古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

法隆寺とTLV格子模様

2017年03月25日 | 古代史

肥沼氏のブログ(http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2017/03/post-4c67.html)のコメントに山田氏が、法隆寺の高欄格子模様は「TLV」つまり「方格規矩」であって「漢式鏡」などに採用された「漢文化」そのものであるから「隋・唐」という北方系民俗にとっては受け入れがたいものであって、法隆寺が漢文化つまり南朝文化の元の建築であるという指摘がされていました。
確かに氏の指摘の通り「隋・唐」は「鮮卑族」(拓跋氏)の王朝であったと思われますから、その意味では「漢民族」ではありません。では彼らは漢文化を拒否していたのでしょうか。

古田氏が指摘していたように「北朝」の始源とも云うべき「(北)魏」という国は、その国名からして「魏」の後継を自認していたものであり、「親漢的」でした。彼らと彼らの後継の「北朝」は「南朝」を「島夷」と(これは本来は「鳥夷ではなかったかと思われるが)侮蔑しながらも「南朝」の諸々の文化を積極的に取り入れ、「服飾制度」なども自らの制度として取り入れたり、ついには「鮮卑」的氏名を捨て「漢風」の名前に強制的に変えさせるなどやや過激ともいえる施策まで行っていました。これは北周の時代に一旦回帰しますが、隋代にまた漢化政策に復帰しています。
また「隋」は「魏晋朝」以来久しぶりに中国を統一し旧南朝地域もその統治範囲としたわけですが、「尺貫法」も南朝のものを並列・継続したように「南朝」の文化を全否定したわけではありませんでした。特に「仏教」は南朝皇帝の弟であった「天台智顗」に菩薩戒を受けるなど(これは「煬帝」)強く傾倒していたものです。その意味では「法隆寺」に南朝的なものがあったとして不思議ではないわけですが、「法隆寺」はその仏像形式、建築技法や瓦の文様及び焼成技法などの点で基本的には「北朝的」とされます。
たとえば「瓦」は「粘土」を整形して焼成して作るわけですが、その「整形」の技法には「紐巻付け技法」と「板付け技法」があるとされ、端的に言って「単弁紋瓦」に対して「板付け技法」、「複弁紋瓦」に対して「紐巻付け技法」が適用されており、それは別の言い方をすると「南朝」形式と「北朝」形式とに分類できるようです。
「北魏」の「洛陽城」遺跡から発見された「瓦」はその多くが「複弁蓮華文瓦」であり、また「紐巻付け技法」であるとされています。それに対し「単弁蓮華文瓦」は「四天王寺」や「若草伽藍」(法隆寺にある位置に以前存在した寺院)にみられるものであり、これは「百済」の影響が強いと云われますが(『書紀』にも建築のため「百済から」人を招いたという記述があります)、その「百済」における発掘からは「南朝」(特に「梁」)の影響を窺わせるものが多く出土しています。
その中では「法隆寺」の「瓦」は「複弁蓮華紋瓦」であり「紐巻付け技法」なのです。この「法隆寺」の「複弁蓮華紋瓦」はその特徴が独特であり、他に類がなく「法隆寺式」と独立形式として呼称されています。また「同笵瓦」(同じ鋳型から造られたもの)も確認されておらず、「同型瓦」しかなく、それは「西日本」(特に「近畿」(明日香)と「筑紫」「肥後」)に偏って分布しています。その他「勾欄」などの部分や「仏像」「天蓋」など北朝の影響という評価がされているようです。(浅野清氏の書による)

「列島」においては「単弁瓦」が先行し「複弁瓦」が遅れて登場することと「百済」からの仏教と寺院の建設が先行し、さらに「遣隋使」が送られることにより「北朝」からの仏教と寺院建築及びそれに付随する瓦技法が伝来するというのは歴史的な流れとして自然であり、これに沿って考える必要があります。
これらのことは山田氏が述べられたように「高欄格子模様」が「TLV」であり、それが「漢式」であるとしても、それをもって「法隆寺」が「南朝」の影響の元に作られたものであり「北朝」と断絶しているとは即断できなくなる性質のことと思われます。というより、この「TLV」模様が「南朝的」であったとするとある意味「隋代」という北朝として始めて南朝地域をその版図に収めた特殊な時代であることを背景として作られたということはいえるかもしれません。いわば「文化的折衷」というわけです。
その後「唐」時代になると「隋」(特に煬帝)に対し否定的でしたから、「南朝」に対する考え方も変わったということは言えそうです。(後に(南朝)の発音を「呉音」と侮蔑する言い方となるのも同様な思想かもしれません。また後の新日本王権は「唐」に追従していたようですから、それが関係して「TLV模様」が国内にみられなくなると云うこともあるかもしれません。)

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2017年03月10日 | 日常身辺雑事

Carpenters  に「I NEED TO BE IN LOVE」という曲があります。その歌詞を見ていると、胸が詰まる想いがします。

I NEED TO BE IN LOVE
BY  CARPENTERS

"I used to say  " No promises,let's keep it simple" / But freedom only help you say good-bye
It took a while for me to learn / that nothings come to free
The price I've paid is high enough for me"

"I know I need to be in love / I know I've wasted too much times
I know I ask perfection of a quite imperfect world / And fool enough to think that what I'll find"

"So here I am with pocketful of good intensions / But none of them will comfort me tonight
I'm wide awake at four A.M. without a friend in sight / Hanging  on a hope ,But I'm all right"
 
 この歌の中ではこの人物は自由を求め傷ついて今に至っているとされています。

"自由なんて「あなた」がサヨナラ言う以上の何の助けにもならなかったわ。それに気づくまでに払った「代償」は大きかったわね。
でも、よほどのバカだと自分ながら思うけど、「一から十まで不完全なこの世界」に「完璧さ」を見いだせる、それを体現するような人が現れる、ということを今でも信じているの。その望み一つにぶら下がって生きているのよ。
現実には夜中に目を覚まして周りを見回しても誰もいないのだけれど。
…でも「I'm all right」(大丈夫)よ。死にはしないわ。"

 彼は(彼女)は自由を求めて裏切られ、かえって深く傷ついているわけですが、この歌詞を見ていると「Billy Joel」の「Honesty」を思い浮かべてしまいます。

HONESTY
BY BILLY JOEL

"If you search for tenderness / It isn't hard to find
You can have the love you need to live"

"But If you look for truthfulness / You might just as well be blind
It always seem to be so hard to give"

""Honesty" is such a lonely word / Everyone is so untrue
"Honesty" is hardly ever heard  /  But mostly what I need from you"

"But I don't want some pretty face / To tell me pretty lies
All I want is someone to believe"

 この歌の中では「信じられる誰か」を探していた人物が、やっとそれらしき人を見つけたらしいことが判ります。

"優しいだけではダメ。可愛い顔してきつい嘘を並べるような人はお断り。私が求めているのは「信じられる誰か」。
誠実さ、正直さ、裏表のない人。そんな言葉、死語よね。そんな人っているわけないって思ってた。でも…あなただけ違うわよね。そんなことないよね。
他の誰にもこんな事思わないけど、でもあなただけ特別よ。だから、…御願いだから裏切らないで。"

 これは「I need to be in love」の歌詞の中の人物の、後日の姿ともいえるのではないでしょうか。一筋の希望が形になった瞬間かも知れません。いわば「Answer song」ともいえると思われるのです。

 

時々、この歌詞の人物のような気分に襲われます。
自分の求めているものが全く得られない、報われない、虚しい気分に苛まれてしまいます。
この向こう側にそれが本当にあるのだろうか。それを信じ切れない自分がいます。

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「行程記事」と「宣諭」との関係

2017年03月04日 | 古代史

久しぶりに投稿します。

またもや入院していました。(命に別状はありませんが)

その間あることをつらつら考えていました。それは『隋書』に「行程記事」がある理由です。一般には「行程記事」があるのは「隋」が「北朝系」であり、「倭国」との国交が「北朝」としては初めてであったためと思われていますが、そのことよりも「宣諭」記事の存在との関係ではなかったでしょうか。
『隋書俀国伝』には「大業三年」の「明年」のこととして「裴世清」等を「宣諭使団」として倭国に派遣した記事がありますが、その中に「行路記事」があるのは、『魏志倭人伝』に「行程記事」があるのと同様の理由であったらしいことが推定出来ます。

一見すると『隋書』にはこの「裴世清」派遣記事に先行する「開皇二十年記事」があるわけであり、それが「隋」として初めての「倭国」への使者派遣を表すものとすると、そこにこそ「行路記事」が書かれて不審はないわけですが、この記事は「帝紀」の中に存在しており、「帝紀」は「列伝」と違い国や人ごとに詳細が書かれる性質の場所ではありません。そうであればこの記事に対応する記事が「列伝」としての『俀国伝』になければならないはずですが、それは存在していません。そのため従来はそれも含めて「大業三年記事」に集約されていたとみていたわけですが、真実はこの「裴世清」派遣が「宣諭使」としてのものであったからではないでしょうか。

そもそも「宣諭」はその使用例から見ても戦闘地域やそれに準ずるような緊張状態の地域に派遣された使者に課せられた職務であるわけですから、それは「軍派遣」という政治行動を内在していることを意味していると思われ、そうであれば「行程」は現地の詳細情報として必須であったこととなります。
これに関しては三世紀「魏」の時代に「倭」の「邪馬壹国」から「狗奴国」との戦闘行為について訴えを聞いた「魏」王権が「帯方郡吏」である「張政」を派遣し「告喩」させたとされることと類似したものと見られることとなります。

「正始元年…其八年、太守王〓到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄『告喩』之。」(三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳巻三十より「倭人伝」)

この「告喩」という行為については、「狗奴国」の行動(戦闘行為)が「邪馬壹国」というより「魏」に対するものと見なすという内容を含んでいたとものと見られ(それを明示するために「魏軍」の旗を示す「黄幢」を「難升米」に「拜假」しています。)それに対して「狗奴国」が「魏」の大義名分を認め戦闘行為の停止に応ずることもありうるわけですが(実際そうなったものと思われますが)、逆にそれに従わず、戦闘行為が継続されるという可能性も考えられるわけであり、その場合「魏」としては「軍派遣」という究極的行動もその選択肢の中に入れざるを得なかったこととなります。なぜなら「魏」は「倭王」に対して「制詔」しており、それは「魏」が「倭王」たる「卑弥呼」に対して「魏」の支配(制度)の元のものと認知した事を示しますが(それは「卑弥呼」に対して「親魏倭王」という称号を付与したことにも現れています)、そうであれば「魏」は「倭」と「倭王」に対して「皇帝」と「臣民」という関係の中で「防衛」の責務を負っていたこととなり、結果的に「倭」に軍を派遣し、「狗奴国」に対して示威行為あるいは直接戦闘により「邪馬壹国」を防衛するという事態まで想定しなければならなかったこととなることを意味します。もし仮に「狗奴国」がこの「檄」に従わずしかも「魏」がそれを放置したとなると「魏」の「権威」は東アジアにおいて「地に墜ちる」ということとなります。多くの配下の諸国が「魏」に対して忠節を誓わないという事態も考えられることとなりかねません。そしてそのような事態が内在されていたとすると彼ら「告諭使団」は軍の派遣・進行に必要な情報を記録し報告するという責務を負っていたことになるでしょう。それが端的に現れているのが「行程記事」ではなかったでしょうか。そう考えれば「隋」が「裴世清」を「宣諭使」として派遣した際にも全く同様の事情が隠されていたはずであり、そのためこの「宣諭使」記事の中に「行程」記事が書かれたのではないかと思われるわけです。

また従来「倭国」は「隋」から「柵封」されず「皇帝-臣下」という関係が築かれなかったとみられているわけですが、それは「倭国」が「対等」を意識していわば「突っ張った」からであるように認識されています。「天子」自称についてもそのような意識の一環と考えられていたわけですが、それは実際とは異なるとみられるわけです。「天子」自称は外交下手のためであったと思われますが、それを除けばあくまでも「倭国」が「絶域」であるという事情からのものであり、「柵封」されなかったということについては双方合意であったとみるべきですが、「隋」にとって見るとそれが「絶域」であろうと「隋」皇帝の権威を傷つけるものにたいしては軍事的行動をいとわないという意思の表れとして「宣諭使」が派遣されていたはずであり、「行程記事」の存在も同じ理由によるものであったと見るべきこととなります。
「行程記事」を書くに当たっては、「俀国」の位置とそこに至るルートや途中に存在する諸国の名称などに違いがなければ『魏志』を引用して終わりとなるはずですが、実際には『魏志』に書かれた時代から四〇〇年近くの年数が経過しているわけであり、当然最新情報が求められていたとみるべきですから、「国名」や距離・方角などについて新たな知見を書いた「行路記事」が必要であったとみられることとなります。

ちなみに「宣諭」と「告諭」は非常に良く似た用語ですが、違いといえば「宣」が「広く知らせる」意を含んでいるのにたいして「告」は面前の相手にだけ知らせるというように範囲の広さに差があるようであり、『倭人伝』の「張政」の場合は「難升米」だけに「告諭」したものであるのに対して、「裴世清」は「倭国王」本人を含む王権の関係者全員に対するものであると思われ、そのような公開の場所で高らかに「宣」したらしいことが推定されます。そうであるとすると「隋」皇帝から「宣諭」されるということそのものを「王権」には「隠しようがなかった」可能性があり、関係者一同の知るところとなったとすれば、「倭国王」としての「権威」を傷つけられたこととなるものであり、「恥辱」といえるものであった可能性があるでしょう。それはその後何らかの影響を王権に及ぼした可能性を推察させるものであり、統治そのものに対する不安定さが顔を覗かせることとなったかもしれません。

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