古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

朔旦冬至と伊勢神宮

2025年01月25日 | 古代史
 伊勢神宮の「式年遷宮」は二〇一三年に行われており、それまで二十年に一度遷宮が行われ続けてきたと理解されています。確かに『皇太神宮雑記帳』などを見ると「二十年に一度」という文言が確認できますが、実体は少々異なります。記録(『太神宮諸雑事記』)を見ると鎌倉時代までは実は「十九年に一度」の遷宮であったのです。この「十九年」という年数は明らかに「太陰暦」における「朔旦冬至」から次の「朔旦冬至」までの期間(これは「章」と称されていたもの)を示すものです。
  「朔旦冬至」という現象は旧暦十一月一日の日の出の時刻に冬至となるというものであり、このような「天体の運動」に関する事も「皇帝」の支配下にあるという中国の伝統的考え方によって「皇帝」の権威を示すものとされていました。加えて、その「章」の期間である「十九年」(太陽暦と太陰暦の日数が同じになる年数を言う)という年数が「皇帝」の治世と絡めて考えられていたものであり、新しい「章」の始まりはその皇帝の「治世」がまた改めて始まるということを示すものとされ重要視されていたものです。
 『書紀』の「六五九年」の年次に「伊吉博徳」が参加した「遣唐使」記事があり、そこに彼が書いた「記録」からの引用と思われる文章には「唐」の「宮中」(洛陽)で「冬至之會」が行われていたことが書かれています。この年は確かに「朔旦冬至」の年であったことから、この「冬至之會」もかなり大々的に行われたものと見られ、「伊吉博徳」等の「遣唐使」もこの「冬至之會」への参加を目的として派遣されたものと見られます。(前述)
 「伊吉博徳書」からの引用では「所朝諸蕃之中。倭客最勝。」とありますが、この「諸蕃」とは「化外」にあたる周辺諸国を意味する呼称ですから、この時宮中にかなりの遠方からの客が集まっていたものですが、域外諸国まで集まっているということは「唐王権」から「招集」がかけられていたという可能性を想定することが妥当であることを証するものでしょう。域内諸国は例年「正朔」つまり暦の頒布を受けるためにこの冬至である十一月一日には集まっていたはずですが、この時は彼ら以外にも絶域の諸国も含め招集されていたものと思われるわけです。
 遠方の夷蛮の国々が参列していることは王権にとって支配・統治の有効性をアピールするまたとない機会ですから、このようなビッグイベントには必ず参加するべしと言う号令がかかったものと推量します。そう考えると、当時の「倭国」においても同様に「朔旦冬至」に政治的意義を与えていたとみることもできるでしょう。つまりこの「伊勢神宮」の式年遷宮の年数が当初十九年に一度であったということは、単に「伊勢神宮」にとってというだけではなく「倭国王権」にとって重要であったことを意味するものと思われるのです。
 ところで「式年遷宮」の当初の形が「十九年」に一度であったということは、この「暦」における「章」の期間が意識されていたことは確実であると思われますが、そうであれば単に「十九年」という年数だけではなく、「朔旦冬至」の年次が意識され盛り込まれていなければならないはずです。
 「章」は「朔旦冬至」で始まり、次の「章」の始まりである「朔旦冬至」までが一区切りであるわけです。しかし「式年遷宮」の確実な最初の年次は「持統四年」とされており、これは「六九〇年」と考えられていますから、どのような暦を考えても「朔旦冬至」の年ではありません。またそれ以降の「遷宮」も同様に「朔旦冬至」とは異なる年次に行われているように見えます。これは不審といえるものではないでしょうか。
(以下『神道史大辞典』(吉川弘文館)による「式年遷宮」の記録)

① 持統四年(六九〇)/② 和銅二年(七〇九) 十九年/③ 天平元年(七二九) 二十年/④ 天平十九年(七四七) 十八年/⑤ 天平神護二年(七六六) 十九年/⑥ 延暦四年(七八五) 十九年/⑦ 弘仁元年(八一〇) 二十五年/⑧ 天長六年(八二九) 十九年/⑨ 嘉祥二年(八四九) 二十年/⑩ 貞観十年(八六八) 十九年/⑪ 仁和二年(八八六) 十八年/⑫ 延喜五年(九〇五) 十九年

 この「式年遷宮」が「章」と関係しているというのは諸氏によって指摘されていますが、その意味として「十九年」という「章」の期間が一種の「エネルギーサイクル」であり、その一サイクルを「霊的エネルギー」の有効期間と見ている見解が多数です。しかし「章」が中国においては「朔旦冬至」から次の「朔旦冬至」までとしていることを踏まえると、「倭国」においてもそれを踏襲しなかったとすると不審であり、最初の「遷宮」とされる「持統」以降「朔旦冬至」ではない年に「式年遷宮」を行っているというのは「不合理」であり、そのような理論とは整合しない事態となっているといえます。
 「唐」では「武徳二年」(六一九年)に「戊寅元暦」が「唐」の正式な暦となりました。この時点以降「倭国」は「遣唐使」を派遣しており、この「戊寅元暦」を学んでいたものと思われます。
 「倭国王」の権威を示す意味からも(「章」の持つ意義から考えて)この「朔旦冬至」となる年次を選んで何らかのイベントが行われたと見るべきであり、それが「式年遷宮」であったものと推定され、本来的にいえばどこかの「朔旦冬至」の年に「式年遷宮」の第一回が行われたと見るべきこととなります。その意味では「朔旦冬至」の年次群の中では特に「六四〇年」という年次が注目されます。なぜならこの年次はその「冬至」の日の干支が「甲子」であるという「甲子朔旦冬至」という非常に稀なものであったからです。(「甲子朔旦冬至」には二種類有りその年が「甲子」であるという場合と、その冬至の日が「甲子」であるという場合です。六四〇年は後者です。)
 「甲子」は「暦」の(六十個ある干支の組み合わせの順列においての)「始まり」であり、そのことから「皇帝」の「治世」の始まりと関連して考えられ、特別な意味合いを持たされていたのです。そう考えれば(少なくとも「唐」においては)この年次において「冬至之會」を(六五九年と同様)行っていたものと考えるべきでしょう。これについては『旧唐書』『新唐書』とも「有事於南郊」、「有事于圓丘」という表現で「冬至」の「祭天」そのものの実施は書かれているものの、国家的イベントとして諸国から使者を招請したとは書かれていません。

「(貞観)十四年十一月甲子,有事于南郊。」(新唐書)

「(貞観)十四年十一月甲子朔,日南至,有事于圓丘。」(旧唐書)

 一見「冬至之會」に関する大きな催しがあったとは見られないわけですが、それは「六五九年」の「冬至之會」についても同様であり、「東都」への移動については記事があるもののその目的や諸国からの招請などはやはり記事がありません。
 しかし「伊吉博徳」の記録からこの時「冬至之會」がかなり大々的イベントとして行われていたことが明らかとなっているわけですから、「太宗」時代の「朔旦冬至」についても同様にビッグイベントとして行われたと見るのは不自然ではありません。(ただしこの時は「洛陽」ではなく「長安」で行われたと見られます。)
 ただし『資治通鑑』によればこの時の「十一月朔」の干支は実際には「甲子」ではなくその一つ前の「癸亥」であったとされており、それを「人為的」に「冬至」の干支である「甲子」に合わせたとされています。

(貞観十四年(庚子、六四〇))「十一月,甲子朔,冬至,上祀南郊。時戊寅暦以癸亥爲朔,宣義郎李淳風表稱:「古暦分日起於子半,今歳甲子朔冬至,而故太史令傅仁均減餘稍多,子初爲朔,遂差三刻,用乖天正,請更加考定。」衆議以仁均定朔微差,淳風推校精密,請如淳風議,從之。」

 この文章からは元々の「戊寅元暦」では朔が「癸亥」であったが、「冬至」が「甲子」であったので、これに合わせたという趣旨と思われます。現在残っている「戊寅元暦」のデータで計算すると「十一月朔」は「甲子」となりますが、これは後に「データ」を修正したためらしく、この「六四〇年」段階では「甲子」ではなかったらしいことが読み取れます。このような人為的な「朔干支」の改変を行った理由としては「甲子朔旦冬至」という希有な日を創出する意義があったものと思われ、「冬至」の儀式をより意義のあるものとしようという意識が見受けられるものです。
 「六五九年」の遣唐使が一旦「長安」に向かったのも「前回」の「冬至之會」が「長安」で行われたからということが理由としてあったという可能性もあるでしょう。単に「首都」に向かったというよりは前回の経験を踏まえて「長安」に目的地を定めたものではないでしょうか。しかし「顕慶二年」に「洛陽」は「煬帝」以来の「東都」とされ、格段に扱いが高くなったものであり、しきりに「高宗」と「武后」は「洛陽」へ行幸するようになります。さらに「顕慶三年」には「禮制」が改定され、推測によればその中で「冬至」の「祭天」は「東都」である「洛陽」の南郊で行うこととなったものと見られます。(ただし「顕慶礼」はその後逸失しているため不明です。)
 これは「洛陽」の郊外で「祭天」を行っていた「周」の時代に戻る意義があったと見られ、「武后」がその後「唐」を改め「周」と国名を変更する素地ともなったと見られます。

「…若夫情尚分流,?防之仁是棄;澆訛異術,洙泗之風斯泯。是以漢文罷再朞之喪,中興為一郊之祭,隨時之義,不其然歟!而西京元鼎之辰,中興永平之日,疏璧流而延冠帶,?儒門而引諸生,兩京之盛,於斯為美。及山魚登俎,澤豕?經,禮樂恆委,浮華相尚,而郊?之制,綱紀或存。魏氏光宅,憲章斯美。王肅、高堂隆之徒,博通前載,三千條之禮,十七篇之學,各以舊文增損當世,豈所謂致君於堯舜之道焉。世屬雕牆,時逢秕政,周因之典,務多違俗,而遺編殘冊猶有可觀者也。景初元年,營洛陽南委粟山以為圓丘,祀之日以始祖帝舜配,房俎生魚,陶樽玄酒,非?紳為之綱紀,其孰能與於此者哉!」(『晉書』卷十九/志第九/禮上)

 ここでは「魏晋朝」において「堯舜」の禮制に戻り、「洛陽」の南郊の「粟山」を「圓丘」として「日」を祀るとされ、「冬至」などの儀式がここで行われたことを示しています。これを視野に入れて「顕慶礼」では「洛陽」で「冬至之會」を行うこととなったものではないでしょうか。
 このような事情により「高宗」は「閏十月」の末には「洛陽」に移動していたものであり、それを知った「伊吉博徳等」は慌てて「長安」から「洛陽」へ馬に乗って急行してやっと間に合ったというわけです。(「伊吉博徳書」には「…馳到東京。天子在東京。」と書かれています。)
 このように「六五九年」の遣唐使の十九年前にも「蝦夷」を伴った「遣唐使」があったと推定するものであり、「十九年」を隔てて再び「遣唐使」が赴いたというわけですが、それはそもそも「太宗」から「遠距離」であるため「毎年朝貢」の必要がないとされたという記事が関係しているでしょう。

「貞觀五年、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢。」(旧唐書/倭国伝)

 さらに後の時代に日本からの留学僧「円載」からの質問への回答として天台山国清寺の僧侶「維躅」が作成した「唐決集」(開成五年(八四〇年)の中には「日本」からの朝貢は「約二十年に一度」とされていたことが書かれています。

「六月一日天台山僧維?謹献書於/郎中使君〈閣下〉維?言去歳不稔人無聊生皇帝謹擇賢救疾朝端選於衆得郎中以恤之伏惟/郎中天仁神智澤潤台野新張千里之?再活百靈/之命風雨應祈稼穡鮮茂几在品物罔不?服南嶽高僧思大師生日本為王天台教法大行彼国是以/内外経籍一法於唐『約二十年一来朝貢』貞元中僧/?澄来會僧道邃為講義陸使君給判印帰国…」(唐決集)

 通常はこの「約二十年に一度」という頻度については「八世紀」に入って以降派遣された遣唐使について適用されるものと考えられているようですが、私見では「太宗」からの「勅」の中にこの「年数」についての言葉があったものであり、少なくとも「朔旦冬至」の際に行われる「冬至之會」への参加だけはするようにと言う趣旨ではなかったかと考えられます。
 このように「朔旦冬至」の政治的重要性を「倭国王権」が認識していたとすると、「倭国」でも「朔旦冬至」に関連したイベントがあったとして不思議ではなく、それが「伊勢神宮」の「式年遷宮」であったとみることもできると思われます。「倭国」にとってもこの年次が重要であったのは間違いないと思われますが、「式年遷宮」は「天下り」を模したものという意見もあり、そうであれば「六四〇年」という年次が「倭国王権」にとって画期となるものであったという可能性が高いものと思われます。
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倭国王権の東方進出と「改新の詔」

2025年01月20日 | 古代史
 私見では「改新の詔」とそれと一体となって出された各種の「詔」について、いずれも「倭国」と「倭国王」がこの地域と人々に対して「直接統治」を行う宣言としてのものと理解しています。たとえば「東国国司詔」があります。

「大化元年(六四五年)八月丙申朔庚子条」「拜東國等國司。仍詔國司等曰。隨天神之所奉寄。方今始將修萬國。凡國家所有公民。大小所領人衆。汝等之任。皆作戸籍。及校田畝。其薗池水陸之利。」

 この「詔」では「万民」は全て公民(国家所有)という前提(大義名分)が謳われていると思われ、それは諸豪族に対する「直接統治」の宣言の意義として行われたものです。それがさらに顕著に表れるのが「土地兼併禁止詔」と云われる「大化元年九月」の「詔」です。

「大化元年(六四五年)九月丙寅朔甲申条」「遣使者於諸國。録民元數。仍詔曰。自古以降。毎天皇時。置標代民。垂名於後。其臣連等。伴造。國造各置己民。恣情駈使。又株國縣山海林野池田。以爲己財。爭戰不已。或者■并數萬頃田。或者全無容針少地。及進調賦時。其臣連。伴造等先自收斂。然後分進。修治宮殿。築造園陵。各率己民隨事而作。易曰。損上益下。節以制度。不傷財害民。方今百姓猶乏。而有勢者分株水陸以爲私地。賣與百姓。年索其價。從今以後不得賣地。勿妄作主、兼并劣弱。百姓大悦。」

 ここでは特に「仍詔曰。自古以降。毎天皇時。置標代民。垂名於後。其臣連等。伴造。國造各置己民。恣情駈使。又割國縣山海林野池田。以爲己財。」の部分が注目されます。そこでは「天皇ごとに」置かれた「標代民」という存在と、「其臣連等。伴造。國造」が置いた「己民」というものが書かれており、この両者については従来「並列的」に存在しているという理解が大勢であったものです。しかしそれでは文意が通らないのは明らかです。もしそう理解するなら「毎天皇時。置標代民。」と云う文が前置されている意味が不明となってしまうでしょう。
 ここは明らかに「標代民」という存在が「其臣連等。伴造。國造」によって「窃取」されており、それが彼らの「己民」とされていて「恣情駈使」されているということを糾弾している文章であると理解すべきです
 「標野」というものが「薬草」を採集するために「区画」された領域を示すものであると考えられることの類推から、この「標代民」というものも、他から「区画」され「天皇」のために特別に配置された「人民」を示すと考えられますが、それが「窃取」され、「恣意的」に使用されているということと理解できます。それはその直後の対句的文章である「又割國縣山海林野池田。以爲己財。」という中にも現れており、「國縣山海林野池田」は本来私的なものではなく「倭国王」の所有にかかるものであるのにも関わらず、それを「割いて」「己財」としていると非難しているわけです。そして今後その様な事態(実体)を認めないという宣言であると思われます。
 従来からもこの宣言における「権力」は「所有権」として発せられているもののそれは全ての諸豪族の権利を上回る「公権力」として発動されていると見るべきという考え方がありましたが、それは「正鵠」を得ていると云うべきであり、ここにおいて「強い権力」が発現したこと、そのような「権力者」がこの列島に発生したことを示すものと考えられます。言い換えればこの時点で東国を含めた地域が「直接統治領域」に入ったことを示すものであり、それまでの「宗主国」(「直接統治領域」)と「附庸国」(「諸国」)といういわば「封建制」的な国内体制であったものが、あたかも「始皇帝」のように列島全体を「直接統治」するフェーズへと移行したことを示すものです。
 その直前の「東国国司詔」では「凡國家所有公民。大小所領人衆。」という表現が見られ、「公民」以外に「人衆」がいたという事を示していますが、その実体は「大小」(これは諸豪族を指すと思われる)の所領となっていた本来「公民」であったものを指すと思われます。
 ここでこれらの詔を通じて表明していることは、全ての民は「公民」であり、「諸豪族」の配下にあるような「民」も本来は全て「天皇の民」であると言う事でしょう。(このことからこの時点の「公民」の中には「奴婢」も入るべき事が判ります。それは「公地公民制」の象徴である「班田制」において「奴婢」にも「班田」が与えられていることからも理解できます。)
 しかし、もちろんこれはその「詔」を出した時点における「大義名分」が言わせる言葉であって、その現在時点における「大義名分」を過去に押し広げたものであるといえます。しかし、その直後に出された「改新の詔」ではややニュアンスが異なっています。

 「大化二年(六四六年)春正月甲子朔。賀正禮畢。即宣改新之詔曰 其一曰。罷昔在天皇等所立子代之民處々屯倉及別臣連。伴造國造村首所有部曲之民處處田庄。仍賜食封大夫以上各有差。降以布帛賜官人百姓有差。又曰 大夫所使治民也。能盡其治則民頼之。故重其祿所以爲民也。」

 ここでは「伴造國造村首所有部曲之民處處田庄」について、それが本来「倭国王」のものであるという非難はされておらず、その存在を認めつつ、今はそれを廃止して「食封」に変えるという事を宣言しています。つまり「所有権」が誰に帰するものかはここでは敢えて触れていないわけですが、それはそれ以前に出した「詔」に対する反発が強かったからではないしょうか。つまり「改新の詔」では実体を認める立場に微妙に変わったと考えられます。「窃取」や「横取り」などの感覚はある意味「被害者的」なものであり、また一方的でもあるわけで、それは元々統治能力の低下と関連しているわけですから、諸豪族に対して非難するいわれは本来ないわけです。
 「改新の詔」以前に「東国国司」などを通じて各諸国に伝えられたこのようなある意味一方的な情報に対してかなりの反発があり、その結果既定方針は変えないものの「諸豪族」の元の「部曲」(私奴婢ないしは家人)というものの存在を認めた上でそれを廃止するという事としたものと思われます。
 「六世紀後半」までの「倭国」はその「統治権」はかなり狭く、せいぜい西日本が統治エリアに入っていたものの、東国にはその権威は及んでいなかったと見られます。他方、後の新日本国王権となる「近畿王権」もまだ弱小であって、東国に広く統治権を及ぼすような権威は持っていなかったと見られます。
 この様な状況を総括して云うと「六世紀後半」までの「倭国」は、全国的な立場で見ると、その諸国への権威は間接的であり、また「緩やか」であったと見られるわけです。
 『常陸国風土記』など見ても「古」は「各」「クニ」に「別」や「造」などが配置されていたとされていますが、彼らは「九州倭国王朝」の権威を認めながらも、彼らに何らかの拘束や束縛はほとんど受けずに各々の「クニ」を統治していたと見られます。このような「倭国中央」と「諸国」の関係はあたかも「南北朝」以降の「中国皇帝」とその周辺諸国の関係に近似しており、「倭国王」が「将軍号」を貰い「倭国王」である旨の「承認」を「中国皇帝」から受けていたように、各諸国は「倭国中央」から「別」や「造」の地位を認めて貰い「直」などの「姓」をもらう事で「倭国」の「周辺諸国」としての地位を確固とする、という手法を用いていたと考えられます。
 これは「諸国連合」とも違い、「緩い封建制」とでも言うべき状態と思われ、各諸国がほぼ自立していた状態であると思われます。「諸国」にとって「九州倭国王朝」は「天朝」であり、遠くの存在であって日常の政治とは隔絶していたと考えられます。
 しかし、この「改新の詔」時点で始めて「東国」などに対して「(直接)統治権」を確立したわけであり、それは「中間管理的権力者」の存在を許さないという以下の詔の一文からも明らかです。

「「大化二年(六四六年)三月癸亥朔壬午条」「…天無雙日。國無二王。是故兼并天下。可使萬民。唯天皇耳。…」

 ここでは明確に「王」が直接「万民」を使役すると宣言しています。つまり、従来各諸国に(この場合「クニ」か)存在していた「別」や「造」という存在を飛び越えて、この時点で始めて彼らは直接的な統治権を奪取、確立したのであって、それ以前にはそのような強大な権力は保有していなかったと見られることとなります。
 このような状況は、これが「改新の詔」と呼称されているように、また『書紀』では「蘇我氏」を打倒した「クーデター」により成立した政権であるところの「孝徳天皇」の「詔」として出されていることでも分かるように、彼らは「革命政権」であったと見られ、そのこととこれら「詔」が語る背景とは重なっていると言えるでしょう。このような「革命」が成功した要因は「警察・検察」という「治安維持」に関する勢力を手中に収めたからであり、それを「諸国」に展開可能とする「官道」の整備との関連が重要であったと思われます。各諸国においてはいわば半ば独立した権力者としてその統治範囲に独自制度を敷いていたということが考えられますが、「倭国王」が直接統治するということになればそれ以降は「倭国」の制度が改めてその統治範囲に施行されることとなり、たとえば「冠位制」などについては従前のものとは別に「倭国」の冠位を授与されることとなり、言ってみれば「二重に支配される」形となったこととなりそうです。本来はその時点でその地域の権力者が人々を支配することはなくなり、倭国王の直接支配の元に存在することとなったはずですが、それほど簡単かつスムースに支配に交替が行われるはずもなく、暫定的に「二重支配」という状況が発生したものと思われます。
 また「部民」にとってみればそれまでともすれば中間搾取者がいる状態で「複数の支配者の元の存在であった可能性がありますが、「倭国王」が直接支配すると云うことになれば、支配と搾取が幾重にも課せられることはなくなった訳ですから、この「革命」は歓迎されたものと見られます。
 「改新の詔」以前には「奴婢」と「部民」の大部分は実質なにも変わらないものであったとみられますが(「鳥飼部」「馬飼部」に典型的なように「奴婢」と同様「入墨(黥)」がされていたと見られる)、「改新の詔」以降は「間人」のような「雑戸」となって下層ではあるものの「良人」として「奴婢」からは区別されるようになり、「歴史的段階」としては一ステップ進んだものと言えるでしょう。
 それまでは「良民」や「奴婢」など「万民」が仮に「公民」であったとしても、諸国に配置した「別」や「造」によりその運用は負託されていたものであり、それは容易に彼らの「己民」つまり「私民」という扱いになり、また認識されることとなったと思われます。
 「別」や「造」などは「豪族」と呼ばれる存在であったとみられますが、この「革命」において彼らの存在や彼らの私民の存在を認めないということと、『常陸国風土記』に云う「惣領」により「我姫」を「八国」に分割再編したという事は、その事業内容において共通していると思われます。このような再編が「別」や「造」の権威を破棄するものとなり、「大国」としての「国」の誕生とそこに配置されることとなった「国宰」の権威を絶対化するものとなるのは当然とも思われ、『常陸国風土記』の記事はこの「詔」の内容が実行に移された時期と実態を示すものと考えられ、これらはほぼ同時期に行われたことを示唆するものと云えるでしょう。
 「部民制」というものについては、その起源が「五世紀」代にあり、当時は「倭国王権」と強くつながっていた民であり、当時の「武装植民」(屯田兵)として派遣されたような存在もいたと思われますが、多くは領土拡張の際に「捕虜」とされた人々であり、彼等は「奴婢」となり、特定の氏族に使役される形で「部民」とされていったものと思われます。本来は彼等は「倭国」という国家に直属するものであったはずですが、それが年代を過ぎると「倭国王権」の統治が「弛緩」するところとなり、「現地権力者」の使役するところとなっていったものと思われます。
 「倭国王権」の力を示す後続の行動や勢力が減退したり消滅したりしてしまったという実体が発生したことがそのような地方権力の成長を促す原因となったと思われます。そのような「諸国」と「倭国王権」との「つながり」が切れてしまうような「典型的」な出来事と言うのが「磐井の乱」であったのではないでしょうか。
 この「乱」は「筑紫」という「倭国王朝」の中心部と言うべき場所が、「物部」により占拠、制圧されてしまったことを意味すると考えられ、このことから「九州倭国王朝」の力が「東国」などに及ばなくなったと見られます。その結果、「起源」としては「倭国王権」と結びついていた「部民」さえも「地方勢力」の配下となって「己民」とされていったという経過を招くこととなったものでしょう。
 この「改新の詔」では「犯罪人」以外の「奴婢」を「良民」へと解放し「入墨」も廃止したものですが、それはひとつに「班田農民」として「租」を負担させる意義があったと見られます。この時点でかなりの「奴婢」が「良民」へと身分が変わったと思われ、彼等が「田作」をすることにより国家としての「租」生産能力のアップと、それが国家への収入という形で現実化することを期待したものと思料します。これらの「革命」王権としての政策はその先進性が当時としては過激といえ、内外の納得や同意が得られにくいものであったことも確かです。そのため早々に倭国王権は内部崩壊を起こすこととなります。
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