すでに「貧窮問答歌」について考察したわけですが、そこで「山上憶良」が「遣唐使」段階で「无位」であったのは「旧王権」に忠誠を示した結果であるとしました。その際「比較」として「伊吉博徳」について触れたわけですが、そこでも述べたように彼の「官位」の変遷については明らかな「停滞」があります。その点について述べてみます。
「伊吉博徳」という人物が『斉明紀』に出てきます。彼は遣唐使団の一員として「六五九年」に派遣され、その時の一部始終を記録した「書」が『書紀』に引用されていることで知られています。そこに参加した時点の「官位」は不明ですが可能性としては「无位(無位)」であったかもしれません。
ところで彼は『天智紀』には「熊津都督府」から派遣されていた「司馬法総」なる人物の帰国の際「送使」として登場しますが、その時の官位は「小山下」と書かれています。
「(六六七年)六年…十一月丁巳朔乙丑。百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。
己巳。司馬法聰等罷歸。以『小山下伊吉連博徳』。大乙下笠臣諸石爲送使。」
それ以前(六五九年)に「遣唐使」として派遣されそれから八年後には「小山下」という官位に就いているわけですが、更にその後『持統紀』に「大津皇子」の謀反に連座したという記事があります。
「(六八六年)朱鳥元年九月戊戌朔丙午。天渟中原瀛眞人天皇崩。皇后臨朝稱制。
冬十月戊辰朔己巳。皇子大津謀反發覺。逮捕皇子大津。并捕爲皇子大津所■誤直廣肆八口朝臣音橿。『小山下壹伎連博徳』。與大舍人中臣朝臣臣麻呂。巨勢朝臣多益須。新羅沙門行心及帳内砺杵道作等卅餘人。
…丙申。詔曰。皇子大津謀反■誤吏民帳内不得已。今皇子大津已滅。從者當坐皇子大津者皆赦之。但砺杵道作流伊豆。又詔曰。新羅沙門行心。與皇子大津謀反。朕不忍加法。徙飛騨國伽藍。」
これを見ると「伊吉博徳」と同一人物と思われる「壹伎連博徳」の官位が「小山下」とされ、十九年経過していても全く官位が加増されていないことに気がつきます。通常よほど不手際や失策などがない限り四年程度の期間を経ると一階程度の上昇があって然るべきですから、彼の場合は不審といえるでしょう。
たとえば「當摩眞人國見」の場合を見てみると、「直大参」から「直大壱」まで十三年で上昇しています。
(六八六年)朱鳥元年…
九月戊戌朔…甲子。平旦。諸僧尼發哭於殯庭乃退之。是日。肇進奠。即誄之。第一大海宿禰蒭蒲誄壬生事。次淨大肆伊勢王誄諸王事。次直大參縣犬養宿禰大伴惣誄宮内事。次淨廣肆河内王誄左右大舍人事。次『直大參』當摩眞人國見誄左右兵衞事。次直大肆釆女朝臣筑羅誄内命婦事。次直廣肆紀朝臣眞人誄膳職事。
(六九七年)十一年…
二月丁卯朔甲午。以『直廣壹』當麻眞人國見爲東宮大傅。直廣參路眞人跡見爲春宮大夫。直大肆巨勢朝臣粟持爲亮。
(六九九年)三年…
冬十月…辛丑。遣淨廣肆衣縫王。『直大壹』當麻眞人國見。直廣參土師宿祢根麻呂。直大肆田中朝臣法麻呂。判官四人。主典二人。大工二人於越智山陵。淨廣肆大石王。直大貳粟田朝臣眞人。直廣參土師宿祢馬手。直廣肆小治田朝臣當麻。判官四人。主典二人。大工二人於山科山陵。並分功修造焉。
この間の位階数は四段階であり(直大参-直廣弐-直大弐-直廣壹-直大壹)それであれば十三年という年数はそれほど不審ではありません。このような官位の加増の程度と比べると「伊吉博徳」の十九年間の官位の停滞は、海外使者の送使という重要任務を果たしていることを考えると疑問が出る所です。しかも官位が上昇していないのは実際にはこの期間を超えているのです。それは「六九五年」に「遣新羅使」として派遣された際の官位に現れており、そこでは「務大貳(弐)」とされていますが、この官位は「小山下」とほぼ同じレベルのものなのです。
「(六九五年)九年…
秋七月丙午朔…辛未。賜擬遣新羅使直廣肆小野朝臣毛野。『務大貳』伊吉連博徳等物。各有差。」
ただしこの間「大津皇子謀反」という事件に「連座」するという失態を犯していますから(「赦免」はされたものの)、そのために昇格が遅れたとも考えられる部分はありますが、その後「新羅」への使者という重責を担っていることもあり、朝廷内では「外交のベテラン」としての地位が失われたわけではないことがわかります。しかしそれでも「六六七年」から「六九五年」までの合計「二十八年間」全く官位が上昇していないこととなり、これはかなり異常な事態と言うべきではないでしょうか。しかもその後今度は「急上昇」ともでも言うべき「官位」の増加が記録されています。
彼はこの『持統紀』の遣新羅使としての任務帰朝後「律令」の撰定という国家的任務に従事し褒賞を得ており、その段階で「從五位下」という位階であったことが知られています。
(七〇一年)大寳元年…
八月…癸夘。遣三品刑部親王。正三位藤原朝臣不比等。從四位下下毛野朝臣古麻呂。從五位下伊吉連博徳。伊余部連馬養撰定律令。於是始成。大略以淨御原朝庭爲准正。仍賜祿有差。
「小山下」と「務大貳」はほぼ同レベル(七位クラス)と思われますから、「従五位下」という官位までには「十一段階」ほどの上昇が必要です。これはその期間である「六年」という年数を考えると、今度は逆に異常な出世と言うべきでしょう。
同じ「遣新羅使」として一緒に派遣された「小野朝臣毛野」の場合、この派遣の際に「直廣肆」であったものが死去した際には「従三位」という官位に上がっています。彼の場合は「十九年」に「八段階」ほどの上昇となり、「遣新羅使」という重責を担った後に多少の位階上昇が「褒賞」として与えられたとみれば自然なものといえます。しかし「伊吉博徳」の場合はそれと比べても急激な位階の上昇といえるでしょう。このこと及びそれ以前の長期の「停滞」は何か重要な意味を持っていることを想起させます。
そもそも「伊吉氏(壱伎氏)」は「天武紀」において「史」姓から「連」姓への(他の多くの氏族と共に)改姓されています。
「(六八三年)十二年…
冬十月乙卯朔己未。三宅吉士。草壁吉士。伯耆造。船史。『壹伎史。』娑羅羅馬飼造。菟野馬飼造。吉野首。紀酒人直。釆女造。阿直史。高市縣主。磯城縣主。鏡作造。并十四氏。賜姓曰連。」
確かに「壬申の乱」記事において「壱伎史韓国」という人物が「近江朝廷」の側の武将として活躍しており、その点「連姓」を賜与された年次とは齟齬していません。しかし「博徳」の場合は「改姓」年次である「六八三年」以前の「六七六年」という時点ですでに「連」が付与されて記述されています。
(再掲)
「(六六七年)六年…十一月丁巳朔乙丑。百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。
己巳。司馬法聰等罷歸。以『小山下伊吉連博徳』。大乙下笠臣諸石爲送使。」
しかし、ここで「伊吉博徳」と一緒に派遣されている「笠臣諸石」についてはその後行われた「八色の姓」制度により「臣」から「朝臣」へと改姓されていますが、この「六六七年」という時点での「姓」としては齟齬がありません。
「(六八四年)十三年…
十一月戊申朔。大三輪君。大春日臣。阿倍臣。巨勢臣。膳臣。紀臣。波多臣。物部連。平群臣。雀部臣。中臣連。大宅臣。栗田臣。石川臣。櫻井臣。采女臣。田中臣。小墾田臣。穗積臣。山背臣。鴨君。小野臣。川邊臣。櫟井臣。柿本臣。輕部臣。若櫻部臣。岸田臣。高向臣。完人臣。來目臣。犬上君。上毛野君。角臣。星川臣。多臣。胸方君。車持君。綾君。下道臣。伊賀臣。阿閇臣。林臣。波彌臣。下毛野君。佐味君。道守臣。大野君。坂本臣。池田君。玉手臣。『笠臣』。凡五十二氏賜姓曰朝臣。」
なぜ「博徳」の場合「改姓」に先立つ時点ですでに「連」姓となっているのでしょうか。なぜ位階の上昇が不自然なのでしょうか。
これについては「山上憶良」の位階上昇と比較するとわかりやすいかもしれません。彼も「遣唐使」として派遣された段階で「無位」であったものがその「十三年後」には「従五位下」まで位階が上昇しさらに「伯耆守」「東宮侍従」等要職を歴任した後「筑前守」として赴任している実態があります。この「憶良」の位階上昇とよく似ている気がするのです。
「山上憶良」の場合には元「倭国」の官僚であったものが新日本王権への態度などから「冷遇」されていたと考えたわけですが、それは「伊吉博徳」にもいえることなのかもしれません。「連」姓を以前から名乗っているのも「旧王権」からの下賜であったとも考えられます。
「伊吉博徳」は「遣唐使」として帰国後「朝倉朝廷」から「寵命」を受けられなかったと『書紀』に書かれていますが、これは「褒賞」としての「官位」の増加などが全くなかったと言うことも意味しているのかもしれません。そうするとその後の昇進にブレーキがかかる最大の理由はこの時の「朝倉朝廷」との確執であり、それ以降冷遇されるようになったとすると、この「朝倉朝廷」(通常「斉明」の朝廷とされる)の政治的位置が問題となるでしょう。
「伊吉博徳」達の遣唐使団は「新羅」を経由するルート(「北路」と称する)ではなく「東シナ海」を横断するルートを選んでいます。これは「新羅」との関係悪化を背景としたものと推定されており、その意味でも彼を派遣した時点の「朝廷」は「親新羅的」とはいえなかったはずです。しかし「唐国内」において「倭種韓智興の供人西漢大麻呂」からの「讒言」を受けるにいたって、「洛陽」「長安」に遣唐使団一行は別れて幽閉され、その間に「百済」滅亡という事態が発生したわけであり、帰国後の「朝廷」に「変化」(政治的立場等)があったとすると不思議ではなく、その意味で「出発時」と「帰国時」で対応が異なるものとなった可能性はありえます。
ただ、彼の場合は「外交経験」が豊富であり、新王権としてもその経験と能力を買って「憶良」のように「无位」まで落とされることは避けられていたと推定できるわけです。