古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

天智と弥勒信仰(二)

2016年03月26日 | 古代史

 「天智」と「弥勒信仰」について考えるとき見逃せないのが「野中寺」の「弥勒菩薩像」といわれるものです。これについて考えると、この台座銘には確かに「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也」とあり、この「知識」達がこの「像」を「弥勒」であると認識していたと思われるわけですが、これに関しては、初期「弥勒仏」が、本来は「太子像」であり「釈迦」の出家前の姿を写したものとされていることを考える必要があります。つまり「弥勒」といえば「半伽思惟像」というわけですが、この「半伽思惟像」というものは本来「太子」時代の「釈迦」の姿を写したものであり、人々を救済する方法について思索を巡らせ悩んでいる姿を現す姿勢であったとされます。

 「弥勒」信仰は北朝で早くに興ったものであり、弥勒像(半伽思惟像)が多く造られるようになったものです。但し本来は「太子像」(まだ仏道修行中の仏陀の肖像)であったものです。しかし「弥勒信仰」が盛んになるとこの「太子像」が「弥勒像」であると認識(あるいは誤認というべきか)されるようになり、「弥勒」といえば「半伽思惟像」という定式ができあがります。その意味で言うとこの「野中寺」の像も「太子像」ではないかと見る事もできそうです。(すでに同様の論もあるようです。(※1))
 後に「北周」の「武帝」により「廃仏」が進められると、「弥勒信仰」も排斥されるようになります。そして「隋」が政権の座につくと「高祖」(文帝)により「仏教」が保護・奨励されるようになり、その時点で「弥勒」も復活していたものです。(※2)

 この「弥勒」信仰は北朝と密接な関係にあった「高句麗」に伝わり、そこから「新羅」へと伝わったものです。特に「新羅」で「弥勒」信仰は盛んになり、「半伽思惟」という「弥勒像」が多く造られていました。そして「新羅」と交流があった「倭国」にも伝来したものと考えられますが、その時点では「倭国王権」の交流主体は「百済」であり、「新羅」は(倭国に対し)従属的関係でした。当然その「新羅」から文物を取り入れるということは主たるものにはなり得ず、部分的、局限的であったと思われます。つまり「弥勒信仰」と「半伽思惟像」が「新羅」などから「倭国」へ伝来したとしても、それが「王権」で信仰するところとなったかは疑問と思われることとなるでしょう。
 それに対しに「百済」からは「百済王」から「倭国王」へと「法華経」が正式にもたらされたものであり、これに対し「倭国王権」は深く傾倒し、「倭国王」や「倭国王家」においては私的な信仰が始められたものと思われます。その時期に『法華義疏』など書かれたものであり、その中で「光宅寺法雲」などの教えを「本義」としていることや「弥勒」が批判されていると言う事からもこれが「南朝」系の「法華経」に由来するものであることがわかります。その直後「南朝」が滅ぼされ、それを受けて「遣隋使」が送られた結果、「隋」の「高祖」から「訓令」を受けることとなり、その際に「提婆達多品」などが補綴された「法華経」(「添品妙法蓮華経」の原型)が伝来したと考えられます。
 そのためそれを国政の中心に据える政策をとることとなったと思われ、「法華経」と「阿弥陀信仰」が「国家的事業」として推進されていくこととなったものです。つまりこの時点では「弥勒信仰」は脇役であり、全く影に隠れていたものと推量します。

 その後「隋」が滅び「唐」が成立すると国内の「弥勒」信仰が強くなってきます。「遣唐使」が送られるようになると彼等によって「弥勒」信仰が我が国にもたらされることとなったものでしょう。それでもすぐに「弥勒信仰」が深く「王権」に受容されるということはなかったものと思われます。なぜならそのためには「経義」を深く理解する必要があり、それは「遣唐僧」などの帰国以降かなり時間の経過が必要であったと考えられるからです。これらのことを考えると、「唐代」以前に倭国に「半伽思惟像」が伝来していたとしても、それは「弥勒」ではなく「太子像」として受け入れられていたのではないかということが疑われるわけです。それはまた「聖徳太子」に対する信仰という点からもそういえると思われます。
 一般に「聖徳太子信仰」はかなり後代に発生したものであり、その「聖徳太子」に関わる伝承に「弥勒仏」が出てくるということは、「弥勒信仰」が隆盛となった時期にそのような伝承が形成されたことを想定させますが、「弥勒信仰」が確実に「倭国内」に浸透したのは「七世紀後半」から「八世紀」に入ってからであり、「弥勒」を信仰していたとされる「聖武」の時代であったという可能性が高いと考えられます。
 「弥勒」に関する説話の成立がおおよそ「八世紀」以降のものであることもそれを傍証するものと言えます。このことは「左手無名指切断」という過激なことを行なったのも「聖武」であったという可能性さえ含んでいると見られます。
 彼は「大仏」建造でも判るように「過度」に仏教に帰依していましたから、(自らを「三宝の奴」と称していた)かなりエキセントリックな行動もあったようであり、彼が行なった事跡と言うことも考えられます。その彼の行状が「天智」に結びつけられているのは「資料」に「あめのみかど」という名称が書かれてあったからしも考えられます。

 この「あめのみかど」とは「万葉」や「古今」などに歌が収められている人物ですが、それを「古今集」やそれ以降の解釈書などで「天智」と解釈されていたものであり、それを「山田孝雄博士」により「聖武」のことであると証明されたというものです。
 山田氏によれば『漢字で書く時に天帝若くは天皇といふ文字を宛ててよい樣だから、その意味でいへば、いづれの天皇をもさし奉りうることになる。さうすれば實はいづれの天皇をさし奉るのであるか、わからぬことになつてしまふ。そこで、これは、ある特別の天皇をさし奉つたのだといふことが證明せられねばならぬことである。』とされています。
 この事は「先帝」という「語」においても同様と思われ、その「帝」を特定する者が別になければ「誰」のことだか不明とならざるを得ません。既に述べた例に沿っていえば「崇福寺」の創建が確かに「天智」によるということがどこかに書かれている必要があることとなりますが、それはどこにも書かれていない訳ですから、この「先帝」を「天智」と即断する訳にはいかないこととなるでしょう。
 このことから「聖武」の事跡の内「天智」の事跡と混乱されているものが他にもある可能性が考えられます。「崇福寺」創建に関わる伝承もそれに該当するのではないでしょうか。


(※1)宮地昭『弥勒菩薩と観音菩薩 ―図像の成立と発展―』龍谷大学アジア仏教文化研究センター ワーキングペーパー二〇一三年。
(※2)「七代寺重建記」の文に明らか。

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天智と弥勒信仰

2016年03月05日 | 古代史

 「天智」の「無名指切断」のエピソードについては、その多くが「弥勒」との関連で語られていることは注意を要します。
 「弥勒信仰」は明らかに「後代的」であり、「六世紀末」から「七世紀初め」という時期には「倭国内」にはほとんど浸透していなかったと考えられ、それは「遣唐使」として派遣された「僧」が「経義」を学んで帰国した後に隆盛したものと考えられます。特に「法相宗」では「弥勒」が主尊であり、三蔵法師「玄奘」が信仰していたものが「弥勒」であったとされ、彼に師事した「道昭」「智通」「智達」等の帰国後「弥勒信仰」が起きたものと考えられます。その「道昭」の帰国年次としては「六六一年」という説が有力です。このことから、一見この説話の時代もそのような「弥勒信仰」の高揚した時期と考えられがちです。例えば「藤氏家伝」にも「…。故賜純金香爐、持此香爐、如汝誓願、従観音菩薩之後、到兜率陀天之上。日々夜々、聴弥勒之妙説。朝々暮々、転真如之法輪。…」というような文言が書かれ、そこでは「死後」「弥勒」から「妙説」を聴く、というようなことが言われています。
 また、「野中寺」の弥勒菩薩像の台座銘には「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也」とあります。この「丙寅年」は通常「六六六年」と考えられており、これは「弥勒菩薩像」と「天智」が関連している証左であるとされています。つまり「中宮天皇」とは「天智」を指すというわけです。これらのことから、「弥勒」信仰と「天智」には強い結びつきがあるように考えられています。
 しかし「三経義疏」の一つである「維摩経義疏」の中では「弥勒」に対して以下のような「批判的」言辞が確認でき、これが「六世紀終わり」の時期に「百済」から「法華経」が伝来して以降成立したものと考えられ、これを「聖徳太子」の書とする説もあり、その意味で当時の「倭国王権」のなかでは「弥勒」は信仰されていなかったという可能性が高いと考えられます。
 「維摩経義疏」には(菩薩品第四)「弥勒」について「今禰勒に凡そ四の執あり,一に己に勝行ありと存し,二に受記を存し,三に菩提の果を存し,四に滅度の涅槃を存す.前の二は是れ因の執,後の二は是れ果の執なり,今諸天の機,応に無相の空行を聞かんとす.而るに今此の四の存を以て為に説くが故に,則ち説と機と差(タガ)へり」とあり、さらに「一には云はく,菩提は即ち是れ佛の無上智なり.言ふこゝろは,真諦の中には禰勒の空と衆生の空と一相無二にして得と不得となきが故に『若禰勒得菩提一切衆生亦得』と云ふ.二には云はく,今菩提と言ふは即ち是れ真諦なり.禰勒と衆生と,皆即ち真諦なり.故に『一切衆生亦得』と云ふなり」と書かれています。この「維摩経義疏」の文言は「弥勒」対する「距離感」を示し、「傾倒している」とは言えないことを示すものです。
 さらに「遣隋使」によって(あるいは同行した隋使により)「法華経」(「提婆達多品」が補綴されたもの)が伝えられたものであり、これは「訓令」の一部であったと考えられるわけですが、それを示すように「法隆寺」には「弥勒菩薩像」がありません。「中宮寺」や「広隆寺」には「弥勒菩薩像」があっても、「肝腎」の「法隆寺」にはないのです。
 「法隆寺」は既に考察したように元は「元興寺」であったものであり、また「倭国」で初めての「勅願寺」であったと考えられますから、この「寺院」に「弥勒菩薩像」がないと言うことは、当時の「倭国王権」の信仰には「弥勒」がいなかった事を示すものと推量します。
 この「元興寺」の「本尊」は元々は「釈迦像」と「阿弥陀繍仏」であり、そのため「四月八日」をもって「堂内」に「丈六仏像」を入れようとしたというエピソードが語られています。しかし「弥勒像」はなかった模様です。
 つまり、「聖徳太子」にその存在が投影されている「阿毎多利思北孤」やその太子「利歌彌多仏利」達は「弥勒信仰」の中にはいなかった事を示すと思われることとなります。

 また、上に見たように「藤氏家伝」では「鎌足」が「弥勒信仰」をしていたように伝えられていますが、以下の資料ではその「弥勒」と「弥勒信仰」に批判的である「維摩経」を「元興寺呉僧」「福亮」から「講説」を受け、そのために私財を投じたとされています。

「扶桑略記」「(斉明)三年丁巳(六五七年)。内臣鎌子於山階陶原家。在山城国宇治郡。始立精舎。乃設斎會。是則維摩会始也。

同年 中臣鎌子於山階陶原家。屈請呉僧元興寺福亮法師。後任僧正。為其講匠。甫演維摩経奥旨。…」

『日本帝皇年代記』「戊午(白雉)七(六五八年) 鎌子請呉僧元興寺福亮法師令講維摩経/智通・智達入唐、謁玄奘三蔵學唯識」

『元享釈書』「齊明皇帝の段」
「四年七月、通達二師、奉敕乘新羅入唐、受相宗於玄奘三藏。是歳、呉僧元興寺福亮、赴鎌子請、於陶原家講維摩經。爾來、鎌子延海内碩徳、相次講演凡十二年。」

 このように「維摩経」の講説をわざわざ「私財」を投じて受けているということ、しかもそれはただ一回だけではなく、「十二年」もの長きに亘ったとされており、「道昭」が帰国して「弥勒信仰」が新たに起こったとされる時期をその中に含んでいます。それを考えると、その中で批判的な書かれ方をしている「弥勒」を「鎌子」が信仰すると言うことははなはだ考えにくいこととなるでしょう。この事から一見「道昭」によって「鎌足」の「弥勒信仰」が始められたという見方もできると思われがちですが、その「道昭」は帰国後「周遊」に出たとされ、各地に伝道して回ったらしく、王権の元に還った事情については『文武紀』に「和尚周遊凡十有餘載。有勅請還止住禪院。」(文武四年(七〇〇年)三月己未条)とされ、「飛鳥寺」への帰還は「六七五年前後」が推定されますが、この時点では「鎌足」も「天智」もすでに「死去」しています。つまり「道昭」から「弥勒信仰」が「天智」など「王権」に伝来し浸透したとは考えにくいこととなるでしょう。
 ただし、「鎌子」の長子である「定恵(定慧)」からの「伝来」というのは考えられなくはありません。 彼の帰国は「六六五年」(劉徳高等の来倭に便乗したもの)とされますが、彼は「玄奘」の元で「仏典」の漢訳作業を行なっていた「神泰法師」に師事したとされ、「間接的に」彼から「弥勒信仰」が伝えられたという可能性もあり、彼が「天智」に「弥勒信仰」を伝授したという事も想定することは可能ではあります。
 彼は帰国後「暗殺された」という説もあるものの『日本帝皇年代記』には「甲寅七 多武峯開山定慧法師入滅、大織冠鎌足之長子也」という記事もあり、この「甲寅七」というのが「七一四年」を意味すると考えられますから、かなり長期間健在であったとも考えられます。(「元亨釈書」にも同様の記事があります)しかし、そうであれば父である「鎌子」が「維摩経」の講説を受け続けたという記録とは矛盾すると考えられます。
 つまり、帰国した「定恵(定慧)」と一番接近した日々を送ったはずの「鎌子」が「終生」「維摩経」を信仰し続けたと考えられるわけであり、そうであれば彼の信仰に息子の「定慧」が全く関与していないということとなりますから、「定慧」から「鎌子」や「天智」に「弥勒信仰」が伝授されたとはいえないこととなります。
 これらのことは「鎌足」やその盟友とも考えられる「天智」の「弥勒信仰」というものが本当にあったのか疑わしいこととならざるを得ないものです。

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先帝と崇福寺

2016年03月02日 | 古代史

 「桓武」「嵯峨」両帝の時代に「崇福寺」に関する「勅」が出され、そこでは「先帝」が(「崇福寺」を)創建したと言うことが語られています。

「日本後紀卷十一逸文(『類聚國史』一八〇諸寺・『日本紀略』)」「延暦二十二年(八〇三)十月丙午【廿九】丙午。制。崇福寺者、先帝之所建也。宜令梵釋寺別當大法師常騰、兼加検校。」

「日本後紀卷廿七逸文(『日本紀略』)」「弘仁十年(八一九)九月乙酉【十】」「乙酉。勅。崇福寺者、先帝所建、禪侶之窟也。今聞。頃年之間、濫吹者多。云々。宜加沙汰、勿汚禪庭、所住之僧、不過廿人。但有死闕、言官乃捕之。」

 本来「先帝」とはその字義通り「先代」の「帝」を指す言葉であったものです。例えば『聖武紀』には「文武」を「先帝」と称する例があり、「孝謙」の時代には「聖武」を「先帝」と記した例しか見あたらないなど、多数の「前代」の天皇を指す例が確認できます。ただし、「元明」の時代に「天智」「天武」を「先帝」と称した例も存在していますが、それらは全て「前後関係」から「特定」可能な例ばかりです。
 上の例では、最初の勅は「桓武天皇」が出されたものであり、後のものは「嵯峨天皇」から出されたものですから、当然この両方の「先帝」は「先代」の「帝」という用法ではないこととなりますが、問題は「天皇」を特定する形容がされていないことです。
 たとえば、『懐風藻』を見るとそこには「淡海先帝」とあります。これは「天智」ないし「利歌彌多仏利」を指すとみられますが、その場合「淡海三船」の時代から一〇〇年以上前のこととなり、かなり遡上した例であることが判ります。
 上の「桓武と「嵯峨」両帝の例における「先帝」がもし同様に「天智」を指すとすると、この「先帝」もかなり遡上すると考えなければなりませんが、問題は「淡海(近江)」というような「天皇の代」を特定するべき形容が前置されていないことです。ここでは単に「先帝」とあります。しかし「崇福寺」を建てたのが「天智」であるならば、「淡海先帝」などとあって然るべきではないでしょうか。 (単に「先帝」では誰のことか不明だからです) 現に『日本後紀』の中で「天智」を指すと思われる例では「近江」という名称が前置されています。

「日本後紀』巻卅八逸文(『類聚国史』一七七最勝会)天長七年(八三〇)九月癸酉二」「令薬師寺毎年設最勝王経之会。中納言従三位兼行中務卿直世王奏稱。此寺、清御原天皇、為皇后而所建立也。皇后、『近江帝之女』、柔範光暢、毘賛天倫。皇帝嘉寵、建斯仁祠。而創基未竟、宮車晏駕。皇后含悲帰仏、終成宝刹。…」

 ここでは「近江帝」と表記されており、「先帝」ではありません。

 すでにみたように実際には「崇福寺」の初出は『聖武紀』であり、『書紀』には何も書かれておらず「天智」の時代とはいえません。そもそもこの『日本後紀』及び先行する『続日本紀』あるいは『書紀』の中で「崇福寺」(志我山寺も同様)が「天智」の創建によるものということは一切書かれていません。つまりここに「先帝」とあるだけでは誰のことなのか不明なのです。
 少なくとも「先帝」といえば「天智」というような等式はこれら「史書」の中では成立していませんから、「史書」を見ているだけでは誰のことかが判らないということとなります。このことは少なくとも「無条件」に「天智」とは言い得ないことを示すものであり、他の状況から判断する必要があると思われることとなります。
 先に挙げた「仏教」関係の資料等はその成立がこの『日本後紀』を下るものばかりですから、遡って理解するというのは方法として正しくはないと思われます。また、それらによっても、「崇福寺」は「淡海」の都の守護として建てられたとされていますが、「淡海」に都があったのはすでにみたように、「聖武」の「紫香楽宮」も該当すると思われますから、「崇福寺」が本来「紫香楽宮」周辺に建てられた寺院を指すということも想定の範囲に入れる必要があることとなります。

 この「天智」と「聖武」の混同という問題は既に問題となっており、後代になり「あめのみかど」(天帝)という称号が「聖武」に使用されるに及んで、「天智」の呼称として使用されていた「あめのみこと」(天命)と混同された考えられており(※)、その結果「聖武」と「天智」の事跡のいくつかについて、「混乱と同一化」が進行したものと推定され、「崇福寺」に関することも同様であったとみることもできると思われます。つまり、「聖武」の建てた寺院である「崇福寺」も「天智」が創建したという伝承ができあがってしまったのではないでしょうか。
 
 「聖武」が「崇福寺」を建てたのなら、「桓武」「嵯峨」両帝が「聖武」のことを「先帝」と呼称していることとなり、それは「無形容」であることと関連があるとも言えるでしょう。「淡海先帝」とするとそれこそ「天智」のこととなってしまいますから、そうは受け取られないように「無形容」なのだと思われます。「聖武」は「持統」の孫であり「天智」の曾孫に当たりますから、「天智」に傾倒する彼らにとって特別な存在であったとしても不思議ではありません。
 仮に、この「崇福寺」という寺院が「天智」の創建であり、(つまり「先帝」も「天智」であるとして)「志我山寺」が「崇福寺」と同じであったとしても、その「志我山寺」が「天智」の創建であるという記事は『書紀』にも『続日本紀』にも現れないことを別に説明する必要があるでしょう。更に「嵯峨」以前に「崇福寺」へ「行幸」した「天皇」がいないという不審も説明しなければなりません。(前述したように「志我山寺」への行幸は存在し、それは「聖武」が行ったものです)

 既に述べたように「元明紀」には「志我山寺」「筑紫尼寺」と並んで「観世音寺」の寺封の打ち切りについての記事があります。そこでは「志我山寺」について「三十年経過している」旨のことが書かれていました。それに対し「観世音寺」は「五年」とされています。また同様に「元明紀」には「観世音寺」について、「天智の誓願」になる寺院であって、進捗がはかばかしくないという意味のことが書かれています。

「和銅二年(七〇九年)二月戊子朔。詔曰。筑紫觀世音寺。淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代。迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑月。差發人夫。專加検校。早令營作。」

 これらを見ると「観世音寺」と「志我山寺」は全く扱いが異なり、「志我山寺」については「天智」との関連が語られていないことに気づきます。そのことは「志我山寺」について、(観世音寺と異なり)「天智の誓願」にかかる寺院ではなく、また順調に建設が進んだことらしいことが推察できます。つまり、「崇福寺」が「志我山寺」と同一であったとしても、それが「天智」と関連しているとは言えない事を示すものです。

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