「元興寺縁起」の「隋使」来倭記事について
先に「呉国記事」について「隋初」のものではないかという推定をしたわけですが、それは「元興寺」の「丈六仏像」の光背に書かれたという「裴世清」の来倭についての文章の考察からも裏付けられると思われます。
(以下「丈六仏像」の光背銘文を抜粋)
「…歳次戊辰大隨國使主鴻艫寺掌客裴世清 使副尚書祠部主事遍光高等來奉之。…」
ここでは「書紀」と違う「隨」という国名が現れています。この「隨」という表記は「唐代」には余り一般的ではなかったということも言われ、「隋書」では「文帝」により「隨」を諱んで「隋」と変えられているとされるものの、実際には「初唐」の「書」の達人である「歐陽詢」が書いたという「皇甫誕」(「隋」の将軍)の碑文中にも「『随』文帝」という表記が確認できます。
これについては、『重刊宋本十三經注疏附校勘記/重栞宋本尚書注疏附�厨勘記/虞書/附釋音尚書注疏卷第三/舜典第二..[清嘉慶二十年(一八一五)南昌府學刊本]』の中に以下のような文章があり、これに施されている「校訂」の文が注目されます。
「…正義曰此有鞭刑則用鞭久矣周禮滌狼氏誓大夫曰敢不關鞭五百左傳有鞭徒人費圉人犖是也子玉使鞭七人衞侯鞭師曹三百日來亦皆施用『大隨』造律方使廢之治官事之刑者言若於官事不治則鞭之蓋量?加之未必有 定數也…」
この文章の中に「大隨」が出てきますが、この語に対する「校訂」として以下のように書かれています。
「山井鼎曰隨恐隋誤。按此?非也。唐人書隋字多作隨。歐陽詢書皇甫誕諸碑可証」
つまり「随」は「隋」の誤りであろうという指摘に対して、それは違うというのです。「唐人」は多く「隋」を「隨」と作るとされ、それは「歐陽詢」の「皇甫誕」(隋の将軍)についての碑文等に明らかであるというわけです。実際に「皇甫誕」の碑文中には「随文帝」という表記が確認できます。これらのことから「随」あるいは「隨」は「碑文」が書かれた「初唐」段階の表記として不自然ではないという判断が出来ると言うこととなるでしょう。そうなると「隨」という表記からだけでは「時代」を特定することはできないこととなります。
またここには「副使」として「遍光高」という人名が書かれています。このような「裴世清」以外の人名のデータも「書紀」にはなく、これらは「書紀」と異なる原資料に依拠したものと言え、「書紀」の「二次資料」というような単純な捉え方はできないことを示します。(ただし「歳次」は「書紀」の記述に依っていると考えられますが)
また、その「副使」とされる「遍光高」の肩書きとして、「尚書祠部」という表記が現れています。この職名は史料によれば「北周以前」に多く現れるものであり、一般には「北周」以降は「尚書禮部」へと替わったとされています。しかし、資料によれば「隋初」にも「尚書祠部」は登場しているようです。
(隋書 卷五十七 列傳第二十二/盧思道 從父兄昌衡/勞生論)
「…昌衡字子均。父道虔,魏尚書僕射。昌衡小字龍子,…。
『開皇初,拜尚書祠部』侍郎。高祖嘗大集羣下,令自陳功績,人皆競進,昌衡獨無所言。…」
ここでは「開皇初,拜尚書祠部侍郎」とありますから、「六世紀代」の「文帝」の治世の期間であると考えられ、その時点では「尚書祠部」が存在していたことを示すものです。
「隋」は「周」から「禅譲」されたにも関わらず「周制」は一部しか継承せず、その前代の「北斉」の制度にほぼ依っているとされます。その「北斉」にも「尚書祠部」は存在していました。「隋」はこれを継承したのではないでしょうか。そして「開皇中」に「祠部」が拡大され「禮部」の一部へと編成替えになったようです。
(北齊書 卷二十四 列傳第十六/陳元康)
「…元康子善藏,?雅有鑒裁,武平末假儀同三司、給事?門侍郎。『隋開皇中,尚書禮部侍郎。』大業初,卒於彭城郡贊治。…」
ここでは「開皇中」とされますから「文帝」段階で既に「尚書禮部」という表記が一般的になっていたと見られます。(実際の出現例も同様の傾向を示し、「尚書祠部」の出現例の多くが「隋」より前の王権においてであり、「尚書禮部」の例は多くが「隋」以降となっています)
つまり「尚書祠部」という職名の存在期間としては「七世紀」よりも前であることが推定され、このことから「元興寺縁起」に書かれた「遍光高」の来倭は「六世紀代」の「開皇年中」、しかもその前半であるという推定が可能であることとなります。
またそれは「鴻臚寺掌客」という官職名にも現れていると思われます。上に見るように「元興寺縁起」では(「書紀」でも)「裴世清」は「鴻臚寺掌客」という官職名であることが示されていますが、この「鴻臚寺掌客」が「鴻臚寺典客署掌客」という正式な官職名の縮約であったとすると、これは「隋」の始めに「文帝」により制定された官制にあるものであり、その意味からは「隋代初期」という時期がもっともふさわしいともいえるでしょう。
そうであれば、「書紀」にある(しかも皇帝からの「詔」の文中に存在する)「鴻臚寺掌客」というものは、「派遣」時点における彼の本来の「職掌」そのものであると考えざるを得ないわけであり、その意味からも「倭国」に国書を持参した際の「裴世清」は「文林郎」ではなかったと見るしかないこととなります。つまり、「隋代初期」に「鴻臚寺掌客」であったものが次の来倭時点(大業三年)では「文林郎」となったと考えるとスムースではないでしょうか。その場合「官位」の矛盾は起きません。
つまり「唐」の時代に来倭したとするより「隋代初期」に来倭したと考える方が「冠位」の変遷からも無理がないと言えると思われます。(続く)