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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「筑紫諸国」の『庚午年籍七百七十巻』と戸数

2018年02月24日 | 古代史

 『続日本紀』には以下の記事があります。

「(神龜)四年(七二七年)…
秋七月丁酉。筑紫諸國。庚午籍七百七十卷。以官印印之。」

 これによれば「筑紫諸国」には「庚午年籍」が七百七十巻あったわけですが、「正倉院」に残る戸籍の遺存状況から見て「庚午年籍」は「一里一巻」であったとみられますから、「筑紫諸国」には里数として「七百七十」あったこととなります。更に当時は「一里五十戸制」であったと思われますから、総戸数として「三万八千五百戸」と計算できますが、この値と『隋書俀国伝』に総戸数として約十万戸と書かれたことから(この『庚午年籍』成立時点の「筑紫諸国」の戸数が『隋書俀国伝』時点と余り変わらないと想定した場合)当時の倭国の領域としてどの程度のものであったかが(アバウトですが)推定できるものと思われます。

 ところで、ここでいう「筑紫諸国」というのがどれだけの領域を含んでいるかというのは、同じく『続日本紀』に「筑紫七国」とある以下の記事と重なるとみられます。

(七〇二年)二年…
夏四月…。
壬子。令筑紫七國及越後國簡點采女兵衛貢之。但陸奥國勿貢。」

 この「七国」とは通常「筑紫」「肥」「豊」を前・後に分けたもの及び「日向」と理解されています。この範囲について「戸籍」が造られていたというわけであり、その「戸籍」を「新日本王権」は「神亀四年」になってやっと入手したというわけですが、そもそも九州は倭国王の直轄領域であったはずであり、「戸籍」に捕捉される「家」の数も相当の割合になったはずです。さらにこの「庚午年籍」記事の直前が反乱を起こしたという「隼人」達に対する征伐記事ですから、彼等がこの「庚午年籍」を所持して逃走していたものとみられ、彼等の領域である「大隅」「薩摩」等の領域を除いた全九州が上の「筑紫諸国」に入っていたであろうことは間違いないものと思われます。これを踏まえて『隋書俀国伝』時点の「倭国」の領域がどこまで広がっていたかを推察しようというわけですが、とりあえず各地域の「面積」を比較してみます。

 以下に表を作成しました。これは上に挙げた「庚午年籍」から推定した戸数をベースにネット上にあった「平成十五年現在」の「居住可能面積」(これは全体から森林面積を差し引いたもの」で比例配分したものです。(現時点のものとそれほど大差はないと思われます)

地域 面積 推定戸数 戸数累計
九州 12018 38500 38500
中国地方 8437 27028 65528
四国 4852 15544 81072
近畿 10777 34524 115596
北陸 8847 28342 143938
中部・信濃 11022 35309 179247
関東 19219 61569 240816
蝦夷 20405 65368 306184

 これによれば「九州」の居住可能面積(ただし隼人の領域と思われる薩摩と大隅に相当する鹿児島県の居住可能面積を差し引いたもの)は、中国地方と四国とを加えたものにほぼ等しく、さらに近畿も加えると九州の面積の3倍程度となりますから、面積配分として『隋書俀国伝』の「約十万戸」は(少なくとも)近畿の一部がその領域に入っていたと考えるのが相当と考えられます。
 さらにこの推定を別の点から補強してみます。それには江戸時代初期の「石高」を利用します。
 正保元年に幕府が提出を命じたとされる「石高」資料(※)から計算した結果が以下の通りです。

地域  石高 推定戸数 推定戸数累計
九州 289.3 38500 38500
中国地方 285.3 37968 76468
四国 101.4 13494 89962
近畿 320.2 42612 132574
北陸 265.2 35293 167867
中部・信濃 359.4 47829 215696
関東 411.8 54802 270498
蝦夷 531.9 70785 341283

 ここでは「石高」と「戸数」の関係を「比例」と仮に見て、『庚午年籍』から計算した「筑紫諸国」の戸数を基準にとって倭国の範囲として「十万戸」となる領域を計算しています。これをみると居住面積から算出した数字と概数的にはよく似た結果となっており、やはり少なくとも「近畿」の一部は含まれていたとみることができそうです。(ただし、石高はなかなか正確にわからず、また詳細を明らかにせず、また過少に申告していた藩が多かったといわれますから実祭にはこれよりどの藩も数%から最大数10%多かったとみられることには注意すべきでしょう。)

 この結果から『隋書俀国伝』時点の「倭国」の統治する範囲としては多分に近畿(少なくともその一部)を含む領域が推定されることとなります。

 ちなみに、『和名抄』に現れる「郷」の数も参照してみます。
『和名抄』の時代にはすでに「里」はなくなっており、そのかわり「郷」が記載されています。一般にはほぼ「里」と「郷」とが対応していると思われているようです。それは「木簡」に現れる「里名」と『和名抄』の「郷」とで一致するものが多数にのぼることからですが、そうであれば「筑紫諸国」の「庚午年籍」の七百七十巻に対応する数だけの郷が『和名抄』に現れて不思議はありませんが、実際には「筑紫七国」の「郷」の数は四百ほどしかありません。

地域 郷数
筑前 101
筑後 54
豊前 33
豊後 47
肥前 44
肥後 99
日向 27
合計 405

 この差が何を意味するかはやや不明ですが、可能性としては筑紫諸国においては「里」が解体され「郷」が成立する時点で他の地域よりも大幅な「統合」が行われたとみるのが相当であり、ほぼ二里で一郷となるような編成替えが行われたものではないでしょうか。


(※)「正保郷帳・国絵図」これ以外にも幕府が命じて提出させた「郷帳」は存在するが、これが資料の残存状況がよいものの代表。

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「卑弥呼以死」とは(一)

2018年02月11日 | 古代史

 『倭人伝』の「張政」の来倭記事の中では「卑弥呼以死」と書かれています。それが「戦死」(あるいは「戦中死」)なのか病死なのか死因としては一切不明です。

「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉葬者百餘人。」

 ここで使用されている「以」の語義については従来から「諸説」があり、「理由」の意義として考える場合や、「とにかく」という「軽い」状況の説明としての使用法であるという考え方もあるようです。(なくても通じるというもの)これについては以前「辞書」に『「古」は「已」と同じ』と書かれていることを根拠に「already」に相当する用例に相当すると見ていたものであり、「張政」が来倭した時点以前に「卑弥呼」は「死去」していたと理解していました。しかし改めて視点を変えて「以」と「已」という両方の用例を『東夷伝』の中に渉猟すると、明確に意味内容において区別されていることが判明したため、以下のように論旨を変更します。

 『三国志』というより『東夷伝』さらには『倭人伝』に限って考えても「已」と「以」とは完全に区別されて使用されており、「以」で「已」の意で使用されている例は皆無です。さらに「以」の用例はすべて動詞の前について調子を整える程度の用法しか見られません。(「以」+「名詞」+「動詞」あるいは「以」+「動詞」という順となっているようであり、名詞を目的語として挟む場合もあるようです)これについてぱどうも例外といえるものがないと思われます。そう考えると「卑弥呼以死」という文は「単純」に「卑弥呼が死んだ」という意味以上のものはないこととなります。ただしその前後の状況を考えると、魏使が到着する以前に卑弥呼が死んでいたであろうことは推測できますが、それ以上については明確ではありません。
 ただし前後関係から見て「張政」の存在や行動が「卑弥呼」の死につながったわけではないことは明らかであり、彼の来倭以前に「卑弥呼」に不測の事態が発生したことを示すものと思われるものです。
 「魏」に使者を派遣しそれを受けた「魏」から使者が到着するまでの期間(相当長い期間です)に何らかの問題が発生し、「卑弥呼」が死去する事態となっていたことを示唆します。それはこの「卑弥呼以死」という記事に「死因」が書いてないということからもいえることです。
 考えてみれば「病死」なのか「戦死」なのか、「張政」が来てからであれば何か「死因」らしき事を書いても良さそうなものですが、それらは一切書かれておらず、それも不審といえるでしょう。それは「張政」が来倭する前の出来事であったために書いてはいない(書けなかった)と考えるのが妥当なのではないでしょうか。そう考えると「殯」と「葬儀」の記事もないことに気がつきます。『倭人伝』ではいきなり「墓」(冢)を築造する記事となっているのです。

 『倭人伝』の中にも「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒。」とあり、「喪」(これは「殯」にあたるものか)が十日以上続いた後で「葬儀」となりその場では「喪主」は「哭泣」し「他人」は「歌舞飲食する」とされています。この記事は「俗」に対するものと思われますから、「卑弥呼」のように「王」という高貴な地位にあったものがこの程度の簡素な葬儀で終わったはずがないと思われ、「殯」の期間も「葬儀」ももっと大々的に行われたとみるべきでしょう。しかし、そのことを示唆するどのような記事もみられないわけですから、「張政」が「来倭」した時点ではそれらは全て終了していて、後は「冢」に埋葬するだけであったということが考えられるわけです。

 また、そのようなことは「皇帝」からの詔書及び「檄」が「卑弥呼」ではなく当初「難升米」に渡されていることからも推測できることであり、彼が来倭した時点で「卑弥呼」が既に死去していたことを示すものと思われます。
 そもそも「詔書」「黄幢」「檄」などは全て本来「倭王」へ授与され、また告諭されるものであったと考えられます。この記事の最終では「壹與」に対して「檄」を告諭していますが、そのことから考えても、当初「難升米」に告諭したように書かれているのは、あくまでも「倭王」の代理としてのものであったと思われ、その時点(「張政来倭」という時点)でもし「卑弥呼」が存命中であったなら、後に「壹與」に告諭したように「卑弥呼」に告諭したはずです。
 つまり「張政」等「告諭使節団」が「来倭」した時点では既に「卑弥呼」は死去していたものと思われ、そのため「張政」はやむを得ず「代理人」に対し「詔」して「檄」を告諭したものと思われますが、それが「難升米」であったというわけです。しかし本当に彼が適任であったかは疑問です。なぜなら「卑弥呼」には「男弟」がおり、彼が「佐治國」つまり「卑弥呼」に代わって国政全般をみていたとされており、実務の全ては彼によって行われていたとみられるからです。それが正しければ「詔」や「檄」は「男弟」に対して行われるべきものではなかったでしょうか。これは「疑問」とするところです。(これについては後述)

 また、「卑弥呼」の死に際しては、「大作冢」(大いに冢(ちょう)を造る)と書かれており、多くの人手を要したものと推察されますが、さらに「殉葬者」が「百餘人」であったと書かれています。この時点で「殉葬」の風習があったことが知られるわけですが、これは明らかにその前代までの風習が遺存したものと思われます。
 これに若干先立つと考えられる「吉野ヶ里遺跡」の場合は「歴代」の王のため(つまり何代にも渡る遺跡と言うこと)、「殉葬」と思われる「甕棺」の数が非常に多いのと、「濠」の内側の甕棺と外側の甕棺とで「身分差」のある「複数」の階層の人たちによる「殉葬」があったようにも思われ、「卑弥呼」のように「」だけではなかったことが考えられます。
 このことは「卑弥呼」の墓を造った際には「倭王」としてはかなり「少人数」の「殉葬者」であったこととなるわけであり、それは「狗奴国」との戦闘の中という時点の死去といういわば「非常時」であることを反映しているようです。
 つまり、「周」や「殷」王朝の場合などの場合は「殉葬者」は生前に側近くで仕えていた人々も含まれるものであり、通常であればこのような階層の人たちは主君である「王」の近くに葬られるものと考えられ、「吉野ヶ里」遺跡はそのような「平時」の「墓」の状態を示していると考えられますが、「卑弥呼」の死に際してはそのような側近達も共に葬られるというわけにはいかなかったと見られます。なぜなら「狗奴国」との戦闘はまだ継続していたか、停止していたとしても直後であったと見られ、「卑弥呼」の後継者選びもままならない中では「主君」と共に死んでるわけにも行かなかったものと思われるものです。また「魏」の使者がいるわけですからその対応もしなければならず、その意味でも少数の「殉葬者」で墓の造営を行わなければならなかったと見られるものです。(この時点以前に出されていた「薄葬令」の影響もあった可能性も考えられるところです。)

 ところで『倭人伝』の文章からは「卑弥呼」が死去した後、「男王」が即位したものの、「国中不服」とされ、かなり激しい争いとなったとされています。この時点で「張政」が既に「来倭」していたかどうかですが、「卑弥呼」の死に際しては、「大作冢」(「大いに」冢(ちょう)を造る)と「リアル」に表現されているところを見ると、その時点で「張政」はその場にいたように思えます。「径」が「歩」で表記されていることも、「張政」が自ら「歩測」したという可能性も考えられます。
 すると「當時殺千餘人」という時点においても国内にいたこととなりますが、その争いについては彼は介入せず「傍観」していたものではないでしょうか。「後継者」を誰にするかと言うことについてまで「魏」が口を出すことはなかったとみられ(「告諭使」の範囲、権限を超えるため)、「属国」の国内政治については基本的に「不干渉」であったと思われます。(「狗奴国」のような対外勢力の話とは別の次元のことと考えられるわけです)このため「張政」はその結論、帰趨を待ち、「壹與」が王として立てられ「国中遂に定まる」という事態を見定めた上で、改めて「新・邪馬壹国王」となった「壹與」に対して「檄」を告諭したということとなるでしょう。
 またこの国内の混乱が何年も続いたとは考えられませんから(歴年というような表現がない)、「その年の内に」収束したものと見られることとなります。そして「張政」の任務はそこまでであったのでしょう。「檄」に対して「邪馬壹国」「狗奴国」双方がこれを「受諾」したことを確認した上で「帰還」と言うこととなったと考えるべきと思われます。

 この時点で「張政」が「帯方郡治」に帰還したのかそのまま「郡治」を経由して「洛陽」に向かったのかははっきりしませんが、「還」という表現の直後に「因詣臺」とありますから、これは「洛陽」の皇帝の元へ向かったと理解すべきでしょう。その時点で「壹與」は「張政」に添えて「皇帝」に対する「使者」(掖邪狗等)を派遣し「生口」や「白珠」を献上すると共に「感謝」とさらなる「支援」を求めたと考えるべきでしょう。それはまた「卑弥呼」に代わって「新倭王」となったことのについて説明と理解を要請するものであったと思われることとなります。


(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2016/08/03)

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「狗邪韓国」について

2018年02月09日 | 古代史

『倭人伝』に出てくる「狗邪韓国」について「倭地」ではないと判断した記事を投稿しましたが、若干補足します。

『三國志』の『高句麗伝』をみると以下のことが書かれています。

「…又有小水貊。句麗作國、依大水而居。『西安平縣北有小水。南流入海。』句麗別種依小水作國。因名之爲小水貊。…」(『高句麗伝』より)

 ここには「西安平縣」の「北」に「小水」があると書かれています。この「小水」は「西安平縣」の中にあるのでしょうか。そうではないことは同じく『高句麗伝』の中の次の記事から判ります。

「漢光武帝八年、高句麗王遣使朝貢。始見稱王。…宮死子伯固立。順、桓之間、復犯遼東、寇新安、居郷。又攻『西安平』、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。」(『高句麗伝』より)

 また『漢書』をみても「西安平縣」は確かに「遼東郡」に属しています。

「遼東郡,秦置。屬幽州。戶五萬五千九百七十二,口二十七萬二千五百三十九。縣十八:襄平,有牧師官。莽曰昌平。新昌,無慮,西部都尉治。望平,大遼水出塞外,南至安市入海,行千二百五十里。莽曰長說。房,候城,中部都尉治。遼隊,莽曰順睦。遼陽,大梁水西南至遼陽入遼。莽曰遼陰。險瀆,居就,室偽山,室偽水所出,北至襄平入梁也。高顯,安市,武次,東部都尉治。莽曰桓次。平郭,有鐵官、鹽官。『西安平』,莽曰北安平。文,莽曰(受)〔文〕亭。番汗,沛水出塞外,西南入海。沓氏。」(『漢書/地理志第八下/遼東郡』より)
 
 これらによれば「西安平縣」というのは「遼東郡」に属する「漢」の地であることが判ります。しかし「小水」記事ではその「小水」の地に「国」を造ったとされていますから、それが「高句麗」の内部の話であり「漢」の領土内ではないことが判ります。このことからここでいう「北」が「北部」の意味ではなく「北方」の意味を持っていることが知られます。

 同様に『挹婁伝』にも『北』で『北方』の意を示す例が出てきます。

「挹婁、在夫餘東北千餘里。濱大海、南與北沃沮接、『未知其北所極。』」(『挹婁伝』より)

 ここでは「北」の方向に何があるのかどこまであるかさえ判らないとしているわけであり、決して「挹婁」の国の中の北部が判らないと言っていいるわけではありません。「north」と「northern」の違いがないというわけです。

 中国語の曖昧なところですが、ただ「北」というだけでは「ある地域の中の北部」を指すのか「その地域の外側」に広がる「北方」の地を指すのかが曖昧なときがあります。「狗邪韓国」について『倭人伝』に出てくる「其北岸」という表現も同様であり、「其」という指示代名詞が示すのは「倭」であるのは確かと思われますが、「倭」からみて北方という意味なのか、「倭の中の北部」を指すのかがどちらとも受け取れるわけです。その差は前後関係で考えるしかないものと思われ、それを示すのが「狗邪韓国」という名称であり、また「官を初めとする詳細記事の不在」であると思われるわけです。それ以降の描写とは全く趣が異なるわけですから、その差は有意であり、このようないわば状況証拠が示すものは「狗邪韓国」とは「倭地」ではないということではないでしょうか。

 また「韓伝」をみると「南は倭と接する」という書き方をされています。

「韓在帶方之南。東西以海爲限、『南與倭接』、方可四千里。」(『韓伝』より)

 これを韓半島に倭地があった証拠と考える向きも多いようですが、「接する」とは間に何も入らないという意味であり、この場合の「何も」とは他の国のことです。つまり「韓」と「倭」の間には(狭い海峡を挟んでいるだけで)「他の国」は挟まっていないといっているだけであり、「陸続きである」とは一言も述べていないのです。たとえば「山」も典型的な自然国境といえるでしょうが、それを挟んでいても「接する」という用語は使用されている例があります。

「高句麗在遼東之東千里,南與朝鮮、濊貊,東與沃沮,北與夫餘『接』。」(『高句麗伝』より)

「東沃沮在高句麗蓋馬大山之東,濱大海而居。其地形東北狹,西南長,可千里,北與挹婁、夫餘,南與濊貊『接』。」(『東沃沮伝』より)

 ここでは「沃祖」は「高句麗」の「蓋馬大山」の東にあるとされますが、「高句麗伝」では「沃祖」と「接する」とされており、間に高山があっても「接する」という用語が使用される事を示します。そしてそれは「海」を挟んでいる「倭」についても「接する」という用語が使用されうることを示すといえるでしょう。

 また上にも出てきますが、「挹婁」「(東)沃祖」の記事では「大海に濵している」という言い方が出てきます。

「挹婁、在夫餘東北千餘里。濱大海、南與北沃沮接、未知其北所極。」(『挹婁伝』より)

「東沃沮在高句麗蓋馬大山之東、濱大海而居。」(『東沃沮伝』より)

 上に見るように「大海」つまりここでは「日本海」に面した国であるとされています。その「日本海」の向こうには列島があるわけですが、さすがにその間の海は広大であり、「倭」と接するとは言い難いのは確かでしょう。しかし、「狗邪韓国」の場合はもちろんこれらとは異なるものであり、「晴れていれば見える」ほどの距離にある「対馬」であれば「接する」という表現は妥当なものといえるでしょう。
 「対馬」という名称も「馬韓」に対するものということからの命名という説もあるほどですから、その意味でも「対馬」の向こう側は「韓地」であるとみるのが相当ではないでしょうか。

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「邪馬壹国」の代表王権への道筋

2018年02月09日 | 古代史

  すでに「奴国」が「後漢代」における「倭」を代表する権力者であったと推定したわけであり、『後漢書』に書かれた「倭国王」とされる「帥升」は「漢委奴国王」の金印を授けられた「奴国王」を継承した人物と思われることとなったわけです。彼により「奴国」による「倭」の地における支配領域はさらに拡大したものと思われます。そして、この「帥升」がその最後の「奴国王」ではなかったかと推察されます。

 「卑弥呼」の即位の事情を書いた『魏志倭人伝』の記述から「奴国」から「邪馬壹国」へ「後漢末」に中心王朝が交替したことが推察できます。つまり「帥升」あるいは彼の次代の「奴国王」付近で、「奴国」に代わって「邪馬壹国」が「倭」の覇権を握り、中心的権力の位置についたという流れが考えられます。
 その「邪馬壹国」は「伊都国」と「統」(血筋)がつながっていると記述されていますから、「邪馬壹国」(女王国)は「伊都国」から分岐した「朝廷」であり、「倭王」としての「大義名分」はそれ以前は「伊都国王」(更にそれ以前は「奴国王」)が保有していたことを推定させます。それが「邪馬壹国」へ移り変わったのは「帥升」という傑出した人材が亡くなって以降の倭国の政変の結果であったと考えられます。しかし「帥升」段階でそもそも何か「政変」の芽のようなものがあったという可能性もあります。なぜなら「後漢」の皇帝への「生口百六十人」の貢献した際には「帥升」自らが「朝見」したいと請うたと書かれています。

「建武中元二年(57年)、倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年(106年)、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見。」『後漢書』

 この「安帝永初元年」記事では「使者」を派遣したというようにには書かれていません。明らかに「願請見」したのは「倭國王帥升等」であり、素直に解釈すれば「倭国王」たる「帥升」が自ら「後漢」の都「洛陽」へやってきて「皇帝」に会うことを「願請」したというわけです。そこにはそれが実現したとは書かれていませんが、会わない理由はないと思われますから、「皇帝」には面会できたとは思われるものの、そもそもその目的は何だったのかと考えれば、『魏志倭人伝』において「難升米」達が派遣された理由とも重なるものであり、危急の事態が「奴国」に起きていたことの証ではないかと思われます。もし「後漢王朝」の後ろ盾が得られなければ「奴国」の「倭」における中心権力の位置が失われる危険性があったということを示すものであり、それは危惧した通りになったということではないでしょうか。
 それは「奴国」の勢力範囲が広がったために「狗奴国」との争いが先鋭化するという事態が発生した可能性が強く、その中で「狗奴国」との「対応」について「域内諸国」から不満が出たのかもしれません。もっと強硬な態度が必要という勢力に対して「後漢」のバックアップつまり「実力」というより「権威」によって対応するという「奴国」(「帥升」達)の間で対立していたという可能性も考えられます。それは「一大率」が後に設置され「諸国」を検察するようになったという状況がその周辺の事情を物語っているとも思えます。
 この「一大率」が「伊都国」と「邪馬壹国」の連係の証であるとすると、「奴国」の生死を決定づけたのは「一大率」であったと思われるわけです。つまり、その「政変」の主役は「伊都国」「邪馬壹国」連合であったと思われるわけであり、彼らの位置関係を見ても「奴国」はこの両国に挟まれるような場所にあったはずですから、その意味でもこの両国と争いになる場合は「奴国」側に不利な状況が発生することとなるでしょう。
 当然詳細は不明ですが、「卑弥呼」の以前に「七~八十年」男王期間があるということからも、「帥升」の末年付近で「奴国」が没落し、『倭人伝』に書かれたように「奴国」からは「王」がいなくなるという状況となったものと推察できます。つまり「卑弥呼」を「共立」するという段階ではすでに「邪馬壹国」は「王権」の大義名分を継承していたものと見ることができるでしょう。

 また、以下の『倭人伝』の記述からは、「中国」や「半島」とは国内の「三十国」が各々使者を取り交わしていたようにも受け取られ、そのような状況は「邪馬壹国」の地位もやや「不安定」であるという可能性もあるでしょう。 

「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。…」

 これは書かれたとおりの意味と考えられ、以前は「百餘国」であったものであり、「今」は「使譯」を通交させているのは「三十国」であるというわけです。この「今」というのは「陳寿」執筆時点を指すと考えられますから「西晋代」のことと思われ、「壹與」の時代には「倭」内の各国は、通過地点を「伊都国」(一大率による監視の下)と限定されながらも独自に「西晋」と関係を持っていたと推定されることとなります。ただし「卑弥呼」の時代とはやや異なるという可能性もあるでしょう。
 この「三十国」というのが「倭」つまり「女王」の統治範囲として書かれた国々を指すと考えられますが、そうであれば「百餘国」から大きく減少していることとなります。従来この「減少」の意味を「統合」の結果であるとする考え方もありましたが、これはそうではなく、単に「百餘国」から「三十国」がいってみれば「分離独立」したものと考えるべきではないでしょうか。そのように「分離独立」した(あるいはせざるを得なかった)理由というのが「内乱」であり、その結果「狗奴国」などが「女王」の統治範囲の外において他の国々の「盟主」となっていたという可能性も考えられます。(ただし、「狗奴国」が残りの「七十国」全部を代表していたとは思われません。これら「七十国」についてもある程度の地域ごとに分裂していたと考えるべきであり、「近畿」「東海」「関東」など各地域ブロックを統治領域としていた「国」と「王」がそれぞれにいたものと推定されます)
 しかし、この「卑弥呼」の時代に「邪馬壹国」が「北部九州」を制圧した結果、半島への出入口を閉ざされた他の地域の勢力は明らかに「先進的」な「情報」や、「鉄」「銅」などの「資源」の入手が困難となったものと思われ、ここにおいて「邪馬壹国」率いる「倭」の優位性が確立したと考えられます。もちろんそれには「魏」の皇帝との関係を巧みにアピールした「卑弥呼」(実際には「男弟」の功績か)とそれを継承した「壱与」の戦略があったものと推量します。 

 

(この項の作成日 2015/07/19、最終更新 2015/07/19

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「伊都国」「奴国」と「邪馬壹国」

2018年02月09日 | 古代史

  ところで「纏向遺跡」など「近畿」周辺の土器の出土状況を見てみるとその多様さに驚くほどです。それほど、各地の土器が多様に出土しているのが目につきます。従来、ともすればこのことを以て「近畿に各地の文化が流れ込んで来ていたこと」の証左と考え、「倭の中心地に流れ込む周辺諸国の文化」という図式で見ていたのですが、それは重大な錯誤と考えられます。
 すでに明らかなように「弥生時代」は「九州」に始まり、それから長い期間この地にだけ「弥生文化」が花開いていたと考えられています。そのことを示すようにこの地域では長い間「曽畑式土器」と呼ばれるこの地域特有の土器しか出土せず、他の地域の土器は全く見られなかったものです。
 そもそも「文化の移動・伝搬」というものが、文化の「中心地から周辺に向かって」流れるものであるのが原則であることを考えるとき、この土器の変遷は「九州筑紫平野」が、文化の中心であったことを示しているものであり、その逆ではないことを示すものと思われます。逆に、「近畿」でも「九州式土器」の出土があるのですから、少なからず「九州」の文化が「近畿」に及んでいたと言うことも想定できるものでしょう。
 このように「筑紫」を中心として非常に広い範囲に見られた「曽畑式土器」の勢力範囲は時代とともにだんだん狭まり、それとともに次第に「近畿」のタイプの土器の勢力範囲が広くなっていく事が見て取れます。そしてついに決して他の地域の土器が見られることのなかった「筑紫平野」内に「近畿式」の土器が見られるようになります。これについては従来ちょうど「卑弥呼」の時代のこととされていたものですが、そのような年代観を形成する元となった「土器編年」は、その後「年輪年代測定」と著しく齟齬することが指摘され、修正を余儀なくさせられています。
 新しい年代観では「弥生終末期」は「弥生後期」へと繰り上がることとなり、この「卑弥呼」の時代とされていたものも、繰り上がって「紀元〇年から後一〇〇年付近」のこととなるとされるようになりました。この時期は既に述べたように「巨大地震」とそれに伴う「巨大津波」という天変地異が特に近畿中心に襲ったものと見られ、「社会不安」から「兵乱」が起きたとみられます。つまり「卑弥呼」以前の「倭国乱」という一種内乱現象は「津波」と関係があるとみられ、「近畿勢力」の内部バランスが大きく崩れたことにより、一部勢力の軍事的行動が突出したという可能性が考えられます。(ただし兵乱と「高地性集落」の全てが直接結びつくわけではないことは既に述べました)
 「紀伊半島」においても「高地性集落」の形成と共に「河内」で主にみられていた銅鐸が紀伊半島にもみられるようになるという現象が起こっており、これは「津波」や「地震」の影響が相対的に少なかった地域の勢力による支配地域の拡大という事象につながったことを示すと思われます。同様の現象が「北部九州」に波及したものではなかったでしょうか。この結果「卑弥呼」の時代になると「初期九州王朝」の勢力範囲が相当に狭まり(それも「津波」の影響もあったと思われますが)、逆に「軍事的」に突出した「近畿」の勢力が次第に伸長し、主たる勢力範囲が「西側」へと拡大した結果「土地」を追われた人々がいわば「難民」となって最終的に「筑紫平野」にたどり着いたというような状況があったものと思われます。
 結果的に「初期九州王朝」の「聖地」とも言うべきところにも「近畿」の文化が流入し、それが受け入れられていく事となっていったものとみられます。またこのことは「初期九州王朝」の勢力の減少とその中心が「筑紫」から「他の地域」(肥後)へ移動したことを示すものとも言えます。
 「肥後」は「津波」の影響が極小ではなかったかと思われ、「高地性集落」の存在がほとんど確認できていません。この時点以降「倭」の中心は「肥後」へと移動したものと考えられ(それは考古学的な状況とも一致します)、一種の「遷都」が行われたとみられます。

 ところで、魏志倭人伝のなかに、「伊都国」には代々王がいるが皆女王国に「統属」している、という文章があります。「統属」とはただ単に従属している、というだけではなく「血筋」がつながっている場合をさす用語です。
 「邪馬壹国」がどこにあるかは諸説があっても「伊都国」については、福岡平野の一端、という点で異論がないようですが(それについては若干異論があるのは既に述べたとおりです)、女王国が「代々」「伊都国」と関係が深かったという文章は、その時代だけではなく「その前の時代」までにも「邪馬壹国」と「伊都国」の関係が深かったということを意味しているわけです。
 「伊都国」は『倭人伝』に「戸数」が「千余戸」とされ、さほど多くないながら「三等官制」になっているように書かれており、これは「世々王有り」という「倭」の内部情勢ならびに歴史過程と関係があると思われます。(「一大率」との関連も考えられるでしょう)
 この「世々」という表現は、「代々続いた」と言う意味ですから、これは他の「諸国」と違って「王」の「伝統」が古いと言う事を意味すると考えられ、それらの「王」が「皆」(つまり過去も)「邪馬壹国」と「統属」関係にある、と言う事を示すものです。
 「伊都国」についてはその一端が博多湾岸に面しているという可能性を指摘したわけですが、主要な部分については現在の「糸島半島」の付け根付近にあったという可能性もまた高いものと考えられ、この地に遺跡がある「三雲」「平原」などは「伊都国」の代々の「王墓」ではないかと考えられ、「三雲」遺跡などからは「璧」(ただしガラス製)が出ていますが、「玉」や「璧」は「王権」のシンボルであり、また「祭祀」に使用される「聖器」とも言えるものであったわけですから、そのようなものが出る、と言う事の中に「世々王有り」という中身が示されているといえるでしょう。
 しかし、先に述べた土器の出土状況などは、この時代になってようやく「近畿」と「九州」の間にある種の関係が成立したかのごとくに思われる事を示しているわけです。つまり、「近畿式」の土器の影響を受けたと推測される土器がこの時代になって始めて「筑紫平野(北部九州)」に出現するようになるわけですから、「近畿」の政治勢力はやっとこの時点で「筑紫平野」の政治勢力と接触(平和的、非平和的を問わず)したかのように考えられ、「世々」女王国に「統属」していたという「筑紫平野」の権力者と「邪馬壹国」の関係とは矛盾していると思われることとなります。
 このことは「近畿」に「邪馬壹国」の存在を仮定することが困難であることを示しています。
 「後漢」の「光武帝」が「倭王」に与えたという「漢委奴国王」の印 が「筑紫」の「志賀島」から出てきた事も、同様の意味で「近畿」の政治勢力と「筑紫平野」の政治勢力との関係に疎遠なものを感じさせるものです。

 また、「伊都国」に派遣、常駐していると書かれている「一大率」については以下のように書かれています。 

「自女王國以北特置一大率檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國」 

 この文章中には「女王国より以北」という文言があり、それは「伊都国」が「首都」に近接した「北方」に位置する国であり、そこに「一大率」が防衛拠点を構えていたわけですが、それは主として海から侵入してくる外敵に対応していたものであり、「倭」内部の「諸国」はこれを恐れていたとされているところから見てかなり強力な軍事力を有していたことが推定できるでしょう。
 またこの「検察」という用語からは「犯罪捜査」など現在の警察や検察的な職掌も持ち合わせていたことが推測され、その意味でも諸国からは恐れられていたことが窺えます。それは『倭人伝』の中で「訴訟や犯罪が少ない」(「不盜竊、少諍訟。」)と書かれていることにもつながるでしょう。
 当時は「兵警(兵刑)一致」という体制であったと思われ、軍事がすなわち警察をも兼ねていたものです。強力な軍事力はすなわち強力な警察力の存在となるわけであり、そうであれば「綱紀」は粛正されることとなって犯罪の発生率の低下につながることは容易に想像できます。
 また「諸國畏憚之」という書き方からは「一大率」の「軍事」的活動の実績もまたそう思わせる根拠になっているものと考えられ、「倭国乱」の際に鎮圧に威力を振るった実績などをさすものと考えられます。
 またそれはこの「一大率」が周辺国と比べて非常に強力な戦闘能力があったことを示しており、その主戦武器として「鉄器」が多く使用されていたことを示唆するものでもあります。このことは「鉄」という先進的な金属が「倭」中央(というより「一大率」)により独占されていたことを示すものであり、圧倒的な「武器」の性能の差により諸国を武力で威圧あるいは制圧していたものと考えられます。
 この「一大率」は「常治伊都國」とあるように「伊都国」に常駐していたようであり、また「伊都国中」においては「刺史」のようであったとされますから、「伊都国」の実質的な統治権は「伊都国王」にはなかったことが窺えます。『倭人伝』の中では「世々王あり」とされるのはこの「伊都国」だけのようですから、そのこととそこに「一大率」率いる強力な軍隊が存在していることには深い関係があると考えるべきでしょう。
 それは逆にいうとそれ以前には「伊都国」の権力がかなり強かった時代があり、その「伊都国王」の権威を低下させる「事件」があり、その結果「実質的統治権」を譲り渡すようなこととなったという経緯が推定できます。そのように「伊都国」が他の国に先んじて強い王権を確立できたわけですが、それは地理的条件がよかったことが大きな意味を持っているでしょう。
 「伊都国」は「海」に面しており、強力な水軍が利用できたと思われますが、既に考察したように「唐津湾」だけではなく「博多湾」に面していた地域にまで勢力があったものと推定され、このことは海外からの先進文化を受け入れる地理的好条件があったことを示すと同時に、外部から侵入を企てる勢力に対して強力な防衛施設をもって対抗することができたという点も重要な意味を持っていたでしょう。そのような「伊都国」の持っていた特質や利点はその後「実質的統治者」となった「一大率」に引き継がれることとなったものと思われます。しかし最も重要なことは「伊都国」が「海人」の国であり、彼らが最初にこの地に「領域」を確保したのが「伊都国」という場所であり、この周辺の水域(海域)に対する統制力を持っていたことではないでしょうか。
 彼らは「陸上」と言うより「海岸」にその拠点を持っていたものであり、その意味で「奴国」「邪馬壹国」とはその権力の性質が異なっていたと考えられます。彼らのうちさらに奥域に移動したグループが後の「邪馬壹国」につながるものであり、このことが『倭人伝』に「統属」していると表現される所以であろうと思われます。

 ところで、すでにみたように「後漢」に「生口」を献上した「倭国王」(『後漢書』ではこう表現されている)「帥升」は「奴国王」であったと思われますが、彼以降「邪馬壹国」に権力が継承あるいは委譲される事案が発生したものではないかと考えられ、「倭」に闘争が発生したのは「邪馬壹国」に強い権力が発生した時点以降であったと思われることとなるでしょう。つまり「倭国乱」の主役は「邪馬壹国」ではなかったかと考えられる訳です。 
 「卑弥呼」が王になる経過を推測すると、最初にこの「伊都国」の権威が絶対であった時期があったものと思われます。その時期は「大地震」と「大津波」以前であり、紀元前であったと思われます。しかし、「史上かつてない」天変地異が日本列島を襲ったものであり、それに対応して「伊都国」の勢力が弱体化した時点で「倭」の代表権力の座が入れ替わったものと推量します。
 その後「奴国」が列島の支配者となったと思われますが、「帥升」以降「指導力」のある人間が「奴国」からいなくなると、「奴国」の元での「国郡県制」は破綻し(カリスマがいなくなると中央集権は破綻しやすい)、各国の王が「倭王」を自称して相争う状況となってしまったのではないでしょうか。特に「邪馬壹国」が重要な役割を果たした可能性が強いでしょう。「邪馬壹国」が「奴国」に反旗を翻せば、「倭」の各国は大混乱となるでしょうし、そして、そのとおりの事が起きたのではないかと推量されます。その結果「奴国」はその実質的統治権を失い、また「邪馬壹国」から派遣された「一大率」が「伊都国」を直轄することで「旧権力」の抑制が実現したものと思われます。つまり「伊都国王」という存在が重要であるがためにそのお目付役という意味もあって「一大率」が「刺史」の如くに「伊都国」の政治を取り仕切ると云うこととなり、「伊都国王」の実権はほぼ無視ないしは剥奪されていったものと思われるわけです。そのようなことが起きた最大の理由は、既に「軍事力」としては「陸上」勢力の重要性が大きく増していたという現実があったものと思われ、そのことから「水軍」主体であったと思われる「伊都国」の軍事的優位は大きく減少するに至ったと言うことが推察されます。そしてその後も「伊都国」は(「危険な存在」という意味においても)、その権威をある程度保ち続けていたものと思われます。
 既に述べたように「伊都国」は「中国」と「漢代」以前から関係を独自に結んでいた可能性が強く、国内諸国に対する「権威」も相当高かったものと思われ、それを盾に王権を維持していたと思われますが、日本列島を襲った大地震と大津波によって国内に不安が大きく広がった時点以降(「伊都国」自身も被害が少なからずあったものではないでしょうか)、新興の「奴国」などが勢力を増し、「後漢」の光武帝から「奴国」の王が「倭奴国王」の印綬を拝するに及んで「伊都国」の権威は大きく低下し、諸国の一つとなったのではないでしょうか。つまりこの時点以降「倭」の代表権力の座は「奴国」にあったと見られるわけです。
 それ以降「帥升」が「奴国王」として「倭」を統一したものと思われますが、彼はその統治範囲の中に「漢」を真似た「国郡県制」を指向しようとしたものと思われます。しかし、それが未完成のまま彼は亡くなったものであり、その後「邪馬壹国」を代表とする勢力が反旗を翻し、「内乱」が発生することとなったものでしょう。(もちろんその「背景」として「疫病」の発生があったと思われるわけです)
 そしてこの混乱状態を収拾するために各国の指導者(「王」)が協議して、「奴国王」の最高権力の座を否定すると共に、「伊都国王」についてもその復活を抑止し、「邪馬壹国」を主体として各国が協力せざるを得ない状況を作り出すこととなった結果「鬼神祭祀」の「巫女」であった「卑弥呼」を「女王」として即位させたとみられるわけです。
 もちろんそれ以前の「王」もいずれも「祭祀」の主宰者という立場も兼ね備えていたものとは思われますが、「卑弥呼」はその「霊的能力」が他に比して格段に優れていたものと思われ、庶民の圧倒的な支持をそれ以前から得ていたものと思われます。
 当時発生していた「疫病」に対して有効な手立てを打てていなかった「倭王」に代わり安定した「統治」を広範囲に行うため「卑弥呼」の能力を利用しようということとなったものと思われ、彼女が「国家祭祀」の主宰者としての「王」という座に座ることとなったものと見られます。その意味で「卑弥呼」の「王」という地位はそれ以前の「王」とは少なからず「意味」が異なるものであったと思われるわけです。 

 

(この項の作成日 2011/08/18、最終更新 2015/06/12)

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