小沢一郎前幹事長は、「国家の興亡」を意識してディビッド・ロックフェラーとの「孤独な戦い」を続けてきた

2010年07月15日 20時27分15秒 | 政治
◆民主党の小沢一郎前幹事長は、民主党最大派閥(衆院130人、参院37人)を率いていながら、実は、対アメリカ、とくに対ロックフェラー第三世代末子(五男)のディビッド・ロックフェラー(94歳)とその手下たちと熾烈な戦いにおいては、極めて「孤独な戦い」を行っているようである。それは、日本国内では、小沢前幹事長と政敵との関係が国民の目にも、ある程度視界に入っているからである。これに反して、海外の敵を個々別々、具体的に見分けることは難しい。だから、大雑把に「アメリカ」とか「英国」とかという捉え方で受け止めて、議論するしかない。しかし、日本が外から攻撃される場合、実際には個々の担当者なり関係者なりが強い目的意識を持って攻め立ててくるのであり、漠然とした勢力が仕掛けてきているわけではない。必ず特定できる敵がいるのである。小沢前幹事長は、こうした具体的な認識を持って対外政治を行える数少ない政治家の一人である。過去には、岸信介元首相が、相手をよく見極めて、国家の興亡に携わっていた。大変優れた政治家であった。その岸政権下、衆院衆議院安全保障条約等特別委員長を務めていたのが、小沢前幹事長の実父・小沢佐重喜元運輸相だった。
 そこで、まず、小沢前幹事長が、孤独な戦いを進めてきた経緯をザッと整理しておかなくてはならない。私は、拙著「民主党政変 政界大再編」(ごま書房新社刊)で、以下のようにまとめているので、紹介しておく。
 国家の興亡にかかわる防衛政策は、日本国憲法第九条の改正に踏み切るかどうかによって、大きく分かれる。そこで小沢一郎は、いかなる防衛政策を持っているのかを知るには、小沢一郎がこれまでの人生の過程で、アメリカとどう関ってきたかを確認しておく必要がある。
〔1〕太平洋戦争は、日本の総資本(三井、三菱などの財閥)とアメリカの総資本(ロックフェラー、ロスチャイルなどの財閥)の対立を背景とする国家どうしの総力戦であった。日本が戦った真の敵とは、アメリカの総資本であったという戦争の本質を無視してはならない。
〔2〕日本はアメリカの軍門に下り、武装解除・戦争の永久放棄、戦力不保持を核とする日本国憲法を与えられ、アメリカ従属国となった。(終戦時、小沢一郎は三歳)
 〔3〕日本国憲法改正に向けて、小選挙区制度導入への動きに出る。真の独立国への再出発であった昭和三五(一九六〇)年、父・小沢佐重喜(元建設相)は、日米安保改定当時の衆議院日米安保特別委員長で、憲法改正のため小選挙区制度導入に向けて準備中、他界した。小沢一郎は昭和四四年(一九六九)一二月二七日、父の遺志を受け継いで政界入りする。
 〔4〕田中角栄首相は小選挙区制度導入を閣議決定したものの、オール野党の反対に阻まれ、原子力の独自開発に乗り出してアメリカに睨まれ、失脚した。小沢一郎は、その姿を目の当たりにする。
 〔5〕小沢一郎はバブル経済の最中、竹下登首相が東京と大阪の株式市場に新たに導入した「TОPIX日経平均株価」の先物取引(裁定取引)により日本の富が歯止めなくアメリカに流出する状況を見て憤激した。それは、竹下首相がアメリカ資本に強要されて日本の富が収奪されながら放置している姿があったからである。竹下登はアメリカに隷従していた。小沢一郎は金丸信副総裁とともにこれを食い止めようとして新党づくりに乗り出す。だが、金丸副総裁は、志半ばにして失脚した。
 やや古い話のように聞こえるかも知れないが、「日米関係」の歴史を振り返ってみれば、事の本質と重大さがわかるのである。
 アメリカの対日要求に対して、「日本民族」を守るために「めくらまし」してきた政治家は、民主党の「小沢一郎」副代表と、もしかしたら「小泉純一郎」首相かも知れない。
 まず、「小沢一郎」である。バブル経済がピークに差しかかった昭和63年9月3日、竹下政権の下で「TOPIX-日経平均株価を先物で売買」する「裁定取引」が東京と大阪の証券取引所に導入された。平成元年12月29日、ピークとなり以後、下落が始まる。主にソロモン・ブラザーズ証券とメリルリンチ証券とにより、わずか半年で「四〇兆円」もの資金がアメリカに流出した。取引を中止する「サーキット・ブレーカー」がセットされておらず、資金流出を食い止められなかった。バブル経済は平成四年八月一八日に終わる。「TOPIX-日経平均株価を先物で売買」する「裁定取引」は、アメリカ・レーガン政権の圧力で強要されて導入された。
 アメリカは、双子の赤字(財政赤字、貿易赤字)を解消させようとして、日本の株式市場から資金をアメリカに還流させた。
 実は、昭和六〇年九月二二日のプラザ合意により、日米英仏独5か国が、為替市場に協調介入して、一ドル=二三〇円を一気に一〇〇円台に突入させ、日本の資金を為替市場を通じて、アメリカに還流させていた)
 小沢一郎は、「サーキット・ブレーカー」をセットするように竹下首相に要求したが、アメリカからの圧力を恐れた竹下首相は、これを拒否した。小沢一郎は、ここに至って、「自分でセットしなくてはならない」と考え、自民党を出て、新党をつくり、政権を樹立して、自らこれを実現しようとした。
 平成五(一九九三)年六月、自民党を脱党し、「新生党」を結党し、七月一八日の総選挙で自民党を破り、下野させ、細川政権を樹立した。平成六(一九九四)年二月一四日、「サーキット・ブレーカー」に成功する。日本の株式市場から資金が、野放図に還流していくのが食い止められるようになった。
 ここで、小沢一郎は、一応目的を達した。
 だが、アメリカ・クリントン政権は、「対日金融戦争」を仕掛けてきた。保険・証券・銀行に打撃を与え、圧力に屈した橋本政権に「日本版金融のビッグバン」(日本では、平成8年=1996年=に橋本龍太郎首相の指示により、日本の金融市場を平成13年=2001年=までにニューヨーク、ロンドンとならぶ国際金融市場として再生させるための金融システム改革が行われ、フリー、フェア、グローバルの3原則が採用)断行を決意し、橋本政権が平成一〇(一九九八)年四月一日から、本格的に実行し始める。日本国民を「貯蓄型民族」から「投資型民族」に改造し、個人金融資産を銀行や郵便局から、株式や投資信託、外貨預金などの投機性の高い金融商品に振り替えて、積極投資させようと誘導したのである。その総仕上げが、「ペイオフ」であった。
 アメリカ・ブッシュ政権は、クリントン政権下にFRB議長に就任したグリン・スパンを引き続いて任用し、「対日金融政策」をさらに強化させた。その中核が「郵政民営化」による「三五〇兆円」の資本市場への解放であった。
 小泉首相は、ライフワークとも言うべき「郵政民営化」に命を賭けていた。首相が言うように「郵政民営化一つができなくて、どうしてほかの改革ができるのか」ということである。
 しかし、小泉首相は、「巧妙」にも「民営化」の実施時期を「一〇年先」に遅らせ、実質的にアメリカの対日要求の受け入れを先延ばしする方策を採用した。一年後には、小泉政権は次の政権にバトンタッチされており、一〇年先にブッシュ政権が存在しているわけではない。ましてや日本には「10年ひと昔」という言葉がある。ひょっとしたら、みんな忘れてしまっているかもしれない。
 その間に、いくらでも「骨抜き」ができる。場合によっては、「民営化」を「一〇〇年先に延ばそう」ということになるかも知れないのである。この結果、日本民族の「虎の子」とも言うべき「個人金融資産三五〇兆円」は、しっかりと守られていくことになる。
 アメリカの対日金融政策の意図をしっかり読み解くには、欠かせない人材である。(ただし、日本がアメリカに放った「内間」=敵国に送り込んだスパイ=のはずの竹中平蔵郵政民営化担当相が実は、アメリカに「反間」=味方のスパイが敵に逆利用されてしまうこと=にされていた疑いがある。「軍鶏のケンカ」のように派手、派手しなくては、アメリカ・ブッシュ大統領への「めくらまし」は成功しなかったのである。
〔6〕小沢一郎は、日本が国際金融資本からの総攻撃を受けるなか、常にアメリカを強烈に意識し、「日米の対等な関係」構築を目指して政権奪取に全精力を傾注した。
〔7〕国民個人金融資産が国際金融資本に収奪されたため、小沢一郎は、金融機関建て直しに尽力する。
〔8〕小泉純一郎、竹中平蔵ら市場原理主義者に対抗し、ロックフェラー財閥との戦いに打って出て、郵政資産管理権の奪還闘争を繰り広げている。郵政民営化問題には、「官から民へ」というシステムの変革という一面にのみとらわれていると、「国際金融資本から収奪される危険」を「許容するのか否か」という側面の2つの面があることをしっかりと自覚する必要がある。小沢一郎が共闘を組んでいるのは、国民新党の亀井静香代表、社会民主党の福島瑞穂党首である。

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