古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「無文銀銭」について(四)

2017年06月29日 | 古代史

 「無文銀銭」の利用の状況を著すものとして謡曲『岩船』を検討しているわけですが、そこでは「高麗」「百済」「唐」と交易を行おうとして「摂津難波」に「市」を設けたとされます。

 これに関してはその時期が問題となります。ここに書かれた「唐」が「唐」であるとすると少なくとも「唐」と平和的な関係が構築されていた期間と限定されますから、「六三一年」の「遣唐使派遣」などの時期までの範囲が対象ではなかったでしょうか。
 「唐」との関係は「六三一年」に「唐使高表仁」と「倭国王子」の間に「紛争」が起き、それ以降「六四八年」までは「国交が断絶」していましたし、それ以降国交が回復したといっても「太宗」からは「遠距離は大変だから毎年来なくて良い」とある意味突き放されてしまいます。このような関係は決して「良好」な関係とは言いにくく、「新羅」の同行が絡んで少なくみてもスムースな関係とはなり得ませんでした。これらのことから明らかに年代設定としては「六三一年以前」であると考えられるものですが、さらにこの「唐」が本当に「唐」なのかという問題があります。『二中歴』や『帝皇年代記』などでは「唐」以前の時代においても「唐」と記されており、『書紀』においても「隋代」であっても「唐」という表記がされています。この事からこの「岩船」においても「唐」と表記されているものの「隋代」であるという可能性はあるでしょう。
 これを裏付けるのは「裴世清」により「宣喩」されるという「事件」のあったことです。
 「倭国王」が「天子」を称する「国書」を送りそれに対し「隋帝」が激怒したという事件があった後「裴世清」が「宣諭使」として派遣されるという事案が発生しました。これが『隋書』では「六〇七年」のこととされているものの、私見では実際には「六〇〇年時点以前」のことと考えられ、それ以後「隋」との関係は非常にぎくしゃくとしてものとなったと思われますから、この時点以降「隋」との間に交易を行おうとは考えなかったと思われるのです。そのことからこの「交易」を始めようという時点もそれ以前であると事が推測されるものです。

 また「天の探女」が「如意寶珠」を「奉る」と云う筋書きは、「九州」の「宇佐」から「巫女」が(玉)「如意寶珠」を捧げて「君」の所にやってくることを意味しているのではないかと推測されます。またここでは「探女」という表記がされていますが、この「探女」とは「神話」において「下界」に派遣された者達の動向を探るために派遣された一種のスパイを指す用語であり、この場合の「如意寶珠」を捧げ持て来るという役目とは合わないと思われます。この「探女」は実際には「琛女」ではなかったでしょうか。「琛」であれば「寶」を意味する言葉ですから、実際には「寶女」であったものであり、「如意寶珠」を持参するという役目にまさに整合するものです。ただ「琛」という漢字に馴染みがないため「神代紀」にもあることから「てへん」に換えられてしまい「探女」となってしまったという可能性が考えられます。(もしそうであれば「世阿弥」段階かあるいはそれに先立つ時期が想定されます。)
 (元々が「琛女」であるとすると、これは「皇極」「斉明」の名前とされる「寶女王」と同じとなるのではないかと思われ、「皇極」「斉明」の出自についても考えさせられるものと思われます。)
 さらにこの「岩船」に出てくる「龍神」とは、「法華経」の「提婆達多品」に出てくる「八歳の竜女」の父親とされる「娑竭羅龍王」の投影と考えられ、「神話」に云う「海神」と同じものである事を意味すると思われますから、「如意寶珠」との関連からも「海人族」との深い関わりを示すものと考えられます。

 「岩船」によれば「百済」「高麗」「唐」から高価な製品を「購入」して倭国に持ってきたようですが、この際相手側に支払った代価についてはどのようなものだったでしょうか。
 「通常」はこれを「絹」や「玉石」類など「倭国」の名産と言えるものを提供したものと推測するわけですが、「貨幣」の代わりをするにはこれらの物品は「場所」を取る、「価格」が変動するなどの欠点があります。まして、それが価値としてどの程度ののものなのか「定量化」がされていたものかは不明ですし、また「船」に積んでいくことを考慮すると「荷物」はかさばらない方がいいわけであり、「銭貨」であればコンパクトになるという利点もあり、この時点で「唐」などから「財宝」を入手するのに「貨幣」を使用したとしても不思議ではありません。
 当時すでに「漢」の「貨幣」である「五銖銭」がある程度流通していたと考えられ、「貨幣」の機能や価値などについては「王権」でもまた「民間」でも認識していたものと考えられます。(「五銖銭」は「弥生」、「古墳」時代を通じ特に西日本に多く出土することが確認されています)
 そして、「倭国王権」がこの「五銖銭」と互換性があるものとして使用(利用)したのが「無文銀銭」であったと考えられるわけです。
 この「無文銀銭」は、「岩船」に書かれたような「商業的」「経済的」イベントに直結する貨幣であったものではないかと推察され、「岩船」に書かれている事から推定して、「唐」と「交易」をするという事を目論んで「遣唐使」(実際には「遣隋使」か)を送り、「高額」な品々を入手してそれを国内に売りさばこうとしているわけですが、このとき「唐」に支払ったものが「無文銀銭」ではなかったかと考えられるところです。

 「無文銀銭」が発見されているのはほぼ「近畿」に限定されています。最初に「無文銀銭」が発見されたのは「摂津天王寺真寶院」という「字地名」の場所からであり、しかも一〇〇枚とも言われる大量のものでした。
 この「天王寺」周辺は、その「天王寺」が「阿毎多利思北孤」の創建に関わる寺院と考えられるものであり、それ以降「九州倭国王朝」の直轄的地域であったと考えられ、その意味でもこの「無文銀銭」の「小片付着」などの事業が「倭国王権」の意志として行われたものであることを示唆しているものと考えられます。
  そもそも、このような「銭貨」という存在は「国家統治権」を象徴する行為と考えられ、その意味でもこの「無文銀銭」発行が「王権」の意志として行われたと考えるのは当然であると思われます。
 「難波」は「阿毎多利思北孤」「利歌彌多仏利」の拠点とも言うべき場所であったと推察されますので、「君」とは彼等のどちらかであり、彼が「隋」などと「交易」を行うために市を開いたものと推量され、その際に「新羅」から流入していた「銀」を通貨のように利用したものが「無文銀銭」であったものでしょう。 
 
 ところで、この段階で「市」を設ける意味というものについては、以下のように考えられます。
 「交易」、「貨幣」、「市場」は「市場経済の三要素」と考えられています。ここで「国家」の手により「市場」を立ち上げ、「交易」を促し、「貨幣」を投入する、ということは、それまでの「非市場的」経済から「市場経済」への進化・転換を促したものと考えられ、それは結局「国家財政」への寄与というものを高く評価していたからであると考えられます。
 「貨幣」(「無文銀銭」)に使用する「銀」は「新羅」を通じて入手したものと考えられますが、これはしわば「贈与」であり、入手に際してのコストはかかっていないとみるべきでしょう。もし有償であったとしても「安全保障」などでの見返りによりかなり安かったのではないでしょうか。それを「銀」の実レートで取引するとその差額が国家の収入になるという事を考えた部分もあったものと推量します。
 また、この「市」が「公設市場」であることも重要です。この「市」全体での利益は即座に「王権」の利益になるわけであり、「王権」の「財政」に大きく寄与することを「利点」として考えたことと推察されます。
 そのような「財政」への貢献を考える事となった理由の一つは「制度改革」であったものでしょう。
 「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」は、数々の改革を行い、古代では初めての「中央集権的」制度を実施するなどしていますが、このような「行政制度」等の変革を行うと、必要な人員が急激に増加することとなり、それを養うための「財政」に負担が掛かることとなります。新しく増加した人員に対する「報酬」は通常「食封」の形で賄われますが、それとは別に「屯倉」に集積されたものの一部を「上納」させた中からも支給されることとなったと考えられ、そうすると「上納」量を増加させるなどが必要となりますが、そうすると「諸国」の王の取り分が減ることとなり、反対もあったと考えられます。このような理由から「国家収入」の増加と安定化を目論んだのが「市」立ち上げの理由の一つと考えられます。
 すでに国内には「大商人」が発生し、多くの「冨」を蓄えられるようになっていたと考えられ、そのようなものの持つ「冨」を見た「阿毎多利思北孤」達は、それを「国家」として行おうとしたのではないでしょうか。
 これら諸々の理由により「市場」を開き「交易」を活発にする一貫として「無文銀銭」が通貨として機能した時期があったと推量します。

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「無文銀銭」について(三)

2017年06月29日 | 古代史

「無文銀銭」の使用法についてそれが海外とのいわば「貿易」に使用されるものであり、高額紙幣の役割をしていたと考えたわけですが、それが窺えるのが「謡曲」「岩船」の物語の展開です。

 ここでいう「謡曲」とは本来「能」そのものであり、その「能」のうち「シテ・ワキ・地謡(じうたい)」などの部分である、詞章全体を一人で謡うものとされます。
 「能」については「室町時代」に「観阿弥」「世阿弥」父子によってそれまでの「猿楽」が集大成され「申楽」となりますが、「世阿弥」の「風姿花伝」によれぱ「聖徳太子」の時代に「秦河勝」に命じて造らせたものが「申楽」というものの発祥であるとされています。
 また、現存する「謡曲」はおおかた「室町時代」付近に造られたものと考えられているものの、古来からの形を残したものも多いと推測され、そのようなものを「合理的」に理解する事により、古代史解明の一助となるものと考えられます。(すでに同様の趣旨で正木氏などから優れた研究がされています)

 この『岩船』という謡曲は「めでたさ」を詠ったものであり、通常の評価としては「ストーリー」らしいものもなく、「前半」と「後半」のつながりもやや唐突であり、作品としての完成度はそれほど高くないものの、正月などに「嘉祥」として詠われるものとされます。
 この作品の舞台背景となっているのは「摂津国住吉の浦」であり、話の展開としては「天の探女(さぐめ)」が「如意寶珠」を「君」に捧げる為にやってきます。その後「龍神」が「宝船」を守護して「難波」の岸に乗り付けるというものです。
 以下「岩船」の主要な部分を抜き出してみます。

「(中略)不思議やなこれなる市人を見れば。姿は唐人なるが。声は大和詞なり。又銀盤に玉をすゑて持ちたり。そも御身はいかなる人ぞ。さん候かゝる御代ぞと仰ぎ参りたり。又是なる玉は私に持ちたる宝なれども。余りにめでたき御代なれば。龍女が宝珠とも思し召され候へ。これは君に捧物にて候。ありがたし/\。それ治まれる御代の験には。賢人も山より出で。聖人も君に仕ふと云へり。然れば御身は誰なれば。かゝる宝を捧ぐるやらん。委しく奏聞申すべし。あらむつかしと問ひ給ふや。唐土合浦の玉とても。宝珠の外に其名は無し。これも津守の浦の玉。心の如しと思しめせ。心の如しと聞ゆるは。さては名におふ如意寶珠を。我が君にさゝげ奉るか。運ぶ宝や高麗百済。唐船も西の海。檍が原の波間より。現れ出でし住吉の。神も守りの。道すぐに。こゝに御幸を住吉の。神と君とは行合の。目のあたりあらたなる。君の光ぞめでたき。」
(中略)久方の。天の探女が岩船を。とめし神代の。幾久し。我はまた下界に住んで。神を敬ひ君を守る。秋津島根の。龍神なり。或は神代の嘉例をうつし。又は治まる御代に出でて。宝の御船を守護し奉り勅もをもしや勅もをもしや此岩船。宝をよする波の鼓。拍子を揃へてえいや/\えいさらえいさ。引けや岩船。天の探女か。波の腰鼓。ていたうの拍子を打つなりやさゞら波経めぐりて住吉の松の風吹きよせよえいさ。えいさらえいさと。おすや唐艪の/\潮の満ちくる浪に乗つて。八大龍王は海上に飛行し御船の綱手を手にくりからまき。汐にひかれ波に乗つて。長居もめでたき住吉の岸に。宝の御船を着け納め。数も数万の捧物。運び入るゝや心の如く。金銀珠玉は降り満ちて。山の如くに津守の浦に。君を守りの神は千代まで栄ふる御代とぞ。なりにける。」

 ところで、この話の中の「君」とは誰のことでしょうか。もちろんこの謡曲に詠われている内容が「史実」と決まっているわけではないものの、全くの架空の話とも思えず、「モデル」となるような「倭国王」がいたと思料します。この中にはヒントとなるものがいくつか確認できます。
 ひとつは「天の探女」が「如意寶珠」を捧げるために来ると云うこと、さらに「君」は「高麗」「百済」「唐」と交易を行おうとして「摂津難波」に「市」を設けることとしたこと、あるいは「龍神」が「宝船」を「守護」して、運んでくることなどです。
 まず、「如意寶珠」についてですが、ここに出てくる「如意寶珠」については「仏教」の経典にあるものです。それは「大乗」の経典にもありますが、また「小乗」の経典にもみられます。さらに「宇佐八幡宮」に伝わる『八幡宇佐宮御託宣集』の中にも「如意寶珠」について書かれています。

 「彦山権現、衆生に利する為、教到四年甲寅(四七四年)〔第二九代、安閑天皇元年也〕に摩訶陀國より如意寶珠を持ちて日本国に渡り、當山般若石屋に納められる。」

 ここには「教倒」という「九州年号」が使用され、さらに「如意寶珠」は「宇佐」にあったものとされています。
 また、『隋書俀国伝』中にも「如意寶珠」は登場します。それは「祷祭」との関連で語られているものです。
(以下隋書倭国伝の一節)
「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行祷祭。有如意寶珠、其色青、大如鶏卵、夜則有光、云魚眼精也。」

 この「如意寶珠」とは「海中」の「大魚」(「摩竭(まかつ)魚」)の脳中にあるとする説話・伝承もあり、実は「魚の眼精である」というこの『隋書俀国伝』の記事とも符合するようです。
 またその記述によれば、倭国の「名勝」として「阿蘇山あり」と書かれており、その噴火の様と思われる「其石無故火起接天者」という文章に引き続き、「祷祭を行う」と言うことが書かれています。ここの部分の記述から考えると、この「祷祭」と「如意寶珠」には関連があるものと考えられ、「祷祭」の中で「如意寶珠」が使用されている事を示すものと思われます。
 「祷」とは「辞書」によれば「長々と神に訴えて祈ること」とされています。しかし「如意寶珠」という「仏教」的なものがここに書かれていることから考えると、この「祷祭」の中では「仏教」の経典が読まれていたのかもしれません。いずれにしてもここでも先の『八幡宇佐宮御託宣集』と同様「如意寶珠」と九州に関連があるとされているようです。
 つまり、「遣隋使」以前から「如意寶珠」に関わる信仰がすでに「倭国」には存在していたものと思われることとなります。特にその「如意寶珠」の「海中に入らなければ手に入らない」という性格上「海人族」の信仰に真っ先に取り入れられたものではないでしょうか。
 当時倭国の一般の人々は「卜筮を知り、最も巫覡(ふげき=男女の巫者)を信じている」(『隋書俀国伝』による)と書かれています。このようにまだ倭国古来の「神道」形式の信仰が国内では主要なものであったものであり、ここでいう「巫覡」が「宇佐」の神官である、という可能性もあることとなるでしょう。

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「無文銀銭」について(二)

2017年06月29日 | 古代史

 すでに述べたようにこの「銀銭」の材料ないしは「銀銭」そのものの入手方法や産地については、当初「国内製造」と深い検討をせずに考えていましたが、現在ではそれがどのような形にせよ、「半島」からの流入と考えています。なぜなら「銀」は「国内」では「七世紀半ば」以降の産出と思われ、「隋・初唐」時代に「銀銭」が製造されていたとは考えられないからです。当然半島からの入手以外ないわけですが、それがどのような形のものであったかは不明です。ただし、「無文銀銭」は「鋳型」(半鋳型)による製造であったと考えられ、「唐」が「開通元寶」を鋳造して以降、それに「小片」を貼り付けて済ませているらしいことから、新しく「鋳型」を作る技術が(人手も含め)当時国内になかったという可能性があると思われます。

 「新羅」は「文武王」時代に「唐」に対して多額の「違約金」とでもいうべきものを「金銀銅」などの「銭貨状」のもので支払った記録があり、当時「新羅」国内に「銭貨状」の銀が製造されていたらしいことが窺えます。

「(文武王)十二年九月…伏惟 皇帝陛下 明同日月 容光並蒙曲 德合乾坤 動植咸被亭毒 好生之德 遠被昆蟲 惡殺之仁 爰流翔泳 儻降服捨之宥賜全腰領之恩 雖死之年猶生之日 非所希冀敢陳所懷 不勝伏劒之志 謹遣原川等拜表謝罪 伏聽勅旨某頓首頓首死罪死罪 兼進貢銀三萬三千五百分 銅三萬三千分 針四百枚 牛黄百二十分 金百二十分 四十升布六匹 三十升布六十匹」(『三国史記新羅本紀』文武王より)

 ここでは銀の量について「分」という単位で呼称されています。これは「両の四分の一」の重量を著すと思われます。
 後の「和同銀銭」については、含有されている「鉛」の成分分析により「朝鮮半島産」ではないかと推定されているものがあり、この「和同銀銭」が「無文銀銭」を「鋳つぶした」ものという可能性が強いものと考えられますから、「無文銀銭」についても「朝鮮半島産」である可能性が高いものと推定されることも先の推定を裏付けます。

 また、「近江崇福寺」の創建時点の「六六八年」時点程度が「無文銀銭」の製造年次の「下限」という考えもあるようですが、それではその時点で前述したような「小片」をわざわざ「付加」している状況が説明できないと考えられます。
 「初唐」時期にそれまで通貨として使用していた「五銖銭」に代わり「開元通宝」が製造されたわけであり、それに応じ他国においても「基準貨幣」を切替えざるを得なくなったわけですが、この「六六八年」という時点付近ではそのような事情が見出せないのは確かであり、この時点付近で「小片」が付着されたであろうという仮定や推定が行う余地がないこともまた確かであることとなります。(そのことは「崇福寺」という寺院の創建年代などの議論にも影響します。)
 「無文銀銭」などの研究で知られる「今村啓爾氏」も『ここで改めて注目すべきは「両」の四分の一である「分」という単位とそれに相当する重量の無文銀銭が共に天武朝あるいはそれ以前から存在したという事実である。』と述べておられ、「無文銀銭」について淵源がかなり古いという認識でおられるようです。
 
 『三国史記』の記述からは、「唐」への「銀(銭)」は「謝罪」の為のものであったことが判ります。そのことは「倭国」に貢上されたものも同様の意味があったという可能性も考えられることとなるでしょう。
 時代背景を「隋末」とした場合、「隋」と「高句麗」との間の戦いが「隋」に不利に進展していたことが影響しているのではないでしょうか。「新羅」にとって見ると「高句麗」の強大な軍事力が、自分たちにとっても実際的な「脅威」となる可能性があったものであり、その「高句麗」が「百済」と連合するという可能性を考えると、「倭国」から「百済」への働きかけを行なうよう「請政」したという可能性も考えられます。しかし、そのためには両国に横たわる懸案である「任那」問題について「新羅」から「倭国」への「謝罪」を行なう必要があったものと思われ、その際に「銀」が多量に貢上されたというストーリーが考えられます。
 そしてその貢上された「銀(銭)」を「倭国」は積極的に利用することとなるわけですが、その用途としては「隋」との「交易」に利用することを考えたものと思われ、「隋」から「高額」な品々を入手して国内に「市」を開きそこでそれを売りさばこうとしたものと考えられます。その際の「物品購入」に充てるために使用するという目的ではなかったでしょうか。(その意味で謡曲「岩船」のストーリーが注目されます。そこでは「唐」などと交易を行うために「君」が「摂津難波」に「市」を開き、そこへ「高価な品々」を満載した「岩船(宝船)」が「龍神」に守護されやって来る、というものですが、これについてはその時代状況などから、「君」とは「利歌彌多仏利」を指し、この「市」のため「唐」から物品を買い付けるために使用されたものが「無文銀銭」であると考えるものですが、詳細は別稿とします。)

 「無文銀銭」に関する従来の説の中にもこれを「海外貿易や大取引に用いられた高額貨幣」とする考え方もあり、このような「市」で取引するための物資購入などがその典型であったと考えられます。つまり、「無文銀銭」は「現代」における「高額紙幣」である「五千円」や「一万円」と同等の役割をしていたものと考えられるわけです。(もっとも「紙幣」は「名目貨幣」であり「実勢」に応じて取引される「銀」とは事情が違いますが、相場が安定している限りにおいては「銀」を中心に据えた取引は一番確実であったと考えられます。)
 この当時「半島諸国」では「五銖銭」が流通していたものであり、それは「百済」の「武寧王」(斯麻王)の墓誌に書かれた「買地券」と思しき文言とそこから発見された「五銖銭百枚」という存在からも言えます。
 「新羅」においても事情は良く似たものであったと思われ、「新羅」国内においても「五銖銭」が基準通貨とされていたものと思われますが、そうであれば「銀」が「五銖銭」と「互換性」を持たされていたことが当然考えられます。つまり「五銖銭」の重量と整数比をとるような重量を単位として「銀」が製造されていたと見られることとなるでしょう。そのようなものが「倭国」に一種の「賠償金」というような形で流入したと考えられる訳です。
 こう考えると、「無文銀銭」は継続的に流入したものではないこととなり、当然国内でも鋳造できないわけですから、一度だけの流入であったこととなるでしょう。そう考えるとそれほど大量には出回らなかったという可能性があり、それは出土する「無文銀銭」がそれほど大量ではないこととつながるでしょう。その意味で現在もっとも大量に発見されているのが「摂津難波」であるというのは示唆的です。(現大阪市天王寺区にあたる「摂津天王寺真寶院」という「字地名」の場所から「大量に」出土したもの)
 それは「小片」を付着させたと思われる「鋳銭所」がこの付近にあったことを伺わせますが、「鋳銭所」は「大蔵」の下部組織であり、「難波宮」の「大蔵」がこの至近の地にあったことと深く関係していると思われます。
 「初唐」の時期に「無文銀銭」の基準貨幣を「開元通寶」に切り替える作業がこの地で行われたとすると「難波宮」か少なくとも「難波宮」の前身の統治拠点が当時この場所にあったことを推定させます。

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「無文銀銭」について(一)

2017年06月28日 | 古代史

以前「古田史学会報」に「無文銀銭」について投稿し採用されましたが、その後若干見解の修正をするべき部分があり、ホームページに引き続きこのブログでもそれを明らかにします。

「無文銀銭」については各種の議論がありますが、少なくとも「最古の貨幣」という定評は確立しつつあるようです。しかしその「発行者」については「近畿王権」であるというのが定説のようですが、その使用された時代についての解析などからは「九州倭国王権」によって製造されたものという考え方もあるようです。しかし私見ではこの「銀銭」は当初国外(多分「新羅」から)流入したものであり、当初はあくまでも「銀」の地金としての価値により取引されたものであり、流通と使用上の便宜から「一定重量」ごとに製造されていたものと考えています。(その意味では「通貨」として「国家」が発行したものではないと考えています)

 その製造法についても従来は銀の塊を「叩いて延ばして」裁断加工して作られたと思われていました。しかしそうではないことが近年判明しています。実際に「無文銀銭」の表面状況の顕微鏡等による拡大観察から、それが「叩いて」整形したものではないことが推定されています。(※)仮に「一部」鍛造されたものであったとしても周縁等の「バリ」をとる程度の作業に関する事だけと考えられているようです。

 また発見された「無文銀銭」のほとんどに「小片」が付着しています。通説では、この状態が「無文銀銭」の「本来」の姿とされますが、「小片」がついた状態が「ノーマル」な形とはとても思えません。たとえばこの「小片」が付いている状態でもその重量にはかなり「ばらつき」が確認できます。
 「小片」が付いた状態の重量としては8.2-11.2グラム程度の範囲と確認されており、これは「揃っている」とは言い難いものです。「小片」がない状態であれば「ばらつき」はあるが、「小片」を付加することにより「均一化」がなされているということであれば、当初製造過程の一環とも考えられますが、そうではないわけですから「当初」から「小片」がついていたとは考えられないこととなります。つまり、「小片」は「後」から付加されたものであり、「当初」の基準重量から「別の」基準重量への「概数的移行」という機能のためのものであったと思料されるものです。
 この点についてはその後の調査、解析により「無文銀銭」が「鋳型」による「鋳造」であることが推定される事となっています。そもそも「サイズ」(直径と周辺厚)が揃っている(共通している)と言うことは、「統一的基準」があり、それにより製造されたことを示唆するものです。
 「無文銀銭」はその寸法の平均値として、直径30.60(29.60~31.60)㎜、周縁厚1.85(1.70~2.00)㎜、重量9.51g程度とされています。また、銀の含有率は94.9%とかなり純度は高いとされます。
 「銀」の比重は10.51ですが、他の不純物の種類としては、「銅」ならぱ8.82、他に「鉛」が11.43、「錫」なら7.42、「ニッケル」なら8.69などとなりますが、ここでは「銀」と「銅」が共出されやすいことを踏まえて「銅」と仮定して「銀銭」の純度から逆算すると比重として「10.42」が得られます。この値は現在「950銀」と呼ばれる「銀合金」と全く同じ成分比であり、この「950銀」は「強度」「色」光沢」「耐久性」等において「銀合金」として最も理想的なものと言われていることに留意すべきです。

 また「無文銀銭」の平均サイズ(直径30.60mm、周辺厚1.70mm、中心部部の穴の径として3mm程度)から計算すると、その体積としては約5000×10の-12乗立方メートル程度となり、比重を掛けて重量を算出すると「5.15g」程度となります。さらに実際には周辺厚より中心部にかけてやや厚みが増していたものと考えると(2mmを超える程度か)、「6g」程度の値がその平均的重量ではなかったかと思われることとなります。この重量は「崇福寺」から出土した、「小片」が脱落していた「無文銀銭」の重量である「6.7g」と大きくは異ならず、実際にはほぼ同重量となると思われます。つまり、「小片」がない状態の「銀銭」はその重量として「6g」前後の値が措定され、「小片」がない場合「揃っていない」とは言い切れないこととなります。
 つまり「小片」が付加されているのが「本来」であるというような考え方はナンセンスであり、論理的な思考ではないこととなります。たとえば、後世の「豆板銀」では、周縁部の端面処理をしておらず、やや多辺形の歪んだ円形であり、また中央には小孔があるなど(その「小孔」の周囲は穴を貫通させた時点の力により凹んでいる)の特徴がありますが、これらはそのまま「無文銀銭」にも共通しているように見られます。この「豆板銀」の製作方法は「片面」だけの「鋳型」を使用したものとみられており、この製作方法も「無文銀銭」に共通していると推定されます。
 「鋳型」があって、それによって製造していたとすると「小片」を「当初」から付着させる意味が不明となります。当然この「小片」は後付けされたものとならざるを得ないものとなるでしょう。
 また推定される「小片」の付着方法として「銀鑞」などの溶融材を用いず、「無鑞熔接」とも云ふべき方法(銀小片そのものを溶融点(910℃)近くまで加熱して直接的に熔着させる方法)に拠ったとされるなどの点からも、一旦完成した「銀銭」に後付けで「小片」を付着させたのは明らかであると思われます。
 (そのような熔着方法をとっていること、また全体の造り替えをせず「小片」の付加という方法を用いていることなどは、「銀」精錬や加工の技術がこの当時倭国にはなかったことを示しており、それは「銀」(無文銀銭)そのものも外来のものであったことを示していると思われます)

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「鞠智城」について ―「難波京」の「山城的性格」との関連において―(二)

2017年06月28日 | 古代史

 引き続き「鞠智城」と「難波京」を比較します。

 「都城」(京師)の特徴として「条坊制」が挙げられますが、「鞠智城」や「筑紫」(太宰府周辺)の「山城」では、その所在する場所を起点として「条坊制」が布かれてはいません。(「山城」という構造自体が、「条坊制」とは異質であり、相容れなかったものでしょう) それに対し「難波京」では「難波宮」を起点として「条坊制」が施行されていた痕跡が確認されつつあります。
 つまり、「難波京」は「鞠智城」の形態をより「進化」させ、「筑紫都城」のもつ「条坊制」とその周辺の防衛施設である「大野城」などの「山城」の防衛機能を「合体」させた形態を有するものとして造られたと推定されるわけです。その意味でこの「副都」「難波京」は「鞠智城」という「新型」山城の発展・拡大の延長線上にあったという点で「本邦初」であったと思われるわけです。
 「筑紫」においては「山城」そのものは首都の周辺施設として存在しているのであり、「条坊制」はあくまでも「宮殿」を中心としたものであったのに対して(註1)、「難波京」においては「周辺施設」であったはずの「山城」を中心とした形で「京」が形成されたこととなるわけです(ただし、広範囲ではなく、地形の制約から「朱雀大路」周辺に限定されるものと考えられています。またこの点は「大宰府」とも共通するものであり、「大宰府」においても「当初」から「条坊」が広範囲に整っていたわけではないことが判明しています)

 中国「北朝」に例を取ると「条坊制」(方格地割制)が成立するためにはある「条件」ないし「要素」というものが必要という研究もあります。(註2)それらは「人的移動」を伴うこと(それも「軍人」が主体であること)、「新しい街」であること、「平地」であること等が挙げられています。これらが揃っていて初めて「条坊制」が成立可能となると言うわけです。
 これらの条件と「難波京」を比べてみると、この場所が「新しい街」であり、外部から人的移動があったことも確実と思われますし、その「山城的」という軍事的性格の帰結として構成主体が「軍人」であったこともまた確かであると見られます。さらに三番目の「平地条件」についても、明らかに「平地」ではないこの場所を「谷」を埋めて「整地」して「条坊」が施行できる条件を形作る工夫が見えるものです。
 このように「難波京」は「百済」に淵源を持つ「山城」と「北朝」に淵源を持つ「条坊制」の双方を融合させた「発展型山城」とでも言うべき形態を有しており、「鞠智城」のもつ特徴(割と平坦な場所に「山城」を築き内部に政庁的建物を保有する)をより「進化」させ、「筑紫都城」の持つ「条坊制」と「大野城」などの「山城」としての防衛機能を「合体」させた形態を有するものとして造られたと推定されます。そのことは「鞠智城」の建物群の中に「サイズ」は異なるものの「難波宮」と同様「八角円堂」(楼)が存在していることでも推定出来ます。
 「難波宮」の「八角円堂」の方がかなり大型の建物であり、内部空間も確保されていますが、用途としては共に「鼓楼」(あるいは「鐘楼」)ではなかったかと推定されています。『書紀』には「難波京」の内部に「鐘楼」があったらしいことが書かれていますから、少なくとも「難波京」では「鼓楼」ではなく「鐘楼」ではなかったかと推定されます。いずれにしろその機能は「時刻」の報知という性格があったと思われ、それは「漏刻」やそれを使用した「天文観測」の有無に強く関連してきます。しかし、そのような行為は本来、その時点の「為政者」(王)の統治行為の一部を成すものであると考えられ、このようなことがここで行われていたとすると、この「鞠智城」が「地方」の「山城」に過ぎないという従来の推定そのものに強い「違和感」を感じさせるものです。この事は即座に「鞠智城」という存在がより「高度」の政治性を持った存在であった事を推定させるものであり、その点も「副都」であった「難波京」との関連を感じます。


1.
井上信正「大宰府条坊区画の成立」考古学ジャーナル二〇〇九年七月号ニュー・サイエンス社所収。それによれば「条坊」の基準尺と「政庁Ⅱ期」などの施設に使用された基準尺に違いがあることが示唆されています。つまり、本来の「宮域」は「通古賀地区」であったと推定されていますが、その後「京域」の北辺に移動したものであり、「条坊」とはその時点で基準尺の違いにより「整合」しなくなったとされます。
2.妹尾達彦「中国都城の方格状街割の沿革 都城制研究(三)」奈良女子大学二十一世紀COEプログラム報告集Vol.二十七)二〇〇九年三月

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