古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

30万ページビューを迎えて

2019年05月28日 | 古代史

当サイトの閲覧数が30万(PV)を超えました。

熱心に見ていただいている方もおられるようで、大変ありがたいと思います。

ブログの内容はなかなか一般の方にすぐ解るようなものではないかもしれませんし、ページ数もかなり多いので読まれる方はなかなか大変と思いますが、時々で結構ですから、あちらこちら目を通して頂けたら幸いです。「検索」窓がありますのでご活用頂くと便利と思います。

これからも特に古代史を中心に考えたこと、気がついたことを時々になるとは思いますが書いていきますので、皆様ご笑覧頂ければと思います。

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『筑後国正税帳』の記事から見える事

2019年05月12日 | 古代史

 最近中村明蔵氏の『鑑真幻影』(南方新社)の一部を読む機会があり、そこに興味あることが書かれているのを確認しました。以下は一部それに依拠しています。

 天平十年の『筑後国正税帳』によれば「種子島」(多禰)の「僧侶」二人についてその帰路の食料として二十五日分が支給されています。

「得度者還帰本嶋多褹僧貳躯《廿五日》単五拾人食稲貳拾束《人別四把》」(『筑後国正税帳』より)

 他にも同様に「多褹」の人間「二十八人」にその帰国の途中食料として二十五日分を支給した記事が見えますから、この時「太宰府」から「多褹」への帰国は二十五日を必要としていたことが窺えますが、これはそのルートとして「陸路」を想定していないことを示すと思われます。
 陸路を行く場合は途中の国「肥後」「薩摩」を経過する際それぞれの国庁から食料が支給されるはずであり、これだけ大量の食料を「筑後」で支給する必要がないはずです。当然途中の「国庁」つまり「肥後」「薩摩」両国の内部を経由しないことの表れと思われる訳です。

 また大伴旅人の歌(「大宰帥」任期中のもの)でも薩摩の「奇岩」の風景を歌っていますが、その内容から「征隼人大将軍」として戦闘地域に赴いた際に水路を利用したという可能性が指摘されています。それは「帥大伴卿遥思芳野離宮作歌一首」という説明が付いた以下のものです。

「隼人乃  湍門乃磐母  年魚走  芳野之瀧<尓>  尚不及家里」(『万葉集巻六「九六〇番歌」』)

 この「隼人乃  湍門」云々は「薩摩」の地名と推定されており、彼が「征隼人将軍」として派遣されていた時点を思い起こして歌ったものと考えられますが、その内容から「水路」(海路)「薩摩」へと向かったことが推定できます。

 また彼が征隼人将軍として派遣されていた際に朝廷から軍の全員に対し以下の褒賞が為された記事が『続日本紀』にあります。

「(養老四年)秋七月甲寅。賜征西將軍已下至于『抄士』物各有差。」

 この記事中「抄士」とは『大系』の注でも「棶抄の士」とされ「船頭」と解釈されています。(『唐令』に同様の語があることからの解釈)つまりこの遠征軍が「海路」を使用したことの表れといえるわけです。(但し『大系』の注では「難波津」から「太宰府」までの海路の際に作業した人員と理解しているようですが、それだけではないと思われる訳です)

 『筑後国正税帳』の記事からは「多褹」への往復は全て「水路」に拠ったといえそうですが、それは「多禰」だけのことではなかったと思われ、「多褹」以南の諸島から「太宰府」を目指す場合一般に「遠路」は基本「水行」であったことを示すといえそうです。(筑後川河口まで船を利用し、到着後川を遡上し、その後上陸した後僅かな距離陸上移動して太宰府へ到着するというルート)
 さらに一般論的にいえば「大伴旅人」の例によっても「遠距離移動」の際に最も使用される可能性のあるものは「水行」であり、船による移動であったと考えられるものです。このような事実はたとえば『倭人伝』において「帯方郡治」から「倭」つまり「女王国」へ向かうルートとして当初「水行」している理由と同一であったと思われることを示します。
 つまり時代は異なるものの、遠距離移動の主たるルートは(もし利用できるならば)「水路」であったものであり、できるだけ目的地の近くまで「水路」を利用し、陸上移動を最小限にしようとする意図は共通であったと思われるものです。そのようなルートが選択された理由としては陸上移動の方が時間がかかるからという理由の他、より危険でもあったからでしょう。

 古代においては(短距離を除き)拠点間を結ぶ幹線道路のようなものは存在していなかったわけであり、基本的に道路整備が為されていない場合がほとんどですから、「けものみち」程度のものしかなかったはずであり(それは『倭人伝』においても「伊都国」の移動中の記事として「行くに前を見ず」という形容がされていることで窺い知れます)、そのような状況が普遍的であるなら、短距離ならともかく遠距離移動に陸路は困難であったと思われ、基本「水行」によっただろうと推測できます。
 ちなみにこの『倭人伝』の末羅国以降の陸路は、「魏使」がいつも通るルートとは思われますが、あえて整備をせず原野のままにしていたように見えます。それは「魏」とは限らないものの「狗奴国」などの侵攻を考慮に入れていたのではないかと思われ、大量の軍兵の派遣を阻止する意図からではなかったかと思われる訳です。(江戸時代の街道が広くなかった理由も同様であったと思われます)

 「投馬国」が「薩摩」とすると、彼らが「邪馬壹国」へ来るような場合でも「魏使」と同様「末羅国」から上陸し内部を「一大率」にガイドされながら「伊都国」を経由した後「邪馬壹国」へというルートが使用されたものと見られます。つまり「諸国」が(「魏」も含め)「邪馬壹国」との通交の際には「伊都国」を経由することが求められていたとすると、「多褹」などの人達がそうしたように「筑後川」を遡上するというルートではなく、「末羅国」の港から出港し「壱岐水道」から「平戸」付近を経由して「天草灘」へと行くルートが考えられ、一旦北へ向かうルートであったことが推定でき(それが理由で「以北」の諸国に入っていたわけではないと思いますが)、「最短距離」というわけではなかったものでしょう。そう考えると「太宰府」から「多禰」まで「二十五日」を水行していったと理解できる『正税帳』の記事が注目されます。
 多少航海術や船の構造などが進歩したことを想定しても「投馬国」までの二十日間というのがそれほど長大な数字ではないことが理解できます。「多褹」との往復には「筑後川」を利用していますから、かなり距離は短かったと思われる訳ですが、「薩摩」と「多褹」との距離差を考慮すると「投馬国」への「水行二十日」は不自然ではないと見られ、九州島の西海岸沿いを「沿岸航法」により航海したものと見られるものです。

 

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「漢音」と「呉音」―「古田史学の会」の会報記事の訂正について

2019年05月01日 | 古代史

  今般「古田史学の会」のホームページに「会報」がアップデートされていました。その中の第一二八号(二〇一五年六月六日)に当方の論文『「漢音」と「呉音」―皇帝の国の発音』が掲載されています。これに関しては投稿後内容に誤認がある事を確認しており、直接問い合わせが来ていた多元的古代研究会の安藤氏への返答にも書かせていただきましたが、以下の内容に差し替えさせていただいています。(関係各位にはご迷惑をおかけしました。)

「漢音」と「呉音」 -「皇帝の国の発音」-(改)

「要旨」
  「漢音」と「呉音」は元々「唐王朝」において使用が始められたものであること。それは「言語学的」なものというより「政治的」なものであること。「玄宗皇帝」の時代の「盛唐」において確立された思想であり、それに基づく用語であること。「日本国王権」においてもそれを全面的に受け入れて「漢音」絶対視、「呉音」蔑視という立場に立っていたこと。「漢音」は「隋」「唐」王朝を構成した「鮮卑族」中心の人々によって作り上げられた発音であり、それは「漢民族」王権であった「魏晋朝」とは異なると考えるのが自然であること。以上を考察します。

Ⅰ.「漢音」と「呉音」
 「漢音」と「呉音」という用語は時折「混乱」されていることがあります。それは「漢音」と「日本漢音」、「呉音」と「日本呉音」の関係においてです。  現在の「漢音」「呉音」論では多くの方が「言語学」の上のものとして議論されているようですが、本来の使用の状況を眺めるとそうではなく「政治的」な使用のされ方がその本義であったことが窺えます。  「漢音」という用語は「北魏」時代から現われていたものですが、当時は「梵語」などに対して「中国の発音」という意義以上のものはなかったと見られます。しかし、「盛唐」の「玄宗皇帝」の時代になり、「呉音」に対する蔑視と共に使用されるようになり、そこでは「唐」の都「長安」の発音を称して「正音」あるいは「漢音」と言い、「中国」を代表する発音と考えるようになったものです。  そもそも「唐」王朝自身が考える、自らの立場の「建前」というものは、「魏」の後継者である、というものであったようです。つまり、「漢」-「魏」-「晋(西晋)」と続いた(正当な)王朝が匈奴の侵入により絶えた後を「魏」(北魏)として「再興」したという意識があり、その「北魏」という存在を非常に重く考えているとみられるわけです。ですからその「後継者」である自分たちの存在、由来は正当であり、大義名分がある、というものであったと考えられます。  このように「漢音」「呉音」というのはいわば「政治的」用語であり、「唐」の立場から言うと自らの王朝を「正統化」し、「南朝」を「侮蔑」するために造られた「概念」であると思われます。つまり、「玄宗皇帝」の時代になってこのような「政治的」用語が使用されるようになるのは旧「南朝」勢力の台頭に対する牽制球とでもいうべきものがあった可能性があります。  「北魏」以降の「北朝」は「基本」としてその主体が「漢民族」ではありませんし(鮮卑族主体か)、その「言語」も元々は「漢民族」とは異なっていたと考えられます。しかし、「北魏」以降強大な勢力となった時点以降各「北朝」の王朝は「漢民族」との「宥和政策」や中には積極的「漢化」政策をとるものも現れました。そのため「言語」も「漢語」を公用語として使用するようになったものですが、「西魏」「北周」に至り「復古政策」との関連で「鮮卑族」の言語が公用語として使用されるようになります。その後「隋」に至り「中国北半部」そしてその後「中国全土」を統一することとなるわけですが、「唐」はその「隋」から形の上では「禅譲」により王権を奪取します。このように「唐王権」は「中国」を代表する王朝となったわけですが、実際には「南朝」の「復活」を最も畏れていたものと思われます。

Ⅱ.「玄宗皇帝」の時代
 「唐王朝」成立後最も激しく反乱が起き、新王朝が多数建設されることとなったわけですが、その多くが旧南朝地域においでてした。(「呉」という国も実際にありました)これらを制圧して「唐王朝」はその統治を完全なものとしたわけですが、その後「唐王権」の支配が長く続き対外遠征等もなく安定な時代となったのが「玄宗皇帝」の時代でした。彼は「隋」の「煬帝」以来「東都」と称されていた「洛陽」を「漢魏晋」以来の旧称である「東京」と称するようになりますが(註1)、それは「高宗」及び「武則天」以来「洛陽」重視の体制であったものを政治の中心を「長安」主体のものとする意図があったと見られます。その「長安」重視の姿勢が「長安音」を特別視するものとなって現われたものであり、「正音」あるいは「漢音」という用語となり結実したと考えられます。  その背景には「唐」が最盛期を迎えたこからこそその安定を揺るがすものへの潜在的な不安があり(これは「安史の乱」で現実のものとなるわけですが)、最も具体的なものとしては旧南朝系勢力の復活に対するものであったと思われ、それを警戒するあまりのことであったと思われます。それは「南朝」の始原をたどると、本来「正統」な「漢民族」の「王朝」であったのは「南朝」の側であったためであり、「匈奴」の侵入により「西晋王朝」が崩壊した際に、王族の一部のもの(「司馬睿」)が江南地方(揚子江の南側地域)へ脱出し、その地に新たに建国したのが「晋」(東晋)であったわけですが、これ「南朝」の始まりとなるのですから、「大義名分」のある漢民族の王朝であったのはむしろ「南朝」の方であったとも考えられます。当時「中国北半部」は争乱の中にあり、周辺の諸国はその間「南朝」の皇帝の配下の諸侯王の一人として「将軍」号を受けていたものです。  このような状況が過去にあったわけですから、「玄宗皇帝」は現在の安定がゆらぐことが、旧「南朝」勢力に益することや、「国内」の「唐」政権に対する批判的勢力が「南朝」の権威の元に再結集することを強く畏れていたのだと思われます。多くの学者などにより旧「南朝」地域に対する蔑視的風潮が高まっていったのは偶然ではなく「玄宗皇帝」の政権の意志と共鳴していたものと思われ、「南朝」の持っている「大義名分」を破壊し、滅却することが必要とされたものであり、「南朝」に対し「古の」「呉国」の末裔であって「正統な」王朝、つまり「漢王朝を継いだもの」ではないというイメージを植え付ける作業が行われたと思われます。そのような「政治的」意図で使用されることとなった用語が「漢音」と「呉音」であったものです。

Ⅲ.「日本国王権」との関係
 このような経緯で発生した「漢音」と「呉音」という用語を、「日本国」王権が追従して受容したものであり、その「時点」における「唐」の発音を導入し、それを「漢音」と称したものであって、これが「日本漢音」を形成することとなったものです。
 現代の「音韻学」によれば「唐代長安音」(後期中古音)の特徴としては「非鼻音化」という現象があり、これが「日本漢音」に顕著に見られることなどから(註2)、「日本漢音」の成立もこの時代付近であることが確実視されています。 そして「唐」王権の意図に則して、彼らが政治的意図から「南朝」の発音を「呉音」と呼称すると、それを承ける形で「日本国王権」においてもそれまで「国内」で使用されていた「発音」を「南朝」の発音であって「呉音」(日本呉音)と称されるべきものであるとして「禁止令」を出すなどの政策を実行していくのです。
 この時の「日本国」王権から見て「呉国」あるいは「呉音」に相当すると考えられたのが、「倭の五王」以来「南朝」との交流の中で導入されていた漢字発音であり、これが「八世紀以降」の「日本国」の王権から「呉音」として名指しされることとなったものであり、その後呼称として定着します。(当然「唐」と同様「政治的」な意味で使用されたものと思われ、「呉音」が「倭国王権」の公用的漢字発音であったものであり、それを排除、封じ込める意図が隠されていると思われるわけですが)  これについては、近年の多くの研究が「日本呉音」にかなり近似しているのは現在の「上海」から「香港」付近の「発音」であるとされており、また「漢音」に近似しているのは「北京」付近の北方地域の「発音」であるとされています。

Ⅳ.「倭」と「中国王朝」
 「倭」は歴史的には「前漢」の「武帝」が朝鮮半島に「帯方郡」を設置して以来、「漢」と通交するようになり、「漢」(後漢)の文化を受容するようになったと考えられます。その後「半島」が「公孫氏」に占拠されると「交流」は「一時的」に停滞したようですが、「公孫氏」が滅亡した以降は再び、「漢」の直接後継王朝である「魏晋朝」に遣使し、「魏晋」王権の元の「候王国」として存在することとなったものです。
 当時南方の「呉」の影響も「倭」に及んでいたものと思料されるものの(「狗奴国」が「邪馬壹国」と対立していた背後には「呉」がいたという可能性があると考えられます)、「倭」の代表政権としての「邪馬壹国」は「卑弥呼」「壱与」と継続して「魏晋朝」に臣事しており、以降の王朝も変わらなかったものと推量します。その「西晋」は「三一六年」、北方異民族である「匈奴」の侵入を受け滅亡します。そして、「半島」にあった「西晋」の出先機関であった「楽浪郡」などが「西晋」の滅亡とほぼ時を同じくして消滅してしまったため、「倭国」からの「朝貢」の道が閉ざされてしまいました。
 その後「四世紀」末になって「倭の五王」の最初の「王」である「讃」の代に「拡張」政策が始まり、「百済」と友好を結び「軍事援助」を得ると共に数々の文物の交流を開始したものです。そのような中に「海岸線に沿って朝鮮半島から揚子江付近まで南下する」という「北路」といわれる「航路」の開発があったものであり、この航路は「百済」が先行して開発したものと推察され、それを「讃」が取り入れたものと考えられます。
 そして、この航路を使用して「東晋」以降のいわゆる「南朝」に対して「倭国」は「遣使」を「再開」したものと思われますが、「倭国」がこの「東晋」以降の王朝に対して以前のように「臣事」する事となった理由の一つとして「東晋」以降の「南朝」の「言語」(発音)が、以前の「魏晋朝」と「同じ」であったからというものが可能性としてあると思われるわけです。

Ⅴ.「皇帝の国の発音」
 「東晋」建国当時「王族」「貴族」はもちろん、一般民衆(漢民族中心)も大量に「江南」の地に流入していました。「華北」には北方から異民族が次々と流入し、混乱が長期間続いていたためであり、先祖以来の地を捨てて移住する人々が絶え間なかったものです。それは「王族」である「司馬睿」が「皇帝」として「晋朝廷」を守り続けていると言うことが彼らの「希望」の灯火でもあったと思われます。そのような「南朝」ですから、「王権」とそれを支える「漢人」達の「言語」も以前のままであったと考えられ、それは即座に「東晋王朝」の「公的」な発音は「魏晋朝」と変わらず、共通であったと考えられることとなります。このため、「倭国」ではこれを「皇帝の国の発音」であると認識したものであり、「西晋王朝」の継続と見なしたということがあるでしょう。もし「南朝」の言葉が「魏晋朝」とは違って、以前の「呉」と同じ「発音」であったなら、「倭国」としては「臣事」する事はなかったのではないでしょうか。
 「倭国」は、以前「魏晋朝」と同じ「大義」に生きていたものであり、「呉」に対しては「魏晋」の立場と同様「正統な王権」とは認めていなかったものと思われます。しかもその「呉」は(推定によれば)「倭国」中央政権であった「邪馬壹国」に対抗していた「狗奴国」を背後で支援していたものであり(註3)、「南朝」がそのような国の「発音」を継承していたとすると、「倭国」にはすぐ「区別」がついたであろうと考えられます。
 また、このように考えると「隋」に対して「柵封」されることがなかった理由のひとつも、同様に「発音」の違いであったとも考えられます。「隋」は「唐」と同じ民族であり、その発音は「中国北方音」としての「漢音」系統の発音であったと考えられますから、「倭国」としてはそれまで「臣事」してきていた「南朝」との「発音」の違いを確認し、それまで自分たちが慣れ親しんだ「皇帝の国の発音」とは違う、としてこれに対し反発心を持ったものではないでしょうか。このことが彼らをして「天子の対等性」「天子の多元性」主張という「過激」な政策を選ばせる動機の一部を形成したと思われます。(ただし「遣隋使」などを派遣しているのは臣事はしないものの制度等を導入するために「利用」したとも考えられます)  このように、「南朝」に臣事することとなり、また「北朝」を拒否することとなった理由のひとつとして「発音」があったと考えられるわけですが、その「南朝」の「発音」は後に「玄宗皇帝」の時代になると「呉音」と「蔑視」された発音となったわけであり、それは現在私たちが「呉音」と呼称している「日本呉音」に「非常に近い」とされているわけですから、「日本呉音」は「魏晋音」に近いと考えるべきこととなるでしょう。
 
Ⅵ.「漢音」と「北朝」 
 そもそも「魏」「晋」(西晋)が「漢民族」の国家であるのは論を待たないと思いますが、「隋」「唐」が「北魏」から続く「鮮卑族」など北方系民族による国家であることもまた確かであると思われます。つまり、これらの国家は「民族」が異なるわけです。 「北魏」以降の「北朝」は「漢民族」との「融和」を掲げながらも、その言語を捨てなかったと考えられます。特に「西魏」「北周」王朝では上に見たように「復古政策」が行われ、「漢語」を捨てて「鮮卑語」に戻っていたことが明らかであり、それはその時代に人生の過半を過ごした「隋」の「文帝」などに影響を与えています。(「隋」の「文帝」(高祖)の言葉として「書き言葉」としての「漢語」がよく分からない、という意味のことを云っているのが『隋書』に出てきます。) (以下該当部分) 「建緒與高祖有舊,及為丞相,加位開府,拜息州刺史,將之官,時高祖陰有禪代之計,因謂建緒曰 且躊躇,當共取富貴。建緒自以周之大夫,因義形於色曰 明公此旨,非僕所聞。高祖不悅。建緒遂行。開皇初來朝,上謂之曰 卿亦悔不 建緒稽首曰 臣位非徐廣,情類楊彪。上笑曰 朕雖「不解書語」,亦知卿此言不遜也。?始、洪二州刺史,?有能名。」(『隋書/列伝第三十一/栄? 兄建緒』より)   ここに書かれた「不解書語」という文章の意味は「文章」としての「漢語」に対する「理解力」がないということを表わしていると思われ、たとえば『隋書経籍志』の序にも「…属以高租少文…」とあり、これは『隋書経籍志』の訳注を試みた「興膳宏」「川合康三」両氏によれば「無教養」の意とされています(註4)
 また「北魂」の「崔鴻」という人物は『十六国春秋』の撰述をするにあたり必要な書籍が「南朝」に所在するものであったためなかなか入手することができなかったとされます。 「鴻乃撰為十六國春秋,勒成百卷,因其舊記,時有增損褒貶焉。鴻二世仕江左,故不?僭晉、劉、蕭之書。」(『魏書/列傳卷六十七/崔光 子勵 弟敬友 敬友子鴻』より)
 他にも「南朝」との間に行われていた相互遣使の役柄の人物が大量に書籍を入手してそれを「私蔵」していたという記録もあり、「北朝」の側からは「南朝」の「漢語」で書かれた書籍と接する機会が潤沢にはなかったという可能性がありそうです。 このような経緯を考えると「漢語」を自由に(「漢民族」と同様のレベルで)操れたというわけでもなさそうであり、当然それは発音にも現われたであろうと思われるわけです。つまり「隋」「唐」の漢字発音にも彼らの民族特有の言語の要素や影響が強く出ていると考えられ、この彼らの漢字発音を称して「漢音」と称するわけですが、当然これは「漢民族」であった「魏」「晋」とは異なっていると考えざるをえません。
 「魏」「晋」における「漢字」の発音を「漢音」(この場合「日本漢音」とも等しい)と同じであるというような考え方が成立するには(註5)、このように民族と時代が異なっているにも関わらず、発音は同一ないしは同系統である事を補強する別の「証拠」ないし「資料」が必須なのではないでしょうか。

(註)
1.「(天寶元年)二月…丙申…莊子號為南華真人,文子號為通玄真人,列子號為沖?真人,庚桑子號為洞?真人。其四子所著書改為真經。崇玄學置博士、助教各一員,學生一百人。桃林縣改為靈寶縣。改侍中為左相,中書令為右相,左右丞相依舊為僕射,又?門侍郎為門下侍郎。東都為東京,北都為北京,天下諸州改為郡,刺史改為太守。…」(『舊唐書/本紀第九/玄宗 李隆基 下』より)
2.「非鼻音化」とは、「前期中古音」において鼻音(m、n、N)であった「声母」が、「有声破裂音」化してゆく現象を言い、代表的な例を挙げると「m」が「mb」へ、「n」が「nd」へ、「N」が「Ng」となるような現象などが挙げられます。これにより「木」を「呉音」では「モク」というところが、「漢音」では「ボク」になり、「内」が「呉音」では「ナイ」であるのが、「漢音」では「ダイ」となるなどが挙げられます。
3.正木裕「孫権と俾弥呼 ―俾弥呼の「魏」への遣使と「呉」の孫権の脅威―」(『古田史学会報』一二九号二〇一五年八月)などにも同様の事が論じられています。
4.興膳宏・川合康三「隋書經籍志序譯註」(七)(『中國文學報』一九八〇年)によります。
5.内倉竹久氏の論(『漢音と呉音』「古田史学会報」一〇〇号二〇一〇年十月)など。

参考
『富山大学人文学部中国言語文化演習テキスト一九九八』 全昌煥『日本呉音と呉方言の音韻的対応関係 -主に蟹摂字の音価を中心として-』(「現代社会文化研究」二十三号二〇〇二年三月)によります。そこでは「中国」における「呉音」から「漢音」への音韻変化と「日本」における「漢音」と「呉音」の関係に直結しているとされ、それは中国における音韻変化を忠実に「伝写」しているとされます。また「呉音」は南北朝期の音韻実態を表していると考えられるとされます。
吉川忠夫「島夷と索虜のあいだ ―典籍の流傳を中心とした南北朝文化交流史―」(『東方學報』京都第七二冊二〇〇〇年)
川勝義雄『魏晋南北朝』(講談社学術文庫二〇〇四年)

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