函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

麒麟がくる、桶狭間、天地人の戦い!!

2020-06-08 | 歴史

いよいよ桶狭間の戦いです。
歴史的には史上最大の逆転劇。

中々見応えがありましたね。

久し振りに見入ってしまいました

 
ドラマでは… 
義元と信長による心理戦として描かれていましたね。 
織田方の城を次々と落としていく今川軍。 
一見、順調そうに見えますが、そこには油断があっ

たのです。 
信長はわざと城を落とさせたのかも知れません。 
時を稼ぐ 為?

長は今川軍に油断が生まれるのをじっと待っていた

のでしょうか
 
定説では…緒戦で勝利した義元が窪地の桶狭間で行軍

を停止。 
酒宴を催していた義元の陣を信長軍がピンポイント攻撃。 
よく言われている桶狭間の戦いですが、最近では正面

突破で戦いを挑んだとの説が有力です。 
普通に考えると少ない軍勢で正面突破はかなり無謀な策

といえますが… 
状況を的確に分析、確勝とまではいかなくても勝てる可

能性が高まったからこそ信長は戦いに挑んだのです 
桶狭間の戦いは究極の情報戦だったのかも知れません。 
戦いの後の恩賞でも、義元を討ち取った毛利信介が一番

ではなく、今川軍の動向を探っていた梁田政綱が一番の

恩賞を受けた事からしても明らかです。 
 
今川は上洛が目的ではなくあくまでも織田との国境紛争 
だとすれば、今川軍の兵の数は意外と少なかった可能性

もあるのです。 
逆に、織田兵は2000と言われてきましたが、当時の信長

支配地の石高は40万石前後。 
織田家の存亡に係る戦となれば全軍で立ち向かった筈です。 
2000の兵の数はいかにも少なすぎます。

今川軍10000VS織田軍5000だとすれば十分に勝算が成り立

ちます。

長蛇の列で先頭から殿までかなりの長さだった今川軍。
織田領の支城 を落とすため兵の分散もあったとすれば…
ましてや自国領での戦いです。 
地の利も考慮すれば織田軍が勝っても何ら不思議有りません。 

今川軍の敗因は情報収集の失敗と織田軍を見縊り過ぎた事

が大きかったと個人的には思っています 
天候の悪化も織田軍に味方しました。 
時期的には梅雨時。 
以前読んだ事がある(梅雨将軍信長)の中にも書かれていまし

たが、雨で相手方の鉄砲を封じ、自軍の移動を敵方に悟られ

なくなるまで信長はじっと時を待っていたのです 
小説はあくまでもフィクションですが、当たらずも遠からず

かも?? 
信長ならあり得るかも知れません。 
桶狭間の戦いは信長にとって一生に一度あるか?ないか?の

天地人の戦いだったのだと思っている僕なのです。

 

 

 

 

コメント
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