「九州倭国王権」は「六世紀末」という時期に「近畿」へ勢力を進出させ、「難波」に仮宮を設けたと思われますが、その際に「評制」を全面的に施行し、「評督」や「助督」(あるいは評造)という「制度」(職掌)を定めたと見られます。そしてこれらの「制度」の「トップ」と言うべき存在は「都督」であったと思料されます。
『書紀』の『天智紀』には「熊津都督府」から「筑紫都督府」への人員送還記事があります。
「百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等 送大山下境部連石積等於筑紫都督府」「(天智)六年(六六七年)十一月丁巳朔乙丑条」
これによれば「六六七年」という段階で「都督府」が存在していることとなりますから、(当然)「筑紫」には「都督」がいたことと考えざるを得ません。そして、この「都督」が「評督」と深く関係している制度であると言うことはすでに「古田氏」の研究により明らかになっていますが(「大化の改新と九州王朝」「市民の古代・古田武彦とともに第6集」1984年「市民の古代」編集委員会)、「都督」は文字通り「首都」防衛の最高責任者であり、「畿内」を制定し、「評制」を施行し「防人」を徴発する体制を確立した時点で、その「軍事的」防衛線の構築の最高責任者として、「阿毎多利思北孤」段階で施行・任命されたものと考えられます。
そもそも南朝の制度では天子の下に「太宰」がおり、天子に次ぐ権力を有し、さらにこの下に「都督」がいました。つまり、都督は天子の臣下中ナンバー2の存在なのです。倭国でも、政治的な責任者である「太宰」と軍事的責任者である「都督」は本来は別の人間が当てられていたものと思われ、倭国では「太宰」の役には「皇子」が任命されており、「摂政」として政務をみていたとみられます。
また、いわゆる「神護石」遺跡群のかなりのものはこの時点で造られたものと考えられ、これは「畿内」としての「筑紫」防衛の一端であったものと思料されます。
ただし、この「神護石」はその造られた時期と使われた時期などがかなり多様であり、複雑なものと考えられています。出土する土器などから考えて、その一部については「卑弥呼」の時代まで遡るものもあると思われますし、また「物部」の「筑紫占拠時代」(六世紀前半から末まで)に造られ、使用されたものもあるものと考えられます。
加えてこの「六世紀末」という時期に「難波」仮宮の朝廷から造られたものもかなりあると考えられ、それは「畿内」(首都)防衛のためのものであり、防人などと連動した施設であったものと考えられるものです。
さらに「利歌彌多仏利」段階で「軍制」が制定され、施行されたものと考えられ、その中に「都督」なども規定されていたものと思料されますが、その時点でも「神籠石」という「山城」が構築されたと見られます。
つまり「阿毎多利思北孤」段階では「太宰」-「国宰」という「行政システム」と同時に、「都督」-「評督」という組織が重なるように出来たわけであり、これは「太宰」-「国宰」ラインが、より「政治的」なシステムであったのに対して、「都督」-「評督」ラインは「軍事的」なシステムであった事が大きく相違していると考えられます。
「難波副都」を制定し「難波宮殿」などが造られるという時点である「七世紀前半」は、「隋」が滅び「唐」が建てられた時期であり、また「隋」を滅ぼした「高句麗」の影響により「新羅」「百済」が対外戦闘能力を強化させるなどの策を講じていた時期であり、そのような時期に「最前線」とも言うべき場所にある「首都」「筑紫」に対する「防衛線」の構築という重要な事業が為され、その中で「都督」が任命され、「都督府」が設置されたと考えるのは大変「自然」であり妥当と考えられるものです。
そして、その「都督」の「配下」と考えられる「評督」という官職名にも、軍事的要素が含まれていると考えられます。これは「評」が意味する地域の権力者と言うだけではなく、その地域の「軍事的」あるいは「警察・検察機構」としての指導力(治安維持能力)を持った人間を指すと思われます。それは「都督」という用語が「総大将」とか(特に)「首都の軍事的責任者」という意味合いがあるように、「評督」にはその地域の軍事的責任者(将軍)という意味合いが持たせられているのではないかと思われます。後に『大宝令』でも、兵衛府・衛門府等の長官職のことを「督」と呼ぶのはその名残と思われます。
「六世紀末」の倭国中枢部は「富国強兵」策を取ろうとしていたと見られ、「軍事・警察」面強化という部分に着目し、「評」という制度を「天下」(国内)に全面的に適用し大規模に「徴兵」を開始したことと推量されるものです。このことは「国家体制」の頂点では「太宰」と「都督」、末端側では「国宰」と「評督」が並立・併用されていたことを意味していると考えられますが、この時代は「阿毎多利思北孤」の次代の倭国王としての「利歌彌多仏利」(これは「押坂彦人大兄」に擬される)とその弟の「難波王」という兄弟統治をしていたと見られますから、不自然ではありません。
「国宰」の管掌する範囲のなかには複数の「評督」がいたと考えられますが、「国宰」には軍事に関する権能がなかったと思われ、「評督」を管掌しているのは「総領」がいる地域では「総領」が、いない地域では「都督」直接が管掌していたものと見られ、「国宰-大宰」とは別の指揮命令系統があったものと考えられます。
その分担の中身としては、「利歌彌多仏利」が「評制」施行に主体的役割を演じ、「東国巡行」をして「難波」に仮宮を築き、「評制」施行を実行したものと考えられます。しかし、その後彼は「宗教的権威」に身を転じ、「政治」の世界から遠ざかったと見られ、「軍事的システム」である「評」制の頂点にいたのは「弟王」である「難波皇子(王)」(それに擬される人物)であったと考えられます。
その後『三国史記』や『旧唐書』『新唐書』などによると、「六七四年二月」という時点の事として「唐」の高宗が「新羅」の「文武王」の官位を剥奪し、「唐」と「新羅」は「戦闘状態」に入ったとされます。また『書紀』によればその直後の翌「六七五年」に「新羅」の王子「忠元」が来倭しています。
この「来倭」記事は「対百済」への影響力行使の要請ではなかったかと考えられ、少なくとも「百済」を援助したり加勢したりすることのないようにという「強い要請」を行ったものと思料されます。それを示すように「王子」がまだ「筑紫」滞在中と思われる翌月(三月)に、筑紫太宰「栗隈王」を「兵政官長」(軍事部門の最高責任者)にし、「大伴連御行」をその次官である「大輔」に任命しており、筑紫地域の軍事部門の強化を図ったとみられます。
「六七五年三月庚申(十六日)諸王四位栗隈王爲兵政官長。小錦上大伴連御行爲大輔。」
この「兵政官長」は実際には「都督」ではなかったかと考えられます。つまり、「筑紫太宰」という行政府の長たる職掌にある「栗隈王」に対し、軍事面においての「長」である「都督」も兼務するという人事が行われたと見られます。このような兼務は『二中歴』の「都督歴」によれば「蘇我日向」以来であるとされますが、実際には「太宰」はその後もそうですが、「親王任国」の対象であったものであり、親王(つまり「天皇」の後継資格を持った人物)が任命されていたと思われるわけです。それに対し「都督」はその「太宰」に次ぐ地位として軍事部門を専管していたものと考えられます。
『書紀』には「大宰」はかなり出てきますが、「都督」は上記の「都督府」という形でしか出てきませんしそれもただ一度だけです。「都督」は「首都防衛軍」の長であるわけですから、「倭国九州王朝」の直属の人間で構成されていたと考えられ、そのことにより「都督」関係記事については「詳細」な描写や記事は「御法度」となったものではないでしょうか。
このことから、『書紀』(つまり「八世紀」の新日本国王権関係者)が本当に隠したかったのは「都督」であり「都督府」であったと思われます。逆に言うと「大宰」は隠蔽の程度が薄いと考えられ、そのことは「利歌彌多仏利」の「弟王」(難波王)以降については「近畿王権」との関係が深かったという可能性が考えられるところです。
『書紀』の『天智紀』には「熊津都督府」から「筑紫都督府」への人員送還記事があります。
「百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等 送大山下境部連石積等於筑紫都督府」「(天智)六年(六六七年)十一月丁巳朔乙丑条」
これによれば「六六七年」という段階で「都督府」が存在していることとなりますから、(当然)「筑紫」には「都督」がいたことと考えざるを得ません。そして、この「都督」が「評督」と深く関係している制度であると言うことはすでに「古田氏」の研究により明らかになっていますが(「大化の改新と九州王朝」「市民の古代・古田武彦とともに第6集」1984年「市民の古代」編集委員会)、「都督」は文字通り「首都」防衛の最高責任者であり、「畿内」を制定し、「評制」を施行し「防人」を徴発する体制を確立した時点で、その「軍事的」防衛線の構築の最高責任者として、「阿毎多利思北孤」段階で施行・任命されたものと考えられます。
そもそも南朝の制度では天子の下に「太宰」がおり、天子に次ぐ権力を有し、さらにこの下に「都督」がいました。つまり、都督は天子の臣下中ナンバー2の存在なのです。倭国でも、政治的な責任者である「太宰」と軍事的責任者である「都督」は本来は別の人間が当てられていたものと思われ、倭国では「太宰」の役には「皇子」が任命されており、「摂政」として政務をみていたとみられます。
また、いわゆる「神護石」遺跡群のかなりのものはこの時点で造られたものと考えられ、これは「畿内」としての「筑紫」防衛の一端であったものと思料されます。
ただし、この「神護石」はその造られた時期と使われた時期などがかなり多様であり、複雑なものと考えられています。出土する土器などから考えて、その一部については「卑弥呼」の時代まで遡るものもあると思われますし、また「物部」の「筑紫占拠時代」(六世紀前半から末まで)に造られ、使用されたものもあるものと考えられます。
加えてこの「六世紀末」という時期に「難波」仮宮の朝廷から造られたものもかなりあると考えられ、それは「畿内」(首都)防衛のためのものであり、防人などと連動した施設であったものと考えられるものです。
さらに「利歌彌多仏利」段階で「軍制」が制定され、施行されたものと考えられ、その中に「都督」なども規定されていたものと思料されますが、その時点でも「神籠石」という「山城」が構築されたと見られます。
つまり「阿毎多利思北孤」段階では「太宰」-「国宰」という「行政システム」と同時に、「都督」-「評督」という組織が重なるように出来たわけであり、これは「太宰」-「国宰」ラインが、より「政治的」なシステムであったのに対して、「都督」-「評督」ラインは「軍事的」なシステムであった事が大きく相違していると考えられます。
「難波副都」を制定し「難波宮殿」などが造られるという時点である「七世紀前半」は、「隋」が滅び「唐」が建てられた時期であり、また「隋」を滅ぼした「高句麗」の影響により「新羅」「百済」が対外戦闘能力を強化させるなどの策を講じていた時期であり、そのような時期に「最前線」とも言うべき場所にある「首都」「筑紫」に対する「防衛線」の構築という重要な事業が為され、その中で「都督」が任命され、「都督府」が設置されたと考えるのは大変「自然」であり妥当と考えられるものです。
そして、その「都督」の「配下」と考えられる「評督」という官職名にも、軍事的要素が含まれていると考えられます。これは「評」が意味する地域の権力者と言うだけではなく、その地域の「軍事的」あるいは「警察・検察機構」としての指導力(治安維持能力)を持った人間を指すと思われます。それは「都督」という用語が「総大将」とか(特に)「首都の軍事的責任者」という意味合いがあるように、「評督」にはその地域の軍事的責任者(将軍)という意味合いが持たせられているのではないかと思われます。後に『大宝令』でも、兵衛府・衛門府等の長官職のことを「督」と呼ぶのはその名残と思われます。
「六世紀末」の倭国中枢部は「富国強兵」策を取ろうとしていたと見られ、「軍事・警察」面強化という部分に着目し、「評」という制度を「天下」(国内)に全面的に適用し大規模に「徴兵」を開始したことと推量されるものです。このことは「国家体制」の頂点では「太宰」と「都督」、末端側では「国宰」と「評督」が並立・併用されていたことを意味していると考えられますが、この時代は「阿毎多利思北孤」の次代の倭国王としての「利歌彌多仏利」(これは「押坂彦人大兄」に擬される)とその弟の「難波王」という兄弟統治をしていたと見られますから、不自然ではありません。
「国宰」の管掌する範囲のなかには複数の「評督」がいたと考えられますが、「国宰」には軍事に関する権能がなかったと思われ、「評督」を管掌しているのは「総領」がいる地域では「総領」が、いない地域では「都督」直接が管掌していたものと見られ、「国宰-大宰」とは別の指揮命令系統があったものと考えられます。
その分担の中身としては、「利歌彌多仏利」が「評制」施行に主体的役割を演じ、「東国巡行」をして「難波」に仮宮を築き、「評制」施行を実行したものと考えられます。しかし、その後彼は「宗教的権威」に身を転じ、「政治」の世界から遠ざかったと見られ、「軍事的システム」である「評」制の頂点にいたのは「弟王」である「難波皇子(王)」(それに擬される人物)であったと考えられます。
その後『三国史記』や『旧唐書』『新唐書』などによると、「六七四年二月」という時点の事として「唐」の高宗が「新羅」の「文武王」の官位を剥奪し、「唐」と「新羅」は「戦闘状態」に入ったとされます。また『書紀』によればその直後の翌「六七五年」に「新羅」の王子「忠元」が来倭しています。
この「来倭」記事は「対百済」への影響力行使の要請ではなかったかと考えられ、少なくとも「百済」を援助したり加勢したりすることのないようにという「強い要請」を行ったものと思料されます。それを示すように「王子」がまだ「筑紫」滞在中と思われる翌月(三月)に、筑紫太宰「栗隈王」を「兵政官長」(軍事部門の最高責任者)にし、「大伴連御行」をその次官である「大輔」に任命しており、筑紫地域の軍事部門の強化を図ったとみられます。
「六七五年三月庚申(十六日)諸王四位栗隈王爲兵政官長。小錦上大伴連御行爲大輔。」
この「兵政官長」は実際には「都督」ではなかったかと考えられます。つまり、「筑紫太宰」という行政府の長たる職掌にある「栗隈王」に対し、軍事面においての「長」である「都督」も兼務するという人事が行われたと見られます。このような兼務は『二中歴』の「都督歴」によれば「蘇我日向」以来であるとされますが、実際には「太宰」はその後もそうですが、「親王任国」の対象であったものであり、親王(つまり「天皇」の後継資格を持った人物)が任命されていたと思われるわけです。それに対し「都督」はその「太宰」に次ぐ地位として軍事部門を専管していたものと考えられます。
『書紀』には「大宰」はかなり出てきますが、「都督」は上記の「都督府」という形でしか出てきませんしそれもただ一度だけです。「都督」は「首都防衛軍」の長であるわけですから、「倭国九州王朝」の直属の人間で構成されていたと考えられ、そのことにより「都督」関係記事については「詳細」な描写や記事は「御法度」となったものではないでしょうか。
このことから、『書紀』(つまり「八世紀」の新日本国王権関係者)が本当に隠したかったのは「都督」であり「都督府」であったと思われます。逆に言うと「大宰」は隠蔽の程度が薄いと考えられ、そのことは「利歌彌多仏利」の「弟王」(難波王)以降については「近畿王権」との関係が深かったという可能性が考えられるところです。