東国直接統治をもくろんだ倭国王権が諸国としての「近畿王権」に対して一種高圧的に出した詔が以下のものです。
「…皇太子使使奏請曰。昔在天皇等世。混齊天下而治。及逮于今。分離失業。謂國業也。屬天皇我皇可牧萬民之運。天人合應。厥政惟新。是故慶之尊之。頂戴伏奏。現爲明神御八嶋國天皇問於臣曰。其群臣連及伴造。國造所有昔在天皇曰所置子代入部。皇子等私有御名入部。皇祖大兄御名部入部。謂彦人大兄也。及其屯倉。猶如古代而置以不。臣即恭承所詔。奉答而曰。天無雙日。國無二王。是故兼并天下。可使萬民。唯天皇耳。別以入部及所封民簡死仕丁。從前處分。自餘以外。恐私駈役。故獻入部五百廿四口。屯倉一百八十一所。…」
この「詔」については以前判断に苦しんだことがあります。それは「倭国」から「近畿王権」に対してのものなのか、それとも逆に没落した倭国に向かって近畿王権が財産をよこせといっているのかが当時不明だったからです。しかし現在では上に書いたように「倭国王権」から東方進出に伴い直接統治領域へ組み込まれた近畿王権に対して出されたものと理解しています。
この「皇太子」なる人物への「現爲明神御八嶋國天皇」からの問が「其群臣連及伴造國造所有昔在天皇曰所置『子代入部』皇子等私有『御名入部』皇祖大兄『御名部入部』。謂彦人大兄也。及其『屯倉』。猶如古代而置以不。」というものです。つまり現在『子代入部』『御名入部』『屯倉』などがその本来の所有者から離れているものをそのままでいいかという問いかけ、というよりほとんど「返却命令」であると思われますが、これが東国へ進出した時点の「筑紫日本国」の「倭国王」の命令であることを考えると、その返還命令とも言うべき言葉の中に「皇祖大兄『御名部入部』。謂彦人大兄也。及其『屯倉』。」というものが含まれていることが注目されます。なぜならこれらは「吉備」勢力の資産であると考えられるからであり、「吉備」が「倭国」の統治範囲ではなく「近畿王権」の統治範囲にあったことを示すものだからです。
(以下は彦人大兄と吉備の関係を示す記事)
「舒明前紀」「息長足日廣額天皇。渟中倉太珠敷天皇孫。彦人大兄皇子之子也。母曰糠手姫皇女。」
(六三〇年)「二年春正月丁卯朔戊寅。立寶皇女爲皇后。后生二男。一女一曰葛城皇子。近江大津宮御宇天皇。二曰間人皇女。三曰大海皇子。淨御原宮御宇天皇。夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛生古人皇子。更名大兄皇子。又『娶吉備國蚊屋釆女生蚊屋皇子。』」
「皇極前紀」「天豐財重日重日此云伊柯之比足姫天皇。渟中倉太珠敷天皇曾孫。押坂彦人大兄皇子孫。茅渟王女也。母曰吉備姫王。」
「皇極二年(六四三年)九月丁丑朔壬午。葬息長足日廣額天皇于押坂陵。或本云。呼廣額天皇爲高市天皇也。
丁亥。吉備嶋皇祖母命薨。」
(六四六年)大化二年
三月癸亥朔甲子。詔東國々司等曰。…處新宮。將幣諸神。屬乎今歳。又於農月不合使民。縁造新宮。固不獲已。深感二途大赦天下自今以後。國司。郡司。勉之勗之。勿爲放逸。宜遣使者諸國流人及獄中囚一皆放捨。別鹽屋■魚。此云擧能之盧。神社福草。朝倉君。椀子連。三河大伴直。蘆尾直。四人並闕名。此六人奉順天皇。朕深讃美厥心。『宜罷官司處々屯田及吉備嶋皇祖母處々貸稻。』以其屯田班賜群臣及伴造等。…
上の推論は別の記事からも言えます。
上の最後の記事では「大赦」が行われており「諸國流人及獄中囚一皆放捨」と「獄中」の囚人全員の解放を指示していますが、それと同時に「吉備嶋皇祖母處々貸稻」を含む「屯田」が廃止されており、これは「貸稲」つまり貸し付けられた「元本」を(当然「利子」も)「免ずる」としたと見るのが相当であり(「徳政令」と言うべきものとなります)そのような解放されるべき「貸稲」について「詔」の中で特に「吉備嶋姫王」の「貸稲」が挙げられているのは、彼女の「貸稲」が占める量と割合が相当程度多かったことを示すものであり、莫大な資産が形成されていたことを示すものですが、これが近畿王権に流入していたと見られ、これを近畿王権から切り離すことが近畿王権の財政的な基礎を切り崩すことに有効であると考えたからに他ならなく、東国支配の一環として近畿王権の弱体化が必要と倭国王権が考えていたことを示すものです。(ちなみにここでは「吉備嶋姫王」については「皇祖母」とはあるものの「命」という尊称がされていません。彼女に対する敬意が成されていないことととなりますがそれはこの指示を出した人間と彼女の関係が希薄だからだと思われます)
そもそも「徳政令」は王権交代時にしばしば行われますが、民心の救済と同時に前王権の弱体化を狙ったものでもあります。借りた側は債権放棄により救済されますが、貸した側つまり旧王権側は回収ができずいわば焦げ付いたままになってしまいますから、損益の構造が崩壊してしまいます。
この「吉備嶋姫王」の「貸稲」を行っていた「處々」の土地とはどこなのでしょうか。この「貸稲」は「吉備嶋皇祖母」つまり「皇極」の母の「吉備姫王」が所有する土地からのものであったものであり、上の「改新の詔」によりこれらの「詔」が本来「東国」に対して出されたという経緯を考えると「吉備」が「東国」の範囲に入っていたことを示すものであり、「吉備嶋皇祖母」という人物についても「東国」つまり「近畿王権」との関係が深かったことを示すものと思われます。
彼女は「押坂彦人大兄」の息子の嫁であり、彼の『御名部入部』というのが「押坂部」を意味するものであるのは当然であり、それは「刑部」あるいは「忍壁」などと表記されますが『倭名類聚抄』によればそれが地名として濃密に分布しているのは「吉備」地方であるという事実につながります。つまり「皇祖大兄」の「御名部」つまり「御名」を戴いている部民がおそらく最も多数いたのが「吉備」であったことを示すものであり、「皇祖大兄」と「吉備」の関係が深かったことを示すものと思われます。そのことから「吉備」との関係は以前からあったものであり、決して「吉備嶋姫王」の時点からではなかったということがわかります。逆に言うと彼女との婚姻関係もそのような関係があったからこそ実現したとも言えるでしょう。そう考えると、その吉備と関係が深かったと思われる「彦人大兄」が「皇祖」とされているのは、彼が「近畿王権」に関わる人物であり、彼等の「祖」たる人物として彼が存在していたことを示すものです。当然その彼の子とされる「舒明天皇」が「近畿王権」の「王」であるのは当然であり、また「皇極」においても同様のことが言えるわけです。つまり彼等は「倭国王」ではなく、諸国としての「近畿王権」の「王」であったものであり、たまたま「倭国」の東方統治政策の中で「諸国」から「直接統治」される立場に変わる時点での「王」であったものです。当然彼等はいわゆる「天皇家」つまり「倭国王」との関係はかなり薄いものであり、そのため「舒明」「皇極」「斉明」について「大伴」「物部」などが「仕えた」という記録がないのも当然ということとなります。
既に指摘されているように「大伴」「物部」については、「舒明」「皇極」(「斉明」についても)に「仕えた」という記録がありません。系図でも彼等の代だけがいわば「飛んでいる」状態となっています。
また同様に既に指摘されていますが、彼等の両親は天皇ではないわけです。当時「父」も「母」も天皇でもなく皇后でもない彼等が天皇にまた皇后になることなどできたはずがないのです。その意味で「異例」と言われるわけですが、それも当然であり、彼等については無理に『書紀』の中に割り込ませたものであり、その意味で「倭国王」の系譜に並ぶことができないのです。そのことが「大伴」などの系図に反映されていない理由と言えます。では彼等は一体誰なのでしょうか。彼等と「吉備」とそして「百済」とはどのような関係にあるのでしょうか。それについては別途考えることとします。
「…皇太子使使奏請曰。昔在天皇等世。混齊天下而治。及逮于今。分離失業。謂國業也。屬天皇我皇可牧萬民之運。天人合應。厥政惟新。是故慶之尊之。頂戴伏奏。現爲明神御八嶋國天皇問於臣曰。其群臣連及伴造。國造所有昔在天皇曰所置子代入部。皇子等私有御名入部。皇祖大兄御名部入部。謂彦人大兄也。及其屯倉。猶如古代而置以不。臣即恭承所詔。奉答而曰。天無雙日。國無二王。是故兼并天下。可使萬民。唯天皇耳。別以入部及所封民簡死仕丁。從前處分。自餘以外。恐私駈役。故獻入部五百廿四口。屯倉一百八十一所。…」
この「詔」については以前判断に苦しんだことがあります。それは「倭国」から「近畿王権」に対してのものなのか、それとも逆に没落した倭国に向かって近畿王権が財産をよこせといっているのかが当時不明だったからです。しかし現在では上に書いたように「倭国王権」から東方進出に伴い直接統治領域へ組み込まれた近畿王権に対して出されたものと理解しています。
この「皇太子」なる人物への「現爲明神御八嶋國天皇」からの問が「其群臣連及伴造國造所有昔在天皇曰所置『子代入部』皇子等私有『御名入部』皇祖大兄『御名部入部』。謂彦人大兄也。及其『屯倉』。猶如古代而置以不。」というものです。つまり現在『子代入部』『御名入部』『屯倉』などがその本来の所有者から離れているものをそのままでいいかという問いかけ、というよりほとんど「返却命令」であると思われますが、これが東国へ進出した時点の「筑紫日本国」の「倭国王」の命令であることを考えると、その返還命令とも言うべき言葉の中に「皇祖大兄『御名部入部』。謂彦人大兄也。及其『屯倉』。」というものが含まれていることが注目されます。なぜならこれらは「吉備」勢力の資産であると考えられるからであり、「吉備」が「倭国」の統治範囲ではなく「近畿王権」の統治範囲にあったことを示すものだからです。
(以下は彦人大兄と吉備の関係を示す記事)
「舒明前紀」「息長足日廣額天皇。渟中倉太珠敷天皇孫。彦人大兄皇子之子也。母曰糠手姫皇女。」
(六三〇年)「二年春正月丁卯朔戊寅。立寶皇女爲皇后。后生二男。一女一曰葛城皇子。近江大津宮御宇天皇。二曰間人皇女。三曰大海皇子。淨御原宮御宇天皇。夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛生古人皇子。更名大兄皇子。又『娶吉備國蚊屋釆女生蚊屋皇子。』」
「皇極前紀」「天豐財重日重日此云伊柯之比足姫天皇。渟中倉太珠敷天皇曾孫。押坂彦人大兄皇子孫。茅渟王女也。母曰吉備姫王。」
「皇極二年(六四三年)九月丁丑朔壬午。葬息長足日廣額天皇于押坂陵。或本云。呼廣額天皇爲高市天皇也。
丁亥。吉備嶋皇祖母命薨。」
(六四六年)大化二年
三月癸亥朔甲子。詔東國々司等曰。…處新宮。將幣諸神。屬乎今歳。又於農月不合使民。縁造新宮。固不獲已。深感二途大赦天下自今以後。國司。郡司。勉之勗之。勿爲放逸。宜遣使者諸國流人及獄中囚一皆放捨。別鹽屋■魚。此云擧能之盧。神社福草。朝倉君。椀子連。三河大伴直。蘆尾直。四人並闕名。此六人奉順天皇。朕深讃美厥心。『宜罷官司處々屯田及吉備嶋皇祖母處々貸稻。』以其屯田班賜群臣及伴造等。…
上の推論は別の記事からも言えます。
上の最後の記事では「大赦」が行われており「諸國流人及獄中囚一皆放捨」と「獄中」の囚人全員の解放を指示していますが、それと同時に「吉備嶋皇祖母處々貸稻」を含む「屯田」が廃止されており、これは「貸稲」つまり貸し付けられた「元本」を(当然「利子」も)「免ずる」としたと見るのが相当であり(「徳政令」と言うべきものとなります)そのような解放されるべき「貸稲」について「詔」の中で特に「吉備嶋姫王」の「貸稲」が挙げられているのは、彼女の「貸稲」が占める量と割合が相当程度多かったことを示すものであり、莫大な資産が形成されていたことを示すものですが、これが近畿王権に流入していたと見られ、これを近畿王権から切り離すことが近畿王権の財政的な基礎を切り崩すことに有効であると考えたからに他ならなく、東国支配の一環として近畿王権の弱体化が必要と倭国王権が考えていたことを示すものです。(ちなみにここでは「吉備嶋姫王」については「皇祖母」とはあるものの「命」という尊称がされていません。彼女に対する敬意が成されていないことととなりますがそれはこの指示を出した人間と彼女の関係が希薄だからだと思われます)
そもそも「徳政令」は王権交代時にしばしば行われますが、民心の救済と同時に前王権の弱体化を狙ったものでもあります。借りた側は債権放棄により救済されますが、貸した側つまり旧王権側は回収ができずいわば焦げ付いたままになってしまいますから、損益の構造が崩壊してしまいます。
この「吉備嶋姫王」の「貸稲」を行っていた「處々」の土地とはどこなのでしょうか。この「貸稲」は「吉備嶋皇祖母」つまり「皇極」の母の「吉備姫王」が所有する土地からのものであったものであり、上の「改新の詔」によりこれらの「詔」が本来「東国」に対して出されたという経緯を考えると「吉備」が「東国」の範囲に入っていたことを示すものであり、「吉備嶋皇祖母」という人物についても「東国」つまり「近畿王権」との関係が深かったことを示すものと思われます。
彼女は「押坂彦人大兄」の息子の嫁であり、彼の『御名部入部』というのが「押坂部」を意味するものであるのは当然であり、それは「刑部」あるいは「忍壁」などと表記されますが『倭名類聚抄』によればそれが地名として濃密に分布しているのは「吉備」地方であるという事実につながります。つまり「皇祖大兄」の「御名部」つまり「御名」を戴いている部民がおそらく最も多数いたのが「吉備」であったことを示すものであり、「皇祖大兄」と「吉備」の関係が深かったことを示すものと思われます。そのことから「吉備」との関係は以前からあったものであり、決して「吉備嶋姫王」の時点からではなかったということがわかります。逆に言うと彼女との婚姻関係もそのような関係があったからこそ実現したとも言えるでしょう。そう考えると、その吉備と関係が深かったと思われる「彦人大兄」が「皇祖」とされているのは、彼が「近畿王権」に関わる人物であり、彼等の「祖」たる人物として彼が存在していたことを示すものです。当然その彼の子とされる「舒明天皇」が「近畿王権」の「王」であるのは当然であり、また「皇極」においても同様のことが言えるわけです。つまり彼等は「倭国王」ではなく、諸国としての「近畿王権」の「王」であったものであり、たまたま「倭国」の東方統治政策の中で「諸国」から「直接統治」される立場に変わる時点での「王」であったものです。当然彼等はいわゆる「天皇家」つまり「倭国王」との関係はかなり薄いものであり、そのため「舒明」「皇極」「斉明」について「大伴」「物部」などが「仕えた」という記録がないのも当然ということとなります。
既に指摘されているように「大伴」「物部」については、「舒明」「皇極」(「斉明」についても)に「仕えた」という記録がありません。系図でも彼等の代だけがいわば「飛んでいる」状態となっています。
また同様に既に指摘されていますが、彼等の両親は天皇ではないわけです。当時「父」も「母」も天皇でもなく皇后でもない彼等が天皇にまた皇后になることなどできたはずがないのです。その意味で「異例」と言われるわけですが、それも当然であり、彼等については無理に『書紀』の中に割り込ませたものであり、その意味で「倭国王」の系譜に並ぶことができないのです。そのことが「大伴」などの系図に反映されていない理由と言えます。では彼等は一体誰なのでしょうか。彼等と「吉備」とそして「百済」とはどのような関係にあるのでしょうか。それについては別途考えることとします。