古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「崇福寺」と「紫香楽宮」.(二)

2016年02月28日 | 古代史

 既にみたように『日本帝皇年代記』に拠れば(紫香楽の)「廬舎那仏」は「長一十六丈」とされ、大きさが指定されていることから「実際に造られた」ものと考えられます。ただし大きすぎると型の内部で気泡などができやすく鋳造はかなり困難を極めたという可能性が高いと思われます。
 また「正倉院文書」の中の「筑後国正税帳」をみると、『造同( 銅) 竈工人』が献上された」旨の記事があります。これが「天平十年(七三八年)」のこととされていますから、先に見た伊勢神宮への参詣などと一環の事象であったことが推定され、彼らが「菩提遷那」および「廬舎那佛」の造仏に深く関わっているのは明白と思われます。

 「崇福寺」が「紫香楽宮」造営と深く関わっているとすると、その寺名も「聖武」や「行基」に深く関係していると考えられるわけですが、 この「崇福寺」が「唐」の都「長安」にあった「崇福寺」に由来しているならば「菩提遷那」との関連で「聖武」や「行基」にとって特別の意義があったとみられ、それにちなんで命名したとして不思議はありません。しかも以下の史料からみて「長安」の「崇福寺」は「武則天」時代の「垂供末年」(六八八年)以降でなければ「崇福寺」という寺名ではなかったことが明らかです。
 彼が来日する以前に所在していたとされる長安の「崇福寺」は当初「西太源寺」という寺院であったとされます。

「周西京廣福寺日照傳/地婆訶羅。華言日照。中印度人也。洞明八藏博曉五明。戒行高奇學業勤悴。而呪術尤工。以天皇時來遊此國。儀鳳四年五月表請翻度所齎經夾。仍準玄奘例。於一大寺別院安置。并大三五人同譯。至天后垂拱末。於兩京東西太原寺《西太原寺後改西崇福寺。東太原寺後改大福先寺》及西京廣福寺。…」(「大正新脩大藏經/宋高僧傳卷二/譯經篇第一之二正傳十五人 附見八人/周西京廣福寺日照傳」より)

 これをみると「崇福寺」は「天后垂拱末」つまり「六八八年」という段階ではまだ「西太原寺」という寺院名であり、「崇福寺」という寺院名に変えられるのはそれより後のことであったことがわかります。その意味からも『天智紀』の創建ではなかった可能性が高いと言えるでしょう。
 ただし「南朝」の首都であった「建康」にあった「崇福院」に由来するとする考えもあり得ます。「崇福寺志」によればその創建は「北宋」の「擁熙年間」という説もあれば「東晋」にあった「崇福院」がそれであるという説もあるなどとされ、南朝劉宋の頃の創建を伝える記事があるなど、「北宋」時代に寺院として固まるまで国中に認知されていたとはいえず、それが倭国に認知されていたかは「疑わしい」といえるのではないでしょうか。またもしこの「建康」にあった「崇福寺」に由来するとした場合この寺院が「建康」の「艮」つまり「北東」の「鬼門」に建てられていたものであり、「護国」の意義があったとみてこれを真似たものとする可能性もないとはいえませんが、その「南朝」は「唐」の前王朝である「隋」に滅ぼされ「建康」も明け渡されるという推移を経たことを考えると、そのような寺院名を選定する積極的理由が感じられないのが正直なところです。
 「崇福寺」という寺院が「建康」では「護国仁王寺」とされていたという記事も見受けられますが、結局「南朝」は滅亡したものであり、護国の役割を果たせなかったその寺院から名称をいただいて命名したとするとその動機が全く不明といえます。

「…按艮山門在城東北、慶春門宋時為東門在城東、其地上下相距數里不能混也。崇福院與崇福寺本是二名惟咸?志謂之崇福院元係寶壽院祥符元年改額在艮山門外則非慶春門外難消埠之崇福院明矣嗣後府縣志皆稱為崇福寺。而刪去寶壽舊額但云改賜今額夫不載舊額則何從改賜府縣志之誤顯然至仁和趙志乃以寶壽院額屬之難消埠之崇福院…」

 唐王朝も長安の寺院を「崇福寺」と命名(改名)したわけですが、征服した相手から名前を「奪う」というのはある意味理解できますが、倭国の場合は南朝同様戦いには敗北したわけであり、勝者の立場ではないわけですから、「唐王朝」とは同列に論ずることはできません。
 
 またこの「紫香楽宮」の至近には後年「甲賀寺」があったとされます。そこに「盧舎那仏像」を建てる予定があったという伝承が伝えられています。推測するとこの「甲賀寺」が本来の「崇福寺」ではなかったでしょうか。
 またここに「甲賀寺」が建てられたとすると、『敏達紀』に登場する「弥勒像」を伝えたという「鹿深臣」との関連が考えられます。

「敏達十三年(五八四年)秋九月条」「從百濟來鹿深臣闕名字。有彌勒石像一躯。佐伯連闕名字。有佛像一躯。」
 
 このように「聖武」の時代をかなり遡上する時期にこの「甲賀」の地にすでに寺院があったものであり、これが「鹿深寺」つまり「甲賀寺」であったという可能性はかなり高いものと思われます。つまり「盧舎那仏」を建てる予定であった寺院は自ずとそれとは異なる寺院であったと思われることとなり、それが「崇福寺」ではなかったかと考えられるわけです。

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崇福寺と菩提遷那(一)

2016年02月27日 | 古代史

 「行基」が「崇福寺」の創建に関わっているとみるのは「菩提遷那」(「婆羅門僧正」)という人物との関連からも推定できます。
 この人物は「遣唐使」であった「多治比広成」「学問僧理鏡」「中臣名代」らの要請により「天平六年」(七三六年)に「唐」より来日した「インド僧」であり、彼が来日した際には「行基」が出迎えをするなど歓迎を受けています。そして彼は「東大寺」の大仏開眼の際には「導師」として「大仏の目に墨を入れる」という大任を果たしており、「聖武天皇」以下王権内部から強力な支持を受けていた事が解ります。その理由としてはやや不明な点はありますが、「大仏」つまり「盧舍那佛」そのものが「華厳経」に関連しているものであり、「菩提遷那」はその「華厳経」を常に読経していたとされますから、「盧舍那佛像」を造るという中に「菩提遷那」がかなり指導的役割をしていたものではないかと考えられます。
 またそれは後日「東大寺」を建立するために、「行基」(及び「橘諸兄」)が「伊勢神宮」に遣わされ、「舎利」を献上することで「伊勢神宮」の領地(飯高郡)から寄進を受けることとなったという経緯があったという「伝承」とも関連しているとされます。なぜならその「舎利」は「菩提遷那」が「天竺」から持ち来たったものとされているからです。その「舎利」について「伊勢神宮」ではこれを「(如意)寶珠」であるとして歓迎したとされます。(『行基菩薩秘文』による)
 それによれば「日輪」(これは天照大神)すなわち「大日如来」の本地は「廬舎那仏」であるとして、「大仏」を作りそれを収容する寺院を造ることを「善いこと」であるとしています。

(『行基菩薩秘文』による)「実相真如之日輪、明生死長夜之闇/本有常住之月輪、掃無明煩悩之雲/我遇難遇之大願、於闇夜如得之燈/亦受難受之宝珠、於渡海如請之《請之》船/造聖武大仏殿故、慶豊受大神宮事/善哉善哉■■■、神妙神妙自珍者/《五》先垂跡地神霊、富相応所安一志/飯高施福衆生故、…」

 これについては一般には「平家」によって「東大寺」が焼亡した際に再建のため「伊勢神宮」に「重源上人」が「後白河法皇」から遣わされた時点で作られた話と解釈されています。しかし、そもそもこの「伊勢」参詣が「天平の創建時に伊勢に祈願したという先例」に基づくものであったとされており、そのような事実がないにも関わらず「先例」に基づくとしても説得力がないのは確かですから、話の内容から考えて実話であったという可能性が高いと思われます。そう考えて矛盾がないという点が重要です。飯高郡の豪族らしい人物が以下のように「位」を授けられているのはその現れと思われます。

「天平十年(七三八年)九月丙申朔甲寅。伊勢國飯高郡人无位伊勢直族大江授外從五位下。」
「天平十四年(七四二年)夏四月甲申。伊勢國飯高郡采女正八位下飯高君笠目之親族縣造等。皆賜飯高君姓。…」

 また「伊勢神宮」への参詣については多くの史料が「行基」と共に「橘諸兄」についても記していますが、『続日本紀』には確かに「伊勢神宮」へ使者として「橘諸兄等」が派遣された記事があります。

「天平十年(七三八年)五月辛夘。使右大臣正三位橘宿祢諸兄。神祇伯從四位下中臣朝臣名代。右少弁從五位下紀朝臣宇美。陰陽頭外從五位下高麥太。齎神寳奉于伊勢大神宮。」
 
 この派遣の後に飯高郡の「无位伊勢直族大江」に対して「外從五位下」を授けるという褒賞が行われており、これは「飯高郡」からの調庸の施入に対するものではなかったかと考えられるものです。(特に銀あるいは水銀という特殊な金属材料が産出していた記録があり、これが目的であったとも考えられるでしょう)
 この時と前後して(時期は史料により異なる)「行基」も派遣されたとする伝承があります。たとえば『日本帝皇年代記』によれば「行基」は「天平十三年」に「伊勢神宮」に「仏舎利」を献上するため派遣されています。

「辛巳(天平)十三 勅行基法師、授仏舎利一粒、献伊勢太神宮、有種々神託…」

 この時の「仏舎利」が「菩提遷那」の提供したものであるとされているであり、そのことは「廬舎那佛」の造仏に際して「菩提遷那」が深く関わっていることと、それに「伊勢神宮」とが実は深く関連していることを示すものです。

 そもそも「菩提遷那」が日本への渡海要請を受けた理由として、以前に既に「来倭」していたという「文殊菩薩」に逢うためであったという説があることが注目されます。
 その「文殊菩薩」については「行基」を指すという伝承がありますが、それは後代派生したものと思われ、彼の来日時点では既に過去の人物であった可能性が強いでしょう。(古田史学の会顧問の水野氏によればこれは仏教初伝に関係しているとされる「雷山先如寺」の「清賀上人」を指すという可能性があるとされます。)
 その「菩提遷那」が「唐」に滞在していた時点で所在していた寺院が長安(西京)の「崇福寺」なのです。
 後に「鑑真」が来日した際に「菩提遷那」が慰問に訪れ、「長安」の「崇福寺」であなたに「律」を教えられたことがあるか覚えているかという問いに「鑑真」が覚えていると返事したとされます。

(「東大寺要録」「大和尚伝」より)「…後有婆羅門僧正菩提亦来参問云。某甲在唐崇福寺住経三日。闍梨在彼講律。闍梨識否。和上云憶得也。」
 
 つまり「菩提遷那」と「崇福寺」とは特別な関係であり、「インド」から唐に渡ってきた「菩提遷那」が(期間は不明ですが)学問僧として「崇福寺」に滞在していたものであり、その時点で「鑑真」を初めとした高僧から教義を授けられた意義深い場所であったものです。この「崇福寺」と今「紫香楽」の地にその創建を措定している寺院名が同じ「崇福寺」であるのは偶然ではなく、「行基」や「聖武天皇」は「菩提遷那」のために「長安」の「崇福寺」を再現しようとして同じ寺名の寺院を我が国にも作ろうとしていたのではないかと推察されるわけです。

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「崇福寺」と「紫香楽宮」.

2016年02月22日 | 古代史

 「天智」が左手無名指を切り落としたという伝承についてすでに述べましたが、それらを記した各種史料には「天智」が創建したとされる「崇福寺」について、その創建が「天智七年」あるいは「戊辰」の年と記され、これは通常「六六八年」の事と理解されています。しかし、それは以下の記事等から疑問と考えられます。

(『日本帝皇年代記(上)』より)「戊辰(白鳳)八」「行基並誕生、姓高志氏、泉州大鳥郡人、百済国王後胤也、(改行)志賀郡建福寺、建百済寺安丈六釈迦像」(二行書きになっています)

 この『日本帝皇年代記』の特徴として、「寺院」の建立創建記事がある場合は、必ずその「主体」が書かれています。これに従えば上の「(崇)福寺」と「百済寺」の主体は「行基」と判断せざるを得ません。そうであれば、この年次は「行基」の誕生を記したものですから、この年に「行基」により建てられたはずがないこととなります。
 一見この記事の全ては冒頭の「戊申(白鳳)八」という年次にかかるものと理解されそうですが、実際にはこの年次の記事は全て「行基」に関わるものであり、「改行」以降は彼の生前の業績を記した文章であると考えられます。もしこの記事の順序が逆で「行基」の誕生記事が後に書かれてあれば「(崇)福寺」と「百済寺」の創建の主体は「天皇」(倭国王)と言うこととなると思われますが、この場合は「行基」の業績として「崇福寺」と「百済寺」が挙げられていると考えるべきです。
 また、この中に書かれた「百済寺」は現在も「志賀県東近江市」に存在する寺院と考えられ、「志賀」という郡名は「(崇)福寺」と「百済寺」の双方にかかると思われます。結局この「福寺」というのが「崇福寺」を指すとすると、その創建年はずっと後の事となり、「行基」による開基であるとすると、「八世紀」に入ってからの事と考えざるを得なくなるでしょう。
 ここに書かれたものの「原資料」となったものについては他の「崇福寺」と「天智」をつなげる「史料群」と「原資料」が共通であったものと見られ、それらにおいてはこの記事を「行基」と切り離して、「六六八年」という年次に「福寺」と「百済寺」創建が成されたと「誤解」したという可能性があると思われます。つまり、他の「史料」(前項で例としてあげた「扶桑略記」『元享釈書』等)などでは、原史料を見誤り、この年次(六六八年)の「創建」として誤伝したという可能性があると推定され、実際にはもっと遅い時期のことであったと見られる訳です。それを示すものが『続日本紀』における「崇福寺」の初出時期です。

 「崇福寺」は「聖武」の時代に始めてその寺名が現れます。またそれは「紫香楽宮」を設営後に始めて現れるという事も確認できます。つまり、「紫香楽村」に「離宮」を作ったというのが「七四二年」のこととされますが、「崇福寺」という寺名の初出はその「七年後」です。

『続日本紀』「天平十四年(七四二年)八月癸未条」「詔曰。朕將行幸近江國甲賀郡紫香樂村。即以造宮卿正四位下智努王。輔外從五位下高岡連河内等四人。爲造離宮司。」
『同』「天平廿一年(七四九年)閏五月甲午朔癸丑条」「…『崇福。』香山藥師。建興。法花四寺。各絁二百疋。布四百端。綿一千屯。稻一十万束。墾田地一百町。…」

 しかし、ここでもこの「崇福寺」が「天智」の創建である旨の注記等は一切ありません。もしここに以前から「崇福寺」があり、それが「天智」の勅願であったならそれに言及しないというのは考えられません。
 さらにこの「紫香楽宮」の至近には「寺地」が開削され、そこに「盧舎那仏像」を建てる予定であったとされます。

『続日本紀』「天平十五年(七四三年)冬十月辛巳条」「詔曰。…粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。發菩薩大願奉造盧舍那佛金銅像一躯。盡國銅而鎔象。削大山以構堂。…」
『同』「同月壬午条」「東海東山北陸三道廿五國今年調庸等物皆令貢於紫香樂宮。」
『同』「同月乙酉条」「皇帝御紫香樂宮。爲奉造盧舍那佛像。始開寺地。於是行基法師率弟子等勸誘衆庶。」

 ここにみられる「詔」は「聖武」の「廬舎那佛」を造る意気込みを物語るものとして著名なものですが、これは「紫香楽宮」で出されたものであり、ここでは「盧舍那佛像」の為の「寺院」を「開く」とされ、また「削大山以構堂」とされていますから、山勝ちの場所を切り開き「寺地」を確保しようとしていることが判ります。
 「聖武」は当初ここに「大仏殿」を建てるつもりでいたものであり、骨組みの中心となる部分までは建てられていたものです。

「天平十五年(七四三年)冬十月辛巳。詔曰。朕以薄徳恭承大位。志存兼濟。勤撫人物。雖率土之濱已霑仁恕。而普天之下未浴法恩。誠欲頼三寳之威靈乾坤相泰。修萬代之福業動植咸榮。粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。發菩薩大願奉造盧舍那佛金銅像一躯。盡國銅而鎔象。削大山以構堂。廣及法界爲朕知識。遂使同蒙利益共致菩提。夫有天下之富者朕也。有天下之勢者朕也。以此富勢造此尊像。事也易成心也難至。但恐徒有勞人無能感聖。或生誹謗反墮罪辜。是故預知識者。懇發至誠。各招介福。宜毎日三拜盧舍那佛。自當存念各造盧舍那佛也。如更有人情願持一枝草一把土助造像者。恣聽之。國郡等司莫因此事侵擾百姓強令收斂。布告遐邇知朕意矣。」

「同月乙酉。皇帝御紫香樂宮。爲奉造盧舍那佛像。始開寺地。於是行基法師率弟子等勸誘衆庶。」

 この詔でも「削大山」とされ(これは一部実行されたもののようですが)、このことからも「寺院」と山が近接した地形であることが知られます。文脈からみてこれが「紫香楽宮」の至近に開く予定のものであったことは間違いないものですが、さらに「行基法師」が弟子達を引き連れ、多くの人々を「勧誘」したとされています。ここにおいてこの「寺地」と「行基」の間に関係があることが推測できることとなります。この「寺地」こそが本来の「崇福寺」に相当するものではなかったと考えられるものであり、この事が『日本帝皇年代記』に書かれた「行基」の業績としての「崇福寺」の開基であったと考えられないでしょうか。

 この「紫香楽宮」は各種資料からここに「正式」に遷都され「都」として機能していたことが明らかとなっています。そうであれば「都」を「鎮護」する「寺院」がなかったはずはないこととなるでしょう。そう考えれば上に見た寺院は確かにこの時点で創建されたものであり、「盧舎那仏像」を造る計画が正式に進行していたこととなります。
 これについては『日本帝皇年代記』にも「紫香楽」に「廬舎那仏」を造ったという記事があり裏付けられます。

「癸未十五(七四三年)十月十五日帝近江信楽京鋳初廬遮那佛銅像/長一十六丈、依良弁勧化也」

 ただしここではなぜか寺院名が書かれていませんし、また「行基」ではなく、彼の弟子である「良弁」の勧化(勧進)であるように書かれています。しかし、この時「行基」と「良弁」はほぼ一体となって行動していましたから、この「良弁」の行動も「行基」の意思を体したものと考えて問題ないものと思われるものです。

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天智と崇福寺(二)

2016年02月20日 | 古代史

 近江の「崇福寺」の遺跡とされる場所からは「無文銀銭」が「地鎮具」として「埋納」されていることが確認されているわけですが、これはこの「無文銀銭」が「重要視」「神聖視」され、「呪術」的威力を持っていると考えられたいたことを推察させます。また私見によれば「無文銀銭」は「隋代」に(たぶん新羅から)もたらされたものであり、「隋代」あるいは「初唐」の頃に、「隋」や「唐」と交易を行なうつもりであったものとみられますが(実際に使用されたかは不明)、その事は即座に「無文銀銭」とこの「崇福寺」(志我山寺)の間に「直線的関係」、つまり「無文銀銭」の使用開始の年次と「志我山寺」の創建年次とが「接近」しているという想定をさせるものでもあります。つまりこの「志我山寺」の創建年次はもっと遡上するという可能性があるといえます。
 また、この寺の建築様式は「東面金堂」のいわゆる「観世音式」或いは「川原寺式」というものであり、(そのこともあって「天智」と関連づけられているともいえますが)「元々」の「法隆寺」における「レイアウト」においても「同様」に東面金堂であったと考えられ、それは「観世音寺」などの「源流」となったものと推量されるものですが、「志我山寺」においても同様の配置であることも、「法隆寺」の「創建」(六〇七年)とそれほど違わないという可能性があることを示唆します。
 
 この「志我山寺」の創建に関しては、『扶桑略記』他によれば建設する際に地面を掘ったところ、「多宝塔」が出土したという伝承があるとされます。(『今昔物語集』では「宝塔」)
 この「多宝塔」については「古代インド」の「阿育(アショカ)王」が埋めたという説話中のものと解釈されているわけですが、同様に「倭国」における「阿育王」の「多宝塔」に関するものとして「唐代」の記録『法苑珠林』に記事があります。
 そこでは「倭国」から派遣された「官人」として「会丞」という人物がいるとされ、彼に「倭国」の「仏法」のことを問いただすと以下のように答えたとされます。

「彼の国、文字(にて)説かず。承拠する所無し。然れども、其の霊迩を験すれば、則ち帰する所有り。故に彼の土人、土地を開発し、往々にして古塔の霊盤を得。仏の諸の儀相数え、神光を放つ。種々の奇瑞、此の嘉応を詳(つまびらか)にす。故に先有を知るなり」

 ここで「土地を開発」つまり、田畑を耕したり道路、池などを作ろうとして地面を掘ると「古塔の霊盤」というのが出土するとされ、それは「阿育王」が全世界に建てた「多宝塔」であろうという事となっているのです。
 これは「阿育王」の所産であると言うことも共通しており、『扶桑略記』他に言う「多宝塔」と同じものではないかと思料されます。 
 「会丞」という人物は「大業の始め」に来たとされています。またここに書かれたことは彼の見聞したこととされているわけですから、これは彼がまだ「遣隋使」として送られる以前のことであることとなり、「六世紀末」の「倭国」の実情を示すと考えられます。
  ところで、ここに書かれた彼の言葉によれば、この段階で「文字」がないように受け取られそうですが、『隋書俀国伝』によれば「百済」から仏法を得た後は「文字」があったとされていますから、「日本語」を表記するようになったのはかなり早い段階であったと思われ、この「六世紀末」という段階で「文字」によって「仏法」が説かれていないというのはやや不審ですが、結局は民衆レベルに文字が一般化していたというわけではないということといえそうです。
 このようなものが「出土」していることが「六世紀末」のこととして語られていることは、同様に「多宝塔」が出土したという伝承がある「崇福寺」の創建と「無名指」を切断したという伝承の成立も実際にはもう少し早い時期を想定するべきではないかと思われますが、それは、そのような行為により「父母」に感謝する祭祀が行なわれたとすると、それは「六七〇年代」としては「伝統的すぎる」と考えられる事と整合するといえます。
 ただし、こう考えた場合、「崇福寺」(「志我山寺」)は「天智」がその「母」である「斉明」の菩提を弔うための誓願として建てられたものという考えは否定されることとなります。つまり、「崇福寺」(「志我山寺」)は「天智以前」から建てられていたものであり、その建築主体は「天智」ではないこととなりますが、「六世紀末」から「七世紀初め」の倭国王が措定されるべきと思われますから、「阿毎多利思北孤」ないしはその太子という「利歌彌多仏利」のいずれかであると考えられます。
 このような推定は、「心礎」から発見された「無文銀銭」が「銀小片」が付着していたことから、「開通元宝」に重量基準を合致させたバージョンであると推測でき、このことからこれは「隋代」までは遡上せずせいぜい「初唐」まで遡りうるものであると考えられる事と整合すると言えるでしょう。(推測によれば「六三二年」の「高表仁来倭」時点付近が「小片」付加のタイミングと考えられます)
 「志我山寺」が「阿毎多利思北孤」あるいは「利歌彌多仏利」の建てた寺であるとすると、その「心柱」の基礎に「無文銀銭」を納めていたことは不自然ではないでしょう。
 これらのことは『扶桑略記』などに書かれた「六六八年」という年次のかなり「以前」から「近江」の山中に建てられていたという可能性が高いと考えられることを示します。

 この「近江」ないし「志賀」という地に「官衙」のようなものあるいは「寺院」があったと考えられるのは、後の「近江国府」の遺跡から出土した木簡や土器などによっても明らかであり、それは種々の理由から時代として「七世紀半ば」が推定されるとされていることからも窺えます。
 この場所が後に「国府」とされたのは偶然ではなく、それ以前からこの場所及びその周辺には「官庁」のような建物ないし施設があり、それが実際に「活動」していたということが布石としてあったからではないかと見られていましたが、それが「須恵器」「木簡」などから明確となったのです。また、これを地方豪族(和邇氏など)と関係づけようとする試みあるようですが、それは「先入観」というものではないでしょうか。
 「官衙的」建物があり、またそれを示唆する「木簡」等が出土したとすると、そこには明らかに「王権」と深い関係がある施設があったものであり、それが「七世紀半ば」までは確実に遡上するという事の意味は重大であると思われます。
 つまり「近江京」というものが「天智」によって営まれるより以前に「志賀」の地に「王権」が関与した施設があったこととなり、それは「志我山寺」そのものの創建時期とも関連してくると考えられるものでもあります。
 更に「近江大津京」跡と推察される遺跡の下層からは「七世紀半ば」に編年される土器も出土しており、そのことは「崇福寺」だけではなく「大津京」そのものの創建も一般に考えられているよりかなり遡上するという可能性を含んでいるものでしょう。

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天智と崇福寺(一)

2016年02月18日 | 古代史

  『二中歴』によれば「白鳳年間」(六六一年から六八四年)に「観世音寺」は創建されたことになっています。また『日本帝皇年代記』によれば「庚午年」(六七〇年)の創建とされています。しかし『続日本紀』をみてみると「七〇九年」になって「元明天皇」の「詔」が出ており、それによれば「『観世音寺』は『天智天皇』の誓願により『斉明天皇』の菩提を弔うために建てられることとなったが進捗しておらずまだできていない」とされています。つまり「七〇九年」の時点で「未完成」というわけです。
(以下『続日本紀』に書かれた「元明天皇の詔」)

「慶雲六年…二月戊子朔。詔曰。筑紫觀世音寺 淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月差發人夫專加検校早令營作。」

 これに対し「大宰府」遺跡から発掘された「観世音寺」の「創建時のもの」とされる「瓦」(老司Ⅰ式)については、その形式から「七世紀中葉」のものとされ、「大宰府政庁Ⅱ期」(老司Ⅱ式及び鴻廬館式瓦の使用)に先立つこと「五-十年程度」と推定されています。また「老司一式」瓦には更に「大きく」二種類あるとされており、それは時代の差であると考えられているようです。このことは「上」に見た「創建」の年次と「進捗」を促す詔の年次付近とふたつの時期があったことと重なる事実です。
 つまり、発掘から判定された「瓦」の年代測定と『二中歴』の記事は矛盾しないと考えられるとともに、「元明天皇」の「詔」とも合致することとなるわけです。このことは「創建時期」としては「六六一年」以降の時期(「白鳳年間」)と考えて問題ないことを示します。
 しかしそれは以下の「太政官処分」記事と矛盾します。

「大宝元年(七〇一年)八月…甲辰。太政官處分。近江國志我山寺封。起庚子年計滿卅歳。觀世音寺筑紫尼寺封。起大寳元年計滿五歳。並停止之。皆准封施物。」

 この「太政官処分」に関しては「矛盾」に充ちており、整合的解決が困難の様に思われますが、少なくとも上で見た「元明」から出された「詔」とは大きく矛盾していることは確かです。
 この「太政官処分」記事については、そこに書かれた「庚子年」という年次が一部の「写本」にある「庚午」であったとして考えても、「観世音寺」の工事進捗状況とは全く一致しません。もし「庚午年」からであったとして「志我山寺」について「三十年」経過しているというように解釈しても、「処分」時点は「七〇〇年」となり、そこから五年逆算すると「観世音寺」が建てられたのが「六九五年」になってしまいますが(※)、これは上に見た「創建記事」や「元明」の「詔」とも整合していないと言う「矛盾」は以前として残ります。
 この「太政官処分」の重要な点は「三十年」と「五年」です。「五年」という年限は、「大宝令」の以下の規定によっていると思われます。

「禄令 寺不在食封之例条」「凡寺。不在食封之例若以別勅権封者。不拘此令(権。謂。五年以下。)」

 つまり、「寺は食封の例に入れない、ただし「勅」として封戸を施入するときは五年を限る」というわけです。また「三十年」という年数については、「天武」の時代に出された「勅」(以下のもの)に準拠しているものと考えられます。

(六八〇年)九年夏四月是月条」「勅。凡諸寺者。自今以後。除爲國大寺二三以外。官司莫治。唯其有食封者。先後限卅年。若數年滿卅則除之。且以爲。飛鳥寺不可關于司治。然元爲大寺而官司恒治。復嘗有功。是以猶入官治之例。」

 そこでは今後「寺封」は三十年を限度とするというわけであり、この「太政官処分」がこれらの規定を踏まえた上で出されているというのは確実ですから、「五年」と「三十年」という「年数」は「動かせない」わけです。つまり、「七〇一年」を表すと思われる「大寶元年」を動かすか「庚子年」を動かすかあるいは両方を変えるか、いずれかでなければ整合的解決は見いだせません。
(ここではこれ以上触れませんが「庚子年」というのが問題のようであり、これが本来「庚辰」であり「六二〇年」を意味していたという解釈が最も整合性が高いと思料します。その場合「大寶元年」というのは『書紀』の「大化元年」と一致します。)
 ただ、いずれにせよ「観世音寺」及び「筑紫尼寺」と「志我山寺」について扱いが大きく異なる事というに気がつきます。「志我山寺」については建てられてから「三十年」経過していると言うことであり「観世音寺」及び「筑紫尼寺」はまだ五年しか経過していないというのですから、全く置かれた状況が異なっている事が解ります。一般には「観世音寺」も「志我山寺」も同じ「天智」の「発願」によるとされていますが、「志我山寺」だけが建設が中断することなく進捗したかのように見られることとなると同時に、「寺封」も受け続けていたことにもなります。しかし、その様な事があり得るでしょうか。
 
 そもそも「壬申の乱」後「大友皇子」の「近江朝廷」(「近江大津宮」)は「廃墟」となったと考えられ、その「近江京」の片隅に存在していた「寺院」が「無事」で済んだはずもないわけであり、それが「八世紀」まで存続していたとか、寺封をそのまま受け続けていたというようなことははなはだ考えにくいものです。
 また、重要なことは「近江大津京」跡の「崇福寺跡」とされる遺跡の発掘の結果、その塔心礎から「無文銀銭」が発見されているということです。
 発掘された「塔心礎」からは「金銅」「銀」「金」「瑠璃」の四壺に納められた「地鎮具」が発掘され、その中に「無文銀銭」が存在していました。このような「入れ子式」の「舎利容器」は「南朝」から「百済」へとつながる系譜を持つものであり、この「志我山寺」についても同様に「百済」を通じて「南朝」とつながることを示唆するものです。(百済の「泗比城」の定林寺が同様に地下式心礎です)

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