この頃札幌でも頻繁に「熊」が出没し油断も隙もないというのが実際ですが、それを見ていて、『魏志倭人伝』には「熊」がいるとは書かれていないことが気になりました。
「其地無牛馬虎豹羊鵲」
記事の中では上に見るように人畜に害を及ぼす可能性のある動物として「虎」「豹」が挙げられており、それらはいないと書かれていますが「熊」がいないとは書かれていません。このことから当時の「倭」の領域にも「熊」がいるという解釈もありますが、この動物表記は「大陸」や「半島」にいる動物との比較という説もあり、そもそも「半島」では以前から南半分つまり旧「新羅・百済」領域という古代の帯方郡以南には「熊」が少ないという研究もあり、そのことから考えて「熊」が比較対象の範囲に入っていなかったということが考えられます。
つまり「熊」はいたはずだが「魏使」の視野には入っていなかったこと及び「倭人」からの聞き取りの中にも「熊」に関する情報がなかったということが考えられます。つまり当時の「倭」領域には「熊」の存在が希薄であるということです。それを裏付けるように現在国内の「ツキノワグマ」の生息分布を見てみると明らかに「東」に偏っています。
各種の「ツキノワグマ」に関する論文などからの理解では、西日本には極めて希薄であり、それはかなり以前からその傾向があったと推定されているようです。たとえば「九州」には現在「熊」はいないとされているようですが、元々少なかったものが「大戦」時期前後に絶滅したと推定されています。
そもそも「ツキノワグマ」は「ブナ林」のような「冷温帯林」や「中間温帯林」にその生息域があるとされており、東北と中部地域にかなり特異的に分布しているようです。
西日本では「冷温帯林」や「中間温帯林」そのものが非常に少なく「中国」「四国」の山間部や「紀伊半島」地域などにわずかに残る程度であり、「ツキノワグマ」はそこに「孤立」的に生息しているとみられます。
このようなことは過去と余り変わらない傾向と考えられるわけです。
ところですでに述べたように「北海道」や「東北」などで熊の出没例が増えていますが、林間作業や山菜採りなど熊と出遭う可能性のある地域で行動する場合「鈴」を鳴らすように、という注意が一般的です。何か鳴るものがあれば熊は警戒して近づかないと思われているようですが、このような「ノウハウ」は最近形成されたものではないとみるのが相当です。なぜなら「熊」も「人」もこの列島に遠い過去から生きてきたものであり、その接触が不幸な結果にならないように工夫してきたと考えるのが当然だからです。
「其地無牛馬虎豹羊鵲」
記事の中では上に見るように人畜に害を及ぼす可能性のある動物として「虎」「豹」が挙げられており、それらはいないと書かれていますが「熊」がいないとは書かれていません。このことから当時の「倭」の領域にも「熊」がいるという解釈もありますが、この動物表記は「大陸」や「半島」にいる動物との比較という説もあり、そもそも「半島」では以前から南半分つまり旧「新羅・百済」領域という古代の帯方郡以南には「熊」が少ないという研究もあり、そのことから考えて「熊」が比較対象の範囲に入っていなかったということが考えられます。
つまり「熊」はいたはずだが「魏使」の視野には入っていなかったこと及び「倭人」からの聞き取りの中にも「熊」に関する情報がなかったということが考えられます。つまり当時の「倭」領域には「熊」の存在が希薄であるということです。それを裏付けるように現在国内の「ツキノワグマ」の生息分布を見てみると明らかに「東」に偏っています。
各種の「ツキノワグマ」に関する論文などからの理解では、西日本には極めて希薄であり、それはかなり以前からその傾向があったと推定されているようです。たとえば「九州」には現在「熊」はいないとされているようですが、元々少なかったものが「大戦」時期前後に絶滅したと推定されています。
そもそも「ツキノワグマ」は「ブナ林」のような「冷温帯林」や「中間温帯林」にその生息域があるとされており、東北と中部地域にかなり特異的に分布しているようです。
西日本では「冷温帯林」や「中間温帯林」そのものが非常に少なく「中国」「四国」の山間部や「紀伊半島」地域などにわずかに残る程度であり、「ツキノワグマ」はそこに「孤立」的に生息しているとみられます。
このようなことは過去と余り変わらない傾向と考えられるわけです。
ところですでに述べたように「北海道」や「東北」などで熊の出没例が増えていますが、林間作業や山菜採りなど熊と出遭う可能性のある地域で行動する場合「鈴」を鳴らすように、という注意が一般的です。何か鳴るものがあれば熊は警戒して近づかないと思われているようですが、このような「ノウハウ」は最近形成されたものではないとみるのが相当です。なぜなら「熊」も「人」もこの列島に遠い過去から生きてきたものであり、その接触が不幸な結果にならないように工夫してきたと考えるのが当然だからです。
ところで「関東圏」によく見られる出土品として「鈴」があります。「鈴釧」「鈴鏡」等振れば「音」が出るもののようですが、出土範囲としては平野部など人が多く居住する地域というよりやや山間部の入り口付近の遺跡から出土する例が多いようです。この「鈴」は実は「熊よけ」なのではないでしょうか。
もちろん「音色」の神秘性もあり、「祭祀」に使用されたとみられるわけですが、その「祭祀」は一般に考えられるような「豊僥」をもたらす「神」に対する感謝等の農業祭祀というより、その前代の「狩猟時代」の記憶を保存しているのではないかと思われ、その「鈴」の効能や「祭祀」の「本義」は「熊」に対するものであり、「鈴」を作る技術が伝来した時点(「古墳時代」と思われますが)で、「熊よけ」の意義を込めて使用を始めたものではないでしょうか。
つまり「縄文時代」を通じて「山野」で猟をする場合があったはずであり、そのような場合「熊」に遭遇しないように「熊よけ」に何か鳴らすものがあったとみられますが(それがどのようなものであったかは不明ですが「土鈴(どれい)」がそうであったという説もあります。)、それが「鈴」が流入した時点で取って代わられたものと思われるのです。
もちろん「音色」の神秘性もあり、「祭祀」に使用されたとみられるわけですが、その「祭祀」は一般に考えられるような「豊僥」をもたらす「神」に対する感謝等の農業祭祀というより、その前代の「狩猟時代」の記憶を保存しているのではないかと思われ、その「鈴」の効能や「祭祀」の「本義」は「熊」に対するものであり、「鈴」を作る技術が伝来した時点(「古墳時代」と思われますが)で、「熊よけ」の意義を込めて使用を始めたものではないでしょうか。
つまり「縄文時代」を通じて「山野」で猟をする場合があったはずであり、そのような場合「熊」に遭遇しないように「熊よけ」に何か鳴らすものがあったとみられますが(それがどのようなものであったかは不明ですが「土鈴(どれい)」がそうであったという説もあります。)、それが「鈴」が流入した時点で取って代わられたものと思われるのです。
ただし「縄文」以降「平野部」の拡大(「縄文海進」の後退による)、平野部での生活に暫時移行していく中で「熊」との遭遇機会も減少するなかで「鈴」に対する意識も変化していったものとは思われます。(一部にはそれ以降「鏡」祭祀に取って代わられたという意見もあるようですが、「鏡」は祭祀に使用されたとは思われず死後「墓」に入れられる程度のもの以上ではなかったと考えています)