古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

新年を迎えるに当たって

2018年12月31日 | 日常身辺雑事

当ブログを御覧頂いている皆様。本年も拙い論をみていただき、ありがとうございます。

家庭の事情がかなり変化し、古代史に割く時間がかなり減少することとなった1年でした。来年も余り状況は変わらないと思われますが、細々ではあっても何とか研究を続けていこうと思います。
来たる年が御覧頂いている皆様にとりよりよき1年でありますよう祈念致します。

 

コメント

「多治比真人三宅麻呂」と「穂積朝臣老」の謀反事件と「長屋王」

2018年12月30日 | 古代史

 『続日本紀』の「養老六年」(七二二年)の記事に「多治比真人三宅麻呂」と「穂積朝臣老」の「謀反」事件が書かれています。
 ここで「誣告」をしたとされる「多治比真人三宅麻呂」は「大宝三年」(七〇三年)に「藤原房前」等とともに「各諸国」(諸道)に対して派遣された「巡察使」様の使者派遣のために人選された中に入っており、「東山道」の「各国司・郡司」などの「治績」の記録と判定を任されるという栄誉ある仕事に就いています。
 彼はその後も官位の加増を受け、「慶雲四年」(七〇七年)「元明天皇」即位の際の「御装司」にも選ばれており、またその後も「催鋳銭司」という当時発見された「和銅」との関連で発行されることとなった貨幣の鋳造の管理者というかなり栄誉ある地位に就いています。(ただし前の記事にも書きましたが、この「和銅」発見はいわば「フェイク」であったと思われ、可能性としては彼もこれに一枚噛んでいたということもあり得ます)
 その後も順調に昇進を続け「正四位上」という中級官人としてかなり高い地位にあったものですが、「元明太上皇」死去の直後、突然「事件」が起きます。

「養老六年(七二二)正月…
壬戌。正四位上多治比眞人三宅麻呂。坐誣告謀反。正五位上穗積朝臣老指斥乘輿。並處斬刑。而依皇太子奏。降死一等。配流三宅麻呂於伊豆嶋。老於佐渡嶋。」

 ここでは、「穂積朝臣老」の「指斥乘輿」つまり、「天皇」を「非難・誹謗」するという、重大事案と並べて「多治比眞人三宅麻呂」の「坐誣告謀反」という事件が書かれています。
 「誣告」とは「他人」を罪に陥れるために「虚偽」の告発をすることであり、ここでは「謀反」と書かれていますから、「天皇」個人を傷つける意図を誰かが持っていて、それを実行しようとしている、ということを告発したように受け取れます。(「謀反」と「謀叛」は「令」では明確に区別されています)
 しかし、その対象者が誰であったのかがここでは触れられていないため、その「告発」がすぐに「誣告」つまり「虚偽」と判明したのか、そうではなく、その告発により誰かが「罪」を受けたのかは不明です。
 「謀反」は「死罪」(斬刑)と決められていましたから、この告発が「虚偽」であると判明しなかったならば、当の誣告された本人は「死刑」になった可能性もあります。
 「穂積朝臣老」の「指斥乘輿」事件の方は間違いなく「謀反」と判断されたでしょうから、同様に「死刑」は免れません。
 問題はこの二つの事件が「関連」があるのかどうか、ということです。
 これに関しては、どちらも同じ日付の事件として書かれているように思え、また「彼ら二人」は上に見るように「諸国」への「巡察使」派遣の際にも「共に」派遣されているなど、似たような経歴を歩んでいます。これらのことは彼らの行動は「共同」して行われたものではないか、という推察ができそうです。
 「三宅麻呂」の「告発」が「穂積朝臣老」の「指斥乘輿」事件を指すのだとするなら、これは「誣告」でも何でもないわけであり、正当な告発と言えるでしょう。しかし「三宅麻呂」は「罪」を受けているわけですから、彼の告発は「穂積朝臣老」に向けられたものではなく、逆に彼の行動を支援するような性質のものであったと考えなければならず、「別人」を告発したのだとしか考えられません。

 ここでそのようなことが起きたのはいかにもありそうな話ではあります。「天武」死去後の「大津皇子」の場合などもそうですが、前王が死去し後継がまだ不安定なときが最も政変が起きやすいものであり、「謀反」を起こす、あるいはそれを口実に反対勢力の勢威をなきものとするなど権謀術数が繰り広げられるタイミングではあります。この場合「元明」という存在が大きなものであったことは間違いなく、その存在が消えた後やはり「権力の空白」を狙って行動を起こそうとしたものがいたのかもしれません。詳細は不明ですが、「皇太子」が取りなしたという点やその後「聖武」の時代になって(「七四〇年」)、「長屋王」が排除され「十一年」経ったという時点で「流罪」の地である「佐渡」から「京」への帰還を許されるなどの扱いを考えると、「反皇太子勢力」に与する策動ではなかったもののようです。

「(天平)十二年(七四〇年)…
六月庚午。勅曰。朕君臨八荒。奄有萬姓。履薄馭朽。情深覆育。求衣忘寢。思切納隍。恒念何荅上玄。人民有休平之樂。能稱明命。國家致寧泰之榮者。信是被於寛仁。挂網之徒。保身命而得壽。布於鴻恩。窮乏之類。脱乞微而有息。宜大赦天下。自天平十二年六月十五日戌時以前大辟以下。咸赦除之。兼天平十一年以前公私所負之稻。悉皆原免。其監臨主守自盜。盜所監臨。故殺人謀殺人殺訖。私鑄錢作具既備。強盜竊盜。姦他妻。及中衛舍人。左右兵衛。左右衛士。衛門府衛士。門部。主帥。使部等不在赦限。『其流人。多治比眞人祖人。名負。東人。久米連若女等五人。召令入京。』大原采女勝部鳥女還本郷。小野王。日奉弟日女。石上乙麻呂。牟礼大野。中臣宅守。飽海古良比。不在赦限。」

 ここでは「穗積朝臣老」とともに「多治比眞人祖人。名負。東人。」という人物の入京が許されています。彼らは推定によれば「三宅麻呂」の子供らと思われ、本来赦免の対象であった「三宅麻呂」が流罪の地である「伊豆」で既に死去していたことが窺えます。
 この時の「流罪」となる原因となった彼らの行動は「元正」というよりその背後にいる他の有力者にに対するものではなかったかと思われ、想像をたくましくするとターゲットは当時「右大臣」であった「長屋王」ではなかったでしょうか。
 彼は「不比等」亡き後最大の権力者であり、また推定によれば「下野」した旧王権を代表するものであったと思われますから、そのような人物を重用することを憂えた「諫言」、と云うより「非難」が主のものだったのではなかったでしょうか。これに激怒した「元正」か、当の「長屋王」により「死罪」とされたものと考えられます。この時点で「皇太子」(後の聖武天皇)の取りなしにより、彼らは罪一等を減じ「流罪」となったというわけです。
 「穂積朝臣老」はその後「聖武天皇」の遷都の際には「留守官」として「恭仁宮」に残っているなど重用されており、また「三宅麻呂」の子供達もそれなりに官歴を重ねていることが知られていますから、彼らに対する「信任」が厚かったことは間違いなく、彼らの行動が「自分」のためを思っての行動と「聖武」が捉えていたことを意味すると思われます。
 そして、これら「多治比真人三宅麻呂」等の事件は後の「七二九年」の「長屋王」事件につながっているのではないか、という想像をさせるものです。
 この時点は「元明太上皇」が亡くなり、それ以前に「藤原不比等」も亡くなっていますから、「長屋王」の天下と云ってもいい状態となっていました。
 考えられるストーリーとしては、彼らは「長屋王」が「自分が天皇になろうとしている」と考え、それを「元正天皇」に伝えようとしたのでしょう。しかし、「長屋王」の反撃に遭い、危うく「死罪」となるところだったものを「皇太子」(聖武)に救われたとみられるのです。

 「長屋王」は「倭国九州王朝(旧日本国)」に直接つながる系譜の持ち主であり、そのような人物が「政権トップ」にいるようになったことについての「危惧」があったものと思われ、「旧王権」の復活につながるという様に考えたのではないでしょうか。
 この彼らの危惧と懸念は、「長屋王」が宰相的立場にいる間根強く続いたと考えられ、「七二九年」になって、「長屋王の変」という事態になって現実のものとなったのです。
 この時の「長屋王」に対する「嫌疑」というのは「左道」によって「聖武天皇」の「皇太子」を「厭魅」したというもので、当時「聖武天皇」の「皇太子」は生まれてすぐに亡くなりますが、その直前に「延命」の祈祷をするため、という名目で「図書寮」から大量の「祈祷」用の物品が「長屋王」により無断で借り出されています。これらの物品はそのまま逆に「呪い殺す」のにも使用できるものであり、偏見を以って臨めば、疑うのに充分であったかもしれません。
 「穂積朝臣老」や「多治比真人三宅麻呂」の事件はこの時とよく似ていたとも思われます。つまり、「元明太上皇」の死去に関連して同様の疑いが持たれたのかもしれません。「謀反」という表現も天皇個人への何らかの攻撃を意味するものですから「厭魅」は充分「謀反」に値します。彼らは「不比等」と特別の関係にあったとみられますから、「不比等」から「長屋王」に対する警戒を聞いていたという可能性があるでしょう。しかし、「三宅麻呂」の時には「長屋王」に対抗できる(しようとする)人間が誰もおらず、彼らの主張は通らなかったものと思われるわけです。

 『続日本紀』の記事では「長屋王」の変の際の嫌疑に使用された「左道」という表現は「呪術」とほぼイコールであり、「奈良」・「天平」時代には再三の「呪術」禁止令が出されており、中国南朝「陳」の律にも、このような呪術は「道教」の僧(「道士」)によって行われる、とあってこれが「左道」と呼ばれていたのです。しかし「唐」から「鑑真」が来日するに至った動機の中には「長屋王」についての「逸話」があったとされています。それによれば「長屋王」は「袈裟」を「千枚」作り、「唐」の高僧に寄進した、というのですが、その袈裟には「山川異域 風月同天 寄諸仏子 共結来縁」という「文字」(願文)を縁に刺繍してあったのです。それを聞いた「鑑真」は日本という国に強く興味を持ったことが幾多の困難を経ても日本に渡る、という情熱を失わなかった一因であると思われるのです。
 また、「長屋王」は「大般若経」の「書写」も行っています。「大般若経」は「文字数六万」という大部であり、個人で行う事自体が「希有」な事なのです。
 「長屋王」の夫人は「文武」の妹の「吉備内親王」であり、「文武」追悼という彼女の意向を汲んで「長屋王」が「書写」させたものと考えられています。
 「長屋王木簡」には「経師」「書法模人」「書法作人」「書写人」などの記載があるのが確認されており、この「大般若経」の「書写」に携わった人々を指すものと考えられます。 
 このように仏教に深く帰依していたと考えられる彼ですから、「道教」に興味があったとは思われず、「厭魅」の件は「冤罪」であったものと考えられ(後にそれは明らかとなった)、それは「倭国王権」につながる人物である「長屋王」を亡き者にすることで「旧政権」(倭国王朝)の抹消を図った「陰謀」であったものではなかったかと思われる訳です。


(この項の作成日 2011/08/22、最終更新 2014/12/19)(旧ホームページ記事に加筆して転載)

コメント

「和銅」出土と「不比等」

2018年12月30日 | 古代史

 「多胡碑」がある場所からほど遠くないところに「和銅」出土の地があります。『続日本紀』によれば、この地から「和銅」(純度の高い自然銅)が出土し、それが朝廷に献上され、これを契機に「催鋳銭司」を設置したと書かれており、そのトップとして「丹比真人三宅麻呂」が任命されています。

「(七〇八年)和銅元年春正月乙巳。武藏國秩父郡獻和銅。詔曰。現神御宇倭根子天皇詔旨勅命乎。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。高天原由天降坐志。天皇御世乎始而中今尓至麻■尓。天皇御世御世天豆日嗣高御座尓坐而治賜慈賜來食國天下之業止奈母。隨神所念行佐久止詔命乎衆聞宣。如是治賜慈賜來留天豆日嗣之業。今皇朕御世尓當而坐者。天地之心乎勞弥重弥辱弥恐弥坐尓聞看食國中乃東方武藏國尓。自然作成和銅出在止奏而獻焉。此物者天坐神地坐祗乃相于豆奈比奉福波倍奉事尓依而。顯久出多留寳尓在羅之止奈母。神随所念行須。是以天地之神乃顯奉瑞寳尓依而御世年號改賜換賜波久止詔命乎衆聞宣。故改慶雲五年而和銅元年爲而御世年號止定賜。是以天下尓慶命詔久。冠位上可賜人々治賜。大赦天下。自和銅元年正月十一日昧爽以前大辟罪已下。罪无輕重。已發覺未發覺。繋囚見徒。咸赦除之。其犯八虐。故殺人。謀殺人已殺。賊盜。常赦所不免者。不在赦限。亡命山澤。挾藏禁書。百日不首。復罪如初。高年百姓。百歳以上。賜籾三斛。九十以上二斛。八十以上一斛。孝子順孫。義夫節婦。表其門閭。優復三年。鰥寡■獨不能自存者賜籾一斛。賜百官人等祿各有差。諸國國郡司加位一階。其正六位上以上不在進限。免武藏國今年庸當郡調庸詔天皇命乎衆聞宣。是日。授四品志貴親王三品。從二位石上朝臣麻呂。從二位藤原朝臣不比等並正二位。正四位上高向朝臣麻呂從三位。正六位上阿閇朝臣大神。正六位下川邊朝臣母知。笠朝臣吉麻呂。小野朝臣馬養。從六位上上毛野朝臣廣人。多治比眞人廣成。從六位下大伴宿祢宿奈麻呂。正六位上阿刀宿祢智徳。高庄子。買文會。從六位下日下部宿祢老。津嶋朝臣堅石。无位金上元並從五位下。
二月甲戌。始置催鑄錢司。以從五位上多治比眞人三宅麻呂任之。讃岐國疫。給藥療之。」

この人物は「碑文」の中で「左中弁丹比真人」と書かれた人物と同一と思われ、その彼が発布した文章が碑文の「宣」と思われる訳です。
 「丹比真人三宅麻呂」は、「催鋳銭司」に選任されていますが、この地位は当事「大納言」であった「不比等」が選んだ可能性が高いと考えられます。すでに見たように「藤原不比等」は関東に関係の深い人物と考えられ、その関東から出た「和銅」に「彼」が関係していないとは考えられないからです。 
 また、「鋳銭司」は「大蔵省」の下にあった機関ですが、実際には「原材料」が出土する地方の国府に近いところに置き、該当する国府に管理させた事が記録に残っているため、この時も同様であったとすると、長官に任命された「三宅麻呂」もこの地方に頻繁に訪れていた可能性もあり、この地の「郡司」であったと考えられる「羊」(羊大夫)とは「既知の間柄であったでしょう。

 その三宅麻呂が発布した「碑文」の文章ではこの地に「多胡」郡を新たに設置したことになっています。(帰化人が多い地域であったことから「胡」(えびす…外国人のこと)が多(多い)という意を含んだ郡名称となっているのではないでしょうか)
 そして、その新たに設置した郡を「羊」という人物に「給」しているのです。しかもその郡の戸数は「三百戸」と書かれていますが、『続日本紀』によれば「三百戸」の位封は「従二位」に相当し、地位で言えば「右大臣」に相当するのです。そして、この当時「右大臣」といえば「藤原不比等」なのです。
 この「郡」を「羊」に「給」したのは「和銅」発見に関連するものであり、一種の褒賞と考えられ、結果的にその「多胡郡」の位封は「不比等」の元に入ったと考えられるわけであり、裏のシナリオは「不比等」が書いていたという可能性があるでしょう。 
 現地資料の一部には群馬地方特産の品物を奈良の天皇の元に日参したことから褒章としてもらった、という記事がありますが、この程度ではこのような膨大な領域を特定の個人には「給」したりはしないと考えられ、何か別の功績を認めたからに他ならず、「和銅」の件との関連が考えられるものです。
 
 改元の理由付けとして、自然銅(「和銅」)が発見されたので、それを「瑞祥」として改元し、記念に貨幣を鋳造、発行したということになりましたが、実際には「武蔵国秩父郡」には銅山がないと考えられています。
 この地から出土した「銅」(和銅)が「和同開珎」鋳造に使用された形跡はありません。実際には他の地で産出した銅が使用されたのです。「新和同」の産地は「山口県」(長登銅山)ですし、「古和同」は「大分県」(香春銅山)と考えられているわけです。「秩父」からは少量は出ても、貨幣鋳造に必要なほどではなかったか、あるいはまったく出なかったかと考えられます。つまり「秩父からの自然銅」というのは、いってみれば「でっち上げ」(詐欺)であり、この主役が「藤原不比等」と考えられ、「三宅麻呂」と「羊」という人物がその手下であったらしいと考えられます。
 似たような事例としては、対馬から金が出た、という記事が『続日本紀』にありますが、これも後年「詐欺」であったことが露見しています。この時は「大伴御行」が絡んでいたようです。

「(七〇一年)大寳元年…
八月…丁未。先是。遣大倭國忍海郡人三田首五瀬於對馬嶋。冶成黄金。至是。詔授五瀬正六位上。賜封五十戸。田十町。并■綿布鍬。仍免雜戸之名。對馬嶋司及郡司主典已上進位一階。其出金郡司者二階。獲金人家部宮道授正八位上。并賜■綿布鍬。復其戸終身。百姓三年。又贈右大臣大伴宿祢御行首遣五瀬冶金。因賜大臣子封百戸。田■町。注年代暦曰。於後五瀬之詐欺發露。知贈右大臣爲五瀬所誤也。撰令所處分。職事官人賜祿之日。五位已下皆參大藏受其祿。若不然者。彈正糺察焉。」

 このように当時瑞祥として鳥や亀などが発見されたり、金や銅が発見されたりした中にかなりの数の「詐欺」「欺瞞」があったことが推定されます。それというのもかなりの褒賞や税の減免などがあるなど、発見者を装うための動機を形成するに十分な背景があったものです。「対馬」からの「金」献上の場合「冶金」したとされる「三田首五瀬」という人物は「雑戸」という地位から脱却したかったという点が大きいものと思われます。
 ただし「対馬」の「金」については「大伴御行」も欺されていたことがいわれておりますから、「和銅」の場合も「大伴御行」と同様「不比等」自身もだまされたものなのかもしれません。あるいは「丹比真人三宅麻呂」さえも巻き込まれた被害者であったというシナリオもありそうです。


(この項の作成日 2011/01/17、最終更新 2012/09/04)(旧ホームページ記事より転載)

 

コメント

「藤原不比等」と「羊大夫」伝説

2018年12月29日 | 古代史

 群馬県に多野郡吉井町池(いけ)字御門(みかど)という場所があります。ここに「七一一年」の建立と伝えられる「多胡の碑」というものがあります。
 この碑には次のような文章が刻まれています。

「弁官符上野国片岡郡緑野郡甘/良郡并三郡三百戸郡成給羊/成多胡郡和銅四年三月九日甲寅/宣左中弁正五位下多治比真人/太政官二品穂積親王左太臣正二/位石上尊右太臣正二位藤原尊」

 これは朝廷が郡を設置して、それを「羊」という人物(?)に「給した」ということであるようです。碑文には時の朝廷の高官の名前が書かれています。(この碑文と同内容の記事が『続日本紀』の和銅四年三月六日の条にあります。それによれば「上野国の甘楽郡の織裳・韓級・矢田・大家、緑野郡の武美、片岡郡の山等六郷を割きて、別に多胡郡を置く」と書かれています)

 この碑文は「那須韋提」の碑と同様「朝廷」からの「文書」をそのまま書き写していると考えられます。その理由は「左大臣」と「右大臣」の名前の後ろには「尊」という敬称がついているのに対して、「宣左中弁正五位下多治比真人」というように「多治比真人」には何の「敬称」も付されていないことがあります。
 これは「宣」という言葉がついていることでも分かるように「弁官」としての「多治比真人」自身の言葉として「文章」が書かれているためと考えられ、それをそのまま「石碑」に引用しているものと推量されます。
 ちなみにこの「多治比真人」に該当する人物は「三宅麻呂」であると思われます。彼はこの「弁官符」が出された「和銅四年」(七一一年)の四年後の「和銅八年」(七一五年)にはその「左中弁」の上位職である「左大弁」の地位にあったことが確認されていますから、この「碑文」の「多治比真人」としては「三宅麻呂」しか候補がいないと思われます。
 この「碑文」の冒頭に書かれている「弁官符」という書き方は「弁官」の「符」からの引用です、という断り書きのようなものではないでしょうか。この「弁官符」が実質的な「太政官符」であったという考え方もあり、そうであればますます、その「符」の通りに書く必要があったと言うことが考えられます。
 そして「彼」(「多治比真人」)の言葉の中に「羊」に「給」う、というように「羊」という人物をある種「呼び捨て」にしているわけであり、また「給」うという言葉もいわば「上から目線」の言葉であって、そこに明確な「位階」の上下関係が存在していることを示すものです。つまり、この「羊」という人物はあくまでも彼よりも「目下」の人物であり、「在地」で任命された「郡司」であって、決して高い身分の存在ではないことが分かります。

 ところで、関東(現在の群馬県から埼玉県付近)には「羊太夫」伝説が各所にあり、それらの説には異同があってやや混乱がありますが、その内容としてはまず「羊」年の「羊」の日の「羊」の刻生まれであるため「羊太夫」と呼ばれた人物がいた、ということです。(ただし、「未年」という情報が欠落している伝承もあるようですが、「生まれ年」を「名前」とする例は圧倒的に多いものの、「年」の干支は「未」ではないのに それを名前にせず「月」や「時」が「未」であるからといってそれを名前とすることがあったとは考えにくいものであり、「年」「月」「日」「時」という四拍子が揃ったことで「羊」と称されるようになったと考える方が実際的ではないでしょうか。)
 また彼は本姓が「中臣氏」と考えられており、多胡家の墓地の石碑には「羊太輔・左大臣・正二位・藤原宗勝」と書かれていることや、「この仁、太政大臣の極官に任ぜられ候へども…」と書かれた文書も確認できます。(『古来之聞書』)
 さらに「青海羊太夫」とも呼ばれたようであること、(「釈迦尊寺の石碑」)そして「三日間朝廷に参内しなかったため」「討伐された」、とされている事、またその討伐された日付としては「養老四年八月八日」であり、その「討伐」には「安芸」(広島)地方より徴発された軍が主体をなし、討伐の褒章として「上州」「信州」「武州」の三州を賜った、という事等々が伝えられています。

 生まれ年が「未年」であると言う事及び「朱鳥」年間であるとする資料から考えると、「六九五年」」という年次が該当するという可能性が検討されるべきですが、これを「朱鳥九年」とするものもあり、この「朱鳥」が「六八六年」を元年とするものであるとすると、一年の違いが生じます。これは「六八七年」を元年とする「持統称制」期間との混乱が確認されるものであり、かなり早期に「朱鳥」についての混乱と忘却が発生していたことを示唆するものです。
 そして、これらの伝承と重なる人物として「藤原不比等」がいると言われています。(※1)たとえば「不比等」も「未年」生まれであり、元「中臣氏」であること、「右大臣・正二位」の地位に上がり「太政大臣」に請われていること(ただし『続日本紀』によればこれを断っています)、また死後「淡海公(=青海)」の謚名をされていること、また、『続日本紀』による死去した日付は「養老四年八月三日」となっていて現地資料と非常に接近していることなどがあります。それに加え死去した際の『続日本紀』の「葬儀」に関する記事が簡易に過ぎることがあるとされます。彼は当時「右大臣」と言う地位(要職)にあるわけですが、そのような高位にあるものが死去した際の例としては異常に「簡易」であり、葬儀担当者を定めたわけでもなく、翌日には人事を行っており、喪に服した形跡がないことなどがあるというわけです。また、死去に際しては、九州で隼人征伐をしていた「大伴旅人」を急遽都に呼び返し、京内の軍事面を補強していることも何らかの軍事的事変の発生を想定させるものとされます。これらのことから、「羊」=「不比等」説というものが出てくるわけですが、上に述べたように「羊」は「多治比真人」より目下の人物であると思われ、その場合「藤原不比等」は対象外とならざるを得ません(但し同じ「藤原」ないし「中臣」氏族であるとは思われますが)。しかも「生年」が「朱鳥年間」とするわけですから、通常の考えでは「不比等」は全く候補として論外となるでしょう。
 但し「朱鳥」についてはすでに検討したように通常の理解と異なり「六四〇年前後」にその元年がある可能性が考えられますから、その場合の「未年」を考えると、「六三五年」あるいは「六四七年」が候補として浮かびます。それが「朱鳥十年」(九年は称制期間か)であるとすると、「元年」は「六二五年」あるいは「六三七年」となります。私見では既に「日本国」創建の年次として「六四〇年」を想定したこととの関連からみて、「六三七年」が「朱鳥元年」(改元の年)である可能性が高く、その時点で「称制」が開始されたとみるべきでしょう。
 そして「唐」で行われた「朔旦冬至」の儀式に「蝦夷」を伴って使者を派遣したのが「六四〇年」と考えられ、その翌年の正月の元日朝賀にその蝦夷も参加したというわけです。その際の「宴」で読まれた「漢詩」が『懐風藻』に収録されていると考えられるものです。

 地元の「羊大夫」伝承によれば「物部」滅亡の時点でそれに加勢していた勢力である「中臣」氏(「羽鳥連」とも「服部連」とも言う)が「関東」に「流罪」になったというように伝えられています。「羊大夫」はその子孫であると言うこととなっているのです。
 ところで『常陸国風土記』にあるように「高向大夫」とともに「中臣幡織田連」という人物が「アヅマ」の地を「統治」する事を任されています。
 彼らは「総領」とその「補佐」として「常陸」に所在していたものと考えられますが、「我姫(アヅマ)」の国をより細かく統治するためそれまでの「道―国」制を改め「広域行政区域」としての「国」を定め、従来の「クニ」を「県」として「国県制」を「アヅマ」に施行したものと推察されます。これらにより、「倭国」中央のつながりを確保すると共に、「自分たち」自身の「東国」全体に対する影響力の確保も合せて行ったものでしょう。
 「羊大夫」伝説の中心地は「北関東」であり、元々この地域は、ここに地盤があった「関東王権」の中心的な地域でしたが、「利歌彌多仏利」の「日本全国統一」という事業遂行の中で「行政」の網をかぶせられることとなったものと考えられますが、「倭国中央」の文化(宗教など)の強制などの施策を受け入れていく中で「地方政権」として矮小化されていったものと推量されます。
 このような中で「元々」「倭国政権」に近い立場であった地域である「常陸」から「総領」として存在する事となった「高向大夫」「中臣幡織田連」の支配を受けることとなったことが(後の)「羊大夫」伝説につながっていくこととなると思われます。
 ここで「羊」に付されている「大夫」という呼称は『常陸国風土記』の中でも「総領高向大夫」というように使用され、この時点の朝廷において「律令」が制定・施行された際に「五位以上」の官職に対する「称号」として使用され始めたものと思料され、「羊」もこの制度の中で「五位以上」の官職を得ていたという可能性もあります。
 「五位以上」となると「太宰府」「摂津職」などにおいては「次官」以上の地位に付くことが可能であり、「高向大夫」「中臣連大夫」として出てくるのは「惣領」という地位が、それら「摂津職」などの地位と実質変わらないことを示すもののようです。
 「羊」(「羊大夫」)という人物はこの「中臣幡織田連」の「子孫」ではないかと考えられ、「不比等」も同族だったのではないかと考えられるものです。
 このことに関して、伝承では「羽鳥連ないし服部連」の子供が「菊連」であり、その「子供」が「羊大夫」とされています。
 伝承では「物部守屋」滅亡の際に「羽鳥連ないし服部連」はその「一味」として「流罪」となって東国に来たとされています。また「羊大夫」が「多胡郡」を「給」されたのが「養老八年」とされこれは通常「七一一年」と考えられていますが、上に見たように「羊大夫」が「六三七年」という年次が彼の生年であるとみると、彼は「碑文」が書かれた時点で「七十歳」を過ぎたぐらいとなります。決して不可能な年齢ではないとは思われます。
 「父」である「菊連」は「羽鳥ないし服部連」が「東国」に流されてから現地で生まれたとされていますから、「物部」の滅亡が「五八七年」のことであり、それから東国に流された後彼が生まれたとすると、想定した「羊」の生年と思われる「六三七年」までは約「五十年」ほどあり、これが「菊連」の年齢としてそれほど不自然ではなさそうです。

 また、伝えられる史料の中には「流罪」となっていた「羽鳥とその子供の菊連」が「大赦」を受けて復権したように書かれているものもありますが(※2)、これは実際には「六四七年」と推定される「阿毎多利思北孤」の「太子」とされた「利歌彌多仏利」の死去の際の「大赦」と考えられ、この時点で「罪一等」が減ぜられ、元の地位や権利などを「復権」していたとみられます。
 一般に当時の「流罪」というものの有効期間は「王権の代表権力者」の生存期間に限られるようであり、ここでも「流罪」という決定をしたと思われる「阿毎多利思北孤」と「利歌彌多仏利」の親子が生きている間であったらしいことが読み取れます。「物部」が滅亡する事件発生の際に権力の座にあった「両天子」の死去を以て「罪状」が消滅したと考えられたのではないでしょうか。

 この「石碑」の周辺にはいくつか古墳が見られますが、それらの古墳のうち「初期」のものと考えられる古墳からは(北山茶臼山古墳)「三角縁画文帯盤龍鏡・玉類・刀類」が出土し、それはあたかも「三種の神器」のような組み合わせです。また、「五~六世紀」のものと推定される古墳からは「舟形石棺」が見られます。いずれの出土物も「北部九州」に関係の深いものであり、それは以前から「倭国」との関係が深かった「常陸」の領域と、「北関東」領域の関係が新たに構築されたことを示していると考えられます。
 前の論と併せ、「中臣氏」と「関東」の間には深い関係があったように思えることを述べました。その意味で「藤原不比等」という人物も「関東」と関係があるのではないかと考えられるものです。
 可能性としては「不比等」は関東の出身であり、何らかの「手柄」を立て「中央」に進出していったと思われます。
 それが「和銅」産出だったのではないでしょうか。


(※1)関口昌春『羊大夫伝承と多胡碑の謎』文芸社
(※2)『七興山宗永禅寺略記』


(この項の作成日 2011/01/17、最終更新 2014/12/19)(旧ホームページ記事に加筆して一部内容を改めたもの)

コメント

「藤原不比等」について

2018年12月29日 | 古代史

 『書紀』に書かれた「大化の改新」の陰の主役とも言えるのが「藤原鎌足」です。「藤原鎌足」は「天武天皇」から元の姓である「中臣」に代え「藤原」姓を授かったものであり、「鎌足」の子供たちのうち、その「藤原」性を受け継ぐことを唯一許可されたのが「不比等」の子孫たちであったと『続日本紀』に書かれています。(他の子供たちは「中臣」姓に戻されています)

「文武二年(六九八)八月丙午十九。詔曰。藤原朝臣所賜之姓。宜令其子不比等承之。但意美麻呂等者。縁供神事。宜復舊姓焉。」

 また、「不比等」は記録によれば、出生に「あるいきさつ」があり、両親のもとで育てることがはばかられたため、「田辺史大隈」のもとで育てられ、それにより、「一名」「史」(不比等)、と言うということになっています。「一名」とは「通称」のことであり「本名」ではありません。この時代「通称」はよく使用されていたようであり、たとえば「大伴馬養」の場合は「長徳」という「通称」(字(あざな)と言うべきか)が知られています。しかしこの「大伴馬養」の場合は「本名」(諱)も伝わっているものであり、「通称」だけが伝わっているというのは「希」ではないかと思われます。
 また『公卿補任』などによれば「不比等」の実母は「車持君」の「娘」の「与志古」とも伝えられています。

「大宝元年条 中納言 従三位 藤原朝臣不比等   三月十九日任。叙従三位。廿一日停中納言為大納言。改直廣一授正三位。/内大臣大織冠鎌足二男(一名史。母車持国子君之女與志古娘也。車持夫人)。」

「田辺氏」と「車持氏」とは『新撰姓氏録』をみるといずれも「祖」を「豊城入彦命」としており、関係があったことが知られます。

左京 皇別   車持公  上毛野朝臣同祖 八世孫射狭君之後也 雄略天皇御世。供進乗輿。仍賜姓車持公
右京 皇別   田辺史  豊城入彦命四世孫大荒田別命之後也
(『新撰姓氏録』第一帙/皇別)

 つまり私たちが知っている「不比等」は単なる「通称」であり、「諱」つまり本当の名は終生わからないという状態になっているわけです。
 彼についてはこのように謎が非常に多く(本名もそうですが)、その前半生については全く不明であり、『書紀』に登場するのは三十歳を超えてからです。『藤原家伝』にも「不比等伝」は設けられていません。「鎌足」の伝とされる「大織冠伝」「定恵伝」「武智麻呂伝」等あるものの実質的な「藤原氏」の祖とされる「不比等」については「伝」が建てられていないのです。
 また、自分の娘(「宮子」)を「聖武天皇」に輿入れさせていますが、その地位は「夫人」(ぶにん)であり、他の氏族(紀朝臣および石川朝臣)の娘が「妃」であるのに対して身分が低いのです。
 「妃」になるための条件としては当時「皇女」か「内親王」でなければならなったものであり、「紀朝臣」および「石川朝臣」は皇室と縁組みをしているのですが、「不比等」の場合は一般人(県犬養美千代)と結婚しており、「大化の改新」の立役者であり、大織冠を贈呈された人物の子供でありながら、皇室との関係が薄いのです。その理由として大きいのは「天智」の「近江朝廷」が「壬申の乱」で滅びたため、「中臣氏」も不利な立場になったことがあるでしょう。

 当時「右大臣」であった「中臣金」は「近江方」としてただ一人「斬刑」とされていますし、その子供達は「流罪」となってしまいました。「鎌足」はそれ以前に(諸説あるものの)「死去」しています。その子供である「不比等」については全く記録に表れませんが、「流罪」となっていたという可能性もあります。それは彼が預けられていたとされる「田辺史」も「乱」に参加し敗北しており、彼のような「朝廷」の重臣ではなかった者についての措置は『書紀』に記されていないものの、中には「流罪」となったものもいたとして不思議ではなく、そのため、「不比等」にも「責」が及んだという可能性はあります。つまり「不比等」は「田辺史」とともにどこかに「流罪」となっていたという可能性が考えられるわけです。

 このような「流罪」については「天皇」等主権者の交替時「大赦」が行われ「復権」していたと言うことが想定されますが、「不比等」の場合も「天武」から「持統」に交代後の「持統三年」段階で初めて『書紀』に登場します。これなども「天武」の死去にともなう「大赦」との関係が考えられますが、実際には「天武」の時代にも「大赦」は行われておりそれと齟齬するようにも見えます。これについては「既に配流」となっている者には適用しないという一言が加えられている場合があり、そのために「復権」できなかったと言うことが考えられるでしょう。

「(六七六年)五年…
八月丙申朔…
辛亥。詔曰。四方爲大解除。…。
壬子。詔曰。死刑。沒官。三流。並除一等。徒罪以下已發覺。未發覺。悉赦之。『唯既配流不在赦例。』…」

 「天武」の時代の「大赦」は「壬申の乱」の敵側の関係者を想定して、彼らについては「大赦」の対象としないという方針ではなかったかと思われるのです。

 その「不比等」等の「配流」の地について考えた場合参考となるのが「不比等」や「鎌足」など「中臣」という氏族について「常陸」の「鹿島」が出身地である、という伝承があることです。
 茨城県の鹿島神宮に伝わる『八幡宮御縁起』には以下のような文章があります。

「磯良と申すは筑前国鹿の島の明神の御事也。常陸国にては鹿嶋大明神、大和国にては春日大明神、是みな一躰分身、同躰異名にてます」

 また『常陸国風土記』によれば「香島郡東大海 南下総常陸堺安是湖 西流海 北那賀香島堺阿多可奈湖/,古老曰 難波長柄豊前大朝馭宇天皇之世 己酉年 大乙上中臣/■子 大乙下中臣部兎子等 請総領高向大夫 割下総国…」とあり、「中臣氏」とその「部民」である「中臣部氏」が「常陸」の領域において現地の首長層として存在しているようです。

 また「謡曲」の「香椎」の中では以下のように描写されています。

「(前略)干珠といふは白き玉。満珠といふは青き玉。豊姫と右大臣に持たせ参らせて。三日と申すに龍宮を出で。皇后に参らせさせ給ひけり。かの豊姫と申すは。川上の明神の御事。あとへのいそらと申すは。筑前の国にては。志賀の島の明神。常陸の国にては鹿島の大明神。大和の国にては春日の大明神。一体分身同体異名現れて。御代を守り給へり。(後略)」

 これらを通じて言えることは、「筑前国鹿の島(志賀の島)の明神」について「筑紫」が「本社」であり、その分社が「常陸」と「大和」にあるとされており、これらのことは「筑紫」と「常陸」の関係、及び「阿曇磯良」と「中臣氏」との関係が深いことを物語っています。(「常陸」の領域は「土器」も「九州」のタイプが出ますし、「装飾古墳」もあり、深い関係があったと考えるべきでしょう)
 その「阿曇磯良」を祀っている神社の本社は「筑紫」の「阿曇磯良」神社です。この神(人物)は「阿曇族」の守り神であると同時に「宗像」など他の海人族の信仰も多く集めていたものです。「常陸」に「鹿島明神」として「阿曇磯良」が祀られている、という事は、『常陸国風土記』の記述が不自然ではなく、「常陸」に「中臣氏」の基盤があったことを強く推定させるものです。
 これらのことは「中臣氏族」の一人と考えられる「不比等」についても「関東」(常陸)の出身ではないかという疑い(可能性)を示唆するものですが、それはまた「不比等」が「関東」に流されていたのではないかという上記の可能性にもつながるものです。


(この項の作成日 2011/01/17、最終更新 2014/12/19)(旧ホームページ記事に加筆して転載)

コメント