古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

年末ご挨拶

2014年12月31日 | 古代史
本年も最後の日を迎えています。
当ブログをご覧いただいている方々(それほど多くはなさそうですが)にもいろいろなことがあった1年と思われます。
明年も「兼好法師」のごとく古代史における「心に移り行く由無事」を「そこはかとなく」というよりもう少々「意識を以て明確」に書き綴っていきたいと思います。
ぜひ皆様におかれましてもより良き年でありますように、心からお祈りいたします。

James W Mccallister,jr(阿部周一)
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妙心寺の鐘のこと

2014年12月30日 | 古代史

 先に触れた『徒然草』に、「浄金剛院」の鐘について述べられ、それが「黄鐘調」の音階であることが述べられています。

「再掲」(『徒然草』第二百二十段)
「何事も邊土は賤しく,かたくなゝれども,天王寺の舞樂のみ,都に恥ずといへば,天王寺の伶人の申侍りしは,當寺の樂はよく圖をしらべあはせて, ものゝ音のめでたくとゝのほり侍る事,外よりもすぐれたり。故は,太子の御時の圖今に侍るをはかせとす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。其聲黄鐘調のもなかなり。寒暑に随ひてあがりさがり有べき故に,二月涅槃會より聖靈會までの中間を指南とす。秘蔵の事也。此一調子をもちていつれの聲をもとゝのへ侍るなりと申き。
 凡鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり。西園寺の鐘黄鐘調にいらるべしとて,あまたゝびいかへられけれどもかなはざりけるを、遠國よりたつねだされけり。『浄金剛院の鐘の聲,又黄鐘調也。』」

 ここでいう「浄金剛院」の「鐘」とは現在「京都」の「妙心寺」に納められている鐘をいい、この鐘は「観世音寺」の兄弟鐘として知られています。この二つの鐘は同じ鋳型から鋳造されたとされていますが、(当然大きさも形も同じ)「妙心寺鐘」には(観世音寺鐘とは違い)「銘」が入っています。

「戊戌年四月十三日 壬寅収糟屋評造春米連広国鋳鐘」

 この銘によれば「戊戌年」つまり「六九八年」という年次に「糟屋評」の「評造」である「春米(つきよね)連広国」が「鐘」を鋳造したとされています。

 実際に「妙心寺鐘」の音の高さを測定した記録を解析すると,基音成分として125.2Hz と130.1Hz が計測されたとされ、聴感上の基音は「204msec」を周期とする「うなり」(ビート)を伴う周波数127.7Hz の音となlり、これは間違いなく「黄鐘」に相当するものです。(※)
 つまりこの「鐘」は「天王寺」の鐘が鋳造された時点からかなり後代のものであるわけですが、その「基準音」は共に同じであるというわけです。これが「天王寺」と同時代の製作ならば不自然ではありませんが、はるか後代の「文武朝」であるというところが問題となるかもしれません。
 「天王寺」の「鐘」が鋳造された時代以降、「唐」とは何度も交流があったわけであり、この鐘が鋳造された時期に「唐楽」についての情報が入ってこなかったはずはないと思われるわけですが、にも関わらず「呂才」により改正された「音律」を音階として使用していないことに注目です。
 この「糟屋評」には「踏鞴鉄」の工房があったという報告があり、ここで「冶鉄」が行われていたと見られるわけであり、またこれらの「鐘」もその工房で作製されたものとみられるわけですが、この時点で依然として「唐」以前の古音階を発するように鋳造されているのは不思議といえますが、それは「寺院」における「鐘」の存在の示す意味につながるものであったと思われるのです。

 そもそも「鐘」の音の高さは「鐘」の開口部の断面積に反比例し、円周部の厚みに比例するとされています。「妙心寺鐘」と「観世音寺鐘」は同一の鋳型から作られたわけですから、同じ高さの音が出るのは当然ですが、「四天王寺」の鐘もその意味で同様の構造とサイズであったという可能性が高いと思われます。
 これについては当時のわが国では(兼好法師もいうように)「寺院」の鐘というものは「黄鐘」の音律に適うべきと言う思想があったと見るべきとも考えられます。それは「鐘」の「音」が「無常」を示す意義があったからです。

 有名な「平家物語」の「序」にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という文章は単なる「無常観」を表現したものではなく、実際に「鐘の声」は「黄鐘」という「調律」でなければならなかったことを示すものです。それは「黄鐘」という音高が「四季」を表すものであり、またその意味で移り変わりを表すことから仏教的には「無常」観につながっているのです。
 上の「徒然草」においても「凡そ鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり」とあり、「寺院」の「鐘」というものはすべからく「黄鐘調」でなければ「無常の調子」とならず、そうでなければ「祇園精舎の無常院の鐘と同じにならない」というわけです。
 そう考えると、「鐘」の構造は「規格化」されていたとも考えられます。「黄鐘」の音高を発するためにはあえて構造や厚さを変える必要がないからです。その意味で「糟屋」の工房では同じ鋳型から「鐘」の製造を一手に引き受けていたという可能性もあるでしょう。
 このことは少なくとも「天王寺」「観世音寺」の二つの「鐘」は同一王朝に属する工房で作られたとみることもできるでしょう。ただし後に「妙心寺」に入る「鐘」が納まる寺院についてはそれが「不明」であること、その後この「鐘」が転々とするさまを考えると、この「鐘」の当初納まった寺院は(それは製作年次として銘文に書かれた内容から七世紀末の王朝であると考えられますが)、六世紀末から七世紀半ばへと続く王朝とは異なるものであったという可能性が示唆されるところであり、その工房が「筑紫」にあったことを考えると「九州」にその中心を持った王権であったことが推察されます。

(※)明土真也「音高の記号性と『徒然草』第220 段の解釈」(『音楽学』58号二〇一二年十月)

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尺八の伝来について

2014年12月29日 | 古代史
 すでに見たように「七弦琴」は「遣隋使」(あるいは(来倭した「隋使」)によってもたらされたと思われますが、同様にこのとき伝来したと推定されるものに「尺八」があります。
 従来「尺八」は「唐」の「呂才」(漏刻の改良を行ったとされる人物)による発明とされているようですが、それは実際には「改良」であったものであり、それまで基音として「黄鐘」だけであったものが、十二音律すべてに対応する「尺八」を作製したものであり、さらにその「黄鐘」についても「音律」からわずかに狂いがあったものを彼が長さと「孔」の位置を改めて定めた結果、音律が全て基準(三分損益法)に則った、つまりどの「運指法」によっても「音」が「音律」に正確であったというものであったようです。(ここでいう「音律」とは、「三分損益法」により導かれる「十二」の音階をいいます。)

『旧唐書』巻七十九「呂才傳」
「呂才,博州清平人也。少好學,善陰陽方伎之書。貞觀三年,太宗令祀孝孫増損樂章,孝孫乃與明音律人王長通,白明達遞相長短。太宗令侍臣更訪能者,中書令温彦博奏才聰明多能眼所未見,耳所未聞,一聞一見,皆達其妙,尤長於聲樂,請令考之。侍中王珪,魏徴又盛稱才學術之妙,徴日「才能爲尺十二枚,『尺八』長短不同,各應律管,無不諧韻」太宗即徴才,令直弘文館。」

『新唐書』巻一百七「呂才傳」
「才製『尺八』凡十二枚,長短不同,與律諧契。即召才直弘文館,參論樂事」

 これらの記述では既に「尺八」という単語が説明抜きで使用されており、彼以前に既に「尺八」というものがあったことを示唆しています。また彼の「尺八」がこの「貞観三間」をそれほど遡る時期に造られたものではないこともまた確かと思われ、少なくとも「隋末」あるいは「唐初」を上限とすべきものと思われます。

 ところで「法隆寺」に元あったとされ現在国立博物館に保存されている「宝物」に「尺八」が存在します。この「尺八」について学術的調査を加えた結果が公表されており、それによれば「長さ」及び「孔」の位置や発せられる音などから、この「尺八」が「呂才」が改良を加える以前のものであることが明らかとなっています。(※1)
 それによれば「法隆寺」の尺八は「宋尺」により造られており、それは中国南朝(劉宋、斉,梁,陳 )の各代で使用され、「楽律」もまたこれによって定められたとされます。また中国北朝においても「北周」「隋」「唐」と歴代用いられたものであり、隋代では,開皇の始めに「鐘律尺」として制定され、その後の「唐」も「唐小尺律」(正律)として使用が継続されていたものです。
 このことは従来この「尺八」について「奈良時代の作」という評価があったことを否定するものといえるでしょう。この「尺八」は明らかに「呂才」の改良以前のものであり、「隋末」以前の中国からの伝来を想定すべき事と考えられます。

 ところで「法隆寺」に関する伝承の中にはこの「尺八」に関するものがあり、例えば「古今目録抄」(聖徳太子伝私記)には以下のような記述があるのが確認できます。

「尺八,漢竹なり。太子此笛を法隆寺より天王寺に御ますの道,椎坂にして吹き給いしの時,山神,御笛に目して出て御後にして舞ふ。太子奇みて見返し給ふ。爰に山神,見奉りて,怖れて舌を指出づ,其様舞ひ伝へて天王寺に之を舞ふ。今に蘇莫者と云ふなり。」

 ここでは「漢竹」とされ「唐」とは書かれていません。この記事が書かれた年代から考えると、「唐」とする方が常識的であるにもかかわらず、「漢」と表記されており、これはその伝来の年代をおよそ推定させるものであり、少なくともその伝来が「唐」以前を推定させるものです。
 また上の伝承の中では「山神」が「笛」の音につられて「舞」ったとされていますが、「天王寺」に伝わっているという「蘇莫者」という「舞」については、「龍鳴抄』下(『羣書類従』)にある「蘇莫者」の項には「まひのてい。金色なるさるのかたち也。ばちをひだりにもちたり。きなるみのをきたり。」と記されるなど、「猿」の格好をして舞うものとされており、「尺八」の演奏と「猿」が関係しているとされています。

 このように「法隆寺」の「尺八」として「聖徳太子」との関連が書かれていることや、それが「唐」以前の基準尺で造られていることが明らかとなったわけですから、この「尺八」が「隋代」に伝来したものと考えられることを示し、これも「遣隋使」がもたらしたものと考えると、「宣諭事件」以前に伝来したと考えるべきでしょう。それ以降にそのようなものが伝来する友好的雰囲気が醸成されていたはずはないと考えられるからです。そう考えると、少なくとも「書紀」や「隋書」の記事をそのまま受け取るとしても、「大業三年」以前の伝来であると思われ、「文帝」の時代に伝来したと考えるのが正しいでしょう。そう考えるのは「尺八」の出す音高が「黄鐘」だからであり、それは「仏教」において「無常」を表す音であって、寺院の梵鐘の出すべき音として認識されていたものだからです。それを踏まえると「煬帝」というより「仏教」に深く帰依し、仏教を国教とした「文帝」に深く関わるものではないかという推測が可能ではないでしょうか。


(※1)明土真也「法隆寺と正倉院の尺八の音律」(『音楽学』59号二〇一三年十月)
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天王寺と四天王寺

2014年12月24日 | 古代史

「古田史学の会」のホームページ(http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta.html#wa840)で「関西例会」において「服部さん」(古田史学の会役員)から「天王寺」と「四天王寺」についての報告があったようです。これについては以前から「古賀さん」から「四天王寺」は元々「天王寺」だったのではないかという考えが示されていました。それについての追論考のようです。そこでは「天王寺」と「四天王寺」の「語義」からの検討が行われているようですが(詳細は不明)、当方も以前調べてみてその後(怠慢のため)フォローせずにいたものがあり、改めて以下にまとめてみました。

「一一四〇年」に「大江親通」が著した『七大寺巡礼私記』には、「法隆寺の四天王像は四天王寺の像を写したものである」と書かれています。また「一二三八年」頃に僧顕真が著した『古今目録抄』(『聖徳太子伝私記』)でも、「四天王寺」の「四天王」と「法隆寺」の「四天王」は同じである、と伝えています。
 ところで、平安時代に書かれた『別尊雑記』(当時の寺院などの本尊などを写した「図象集」)に描かれた「難波四天王寺」の「四天王像」を見ると、「邪鬼」の上に「直立」して立ち(踏みつけているというわけではなく)、中国南北朝自体の様式と思われる武人の姿を表しているらしい服装やその表現方法など、基本的に「法隆寺」の「四天王」像と確かに非常によく似ています。
  法隆寺の「四天王」像は美術史的には「推古仏」と同時代のものと考えられており、「百済観音像」、「夢殿観音像」などと同様に古いものと考えられますが、「法隆寺」の資材帳には記載がなく、当初から「法隆寺」に存在したものかは不明とされています。
 『別尊雑記』を見ると当時「難波四天王寺」にあったといわれる「四天王」像が描かれており、そこでは踏みつけられた邪鬼が「四天王」の武器である「戟」とその「鞘」を両手に握っているのが分かります。
 「法隆寺」における「四天王」像に踏みつけられている「邪鬼」も、本来その上の「四天王」の持つ「戟」と「鞘」を握っているはずなのですが、実際には何も握っておらず(空間の配置が違っていて握ることができない)、不自然な状況となっています。このことから、「法隆寺」の「邪鬼」と「四天王」像は統一的に(同時に同一人物の手により)製作されたものではないと判断できるでしょう。
 この「四天王寺」の「四天王像」(それは「法隆寺」の「四天王像」も同様となるわけですが)は、その「意匠」から考えると、「南北朝」時代の「士大夫」(というより「武人」)の服装を模しているとされ、「百済」的ではないとされます。このような「意匠」は「南朝」の「漢文化」の影響を「北朝」が受けた中で作られたものとされれますから、「北朝」からの伝来を考慮する必要があると思われます。
 しかし「四天王寺」はその建築様式がいわゆる「四天王寺式」というものの代表であるわけですが、この様式は「南朝」から「百済」へとつながる形式であり、「飛鳥寺」などと同様に「百済」の強い影響に建てられていることは明らかですが、「四天王像」に関しては「北朝的」であるとされているわけですから、一種「矛盾」であるわけです。
 これに関してはこの寺が当初は「天王寺」と呼ばれていたらしいこととつながります。

 そもそも「天王寺」という寺院は中国南朝に実在していた寺院名でした。
 (以下の記事)

(南朝寺考/宋/天王寺 奉先寺 寶光塔院 普光寺 寶光寺)
「天王寺 在梅嶺岡《陳云・今之雨花山也》。劉宋時置。梁為昭明太子果園・梅聖?詩所謂宋日天王寺 梁時太子園也。 唐改奉先禪院・内起寶光塔。趙宋為普光寺。明為寶光寺云。

考證 至正金陵新志引乾道志・宋置天王寺 ・梁為昭明太子果園・呉為徐景通園・南唐保大四年更置 奉先禪院・葬曇禪師・起塔・因名寶光塔院・今為普光寺。○宋梅堯臣集有送峙師移居普光寺詩云・宋日天王寺 ・梁時太子園。○明金陵梵刹志・寶光寺・在都門外南城梅岡・劉宋時為天王寺。」

 これによれば「天王寺」という寺院名は「南朝」の首都である「健康」都城の至近にあった「梅岡」の地に建てられていた寺院であり、当初は「宝光寺」という名称であったものが、「南朝劉宋」の時代に「天王寺」と改名されたものです。
 それに対し「四天王寺」は「長安旧城」にあったという寺院であり、「北魏」の時代から存在していたとみられます。
(以下の記事)

(大正新脩大藏經/第四十九冊 史傳部一/二○三四 歴代三寶紀十五卷/卷十一)
「定意天子所問經五卷出大集。天和六年譯。沙門圓明筆受
大乘同性經四卷亦云佛十地經。亦云一切佛行入智毘盧遮那藏經。天和五年譯。上儀同城陽公蕭吉筆受
入如來智不思議經三卷天和三年譯。沙門圓明筆受
寶積經三卷天和六年譯。沙門道辯筆受
佛頂呪經并功能一卷保定四年譯。學士鮑永筆受
大雲輪經請雨品第一百一卷天和五年譯。沙門圓明筆受。初出

右六經一十七卷。武帝世。摩伽陀國三藏禪師闍那耶舍。周言藏稱。共二弟子耶舍崛多 闍那崛多等。為大冢宰晉蕩公宇文護。於『長安舊城四天王寺譯』。柱國平高公侯伏侯壽 為總監檢校.」

 当時「倭国」においては「寺院名」を付ける際に「中国」の古寺院名からとる例も多かったものと見られ、それを考えると、当初「南朝」から「百済」を通じて得た技術で建てられた寺院であったということから、「北朝系」と思われる「四天王寺」ではなく、「南朝系」の「天王寺」という寺名であったとみるべきこととなるでしょう。
 また「古賀氏」も指摘されるように「出土」した「瓦」から判断して「天王寺」から「四天王寺」という寺院名にどこかの時点で変えられたこともまた確かと思われますが、それは「四天王像」との関係が考えられ、これは当初からあったものではなく、「四天王寺」という寺院名に改名された時期に作られた(あるいは持ち込まれた)と考えられることとなるでしょう。それは「北朝」系の王朝である「隋」との関係が構築された以降のことではなかったかと推量されることとなります。

 「三国遺事」という朝鮮の史書にも「文武王」の時「新羅」の首都である「慶州」に、「唐」の攻撃から国を守るために「四天王寺」が建てられたとされており、「四天王寺」という寺名および「四天王」による護国思想というものが「北朝」との関係の中で受容されたものであることが強く示唆されています。そうであれば「南朝」の影響下創建された「天王寺」には「四天王像」はまだなかったという可能性が考えられるでしょう。
 さらに「四天王寺」へという寺名の改定の裏に「新羅」の四天王寺と同様の事情が存在していた可能性が看取され、「隋」から「宣諭」され、その後「琉球」が実際に侵攻されるという事変を経験した後に、「隋」に対する軍事的脅威を強く感じたことから、それに備える精神的支柱として「金光明経」により「四天王像」が作られ、「四天王寺」と改名されたと言うことではなかったでしょうか。

 そもそも「四天王」とは「金光明経四天王品」にあるように「釈迦」を守護する「持国天」「広目天」「多聞天」「増長天」の四天をいい、「邪鬼」を踏みつけ、武器などをかまえた武将の姿で表わされるものです。
 この「金光明経」は早くに「北涼」の「曇無籤」によって訳されていましたが、「倭国」へは伝来したかどうかさえ不明であり、明確な時点は「五九七年」に「隋」の「宝貴」がまとめたものが「遣隋使」によってもたらされたということが考えられます。
 この時点以降の伝来と考えると、やはり当初創建された時点では「四天王像」がなかったという可能性が高く、「天王寺」として創建された時点では「忍坂日子人太子」に擬された「皇祖」と称される「前倭国王」の死を追悼するための寺院であったと思われます。その後「隋」との関係が構築されて以降「北朝」の仏教が伝来し「金光明経」に改めて接し、「四天王像」を配置して「四天王寺」となった(改名された)ものと見られます。(ただし「動機」としては上にみたように「隋」との関係が極端に悪化することを恐れたためと思われますが)
 こう考えると「建築様式」などと「四天王像」の食い違いには説明がつくでしょう。
 
 『二中歴』によれば「倭京」の項に「二年天王寺聖徳造」とあり、これは他の伝承よりもかなり遅いものですが、「移築」という伝承もあることや、発掘の成果としてその年代については「七世紀第一四半期」という想定がされていることなどから、この「六一八年」という年代の記述は「四天王寺」として「移築」したという事実の反映ではないかと考えられます。それが「天王寺」と記されまた「聖徳」と造立者が書かれているのは、「当初」の創建と混乱しているためではないかと思われます。

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「阿毎多利思北孤」と「難波皇子」

2014年12月22日 | 古代史

 朝令暮改を地でいくようで甚だ申し訳ないのですが、前回まで書き連ねた中で基本的な部分を変更させていただきます。それは「皇祖大兄」としての「押坂彦人大兄」(忍坂日子人太子)を「阿毎多利思北孤」の投影と考えていた部分です。認識を改めることとなったのは『古事記』の記事をよくよく見たときです。

「『古事記』(下)敏達天皇の段」
「御子沼名倉太玉敷命坐他田宮 治天下壹拾肆歳也 此天皇 娶庶妹豐御食炊屋比賣命 生御子 靜貝王 亦名貝鮹王 次竹田王 亦名小貝王 次小治田王 次葛城王 次宇毛理王 次小張王 次多米王 次櫻井玄王【八柱】 又娶伊勢大鹿首之女 小熊子郎女生御子 布斗比賣命 次寶王 亦名糠代比賣王【二柱】 又娶息長眞手王之女 比呂比賣命 生御子 忍坂日子人太子 亦名麻呂古王 次坂騰王 次宇遲王【三柱】 又娶春日中若子之女 老女子郎女生御子 難波王 次桑田王 次春日王 次大股王【四柱】
 此天皇之御子等并十七王之中 日子人太子娶庶妹田村王 亦名糠代比賣命 生御子 坐岡本宮治天下之天皇 次中津王 次多良王【三柱】 又娶漢王之妹 大股王生御子 智奴王 次妹桑田王【二柱】 又娶庶妹玄王生御子 山代王 次笠縫王【二柱】 并七王【甲辰年四月六日崩】 御陵在川内科長也」

 この記事にあるように「敏達」の記事中にわざわざ別に「日子人太子」についてその夫人と子について述べており、このような表記は『古事記』中出色のものであり、彼だけに見られるものです。さらに「敏達」については書かれていないにもかかわらず「日子人太子」については「崩年」と「御陵」が書かれています。
 ここでは「崩年」として「甲辰年」とされまた「御陵」として「川内科長」にあるとされています。この記述が「敏達」のものでないのは『書紀』との圧倒的な食い違いがそれを示しています。

「(敏達)十四年(五八五年)…秋八月乙酉朔己亥(十五日)。天皇病彌留崩于大殿。」(敏達紀)

 『書紀』では「敏達」について「崇峻天皇」の「四年」になって「磯長陵」に葬るとされています。

「(崇峻)四年(五九一年)夏四月壬子朔甲子。葬譯語田天皇於磯長陵是其妣皇后所葬之陵也。」(崇峻紀)

 しかし、これでは「殯」の期間として六年もかかったこととなってしまいます。『隋書俀国伝』の記事では「貴人」は「殯」の期間として「三年」とるように書かれていますが、ここではそれを遙かに上回る年数がかかったこととなり、この前後「殯」の期間がこれほど長期に亘る天皇が全く見あたらないことを考えると、この葬儀記事あるいは崩年記事は明らかに不審であることとなります。
 また仮に「殯」の期間が長期間に亘ったとしても「殯」の開始時期と「葬儀」の時期は(「命日」を特別のものと考えると)、月としては同じになるであろうと考えられるものであり、「四月」の「葬儀」というものが、『書紀』によって「崩じた」とされる「八月」と全く整合していないこともまた不審であるといえるでしょう。
 実際『書紀』では「敏達」の「崩年」として「甲辰」ではなくその翌年の「乙巳」としているわけであり、また年だけではなく月も日も異なるとされていますから、この『古事記』に書かれた「崩年」記事は「日子人太子」のものと考える方が正しいと考えられます。(刊本や写本によってこの「崩年記事」部分が「注」としてなかったりするようですが、『書紀』とは全く異なる年月日を書く理由が見あたりませんから、この部分はやはり「日子人太子」に関するものとして当初からあったと理解する方が当を得ていると思われます。それがない「諸本」は『書紀』と合わないことから「不審」として削ったと言う事も可能性としてはあるでしょう。)
 『古事記』の書き方では、当の天皇の崩年等を書く場合は「此の天皇」と言う語を前置しているようですが、ここにはそれが見られません。その意味でも、この「崩年記事」が「日子人太子」についてのものと見なされ、彼が「天皇」同様の扱いをされていることとなるでしょう。つまり彼が「即位」していたということが(明確には書かれていないものの)ここで強く示唆されているようです。
 「日子人太子」(押坂彦人大兄)が「五八四年」に亡くなっているとすると、「遣隋使」時点(これは「五八〇年代」の後半と見られる)では既に次代の王に代わっていることとなりますから「阿毎多利思北孤」が彼に相当するとは考えられないこととなります。と言う事から「阿毎多利思北孤」に相当する人物として「記紀」に書かれているのは「押坂彦人大兄」ではなく、その「弟王」である「難波皇子」(難波王)が最も考えられるものと言えることとなりました。
 もっとも、そう考えると、彼の子供達が高位に存在しているのは当然すぎるものであることとなりますから、論旨に大きく変更が発生するというわけではありません。いずれにしても「兄弟」の共同作業によって統治が行われたものとみられ、この時代の「兄弟相承」という流れとも整合するといえることとなります。

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