不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「言論の自由」の保証と「学術会議」

2020年10月31日 | 社会・制度
 「日本学術会議」への会員任命拒否問題では2つのことが世上議論されているようです。ひとつは「任命拒否」と「憲法」の関連、一つは「日本学術会議」という団体の性格と現状です。
 そして「学術会議」の現状に批判的な人々は、その現状と「任命拒否」を関連させて考えているようですが、私見ではこの2つを関連させるのは明らかな間違いとみます。

 そもそも「憲法には「言論の自由はこれを保証する」という条項(「集会,結社及び言論,出版その他一切の表現の自由は,これを保障する」(21条))がありますが、憲法の性格上、それは国家に課した制約であると同時に強制とみるべきです。
 この条項を遵守するとすれば実際に「言論の自由を保証している」ことを行動として明かす必要が出てきます。そのような行動の一環として「学術会議」への資金の提供があるとみるべきでしょう。

 もともと「学術会議」は戦時中戦争遂行に協力した反省から国家とは距離を置く組織として再開したものですが、他方「国家」は新憲法のもとで言論の自由を保証する責務を負ったことから、その具体的な行動として「国家」とは独立して研究を行う学者集団に対し運動資金を提供し、その保護を積極的に行うとともにその研究成果を確認し国民に還元する役割を負っていたものです。

 仮に学者あるいは学者集団が「国家」の行動や方針に反する研究などを行っていたとしても、憲法上それも「保証すべき言論」であり、その「保証」の具体的内容として資金の提供があると理解すべきです。
 つまり「資金」を提供しているとしてもそのことが「国家」が関与していいというエクスキューズにはなりえないということです。
 この理路からは当然のこととして「学術会議」の構成やその行動内容に「国家」が関与するべきではないことが明確になります。当然「会員」の変更は「会議」側の主体として決まるべきものであり、「総理大臣」が「任命する」というのも単に「形式」ということとなるでしょう。(「実質」があっては「言論の自由」保証行動の一環ではなくなってしまうからです。)

 評判にあるような「学術会議」の構成や内容に問題があったとしても「国家」がそれについて関与することは決してできないし、してはならないことなります。
 また提供される資金は「国民の税金である」としてその使途についてあたかも国家が関与できるかの言論もありますが、彼らが違法性のある研究や資金の使途が不明などの問題でもない限りそれはできないと考えるべきです。

 またこのことは「学術会議」が「国から金をもらってはいけない」というエクスキューズにもならないということにもなるし、「国家」から独立した団体となるべきという議論も誤っていることとなるでしょう。それでは国家が「言論の自由」を保証しているということを行動として示す例(それも重要な一例)が一つ消えてしまうこととなります。それは双方にとって喜ばしいことではないと思われます。

 また「学術会議」が軍事に関係する可能性のある研究を禁止していたという事例については、アインシュタインの例を思い出してしまいます。彼が相対論の研究からE=mc2という有名な式を導き出し、その成果が核兵器につながったことを終生彼が悩んでいたという話を思い起こせば、どんなに優れた研究でも大量殺人兵器になりうるという側面を無視しては彼の悩みに思いが致されていないことになるのではないでしょうか。
 それがどんなに優れた研究でも、そのことで無辜の人々の血が流されるという可能性を考えれば研究は抑制的であるべきだし、情報管理には強い関心が払われるべきでしょう。
 科学の発展には必ず負の側面があり、それが便利で快適な生活につながるものであるとしても、他方それが人の命を奪う凶器になりうることについて深い自覚があるべきと思われるのです。
コメント

古代の「成人」

2015年08月24日 | 社会・制度
 このたび18歳以上の男女に選挙権が認められるようになりました。高校三年生の一部はそれに該当します。それがいいことなのかどうかは簡単には言えませんが、成人の規定については変化しないということですから、社会全体にとって大きい影響があるとは見られないでしょう。

 ところで、日本では古代から(少なくとも律令制が施行されていた「奈良時代」)成人は満20歳以上とされていましたが、「(幼)小」は「15歳未満」とされ、「15歳」(数えの16歳)になると「大人」の扱いとなりました。(中丁と称したもの)

「凡男女。三歳以下為黄。十六以下為小。廿以下為中。其男廿一為丁。六十一為老。六十六為耆。無夫者。為寡妻妾」(『養老令』(戸令))

 たとえば「立太子」つまり「後継者」として選ばれるためには「15歳以上」であることが必要でした。「聖徳太子」も「日本武尊」も「中大兄皇子」も「16歳」(数え年)での活躍が資料に残されています。

「…是時廐戸皇子束髮於額。古俗年少兒年十五六間。束髮於額。十七八間。分爲角子。今亦爲之。…」(推古紀)
「…冬十月丁酉朔己酉、遣日本武尊令?熊襲、時年十六。…」(景行紀)
「(六四一年)十三年冬十月己丑朔…丙午。殯於宮北。是謂百濟大殯。是時東宮開別皇子年十六而誄之」(舒明紀)

 また「推古天皇」は「十八歳」になって「結婚」しています。(これも数え年)

「豊御食炊屋姫天皇。天國排開廣庭天皇中女也。橘豊日天皇同母妹也。幼曰額田部皇女。姿色端麗。進止軌制。年十八歳立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后。」(推古即位前紀)

 これは「満17歳」以上になったという条件を満たしたことがその前提と思われますが、この年齢基準はその後も残っていたものと思われ、「元服」や「裳着」という習慣として残ったものです。旧民法規定の婚姻可能な年令の下限規定としても「男15歳女17歳」というものがあり、それもこの古代の制度が慣習化したものを規定としたものと思われます。

 また「倭国王」(天皇)として即位するには「成人」であることもまた必要でした。「幼少」でない場合、つまり「立太子」していた場合は「皇后」が「成人」までの期間「称制」したものです。(立太子もしていないような場合は『懐風藻』にみられるように群卿諸皇子などの合議によりどうするか決めていたもの)
さらに「初叙」の年齢は25歳とされていたものであり、この年齢に達しなければ「官庁」に出仕することができませんでした。

 ところで、20歳以上には「租庸調」や「兵役」の義務がありましたが、20歳以下にはそれはありませんでした。「班田」は幼小であってもであっても与えられましたが、「租」の負担義務は「成人」だけが負っていました。
 このような制度は元々原初的なものであり、律令制度施行以前において15歳という年齢が(男子としては)大人になるための境界条件として存在していたものと思われますが、律令制が施行された段階で、それが取り込まれ、「中丁」というものに形を変えて現われたものと推量します。(「隋・唐」の律令の影響と思われます)
 この段階以降「15歳以上20歳以下」の人間については「大人の権利」はありながら、「大人の義務」はないという状態となったものです。

 このような一種のモラトリウム期間が設けられたことにより、それが人間的成長を促し、「成人」になる準備期間として存在していたと考えられます。つまり、15歳になると、大人としての「権利」は認められ、それを行使するうちに自然と「責任感」がわき起こるという中で「制度」として「義務」が負荷されるという流れとなっているわけです。
 現状のように20歳までは大人としての「義務」も「権利」もなく、20歳になったところで「権利」と「義務」が同時に与えられるというのは「準備期間」がなく、戸惑いがあって当然とも思います。古代のシステムはその意味である意味合理的ではないでしょうか。
 その意味では「権利」と「義務」が表裏一体という考え方そのものが本当に正しいのかが問われているとも言えます。このような考え方は「市民意識」の成立と関係があり、西欧において「市民」としての「義務」と「権利」が確立していなかった時代に、「市民革命」を行う中で理論化され、構築されたものとも思えますが、それは「完成」された人間に対する「権利」と「義務」でした。
 そもそも西欧では「子供」に対してそれが完成されていないという意味で「人間」として扱うという観念が薄かったといわれ、宣教師などが日本を訪れ、子供に「自由」と「権利」が(もちろん完全ではないものの)あることに驚いていたという話もある位ですから、その意味で「子供」に対して人間性あるいは人権というものを承認していたと思われる日本の習慣や制度の方が合理的であったともいえます。

 まず「権利」が先に取得・行使される中でその後「義務」が背負わされるという流れは、人間の成長と社会規範とをかみ合わせるという意味でも考慮すべきものとも思えます。その意味では「日本」の古代からの習慣に目をやり、それを踏まえて考えて見るというのも必要なことかもしれません。
コメント

参議院の意義

2015年08月01日 | 社会・制度
 今回はやや趣向を変えて社会と政治について考えてみます。
 参議院は「良識の府」といわれます。これは「参議院」と「衆議院」の意志が異なる場合が多いことを示すものでもあると思われます。そのようなことがなぜ起きるのか、それには以下の理由が考えられるでしょう。

 そもそも参議院は任期が衆議院に比べ長く、また半数ごとにしか改選されない他、「解散」がないなど衆議院と比べ大きく異なる特徴があります。逆に言うと衆議院という存在は「民意」を正確に反映するという至上命題を与えられているといえるでしょう。時々刻々変化する「民意」と言うものを正確に「トレース」する事が求められているため、それに特化しているのが衆議院であるといえます。
しかし「参議院」は解散がないわけですから、その時点(リアルタイムに変化する)「民意」というものと少しばかり「乖離」している場合が出てきて不思議はないこととなります。
 この事は「衆議院」と「参議院」の存在意義が本来全く異なることを示すものであり、その意味では「ねじれ」は必然的に発生するともいえるでしょう。その可能性を前提として両院が構成されているのが分かります。
もし「民意」がある程度の期間大きく変化しなければ、両院の構成は大差なくなるでしょう。その場合そもそも衆議院も解散ではなく任期満了での選挙となる可能性が高いと思われます。
 しかし、「民意」が短期間に大きく変化するような状況が発生した場合、両院の構成はかなり異なることとなると思われます。そのような短期間に「民意」が大きく変化するための要件としては一つに「対外的要因」が考えられ、国際情勢の変化によって「民意」が「動揺」するということが「衆議院」の構成に大きな変化をもたらすという場合があるでしょう。
 逆に言うと衆議院の存在意義はそのような場合に「民意」を議席構成比の変化という形で具現化するものであり、内閣総理大臣はそのような場合速やかに解散総選挙を行う義務があるといってもいいでしょう。

 ただし、一般に国際情勢は複雑であり、「民意」つまり「多くの国民」が情勢を正確に判断することはたいていの場合困難であると考えられますから、そのような「民意」判断に基づく衆議院が何らかの重大な決定、或いは従来の方針の変更などを行なうとすると、それが大きな誤りないしは不適切な国家的行動につながるおそれがあると考えられます。
 このような国家的行動は即座に国際情勢に直結する性格のものであり、現在の日本の置かれた位置を考えると、その影響が周辺諸国はもちろん世界中に波及する可能性があります。
 それを「修正」する事ができるのは参議院しかありません。その時点の参議院の構成は衆議院と異なる可能性が高く、そうなると両院の意志が異なることになると思われ、そうであれば、規定により衆議院に「差し戻す」事となり、再考する「時間」が与えられることとなります。
民主主義の本質は「時間を掛ける」と言うことであり、「手続き」を尽くすことでもあります。
 参議院を「衆議院のカーボンコピー」というような言い方をするのは、実体からして一見正当であるようですが、上のような参議院の存在意義に目を向ければ、情勢の変化にかかわらずいつも衆議院と同じ傾向の意思を表明すること自体がすでに問題であることとなるでしょう。

 「民意」を反映しているなら良いではないかとは言えないのは、第二次大戦時のドイツが如実に証明しています。
ドイツでは当時「普通選挙法」が施行されており、女性にも参政権が認められていました。そのような環境下で「ヒットラー」率いるナチス党は選挙によって絶対多数を占めるに至ったのです。つまり「ヒットラー」という存在は「民意」の正確な反映であったものです。
 当時「ヒットラー」に反対するもの(ただしドイツ人)が多数おり、彼等を弾圧したということもほぼ認められないとされます。つまり国内には「ヒットラー」率いるナチス党を快く思わない勢力はほぼ皆無だったのです。そしてその結果「ヨーロッパ」において「ドイツ」は過去に類のない戦争行為を行ったものであり、大量虐殺行為を行ったものです。

  当時ドイツは第一次世界大戦の結果、ドイツ領土であった地域は一部をフランスに奪われ、またオーストリア独立により更にその領土が減少する結果となっていました。しかも戦後各国に対し賠償金を支払う必要があり、国家財政は破綻状態となっていました。国民は多くが失業し、未来のない生活を送っていたのです。
 「ヒットラー」はこの現状を巧みに旧政権の失政としてアピールし、国民の支持を集めたものであり、その結果ヒットラーは旧政権の実効支配を停止させ、憲法もこれを停止させ、「国民の望む政策」を実行するための体制を造り上げたものです。
 
 今でも当時を知る年代のドイツ人の多くはその当時について「いい時代」という感想を持っているとされます。それは「仕事」があったからです。生きていくことが出来たからなのです。失った「領土」を回復するということにより国民としての「ブライド」も回復すると共に、収入も同時に手に入れることが出来たわけであり、そのような結果をドイツ国民は熱烈に支持していたものです。ヒトラーのプロパガンダが巧妙であったというだけでは理由として薄弱といえるでしょう。

 現在までのドイツ政府が折に触れ「反省」を口にするのは、ドイツが行った各種の行為が「ヒットラー」といういわば一人の「跳ね返り」的存在によるものではなく、このように実際にはドイツ国民の総意であったからです。(大量虐殺が総意とまではいいませんが、少なくとも「ユダヤ人」を憎んでいたのはドイツ国民の多数であったと思われます)国を挙げて反省するに足る理由がドイツにはあるといえるでしょう。
 つまり「民意」を正確に反映するということは民主主義には絶対必要ではあるものの、それだけでは足りないということをドイツという国家が身を以て示したのです。

 それを承け日本国憲法が定められ、その中で「衆議院」「参議院」の両院制が採用されたと見るべきでしょう。このようにして「民意」の暴走を食い止めるハードルとして「参議院」が設けられたと見るべきです。

 巷間では一院制が良いとか大統領制が良いとか、首相を直接選べる方が良いとか各種意見がありますが、その場合「参議院」が失われたことによるデメリットをどのように担保するのかが示されていないように見えます。
 「民意」に基づく、あるいは「民意」を反映するだけでは不完全であるということを各自が自覚する必要があるのではないでしょうか。
コメント