古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「法華寺」と「檀林寺」

2016年09月26日 | 古代史

 国分寺の先蹤と思われる「隋」の高祖の詔では「尼寺」には全く触れていません。これに素直に従えば「塔」の創建に主眼があったものであり、倭国王権はこれを受容する段階では「尼寺」という視点はなかったことと推定されることとなります。しかし、「白鳳」改元以降「倭王権」というより「倭姫」は各地に「尼寺」を建設し「国分寺」と同様「尼寺」の全国ネットワークを構築することとなったとみられ、その際にはやはり「元興寺」が「法隆学問寺」となったように「筑紫」の「尼寺」の中心としての寺院も「学問寺」としての性格が強く付与されていたとみるべきこととなるでしょう。その意味では「檀林寺」という名称はまさに似つかわしいものと思われますから、元々の「名称」が「檀林寺」であったことが強く推定できるものであり、「橘嘉智子」が「檀林寺」と命名した理由もそこにあったものと思われるわけです。

 ところで「国分尼寺」に関する各種資料を見ると、「筑後」「周防」「長門」「伊豫」さらに「丹後」「摂津」という旧倭国九州王朝の覇権の範囲の地域の国分尼寺だけが「法華寺」という固有の名称を持っているように見えます。
 ご承知のように「法華寺」というのは「光明皇后」が父である「藤原不比等」より継承した「自宅」を改造、寄進した寺院であり、聖武天皇の時代以降「国分尼寺」の頂点として存在していたものです。この「法華寺」という名称を先の地域では「国分尼寺」の名称として使用していることとなります。(※)
 (以下「法華寺」の記載例)

(一二四一年)(仁治二)〔筑後〕同年六月一日の日付を有する筑後国交替実録帳に「法華寺」の堂舎として口葺金堂一宇、口寶蔵一宇が見え。また勘発文言に「件国分尼寺」や諸定額寺堂塔雑舎資財雑物は無実破損其数繁多とある(宮内庁書陵部所蔵文書、『鎌倉遺文』五八七六号)。

(一二五五年)(建長七年)〔伊予〕伊予国神社仏閣等免田注進状案に寺田として、国分寺十丁二反とともに、「法花寺二丁四反二百四歩」が見える。(『伊予国分寺文書』)

(一三二五年)(正中二年)〔周防〕留守所から周防国衙宛に「国分法花両寺」を興行し、公田下地を奉免すべき旨が命じられる。(『周防国分寺文書』)

(一三二七年)(嘉暦二年)〔長門〕長門国分寺領「法花寺敷地」一所が、国分寺別当寂通から旧の如く「尼衆賢旦房」に宛行われ、先規に任せて仏閣を紹隆し「尼法」を興行すべきことが下知される(塚原周造氏所蔵文書、『鎌倉遺文』二九九七七号)

(一四五九年)(長禄三年)〔丹後〕同年に書写された『丹後国諸庄郷保惣田数目録帳』(原本の日付は正応元年八月日)に「法花寺四町壹反三拾六歩」と見える。一方、国分寺については「拾五町三段拾八歩嘉松富名」とある(『改定史籍集覧』第廿七冊、新加雑類第八十入)

(一五七六年)(天正二年)〔摂津〕山科言経が禁裏御所で、「攝州柴嶋法花寺」の霊宝である聖武天皇御影・経文・綸旨・武家奉書等を見る(『言経卿記』同日条)

 「類聚三代格」によれば「太政官符」という形で「天平十三年二月二十四日」という年次に国毎に国分寺と国分尼寺を造るように詔を出していますが、そこには諸国の「僧寺」については「金光明四天王護国之寺」、「尼寺」については「法華滅罪之寺」と命名するよう指示が出されています。しかし、(尼寺の場合)実際にはこれが実行されたのが確認できるのは上にみた例以外には「出雲」地域だけです。(ただし字地名として「法華寺」が存在しているものの「寺院」の名称としては残っていない)
 これら以外には「法華(法花)寺」名称は見られず、そのことからこの名称は実際には「本来の名称」であり、以前から一部の尼寺ではこの名称として存在していたものであり、それを「追認」する形で「改名」指示が出されたとみるべきではないかと思われるわけです。
 つまりその名称の分布からは地域特定性があるように見られ、倭国九州王朝段階において「国分尼寺」が作られた当初はすべて「法華寺」という名称ではなかったかということが推定されるわけです。その意味では「光明皇后」がその寄進した寺院を「法華寺」と命名したのも、「倭国九州王朝」に対する「畏敬の念」が根底にあったことが原因と思われ、そのため当初の名称をそのまま使用したということが考えられますが、その点については夫である「聖武」と同様のものであったと思われます。
 「聖武」は「筑紫」を「大君遠御朝廷」と称してみたり(そこでは「朝廷に「御」という美称が付されているのが注目されます)、「詔」の中で「白鳳」「朱雀」という年号を使用するなど、「倭国九州王朝」に対する畏敬の念が強く表れています。その点については彼の皇后である「光明子」も同様であったとみられるわけです。

(※)牛山佳幸「諸国国分尼寺関係年表稿(中世編)」上田女子短期大学紀要二〇〇一年三月に詳しい。

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国分尼寺と筑紫尼寺

2016年09月26日 | 古代史

 肥沼氏のブログを中心に「国分寺」の起源について深い検討がされています。そこでは聖武天皇の国分寺造営の詔に先立って各地にすでに「塔」が建てられており、それが古代官道などと同様「正方位」を示しているのに対して、明らかに後出する「伽藍」については「磁北」が基準と思われ、正確な北を示していないことが指摘されています。そのことは「古代官道」の建設時期と同様初期国分寺(塔)の造営が七世紀初頭まで遡るものではないかという疑いを抱かせるものです。それについてはすでに「仁寿年間」に「隋」の高祖(楊堅)により各州に対して出された「塔」造営の詔に触発されたものとみるのが相当ということを示しました。「隋」の場合、それらの中心伽藍として「大興善寺」というものが「大興城」つまり「長安」に存在していました。そうであれば「倭国」においても「国分寺」の本家あるいは頂点としての寺院が当初存在したはずですが、それが「元興寺」ではなかったでしょうか。そう考えるのは『二中歴』と『日本帝皇年代記』の二つの記事からです。

『二中歴』では「最勝王経」の転読が「諸国」で行われていることが書かれています。

「白雉九 壬子 国々最/勝会始行之」(『二中歴』)

 これによれば「白雉年間」に「国々」で「最勝會」が初めて行われたというわけですが、「国々」で行うという表現が「国分寺」の存在を前提にしていると考えるのは自然です。
 その「国分寺」の頂点の寺院としては『日本帝皇年代記』の以下の記事が参考になります。

「壬子白雉 依長門国上白雉也/元興寺仁王會■最勝講始之」(『日本帝皇年代記』(中))

 これによれば「白雉年間」に「元興寺」で「仁王會」と「最勝講」が初めて行われたとされます。これを『二中歴』と重ねて考えると、この時点の「最勝講」は「元興寺」を頂点として諸国でも同様に行われたものとみられることとなるでしょう。
 ところで、「最勝講」や「最勝會」は「金光明最勝王経」という経典と関係していると一般に考えられていますが、この経典は八世紀に入ってから「唐」の「義浄」によって訳されたものであり、この記事時点ではまだ成立していなかったと見られていますから、その意味では不審があるわけですが、「金光明経」そのものはすでに「北陵」の「曇無せん」によって五世紀には成立しており、それが早期に伝わっていたらしいことが知られています。この「金光明経」についての「講」や「會」を「最勝講」や「最勝會」とこの時代に称していたかは疑問ですが、『二中歴』の編集時点の「常識」として「金光明経」とは即座に「金光名最勝王経」であるという認識に拠ったものかもしれません。ただしそれが「金光明経」であったとしてもそれについての「講」などが行われなかったと積極的に考える根拠はありません。

 そもそも「国分寺」の正式名称(聖武の詔にあるもの)は「金光明四天王護国之寺」というものですからその中心経典は「金光明経」であったものであり、この経典についての法会が「国分寺」で行われたという『二中歴』や『日本帝皇年代記』の記事は当然といえるものです。それは後代にも同様に「最勝王経」の転読が「諸国」の「国分二寺」に対して行われていることからも推察されます。たとえば(一二六三年)(弘長三年)亀山天皇が諸国「国分二寺」に対し、最勝王経の転読を命じた宣旨を出しています。そこでは礎石不全ならば便宜の堂舎を点じて梵席を設け、施供には正税を宛てよとあります。(『公家新制』、『鎌倉遺文』八九七七号による)

 このように「国分寺」の本来の中心寺院は「元興寺」であったと見られるわけですが、すでにこの「元興寺」がその後「法隆寺」となったということを述べています。その「法隆寺」は別名「法隆学問寺」と呼ばれたとされます。確かに「元興寺」という寺院は「隋」や「唐」への留学僧などが帰国後そこに常住したという記事もあるように、学問の修行や集成の場であったことが推測されるものであり、それは「学問寺」という名称に違わぬものであったと推測できるわけです。
 ところで、これもすでに述べたように「嵯峨天皇」の皇后であった「橘嘉智子」が「筑紫」の「筑紫尼寺」より「鐘楼」を(というよりたぶん伽藍全体を)移設して「檀林寺」と称したとみたわけですが、この「檀林」という名称は僧尼の修業の場を示す用語であり、それは「檀林寺」というよりその前身の「筑紫尼寺」の性格や実態を表すものではなかったでしょうか。

 「筑紫尼寺」の鐘楼は「観世音寺」のものと同一規格であり、その製造時期もほぼ一緒ではなかったかと推測したわけですが、下の記事によれば「白雉」年間の「最勝會」記事に遅れること(多分)数年程度で「観世音寺」が造られたとされるわけですが、当然ほぼ同時期に「筑紫尼寺」も造られたということとなります。

白雉九 壬子 国々最/勝会始行之  
白鳳廿三 辛酉 対馬銀採/観世音寺東院造

 このことは「観世音寺」という寺院がその時期からもその名称からも「国分寺」創建とは違った性格のものとして造られたらしいことが推測できますが、他方「筑紫尼寺」については「尼寺」としての「国分寺」の頂点を成す存在として設置されたものではないでしょうか。
 「最勝會」が「国分寺」で行われたとすると「「尼寺」でもそれらのようなネットワークが必要であるという認識が王権の内部で形成された可能性が考えられます。その中心として「筑紫尼寺」が造られたと見る事もできるでしょう。その意味で「筑紫」という国名が付されているとも考えられます。この「筑紫尼寺」はすでに考察したように「九州」全体に対する「尼寺統括」ということをその責務としていたとも思われ、その意味で「筑紫」という名称となったとも考えられます。(この時期すでに「筑紫」は「前後」に分割されていたはずですから)
 さらに「檀林寺」などがそうであったように「筑紫尼寺」についてもその創建主体は「女性」であったことが推測できるでしょう。その人物は、「観世音寺」とほぼ同時期に同じ地域に「筑紫尼寺」を建てたという経緯から考えても当然「天智」と深い関係がある人物であるはずであり、また女性として最高位にあったであろう人物を想定するとその創建主体は「天智」の「皇后」であったと見るべきではないでしょうか。つまりそれは「倭姫」ではなかったかということです。

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『隋書』の「五絃」とは

2016年09月03日 | 古代史

肥沼氏(古田史学の会会員)のブログには古代史の研究上重要な示唆が多く大変参考になります。今回『隋書』の「五絃」について『芸能史研究』という研究書の中に「五絃」について以前考察されました増田修氏の研究に触れながら「九州王朝説」が展開されていたことが紹介されていました。http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2016/08/post-89fc.html

 それ自体は重要ですが当然ともいえるもので特に異論はありませんが、『隋書俀国伝』に出てくる「五絃」について「五絃琵琶」を指すという解釈が紹介されていました。この「五絃」については以前(二年ほど前ですが)考察したことがあり、ブログにも書きましたが、改めて考察し、「五弦」=「琵琶」という議論に異論を述べたいと思います。

『隋書』の中では「五絃」とは「五絃琵琶」を指すという指摘がありましたが、『隋書』の中で「五絃」が明確に「琵琶」を指して使用されているというのはただ一箇所です。(以下の部分)
「隋書/列傳第四十四/外戚/蕭巋 子琮 瓛」より

「…蕭巋字仁遠,梁昭明太子統之孫也。父詧,初封岳陽王,鎮襄陽。侯景之亂,其兄河東王譽與其叔父湘東王繹不協,為繹所害。及繹嗣位,詧稱藩于西魏,乞師請討繹。周太祖以詧為梁主,遣柱國于謹等率騎五萬襲繹,滅之。詧遂都江陵,有荊郡、其西平州延袤三百里之地,稱皇帝於其國,車服節文一同王者。仍置江陵總管,以兵戍之。詧薨,巋嗣立,年號天保。巋俊辯,有才學,兼好內典。周武帝平齊之後,巋來賀,帝享之甚歡。親彈琵琶,令巋起舞,巋曰:「陛下親御五絃,臣敢不同百獸!」…」

これを見ると確かに「親彈琵琶」とした直後に「陛下親御五絃」としていますから、この「五絃」が「琵琶」であることは間違いないでしょう。しかしこの例は「周」の場合であり、いわゆる「北朝」の系統に部類します。

 そもそも「倭国」が南朝に偏した外交活動であったことや『俀国伝』の風俗記事が半島諸国の記事と比べかなり南朝的な傾向が見て取れること、同じ『隋書』の中の「林邑伝」など南方地域の記事内容が「俀国伝」にかなり類似していることなども併せ、倭国の文化が北朝系統とは異なる事が見て取れます。また「琵琶」は「西域起源」ともいわれる「四絃琵琶」と「印度」(天竺)起源とされる「五絃琵琶」とがあったとされ、後者は「北朝」を通じて東アジアに伝搬したもののようです。これらから考えて「五絃」が「五絃琵琶」を指すとは言いにくいのではないでしょうか。「倭国」がそれほど「北朝」と深い関係があったとは考えにくく、「百済」からの伝来としても「百済」自身が「北朝」よりも「南朝」にやはり偏倚していたことを考え合わせるとこの「五絃」は「琵琶」ではなく「琴」であったと見るべきでしょう。またもし「五絃」と「琴」を区切ったとすると「琴」(この場合「七弦琴」となる)が「五絃」より後に書かれている事となりますが、『隋書』の中で「楽」を記載する順序として(暗黙ではありますが)「琴」が先頭に書かれるという原則がここでは行われていない事となります。「琴」(七弦琴)は「楽」の「統」であるとされ、常に中心的位置に置かれると同時に記載される際も先頭に置かれるという原則があるようです。しかしここでは「五弦」の後に書かれていることとなってしまいます。それを不審とするならこの「琴」はその前の「五絃」と連続して考え「五弦琴」を指すとみるのが相当ではないでしょうか。
 またこれを「五弦琴」と連続して考えるとその「五弦琴」が旧「南朝」地域に依存していたとされることと重なります。
 『禮記』などに「帝舜」と「五弦琴」についての逸話が書かれています。

「…昔者舜作五弦之琴以歌南風,夔始制樂以賞諸侯。故天子之為樂也,以賞諸侯之有者也。…」(『禮記』「楽記」)

 この「五弦之琴」(五弦琴)については「帝舜」の歌が「南風」を歌ったものと言う事もあり、特に中国南方地域に強く遺存していたようです。「北宋時代」に編纂された「太平御覧」の「州郡部」に引用されている「湘中記」の中でも「江南道潭州」(現在の長沙市付近か)では「帝舜」の「遺風」があるとされ、「古老は五弦琴を弾ずる」とされています。

「《湘中記》曰:其地有舜之遺風,人多純樸,今故老猶彈五弦琴,好爲《漁父吟》。」(『太平御覧』州郡部十七「江南道下」「潭州」)

 このように「南方地域」で「五弦琴」が見られるわけですが、それは『隋書』の「林邑伝」において、習俗として「文身断髪」とされるなどその記述が南方的であることと、そこに「五弦」と書かれている事とがつながっているように思われ、この「五弦」が「帝舜」の「南風」に影響された「五弦琴」であることを推察させるものです。

 また現在「琵琶」の伝来は奈良時代とされており、『隋書』にいうような「六世紀末」という時期にすでに「琵琶」があったとは考えにくいものです。一般に「四絃琵琶」の方が中国における歴史が長く「五絃」は「仏教」の伝来と共にインドから流入したものと見られます。特に中国北朝において「五絃琵琶」が発展したものですが(「北魏」の遺跡からは「五絃」の「琵琶」が出ています)、倭国はすでに述べたとおり「北朝」とは関係が希薄であり、国内に早期に「五絃琵琶」が流入していたとは想定しにくいといえます。
 中国では「五絃琵琶」が流入する以前に「西域」(ペルシャなど)に起源を持つとされる「四絃琵琶」が存在していました。『隋書』の時代においても「四絃琵琶」の方が主流であったと見るべきと思われるわけであり、確かに上に見るように『隋書』の中には「五絃」が「琵琶」を指す例も存在していますが、普遍的に「五絃」が「琵琶」を指すとは言いきれないと思われるわけです。 

 この「琵琶」が「四絃琵琶」を指すものとすると、当時の倭国には「四絃琵琶」がなく「五絃琵琶」だけがあるということとなりますが、そのような想定はかなり不自然ではないでしょうか。中国との関係からいうと南朝との関係は以前からあったわけであり、「四絃琵琶」があったとして不自然ではないと思われるわけですが、そうであるなら「琴」も「七弦琴」が存在していて当然ということとなります。
 「琴」についていうと「周代」に「七絃」となる以前は「五絃」であったものであり、以降中国では「琴」といえば「七弦琴」を指すものでした。しかし「倭国」においては「五弦」あるいは「四絃」のものしか出土(遺存)せず、「七弦琴」は全く見られません。
 この事は「琵琶」においても「五絃琵琶」が伝来する蓋然性より「四絃琵琶」の伝来の可能性の方が高いものと思われることとなり、さらには「七弦琴」が伝来していないならば「四絃琵琶」についても同様であった可能性を強く示唆するものです。つまりこれらのことは『隋書俀国伝』において「五絃」とあるのは「五絃琵琶」でなく、さらには「琴」とは「七弦琴」でもないこととなるわけであり、実際には「五絃」の「琴」を指すとしか考えられないこととなります。

 『隋書俀国伝』の「楽」についての記事中には「鼓角」はあるが、国書記事の前に書かれた倭国の風土についての記事(これは「遣隋使」が「隋皇帝」の問いに応じて答えた中にあると思われるもの)では「鼓角」がないこと、国内から全く「七弦琴」の遺物が出土していないこと等々、「七弦琴」と「鼓角」が「隋」以降(というより「遣隋使」あるいは「隋使」による)の伝来と推定される状況があります。このことは「七弦琴」がある意味「一過性」の楽器であったと推定されるものです。それは『源氏物語』において「琴」(七弦琴)について「こと」ではなく「きむ」と「音」で表現していること、それが「至高」の貴人の特権的楽器であったらしいこと、「楽譜」も「南北朝期」のものが伝来していることなどから「七弦琴」が「遣隋使」あるいは初期の「遣唐使」によってもたらされたものと考えることに正当性があることを示しています。
 また「隋」の開皇年間に定められた「隋代七部楽」のなかに「倭国」からのものが含まれていることから、「開皇の始め」という時期あるいはそれ以前に「倭国」から「国楽」がもたらされていたことさえ示唆されています。そうであれば大業年間とされる「裴世清」の来倭記事は国交開始時点のものではないことが推定できますが、その場合「鼓角」を鳴らしての歓迎風景も隋使を迎えるものとして隋礼を学んだ後のものとすると整合しているといえます。

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