「公文」には「年号」を使用するべしというルールが「大宝」以前にはなかったと推察したわけであり、また「僧尼」の「戸籍」ともいうべき「綱帳」には「年号」が使用されていた可能性を指摘したわけですが、『書紀』を見ると『推古紀』に「僧尼」の戸籍ともいうべきものが作成されたと書かれています。
「(推古)卅二年(六二四年)戊午。詔曰。夫道人尚犯法。何以誨俗人。故自今已後任僧正。僧都。仍應検校僧尼。 壬戌。以觀勒僧爲僧正。以鞍部徳積爲僧都。即日以阿曇連闕名。爲法頭。 秋九月甲戌朔丙子。校寺及僧尼。具録其寺所造之縁。亦僧尼入道之縁。及度之年月日也。當是時。有寺册六所。僧八百十六人。尼五百六十九人。并一千三百八十五人。」
このデータベースには「度之年月日」つまり「得度」した日付が「年月日」として記録されているというわけですが、この日付の「年」はどのような「表記」であったのでしょうか。
そもそもこの記事は「古賀氏」が検討したように(※1)「観勒」(と称せられている人物)の上奏がその内容から見て実際には五世紀末付近で行われたものという推定の延長にあるものであり、内容的にも関係の深い記事であることから、この「僧正」らを定めた記事も同様に一二〇年ほど遡上するという推定が可能と判断したものです。
つまりこの記事は「僧正」「僧都」というような「僧尼」を管理する体制が「五世紀」の通交のあった南朝劉宋時代に国内でも制度化されたものと考えられることを示すものと思われ、それはこの時代に「元嘉暦」が導入されたと考えられる事と関連しています。(「年月日」を記録するには「暦」が必要ですから)そして、この「元嘉暦」の導入と深い関係があるのが「年号」の使用開始です。
『書紀』の日付については「元嘉暦」と「儀鳳暦」(麟徳暦)が両方とも使用されていることが判明しており、特に「元嘉暦」は『書紀』内の日付に使用されはじめたのが、遅くても「四五六年八月」と判明しています。それ以前は「儀鳳暦」で表記されているというわけです。(ただし「三九九年」から「四五六年八月」までは「儀鳳暦」でも「元嘉暦」でも合うとされる)しかし「南朝」で「元嘉暦」を使用開始したのが「四四五年」とされていることから、倭国にはこの年次以降のどこかで伝来したと考えられることとなります。
「暦」の伝来と「日付」を記録できるようになったことが直接結び付いているとすると、「得度」の記録などの「日付」の「年」の表記は「干支」によるか「年号」によるかのいずれかとなりますが、この場合「年号」によったと見るべき徴証があります。それは「年号」の制定そのものが「仏教」の伝来と深く関わっていると見られるからです。
先に挙げた古賀氏の検討によれば「倭国」への仏教伝来は「四一八年」であったとされますが、私見によれば『二中歴』の年代歴冒頭に書かれた以下の文章から「年始」とは「仏教伝来」の年次を指すと推定しました。
「年始五百六十九年内、三十九年無号不記支干、其間結縄刻木、以成政」
上に続き「継体五年元丁酉」から始まり、「大化六年乙未」に終る年譜が記されています。
自国年号を使用開始した時点(『二中歴』の記事を「六十年」遡上した年次として修正して考えると「四五七年」)から遡る年数として「三十九」という数字が書かれていると判断できるものであり(※2)、これを計算すると「年始」とは「四一八年」となります。この時点を「起点」として「年を数え始めた」というわけですが、これは上に見るように仏教伝来とされる年次とまさに一致します。 つまりこの時点で仏教の流入と共に「年」を数え始めたというわけであり、それは『「仏教伝来」からの年数』を把握する意味もあったのではないかとも思われます。つまり「倭国」における「年」の意識は元々「仏教」に結びつけられたものであったという可能性があると思われるわけです。そう考えれば「僧尼」の「戸籍」ともいうべき記録に「年号」が使用されなかったはずがないこととなるでしょう。そう考えれば「白鳳」「朱雀」という「年号」つきで「得度」の日付が書かれたものが「綱帳」として記録されていたとして不審ではないこととなります。
そもそも「阿毎多利思北孤」は仏教を「隋」の高祖に倣い「国教」としたと推定されますから、より「仏教」と「年号」の結びつきは強くなったものと推定されます。つまり「倭国」において「年号」は「仏教」という宗教的装いの中で記録されていたものであり、宗教から距離がある場面等では使用されなかったと考える必要があるのかもしれません。
(※1)古賀達也「倭国に仏教を伝えたのは誰か~「仏教伝来」戊午年伝承の研究 『古代に真実を求めて』第一集一九九六年三月 明石書店)
(※2)拙論「倭国への仏教伝来について」(https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/5bbf4c6efbcc4c9a2bc81daab4e8ce07)に引き続くいくつかの論