古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

薄葬令について(続き3)

2015年02月28日 | 古代史
 既に述べたように「六世紀末」という段階(隋の「開皇年間」の始め)で「遣隋使」を派遣し「隋」との正式な国交を始めた「倭国」では「隋」の諸制度が導入されたと考えられる訳ですが、その中に「度量衡」もあったと見ることができるでしょう。その結果(少なくとも「倭国中央」では)「長里」系に変更されたという可能性が考えられます。
 例えば「戸籍」については「正倉院文書」中の「大宝二年戸籍」の解析から、「北部九州諸国」は「隋代」まで北朝で使用されていた「戸籍」(両魏式)と「様式」が酷似していることが確認されていますが、この「戸籍」が「隋」では「班田制」の前提であったことを考えると、「倭国」でも「班田制」やそれに必要な「地割制」などについても「隋」から学んだという可能性が考えられます。(全国的展開が行われたかどうかは別として)そうすると、「地割」に必要な「長さ」や「距離」の単位も含めて導入されたと考えるべきこととなります。逆に「遣隋使」派遣により各種の知識を吸収したとすると、この時点で「隋」で使用されていた「基準尺」が導入されなかったとすると不審でさえあります。
 それまで「倭国」で使用していた「殷代」に起源を持つ「単位系」では、「尺」は「18cm」程度であったと思われるわけですが、それに対し「歩」(周歩)は「77m」の三百分の一、つまり「25.7cm」程度であったと思われます。このように「尺」と「歩」は似たような長さであったものであり、それは「倭国」では「秦」の「始皇帝」が六尺を一歩とするという改定を行う以前の状態が遺存していたということを意味します。このように倭国では古制がそのまま遺存し続けたと思われるわけですが、この「六世紀末」という時点になって「隋」と通交することにより初めて「六尺一歩制」が導入されたものと見られます。すると当然「歩」の長さは拡大することとなります。それまでの「歩」から「新歩」へと変更・拡大しなければならなくなったものと思われますが、それをそのまま実行すると混乱するのは必然です。これを解消するため「新歩」については「歩」の呼称を止め「折衷案」として「新歩」の長さを「尋」という呼称に置き換えて代用するという策を実行したものではなかったでしょうか。
 「尋」は海などで深さを表すもの程度にしか使用されず、その長さが多少変更になっても「陸上」の生活に限ればほとんど支障がなかったものと思われ、そのため選ばれたものと推量します。

 つまり「尋」は「隋制」が導入された時点で「新歩」から読み替えられることとなったものと思われ、それまで「尋」は「八尺」ないし「六尺」とされていたものが、この時点以降「尋」は「六新歩」へと変更されたものと思われるわけです。ただし、一尺は29.6cmへと(これは隋制通り)変更となったと思われ「六尺一歩」という制度の下「新歩」の読み替えとしての「新尋」の単位長としては「10m」程度まで拡大したものと思料されます。(10.65m)つまり「薄葬令」に現れる「尋」は「新尋」であり、「九尋」とは「約90m」程の長さを意味することとなったものと見られるわけです。
 これらの数字は、確かに現存する「終末期古墳」の大きさを超えないものであり、「上限値」として機能していることが推定されます。つまり、「薄葬令」は確かに「六世紀後半」に出されたものであり、その時点において、「単位長」及び「建築系」と「測地系」の換算を「変更」を併せて行なったものと思料されます。
 これを証するのが「役」つまり労働力として示されている「千人」で「七日間」という数量です。

 「尋」を「新尋」として「方九尋高さ五尋」という規定をそのまま計算すると高さが非常に高くなり、(底面80m四方で高さ45mということとなります)これを土を積み上げて45mにすることはかなり困難であって、実際にはその4分の1程度の高さであったと思われます。実際に代表的な終末期古墳である龍角寺岩屋古墳で見てみると高さ13mという程度であり、他にはこれを上回るものが確認できません。
 これを例にして考えると、例えばこれを「四角錐」と見立てて単純計算で容量を算出してみると、26000立米ほどであり、これを土砂と見て七日間千人で運ぶとした場合一日一人あたり約5トンという重量となります。これは負担としてはかなり重いものですが、何とか対応可能な量ではないでしょうか。
 これが元の「尋」で示される程度の場合ちょうど岡山の宮山古墳程度のサイズ(一辺15m高さ1―2m)が措定され、この場合容量は上の土砂の量の200分の1程度まで減少すると思われ、一人一日あたり土砂の重さとして25kg程度となりますが、これを一日かけて運ぶというのは労働としてはかなり軽微なものとなるでしょう。この程度のものがそもそもの基準として示されたとすると延べ人数で七千人という人工の指定がかなり意味のないものとなる可能性が高いと思われます。
 もちろん労働は単に運ぶだけではなく土を掘り、運搬して積み上げるということを行うものですから、かなりな負担であることは間違いありませんが、それでも一日25kgというのは軽微に過ぎると思われます。

 このような「令」は中国にその前例がありません。「薄葬令」そのものは「中国」に古くからあるものであり、また「隋」代においても同様に有効であったと思われるわけですが、ここに見られるような階級によって細かく大きさや人夫の数などを定めるというのは史料の中には確認できません。また後代の「養老令」の中に書かれた「葬喪令」では基準の区分けが異なっています。このことはこの「薄葬令」が後代の潤色ではないと共に、それが倭国のオリジナルであったことを示しています。
 「隋」から新制度を導入していた「倭国」王朝がなぜこのような倭国独自の制度を決めたのでしょう。それは「前方後円墳」とそれを築いていた勢力に対する「牽制」であったものと思われます。
 既に述べたようにこの「薄葬令」はこれを遵守する限り必然的に「前方後円墳」が作れなくなりまたそこにおいて祭祀が行うことができなくなる点で「前方後円墳」を「狙い撃ち」にしたものと考えられますが、それはまた同時にその「前方後円墳」を築造していた勢力(特に近畿に中心を置いていたもの)に対する牽制の意義があったものと推量できるでしょう。
 彼らに対してはこの「令」を厳格に守らせることとしたものと思われ、終末期古墳のバリエーションである「横口式石槨」古墳についてはその「内寸」などを見てみると、ほぼ全てにおいてこの基準以下の数字であることが確認できると共にこの「横口式石槨」古墳そのものが近畿に集中的に見られるということの中にも、「倭国中央」が「近畿」の勢力に対する圧力を加える政策をとっていたことが窺え、これらも強制的に守らされたものであるといえるでしょう。
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薄葬令について(続き2)

2015年02月27日 | 古代史
 「薄葬令」についての考察から、この「詔」が「六世紀後半」及び「七世紀初め」の二回に渡って出されたものと推定したわけですが、その時代に造られた、いわゆる「古墳時代終末期」の古墳である、「方墳」と「円墳」について見てみると、この「薄葬令」の中で規定している寸法と一見著しく相違しているように見えます。
 いわゆる「古墳時代終末期」(六世紀末から七世紀初頭)には「前方後円墳」以外の各種の古墳が確認されますが、その中でも特に多く見られる「方墳」と「円墳」のうち、代表的なもの(サイズの大きいもの)について調べてみると、以下のようになっています。

(ア)「方墳」
 「方墳」では「龍角寺岩屋古墳(千葉県)」:「78m四方」、「宇摩向山古墳(愛媛県)」:「70m×46m」、「駄ノ塚古墳(千葉県)」:「62m四方」、「山田高塚古墳(大阪府)」:63m×56m」)、「石舞台古墳(奈良県)」:「50m四方」などがあります。

(イ)「円墳」
 「円墳」では、「山室姫塚古墳(千葉県)」:(以下いずれも直径)「66m」、「ムネサカ一号墳(奈良県)」:「45m」、「峯塚古墳(奈良県)」:「35m」、「牧野古墳(奈良県)」:「50m」などが代表的なところのようです。
 これらはいずれも「薄葬令」に言う、最大長でも「其外域方九尋」という規定には則っていないように見えます。

「薄葬令」の「大きさ」(外寸)に関する部分の抜粋
「甲申。詔曰。朕聞。…夫王以上之墓者。其内長九尺。濶五尺。其外域方九尋。高五尋役一千人。七日使訖。其葬時帷帳等用白布。有轜車。…」

 ここで「大きさ」の単位として使用している「尋」は、「両手を広げた」長さと言われ、主に「海」などの深さ(垂直方向)の単位として知られています。しかしここでは「墓」の外寸として使用されており、明らかに「水平方向」の長さを表すものとして使用されています。
 その長さとしては「1.8m程度」という説もあり、この長さはおよそ身長に等しいとも言われますが、古代の人がそれほど高身長だったとは思えず、実際にはもっと短かったものと思われます。ただし「説文」では「一尋」は「八尺」であるとされています。
 「鎮懐石」の寸法についての記事の中で考察したように「殷代」以降列島では「尺」の単位長として「18cm」ほどが長期間に亘り使用されてきたと推定されるわけですが、「説文」が説くように「一尋」を「八尺」とした場合これは「1.44m」ほどとなります。
 これから計算すると、「薄葬令」に規定する「諸王以上」の墳墓の「外域」の大きさとして書かれた「九尋」は「13m」ほどにしかなりませんから、上に見る「終末期古墳」の大きさとは、まったく整合していないこととなります。
 もし、これらの「方墳」や「円墳」がこの時点で「薄葬令」が出され、それに基づき造られたものとすると、その規定に合致しない理由を別に考える必要があるでしょう。
 たとえば、これを「薄葬令」を「無視」した、あるいは「令」の値は「単なる基準値」であり、堅く守る必要がなかったと考えることもできるかも知れませんが、この時代の「倭国王」の「権威」の強さを考えると、そのような「無視」ないし「軽視」が通用するものか、かなり疑問です。
 この時の倭国王「阿毎多利思北孤」あるいはそれを嗣いだ「利歌彌多仏利」は、それまで「倭国」で決して見られなかった「全国一斉」に何事かを為すということを可能とした最初の人物であり、それまでの「倭国王」とは「権力」の強さに大きな差があると考えられます。そのような中で出された「詔」がしっかり守られないということは考えにくいものです。そうすると、この「違い」には別の理由があると考えなければいけないでしょう。

 たとえば、「薄葬令」中に示されている基準値(13m程度)に対する実際の大きさとの「比」を算出してみると、上の「方墳」や「円墳」のうち最大のものは約「6倍」程度の値となります。
 つまり「方墳」や「円墳」は以前の「前方後円墳」のように「巨大」なものは存在しないのです。これは「経済力」や「権力」の大きさの違いなどではなく、「墓制」に対する規制の結果ではないかと考えられ、このように「基準値」に対してある一定以上大きくはないということは、「上限」が「ルール」として存在していることを示唆します。それは「前方後円墳」の築造が停止されたと同様に「王権」からの指示によると見られるわけです。
 つまりこの時出された指示内容は「前方後円墳」について築造停止すると共に「方墳」などについてその上限を設定したものと思えるわけです。そう考えると、その内容はまさに「薄葬令」で指示している内容と重なるものといえるでしょう。そこでは「形状」について「方」で示すことにより「前方後円墳」について規制し、さらに「九尋」という寸法を指定することにより大きさについても規制しているわけです。
 このことはやはり「薄葬令」がその「規制」の基準として機能していることを強く示唆するものですが、現実として作られた墳墓の大きさは示された基準値と違うと思われるわけであり、それが何に拠るかを説明する必要があります。最も考えられるのは「単位系」の変化によるものではないかということです。
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薄葬令について(続き)

2015年02月25日 | 古代史
 すでにみたように「前方後円墳」の築造が広い範囲で一斉に停止されるということについては、明らかにこの段階で列島に「強い権力者」が登場したことを意味すると思われ、「為政者」の意志を末端まで短期間に伝達・徹底させる組織が整備されたことを意味すると考えられるわけですが、またこの時点でその「意志」を明示する何らかの「詔」なり「令」が出されたことを推察させるものであり、それが「薄葬令」ではなかったかということを論じています。
 また、その終焉が「二回」別の時期として確認されるということは、そのような「詔」の類が「二回」出されたことを意味するとも思われます。
 いずれにしても「前方後円墳」はあたかも「狙い撃ち」されたように消滅するわけです。それは「前方後円墳」で行われていた「祭祀」にその原因があったとみられます。
 この「前方後円墳」で行なわれていた「祭祀」については初期の「竪穴式石室」を伴う古墳の場合、「円頂部」で行なわれていたものであり、その後「横穴式(横口式)石室」に変化して以降は「くびれ部」(方形部と円形部の接続部分)に作られた「造り出し部」で行われるように変更されていたとされますが、その内容としては「前王」が亡くなった後行なわれる「殯」の中で「新王」との「交代儀式」を「霊的存在の受け渡し」という、「古式」に則って行なっていたものと考えられ、「仏教」的観念からは遠く離れたものであったことが推測できます。そのためこのような祭祀が行われていることが、「倭国王」として仏教を布教・拡大するのに「障害」となると考えられたことと、「王」の交代というものが「神意」によるということになると、相対的に「倭国王」の権威が低下することを恐れたということが考えられます。
 この時「倭国王」は中央集権的な「統一王権」を造ろうとしていたものと推定され、(それは「隋」に啓発されたものと思われますが)「王」の権威を「諸国」の隅々まで行き渡らせようとしていたと推察されるからです。そのことは「冠位」の制定と関係していると考えることができます。
 『書紀』によれば「冠位」の制定は「六〇四年」とされています。しかし『隋書俀国伝』には「六〇〇年」に訪れた「遣隋使」からの情報として「隋代」開始時点付近の「冠位制定」が記されています。
(以下『隋書俀国伝』の一節)

「開皇二十年(六〇〇年)…上令所司訪其風俗。使者言…頭亦無冠 但垂髮於兩耳上。 至隋其王始制冠 以錦綵為之以金銀鏤花為飾。…」

 これによれば、「六〇〇年」に派遣された「遣隋使」が述べた「風俗」の中に「冠位制」について記されていますが、これは既に述べたようにこの「開皇二十年記事」が本来「隋初」のものであった可能性が考えられます。そこでは「至隋其王始制冠」とされており、文脈上「其王」とは「阿毎多利思北孤」を指すものと考えられますから、彼により「隋」が成立して以降の「六世紀後半」に「冠位制」が施行されたことを意味していると考えられるわけです。
 そこには「内官」と書かれ「王権内部」における人事階級制について書かれていると思われるわけですが、この「階級制」は「内官」だけではなく「諸国」の王達も「倭国王」支配下の「官人」として階級が定められるように「敷衍」されることとなったと推量され、「倭国王」を頂点とする権力のピラミッド構造を「国内」に構築する意図があったものと考えられます。
 そうであれば「王」の交代というものに「倭国王」が介在しない形の「祭祀」が存在するのは問題であったかも知れず、これを避けようとするのは当然かも知れません。そのため、「古墳造営」に対して「制限」(特にその「形状」)を加えることで、そのような「古式」的呪術を取り除こうとしたものと推測され、そのため「前方後円墳」が「狙い撃ち」されたように「終焉」を迎えるのだと考えられます。
 そのことは「埴輪」の終焉が同時であることからも言えそうです。「埴輪」の意義については各種の議論がありますが、「前方後円墳」で行われていた「祭祀」に伴う重要な要素であるという事と、「墓域」を「聖域」化するためのパーツであるというものがあります。これらについても「前方後円墳」の築造停止と共に消滅するものであり、これは「祭祀」が停止されたことに付随する現象であると考えられるものです。

 ところで、『隋書俀国伝』では「殯の期間」として「貴人は三年」と表現されているのに対して、この「孝徳紀」の「薄葬令」を見ると「凡王以下及至庶民不得營殯。」とされており、ここでは「王」以下については「殯」そのものが否定されています。さらに『隋書俀国伝』では「八十戸制」であると考えられるのに対して、「薄葬令」では「五十人」の整数倍の人数が「役」(えだち)として決められており、ここでは「五十戸制」の可能性が強いと思われます。
 この「五十戸制」が「隋代」以降の制度であると考えられることからも、「薄葬令」は「遣隋使」により持ち帰られた「隋」の制度を反映していると思われます。
 既に見たように「遣隋使」の派遣時期についての考察から、「六世紀末」の「隋初」段階で「遣隋使」が派遣され、「隋」から大量の文物が流入していたらしい事が推察されることとなりましたが、そのことから「墓制」(葬送儀礼)についても「隋」に倣ったという可能性が考えられるところです。
 「薄葬」は「唐代」に入って「厚葬」に漸次替わっていきますが、「南北朝」時代は「魏晋」以降の「薄葬」が継続していたと見られ、「隋」においても同様であったものと見られます。
 「隋代」の高官の遺詔にも「薄葬」を述べたものが確認され、まだこの時代は「薄葬」が標準的であったものと思われますし、「隋」の「高祖」(文帝)もその遺詔の中で「…但國家事大,不可限以常禮。既葬公除,行之自昔,今宜遵用,不勞改定。凶禮所須,纔令周事。務從節儉,不得勞人。…」としており、基本的には「葬儀」を簡便にし、大規模な墳墓の造成や副葬品の埋納を禁止しているようです。実際に彼の墳墓なども発掘されていますが、(泰陵)副葬品は同時代の諸国の王とさほど変わらないとされます。
 また「中国」では「王」クラスの墳墓は「方墳」が一般的であり、それが「薄葬令」に影響していると考えられます。
 これらのことから「阿毎多利思北孤」の治世期間と思われる「隋初」という時期に「隋」との交流の中から学んだものとして「薄葬令」が出され、それに基づき「前方後円墳」の築造が停止されたものと見て不思議はないこととなります。

 それに対しこれを『書紀』の記述の時期として「七世紀半ば」と想定すると明らかな「矛盾」があると考えられます。それは、この「薄葬令」の後半に書かれている「人や馬」などについての「殉死」禁止の規定です。

「…凡人死亡之時。若經自殉。或絞人殉。及強殉亡人之馬。或爲亡人藏寶於墓或爲亡人斷髮刺股而誄。如此舊俗一皆悉斷。…」

 ここでは「殉葬」(あるいは「殉死」)等の「旧俗」の禁止が明確に書かれているわけですが、そもそも「殉葬」は「卑弥呼」の頃から「倭国」では行なわれていたと考えられるものの、出土した遺跡からは「七世紀」に入ってからそのような事が行なわれていた形跡は確認できていません。明らかに「馬」を「追葬」したと考えられる例や、「陪葬」と思われる例は「六世紀後半」辺りまでは各地で確認できるものの、それ以降は見あたらないとされます。
 このことから考えて、このような内容の「詔」が出されたり、またそれにより「禁止」されるべき状況(現実)が「七世紀」に入ってからは存在していたとは考えられないのは確かです。存在しないものを「禁止」する必要はないわけですから、この「禁止規定」が有効であるためには、「殉葬」がまだ行われていると云う現実が必要であるわけであり、その意味からも「七世紀半ば」という年代は、「詔」の内容とは整合しないものです。

 以上のことから「六世紀末」と「七世紀初め」の二段階にわたり、「薄葬令」が出されたと考えると「事実」をよく説明できるものと思われ、『書紀』に「年次移動」という資料操作が行われているという可能性が高いと思われます。

 また、古田史学会報七十四号(二〇〇六年六月六日)で「竹村順広」氏が「放棄石造物と九州王朝」という題で触れられた「益田岩船」(奈良県橿原市白橿町)や「石宝殿」(兵庫県高砂市竜山)などの「巨大建造物」は、明らかに「工事途中」の「古墳」の一部であり(外形はどのようなものになる予定であったかは不明ですが)、これは「六世紀終末」という時点で「薄葬令」が出されたことにより、その工事が途中で「放棄」されたものであると見る事ができるでしょう。
 この「古墳」が(竹村氏も引用するように)『播磨国風土記』の中で「聖徳王御世、弓削大連所造之石也。」とされているように「聖徳王」つまり「阿毎多利思北孤」(ないしはその太子「利歌彌多仏利」)の時代のこととされ、また「物部守屋」と関連して語られていることなどからも、この「石造物」が「六世紀末」のものであることを強く示唆しています。
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薄葬令について

2015年02月24日 | 古代史
 「評制」の施行についての記事で、次回は「薄葬令」について書くとしておきながら、すっかり忘却していましたが、改めてここにまとめました。

 「前方後円墳」の築造停止については「西日本」では「六世紀」の終わり頃、「東国」はやや遅れて「七世紀」の始めという時期が推定されています。特に西日本(特に北部・中部九州地域)では「六世紀」を通じて徐々に減少していたものではありますが、この時期になり、「前方後円墳」に限って全く作られなくなるわけです。
 この列島の「東西」での「時間差」の原因は、この「築造停止」の「発信源」が「近畿」ではなく「筑紫」であったことと、「東国」の「行政組織」が「未熟」であったことがあると思われます。
 この時の「権力中心」が「近畿」にあるのなら、列島の「東西」に指示が伝搬するのに「時間差」が生じる理由がやや不明となると思われます。このときの「王権」が「近畿」にその所在をおいていたなら「西日本」側だけを先行する形で詔を出したこととなりますが、そのようなことをする意味が説明できません。しかし、「発信源」が「筑紫」にあったと考えると「時間差」はある意味必然です。当然「権力」の及ぶ範囲が「西日本」側に偏ることとなるものと思われ、「倭国」の本国及び近隣の「諸国」と「遠距離」にある「諸国」との「権力ベクトル」(向きと力)の「差」がここに現れるものとなったものと考えられます。
 つまり当初「西日本」が先行するのはその時点(五九二年前後)では東国には「行政組織」が未熟で、倭国王の指示が貫徹されなかったものと思われると同時に、東国の各地域の王達との間に強力な「統治-被統治関係」がまだ構築されていなかったという可能性があるでしょう。

 その後積極的な「隋」の文化の導入が図られたものとみられ、「文帝」が改定した「州県制」を模して「国県制」が始められたものであり、その時点で「東国」に「総領」を派遣して「代理」統治させたことによって、「行政制度改革」が実施され、きめ細かな統治が可能となったものと推量されます。つまり「倭国中央」からの指示・指令である「前方後円墳」の築造停止と「寺院建築指令」がやっと東国にも強力に伝わったものと推測されます。これが「七世紀の初め」という時期に「築造停止」に至る主たる要因であったと思料されます。
 この時発せられた「前方後円墳」の築造停止令が実際にはいわゆる「薄葬令」であったと考えられるのです。

 「薄葬令」は『書紀』では「七世紀半ば」の「孝徳紀」に現れるものですが、従来から「薄葬令」に適合する「墳墓」がこの時代には見あたらないことが指摘されていました。そのため、より遅い時期である「持統紀」付近に出されたものではないかという見方もあったものです。(故・中村幸夫氏など)
 しかし、考古学的な見地からは「六世紀末」という時期に「西日本」を中心として「前方後円墳」の築造が停止されるという事象が存在しているわけであり、その年次と「薄葬令」とは「六十年」ほどの時間差があることとなりますが、それが何によるものかは理由として「説明」できていませんでした。実際にはそれは『書紀』編纂者による「潤色」という資料操作によるものであると考えられるわけです。

 この「薄葬令」の中身を見てみると、「前方後円墳」の築造停止に直接つながるものであることが分かります。

「甲申。詔曰。朕聞。西土之君戒其民曰。古之葬者。因高爲墓。不封不樹。棺槨足以朽骨。衣衿足以朽完而已。故吾營此丘墟不食之地。欲使易代之後不知其所。無藏金銀銅。一以以瓦器合古塗車蒭靈之義。棺漆際會奠三過。飯含無以珠玉。無施珠襦玉柙。諸愚俗所爲也。又曰。夫葬者藏也。欲人之不得見也。迺者我民貧絶。專由營墓。爰陳其制尊卑使別。夫王以上之墓者。其内長九尺。濶五尺。其外域方九尋。高五尋役一千人。七日使訖。其葬時帷帳等用白布。有轜車。上臣之墓者。其内長濶及高皆准於上。其外域方七等尋。高三尋。役五百人。五日使訖。其葬時帷帳等用白布。擔而行之。盖此以肩擔與而送之乎。下臣之墓者。其内長濶及高皆准於上。其外域方五尋。高二尋半。役二百五十人。三日使訖。其葬時帷帳等用白布。亦准於上。大仁。小仁之墓者。其内長九尺。高濶各四尺。不封使平。役一百人。一日使訖。大禮以下小智以上之墓者。皆准大仁。役五十人。一日使訖。凡王以下小智以上之墓者。宜用小石。其帷帳等宜用白布。庶民亡時收埋於地。其帷帳等可用麁布。一日莫停。凡王以下及至庶民不得營殯。凡自畿内及諸國等。宜定一所。而使收埋不得汚穢散埋處處。凡人死亡之時。若經自殉。或絞人殉。及強殉亡人之馬。或爲亡人藏寶於墓或爲亡人斷髮刺股而誄。如此舊俗一皆悉斷。或本云。無藏金銀錦綾五綵。…」

 この「薄葬令」は中国に前例があり、最初に出したのは「魏」の「曹操」(武帝)ですが、それは子息である「曹丕」(文帝)に受け継がれ、彼の「遺詔」として出されたものが「三国志」に見られます。この「薄葬令」の前段にもそれが多く引用されているのが確認できます。倭国でもこれを踏まえたものと見られます。但し、それがこの時期に至って参照され、前例とされているのには理由があると思われ、「仏教」の拡大政策が始められることと関係していると思われます。

 この「孝徳」の「詔」では、たとえば「王以上」の場合を見てみると、「内」つまり「墓室」に関する規定として「長さ」が「九尺」、「濶」(広さ)「五尺」といいますからやや縦長の墓室が想定されているようですが、「外域」は「方」で表されており、これは「方形」などを想定したものであることが推定される表現です。「大系」の「注」でも「方形」であると書かれています。もっとも、この「方~」という表現は「方形」に限るわけではなく、「縦」「横」が等しい形を表すものですから、例えば「円墳」等や「八角墳」なども当然含むものです。
 「易経」によれば一から十までの数字を「奇数」と「偶数」に分け、「奇数」が「陽」であり「天」であるとされました。「九」は「天数」の中の最大であり「極値」です。このため「最大値」を表す意味で「長径」を「九」という数字で表していると思われます。
 ちなみに「方」で外寸を表すのは以下のように『魏志倭人伝』にも現れていたものです。

「…又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。『方可三百里』、多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。…」

 このような表現法はこの「島」の例のようにやや不定形のものについても適用されるものです。ただし、「墳墓」が不定形と言うこともないわけですが、かなりバリエーションを含む表現であることは確かでしょう。
 ただし、主たる「墳形」として「円墳」を想定しているというわけではない事は、「倭人伝」の卑弥呼の墓の形容にあるように「径~」という表現がされていないことからも明らかです。大きさに「径」を用いる表現は「円墳」に特有のものと考えられますから、このような表現がされていないこの「詔」の場合は「円墳」を想定したものではないと思われます。ただし、いずれにせよ、明らかに「前方後円墳」についての規定ではないことも分かります。
 この「薄葬令」に従えば「墳墓」として「前方後円墳」を造成することは「自動的に」できなくなるわけですが、「前方後円墳」の築造が最終的に停止されるのが考古学的に見て「七世紀前半」と考えられるわけですから、この「墳墓」の形と大きさを規定した「薄葬令」が出されたことがその直接の「理由」ないし「原因」と考えるのが自然です。つまり、実質的にこれが「前方後円墳禁止令」であったものと思われるわけです。
 このような「令」を出すこととなった背景としては、一般には「盗掘」を恐れたこと、墳墓の造成に伴う多大な出費と人民の労力の負担を哀れんだ為であるとされているようですが、その実は「仏教」推進のためであり、それまでの「王族」クラスの「墳墓」であった「前方後円墳」に付随する伝統的な「祭祀」を禁止するためという目的があったと考えられます。



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倭国への仏教伝来について(十四)→訂正(十五)

2015年02月21日 | 古代史

 前項では現行『二中歴』の原資料とでもいうべき先行史料があったとみられることを考察したわけです。これも「丸山晋司氏」にも通じるものですが(※1)、彼の場合はその徴証となる史料が見いだせないとして故・中村氏から反論が寄せられていました。(※2)
 しかし、この場合「徴証」といえるものは同じ『二中歴』の中の「都督歴」ではないかと思われるのです。

 「都督歴」の冒頭には以下のように書かれています。

(「都督歴」該当部分)
「今案、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、任筑紫本宮、自爾以降、至于大貳國風以前藤原元名、總百四人也、具不(所)記之」

 ここでは「孝徳天皇大化」以来「大貳國風」に至る以前に、全部で「百四人」が「都督」として任命されたとされていますが、それらについては詳細を記さないとした後、その「藤原國風」から「都督歴」が始められています。この「藤原國風」が「都督」に任命されたのは「公卿補任」によれば「天徳三年(九五九年)正月」とされますが、なぜその時点の彼から「都督暦」は始められているのでしょうか。また、「藤原元名」以前の「百四人」はなぜ省略されたのでしょうか。
 「三善為康」は『二中歴』を書く際に当然かなり古い資料を参照したと思われますが、この「都督歴」について言うと、この「藤原元名」付近で一旦まとめられた資料があり、そこまでの分を「省略」し、その以降の未整理の分について自ら書き継いだと言う事ではないでしょうか。

 この『二中歴』は「百科事典」のようなものと言われ「有識故実」について書かれているとされますが、今で言う『現代用語事典』的あるいは『広辞苑』的なものではなかったかと考えられ、それらと同様にその時点における最新の知識が随時追加されていたのではないかと思われます。
 「故・中村氏」はまた『…二中歴は八十二の「歴」により構成され、各歴毎に原記(書き継ぎではない)と推定される記事に年代の異同があり、八十二歴全体が一挙に編集されたものではなく、各歴により成立年代が異なっていたと推定され…』とされており、『二中歴』が一気に書かれたものではないことに言及されていますが、さらに言えば、時代と共に書き足されていったものと言う可能性が考えられるものであり、「三善為康」はその意味でいわば「アンカー」を務めたと言えるではないでしょうか。
 このようなことは「都督歴」だけではなく『二中歴』の各所に起きていたものと思われ、そうであれば「年代歴」にもそのような可能性が考えられるでしょう。つまり「都督歴」の「國風」以降と以前に「区切り」があるように「年代歴」には「九八七年時点」付近に同様に「区切り」があるのではないかと考えられるわけです。
 この「区切り」の場所が「都督歴」と「年代歴」では若干異なるものの(三十年程度か)、年代としては大きくは違わないものであり、いずれも『二中歴』の編集段階とされる時期(平安末期)をさらに遡上する「十世紀後半」であることも重要と思われます。これは「都督歴」の旧編集者と「年代歴」の「旧編集者」とが同一人物かあるいは「親子」である可能性を感じさせます。
 「都督歴」についての旧編集者は、「省略」された「都督」中の最終人物である「藤原元名」と同世代であったのではないかと思われ、その場合「藤原元名」が「康保元年」(九六四年)に「八十歳」で死去していることを考えると、編集者である彼も同様に「九六〇年代」にはせいぜい「七十代後半程度」と見られることとなるでしょう。また、「年代歴」の方の旧編集者はその一世代後の人物ではないかと思われ、「一条天皇」の即位付近で一旦資料としてまとめられたものと考えることができそうです。

 これについては「三善氏」として最初の算博士となった「三善茂明」が「三善氏」を名乗ったのが「貞元二年」(九七七年)とされていますから、彼がこの編集に関わった可能性は非常に高いと思料します。(他の資料からも「平安時代」に存在していた「同種」の記録に基づくものという考え方がされています。)
 「算博士」でありながら『二中歴』という「百科事典」様の書物を記したり、『拾遺往生伝』などという仏教史料を著した「三善為康」の一種「特異性」は彼自身の能力の発露と言うより「三善家」に伝わる「原・二中歴」があって始めて成し遂げられたものと言うこともできると思われますが、さらにいえば彼が依拠した史料は「九条家」に伝わるものであったかも知れません。なぜなら「三善氏」は代々「九条家」の「家司」(けいし)であったと思われるからです。
 「家司」とは主人筋の家に(ちょうど「執事」のような形)で出入りして家事全般の面倒を見る立場の人間であり、「九条家」の「家司」は「三善氏」であったと推定されています。
 「為康」の次代の「三善家」当主と思われる「為則(為教とも)について当時の「関白」「九条兼実」の日記に「臨時で任命した越後の介を解任する」という記事があり、そのことからも彼が「九条家」に深く関係する人物であったという可能性が考えられています。(※3) 
 それは当時起きた「法然」と「親鸞」及びその他当時の「浄土宗」の関係者に対する弾圧の際に「九条兼実」の差配によって行われたものと思われ、「親鸞」に対する「保護」が目的であったと見られています。
 「法然」や「親鸞」など「浄土宗」の関係者は「承元元年」(一二〇七年)二月「後鳥羽上皇」から「弾圧」を受け、首謀者とされた人物は死刑、その他関係者は各地へ配流となったものです。この時「親鸞」と共に配流となった「法然」は「九条兼実」自身が深く帰依していたものであり、彼が配流先を「土佐」から「讃岐」へ変更させたものです。「讃岐」には「九条家」の領地があったものであり、そこで「法然」は厚く遇されたとされます。そうならば「親鸞」についても「九条家」の保護の手が入ったと考えるのは不自然ではありません。
 「親鸞」は「越後」に配流となっていたものであり、その「親鸞」の保護兼監視役として「三善氏」が「越後の介」配置されていたということから、「三善氏」と「九条家」の間に深い関係があると見られるわけです。
 「為康」も「為則」と同様「越後の介」に任命されたことがあり、それについても「九条家」の計らいがあった可能性があり、そのような関係であれば「九条兼実」が蔵していた各種史料を彼が見る機会もあったものと思われ、「二中歴」の編集作業においてそれらを活用したという可能性は十分考えられると思われます。


(※1)丸山晋司『古代逸年号の謎 古写本「九州年号」の原像を求めて』
(※2)誌上論争「二中歴年代歴」市民の古代研究「二十二、二十四、二十五号」昭和六十二~六十三年
(※3)「九条兼実」の日記『玉葉(ぎょくよう)』の治承二年(一一七八年)正月二十七日条に「除目」の発表についての記事があり、そこには「越後介正六位上平朝臣定俊、《停従三位平朝臣盛子去年臨時給三善為則改任》」とあります。(《》間は小文字二行書き)

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