「無文銀銭」の利用の状況を著すものとして謡曲『岩船』を検討しているわけですが、そこでは「高麗」「百済」「唐」と交易を行おうとして「摂津難波」に「市」を設けたとされます。
これに関してはその時期が問題となります。ここに書かれた「唐」が「唐」であるとすると少なくとも「唐」と平和的な関係が構築されていた期間と限定されますから、「六三一年」の「遣唐使派遣」などの時期までの範囲が対象ではなかったでしょうか。
「唐」との関係は「六三一年」に「唐使高表仁」と「倭国王子」の間に「紛争」が起き、それ以降「六四八年」までは「国交が断絶」していましたし、それ以降国交が回復したといっても「太宗」からは「遠距離は大変だから毎年来なくて良い」とある意味突き放されてしまいます。このような関係は決して「良好」な関係とは言いにくく、「新羅」の同行が絡んで少なくみてもスムースな関係とはなり得ませんでした。これらのことから明らかに年代設定としては「六三一年以前」であると考えられるものですが、さらにこの「唐」が本当に「唐」なのかという問題があります。『二中歴』や『帝皇年代記』などでは「唐」以前の時代においても「唐」と記されており、『書紀』においても「隋代」であっても「唐」という表記がされています。この事からこの「岩船」においても「唐」と表記されているものの「隋代」であるという可能性はあるでしょう。
これを裏付けるのは「裴世清」により「宣喩」されるという「事件」のあったことです。
「倭国王」が「天子」を称する「国書」を送りそれに対し「隋帝」が激怒したという事件があった後「裴世清」が「宣諭使」として派遣されるという事案が発生しました。これが『隋書』では「六〇七年」のこととされているものの、私見では実際には「六〇〇年時点以前」のことと考えられ、それ以後「隋」との関係は非常にぎくしゃくとしてものとなったと思われますから、この時点以降「隋」との間に交易を行おうとは考えなかったと思われるのです。そのことからこの「交易」を始めようという時点もそれ以前であると事が推測されるものです。
また「天の探女」が「如意寶珠」を「奉る」と云う筋書きは、「九州」の「宇佐」から「巫女」が(玉)「如意寶珠」を捧げて「君」の所にやってくることを意味しているのではないかと推測されます。またここでは「探女」という表記がされていますが、この「探女」とは「神話」において「下界」に派遣された者達の動向を探るために派遣された一種のスパイを指す用語であり、この場合の「如意寶珠」を捧げ持て来るという役目とは合わないと思われます。この「探女」は実際には「琛女」ではなかったでしょうか。「琛」であれば「寶」を意味する言葉ですから、実際には「寶女」であったものであり、「如意寶珠」を持参するという役目にまさに整合するものです。ただ「琛」という漢字に馴染みがないため「神代紀」にもあることから「てへん」に換えられてしまい「探女」となってしまったという可能性が考えられます。(もしそうであれば「世阿弥」段階かあるいはそれに先立つ時期が想定されます。)
(元々が「琛女」であるとすると、これは「皇極」「斉明」の名前とされる「寶女王」と同じとなるのではないかと思われ、「皇極」「斉明」の出自についても考えさせられるものと思われます。)
さらにこの「岩船」に出てくる「龍神」とは、「法華経」の「提婆達多品」に出てくる「八歳の竜女」の父親とされる「娑竭羅龍王」の投影と考えられ、「神話」に云う「海神」と同じものである事を意味すると思われますから、「如意寶珠」との関連からも「海人族」との深い関わりを示すものと考えられます。
「岩船」によれば「百済」「高麗」「唐」から高価な製品を「購入」して倭国に持ってきたようですが、この際相手側に支払った代価についてはどのようなものだったでしょうか。
「通常」はこれを「絹」や「玉石」類など「倭国」の名産と言えるものを提供したものと推測するわけですが、「貨幣」の代わりをするにはこれらの物品は「場所」を取る、「価格」が変動するなどの欠点があります。まして、それが価値としてどの程度ののものなのか「定量化」がされていたものかは不明ですし、また「船」に積んでいくことを考慮すると「荷物」はかさばらない方がいいわけであり、「銭貨」であればコンパクトになるという利点もあり、この時点で「唐」などから「財宝」を入手するのに「貨幣」を使用したとしても不思議ではありません。
当時すでに「漢」の「貨幣」である「五銖銭」がある程度流通していたと考えられ、「貨幣」の機能や価値などについては「王権」でもまた「民間」でも認識していたものと考えられます。(「五銖銭」は「弥生」、「古墳」時代を通じ特に西日本に多く出土することが確認されています)
そして、「倭国王権」がこの「五銖銭」と互換性があるものとして使用(利用)したのが「無文銀銭」であったと考えられるわけです。
この「無文銀銭」は、「岩船」に書かれたような「商業的」「経済的」イベントに直結する貨幣であったものではないかと推察され、「岩船」に書かれている事から推定して、「唐」と「交易」をするという事を目論んで「遣唐使」(実際には「遣隋使」か)を送り、「高額」な品々を入手してそれを国内に売りさばこうとしているわけですが、このとき「唐」に支払ったものが「無文銀銭」ではなかったかと考えられるところです。
「無文銀銭」が発見されているのはほぼ「近畿」に限定されています。最初に「無文銀銭」が発見されたのは「摂津天王寺真寶院」という「字地名」の場所からであり、しかも一〇〇枚とも言われる大量のものでした。
この「天王寺」周辺は、その「天王寺」が「阿毎多利思北孤」の創建に関わる寺院と考えられるものであり、それ以降「九州倭国王朝」の直轄的地域であったと考えられ、その意味でもこの「無文銀銭」の「小片付着」などの事業が「倭国王権」の意志として行われたものであることを示唆しているものと考えられます。
そもそも、このような「銭貨」という存在は「国家統治権」を象徴する行為と考えられ、その意味でもこの「無文銀銭」発行が「王権」の意志として行われたと考えるのは当然であると思われます。
「難波」は「阿毎多利思北孤」「利歌彌多仏利」の拠点とも言うべき場所であったと推察されますので、「君」とは彼等のどちらかであり、彼が「隋」などと「交易」を行うために市を開いたものと推量され、その際に「新羅」から流入していた「銀」を通貨のように利用したものが「無文銀銭」であったものでしょう。
ところで、この段階で「市」を設ける意味というものについては、以下のように考えられます。
「交易」、「貨幣」、「市場」は「市場経済の三要素」と考えられています。ここで「国家」の手により「市場」を立ち上げ、「交易」を促し、「貨幣」を投入する、ということは、それまでの「非市場的」経済から「市場経済」への進化・転換を促したものと考えられ、それは結局「国家財政」への寄与というものを高く評価していたからであると考えられます。
「貨幣」(「無文銀銭」)に使用する「銀」は「新羅」を通じて入手したものと考えられますが、これはしわば「贈与」であり、入手に際してのコストはかかっていないとみるべきでしょう。もし有償であったとしても「安全保障」などでの見返りによりかなり安かったのではないでしょうか。それを「銀」の実レートで取引するとその差額が国家の収入になるという事を考えた部分もあったものと推量します。
また、この「市」が「公設市場」であることも重要です。この「市」全体での利益は即座に「王権」の利益になるわけであり、「王権」の「財政」に大きく寄与することを「利点」として考えたことと推察されます。
そのような「財政」への貢献を考える事となった理由の一つは「制度改革」であったものでしょう。
「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」は、数々の改革を行い、古代では初めての「中央集権的」制度を実施するなどしていますが、このような「行政制度」等の変革を行うと、必要な人員が急激に増加することとなり、それを養うための「財政」に負担が掛かることとなります。新しく増加した人員に対する「報酬」は通常「食封」の形で賄われますが、それとは別に「屯倉」に集積されたものの一部を「上納」させた中からも支給されることとなったと考えられ、そうすると「上納」量を増加させるなどが必要となりますが、そうすると「諸国」の王の取り分が減ることとなり、反対もあったと考えられます。このような理由から「国家収入」の増加と安定化を目論んだのが「市」立ち上げの理由の一つと考えられます。
すでに国内には「大商人」が発生し、多くの「冨」を蓄えられるようになっていたと考えられ、そのようなものの持つ「冨」を見た「阿毎多利思北孤」達は、それを「国家」として行おうとしたのではないでしょうか。
これら諸々の理由により「市場」を開き「交易」を活発にする一貫として「無文銀銭」が通貨として機能した時期があったと推量します。