曹操の詩に言う:「旧暦の10月は、寒さで錐も地面に突き刺さらず、川の流れは尽きて、氷が浮かび漂う。」その意味は、この季節には、地面も凍り、水も凍ってしまうということ。全ての農具を片づけ、農業の仕事は全てやり終え、一年間がんばったので、収穫も上げることができ、猟で得た獲物も家に持ち帰った。したがって、大部分の時間を、皆が収穫のお祝いと休息に使った。長い年月のうちに、特別な民間の風習が形成された。つまり、ある一定の時期を選んで、大勢でお祝いをした。お祝いをするには、お祝いに必要な物を準備しなければならなくなり、それが発展して、後に“忙年”、つまり年越しの準備となった。
“忙年”とは、何日も忙しくしなければならず、基本的に12月に入ると、年越しの準備が始まった。したがって、《紅楼夢》では、旧暦の12月に入ると年越しの準備が始まり、正にこのような古くからの風俗が反映されているのである。
農歴の12月で、最も重要な祝日の一つは、12月8日であり、この日のことを、昔は“臘日”と言い、俗に“臘八節”と言った。この点については第19回に記載があり、“臘八粥”の材料を記してある:様々な米や豆に五種類の木の実(干しナツメ、栗、ピーナツ、菱の実、サトイモ)を加えた。“香芋”(サトイモ)は“香玉”と音が同じで、林黛玉のことを指す。賈宝玉が話したお話から引用されている。この記載は現在の臘八粥とは違いがあるが、この話の中から、当時も同様に臘八粥を食べて節句を祝う風習があったことが分かる。“臘八”が過ぎると年越しの準備が始まり、俗に「23日には糖瓜(麦芽糖で作った瓜型の飴)を竈に貼り付け、24日には部屋を掃除する」と言う。このうち、“糖瓜粘”(糖瓜を竈に貼る)とは、竈の神様をお祭りすることである。
これら二つの主要な行事以外に年越し用の品物を買う仕事があり、《紅楼夢》では更に二つの事を曹雪芹が重点的に描いている。一つは恩賞の銀子である。彼らの家は世襲の官吏であり、祖先に功績があったため、銀子を受け取ることができた。第53回に、賈蓉が銀子を受け取りに行く場面がある。それは、次の一節である:
■[3]
一时贾珍进来吃饭,贾蓉之妻回避了。贾珍因问尤氏:“咱们春祭的恩赏可领了不曾?”尤氏道:“今儿我打发蓉儿关去了。”贾珍道:“咱们家虽不等这几两银子使,多少是皇上天恩。早关了来,给那边老太太见过,置了祖宗的供,上领皇上的恩,下则是托祖宗的福。咱们那怕用一万银子供祖宗,到底不如这个又体面,又是沾恩锡福的。除咱们这样一二家之外,那些世袭穷官儿家,若不仗着这银子,拿什么上供过年?真正皇恩浩大,想的周到。”尤氏道:“正是这话。”二人正说着,只见人回:“哥儿来了”。贾珍便命叫他进来。只见贾蓉捧了一个小黄布口袋进来。贾珍道:“怎么去了这一日。”贾蓉陪笑回说:“今儿不在礼部关领,又分在光禄寺库上,因又到了光禄寺才领了下来。光禄寺的官儿们都说问父亲好,多日不见,都着实想念。”贾珍笑道:“他们那里是想我。这又到了年下了,不是想我的东西,就是想我的戏酒了。”一面说,一面瞧那黄布口袋,上有印就是“皇恩永锡”四个大字,那一边又有礼部祠祭司的印记,又写着一行小字,道是“宁国公贾演荣国公贾源恩赐永远春祭赏共二分,净折银若干两,某年月日龙禁尉候补侍卫贾蓉当堂领讫,值年寺丞某人”,下面一个朱笔花押。贾珍吃过饭,盥漱毕,换了靴帽,命贾蓉捧着银子跟了来,回过贾母王夫人,又至这边回过贾赦邢夫人,方回家去,取出银子,命将口袋向宗祠大炉内焚了。
[和訳] ある時、賈珍が入って来て食事をしたが、賈蓉の妻は席をはずした。賈珍はそれで妻の尤氏に尋ねた:「私たちは正月の恩賞はもらえるのだろうか?」尤氏は言った:「今日、私は蓉ちゃんに受け取りに行ってもらいました。」賈珍は言った:「我が家はこの幾ばくかの銀子を当てにするまでもないが、どれだけ今上陛下の御恩を受けたかということだ。早々に受け取って来て、あちらのご隠居様にお目にかかり、ご先祖様にお供えをすれば、上には帝の御恩を賜り、下にはご先祖様に感謝申し上げたことになる。私たちがよしんば一万の銀子をご先祖にお供えしたとしても、結局これほど体面が保て、御恩を被り幸福を賜ったことにはならない。けれども私たちのような数軒の家を除いて、ああいう世襲の貧乏役人の家では、この銀子を当てにしないと、どうやって年越しをすることができるだろう。本当に帝の御恩は大きく、よくお心遣いがなされたことよ。」尤氏は言った:「本当にその通りで。」二人がこう話をしていると、「お坊ちゃまがお戻りになりました。」と取り次ぎの者が言った。賈珍はそれでこちらに来るよう言いつけた。賈蓉は黄色い布の袋を捧げ持って入って来た。賈珍は言った:「今日はどのような案配であったか?」賈蓉は作り笑いをして言った:「今日は礼部ではお配りにならず、光禄寺の庫裏でお配りになるというので、また光禄寺に行ってようやく受け取ることができました。光禄寺のお役人方は皆、父上によろしく、しばらくお会いしていないので、本当にお会いしたいとのことでした。」賈珍は笑って言った:「あの者達がどうして私のことを思うものか。年末になったので、私から贈り物を期待しているか、さもなければ酒を飲ませてほしいのさ。」そう言いながら、その黄色い布袋を見ると、その上には“皇恩永錫”(帝の恩を永遠に賜う)の四文字が印刷され、その一方の端には礼部祠祭司の印があり、また小さな文字でこう書かれていた:「寧国公・賈演、栄国公・賈源には、永遠に春祭に全部で二分、銀に換算して若干両を恩賜し、某年月日に龍禁尉候補侍衛、賈蓉が代理で受け取った。本年当番の寺丞、某人」その下に朱筆で花押がなされていた。賈珍は食事を済ませ、口を漱ぐと、靴と帽子を着替え、賈蓉に命じて銀子を捧げ持ってついて来させ、ご隠居様と王夫人のところへ行き、更に賈赦と邢夫人のところへ行き、それから家へ帰ると、銀子を取り出し、布袋を宗祠(祖廟)の竈で燃やすよう命じた。
■[4]
第二项,田庄交租。这一段在之后的乌尽孝交租中有一段描写,并且这租还很多,一大长串的礼品单看的让人眼花。而其中二者的对话可以看出一点曹雪芹的隐笔就是有雹灾,涝灾,让佃户都很贫困了,但是还要送上这么一大堆东西,两千五百两银子,外加给这些哥儿姐儿的活物,那么这个年佃户是怎样过的?大家可想而知。而这也是他想要表达的“朱门酒肉臭,路有冻死骨”的思想。从中也可以看出这些达官显贵和一般的贫苦小民比较起来,悬殊是如此之大。
那么贾府这样的家庭又是如何过这个年的呢?至次日,更比往日忙,都不必细说。已到了腊月二十九日了,各色齐备,两府中都换了门神,联对,挂牌,新油了桃符,焕然一新。中国人历来就有过除夕祭祖的习俗,一来为了纪念祖先,二来则是祈求祖宗保佑子孙平安等等,那么对于贾府这样的大户达官显贵人家,又是如何祭祖的呢?那么贾府的祭祖地方在哪呢?宁国府从大门、仪门、大厅、暖阁、内厅、内三门、内仪门并内塞门,直到正堂,一路正门大开,两边阶下一色朱红大高照,点的两条金龙一般。
・田庄 tiánzhuāng 昔、官僚や地主が農村で所有していた畑や庄園。小作人に耕作させて、地租を取る。
・佃戸 diànhù 小作人
・朱門 zhūmén 朱塗りの門。金持ちの家。
・桃符 táofú 昔、新年に表門の左右二枚の扉の真ん中に掲げた桃の木の板で、上にはそれぞれ、神荼shēnshū、郁塁yùlǜという名の神様が描かれていた。
桃符
・煥然一新 huànrányīxīn 面目を一新する。“煥然”はめざましいさま。
・暖閣 nuǎngé 昔の屋敷で暖房の効率を良くするため、広い部屋の中を仕切って作った部屋。
[和訳] (年越しの行事で)二番目にやらなければならないのは、田畑からの地租の徴収である。この部分は、この後、烏尽孝が地租を納めるところで一連の描写があるが、しかもこの地租はたいへん重く、長大な贈り物のリストには、見る者は目を回す。その中の二人の対話から、曹雪芹は暗に雹の被害や、水害で、小作人はたいへん困窮していることを描いていることが分かる。その上にたくさんの贈り物や、2500両の銀子をしなければならず、更に息子や娘を人身御供として差し出し、小作人達はどうやって暮らしていけばよいのだろうか。誰でも想像がつく。そしてこのことも、曹雪芹が表現しようと思った、「金持ちの家には、酒や肉が腐るほど有るのに、道には凍えて死んだ人の屍が転がっている」という思想である。ここからも、官吏となり富を得た人と一般の貧しい庶民を比べると、その格差はかくも大きいことが見て取れる。
それでは、賈府のような家庭ではどのように年越しをしたのだろうか。翌日になると、それ以前より更に忙しくなることは、細かく言うまでもない。12月の29日になると、各種の正月用品の準備が整い、寧国府、栄国府の両家では、門神、対聯、看板を交換し、桃符を新しく描き直し、面目を一新した。中国人は伝統的に大晦日を過ごす時に祖先をお祭りする風習があり、一つには祖先を記念する為で、二つ目には祖先に子孫の平安を乞い願う為であり、それでは賈府のような大きな家で、役人になり富貴を極めた家では、どのように祖先をお祭りするのだろうか。賈府が祖先をお祭りする場所はどこにあるのか。寧国府は大門から儀門(大門の内側の儀礼門)、大庁(大広間)、暖閣、内庁(奥の間)、三の門、内儀門、更に目隠しの門があって、母屋に通じていて、ずっと正門を開くと、両側の階(きざはし)の下は一面に朱色に輝き、二匹の金の龍を描いたかのようである。
■[5]
除夕一大早贾母就带了一堆诰命夫人大清早的去皇宫朝贺,在皇宫辞岁之后,贾母就回到宗祠。诸子弟有未随入朝者,皆在宁府门前排班伺侯,然后引入宗祠。宁府西边另一个院子,黑油栅栏内五间大门,上悬一块匾,写着是“贾氏宗祠”四个字,旁书“衍圣公孔继宗书”。两旁有一副长联,写道是:
肝脑涂地,兆姓赖保育之恩,
功名贯天,百代仰蒸尝之盛。
亦衍圣公所书。进入院中,白石甬路,两边皆是苍松翠柏。月台上设着青绿古铜鼎彝等器。抱厦前上面悬一九龙金匾,写道是:
“星辉辅弼”。
乃先皇御笔。两边一副对联,写道是:
勋业有光昭日月,功名无间及儿孙。
亦是御笔。五间正殿前悬一闹龙填青匾,写道是:“慎终追远”。旁边一副对联,写道是:
已后儿孙承福德,至今黎庶念荣宁。
・抱厦 bàoxià 本殿の前に一段突き出したようにやや小ぶりの部屋、屋根を作る建築様式で、宋代には“亀頭屋”と呼ばれたが、清代には“抱厦”と呼ばれた。
抱厦
・誥命夫人 gàomìng fūrén 皇帝から位を授けられた女性。
・大清早 dàqīngzǎo 早朝から。朝っぱらから。
・肝脳塗地 gānnǎo túdì [成語]命を投げ出す。命を犠牲にする。
・兆姓 zhàoxìng 万民。一般民衆。
・勲業 xūnyè 功業。功績の顕著な事業。
・光昭日月 guāngzhāo rìyuè 日の光があまねく衆生(生きとし生ける者)を照らす。《易経》にあることば。
・無間 wújiàn 途切れがない。
・黎庶 líshù (=黎民)民衆、庶民。
[和訳] 大晦日の朝一番に、ご隠居様は位を授けられたご夫人方を何人も引き連れ、早朝から宮廷へ朝賀に行き、宮廷で歳末のご挨拶をしてから、ご隠居様は宗廟に戻って来た。親族の子弟でいっしょに宮廷に行かなかった者は、皆寧国府の大門の前に並んで控え、ご隠居様の後に宗廟に導き入れられた。寧国府の西側にもう一つ塀で囲った一角があり、黒いペンキで塗られた柵の内側には間口五間の大門があり、上には扁額が掲げられ、「賈氏宗祠」の4文字が書かれ、その傍らに「衍聖公・孔継宗書」と書かれていた。両側には一副の長い対聯があり、それにはこう書かれていた:
自分の命を投げ出しても、万民の為、子供達が無事育てられるという恩恵にあずかれるようにしよう。
功名は天下に鳴り響き、代々祭祀の煙は盛んで絶えることがない。
これも衍聖公の書であり、敷地の中に入ると、白い石を敷き詰めた通路があり、両側は青々とした松とコノテガシワの並木である。本殿前の舞台には青緑色の古い銅の鼎や彝などの器が置かれていた。本殿の一段前に突き出た屋根の下には九匹の龍の描かれた金色の扁額が掛っており、こう書かれていた:
「(賈家は)綺羅星のように輝き、(皇室の為に)補佐をする」
これは先代の帝のお筆によるものである。両側には一副の対聯があり、こう書かれていた:
功績は日の光が全てを照らすように明らかで、功名は絶えることなく子孫にまで及ぶ。
これもまた帝のお筆である。五間の広さのある本殿の前には猛り狂った龍を描いた青い扁額が掛り、こう書かれていた:「人生について謹んで考え、先賢が残してくれたものを追求する。」両側には一副の対聯があり、こう書かれていた:既に後世の子孫は幸福や恩恵を受け継ぐ。今日に至るまで、民衆の為、その栄寧を願う。
■[6]
俱是御笔。里边香烛辉煌,锦幛绣幕,虽列着神主,却看不真切。只见贾府人分昭穆排班立定:贾敬主祭,贾赦陪祭,贾珍献爵,贾琏贾琮献帛,宝玉捧香,贾菖贾菱展拜毯,守焚池。青衣乐奏,三献爵,拜兴毕,焚帛奠酒,礼毕,乐止,退出。众人围随着贾母至正堂上,影前锦幔高挂,彩屏张护,香烛辉煌。上面正居中悬着宁荣二祖遗像,皆是披蟒腰玉;两边还有几轴列祖遗影。贾荇贾芷等从内仪门挨次列站,直到正堂廊下。槛外方是贾敬贾赦,槛内是各女眷。众家人小厮皆在仪门之外。每一道菜至,传至仪门,贾荇贾芷等便接了,按次传至阶上贾敬手中。贾蓉系长房长孙,独他随女眷在槛内。每贾敬捧菜至,传于贾蓉,贾蓉便传于他妻子,又传于凤姐尤氏诸人,直传至供桌前,方传于王夫人。王夫人传于贾母,贾母方捧放在桌上。邢夫人在供桌之西,东向立,同贾母供放。直至将菜饭汤点酒茶传完,贾蓉方退出下阶,归入贾芹阶位之首。凡从文旁之名者,贾敬为首,下则从玉者,贾珍为首,再下从草头者,贾蓉为首,左昭右穆,男东女西,俟贾母拈香下拜,众人方一齐跪下,将五间大厅,三间抱厦,内外廊檐,阶上阶下两丹墀内,花团锦簇,塞的无一隙空地。鸦雀无闻,只听铿锵叮当,金铃玉珮微微摇曳之声,并起跪靴履飒沓之响。一时礼毕,贾敬贾赦等便忙退出,至荣府专候与贾母行礼。
・神主 shénzhǔ 位牌
・昭穆 zhāomù 宗教の制度やしきたりに則り、廟宇や墓所での世代や長幼の順によって並ぶ序列。
・焚池 fénchí 祭祀で線香やお供えを燃や燃やす器。
焚池
・挨次 āicì 順を追って。順次。
・長房長孫 chángfáng chángsūn 正妻、或いは第一夫人が生んだ最初の男の子、すなわち“長子”、そしてこの“長子”とその正妻、或いは第一夫人が生んだ最初の男の子、すなわち「嫡孫」のことを“長房長孫”という。
・左昭右穆 zuǒzhāo yòumù 昔、室内の座席の順位は東向きを最上席、次いで南向き、北向き、西向きとした。よって始祖は部屋では東向き、二世、四世、六世は始祖の左側、すなわち南を向き、これを“昭”と言った。三世、五世、七世は始祖の右側で、北を向いたので“穆”と言った。
・俟 sì 待つ。
・拈 niān 指先でつまむ。
・廊檐 lángyán ひさし(の下)
・丹墀 dānchí 宮殿の前の朱塗りの階(きざはし)。
・花団錦簇 huātuán jǐncù [成語]色とりどりに着飾った華やかな一団。
・鴉雀無聞 yāquè wúwén カラスや雀の鳴き声も聞こえない。たいへん静かなことの形容。
・鏗鏘 kēngqiāng 楽器のリズミカルな音。音楽のような音や声。
・叮当 dīngdang [擬声語]金属や磁器がぶつかり合う、ちりんちりんという音。
・玉珮 yùpèi 玉の装身具
・揺曳 yáoyè ゆらゆら揺れる
・颯沓 sàtà 多くの人の足音の形容。
[和訳] 何れも帝のお筆である。お堂の中は蝋燭が赤々と輝き、錦の掛け物や刺繍をした幕が掛り、位牌が並んでいるのだが、はっきりとは見えない。ただ賈府の人々がしきたりに則り並んで立っているのが見えただけである。賈敬が祭祀を主催し、賈赦はそれに付き従い、賈珍は爵を献じ、賈璉、賈琮は帛を献じ、香を捧げ、賈菖、賈菱は礼拝用の絨毯を広げ、焚池の番をした。青衣の人々が音楽を奏で、爵を三献し、拝礼が済むと、帛を燃やし酒をお供えし、礼拝が終わると、音楽は止まり、退出した。人々はご隠居様の周りに付き従い本殿へ登った。遺影の前には錦の幕が高く掲げられ、色とりどりの屏風で保護され、蝋燭の炎が赤々と輝いていた。正面には寧国府、栄国府それぞれの始祖の遺影が掛けられ、それらは皆金のウワバミの刺繍のある礼服を着、腰には玉を帯びていた。両側には更に何軸かの祖先の遺影が掛けられていた。賈荇、賈芷らは内儀門から順番に並んで立ち、その列は本殿のひさしの下まで続いた。敷居の外側には賈敬、賈赦、敷居の内側にはそれぞれの女性の親族が控えた。一家の召使たちは皆、儀門の外にいた。お供えの料理が到着する毎に、儀門まで運ばれ、賈荇、賈芷らが受け取ると、順番に手渡しで階(きざはし)の上の賈敬の所まで送られた。賈蓉は「嫡孫」であるので、彼だけが女達といっしょに本殿の敷居の内側に居た。賈敬が料理を捧げ持って来る度に、賈蓉に手渡され、賈蓉は妻に手渡し、それは又、煕鳳、尤氏などの手を経て、お供えのテーブルの前まで運ばれ、ようやく王夫人の手に渡った。王夫人はご隠居様にお渡しし、ご隠居様は料理を捧げ持つとテーブルの上に並べた。邢夫人はお供えのテーブルの西に、東を向いて立ち、ご隠居様といっしょにお供えの料理を並べた。料理、ご飯、スープ、お菓子、酒、茶を渡し終わると、賈蓉は退出して階(きざはし)を降り、賈芹を階位の首位とする列の中に戻った。凡そ名前の偏に「文」(“攵”)の付く者は、賈敬を首位とし、その次は名前に「王」の付く者で、賈珍を首位とし、その次は「草」冠の者で、賈蓉を首位とし、長幼の順、男女に分かれ、ご隠居様が香をつまんで拝礼されるのを待って、皆が一斉に跪くと、広さ五間の広間、三間の前殿、ひさしの内外、朱色で塗られた階の上も下も、色とりどりの着飾った人々が、あたりを埋め尽くして、少しの隙間も無かった。鳥のさえずりも聞こえず、ただ金属がぶつかり合うチリンチリンという音、金属の鈴や玉の装身具がかすかに揺れる音や、礼拝で立ち上がったり跪いたりする時の靴の足音が聞こえるだけだった。礼拝が終わると、賈敬、賈赦らは急いで退出し、栄国府へ行くと、ご隠居様のお戻りを待って挨拶をした。
(次回に続きます)