古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

いわゆる「唐」による「驥尾政策」の有無について

2024年12月15日 | 古代史
今回の講演でもいくつかの論者は「唐」による「驥尾政策」つまり「筑紫」他に「都督府」が置かれ、「唐」による政治が行われたと考えていることを表明していました。特に「中村修也」先生は「近畿にも都督府が置かれた」ということを表明されていました。
 講演の際には当方はこの件について深く考えたことがなく、意見表明しませんでしたが、おぼろげに「驥尾政策」はなかったと考えていたものです。
 今回もう少し検討を加えた結果、その感覚は強化され、明確に「驥尾政策」はなかったと考えるようになっています。
 彼らは「筑紫都督府」という『書紀』に書かれた存在がそれを表すものだと考えているようですが、私はそうは思いません。
 確かに「都督府」や「都護府」が置かれるのは「戦争当事国」の首都である例がほとんどです。その意味で「筑紫」が「倭国」の首都であるという議論があることも承知していますが、別の意味でその点については賛成します。(後ほど触れます)
 しかし「都督府」等が置かれるのはあくまでもその当事国自体が「戦闘領域」となった経緯があるのが前提であり、その意味で倭国が戦争当事国でなかったとは断言できないものの、少なくとも「戦闘領域」ではなかったものであり、そのような場所に「都督府」が設置された例がないことを考えると、この時「筑紫」に「都督府」を「唐」が設置するとは考えられないといえます。
 また「熊津都督府」が一時孤立した例を考えても「遠隔地」に「都督府」を設置して万が一この時の「百済」のように当事国の国内勢力が「唐」に対して反旗を翻す事態を想定すると、援軍を送る手段とそれに要する時間の困難さを考えるとこのような遠隔地に都督府を設置するとは考えにくいといえます。
 「唐代」(太宗の時代)に反旗を翻した「高昌国」を討った際、「太宗」は「高昌国」を「府県制」に置こうとしましたが側近の「魏徴」に以下のように反対されたとされます。

「(貞観)十四年(庚子、六四〇)秋八月庚午」「作襄城宮於汝州西山。立德,立本之兄也。…上欲以高昌爲州縣,魏徴諫曰:「陛下初即位,文泰夫婦首來朝,其後稍驕倨,故王誅加之。罪止文泰可矣,宜撫其百姓,存其社稷,復立其子,則威德被於遐荒,四夷皆悅服矣。今若利其土地以爲州縣,則常須千餘人鎭守,數年一易,往來死者什有三四,供辧衣資,違離親戚,十年之後,隴右虚耗矣。陛下終不得高昌撮粟尺帛以佐中國,所謂散有用以事無用。臣未見其可。…」(『資治通鑑』巻百九十五による)

 ここでは「高昌国」に対して「唐」の「府県制」を適用しようという「太宗」の考えに対して「魏徴」が、「高昌国」の鎮守には常に千人以上の兵が必要であり、また頻繁に交替させる必要があるなど軍事的負担が大きすぎるとして反対しています。これは基本として「遠距離」であることが最大の原因であり、「高昌王」がここは「唐」の支配領域から遠く、その間に砂漠があるなど地の利を誇っていたこと(以下の記事)を間接的に認めるものです。

「(貞観)十四年夏五月壬寅」「高昌王文泰聞唐兵起,謂其國人曰:「唐去我七千里,沙磧居其二千里,地無水草,寒風如刀,熱風如燒,安能致大軍乎」」

 これは「倭国」の場合と比較すると「海」と「砂漠」の違いはあるものの、間に地理的障害があり、また遠距離であって軍事的負担が多すぎるという点で共通します。このように「唐」は以前から遠隔地については「驥尾政策」的なことは行っていない現実があり、これを踏まえるとこの時「唐」が「倭国」(筑紫日本国)に対して「驥尾政策」を行ったとは考えにくいと言えるでしょう。そう考えた場合『書紀』に出てくる「筑紫都督府」は誰が設置したのかという点が問題になります。私見ではこの「筑紫都督府」は「唐」ではなく「難波日本国」が設置したと考えます。
 一般に「都督府」が征服した王朝の首都におかれるものと考えると、その権利があるのは「難波日本国」しかないといえます。すでに述べたように「日本国」は当時列島に二つ存在していたものであり、「筑紫」地域が「難波日本国」と別国であり、「百済を救う役」の惨敗により倒れた「筑紫日本国」の首都であると推定できます。
 「筑紫日本国」が「高麗」の援軍に行きほぼ全滅したらしいことを考えると、筑紫地域周辺は彼らによる軍事的勢力はほぼ皆無であった可能性があり、日本国がその空白を埋めるべく軍事的に占拠した可能性があり、その際首都防衛軍の長である「阿倍比羅夫」(大宰府長官とされる)さえも遠征に出動していたのは記録からも明らかですから、「筑紫」にはほぼごく少数の勢力しか残存していなかったと思われ、彼らと「難波日本国」の占領軍との間で戦闘が行われたとして不自然ではないと思われます。
 そして「筑紫」の「軍事的空白」を埋めた形の「難波日本国」はそこに「唐」をまねて「都督府」を設置したとみることができます。
 彼らは自称として「鎮西筑紫大将軍」と称したものと思われ、それが『海外国記』に書かれた「筑紫太宰の言」として記録されたものと思われます。
 「鎮西筑紫大将軍」とは、その語義から言っても明らかに「筑紫都督」を指すものと考えられます。(「都督」は「大将軍」でもあるわけです)またその直前には「筑紫大宰」という名称も現れますが、まず「大宰」が「将軍牒書一函」の内容を確認しているようです。そして、それが「劉仁願」の私信でありまた「私」の使者であるという判断をしたわけですが(実際には「勅旨」とされている)、それを口頭で伝えたのが「九月」のことであり、その段階「以降」については「軍事部門」が担当する、という事になったのではないでしょうか。つまり、ここでは「大宰」と「都督」とが同時に存在している事を示すものと考えられます。
 この「将軍牒書一函」についてはその後、「突っぱねる」事となるわけですから、それに対し彼等(「郭務悰」や「百済禰軍」)が不穏な行動を起こすという可能性もあるわけであり、それらを返却する際には「将軍名」(都督名)でこれを行っていると考えられ、最終的な時点では対外交渉は「軍事部門」に任せたという事と考えられます。
 「都督府記事」はこの三年後のことであり、ここで言う「鎮西筑紫大将軍」というものと強い関連があるものと考えられます。つまり「鎮西」とは「難波日本国」から見て西の地域である「筑紫」を統治している軍事勢力の長としての自称と思われのです。
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「倭国」の中心が「筑紫」であることについて(補論)

2024年12月15日 | 古代史
 すでに「倭国」の領域について『隋書』の記述や『和名抄』の記事、あるいは「高麗」への援軍として参戦し捕虜となった人たちの出身地などの情報から「倭国」との範囲として「筑紫」を中心として「北部九州」と「四国」「中国地方」の半分程度がそうであったと考えたわけですが、そもそも「倭国」というのがどの領域を示すのか、その統治領域の範囲はどれほどかについてはそれを論証したものが見当たらないように思います。
 これについては先の「講演」において「中村修也先生」から「九州王朝」があると先に決めた論は納得できない旨の発言がありました。
 当方は「倭国」とは「筑紫」を中心とした領域であり、だからこそ「倭国」とは「九州王朝」に他ならないと考えているわけですが、それを積極的に論証することはなかなか面倒です。ただしいくつかの状況証拠的なものを集め検討した結果、「筑紫」を中心とした領域が「倭国」と考えられていたものであると推定しているところですが、その一端を紹介します。それは「寺院」に必須の「梵鐘」の存在です。

 「徒然草」には「天王寺」の楽について書かれた段があり、その末尾に「浄金剛院」の鐘について述べられ、それが「黄鐘調」の音階であることが述べられています。

「再掲」(徒然草第二百二十段)
「何事も邊土は賤しく,かたくなゝれども,天王寺の舞樂のみ,都に恥ずといへば,天王寺の伶人の申侍りしは,當寺の樂はよく圖をしらべあはせて, ものゝ音のめでたくとゝのほり侍る事,外よりもすぐれたり。故は,太子の御時の圖今に侍るをはかせとす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。其聲黄鐘調のもなかなり。寒暑に随ひてあがりさがり有べき故に,二月涅槃會より聖靈會までの中間を指南とす。秘蔵の事也。此一調子をもちていつれの聲をもとゝのへ侍るなりと申き。
 凡鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり。西園寺の鐘黄鐘調にいらるべしとて,あまたゝびいかへられけれどもかなはざりけるを、遠國よりたつねだされけり。『浄金剛院の鐘の聲,又黄鐘調也。』」

 研究によれば「妙心寺」の鐘は「観世音寺」の鐘と兄弟(同じ「木型」(鋳型の元となるもの)から作られた)とされています。さらに高さ及び厚みなどの寸法・構造も同じとされますから、当然発する音高も同じとなるはずです。(一般に鐘の音高は「開口部」の断面積に反比例し、開口端の厚みに比例するとされます。)
 実際に二〇一二年に行われた「九州国立博物館」における両鐘の「鳴り合わせ」イベントの際の動画データ(YouTubeで公開されているもの)を音声スペクトル解析ソフト(『WavePad』)で高速フーリエ変換したものを見てみると(もちろんネットから取得したデータと言うことで正確性は欠けますが)、共に同じ129ヘルツ付近に「基音」(最も低い音高)があるように判断できます。ただし、高周波成分については両鐘でやや差があり、それが音色の違いとなっているように思えますが、このような高周波成分は減衰も大きく、遠方まで聞こえるものではありません。低音部はエネルギーも大きいため減衰も少なく遠く野山を越えて聞こえるものですからその部分こそが「梵鐘」の機能として重要であり、それは両鐘で共通しているというわけです。
 実際に「妙心寺鐘」について正確にその音の高さを測定した記録があり、その解析によれば、基音成分として125.2Hz と130.1Hz が計測され、聴感上の基音は「204msec」を周期とする「うなり」(ビート)を伴う周波数127.7Hz の音となるとされますから、これは間違いなく「黄鐘」(こうしょう)に相当するものです。(※)
 つまりこれらの鐘は「天王寺」の鐘が鋳造された時点からかなり後代のものとみられるわけですが、その「基準音」は共に同じというわけです。これが「天王寺」と同時代の製作ならば不自然ではありませんが、はるか後代の「文武朝」であるというところが問題でしょう。
 「天王寺」の「鐘」が鋳造された時代以降、「唐」とは何度も交流があったわけであり、この鐘が鋳造された時期に「唐楽」についての情報が入ってこなかったはずはないと思われるわけですが、にも関わらず「呂才」により改正された「音律」を音階として使用していないことに注目すべきです。
 「糟屋評」には「踏鞴鉄」の工房があったという報告があり、ここで「冶鉄」が行われていたと見られるわけですが、同じ工房で「青銅製品」の鋳造も行っていたとして不思議はありません。そこで「梵鐘」が鋳造されていたとみられるわけですが、この時点で依然として「唐」以前の古音階を発するように鋳造されているのは「不審」であるかも知れませんが、それは「寺院」における「鐘」の存在の示す意味につながるものであったと思われるのです。
 これについては当時のわが国では「寺院」の鐘というものは「黄鐘」の音律に適うべきと言う思想があったと見るべきとも考えられます。それは「鐘」の「音」が「無常」を示す意義があったからです。
 有名な「平家物語」の「序」にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という文章は単なる「無常観」を表現したものではなく、実際に「鐘の声」は「黄鐘」という「音律」に則ったものでなければならなかったということを意味しているのです。それは「黄鐘」という音高が「四季」を表すものであり、またその意味で移り変わりを表すことから仏教的には「無常」観につながっているのです。
 上の「徒然草」においても「凡そ鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり」とあり、「寺院」の「鐘」というものはすべからく「黄鐘調」でなければ「無常の調子」とならず、そうでなければ「祇園精舎の無常院の鐘と同じにならない」というわけです。
 たとえば、『淮南子』には以下のようにあります。

「中央土也。其帝黄帝,其佐后土,執繩而制四方。其神爲鎮星。其獸黄龍,其音宮,其日戊己」
「黄鍾爲宮,宮者音之君也」
「甲乙寅卯木也。丙丁巳午火也。『戊己四季土也。』庚辛申酉金也。壬癸亥子水也」
(以上『淮南子』巻三「天文訓」より)

 これらによれば「中央は土」であるとされる他、音は「宮」,日は「戊己」などとされることや「黄鍾」は「宮」であり、その「宮」は音の君とされていること、さらには「中央」を表す「戊己」は「四季の土」であるというわけであり、結局「黄鍾」は「四季」を表すものということとなって、このような「五行説」に基づいて「梵鐘」の音髙は「黄鍾調」でなければならないとしていたものと推察されるわけです。
 そう考えると、「鐘」の構造は「規格化」されていたとも考えられます。「黄鐘」の音高を発する必要があるとすると、あえて構造や厚さを変える必要がないからです。その意味で「糟屋」の工房では同じ鋳型から「鐘」の製造を一手に引き受けていたという可能性もあるでしょう。それを示すように「天武紀」には「筑紫」から「大鐘」が献上されたという記事があります。

「(天武)十一年(六八二年)春正月乙未朔…癸未。筑紫大宰丹比眞人嶋等貢大鐘。」

 このように「妙心寺鐘」にわずかに先行して製作された鐘があったとするわけですから、この「大鐘」も同じ「糟屋」工房で製作されたものであり、同じ「木型」から鋳造されたとみられますから、当然この「大鐘」もまた「黄鐘調」の音高であったと思われる事となります。
 ちなみにこの「大鐘」はどの寺院に使用されたのかというと、この「大鐘」献上の約一年前の六八〇年十一月には「薬師寺」の造営が始められたという記事がありますから、この「大鐘」は「薬師寺」に入るはずのものではなかったかと推定できます。(ただしこれらの記事群には年次移動の可能性はありますが)

「(天武)九年(六八〇年)十一月壬申朔…癸未。皇后體不豫。則爲皇后誓願之。初興藥師寺。仍度一百僧。由是得安平。是日。赦罪。」

 ここでは「貢」ずるとされていますから「王権」に献上されたものであり、この当時「王権」が関与している建築中の寺院はこの「薬師寺」だけのようですから、「筑紫大宰」が献上するとしたらこの「薬師寺」が最も適当と思われます。(ただし現在の「薬師寺」「新薬師寺」双方の「梵鐘」とも「八世紀」の鋳造と考えられていますから、この時の「梵鐘」とは異なると思われ、何らかの理由により失われてしまったと考えられます。)
 さらに言えばこの「黄鐘調」の鐘は全て「勅願寺」(或いは「皇后」「太子」などの「準勅願」とでもいうべき「御願」によるもの)にだけ納められたものではなかったでしょうか。
 このような「黄鐘調」の鐘は、上に見たように「淮南子」では「音之君」とされていますから、実際上も「倭国」では「君」以外には使えなかったという可能性があるでしょう。それはこのような「黄鐘調」の鐘の倭国への伝来について考えた場合、「中国」(隋)からの使者が持参した物品の他に「寺院」とそれに関するものについても相当量の下賜物があったと見られ、その中に「梵鐘」もあったと推定されるからです。
 この時の「隋」からの使者は「文帝」が派遣したものであるのは間違いないところですが、彼は仏教を国教としていましたから、夷蛮の国が仏教に深く帰依するとか寺院を造るという場合にそれに補助しなかったとすると不自然であると思われます。つまり「倭国」においても「隋」の肝いりで寺院が建設されたとみられ、それが「元興寺」であろうというのが私見であるわけですが、その時点で「梵鐘」についても当然「隋」の技術により鋳造されたとみることができると思われ、その音高が「黄鐘調」であったとするのもまた当然であると思われるわけです。(寺院が造られたにも関わらず梵鐘が備わっていなかったとするとそれもまた大変不自然といえるでしょうから。)
 また当然「鐘」を持ってきたというわけではなく、「木型」を作成する技術者が隋使とともに来て、「木型」を作製し(これ知ってみれば「母型」(マザー)であり、そこから銅を流し込む本来の「鋳型」を作製していたものと思われる)梵鐘を作成する技術を伝えたものと思われます。
 そう考えると、この時の「倭国」において「倭国王」以外の家臣や一般人が「黄鐘調」の鐘を製造したり使用したりはできなかったという可能性が高いと推量できます。これらは「隋皇帝」から「倭国王」への贈呈品であり、その意味でもこれら「黄鐘調」の鐘は全て「倭国王」直属の工房で作られていたものとみることができそうであり、それが「筑紫」(糟屋或いはその周辺)で作られていたということになるということからも、当時の倭国の中心が「北部九州」にあったことが推定できるわけですが、「天王寺」の「鐘」もまた「筑紫」で作られたとみられることとなり、少なくとも「天王寺」もまた「倭国王」の勅願であり、それが「難波」にあったというわけですから、その「難波」という地がこの時点で「倭国王」の直轄地域として存在していたことが窺えるものです。
 
(※)明土真也「音高の記号性と『徒然草』第220 段の解釈」(『音楽学』58号二〇一二年十月)


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「薩夜麻」と「天智」

2024年11月30日 | 古代史
 『天智紀』の「天智三年」(六六四年)には「熊津都督府」から「使者」として「郭務悰」等が来倭したことが記されています。

「「天智三年」(六六四年)夏五月 戊申朔甲子 百濟鎮將劉仁願 遣朝散大夫郭務悰等 進表函與獻物
冬十月 乙亥朔 宣發遣郭務悰等敕
是日 中臣内臣遣沙門智祥 賜物於郭務悰。
戊寅 饗賜郭務悰等」

 この時の来倭記事とおぼしきものが『善隣国宝記』に引用する『海外国記』に出ています。
『善隣国宝記』は京都相国寺の僧侶「瑞渓周鳳」によって室町時代(15世紀の終わりごろ)書かれたもので、歴代の王権の外交に関する史料を時系列で並べたものです。

「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務悰等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於別館。於是智弁問曰、有表書并献物以不。使人答曰、有将軍牒書一函并献物。乃授牒書一函於智弁等、而奏上。但献物宗*看而不将也。
 九月、大山中津守連吉祥・大乙中伊岐史博徳・僧智弁等、称筑紫太宰辞、実是勅旨、告客等。今見客等来状者、非是天子使人、百済鎮将私使。亦復所賚文牒、送上執事私辞。是以使人(不)得入国、書亦不上朝廷。故客等自事者、略以言辞奏上耳。
 一二月、博徳授客等牒書一函。函上著鎮西将軍。日本鎮西筑紫大将軍牒在百済国大唐行軍總*管。使人朝散大夫郭務悰等至。披覧来牒、尋省意趣、既非天子使、又無天子書。唯是總*管使、乃為執事牒。牒又私意、唯須口奏、人非公使、不令入京云々。」

 これによればこの時の「列島王権」は「表」(つまり「皇帝からの国書」)の有無を問いただし、将軍からの「牒書」だけであることを確認すると、この使者を「唐皇帝」の使者ではないとして「門前払い」したとされています。この時「郭務悰」達を「門前払い」したとする記事が正しい思われる傍証と言えるのは(一見関連が薄そうですが)「元史」に書かれた「日本」への使者派遣の記事です。
 「元」はいわゆる「元寇」と呼ばれる「文永の役」「弘安の役」の以前に日本「招慰」のためとして「使者」を派遣していますが、それが「趙良弼」という人物でした。彼が日本へ着くと(博多湾近隣の島でしょうか)「大宰府」から人が来て「国書」を見せるように要求したのに対して、「趙良弼」は「倭国王」に直接会ってお渡しすると言ってはねつけたとされます。その時の彼の言葉が「元史」に残っています。

「隋文帝遣裴清來,王郊迎成禮,唐太宗、高宗時,遣使皆得見王,王何獨不見大朝使臣乎」(元史/列傳 第四十六/趙良弼より)
 
 つまり「隋」の文帝、「唐」の「太宗」と「高宗」の派遣した使者はいずれも「倭国王」に面会しているというわけです。「太宗」の派遣したという使者が「高表仁」であると思われますから、彼は「倭国王」には面会したものと思われ、「礼を争った相手」というのが「倭国王」自身ではなかったかと思われることとなります。また「高宗」の派遣した使者というのが「劉徳高」(及び「天智末年」に「薩夜麻」を伴って来倭した「郭務悰」)を指すと思われ、「高宗」の勅使ではなかった「六六四年」の際の「郭務悰」では決してあり得ず、彼はこの時「倭国王」ならぬ「日本国王」には面会できなかったことがここからも判ります。
 また彼「趙良弼」は「国書」を「太宰府」で提出するのを拒んでいますが、それは「国書」は本来直接彼の地の統治者本人に提出すべきものだからです。途中で「代理者」などに開陳することなど出来ない性質のものなのです。そう考えると以下のように「劉徳高」が「筑紫」で「表函」を提出したと書かれているのは重要でしょう。
 (「劉徳高」の来倭に関する記事をまとめて並べると以下のようになります。)

「「天智四年」(六六五年)九月庚午朔壬辰。唐國遣朝散大夫沂州司馬上柱國劉徳高等 (等謂右戎衛郎將上柱國百濟禰軍、朝散大夫上柱國郭務悰)。凡二百五十四人。七月廿八日至于對馬。九月廿日至于筑紫。廿二日進表函焉。
(冬十月己亥朔己酉。大閲于菟道。)
十一月己巳朔辛巳。饗賜劉徳高等。
十二月戊戌朔辛亥。賜物於劉徳高等。
是月。劉徳高等罷歸。

 これを見ると「対馬」に到着後二ヶ月弱で「筑紫」への上陸が赦され、その「筑紫」に到着した二日後に「表函」つまり国書の入った「函」を提出しています。これは「趙良弼」の言葉に従えば「国王」に面会したと言う事を示すものであり、この段階で「筑紫」には「国王(日本国王)」がいたこととならざるを得ません。それは「海外国記」に書かれたやり取りからもうかがえます。そこでは「郭務悰」からの「牒」を「皇帝」からの「表」ではないことを理由にはねつけていますが、そこで以下のように書かれています。

「…称筑紫太宰辞、実是勅旨…」

つまり実際には「勅旨」つまり「天皇の言葉」ではあるが、先方が「皇帝」からのものではないためこれを「筑紫太宰」として返答するとしています。つまり実際には「天皇」は存在しているというわけであり、位取りの関係で「勅旨」とはしていないというわけです。
 そう考えると「薩夜麻」が出征した後、「筑紫朝廷」実質的に崩壊し「天智」率いる「日本国」に占領、統治されていた事が示唆されます。彼が当時「筑紫」に居を構え国内外の情勢に対応していたことが窺えます。
 そもそも「薩夜麻」が「筑紫」(本朝)から離れるという場合「留守司」という役割の人物が配置されるのが通常であり、多くは「軍事」組織の人物があてがわれますが、通常「筑紫」には「太宰」がいたはずであり、それを考えると「留守司」は本来必要ないはずですが、この時は「阿部比羅夫」が「太宰」でありながら将軍として派遣されていますから、留守司が指名されていたと考えるへきでしょう。それが「天智」ではなかったかと考えるわけです。「天智」は留守を「薩夜麻」から「留守」を預かるという重要な役割を演じていたとみられますが、それには根拠があったものであり、彼らの間には個人的な関係があったとみるのが相当でしょう。『書紀』で「兄弟」と書かれているのにはそれなりの根拠があったものと思われるわけです。
 「天智」の出自については、彼が「天命」を受け、「革命」を起こした(これは「筑紫朝廷」の崩壊に際し筑紫を占拠したこと、それにより列島を統一したという意識があったことを指す。)といういきさつからも、「薩夜麻」と「親子」や「兄弟」ではないことは明白です。ただし中国の「天命」「寶命」などの使用例を見ると「甥-叔父」の交替の際に「天命」という用語が使用されたことがあり、(「南朝劉宋」の「明帝」の例)、そのような関係が「天智」と「薩夜麻」との間にあったという可能性は否定できません。
 彼は「留守」を預かりながら、実質的に「日本国」の統治範囲を広げることを行ったわけであり、特に「唐」の関係が重要であったとみれば当時彼が「筑紫」に所在していたというのは十分考えられるところです。
 また『善隣国宝記』には「宋」の皇帝からの書が旧例に適っているか調べよという「鳥羽院」からの指示に対し「菅原在良」が答えた記述があります。

『善隣国宝記』
鳥羽ノ院ノ元永元年
宋國附商客孫俊明鄭清等書曰、矧爾東夷之長、實惟日本之邦、人崇謙遜之風、地富珍奇之産、襄修方貢、皈順明時、隔濶彌年、久缺来王之義、遭逢凞且、宣敢事大之誠、云云、此ノ書叶旧舊例否、命諸家勘之、四月廿七日、従四位ノ上、行式部ノ大輔、菅原ノ在良、勘隋唐以来献本朝書ノ例曰、推古天皇十六年隋ノ煬帝遣文林郎裴世清使於倭國、書曰、皇帝問倭皇、云云、天智天皇ノ十年、唐ノ客郭務?等来聘、書曰、大唐ノ帝敬問日本國ノ天皇、云云、天武天皇ノ元年郭務?等来、安置大津館、客上書ノ函、題曰、大唐皇帝敬問倭王書、又大唐ノ皇帝勅日本國使衛尉寺少卿大分等、書曰、皇帝敬到書於日本國王、承暦二年、宋人孫吉所献之牒曰、賜日本國大宰府ノ令藤原ノ経平、元豊三年、宋人孫忠所献牒曰、大宋國ノ明州牒日本國
(ただし訓読のための「返り点」などは(記載があったものの)省略しています)

 これを見て気がつくのは「天智四年」の「劉徳高」の来訪に伴う「国書」について言及がありません。この前年の「郭務悰」の来倭と持参した「書」については上に見たように「百済鎮将」である「劉仁願」が発した使者であり、また「書」も「牒」であって同様に「唐皇帝」からのものではないとして「拒否」したと書かれており、これが「菅原在良」が言及していない理由であるなら首肯できるものです。しかし「劉徳高」の場合は『書紀』の記事では「唐国」が「遣わした」という表記があり、このことから彼が「国書」を持参したと見るのは当然であり、これについて書かれていないのは一見不審といえるでしょう。
 確かに上に見たように「筑紫」に王がいた形跡が濃厚ですが(「実是勅旨」とされています)、「鳥羽院」に仕える「菅原在良」としてはこれを「無視」しているわけであり、この時の王とそのやり取りが「例」として提示するのをはばかるものであったという可能性が高いと思われ、通常の「敬問倭王」的な「慰労形式」の書式ではなかったということが窺われます。
 そもそも提出された時期としてもほぼ「唐」「新羅」との間には不穏な関係が継続していたことを考えると、「降伏」ないし「戦争終結」と直接関わる文言が書かれていたということが考えられ、そのような場合「敬問倭王」的な文言が省略されることがあります。例えば「唐の高祖」が「高麗」に出した「書」の文面が『旧唐書』にありますがそこでは「敬問高麗王」的な文言が見当たりません。

「(武徳)五年、賜建武書曰; 朕恭膺寶命、君臨率土、祇順三靈、綏柔萬國。…」

 この時の「書」は「高句麗」と「前王朝」である「隋」との間の戦争について「講和」を行い、捕虜の交換を行うこと目的としたものであり、通常の外交儀礼とは著しく趣が異なります。このような場合「敬問」というような一種友誼的な文言が使用されることはないということになり、これと同類の形式で国書が唐皇帝からもたらされたという可能性が高く(状況も近似している)、そのためいわば「隠蔽」されたとみるのが相当ではないでしょうか。
 また講和の条件として「泰山封禅」に「薩夜麻」を連行すること、彼に供奉する人員を供出することが条件として書かれていたとみられます。
 この時の「劉徳高」達は実は「泰山封禅」への参加命令も伝達に来たものと考えられ、それに応じて、「薩夜麻」本人とは別に「参列」するための人員を急遽派遣することとなったと考えられます。 
 この「泰山封禅」は「六六六年正月」に実施する、という詔が出されたわけですが、それが出されたのは「六六四年七月」とされています。この月の「朔日」(一日)に出されたものですが、当然周辺諸国も含め多数の参加者が想定され、またそうでなければ「権威付け」にならないわけですから、多くの国に「泰山封禅」開催を知らせる「使者」を出したものと考えられます。
 当然「倭国」にも「来るはず」であり、それが「劉徳高」の来倭であったと考えられるのですが、その年次が「六六五年七月」というのでは、余りに遅すぎるのではないでしょうか。
 倭国のように海を隔てて「遠絶」した地域や、「西域」からも参加が考えられるわけですから、これらの国々に対しては「早期に」使者を派遣する必要があるはずですが、倭国への到着が「六六五年」では「高宗」が詔を発してから一年以上経過していることとなり、まさに「遅きに失する」こととなってしまいます。直後の「十月」にはすでに「高宗」に従駕する行列が始まっていますから、全く間に合わないと思われます。

『書紀』
「(天智称制)四年(六六五年)是歳。遣小錦守君大石等於大唐云々。等謂小山坂合部連石積。大小乙吉士岐彌。吉士針間。盖送唐使人乎。」

 この記事は「是歳」条記事であるものの、これはその記事の中でも触れられているように「唐使」を送る役割であったと思われますから、配列から考えて「十二月」のことであったのではないかと考えられ、そうであれば「守君大石等」達は「泰山封禅」の儀式そのものにさえ間に合ったかどうか疑わしいものです。このような「間に合わない」使節派遣などあり得るはずがありません。
  そもそも「白村江の戦い」の年次について、『旧唐書』と『三国史記』では「六六二年九月」と考えられ、『資治通鑑』と『書紀』では「六六三年九月」となっており、「一年」ずれて書かれています。このどちらかが誤りであるわけですが、この年次のズレについては「青木一利」氏の研究もありますが、(「古田史学会報一〇二号」)その中でもやはり『旧唐書』『三国史記』が正しいとされているようであり、『日本書紀』の影響を受けたと考えられる「後期中国側資料」については「信」がおけず、その年紀は真の年次に対して「一年」ズレているのではないかと考察されています。(これはそもそも「百済を救う役」全体にも言えることですが)
 この推論に従えば、「劉徳高」の来倭の日付は「六六五年」ではなく、「六六四年」であった可能性が高いと考えられるものです。
 「高宗」は「倭国」等遠絶した地域からも参加が可能なように「時間的余裕」を考え「六六四年(麟德元年)七月朔」にこの式典開催を宣言しているのです。つまり、「封禅の義」まで、約一年半の猶予があるわけであり、この詔勅の「直後」に各国に使者が発せられたと考えるべきでしょう。まさに「劉徳高」の来倭はそのタイミングで為されたと考える方が正しいと思われます。
 中国の歴史上「封禅」の規模は皇帝の「即位の儀式」さえも超えるものでした。そのため、「唐」の高宗はこの儀式を自身の威信をかけたものにするために、周辺の「唐に封ぜられた」諸国王も含め大量招集をかけたものでしょう。そのような中にははるか遠方の国もあるわけですから、かなり余裕を持った伝達でなければ間に合わないという可能性も出てくるため、特に遠方の国については「迅速」な伝達を行ったものと考えられます。
 この時派遣されたという「劉徳高」の官職名は「沂州司馬」というものですが、「沂州」が現「山東省」付近の事であり、遣唐使船などが往復に利用する港があるところですから、倭国へ使者を送るのには「最適」「最短」の場所にあると言えます。(だからこそ彼が選ばれたものでしょうか)
 『書紀』の日付が一年ずれているとすると「劉徳高」は「対馬」に「六六四年」の「七月二十八日」についたこととなり、「高宗」が「詔」を発したその月のうちに来た事となります。(事前に詔の内容が内示としてあった可能性もあるでしょう。この場合はそれ以前に準備はすでにされているわけです)
 また、当時の「唐」の船の構造も倭国の船に比べ外洋航海に適しており、(竜骨構造の採用など)ここから船出したとすると、修正年次の「六六四年七月二十八日」の到着も可能でしょう。
 実際の「遣唐使船」の行程を「六五九年」に派遣された「遣唐使」である「伊吉博徳」の記録である「伊吉博徳書」で確認してみると、「遣唐使」として訪れていた「唐」から「六六一年」に帰国した際には「四月一日越州から出発、四月七日『ちょう岸山』の南に到着、八日暁西南の風に乗って大海に乗り出したものの、『漂流』し、九日後(四月十七日)『耽羅』に到着した。」とあり、「劉徳高」の出発地である「沂州」にほど近い「『ちょう岸山』の南」から出航しています。そこから「最短ルート」を取ったものでしょう。この時の倭国の遣唐使船は、多少「彷徨」したようですが、「耽羅」(済州島)まで「九日間」で来ています。「劉徳高」が同じような、東シナ海横断ルートを取ったとすると、この日数と大きくは違わなかったのではないでしょうか。
 特にこのように急いで倭国に使者を送ったのは、もちろん「倭国」との間の「戦争状態」を集結させるためであり、「泰山封禅」に「捕虜」を連れて行くわけにはいかないわけですから、「倭国王」の出席を促すと共に「至急」降伏の意思表示を示すように督促したものと推量されます。
 「倭国」(実は「日本国」)との折衝を通じて「薩夜麻」捕囚の情報を得たと考えられる「百済禰軍」達はその後(場所は不明ですが)「薩夜麻」に面会し、引率して来た「守君大石」達と合流した後、「薩夜麻」を「劉仁軌」に引き渡したものと推量します。「劉徳高」の来倭の結果「派遣」されることとなった「守君大石」「坂井部石積」等は「劉徳高」達の帰国に併せ、「熊津都徳府」に向かったものと考えられ、そこで「薩夜麻」と合流したものと推量します。
 その後「劉仁軌」により「百済王」「耽羅国王」などは「船」で「泰山」の麓まで運ばれています。

「旧唐書劉仁軌伝」
「麟德二年(六六五年) 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會 高宗甚悅 擢拜大司憲」

「冊府元龜」
「高宗麟徳二(六六五)年八月条)仁軌領新羅・百済・耽羅・倭人四國使、浮海西還、以赴太山之下。」

 この時「劉仁軌」は占領軍司令官として「百済」(熊津都督府)に滞在していましたから、「百済王」はもちろん「倭国王」もこの時点で「劉仁軌」の支配下に入ったものと考えられ、彼らを船に乗せて「黄海」を横切り、「泰山」の麓の港まで「連行」した、というわけです。この「倭国酋長」というのが「薩夜麻」を意味しているのは確実と思われます。
 ここで「高宗」は間近に「東夷」の国王達を見て、「東夷」が平定されたことを実感して、大変喜んだものと思われます。
(ただし「冊府元龜」では「倭国ではなく「倭人」となっていることには注意すべきです。彼らの認識の中に「薩夜麻」の所属についてあいまいなところがあったのではないかと推測します) 
 このように「謝罪」を承けた「高宗」は「倭国」が「絶域」(遠距離)であることも考慮し、それ以上の戦線拡大を止める意味でも、「百済王」達にそうしたように「謝罪」と「降伏」を受け入れたものとみられます。ただし、処分は下され「千里の外で三年間の強制労働」というものが適用されたものと思われます。これは実質的には「熊津都督府」至近で「軟禁」状態になったことを示していると思われ、いってみれば「経過観察」状態に入れられたものであり、「反抗的態度」や「謀反」などの気配がないか観察されていたのではないかと考えられます。
 また、これに参加したと考えられる「坂井部石積」などの帰国の日時も「一年ズレ」の対象記事と考えられます。

「(天智称制)六年(六六七年)(中略)十一月丁巳朔乙丑。百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。」

 この年次についても「修正」の結果「一年前」の「六六六年」十一月となり、従来「六六六年」正月に行われた「泰山封禅」から二年近くも経過した「六六七年」十一月の帰還というものがはなはだ不自然であり、その理由が不明であったものが解消されます。
 つまり、「守君大石」「坂合部連石積」らについての「泰山封膳」への出発が「六六四年」十二月、「泰山封禅」が約一年後の「六六六年」正月、帰国がさらにその約一年後の「六六六年」十一月となれば、使者の往還に要する時間もきわめて自然なものになります。
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「薩夜麻」の帰国と「大海人」の動向(二)

2024年11月30日 | 古代史
 「薩夜麻」と「大海人」の関係について考察しています。
 「壬申の乱」についても、その分析により主要勢力は「西海道」にあったと考えられ、たとえば『書紀』によれば「高市皇子」が参戦していますが、彼は「宗像の君」の孫であり、「宗像氏」の全面的バックアップがあったと考えられるものです。他にも「大分の君」などの西海道勢力が中心であったと考えられますから、「筑紫の君」である「薩夜麻」がこれに参加していないはずがないと思われます。(当然「阿曇」勢力も加わったとみるべきでしょう)彼らの一族は「百済を救う役」でも軍に編成されており、その意味でそもそも「薩夜麻」の軍であったという可能性があります。
 また「壬申の乱」の際には「唐」関係者、と言うより「唐軍」が関与しているとする考えもありますが、そうであれば「郭務悰」達と共に帰国したとされる「薩夜麻」が関与していると言うこととほぼ同義ではないでしょうか。彼であれば、「戦略」「戦術」について「唐軍」の支援を仰ぐことは「容易」であったと考えられます。(そもそもその想定で唐軍が同行しているとみるべきでしょう)
 「大海人」が「美濃」に陣を構えたとされるのも「三野王(美濃王)」の存在が大きいものと考えられます。彼は「栗隈王」の子息であり、「薩夜麻」の有力な配下の人物であったと考えられ、彼を通じて関東(東国)に対する影響力を行使する事が可能となったものと推察されます。
 そのため、「薩夜麻」が帰国した際に「近江朝廷」との対決が必至となった際には、この「美濃」という国を「範疇」に治めることが必要と考えたものと思慮され、「栗隈王」を通じて「美濃王」を懐柔することにポイントを置いていたことと思われます。
 「大伴部博麻」の帰還も「六八六年」の「天武」の「死」を聞いたことと関係があると考えられるものであり、これは別途述べたことがありますが、「薩夜麻」が生きている間は「帰国」出来ないものであったのではないでしょうか。このことも「天武」と「薩夜麻」が同一人物であることを示唆するものです。 
 これらのことは「壬申の乱」の主役は「薩夜麻」であり、「天武」(大海人)とは「薩夜麻」のことである、ということを「強く」示唆するものと考えられ、『書紀』はそれを「隠蔽」していると考えられるものです。
 『弘仁私記序』には「半島」からの「渡来人」が「天皇」なった記述のある「書」が市中に出回っていたが、それらは全て焼却されたとされています。本論で述べたように「天武」は実は「薩夜麻」であり、「捕囚」になっていた「半島」から「帰国」した人間であったのですから、まさに『弘仁私記序』で書かれた「書」はその意味では正しいと言えます。そして、そのような記録は一切「隠蔽」されたわけであり、それは「倭国王」の「捕囚」とそれに続く「降伏」及び「謝罪」による「放免」という「倭国王」としてはこの上ない「恥辱」とも言うべき過去を消さんが為に行われた「証拠隠滅」であったと考えられます。
 そして最も重要と思われるのが「天智十年」の国書と「天武元年」の国書の存在です。「天智十年」の方には「日本国天皇」とあるのに対して「天武元年」には「倭王」とあります。『書紀』では「天智十年」に「劉仁願」の使者である「李守真」が「上表」つまり「天皇」に対する「書」を提出しています。この「書」が「劉仁願」が「遣わした」という表現からも「国書」ではなかったと思われることからこれも「菅原在良」には取り上げられていないようですが、実際にはこの時点で「天智」に対して何らかのメッセージが送られたと見られるわけです。

(六七一年)十年春正月己亥朔…
辛亥。百濟鎭將劉仁願遣李守眞等上表。

秋七月丙申朔丙午。唐人李守眞等。百濟使人等並罷歸。

 その後の動静を見ると、その3ヶ月後には「天智」は病を得、「大海人」は出家し、直後に「薩夜麻」が帰還しています。これらの推移から考えて「李守真」の書には「薩夜麻」の帰国に関する情報が書かれてあったのではなかったでしょうか。彼の帰国に反対の意思があるかどうか、「倭王」としての帰還を拒否しないか問う内容ではなかったでしょうか。これに対し「天智」は受諾したものと思われ、それを承けて「薩夜麻」の帰国となったと考えられます。
 但し『書紀』の記事配列を見ると「郭務悰」が「対馬」に到着したという記事以降に記事の脱落があるようです。少なくとも「対馬国司」からの報告の後彼らを「筑紫」に送った記事がありません。「近江」遷都以降は「対馬」まで来ると知らせが来て上陸させるのかを検討した上で「京」(この場合「近江京」か)まで出向くよう指示するか、「筑紫」で対応するか決めるわけですが、この場合それらが全て脱落しています。しかし他の例からは「筑紫」での対応であっただろうと思われますが、「天武元年」の際には「筑紫」に彼等は滞在しており「大津の館」に「安置」とされていますから、「李守真」も「筑紫」から動くことはなかっただろうと思われるわけです。(国書を持参していないのですから当然ですが)
 さらに「天武元年」に「郭務悰」が「書凾」を提出したという記事があります。「李守真」が帰国した七月から四ヶ月ほど経過した同じ年の十一月に今度は「郭務悰」等が大挙して押し寄せたというわけです。

(六七二年)元年春三月壬辰朔己酉。遣内小七位阿曇連稻敷於筑紫。告天皇喪於郭務悰等。於是。郭務悰等咸著喪服三遍擧哀。向東稽首。
壬子。郭務悰等再拜進「書凾」與信物。
夏五月辛卯朔壬寅。以甲冑。弓矢賜郭務悰等。是日。賜郭務悰等物。總合絁一千六百七十三匹。布二千八百五十二端。綿六百六十六斤。
戊午。高麗遣前部富加抃等進調。
庚申。郭務悰等罷歸。
 
 この来倭は当然「李守真」の報告を踏まえたものと思われるわけであり、上表に対する「天智」の反応に応じたものであったと思われ、「薩夜麻」の帰国に反対しない意を表明したものと思われるわけです。
 この時の「郭務悰等」の来倭には「王権」として軽率な対応はできなかったはずであり、それは「白村江の戦い」を含む「百済を救う役」における「倭国軍」の敗北という状況は、「唐使」に対する応対も丁寧を極める必要があったはずだからです。
 さらに「筑紫君薩夜麻」の帰還という重要事項があったなら「筑紫」で儀典が行われたはずであり、「天智」自身が直接彼らと応対をする必要があったでしょう。つまり、彼が死去したという『書紀』の記事内容については疑義があるといえます。そうであれば「天智」は「筑紫」において「国書」を受け取ったはずであり、その翌年のことである「天武元年」の国書も「筑紫」において提出されて当然といえます。
 この「国書」は急遽作ったものというより「天智」が退位することを想定し次代の「倭国王」に対して「唐皇帝」の意志を伝えるためのものとして準備されていたと見るのが相当ではないでしょうか。
 「天智」が国書を受け取った子細が記事として書かれていないこと(「脱落」ないし「隠蔽」されるに至った理由等)については不明ではあるものの、推測を逞しくすると、暗に「退位」をするようほのめかす文面ではなかったかと思われるわけです。「唐」は「百済」や「高句麗」に対してはかなりきつい内容の文面を送ったこともあり、それと同傾向の内容であったという可能性も考えられるでしょう。
 ただし両者にも「敬問」という語が前置されており、これは「友好的関係」の表明であり、あなたを敵とは考えていないという意味ですから極端な「威圧」や「脅迫」というものではなかったと思われます。そもそも「難波日本国」としては「唐」に対して非友好的な態度や言辞を弄したことはなかったはずですから、そのような内容の国書にはそもそもならなかったであろうと思われるわけです。たただしそのために否定的な回答はしにくかった面はあったものと見られます。
 これに応じ「天智」は退位するに至ったと考えられるわけですが、その「天智」に対して「日本国天皇」と呼びかけていることに注目です。つまり「唐」がその存在を認めて国書を提出した相手は「日本国」であったというものであり、そしてその後「天武元年」になると「倭王」という呼称に変わるわけですから「天智」の退位と共に「日本国」が終焉したこと及び「天皇」呼称の停止が行われたらしいこととなりますが、それが「唐」の意志によるものであったということになります。
 ところで「天武」の場合「表函」の上書しか言及されていません。通常「国書」は「使者」により「宣」せられた後(読み上げられた後)渡されるものであり、「表函」が提出されたという事はすでに「宣」せられた後のことと理解できます。また「国書」はその地の「王」に対して提出されるものですから、「宣」せられるためには「国王」に「面会」できたことも推定できます。しかし「菅原在良」の言葉からは「国書」を入手したとは思われません。「国書」は形式として「表函」の上に置かれているのが通常であり、そこには「表題」が見えるように大書されていたものです。つまり単に「函」の上に置かれていた表題にはそう書いてあったという意味のことしか言及されておらず、それを受け取った内容が把握されていたようには見受けられません。つまり「国書」(表)は受け取らなかったという可能性が高いものと思われますが、その点の詳細が不明です。あるいは受け取ったのが「薩夜麻」であったとすると後の「新日本国」にはその現物がなかったという可能性があります。「天智」とその側近が把握している範囲のものではなかったという可能性はあると思われ、「倭国王」宛の「国書」は「薩夜麻」とその側近が受領したという事実を反映しているのではないでしょうか。
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『書紀』で「倭」について「読み」が指定されていないのはなぜか

2024年11月27日 | 古代史
 『書紀』を見ると、天皇の称号として「根子」というものが現れます。この「根子」という称号についての理解として最も適当なのは「支配者」「統治者」ではないでしょうか。その意味で「最高権力者」だけが名乗れるというものではなかったと思われます。
 実際『書紀』によれば「山背根子」「難波根子」と称される人物が出てきます。かれらはあくまでも「山背」「難波」という小領域の権力者であり、また統治者であったと思われ、その意味から類推すると「倭根子」とは「倭」の地域の権力者であることとなるでしょう。
 『書紀』では以下のように「日本」は「やまと」と読むようにという指定がありますが(神武紀)、(これは「新日本王権」のイデオロギーによるものと思われるわけですが)、「倭」についてはそのような指示が文中にありません。

「…於是陰陽始遘合爲夫婦。及至産時。先以淡路洲爲胞。意所不快。故名之曰淡路洲。廼生大日本日本。此云耶麻騰。下皆效此。…」

 ここで「神武紀」の始めの部分で「日本」は「やまと」と読むとされ、以下出てくる「日本」は全て「やまと」と読むようにというわけです。それに対し「倭」の場合は読みが指定されていません。たとえば以下のような例があります。(ちなみに「日本」が示す領域は『書紀』の早い段階では「近畿」の一部の小領域を示す意義しかなかったと思われます。それは『旧唐書』において「遣唐使」が「日本旧小国」と表現したことでも明らかです。)

「…亦曰。伊弉諾尊功既至矣。徳文大矣。於是登天報命。仍留宅於日之少宮矣。少宮。此云倭柯美野。…」

 ここでは「倭」は「わ」という音を表す意義で使用されています。

「…倭文神。此云斯圖梨俄未。…」

 ここでは「音」というより「名称」の読みとして現れます。

「…時弟猾又奏曰。倭國磯城邑有磯城八十梟帥。…」

 ここでは読みが指定されていませんが、上の例からみて、基本としては「わ」の音を表す例から考えて「倭」は「わ」としか読まないと思われ「わこく」と発音すると思われるものです。
 その「倭」は歴代の中国王朝から「列島」を意味する「地域名」として認知されていたわけであり、『書紀』でも同様の意義で使用されていたと見るのが相当でしょう。
 その意味で「倭根子」とは「倭王」の意義以外考えられず、その「倭根子」の使用例として『書紀』に現れる最初の人物が「成務」であるというのは示唆的です。
 「成務」は「稚倭根子」という「称号」を持っていますが、以下のように「国郡」「県邑」に「責任者」をおいたとされ、また山河で区切って「国県」を定めたというようなすでにある領域を分割したり境界線を変更するなどの施策を実行しています。

「五年秋九月、令諸國、以國郡立造長、縣邑置稻置、並賜楯矛以爲表。則隔山河而分國縣、隨阡陌以定邑里。因以東西爲日縱、南北爲日横、山陽曰影面、山陰曰背面。是以、百姓安居、天下無事焉。…」(成務紀)

 このような事業は「強い権力」の発露というべきであり、「倭」つまり「列島」を代表する権力者として機能していたことを示すものです。その意味で「倭根子」の称号は実態を表しているというべきでしょう。
 これ以降の「倭根子」は「孝徳」まで飛ぶこととなります。このことからこの間の「近畿王権」は「倭」の代表権力者として存在していたわけではなかったことが帰結されます。
 ところで「孝徳」は「日本倭根子」という特殊な称号を持っています。(『書紀』『続日本紀』中彼が唯一の例)

「(六四六年)大化二年…二月甲午朔戊申(十五日)。天皇幸宮東門。使蘇我右大臣詔曰。明神御宇『日本倭根子天皇』詔於集侍卿等。…」

、これは従来の「倭根子」に「日本」が付加された形となっていますが、これは「倭」の領域としてそれまで組み込まれていなかった「東国」を始めて統治下に入れたことを示すものと思われ、より広域を統治する「王」としての「称号」と思われます。つまりここで初めて「倭」から「日本」へ国号が改まったと見られるのです。
 この推測は「改新の詔」で「始めて万国を修(治)める」という言い方をしていることにつながります。

「(六四五年)大化元年…八月丙申朔庚子。拜東國等國司。仍詔國司等曰。隨天神之所奉寄。方『今始將修萬國』。…」

 これ以前は支配が(特に東国に)広く及んでいなかったことを推測させますが、この時点以降統治下に入ったとするわけであり、それを意味するのが「日本倭根子」という表記と見られます。そのことを貫徹するために「東国」に「国司」を派遣するというわけです。
 その後「倭根子」称号は『書紀』では見られなくなります。(「倭」から「日本」へと国号が変わったことの反映か)

以下『書紀』と『続日本紀』の「根子」の例

(六八三年)十二年春正月己丑朔庚寅。百寮拜朝廷。筑紫大宰丹比眞人嶋等貢三足雀。
乙未。親王以下及群卿喚于大極殿前宴之。仍以三足雀示于群。
丙午。詔曰。『明神御大八洲日本根子天皇』勅命者。…

(文武前紀)天之眞宗豊祖父天皇。天渟中原瀛眞人天皇之孫。日並知皇子尊之第二子也。日並知皇子尊者。寶字二年有勅。追崇尊號。稱岡宮御宇天皇也。母天命開別天皇之第四女。『平城宮御宇日本根子天津御代豊國成姫天皇是也。』天皇天縦寛仁。慍不形色。博渉經史。尤善射藝。高天原廣野姫天皇十一年。立爲皇太子。

(六九七年)元年八月甲子朔。受禪即位。
庚辰。詔曰。現御神止大八嶋國所知天皇大命良麻止詔大命乎。集侍皇子等王等百官人等。天下公民諸聞食止詔。高天原尓事始而遠天皇祖御世御世中今至麻弖尓。天皇御子之阿礼坐牟弥繼繼尓大八嶋國將知次止。天都神乃御子隨母天坐神之依之奉之隨。聞看來此天津日嗣高御座之業止。現御神止大八嶋國所知倭根子天皇命授賜比負賜布貴支高支廣支厚支大命乎受賜利恐坐弖。此乃食國天下乎調賜比平賜比。天下乃公民乎惠賜比撫賜牟止奈母隨神所思行佐久止詔天皇大命乎諸聞食止詔。是以百官人等四方食國乎治奉止任賜幣留國々宰等尓至麻弖尓。天皇朝庭敷賜行賜幣留國法乎過犯事無久。明支淨支直支誠之心以而御稱稱而緩怠事無久。務結而仕奉止詔大命乎諸聞食止詔。故乎如此之状乎聞食悟而款將仕奉人者其仕奉礼良牟状隨。品品讃賜上賜治將賜物曾止詔天皇大命乎諸聞食止詔。仍免今年田租雜徭并庸之半。又始自今年三箇年。不收大税之利。高年老人加恤焉。又親王已下百下百官人等賜物有差。令諸國毎年放生。

(七〇三年)三年…十二月…癸酉。從四位上當麻眞人智徳。率諸王諸臣。奉誄太上天皇。謚曰『大倭根子天之廣野日女尊』。是日。火葬於飛鳥岡。

(七〇七年)四年…十一月丙午。從四位上當麻眞人智徳率誄人奉誄。謚曰『倭根子豊祖父天皇』。即日火葬於飛鳥岡。

(元明前紀)『日本根子天津御代豊國成姫天皇』。小名阿閇皇女。天命開別天皇之第四皇女也。母曰宗我嬪。蘇我山田石川麻呂大臣之女也。適日並知皇子尊。生天之眞宗豊祖父天皇。慶雲三年十一月豊祖父天皇不豫。始有禪位之志。天皇謙讓。固辞不受。四年六月豊祖父天皇崩。

(慶雲)四年六月(七〇七年) 庚寅。天皇御東樓。詔召八省卿及五衛督率等。告以依遺詔攝萬機之状。
秋七月壬子。天皇即位於大極殿。詔曰。『現神八洲御宇倭根子天皇詔旨勅命』。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。關母威岐『藤原宮御宇倭根子天皇』丁酉八月尓。此食國天下之業乎日並知皇太子之嫡子。今御宇豆留天皇尓授賜而並坐而。此天下乎治賜比諧賜岐。是者關母威岐『近江大津宮御宇大倭根子天皇』乃与天地共長与日月共遠不改常典止立賜比敷賜覇留法乎。受被賜坐而行賜事止衆被賜而。恐美仕奉利豆羅久止詔命乎衆聞宣。如是仕奉侍尓。…

(同年)十一月丙申。賑恤志摩國。)以從五位下安倍朝臣眞君。爲越後守。
甲寅。葬倭根子豊祖父天皇于安古山陵。

(七〇八年)和銅元年春正月乙巳。武藏國秩父郡獻和銅。詔曰。『現神御宇倭根子天皇』詔旨勅命乎。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。高天原由天降坐志。天皇御世乎始而中今尓至麻■尓。天皇御世御世天豆日嗣高御座尓坐而治賜慈賜來食國天下之業止奈母。隨神所念行佐久止詔命乎衆聞宣。

續日本紀卷第七起靈龜元年九月、盡養老元年十二月」從四位下行民部大輔兼左兵衛督皇太子学士臣菅野朝臣眞道等奉勅撰。」日本根子瑞淨足姫天皇元正天皇第■四

(元正前紀)『日本根子高端淨足姫天皇』。諱氷高。天渟中原瀛眞人天皇之孫。日並知皇子尊之皇女也。天皇神識沈深。言必典礼。

神龜元年(七二四年)
…二月甲午。受禪即位於大極殿。大赦天下。詔曰。『現神大八洲所知倭根子天皇』詔旨止勅大命乎親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞食宣。高天原尓神留坐皇親神魯岐神魯美命吾孫將知食國天下止与佐斯奉志麻尓麻尓。高天原尓事波自米而四方食國天下乃政乎弥高弥廣尓天日嗣止高御座尓坐而『大八嶋國所知倭根子天皇』乃大命尓坐詔久。此食國天下者掛畏岐藤原宮尓天下所知美麻斯乃父止坐天皇乃美麻斯尓賜志天下之業止詔大命乎聞食恐美受賜懼理坐事乎衆聞食宣。可久賜時尓美麻斯親王乃齡乃弱尓荷重波不堪自加止所念坐而皇祖母坐志志掛畏岐我皇天皇尓授奉岐。依此而是平城大宮尓現御神止坐而大八嶋國所知而靈龜元年尓此乃天日嗣高御座之業食國天下之政乎朕尓授賜讓賜而教賜詔賜都良久。挂畏『淡海大津宮御宇倭根子天皇』乃万世尓不改常典止立賜敷賜閇留隨法後遂者我子尓佐太加尓牟倶佐加尓無過事授賜止負賜詔賜比志尓依弖今授賜牟止所念坐間尓去年九月天地■大瑞物顯來理。…

天平元年(七二九年)…
八月癸亥。天皇御大極殿。詔曰。『現神御宇倭根子天皇』詔旨勅命乎親王等諸王等諸臣等百官人等天下公民衆聞宣。高天原由天降坐之天皇御世始而許能天官御座坐而天地八方治調賜事者聖君止坐而賢臣供奉天下平久百官安久爲而之天地大瑞者顯來止奈母隨神所念行佐久止詔命乎衆聞宣。…

 これらを見ると『続日本紀』では「天智」「持統」「文武」が「(大)倭根子」という称号を奉られています。(それ以降は「日本根子」と呼称されています。)「天智」の場合は「筑紫」を制圧して全国統一したものと思われるのでそれを反映して「大倭」根子とされていると思われます。「持統」と「文武」は「薩夜麻王権」が大地震の影響などにより倒れた際の臨時としての王権であったと思われ被害の少なかった筑紫地域の勢力で樹立した王権と思われますから、『倭』根子という呼称は的を射たものと思われるわけです。
 また「文武」が「倭根子」とされていることと、「元明」即位以降「持統朝」を「前王権」として否定している姿勢とは共通していると思われます。つまり「文武」も「持統朝」の延長と見ていた節が認められます。
 既に指摘したように『延喜式』の中に「持統朝」の「庚寅年」に出された「詔」を否定する施策が書かれており、これは「持統朝」の施策について基本「否定」する立場の表れと見たわけですが、実際には「持統」の死去以降ではなく「文武」の死去以降行われたものと推測したわけです。このことと「元明」以降が「日本根子」と呼称されることは直接つながっていると考えられるものです。
 また「元明」以降「宣詔」する場合には「日本根子」という称号が一切出てこないことにも留意すべきです。『続日本紀』を見ると「元明」以降の天皇が「宣詔」する際には「倭根子」称号がかならず使用されており、これはあくまでも「大義名分」として「新日本王権」が歴代の「倭王権」につながる存在であることを宣言することが重要であったものと思われるわけです。
 また、「天武」は「(大八洲)日本根子」と表記されており、このことはすでに指摘したように「倭」から「日本」へと国号変更が行われていたことを反映していると思われます。

「(六八三年)十二年春正月己丑朔…丙午。詔曰。明神御『大八洲日本根子天皇』勅命者。諸國司。國造。郡司及百姓等。諸可聽矣。朕初登鴻祚以來。天瑞非一二多至之。傳聞。其天瑞者。行政之理。協于天道則應之。是今當于朕世。毎年重至。一則以懼。一則以喜。是以親王。諸王及群卿百寮。并天下黎民。共相歡也。乃小建以上給祿各有差。因以大辟罪以下皆赦之。亦百姓課役並兔焉。…」

「日本」国号がこの時点で正式国名として使用されるようになったと考えれば、「東国」を直接統治する意義がそこに含まれていると思われます。
 ところで既に指摘したように「倭」については『書紀』のなかで「読み」が指定されていません。「日本」は「やまと」と読めというわけですが「倭」については何も書かれていないのです。上に見たように「倭」については「わ」という音で読むべきこととなるわけですが、現在の「辞典」その他では「倭」を「やまと」と読むのが通例のようです。たとえば「岩波」の「大系」でも「日本倭根子」部分には「やまと」とだけ読みが振られており、「倭」がなかったかの如くになっています。しかしそれは『書紀』とは異なる考え方と言うべきでしょう。
 『書紀』あるいはそれを編纂した「八世紀の王権」の考え方では「倭」は「やまと」ではなく、別の読み方あるいは呼び方があったものです。それらに付いてはこれもすでに指摘したように「倭」とは「九州島」を中心とした領域を指す言葉ですから、「やまと」であるはずがないことととなります。「ちくし」と呼んだのかもしれませんが不明です。「わ」と呼んだとも考えられます。
 史書は中国の伝統では新王朝が旧王朝(前王朝)について記すものであり、その意味で『日本書紀(日本紀)』は旧王権である「日本国」の事績を記した史書と考えるべきと思われる。しかしそうすると新王朝も旧王朝も「日本国ということとなってしまう。
 ところで『日本書紀』の中に「日本」は「やまと」と読めという指示がある。これは『書紀』編纂終了時点における「注」と思われ、当初はそのような趣旨ではなかったと思われ、あくまでも「前王朝」の史書となるはずであったものであり、その意味で「日本」は「やまと」と読むべきものではなかったと思われる。この「注」はこの時点における「新日本王権」のある意味「イデオロギー」によるものと思われますが、この「注」も「持統-文武」達の死去とともに書き込まれたものと思われ、これも「元明朝」の意思の表れと見るべきでしょう。
 中国の場合新王権の旧領地の地名が新王朝の王朝名となっている例が多いのが特徴です。(「隋」「唐」「宋」など)日本の場合「日本」という漢字がすでに決められ固定されていたものと思われ、読みだけが旧領地を意味することとなったものと考えられます。その意味で「新日本王権」が自国の読みを「やまと」としているのは示唆的です。彼らの「旧領地」あるいは「本拠地」が「やまと」地域であったことを示すものであり、『旧唐書』に言う「日本旧小国」というのは「日本国」の「本拠地」が「小国」つまり「宗主国」とは異なる「附庸」の対象としての「諸国」であったことを意味するものです。(そこが「やまと」という地域であったと言うこと)
 逆に言えばその後の「持統朝」が「やまと」であるはずがないこととなるでしょう。彼らは「前王朝」であり、当然「別王朝」と言うべきであり、あくまでも「やまと」は違う本拠地をその直接統治範囲としていた国となりますから、そこが「やまと」ではないことは明白です。
 可能性としては「日本」と書いて「ちくし」あるいは「ひのもと」と読む(読んでいた)可能性があるでしょう。(新日本王権のイデオロギーで以前も全て「やまと」であるとしているわけですが、実際には異なっていたはず)、これは「倭」を「やまと」と読まない理由とほぼ同一であり、「倭」も旧王朝の「日本」と同一ルーツを持つ王権(あるいは全くの同一王権)とみればどちらも「やまと」ではなくて当然ということとなります。
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