以下は以前書いたものを再度考察し、若干変更したものです。
倭の五王(この場合「武」)は南朝劉宋に宛てた上表文の中で、以下のように言っています。
「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。王道融泰にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。」
この中の「東」と「西」については説が各種あるようですが、明らかに「南朝皇帝」の目から見てのものではありません。この中で「南朝皇帝」の視点からの記述(用語)として使用されているのは「衆夷」と「毛人」という用語だけです。
ここでいう「衆夷」とは主に「西海道」の領域を指すと考えられ、「毛人」は中国地方及び四国の半分程度の領域を指すと思われます。近畿以東(関東までを含む)の地域を指すとは考えにくいと思われることとなりました。そう考える理由の主なものは「武」の上表文に書かれた「国数」です。
「東」については「五十五国」、「西」については「六十六国」と書かれていますが、「海北」は「半島」のことを指すと見るべきですから、列島内では計「百二十一国」ということとなります。(『三国志東夷伝』によれば「馬韓」で「凡五十餘國」、「辰韓」と「弁辰」で「弁、辰韓合二十四國」とされますから、トータルで八十国程度となり、「九十五国」という表現とは確かに異なりますが、時代の差を考えるとそれほど違わないともいえます。)つまりここでいう「国」は「三世紀」の頃の「国」とその領域があまり異ならないという可能性を示すものであり、明らかに後の「令制国」のような「広域行政体」としての広さはないものと思われます。
「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。王道融泰にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。」
この中の「東」と「西」については説が各種あるようですが、明らかに「南朝皇帝」の目から見てのものではありません。この中で「南朝皇帝」の視点からの記述(用語)として使用されているのは「衆夷」と「毛人」という用語だけです。
ここでいう「衆夷」とは主に「西海道」の領域を指すと考えられ、「毛人」は中国地方及び四国の半分程度の領域を指すと思われます。近畿以東(関東までを含む)の地域を指すとは考えにくいと思われることとなりました。そう考える理由の主なものは「武」の上表文に書かれた「国数」です。
「東」については「五十五国」、「西」については「六十六国」と書かれていますが、「海北」は「半島」のことを指すと見るべきですから、列島内では計「百二十一国」ということとなります。(『三国志東夷伝』によれば「馬韓」で「凡五十餘國」、「辰韓」と「弁辰」で「弁、辰韓合二十四國」とされますから、トータルで八十国程度となり、「九十五国」という表現とは確かに異なりますが、時代の差を考えるとそれほど違わないともいえます。)つまりここでいう「国」は「三世紀」の頃の「国」とその領域があまり異ならないという可能性を示すものであり、明らかに後の「令制国」のような「広域行政体」としての広さはないものと思われます。
せいぜい後の「郡」程度であり、これを『和名抄』の「郡数」と比較すると「百二十一国」という領域は「九州」を中心として考えた場合「九州地方北半部」と「中国、四国」の半分程度までしか届きません。つまりここまでが「倭国」の中心領域であり、その遠方(以東)は「附庸国」であったと見るべきこととなるでしょう。(この直接統治領域の広さは『隋書俀国伝』に書かれた「百二十」いるという「軍尼」が治めている領域とほぼ同じとなります)
それら「附庸国」に対して「征」する、「服」させる、「平」らげる等の直接的な軍事行動は取らなかったと思われ、せいぜい「使者」を派遣し「告諭」「宣諭」というような口頭による「威圧」的な内容ではなかったかと思われます。
ちなみにこの時の「武」の本拠地が「近畿」にないと判断されるのもやはりその「国数」です。もし彼が「近畿」から周辺諸国を征服行動を行っていたとすると「西」とされる領域の「国数」が66では少なすぎるのです。
仮にこの「西」に「近畿」が含まれないとしても「中国地方」は明らかにその中に入るでしょうけれど、この領域の「国数」だけで「100」を超えてしまいます。
『和名抄』の「郡数」で見てみると「中国地方」は「長門・周防・安芸・備前・美作・備中・備後・石見・出雲・伯耆・因幡・隠岐・播磨」を合計すると「109」となってしまいますから整合しません。これら全ての領域を征服したのではないとしても、その西側の「西海道」を入れないわけにはいかないでしょう。なぜなら「海北」があるからです。
「海北」つまり「半島」については「九十五国」としていますが、その足下である「西海道」が統治下の国数に入っていないはずがないからです。これらを考慮すると「西」の国数が圧倒的に少ないのです。仮に「海北」へのあしががりとなる場所が「西海道」ではないとした場合、そもそも「海北」という言葉が似つかわしくなくなりますし、「西海道」を統治下に入れずに「半島」へ向かうという行動原理が不明といえます。
この「国数」のバランスから考えても「九州」に「武」の中心があったと見なければ「国数」の説明がつかないのです。
ただし、無理にこじつければ、「吉備」を一国として数え「長門・周防・安芸・吉備・播磨」のように日本海側を除外すると『和名抄』の郡数として「52」となり、そこそこ整合します。さらに「筑紫」「豊」「肥」も各々「一国」としてカウントした場合のみ「55」という数字が現れます。しかしこれを「合う」といえるのかが問題となるでしょう。
この計算の前提は「吉備」「筑紫」「豊」「肥」が一つの「国」であったという前提が正しい必要がありますが、少なくともこれらの地域を統一的に支配する権力者の登場が必要であり、さらに「近畿」の権力者とは「無関係」にこのような強い権力者が現れる必要があります。でなければこれらの地域の中間地点が「小国」のままである理由が不明となります。つまり「近畿」からの影響力が「飛び飛び」に現れるという不可思議なこととなってしまう理由を説明できないのです。このようなご都合主義的な説明を考えなければならない時点で既に論理として破綻しているといえるでしょう。
確かにこの「筑紫」「豊」「肥」「吉備」はかなり古くから後の「令制国」と同様「広域行政体」として機能していたと思われます。「磐井」の時点で既にそうであったわけですから、「倭の五王」時点でもそうであったという可能性はあります。しかしもしそうであったとしても「筑紫」「豊」「肥」が隣接していることを考えてもこれらの「国」などの地域をまとめられる上部権力はこの地域以外に存在してはいなかったとみるべきであり、それは「近畿」の権力者とは別個に存在していたと見るべきことを示すものです。これらのことから「武」の上表文に書かれた内容が「近畿」の王権が主張したものとは言えないものであり、やはり「筑紫」など「九州北半部」に拠点があった権力者が書いたものと見るのが相当と思われます。
(この項の作成日 2011/01/12、最終更新 2019/10/12)(旧ホームページより転記したものを改定)
ちなみにこの時の「武」の本拠地が「近畿」にないと判断されるのもやはりその「国数」です。もし彼が「近畿」から周辺諸国を征服行動を行っていたとすると「西」とされる領域の「国数」が66では少なすぎるのです。
仮にこの「西」に「近畿」が含まれないとしても「中国地方」は明らかにその中に入るでしょうけれど、この領域の「国数」だけで「100」を超えてしまいます。
『和名抄』の「郡数」で見てみると「中国地方」は「長門・周防・安芸・備前・美作・備中・備後・石見・出雲・伯耆・因幡・隠岐・播磨」を合計すると「109」となってしまいますから整合しません。これら全ての領域を征服したのではないとしても、その西側の「西海道」を入れないわけにはいかないでしょう。なぜなら「海北」があるからです。
「海北」つまり「半島」については「九十五国」としていますが、その足下である「西海道」が統治下の国数に入っていないはずがないからです。これらを考慮すると「西」の国数が圧倒的に少ないのです。仮に「海北」へのあしががりとなる場所が「西海道」ではないとした場合、そもそも「海北」という言葉が似つかわしくなくなりますし、「西海道」を統治下に入れずに「半島」へ向かうという行動原理が不明といえます。
この「国数」のバランスから考えても「九州」に「武」の中心があったと見なければ「国数」の説明がつかないのです。
ただし、無理にこじつければ、「吉備」を一国として数え「長門・周防・安芸・吉備・播磨」のように日本海側を除外すると『和名抄』の郡数として「52」となり、そこそこ整合します。さらに「筑紫」「豊」「肥」も各々「一国」としてカウントした場合のみ「55」という数字が現れます。しかしこれを「合う」といえるのかが問題となるでしょう。
この計算の前提は「吉備」「筑紫」「豊」「肥」が一つの「国」であったという前提が正しい必要がありますが、少なくともこれらの地域を統一的に支配する権力者の登場が必要であり、さらに「近畿」の権力者とは「無関係」にこのような強い権力者が現れる必要があります。でなければこれらの地域の中間地点が「小国」のままである理由が不明となります。つまり「近畿」からの影響力が「飛び飛び」に現れるという不可思議なこととなってしまう理由を説明できないのです。このようなご都合主義的な説明を考えなければならない時点で既に論理として破綻しているといえるでしょう。
確かにこの「筑紫」「豊」「肥」「吉備」はかなり古くから後の「令制国」と同様「広域行政体」として機能していたと思われます。「磐井」の時点で既にそうであったわけですから、「倭の五王」時点でもそうであったという可能性はあります。しかしもしそうであったとしても「筑紫」「豊」「肥」が隣接していることを考えてもこれらの「国」などの地域をまとめられる上部権力はこの地域以外に存在してはいなかったとみるべきであり、それは「近畿」の権力者とは別個に存在していたと見るべきことを示すものです。これらのことから「武」の上表文に書かれた内容が「近畿」の王権が主張したものとは言えないものであり、やはり「筑紫」など「九州北半部」に拠点があった権力者が書いたものと見るのが相当と思われます。
(この項の作成日 2011/01/12、最終更新 2019/10/12)(旧ホームページより転記したものを改定)