古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

遣隋使と遣唐使(7)

2014年04月14日 | 古代史

「元興寺縁起」の「隋使」来倭記事について
 先に「呉国記事」について「隋初」のものではないかという推定をしたわけですが、それは「元興寺」の「丈六仏像」の光背に書かれたという「裴世清」の来倭についての文章の考察からも裏付けられると思われます。
(以下「丈六仏像」の光背銘文を抜粋)

「…歳次戊辰大隨國使主鴻艫寺掌客裴世清 使副尚書祠部主事遍光高等來奉之。…」

 ここでは「書紀」と違う「隨」という国名が現れています。この「隨」という表記は「唐代」には余り一般的ではなかったということも言われ、「隋書」では「文帝」により「隨」を諱んで「隋」と変えられているとされるものの、実際には「初唐」の「書」の達人である「歐陽詢」が書いたという「皇甫誕」(「隋」の将軍)の碑文中にも「『随』文帝」という表記が確認できます。
 これについては、『重刊宋本十三經注疏附校勘記/重栞宋本尚書注疏附�厨勘記/虞書/附釋音尚書注疏卷第三/舜典第二..[清嘉慶二十年(一八一五)南昌府學刊本]』の中に以下のような文章があり、これに施されている「校訂」の文が注目されます。

「…正義曰此有鞭刑則用鞭久矣周禮滌狼氏誓大夫曰敢不關鞭五百左傳有鞭徒人費圉人犖是也子玉使鞭七人衞侯鞭師曹三百日來亦皆施用『大隨』造律方使廢之治官事之刑者言若於官事不治則鞭之蓋量?加之未必有 定數也…」

 この文章の中に「大隨」が出てきますが、この語に対する「校訂」として以下のように書かれています。

「山井鼎曰隨恐隋誤。按此?非也。唐人書隋字多作隨。歐陽詢書皇甫誕諸碑可証」

 つまり「随」は「隋」の誤りであろうという指摘に対して、それは違うというのです。「唐人」は多く「隋」を「隨」と作るとされ、それは「歐陽詢」の「皇甫誕」(隋の将軍)についての碑文等に明らかであるというわけです。実際に「皇甫誕」の碑文中には「随文帝」という表記が確認できます。これらのことから「随」あるいは「隨」は「碑文」が書かれた「初唐」段階の表記として不自然ではないという判断が出来ると言うこととなるでしょう。そうなると「隨」という表記からだけでは「時代」を特定することはできないこととなります。
 またここには「副使」として「遍光高」という人名が書かれています。このような「裴世清」以外の人名のデータも「書紀」にはなく、これらは「書紀」と異なる原資料に依拠したものと言え、「書紀」の「二次資料」というような単純な捉え方はできないことを示します。(ただし「歳次」は「書紀」の記述に依っていると考えられますが)
 また、その「副使」とされる「遍光高」の肩書きとして、「尚書祠部」という表記が現れています。この職名は史料によれば「北周以前」に多く現れるものであり、一般には「北周」以降は「尚書禮部」へと替わったとされています。しかし、資料によれば「隋初」にも「尚書祠部」は登場しているようです。

(隋書 卷五十七 列傳第二十二/盧思道 從父兄昌衡/勞生論)
「…昌衡字子均。父道虔,魏尚書僕射。昌衡小字龍子,…。
『開皇初,拜尚書祠部』侍郎。高祖嘗大集羣下,令自陳功績,人皆競進,昌衡獨無所言。…」

 ここでは「開皇初,拜尚書祠部侍郎」とありますから、「六世紀代」の「文帝」の治世の期間であると考えられ、その時点では「尚書祠部」が存在していたことを示すものです。
 「隋」は「周」から「禅譲」されたにも関わらず「周制」は一部しか継承せず、その前代の「北斉」の制度にほぼ依っているとされます。その「北斉」にも「尚書祠部」は存在していました。「隋」はこれを継承したのではないでしょうか。そして「開皇中」に「祠部」が拡大され「禮部」の一部へと編成替えになったようです。

(北齊書 卷二十四 列傳第十六/陳元康)
「…元康子善藏,?雅有鑒裁,武平末假儀同三司、給事?門侍郎。『隋開皇中,尚書禮部侍郎。』大業初,卒於彭城郡贊治。…」

 ここでは「開皇中」とされますから「文帝」段階で既に「尚書禮部」という表記が一般的になっていたと見られます。(実際の出現例も同様の傾向を示し、「尚書祠部」の出現例の多くが「隋」より前の王権においてであり、「尚書禮部」の例は多くが「隋」以降となっています)
 つまり「尚書祠部」という職名の存在期間としては「七世紀」よりも前であることが推定され、このことから「元興寺縁起」に書かれた「遍光高」の来倭は「六世紀代」の「開皇年中」、しかもその前半であるという推定が可能であることとなります。
 またそれは「鴻臚寺掌客」という官職名にも現れていると思われます。上に見るように「元興寺縁起」では(「書紀」でも)「裴世清」は「鴻臚寺掌客」という官職名であることが示されていますが、この「鴻臚寺掌客」が「鴻臚寺典客署掌客」という正式な官職名の縮約であったとすると、これは「隋」の始めに「文帝」により制定された官制にあるものであり、その意味からは「隋代初期」という時期がもっともふさわしいともいえるでしょう。
 そうであれば、「書紀」にある(しかも皇帝からの「詔」の文中に存在する)「鴻臚寺掌客」というものは、「派遣」時点における彼の本来の「職掌」そのものであると考えざるを得ないわけであり、その意味からも「倭国」に国書を持参した際の「裴世清」は「文林郎」ではなかったと見るしかないこととなります。つまり、「隋代初期」に「鴻臚寺掌客」であったものが次の来倭時点(大業三年)では「文林郎」となったと考えるとスムースではないでしょうか。その場合「官位」の矛盾は起きません。
 つまり「唐」の時代に来倭したとするより「隋代初期」に来倭したと考える方が「冠位」の変遷からも無理がないと言えると思われます。(続く)

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遣隋使と遣唐使(6)

2014年04月09日 | 古代史

 「推古紀」には「呉国」に派遣されたという「百済僧」達が「肥後」に流れ着いたという記事があります。

「(推古)十七年(六〇九年)夏四月丁酉朔庚子条」「筑紫大宰奏上言。百濟僧道欣。惠彌爲首一十人。俗人七十五人。泊于肥後國葦北津。是時。遣難波吉士徳摩呂。船史龍以問之曰。何來也。對曰。百濟王命以遣於呉國。其國有亂不入。更返於本郷。忽逢暴風漂蕩海中。然有大幸而泊于聖帝之邊境。以歡喜。」

 この記事について「古田氏」は、「初唐」の時期の「江南付近」に起きていた混乱の中で「百済」の使者が入国できなかったとしているわけであり、さらにその混乱の中に「呉」という国が当時存在していた事を挙げて、これが「唐」の高祖からの国書である傍証としています。 
 「江南」地方が当時混乱の中にあったことは確かであり、また「呉国」も存在していましたが、この「呉国」は「武徳二年」に「李子通」という人物が「皇帝」を名のり「国号」を「呉」と号したとされているものです。しかし、これは僅か二年間の短命政権であったものであり、しかも彼はそれまでの「陳王朝」やそれ以前の王朝の関係者でもなく「皇帝」を名乗るどのような「大義名分」もない人物であり、いわば(悪く言うと)「山賊」のような人物が興した国であるわけですから、この「呉」が短命に終わるのも道理であるわけです。
 この「呉」がそのような「泡沫」的な国であったとした場合、そこに「百済王」が遣使しようとするものかということを考えると、傍証とするには無理があると思われます。(「古田氏」は「江南」から「長安」へ行くという理解をしていますが、「書紀」にはそのような記述はありません。そこには明確に「百濟王命以遣於呉國」とされており、この「呉国」が最終目的地であることを示しています。)
 この「呉国」という国に「百済王」が使者を派遣しているという実態は、ここに示す「呉」が「南朝」を指すものなのではないかという疑いが生じます。ただし「百済王」が「南朝」を指して「呉」という表現はしないと思われ(これは「隋・唐」政権による「南朝」に対する蔑称ですから)、これは「書紀」編者の「改定」であることを示唆します。
 「書紀」内で「呉国」という表現は全て「南朝」に対して行なわれており、それは「書紀編者」が(前項でも述べたように)「唐」の大義名分に全面的に同意・共鳴していることを示すものですが、その意味からもこの「呉国」とは「南朝」を指すと考えるべきではないでしょうか。しかし、もしそうであるとすると、これが「初唐」の頃であったとした場合「隋」成立とそれに伴う「南朝」の滅亡という「六世紀末」の時勢の推移を「百済」が知らなかったか、全く無視していたと言うこととなってしまうと思われますが、それはあり得ないといえるでしょう。なぜなら「南朝(陳)」が滅びた際に(五八九年)「隋皇帝」に対し「陳」が平らげられたことを賀す使者を派遣している事実があるからです。

(隋書/列傳 第四十六/東夷/百濟)
「…平陳之?,有一戰船漂至海東〔身?冉〕牟羅國牟羅國,其船得還,經于百濟,昌資送之甚厚,并遣使奉表賀平陳。…」

 これによれば「〔身+冉〕牟羅國」(これは今の済州島か)に漂着した「戦船」(軍艦)が「百済」を経由して帰国した際に「使者」を同行させ、その「使者」が「平陳」を賀す表を奉ったとされているのです。つまり「百済王」は「南朝」が亡ぼされたことを知っているわけですから、「初唐」の時期に「南朝」に遣使する、というのは「あり得ない」こととなるでしょう。このことから、「百済」が「呉国」へ使者を派遣したとすると、この記事は「南朝」が滅びて間もない頃でまだ「百済」がそれを「認識」していなかった「五八九年以前」のことと想定せざるを得ないこととなります。
 またこの想定はこの時の「百済僧」達の中に後の「福亮」という人物がいたのではないかと考えられていることにもつながります。
 「福亮」については「呉僧」「呉人」とされていること、「元興寺」に住していたとされていること、元々は「民間人」であったらしいことなどが知られており、それらの伝えられていることから、彼が「倭国」に来たのはまだ「呉」の国が存在していた時期であったのではないかと考えられます。上に見る「肥後」に流れ着いたという「百済僧」達はその後「本国」に還らず「元興寺」に住んだとされていますから、その意味でも「福亮」という存在とつながるものといえるでしょう。
 このように「呉国記事」がその本来の年次である「隋初」から移動されているとすると、それに先立つように並べられて書かれている「裴世清」来倭記事についても「隋代初期」の頃のことを記したものという「疑い」が生じることとなると思われます。(続く)

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遣隋使と遣唐使(5)

2014年04月06日 | 古代史

 「古田氏」は「裴世清」が国書を持参したという「推古紀」記事が実際には「初唐」の時期のものである「傍証」として以下の「舒明紀」にある「百済」の「義慈王」が「王子」である「豐章(扶余豊)」を「質」として「倭国」に派遣したという記事に疑いを持たれました。この実際の年次として十年以上繰り下げた「六四一年付近」へと移動させて理解され、それは「遣隋使」記事と同じ「ずれ方」であるとして、「遣隋使」が実際には「遣唐使」であるという論の補強とされました。

「(舒明)三年(六三一年)三月庚申朔条」「百濟王義慈入王子豐章爲質。」

 確かに、「義慈王」が「百済国王」となったのは「六四一年」であり、それから考えると「扶余豊」が「質」とされたのは「義慈王」がまだ「皇太子」時代のこととなりますから不審といえばその通りです。人質はそれなりに位の高い人物でなければならず、現国王の「孫」というのではそれこそ多数に上る訳ですから「質」としての価値はそう高くないこととなるでしょう。

 そもそも相手国から見てある程度「質」を差しだした国の政治的行動範囲を制約せざるを得なくなるほどの近親の人物でなければ「質」としての意味がないと思われます。そう考えると、「義慈」が「百済王」となった時期(六四一年)という段階以降に「倭国」へ「人質」を差しだしたと仮定した方が合理的であると言えるのは理解できます。その場合であれば「新百済王」としての「倭国重視」というその後の大動乱につながる政治的スタンスも良く理解できることとなるでしょう。そう考えると、「百済王子豐章爲質」という記事は「義慈王」即位時点付近の記事という可能性もあることとなります。そして、その場合は「十~十二年ほど」の年次移動が行なわれているという可能性があることは確かですが、その意味では「古田氏」の見解については首肯できる部分はあるものの、問題は、その「ずれ方」がどの程度まで遡及するものかということではないでしょうか。
 それは「隋代」と「唐代」というように時代区分が違うことでもわかるように年次として大きく離れていることもからも、そのような「義慈王」記事と「遣隋使」記事とを同一に扱うことの難しさを示しています。「書紀」の記事移動があったとしてもそれは「隋書」の網羅する年代に留まるのではないかという可能性がある事を示すものです。

 「倭国側」では「書紀」の編集段階において明らかに「隋書」を見ていると思われます。しかし、当然「旧唐書」を見ることができたはずはありません。「旧唐書」は「八九五年」の完成とされていますから、「書紀」の編纂時期とは大きく異なるといえるものです。そうであれば、「初唐」の時期の外交資料は純粋に国内に残存していたものを資料としていたとも考えられます。
 つまり「書紀」が(「推古紀」が)「隋書」を見て書かれたとすると、それから続く「唐代」の時期の記事には参照すべき「中国資料」が存在していないこととなります。(「六四八年」以降は「起居が通じた」とされますから、それなりに参照資料があったでしょうけれど、それ以前については参照すべき資料がないということとならざるを得ません)それに対し上に見たように「書紀」の「隋代」の記事は「隋書」に「合わせる」ために年次を変更して書かれていると考えられますが、そのことはそのような「年次移動」が「初唐」の時代まで及ぶとは思われないことを示します。
 このことから、「書紀」の編纂段階では「初唐」に関しては当時国内に残っていた何からの資料を参考にせざるを得なかったものと見られ、「初唐」の資料と「隋代」の資料とはそもそも「セット」として考えられていたとは思われないこととなります。もし「扶余豊」の「質」の記事が本来の年次ではないところに書かれていたとしても、それが「隋代」まで遡及すべきものか(あるいは「隋代」から続くものか)は別途証明が必要なのではないでしょうか。(続く)

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遣隋使と遣唐使(4)

2014年04月04日 | 古代史

「書紀」の地の文には「隋」という国名は一切現れません。書かれているのは「大唐」、ないしは「唐」です。また「唐使」であり「唐客」であり「唐帝」です。「隋代」であるはずの年次記事についても全て「唐」と書かれています。このような「書紀」の記述に対して「古田氏」はそれが実際の「唐」の時代のことであり、「遣唐使」であり「唐使」であるからそこに「唐」「大唐」とあるのだと論証されています。そこでの主張はまことに明解ではあるものの、他の理解も成立する余地がないとはいえないと思われます。それは「書紀」編者が「隋」という表記を「忌避」していたのではないかと考えられる事です。
 「古田氏」も触れているように「隋」という国名及び「煬帝」という人名はただ一度だけ「高麗」から使者が来て「隋」を打ち負かしたと述べる部分だけに現れます。

「(六一八年)廿六年秋八月癸酉朔条」「高麗遣使貢方物。因以言。隋煬帝興卅萬衆攻我。返之爲我所破。故貢獻俘虜貞公。普通二人。及鼓吹弩抛石之類十物并土物駱駝一疋。」

 これによれば「隋」と「煬帝」は「高麗」を攻めたものの逆に「破られた」とされており、ここでは「隋」と「煬帝」は「立場」を失わさせられています。このような場面にしか「隋」「煬帝」が出てこないと言うことは、「書紀」は「隋」「煬帝」に対し「良い印象」を抱いていないからであることは間違いありませんが、それは「唐」との関係を主たるものとする立場からのものであったと思われます。
 「隋」に対しては「友好的」な取扱いとはせず、「貶める」あるいは「なかったこととする」という編集方針であったものと思われるのです。つまり「隋」と「倭国」に存在していた「関係」は基本的には「伏せる」という編集方針であったものではないでしょうか。
 それは「書紀」編集時点における「唐」との関係から来る「追従」であったともいえるかもしれません。つまり「唐」の持つ大義名分を「過去」に延長した結果、「隋」という国名が「地の文」として現れる事がなくなったとも言えるでしょう。それは「唐」に「おもねった」結果であるともいえます。
 「隋」は「唐」からは嫌われていましたし、その「隋」と友好関係を持とうとしたあるいは持った過去があることをできれば隠したいという思惑があったと考えられるのです。
 これを「書紀」編集時点においての国名表記とする向きもあるようですが、「隋代」以前には使用されていないことから、あくまでも「隋」を「消去」するためのものであると思われます。それはこの「書紀」が「唐」の「目に触れる」という機会があった可能性があるからです。
 「書紀」は「唐」の「目」を意識して書かれているというのは有名な話であり、だからこそ(「古田氏」の説とは逆に)「事実」を曲げてまで隠そうとしたのではないでしょうか。意味内容が悪かったこと(戦いに負けたなど)は「隋」のこととして書き、それ以外(良いことや問題ないこと)は「唐」のこととして表記するという編集方針であったものではないかと推察されるのです。
 そう考えると一概にこれが「唐」の時代のことであったからという理解だけが成立可能とはいえないと思われます。(続く)

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遣隋使と遣唐使(3)

2014年04月03日 | 古代史

「天命」については「初代皇帝」にかぎられ、しかも「禅譲」された場合は該当しない可能性が高いと思量されます。
 たとえば(後代の例ですが)「北宋」が「金」に「華北」を奪われた後建国された「南宋」の皇帝に奉られた「詩文」に以下のようなものが見出せます。

(宋史/志第九十二/樂十四 樂章八/冊立皇后/嘉定十五年皇帝受「恭膺天命之寶」三首より)
「恭膺天命之曲,太蔟宮 我祖受命,恭膺于天。爰作玉寶,載祗載虔。申錫無疆,神聖有傳。昭茲興運,於萬斯年。」

 「南宋」を建国した人物は「北宋」が滅亡した際の「皇帝」の弟であり、彼が「江南」の地に改めて「南宋」を建国したものですが、この場合明らかに「禅譲」ではないわけですから、「寶命」が使用されていないのは当然ともいえます。その彼について「我祖」と書かれ、また「皇帝受恭膺天命」と書かれているのは、まさに「天」以外には彼を皇帝にすべしとした「権威」「権力」「王朝」がなかったことを示しますから、まさに「受命」があったとするしかないわけです。
 彼の「皇帝即位」は当然のことながら、はなはだ「異例」のことであり、「北宋」が亡ぼされるというような状況がなかったら、彼が即位するというようなことにはならなかったはずですから、周囲からみて彼に対し「受命」があったと見るのはある意味当然でもあり、そのような人物に対しては「天命」が使用され、「寶命」は使用されていないわけです。

 この例外とも言えるのは「隋の文帝」です。彼は「禅譲」により「隋王朝」を創始したわけですが、彼はほとんどの場合「天命」を使用し、「寶命」はごく少数です。彼が前例を覆して「天命」を多く使用している理由は、彼が「仏教」に深く帰依していたことと関係があると思われます。
 彼は「即位」して直ぐに「仏教」を保護・回復したわけですが、その彼について「三十三天」から守護を受けたために「天子」と称したという記事があり、このことと「天命」自称は関係しているのではないかと思われます。

(大正新脩大藏經/第四十九卷 史傳部一/二○三四 ?代三寶紀/卷十二譯經大隨)
「開皇十七年翻經學士臣費長房上
大隋?者。我皇帝受命四天護持三寶。承符五運宅此九州。故誕育之初神光耀室。君臨已後靈應競臻。所以天兆龜文水浮五色。地開泉醴山響萬年。雲慶露甘珠明石變。聾聞瞽視瘖語躄行。禽獸見非常之祥。草木呈難紀之瑞。豈唯七寶獨顯金輪。寧止四時偏和玉燭。是以金光明經正論品云。因集業故得生人中。王領國土。故稱人王。處在胎中諸天守護。或先守護然後入胎。三十三天各以己德分與是王。以天護故稱為天子。…」

 このように「隋」の「文帝」の場合は、「仏の保護者」としての意識を全面に出したことから、「天子」を名乗ったものと思われ、それはこの「天」が「三十三天」の「天」であると見られることを意味するものです。このため「天命」という用語が使用しやすかったとも言えるでしょう。さらに、彼は「前朝」から「王権」を「禅譲」されたものの、「廃仏毀釈」を全面的に改めるという一種「大改革」を行ったものであり、このことは「前朝」からの「継承」という意識を捨てていた部分があったものと受け取られることなります。そのため「天命」という用語を使用しやすい立場(心境)にあったともいえるでしょう。
 このように「文帝」は「天命」という使用例が多いのは確かではあるものの、「隋書」中に現れる「寶命」は(二例確認できます)、そのいずれも「文帝」に関係して使用されているのもまた事実であり、「煬帝」との関係は確認できません。一つは「文帝」自身の言葉として表れる「考元矩」(皇太子婦人の父)に対するものであり、一つは「煬帝」の治世下で「薛道衡」という人物が先帝である「文帝」の治世を賞賛する「頌」を上表するという場面で現れ、これに「煬帝」が不快の念を示すというものです。つまりいずれも「文帝」に関連して使用されているものであり、「煬帝」との関係は確認できません。このことから「寶命」という用語と「文帝」とが特に関係が薄いというような判断はできないと思われ、「倭国」への国書で「寶命」が使用されていても取り立てて「不審」とは言えないと思われます。
 ただし、「文帝」の「高麗」への国書では「天命」が使用されています。

(隋書/列傳第四十六/東夷/高麗)
「… 開皇初,頻有使入朝。及平陳之後,湯大懼,治兵積穀,為守拒之策。十七年,上賜湯璽書曰 朕受天命,愛育率土,委王海隅,宣揚朝化,欲使圓首方足各遂其心。王?遣使人,?常朝貢,雖稱藩附,誠節未盡。王既人臣,須同朕德,而乃驅逼靺鞨,固禁契丹。諸藩頓顙,為我臣妾,忿善人之慕義,何毒害之情深乎。太府工人,其數不少,王必須之,自可聞奏。昔年潛行財貨,利動小人,私將弩手逃竄下國。豈非修理兵器,意欲不臧,恐有外聞,故為盜竊?時命使者,撫慰王藩,本欲問彼人情,教彼政術。王乃坐之空館,嚴加防守,使其閉目塞耳,永無聞見。有何陰惡,弗欲人知,禁制官司,畏其訪察。又數遣馬騎,殺害邊人,屢騁姦謀,動作邪?,心在不賓。…」

 この「書」は「開皇十七年」という時点での「高麗」に対する「詰問」が書かれており、それはそれまでの関係の見直し(再構築)を視野に入れていることがわかります。このような場合には「天命」が使用され、しかもそこには「恭」「欽」などの「謙譲」の語が全く使用されていません。「居丈高」ともいえる語調となっています。
 ここでは明らかに「天命」を受けたことを背景に「武力」を前面に出して「威圧」ともいえる態度に出ており、それは以前からの「中国北朝」と「高麗」の関係の「刷新」を前提としていると考えられるものですが、それに対して、「推古紀」の国書が「文帝」からのものであるとすると、「倭国」に対しては「寶命」が使用され、しかもその内容は友好的な言辞に終始しており、対照的な内容となっていることがわかります。
 「文帝」にとって「寶命」という用語はまさに「前朝」などからの継承を意識した言葉と思われ、「倭国」と「歴代中国王朝」の関係を今後も同様に継続するという意義で使用されていると推測できるものであり、それが「高麗」に対する「天命」使用との「差」になっているのではないでしょうか。

 以上のことから、「寶命」という語義からこの「国書」は「初代皇帝」からのものであるとは断定できなくなったと思われるわけですが、では「唐」表記についてはどうでしょうか。(続く)

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