人を信じ過ぎる弟と人を信じられない兄
兄弟としての情は有っても共存は出来そうにありません
首桶の前でも猜疑心を露わにして罵るのかとばかり思っ
ていましたが、ドラマとは言え、首桶を抱え嗚咽しなが
ら話しかける頼朝を見ていると何か切ないものを感じま
すよね
何とか秀衡の許へ辿り着いた義経でしたが、安住の地と
はなりませんでしたね
八カ月後に秀衡が亡くなりますが、亡くなる間際、義経
を担ぎ頼朝に対抗する様に遺言を残しますが…
秀衡は遺言だけでは心許なかったのでしょうか?
考えられない様な奇策を言い残したと言われています
何と、自分の正室と長男・国衡を結婚させるのです。
国衡と泰衡は父・秀衡の目から見てもかなり険悪だっ
たのでしょうね
曲がりなりにも、この結婚により国衡は泰衡の義父と
なる訳です。
窮余の一策ですが、国衡と泰衡の相続争いは収まった
感じがしません
頼朝による奥州征伐がもう少し遅ければ、遺言は反故
となり兄弟争いが続いた筈…
奥州征伐の直前に泰衡によって忠衡と通衡が攻め滅ぼ
された事を見ても明らかです
秀衡の遺言に忠実だった弟達を粛正したでしょうか? ?
国衡は鎌倉軍の和田義盛と戦い討ち死にしますが、そ
の後、坂を転げ落ちるように滅亡の道を進んだ感があ
ります
奥州に覇を唱えた藤原氏の最後としては呆気なさ過ぎ
ます
兵力と財力を兼ね備えていたにも関わらず、人に恵ま
れなかったとも言えますね。
大軍になればなるほど統率力が必要なのですが、泰衡
には無理だった見たいです
清衡→基衡→秀衡と三代の英雄の後なので仕方ありま
せん。
後北条氏の滅亡とだぶって見えるのは僕だけでしょう
か?
優秀な人材が四代も続く方が有りえない事なのかも知
れません
秀衡の正室と言われているのが徳尼公ですが、藤原基
成の娘です
基成は義経の母・常盤御前の再婚相手・一条長成の従
兄弟です。
平治の乱以前には陸奥守・鎮守府将軍として平泉に下
向。
この時に秀衡の父・基衡と誼を通じていたようですね
平治の乱では異母弟・藤原信頼に連座する形で陸奥国
に流され頼朝による奥州征伐まで居続けたと言われて
います。
義経が奥州藤原氏を頼ったのも頷けますね
奥州・藤原氏は秀衡が亡くならなければ簡単に滅亡す
る事はなかったと僕は思っています。
義経の首を差し出しても、攻め込まれるのは確実だと
秀衡なら普通に考えたでしょうね
座して死を待つより義経を大将軍として戦いを挑んだ
筈
息子を殺された武田信義をはじめ、反鎌倉として兵を
挙げそうな武士も相当数いたでしょうし、西と東から
挟み撃ちになれば屈強な坂東武者でもどうなったか分
かりません
もしかして?藤原秀郷の子孫だと言われている奥州藤
原氏が全国を統一した可能性すらあるのです
義経にとっては、返す返すも秀衡の死が悔やまれます
これも天命と言うものなのでしょうか??
運も実力の内と思うしかありませんよね